「お金は未来のビジョンのためにある。」本田圭佑氏の言葉。

雑誌「GOETHE」2019年8月号(幻冬舎)に書かれていたサッカー選手・本田圭佑氏の言葉である。

人はなぜお金を稼ごうとするのか?この答えはいろいろとあるだろう。普通に生活するのにもある程度のお金は必要だし、物欲があればそれを買うためにもお金が必要だ。人と交際するのにもお金は必要である。本田氏が冒頭の雑誌で述べているように、資本主義国家で生きているからには何かしようと思えばお金が必要になる。本田氏は本気で世界平和を成し遂げようと行動しているようだが、それを成し遂げるためには膨大な資金が必要だ。

そのような中で一番重要なお金の使い道は、未来のビジョンのための投資だ。しかしこの事の重要さに比して、これを最も重要視している人は多くはないように思える。世の中では、特に日本では、子供の頃から貯金することが重要だと刷り込まれている。だから大人になっても、老人になっても、いざと言う時のためにとことん貯金しようとする。もちろん、無駄遣いするよりかは貯金する方が少しは有意義であろう。しかしそもそもお金は何のためにあるか?と考えた時、お金は貯めるためにあるのではなく、使うためにあると言えるのではないだろうか?しかし貯蓄のスキルは高いかもしれないが、お金の使い方のスキルを考えた時、どう使って良いかわからない人が少なくないのではないだろうか?

特に未来のビジョンのための投資と考えた時、いったいどれだけの人がこれを実行できているだろうか?自己投資と言った場合、ただ単にやみくもにセミナー参加への投資や資格取得のための投資しか出来ないようであれば、それは半分は違うと僕は思う。もちろん、そのような投資でも理に適ったものもたくさんあるので否定はしない。問題はそこにビジョンがあるかどうかだ。ビジョンなき自己投資はほとんど意味を持たない。

僕が今現在、お金をとことん自己投資しているのは、ビジョンを実行し成し遂げるためである。高価な専門洋書なども爆買いである。なぜそこまでできるかと言うと、明確なビジョンが描けているからだ。今はそのビジョンの中身を一つずつ埋めて行くことが重要である。そしてさらにその先のビジョンを描いて行く。本代圭佑氏が言うように、お金は未来のビジョンのためにあるのである。しかしたまには無駄遣いするのも悪くないと思う。下手な自己投資や意味のない貯蓄をするくらいなら、気分発散のためにお金を使うのも悪くない。しかし「未来のビジョンのための投資」と言う軸はぶれてはならない。そこをしっかりと死守すれば、一時的には苦しくなっても、人生を通じて見た時に非常に意義のあるお金の使い方が出来るのではないだろうか?

本という武器。

人間が生きる上で、何らかの武器は必要だ。それは仕事で使う道具であるかもしれないし、日常生活を送る上で必要不可欠の道具かもしれない。僕にとっては本が生きる上で必要不可欠な武器だ。だから本にかけるお金は惜しまない。少しでも必要になると思う本は手が届く範囲に置くようにしている。そのような環境が人生を次のステージへと進むめるのに大きな力になると思っているからだ。

とは言え、単に読書をするだけの本はそんなに必要ではない。もちろん僕も読書はするが、読書は僕にとって日常からの逃げである。数学や物理が思うようにはかどらない時に、気分発散的に読書をする。だから調子が良い時は読書をしない。読書をするのは、何もしないよりは読書でもする方が良いだろうと思うからだ。もちろん読書も非常に面白い。最近だと中公新書やちくま新書を読むことが多い。中公新書やちくま新書には知的好奇心を刺激するような本が結構出されていて面白い。

その一方、哲学書を読むことはめっきり減った。それは最近、哲学書に幻滅しているからだ。特にドイツ哲学などの、いわゆる本格的学問としての哲学書に失望することが多い。彼らは一体何をしたいのか?どう考えても科学的でなく、自己満足しているだけに思えて仕方がない。もちろん哲学は非常に重要であり、大きな意味を持っている。しかし学問的哲学者の議論には、本来の「生きるための哲学」という観点が大きく欠落しているように思えてならない。

多くの本を読むのも良いが、まずは一冊バイブルとなるような本を手元に置くと良い。もちろん軽い本ではなく、自分が打ち込むべき分野の専門書が良いだろう。そしてそこからさらに必要となる本が出てくれば、そこに加えて行けばよい。そうして行けばいつの間にか数百冊とたまってしまうこともあるが、そこまで行く必要もないとは思う。まずは一冊噛み応えのある本を手元に置き、それを武器として人生を進めて行くのが良いだろう。

数学とは遊び、ただし道楽では決してない!

僕が大学院時代にお世話になった数学者(世界トップクラスの数学者である)が、「だからこの遊び(数学)はやめられない」と言っていた。数学は一つの学問ではあるが、どのような学問にもゲーム的要素はある。だから学問をゲーム感覚で遊ぶことは重要であり、そのような遊びの中から重要な結果が生まれるものである。ただ、遊びとは言っても、決して道楽ではない。時には苦しい時もあるし、精神的に追い詰めないと乗り越えられないことも多々ある。

ビジネスというものも、ゲーム的要素は大きくあるのではないかと思う。だからビジネスをある種のゲームと捉えることが出来る人は強いのではないだろうか?もちろんビジネスにはお金がかかっている訳だから、失敗すれば大きな損失を被ることになる。だから軽い気持ちでは出来ない。ビジネスが道楽とは違うと言われる所以はそのような事だからである。

数学やビジネスと言った遊びの魅力に惹き込まれれば、テレビゲームや趣味などの遊びなど取るに足らないものだと感じてしまうだろう。もちろんそのような遊びをするのもよいが、数学で遊んでいる方が圧倒的に楽しいしやりがいもある。そして数学の中の未開の知に足を踏み入れることは、スリリングでありエキサイティングである。そしてそこで開拓した数学が、100年後の世界を大きく変えることになるかもしれない。ただ3年後という訳には行かないので、そこが少し寂しい所である。

世の中には人生を懸けるべき遊びというものが存在する。そのような遊びに打ち込むことは、自分にあらゆる力と人間性をもたらしてくれる。遊んでばかりと言うとネガティブな意味で捉えられることが多いが、数学などの人生を懸けるべき遊びに打ち込んでいる人は、人間的にも圧倒的に面白い。そのような面白い人間になるべく、数学と言う遊びに没頭したいものである。

ユーモアは生き様で見せよ!

