科学を専門にしているからこそ。

科学の研究者は、全ての物事を科学的に考えていると思っている人がいるかもしれない。確かに、全ての物事、日常的な物事を科学的に考えている研究者は多いかもしれな。そしてそれは多くの場合正しいかもしれない。しかし人間が生きるにおいて、科学的な解釈一辺倒ではどうしても乗り越えられないこともある。例えば人間の心だとか、恋愛だとかだ。もちろん現在では、人間の心さえも科学的研究の対象になっている。それは非常に高度な科学であり、非常に面白く意義のあることである。僕が言いたいのは、そのような心の科学研究に対してではなく、日常の人付き合いだとか人生に関してである。

とは言え、もちろん宗教とかそのような事を言っているのではない。僕の中では宗教などは論外である。人の気持ち、心、そして交流、このようなことを全て科学的な判断で動いていれば、多くのものを失ってしまう。もちろん、判断に困ったときに、科学的決断をすることは重要である。しかし、恋愛に科学を持ち出すバカもたまにいる。そしてそういう人に限って、科学を全く理解していない場合が多い。科学を持ち出すべきでない意義を理解するためには、科学的本質を理解することが不可欠だと僕は思っている。

このようなことからも、専門の科学だけでなく、科学全体を見渡せる力を付けることが重要である。科学以外のことを理解するためには、科学を理解することが必要なのである。これは、ジェネラリストになるためには専門を極めることが必用であり、またスペシャリストの道を極めるためにはジェネラリスト的な深い教養が必用だということである。

人の心を深く理解するためには、科学と感性の両方を磨かなければならない。物事を全く違う二つの側面から見るのである。そうすれば、第三の面が見えてくる。そのように多角的に物事を深めていけば、科学の理解も心の理解もさらに深めることができる。人間には物理的には備わっていない第三の眼を、多角的思考によって身に付けることは、決して不可能な事ではない。

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