ユーモアはないよりある方が圧倒的に良い。どのようにユーモアを出すか?多くの人は色々と考えるところであろう。単純にギャグなどを言ってユーモアを出す人もいれば、あるいは服装でユーモア感を出そうとする人もいるかもしれない。もちろん、それはそれでいい。ユーモアを言える人は非常に素晴らしいと思う。

僕はユーモアをどのように出すか?と言った時、言葉や外見だけでなく生き様で表現すべきだと思っている。生き様とは、すなわち人間性である。どのようなリスクを取り、どのような事に挑戦しているか?そのような事は全てユーモアにつながると考えている。逆に、無難な生き方をしている人からは、ユーモアは感じられない。やはり傍から見ても面白い生き方をしていると感じられることが大事である。

ユーモアには軽快感が感じられる。すなわち重い生き方をしていればユーモアは感じられない。しかし、重厚に生きることが悪いわけではなくて、重厚感や悲壮感を周りに感じさせないことが大事なのである。苦しい時は本当に苦しい。時には周りに助けを求めざるを得ない時もあるであろう。そのような時は思い切って周りに助けを求めれば良いが、普段は苦しさなどどこ吹く風と軽快に生きて行きたいものである。

人間にとって中身と外見は両方とも大事である。中身が良ければ外見は関係ないと言う人も多いが、僕はそうは思わない。外見も自分という人間の一側面であるし、意外と内面は外見に表れてくる。外見だけで判断してはいけないが、外見で判断できることも少なくない。ユーモアにおいても、言葉や行動と言った外見的ユーモアと、生き様に見られる内面的ユーモアの両方を発揮できれば最強である。

では、どのような生き様がユーモアのある生き様と言えるのか?簡単に表現できることではないが、まずは自分が自分の生き様を面白いと感じることが大事である。そして挑戦に続く挑戦を繰り返すエキサイティングな生き方を続けていれば、結果的に極めてユーモアな生き様を見せることが出来るはずだと僕は考えている。

学問は自由だ!

これまで、そしてこれからも数学や物理の研究は続けるのだが、数学や物理の研究に取り組んでいて常に感じることは、数学や物理は自由だと言う事だ。突き詰めて行けば行くほど、それらの世界が自由であることを感じ取ることができる。自由であるからこそ面白くもあり、興味が広がるのである。

それに対して英語はどうだろうか?僕は中学生の時に学校で英語を習い始めてから、ずっと英語に対して苦手意識を持ち続けてきた。今でも英語は苦手だし、嫌いでもある。そして英語に対してずっと凝り固まったイメージを持ち続けてきた。英語はこうであるべきという一方的な考えがあり、決まったルールに従って、それから外れては絶対にいけないと考えていた。そのように考えてしまっては身動きが取れなくなる。そして英語を話すのが怖くなり、ますます英語が出来なくなる。そのような悪循環の中に僕はいた。

しかし、最近非常に分かりやすい英語の解説書(以前にブログでも紹介した)に出会い、英語に対するイメージが180度変わった。英語というものも非常に自由な学問だと気付いたのだ。しかしそのような事は少し考えれば当たり前の事である。日本語でも標準語以外の言葉はいくらでもあり。例え標準語を話すにしてもバリエーションは無数にある。そしてルールから多少外れても意味は十分通じる。日本語がそうなら、英語もそのはずである。イメージさえしっかりとつかめれば、意味は十分に通じるのである。

やはり、学問は自由であるべきである。こうでなければならないという凝り固まった考えでは学問は進まない。自由な逸脱が学問の深化をもたらすのである。そして理解すればするほど、どんどん自由になって来る。学問の一つの到達点は、自由を得ることである。もちろん英語などでは、実用性も非常に重要である。しかし学問的価値は自由性にある。数学が一番自由な学問であることは疑いないが、その他の学問においても非常に自由な世界が広がっている。最近の英語の勉強において遅まきながらそう気づくことが出来たのである。

科学技術の発展は、完全なる善なのか?

現代の人々は科学技術が右肩上がりで発展して行くことを当たり前に思い、それに伴って世の中が便利になって行くと信じている。もちろん、科学の発展によって飛躍的に便利になっているのは事実である。そして多くの人は、科学の発展を善だと思っている。しかしそのように善だと言い切ってよいものだろうか?さらに言えば、便利になることがそんなにも良い事だろうか?

科学技術の軍事技術への応用は、科学技術の負の側面だ。そのような事は誰でも分かるので、あえてここでは述べない。では、科学技術によって便利になることが一般的に思われているほど善なのかと言う事を問うてみたい。

例えば、自動車があることによって人々は楽に長距離を移動することが出来る。こらは非常に便利な事である。しかし、「便利」と言う事が必ずしも「善」だとは僕は思わない。さらに、役に立つことが大きな善であることは多いが、完全なる善だとは言い切れないと思っている。逆に、表面的には役には立たないと思われていることが、非常に意義のある事である事も存在する。そのような意義や善を判断するためには、本質を見抜く目が必要だ。それがないと、即物的に「役に立つ=意義がある」、「便利=善」と考えてしまう。しかし、何もそのような判断が間違っている訳ではない。問題はそのような判断過程において、思考のプロセスが入っていないことだ。だから「便利=善」とは判断できても、「役に立たないが意義がある」とは判断できなくなる。判断のレベルを上げるためには、即物的な判断ではなく、思考による判断が必要なのである。

便利な事、役に立つ事でも、深く考えると意義のない事もたくさんあることに気付く。しかし、科学技術は後には戻れない。それは核兵器が存在する世界から核兵器を消滅させることが出来ない現在の世界が証明している。もちろん未来はどうなるかわからない。人類の努力によって100年後の世界から核兵器が消滅している可能性もゼロではないと僕は考えている。しかし、それを実行することは極めて難しい作業である。現在の努力によって未来は変えられる。それは個人の人生においてもそうだし、世界平和においてもそうである。だからこそ、努力することはいつ何時も重要な意義を持つのである。今少し努力すれば未来は少し変わるであろうし、上手く行けば大きく変えられるかもしれない。

自由だとか、人権だとか。

現在、香港のデモが注目を浴びている。香港のデモは条例の制定に関するものだが、簡単に言うと、自由だとか人権に関するせめぎ合いだ。日本では近年、このようなデモは全くと言っていいほど見かけない。それはある意味、日本が平和であることを象徴していると言えるが、果たしてこのような平和に見える日本で自由や人権が守られているかと言うと疑問に感じることが多い。

日本と言う国は資本主義であり、自由主義の国である。そして多くの日本人は日本が自由な国だと信じている。もちろん、中国などに比べると自由な国である。しかしそのような自由度が年々落ち続けているように思えてならない。

自由度が落ち続けている理由はいくつか考えられる。その代表は、テロ対策を強化した結果だと言える。テロを防ぐためには規制を強化しなければならないこともあり、ある程度はやむを得ない所はある。しかし、深刻なのはもう一つの理由だ。それはITの飛躍的な発展である。ITが発達するにつれ監視が容易になり、それに乗じてあらゆる組織が自己を守るために監視を強化している。確かにスマホは非常に便利なツールである。しかしスマホを持つことによって、人々は常に行動を記録されることになる。しかし多くの人はそのような実感はない。この様な状況は、檻の中の自由だと言える。

現在の状況は非常に危うい基盤の下に自由が成り立っていると言える。しかし一歩踏み外せば、それは全てもろく崩れ落ちる事になるのではないか。そして科学技術の発展が逆行することは99%無いので、このような自由の崩壊を防ぐことは非常に難しい。しかし不可能ではないと僕は考えている。まず人々が、ネット社会では容易に監視が可能であることを認識することである。そして自由が失われつつあると感じた時には声を上げることが必要である。社会というものは、法一つで劇的に変えられる。もちろんそれが100%である訳ではないが、市民が選挙で投じる一票によって社会は大きく変わる。今月、参議院議員選挙が行われる。自分の意志を示し政治を動かすために、まずは一票を投じることが非常に重要である。

Macが良いか?Windowsが良いか?

これまでパソコンはWindowsを使ってきた。正確に言うと、パナソニックのレッツノートだ。これまで圧倒的に壊れにくいと言われているレッツノートにこだわって二台使い続けてきたが、バッテリーのリコールだとか色々と問題が表れて来て、次はアップルのMacにしようかと思い始めていた。そんな時、今日(昨日?)アップルのMacBook Airがマイナーチェンジして価格も下がったこともあって、俄然とMacに心が傾いてきた。

昔はMacとWindowsとのソフト互換性の問題などでWindowsを選ぶ人も多かったようだが、最近はWindowsにできる事はほとんどMacでもできる。なので、Macを選んでもほとんど支障はなさそうだ。MacでOfficeもできる。TeX(数学的文章を書くのに必要なソフト)もできる。心は決まった。次はMacにしよう!

二年ほど前からiPhoneを使い続けて、いつの間にかアップル党になってしまった。アップルはもちろん機能性も良いが、何と言ってもデザインが良い。そして忘れてはならないのが、セキュリティレベルが高い事だ。アップル党の人でもセキュリティにこだわっている人は多くはないかもしれないが、セキュリティは非常に重要である。セキュリティが担保されて初めて安心して使うことが出来る。普段は気にすることはないが、気にしないで良いと言うことはセキュリティが保たれている証拠である。

これまでWindowsを使い続けてWindowsには親しみはあるが、そろそろ決別の時かもしれない。これからのアップルライフ?は楽しいものになるのか?いや、そうなることを期待してアップルライフに突入しよう!

日本には日本の仕方がある。

戦後の日本は極めて平和だ。戦争には直接的には一度も関わっていないし、治安は他国に比べて極めて良いし、特に貧しいわけでもない。しかし、そのような事を完全に良い事だと考えて良いものだろうか?

戦争には直接的に関わっていないけど、世界では様々な戦争・紛争が起きている。もちろん、僕自身も戦争をしないのは良い事だとは思うが、それは言い方を変えると自分の手を汚さないと言う事も出来る。日本の平和を守るために、他国が様々な代理戦争を引き受けている。もちろん、代理戦争と言うとかなり大げさかもしれないが、世界の平和を守るために日本は一切手を汚さない。そしてそのような綺麗な手を誇っている。何度も言うが、戦争などしないに越したことはない。しかし日本が一切犠牲を出さない分、他国がその分の犠牲を引き受けているという側面はないだろうか?

しかし、そのような手を汚さない平和主義で行くなら、徹底的にその路線で行くのも意義があると僕は考えている。アメリカなどはイラク戦争やイスラム国との戦いに積極的にかかわろうとしてきた。そのような中、徹底的に平和主義を貫く日本には、平和主義であるからこその国際的信用も生まれている。日本は絶対に戦争を起こさない。だから戦争当事国からもそれなりの信用が生まれ、日本に対する役割が生まれる。なので、それはそれで日本の世界に対する一つの国際貢献だと思う。

現在、憲法第九条を始めとする憲法改正が議論されている。しかし僕は九条の改正には反対だ。なぜなら、天皇が日本国の象徴であるように、九条は日本の平和主義の象徴である。そのような象徴があるからこそ、世界からの信用を得ることが出来る。もちろん、出る時は出なければならない。そして紛争や国際問題に対しても、日本流のアプローチの仕方があるはずだ。しかし九条を改正してしまうと、それが根底から覆ってしまう。日本は九条を盾に、世界の問題に積極的にアプローチすべきである。

何事にも言えることだが、他人と同じように振る舞う必要はない。主義・主張をはっきりとさせ、自分なりのアプローチや態度を取るべきである。これまで日本が国際紛争に対する姿勢で批判を浴びてきたのは、自衛隊を派遣しなかったことではなく、自分の態度をはっきりと主張しなかったからである。特にお金だけ払って適当にごまかそうという姿勢は一番良くない。日本には日本のやり方がある。それをある程度愚直にやり通すことが重要なのである。

メディアの報道について考える事。

メディアは何をどう報道すべきか?これは問い詰めて考えると実に難しい問題であることが分かる。もちろん、何も考えなくても報道は出来る。しかし社会に利益があるように、かつ市民の役に立ち、市民が知りたいことを報道する。そして取り上げられる側も、見る側も、全てにおいて適切である事。このようにどうすべきかと考え出したらきりがない。そして簡単に分かるように、これらの事を全て満たすことは現実的に不可能である。誰かが利益を受ければ誰かが不利益を被る。そのような中、どこに妥協線を見出すか?これは考える人によっても、時代によっても、大きく変わるところだと思う。

しかし中には、見る側取り上げられる側双方に何のメリットもないくだらない記事も多く存在する。しかし実際は、そのようなくだらない記事を見て喜ぶ人が多くいるからそのようなくだらないメディアが存続できるのであるが、需要があるからと言ってそれが本当に必要かと言えばそう思えないこともたくさんある。そしてそのようなくだらないメディアは、世の中に低俗さと害しかもたらさない。

主要メディアにおいても、深く考えるべきことは沢山ある。例えば、事件事故が起きた時に被害者の実名をどう扱うか?事実をありのままに伝えるのならば実名を流すべきであろう。しかし被害者の実名を流すことによって、被害者が二次被害を受けるのではないか?あるいは尊厳を傷つけられるのではないか?そのようなことを考えると、実名を流すかどうかという一つの問題を取っても深く考えるべきことである。

特に最近危険だと思うのが、社会の風潮に安易に乗ることだ。変な言い方だが、報道にも流行がある。敏感に取り上げられる事から、重要なのに無視されがちな事。そのようにその時々に流行が目まぐるしく変わる。もちろん、そのような流行に乗ることは、市民の知りたいことに敏感に答えると言う事で一理あると思う。しかしそれとは別に、伝える意義が大きくあることは流行や風潮に関係なく大きく伝えなければならない。

メディアは何をどう伝えるべきか?これは伝える側だけでなく、受け取る我々も考えなければならない事である。そしてそのような事を考えるためには、伝える側、受け取る側双方に明確な知識を持つことが要求される。もちろん、そんな堅い事ばかり考えずに、娯楽的な報道もあってよい。将棋の藤井聡太七段の話題やメジャーリーグの大谷翔平選手の話題などは実に愉快なものである。もちろん、対戦相手にとっては残酷な物語であるが。そのような多様性をもたらすことも報道の重要な使命である。

受け取る側が「報道はどうあるべきか?」と本気で考えた時、報道自体も大きく変わるものだと僕は考えている。

物事を極めるとは?

数学において、ある定理に他の定理を継ぎだして新しい定理を導き出すことがよくある。それぞれの定理についてはよく分かっているんだけど、それらを組み合わせると想像もできないような定理が導き出されるのである。その定理の継ぎ目はある意味ブラックボックスだと言える。少なくとも初めはそう思えてしまう。しかしそのような定理を駆使するにつれて、そのブラックボックスにイメージを見出せるようになる。そしてそれが明確にイメージ出来るようになると、そこからさらに次の定理を導き出せることになる。数学においては、対象に自分なりのイメージを描くことが非常に重要である。

数式は単なる計算過程ではない。数式そのものが持つ役割や、ある種の構造があり、そこを理解しないと次へは進めない。僕は音楽の訓練はほとんどやったことがないので、音符がほとんど読めない。しかしピアニストなどの音楽家は音符の羅列を読み取り、そこからある種のイメージを形作っているのではと思っている。きっと僕らには理解できない世界が広がっているのだろう。数学においては、専門外の人が見ればそれは数式の羅列にしか見えないのかもしれない。しかし数学者は、その数式の羅列からある種の構造やイメージを読み取り、自分の世界を形作って行く。そのような数学の中に広がる世界は、しばしば現実世界よりも豊かな景色を見せてくれる。そのような世界を見た後では、目で見える世界が些細な事に思えてくる。

数学や音楽に限らず、一つの世界を極めた人にはその人にしか見えない世界が広がるのではと僕は思っている。その世界を極め、そのような世界を見た後では、世界観も大きく変わるだろうし、すなわち生き方も変わる。ある意味、そのような世界を捉える事は、物事を極める大きな理由となる。しかし簡単にはそのような世界を捉えられない。時間と労力が必要なのだ。もちろん、そこまで打ち込むためには、面白くないと出来ない。しかしただ楽しむだけでは一線を超えることはできない。そのラインを超えるためには生みの苦しみがある。そしてそのラインを超えた時、新たな世界が見えてくるのである。

「なぜ自分は生きるのか?そしていかにして生きるべきか?」そのような捉えどころのない問いに対しても、一つの事を極めた人は明確に答えることが出来るであろう。とは言え、そのような問いに対する答えは一つではない。だから一つ答えが出た後になっても、「いかにして生きるべきか?」という問いかけを続ける。そのような事を続け、問題を明確化して行く。僕らが生きる表面世界のさらに奥の世界が見えた時、人間は次のステージに進めるのだと僕は考えている。

自信に満ち溢れ、人生が最も充実している時。

今の僕である。少なくとも僕自身はこう感じている。しかし、現在は人生で3番目に苦しい時でもある、いろいろな面で非常に苦しい。しかし、今僕は自信に満ち溢れ、最も充実している。なぜまだ結果を出していないのにそのように感じられるのか?

理由は二つある。一つは明確なビジョンが描けているから。まだ結果は出していないけど、結果までの道のりが明確に見えている。何をすればどうなるか?それがはっきりと答えられるならば未来は明るいと思う。逆にどんなに豊かな生活を送っていても、「これからどう生き、今何をすべきか?」と言う事が認識できていないと、これからの人生に希望を持てない。しかし、そのようなビジョンを明確に描けていれば、例え現在が苦しい状況でも未来は明るい。もちろん、失敗すれば明日の命もあるかどうかもわからない。そのような綱渡り的状況ではあるが、今が面白くて仕方がない。では僕のビジョンとは何に関する事か?もちろん数理物理の研究に関する事である。

もう一つの理由は、心身の状態が極めて良いことである。人間にとって最も重要な事の一つは心身の健康だ。それは過去に調子を崩した経験から身に染みて感じる事である。しかし現時点だけで見れば、最高潮という訳ではない。しかし上り坂である。木原坂46はこれからどんどんと発展していくと感じている。同じ状態でも、下り坂ならばこれからに自信が持てない。そして僕と同じくらいの年齢の人なら、人生の絶頂を過ぎたという人も少なくないかもしれない。これまでの僕が幾分低調だったからか、これからは上がって行く気しかしない。自然、自信も満ち溢れ、人生も充実したものに感じる。

とは言え、初めに書いたように現時点はあらゆる意味で苦しい。しかしそれはあくまで現時点での話である。事を成し遂げるのが先か?精神が尽き果てるのが先か?今は自分という人間との勝負である。そして絶対忘れてはならないことは、挑戦し続ける事である。挑戦を止めた時、僕の人生は終わると思っている。僕の人生の原動力は挑戦心である。今日も、一年後も三十年後も、常に挑戦し続け、いつも今が一番充実して自信に満ち溢れているという状態でないといけないと強く思っている。そして常にそれを実行して行くはずだ!

お金というものは、信用の塊だから。セブンペイ問題について。

現在、セブンペイの不正利用が問題になっている。セブンペイ社長が基本的セキュリティシステムである2段階認証を認識していなかったことが話題になっているが、問題の根源は「利便性優先でセキュリティを重要視していなかったこと」であることは明らかだ。利便性を高めることは確かに大事だが、それはセキュリティが確保されているという前提があってのものだ。金融システムにおいて、セキュリティ無き利便性など存在しない。

セブンペイの会見でも、利便性を高めるためにセキュリティを後回しにしたと言っているが、そもそもその順序がおかしい。小学生でも分かる論理だ。すなわち、セブンペイ社長の思考は小学生レベル以下だと言える。もちろん、セブンペイはすぐに2段階認証を取り入れるなどの処置を行うだろう。しかしその背後にある希薄なセキュリティ意識がそのままでは、時間が経てばまた違う問題が噴出する可能性が高い。

そもそも、ITツールにはバグは付きものだ。バグが見つかりそれにパッチを貼って行く。そのような事は、マイクロソフトのウインドウズのような高度なセキュリティシステムを持つものでも日々行われている。もちろん、ウィンドウズとセブンペイでは、規模もレベルも全く違う。しかし、金融システムにおいては高高度のセキュリティシステムが求められる。セブンペイが信用を取り戻すには、これから迅速なアップデートによりパッチを貼り続け、高高度なセキュリティシステムを保っていくことでしか成しえない。

日本におけるコード決済の先駆けのうちの一つであるペイペイは、ソフトバンクとヤフーというITスペシャリスト的な企業が開発したものだ。それでも初めは不正利用が発生した。もちろんそれも、セキュリティコード入力システムの不備という初歩的なミスでお粗末であったと言えるが、後発のセブンペイが類似とも言える初歩的ミスを犯すことは問題が大きい。そしてITスキルと知識が全くない者が社長を務めるという初歩的人選ミスを犯すセブンペイにおいては、問題はより深刻だと言える。

本の相性。

本というものには、意外と相性がある。全く同じ分野の本でも、自分にすんなりと入る本となかなか受け入れられない本がある。もちろん、小説とかに関しては同じ内容の本は存在しないが、専門書に関しては、例えば同じ複素解析の本でも解析的な色が濃いものから幾何学的な側面を重視した本まで様々ある。そのような分野の本であれば、自分に合った本を手に取れば良い。

本に相性があると言う事は、同じテーマに対しても様々なアプローチがあると言う事だ。そのように、同じ対象物を様々な方向から眺めることが大事である。学問においても同じで、例えば整数論一つとっても代数的数論と解析数論がある。最近では数論幾何というものもある。同じものを二つの方向から見れば、三つ目が浮かび上がる。物事というものはしばしば玉虫色を呈する。すなわち、単一色だけにこだわるのではなく、玉虫色を制することが必要なのである。

最近様々な専門書を手にするが、相性の合わない本というものは時々ある。そのような時は、その本にこだわらず、同一テーマの違う本を手っ取り早く手にするのも手である。そしてその分かりやすい本で学んだ後にはじめの本を再び手にすると、意外とすんなりと入ってくるものである。

脳と体を鍛える。

昔、「脳を鍛える」(立花隆著)という本があった。読んだのはずいぶん昔(20年以上前)なので内容をはっきりと覚えていないが、科学や社会の事に言及した面白い本であったことを覚えている。立花隆氏と言えば、「田中角栄の金脈と人脈」と言う報告記事で当時の田中角栄首相を内閣退陣まで追い込んだ凄腕ジャーナリストだが、科学に関しても非専門家としてはかなり博識な人である。「脳を鍛える」では、当時まだ大学に入る前の僕にとってはかなり面白く知的刺激に溢れることが書かれていた。

立花隆氏は、スペシャリストかつジェネラリストという二つの側面を兼ね備えたオールマイティーな人間である。ジャーナリストという圧倒的な専門があるからこそ、そのような足場を基に広がる科学的記事にも圧倒的説得力を持つ。立花氏とは専門は逆だが、科学の専門家に対しても、科学のスペシャリストというだけではなく、ジャーナリスト的な側面を持つことは重要ではないかと強く思う。「政治や社会に対して鋭く切り込む」、そのような科学者がたくさん出て来るべきではないか?政治や社会に対しても、科学者という視点からでないと語れないことがまだまだたくさんあるように思えてならない。

そのように科学者が他分野に切り込むためには、脳だけではなく体も鍛えなければならない。それは何も筋トレをすべきだと言っているのではなく、人間としての基礎体力を高めなければならないと言う事である。もちろん、そのような基礎体力は、脳による知力と連動している。なので、脳と体は同時に鍛えなければならない。そしてそのように多方面に切り込むためにはストレス耐性も高めなければならない。なぜなら、様々な所に切り込む過程では、様々な事に遭遇し、様々なストレスを受けることは避けられないからだ。僕自身、ストレス耐性は強くなく、ちょっとしたことでストレスを受けることが多々ある、ストレス耐性を高める特効薬というものはないと思うが、意識の持ち方、日々の生き方次第で、ストレス耐性も少しぐらいは高めることが出来るのではないかと思う。

人間として、まずは専門を持つことが必要だ。ジェネラリストになるためには、まずはスペシャリストにならなければならない。僕はスペシャリストでないジェネラリストなんて存在しないと思っている。まずは自分の専門を持たない事には説得力がない。「スペシャリスト=脳」と「ジェネラリスト=体」の双方を鍛えるために、日々挑戦を続けながら人生を進めて行く。

既定路線か?想定外か?

社会というものは日々進化している。それは科学技術も同じで、日々新しい科学技術が開発され、世の中に広まっている。科学技術の発展というものは、基本的には既定路線上にある。例えば最近では、自動運転技術、折り畳みスマホなどがそうであろう。それらの技術は今はまだ完成していないが、数年後にはほぼ確実に実用化されていると予想されている。予想されていると言う事は、既定路線上にある技術だと言える。

しかし時には、科学技術というものは想定外的な飛躍を見せる。例えばスマホの先駆けであるiPhoneの誕生や、再生医療にもつながるiPS細胞の発見がそうであろう。iPhoneが発表された時、多くの人はそのようなデバイスが出るとは予想もしていなかった。そもそもその頃にはスマホという概念もなかった。さらにiPhoneが世の中に広まるかどうかも未知数だった。しかし現在は、Androidを含め、スマホは市民の生活に必須のアイテムとなっている。まさしくiPhoneは科学技術のブレークスルーとなったのである。iPS細胞に至っては、天地をひっくり返すくらいの常識破りである。発見された後になってみれば、iPS細胞は非常に単純な理論である。一言で言えば、皮膚の細胞(何の細胞でも良いが)に、山中ファクターと呼ばれる四つの遺伝子を挿入するだけである。しかしそのような事は誰も考えなかったし、誰も挑戦しようと思わなかった。そのような所にブレークスルーを作った山中伸弥教授の目の付け所は驚異的である。

世の中の99%、いや、99.999999%の人は、既定路線上を進もうとしている。しかし、数年に一人くらいだろうか、とんでもない常識破りを成し遂げる人が表れる。スティーブ・ジョブズや山中伸弥教授のように。もちろん、みんながジョブズや山中教授のようになれるわけではないと思う。なのでほぼすべての人は既定路線上で物事を考えようとする。そしてそれはほとんどの場合正しい選択である。しかし、そのような正しい選択さえも超える選択が存在するのである。そして社会の発展は、そのような想定外的な人間なしでは語れない。人数で言うと数人くらいであるかもしれないが、その数人が数十億人に匹敵するくらいの影響を社会に与えるのである。

先ほど述べたように、既定路線で考えることは正しい事だと思う。人生においても、既定路線を作った方がより正確に、さらに省エネルギーかつ低リスクで進めることが出来るであろう。それに対して、想定外な常識破りをするためには莫大なエネルギーもいるだろうし、何より高リスクである。しかし、ほんの一部の人(社会ではバカと呼ばれるかもしれない人)はそのような事に挑戦し、そしてその中のさらに一部の人が事を成すことが出来る。しかしバカとは言っても、そこまで徹底的にバカになり切れる人はほとんどいない。しかしバカに徹することが出来るからこそ、徹底的に挑戦に徹することが出来るのである。そのようなバカになり切って想定外を生み出すことは、非常にチャレンジングであるに違いない!

無駄を最大限に生かす。

社会全体が効率主義的になり、「効率的=正義」のような単純思想が蔓延しているように思えてならない。もちろん、効率を求める事にはメリットも大きい。そして全体を底上げするには、効率性を上げる事が一番効果的である。

しかし、個人の行動や人生、あるいは学問において、効率性だけを求めるのはどうかと強く思う。そして「無駄」というものも意外と無駄ではない。無駄を省くことは重要かもしれないが、「無駄を最大限に生かす」という発想は非常に重要である。無駄を生かして成しうることは、効率主義を追求してできる事とは全く質が違う。科学では、「失敗がきっかけで気付くことが出来た」という話をよく聞くが、これはまさしく無駄を生かすことの代表であろう。

物事において、無駄を許すような余裕を作ることは重要である。旅行においても、スケジュールをぎゅうぎゅうに詰め込んで各地を見て回っても、そこから得られるものは少ない。余裕を持って観光した方が様々なものを感じることが出来る。学問においても同じである。大局的に対象を俯瞰できる余裕を作らないと、新たな発想は浮かんでこない。学問は受験勉強ではないのである。受験勉強的な効率的スタンスで学問に取り組んでも、そこからは想定内の事しか出来上がらないだろう。

ただ無駄とは言っても、怠ける事とは全く違う。無駄や余裕を作ってクールダウンする時間が必要なのである。数学においても、計算に没頭していると、目の前の数式しか見えなくなることがある。そのような時に少し休み、全体を俯瞰する作業が必要なのである。

効率性によって成果を挙げようとするのは二流だと思う。一流は無駄や余裕をあえて作り、それによって限界を超えようとする人たちだと僕は思っている。

今、強くなる途中。

人間のピークは人それぞれ違うと思う。若い頃にピークを迎える人もいれば、晩年になってピークを迎える人もいるだろう。もしプロ野球選手なら若い頃にピークを迎える可能性が高いし、政治家なら歳を取ってピークを迎える人が多いと思う。この様にいつピークを迎えるかと言う事は、これからの人生が上り坂か?下り坂か?と言う事に大きく関わってくる事だと思う。

現時点での人生の高さが人によって違っても、上り坂にいる人ならこれからどんどん上がって行くだろうし、下り坂にいる人ならズルズルと下がって行くだろう。しかしこれから下がって行く人でも、今までにやるべきことで高いピークを残したのなら納得している人も多いと思う。しかし、僕が一番悪いと思うパターンは、「受験生時代の自分が一番の絶頂だった」という人だ。これは「受験が重要すぎる問題」にも通じるところがある。受験は所詮受験に過ぎず、あくまで一通過点でしかない。しかし日本では(あるいは他国でもある程度似通った事情はあると思うが)、この一通過点の結果で人間の全てを判断してしまう傾向にある。それは、「数字を見て、人間を見ていない」と言える。例えば学問におけるレベルに関しては、常に取り組んでいる人にとっては人生を通じてレベルが上がって行くだろうけど、「受験生時代が絶頂だった」という人は、受験以来レベルが下がっていると言う事になる。

確かに受験勉強というものは意義があると思う。しかしそれが全てではない。人間性や学問力というものは非常に多様なものである。学問力という事に限っても、受験勉強というものはその一部でしか過ぎない。むしろ、受験が終わってから大学などでどれだけ学問に打ち込むかと言う事の方が圧倒的に重要である。しかしこのような事が日本ではなかなか認識されていない。それならば、自分が結果を出して示すしかない。

学問力というものは、人間の強さの一部であるが、それは使いようによってはかなり大きな部分になる。数学においても、ただ単に釣銭を計算するだけのものだったら微々たる一部分にすぎないが、人生そのものに組み込めばかなり大きな部分になる。そしてそのような事は数学だけではない。全ての学問は、人生そのものに組み込んでこそ有機的な働きをするのである。そのようにして人間は強くなっていく。僕は今、強くなって行く途中である。すなわち今は人生の上り坂、しかも急な坂にいるところだと思っている。そして僕の人生のピークは過去ではなく、未来にある。いや、そうしなければならない。

変えるべき事と、変えてはならない事。

物事を進める時、何を変えるか?あるいは何を変えないか?という事が大きな問題になる。しかし多くの場合、決断者が変えるべきだと決断すれば全てを変える方向へと動き、変えてはならないと決断すれば全てを変えない方向へと動く。しかし一番重要な事は、変えるべき事と変えてはならないことを区別することだ。

実は「変えない」という決断も非常に勇気のいる決断だ。なぜなら多くの人は問題にぶつかった時、変えるという前提で物事を進めがちになるからだ。なのでなかなか「変えないべきだ」という決断が出来ない。もちろん、変えるべきであることも多々ある。そのような事に対してはどんどん変えていかなければならない。

伝統というものは、不変であることを前提にしている。なので、伝統を変えるという事は非常に勇気のいる事だ。もちろん、伝統というものはそう簡単に変えるべきではない。なので伝統に関して考える時は熟考しなければならない。しかし、伝統と言えども決して不変なものではない。伝統も時代によって常々軌道修正されている。そのような軌道修正は、意識的にされることもあるし無意識的にされることもある。

人生というものは、毎日軌道修正の繰り返しである。日常において目にしたことを基に軌道修正し、あるいは本を読んで仕入れた知識を基に軌道修正することもある。しかし軌道修正するくらいならあまり決断はいらないが、時には大きく変革しなければならない時もある。しかし変えてはならないことまで変革してはいけない。そのような判断力を身に付けるためには読書も役に立つこともあろうし、あるいは専門分野の専門的思考が威力を発揮することもある。しかし、ただ知識を仕入れるだけではダメだ。そこに思考という加工を加えないと知識は自分の手足とはならないのだ。

広く、深く!

知見を追究する時、広く浅くか、狭く深くの二極に大別されることが多い。しかし実際には狭く浅く、そして広く深くというものももちろんある。狭く浅くは論外だが、意外と広く深くという選択肢は見落とされがちだ。もちろん、広く深くを追究することは容易なことではない。しかし、広く深くを追究することは人生において最もエキサイティングなチャレンジだ。

もちろん、全ての事に対して深く追究する事は、人間の寿命が有限であることから不可能だ。しかし、専門の事においては徹底的に深く、そして一般的な事に対しては徹底的に広くという事は可能である。もちろん、専門は一つのことだけでなくてもよい。第二専門、第三専門があってもよい。第一専門が数学と物理なら、第二専門が哲学・思想、第三専門が歴史学・社会科学などとしてよい。そこで大事な事は、第一専門では誰にも負けないナンバーワンになることだ。第一専門で徹底的な深さを身に付けることが、あらゆることに対してのジェネラリスト、すなわち広さを身に付ける原動力になる。

「広く」と「深く」は決して相反することではないし、大谷翔平の二刀流のように両立しうることだ。しかしプロ野球の世界で二刀流に成功しているのが現時点では大谷翔平だけであるように、決して簡単ではない。しかしそれは出来ないことの理由にはならない。なので、広く深くを目指そうと思えば、それなりの覚悟と行動、そして努力が必要である。もしかしたらリスクも取らなければならないかもしれない。しかし、それに成功した時にはそれなりの対価が得られるはずだ。とは言え、対価を得ることが一番の目的ではなく、自分に対する人間としての挑戦が一番の目的である。

あらゆる分野で、スペシャリストかつジェネラリストであるような人間がボコボコと出て来るようなことがあれば理想だが、それには社会がもう少し寛容である必要がある。大谷翔平選手がいた日本ハム球団が二刀流に寛容であったように。日本においては厳しい状況ではあるが、広く深くという究極の挑戦に挑んでみよう!

大切な書物。

僕は人に比べてかなり多くの書物を持っている。絶版になっている専門書などはかなり高額になることも多く、そのような書物を全て売り払えば高級車が買えるのではないかと思う。しかし何があっても生きているうちは書物を売り払うことはないであろう。なぜなら、書物は僕の人生の生命線であり、それらの書物を売り払うことは命を売り払うのに等しいからだ。

なぜ書物がそんなに大切なのか?それは、数学や物理の研究をするのには専門書や論文が必須だし、生きる上では社会に関する様々な情報を仕入れることが必要だからである。そのような知識を仕入れるのに必要な書物は、ない金を払ってでも購入するが、必要のない本や雑誌は適当に立ち読みなどをして済ませる。

その人の本棚を見ればその人の人となりが分かると言うが、さらに言えば、本棚はその人の第二の脳だと言える。本棚に置かれた書物達は、その人の脳の中身をさらしているのである。そして例え自分の記憶の中に残っていなくても、手に届く位置にある本を手にとって知識を確認できれば、それはその人の保持している知識であると言える。

失われた30年と言われる不況につられて、現在も出版不況だと言われている。不況時代において何を節約するかと言った時に、まず節約するのがどうやら書籍購入代であるようだ。それに対して、スマホなどの通信費は年々増加している。情報化社会と言われる現代においては、そのような傾向は避けられないのかも知れない。しかし数千円の専門書一冊あれば、それだけで一年分の知識を補えると僕は思っている。もちろん、ちょっとした読み物であれば数時間で読み切れてしまうが、一年かけて一冊の専門書を読むことによって身に付けられる思考力は、百冊の読み物にも勝ると思っている。人生のバイブルに一冊の専門書を指定して過ごすのも悪くない人生だと僕は強く感じる。

どん底を忘れない。

短くない人生を生きていれば、山あり谷あり、様々な状況に出くわす。その中でも、谷にいる時の方が感受性が高まり、少しの事に対してもその大切さ、幸せを感じることが出来るような気がする。そしていつかは山にたどり着くこともあろうが、そのような時に谷、いや、底にいた時の苦しみを忘れずに、取り組むべきことに取り組めるありがたさを感じ、猛烈に突き進みたいものである。

谷と闇は違う。闇にいては先が全く見えないが、谷からは山の頂上が見えることがある。あるいは頂上が見えなくても中腹ぐらいは見えるかもしれない。そして運が良ければ頂上までのルートも見えるかもしれない。ルートとはすなわち展望である。ただ、ルートが見えていても、その道を登るための登山技術が必要だ。そしてそのようなスキルは、山が高くなればなるほど高度なものが求められる。そしてスキルを身に付けるためには努力しかない。

もし頂上が見えているのならば、日々コツコツと積み重ねるに当たってのモチベーションにもなる。そして時には、どん底の頃を思い出し、今取り組める状態である事が恵まれている事に気が付く。今は山の中腹かもしれない。しかし頂上が見えているのならばもう少し頑張ってみよう。頂上を見失わないように。頂上に行くまでは実感は湧かないが、もしかしたら今は頂上に非常に近いところまで来ているかもしれない。何とか今を切り抜けてみよう!

「知ること」ではなく、「創ること」。

現在は情報過多社会であると言われている。知りたいことがあればネット検索によって瞬時に表示することが出来る。そして社会においてはビッグデータというものが大きな価値を持ち、社会の行方まで決めてしまいそうな勢いである。では現代において情報の価値は上がったのか?それとも下がったのか?

もちろん、情報と言っても様々であるので、一括りで「情報の価値」と言ってもこれまた様々である。ただ一つ言えることは、ネット検索で瞬時に得られる情報などは何の価値もないと言う事だ。しかしそのような何の価値もない情報を価値のある情報に変えることも可能である。それは、得られた情報に思考という作業を加えて創造することである。従って「情報を知る」のではなく、「新たな情報を創る」のである。それが出来ると、ありふれた無価値な情報も、自分独自の価値ある情報へと変貌する。

得られる情報などは、国家機密とかでない限り誰でもそう変わりはない。ネット検索によって得られる情報は言うまでもないが、書籍に載っている情報も基本的には誰もが手に入れられる状態にある。なので得られる情報自体には何の価値もないことが分かる。ただ。書籍に書かれている情報を得るためには、ある程度の能動的なアクションが必要である。まずは書籍を手に入れて、そして「読む」というアクションを起こさなければならない。そういう意味では、ネット検索で得られる情報よりも書籍を読んで得られる情報の方が若干価値があると言えないこともない。しかしそれは、ネット検索によって得られる情報の価値が0.1くらいだとしたら、書籍を読んで得られる情報の価値は0.5というくらいのものである。しかしそこに「思考」という加工を加えると。その価値は100まで跳ね上がる。そのような事を繰り返し行っているのが、数学や物理学という学問だと言える。

「知ること」から「創ること」への脱皮は簡単な事ではないかもしれないが、小学校から大学まで繰り返されていることはこのような事であると思う。知ったかぶりには何の価値もない。しかし「創ったかぶり」(と言う言葉があるかどうかは知らないが)になることを目標にして生きるとこには大きな価値があると考えている。ビジネスも学問も創ったかぶり競争である。そしてそのような創ったかぶりな人間を、独創的人間と言うのである。

他人ではなく、まずは自分がどう納得するかだ!

社会の中で生きている限り、他人からの評価からは逃げられない。学校での評価、会社での評価、人間関係の中での評価など、他人からの評価はいたるところに存在する。なのでどうしても他人の眼というものは気になるものだ。もちろん僕だって気にはなる。しかし過度に他人の眼を気にすることは、自分の進むべき道を誤らせるのではないかと考えている。

他人からの評価と言う以前に、まずは自分自身によって評価をしなければならない。どんなことも、まずは自分が納得できなければそこから大きく進展させることは難しい。自分が納得して、初めて他人からの評価へと移れるのである。自分が納得するためには、まずは自分が納得できることに取り組まなければならない。しかしそのためには、自分で物事を判断し、評価できる眼を持たなければならない。しかしそのような眼、そのような判断力を身に付けるためには、自己思考力を持たなければならない。何事も、自分の頭で考えるという事が初めの一歩になる。

世間の評価とは、意外と偏見に満ちている。あるいは流行にとらわれていると言って良い。そしてもちろん、自分の判断というものも偏見にとらわれている。偏見というものは人間の存在するところならどこにも存在する。偏見をなくそうとはよく言うが、正しくは「偏見を克服する」と言った方が良いかもしれない。しかしそのような偏見に押しつぶされそうになることも多々ある。そのような時に力になるのが、自分自身による自分自身の評価だ。自分自身の評価が正しくされ、それに納得できていると、それが窮地を切り抜ける羅針盤となる。自分がどのような方向へ進めば良いのか?四方八方ある方向性の中のどちらに進めば良いかということは難しい判断であるが、自分自身の自己判断力によってある程度絞り込まれるはずだ。

他人からの評価と自分自身の評価というものは、社会を生きるに当たっての、そして自分の人生を進めるに当たっての両輪である。しかし世間の眼や流行ばかりに目を奪われていると、正しい自己判断が出来なくなる。そして自分が他人を正しく判断するためにも、まずは自分を正しく判断できる人間にならなければならない。そして自分自身で正しい判断を行い、自分自身が納得できると、後になってそうは後悔することはないはずだ。

マイナーリーガー。

マイナーリーガーという地位は非常に微妙だ。マイナーリーガーもプロ野球選手とは言われているが、その待遇はある意味素人より厳しい。あるマイナーリーガーは、「球場でプレーしている選手より、球場でポップコーンを売っているアルバイトの方が給料が良い」とも言っている。そして現実に示されている給料を見ると、全くその通りである。メジャーリーガーの平均年収は数億円とも言われているが、マイナーリーガーはバイト以下である。しかしこのことは、アメリカンドリームと言われるものが今でもアメリカに根強く存在する証だとも言える。

自分が取り組んでいる事においてプロになろうと思えば、どの業界でもマイナーリーグ的な所を通らなければならない。マイナーリーガーとは可能性の塊である。しかし、マイナーリーガーになろうと思えば、かなりの覚悟も必要である。実力云々と言う以前に、覚悟の問題で脱落する人がほとんどだ。なので、まず強い覚悟を持つという事が一つ目の大きな実力であると言える。バイト以下の状況に耐えられるか?そこがプロへの出発点である。

しかし日本はある意味かなり甘い。ほとんどの人が中間層にひしめき合っている。一昔前は「一億総中流社会」とも比喩されていたが、今では全てがその二割減であると言えるかもしれない。しかしその二割減のレベルにほとんどの人がひしめき合っている。そこから上はほとんどいないが、下はそこそこいる。そのような状況であると言えるのではないだろうか?しかし中流でもそこそこ食べて行ける。しかしプロを目指そうと思うと、マイナーリーガーを経なければならない。しかしマイナーリーガーになることはリスクが高すぎる。なので中流的ポジションを維持しようとする。

この様に自分で選んで、そしてリスクを避けて中流にいるにもかかわらず、上流への批判意識は強い。もちろん、上流の人たちが全て大きなリスクを取って来たかと言えばそうではないとは思うが、少なくともプロと言われる人はかなりリスクを取って来たはずだ。

僕は、まだ明確には先が見えていないマイナーリーガーから、メジャーのトップが見えてその足場にいるマイナーリーガーになることが出来た。あとは足場を一歩一歩構築して行き、枠組みを埋めて行くだけだ!

明日死ぬかもしれないから、今日やらなければ!

別に明日死ぬことはないとは思うけど、明日死ぬ確率は誰しもゼロではない。もちろん60年後まで生き延びているかもしれないが、確実に言えることは、人間の寿命は有限なので、誰しもいつかは死を迎えるという事だ。だからそれを前提に物事を進めなければならない。しかし成し遂げるべきことが、今日一日で出来る訳ではない。一日一日の積み重ねが成し遂げるべきことへの成果として表れる。だから「明日死ぬかもしれないから、今日積み重ねるべきことを積み重ねることが大事だ」と言えるのかもしれない。

しかし、一日一日物事を積み重ねるという事は、根気がなければできない。あるいは鈍感であることも必要かもしれない。僕はかなり鈍感なので、あまり気にせずに一日一日積み重ねることが出来ると思っている。鈍感力というのも意外と力になるものだ。

もちろん、一日一日積み重ねるためにはゴールが見えていないといけない。ゴールが見えていないと何をしてよいのかも判断できない。そしてゴールまでのビジョンを持つことも大切である。しかしゴールはそれを達成した時、スタートに変わる。そのようにゴールとスタートを繰り返すことが出来れば、物事はどんどん上手く回って行くものだと思う。

すべきことを毎日積み重ねるだけであるが、そのような繰り返しを実行できることが強さに結び付くのだと思う。毎日の繰り返しと言うと退屈に思えるかもしれないが、それが自分のすべきことだと認識していれば、それがやりがいにもなる。物事を成し遂げるためにはそのようなルーティンが大切である。「継続は力なり」という“継続”の必要性をどこまで認識し、どこまで実行できるか?そこに未来の自分がかかっている。

屁理屈でも、理屈が無いよりマシだ!

世の中では、物事を論理的に説明しようとすると、「それは屁理屈だ」と反論する人がいる。では、その様に反論する人がより道理的な事を言っているかと言えば、ほとんどの場合全く理に適ったことを言っていない。むしろ、理に適ったことを言えないので、「屁理屈だ」という言葉でそれまでの相手の論理を全否定しようとする。

しかし僕は、「屁理屈でも、理屈が無いよりマシだ」と思っている。なぜなら、屁理屈は理屈への出発点であり、理屈は論理の原点であるからである。理屈が言えない人は皆、論理を語ることが出来ない。

しかし人間社会においては、論理で語れないこともたくさんある。世の中や人間関係は論理ではない。しかしそのような論理でないところを理解するためにも、論理的思考力は必要である。論理的に物事を考えられない人は、論理で語れないことも理解できない。僕自身、普段は物事を論理的に考えることを出来るだけ避けている。そして論理で語れないことを大切にしている。しかしそう考えられるのも、自分に論理というバックグラウンドがあるからだと思っている。

論理的に考えられない人が論理でないことを語り出したら、全てが崩壊する。論理的であること、そして論理的でないことを全て成り立たせるためにも、論理的バックグラウンドは必要である。もし論理など必要ないと言うのなら、人間とその他の生物の違いもなくなってしまう。もしそうなら、人間はオオカミと同じ生活をしているはずだ。しかし現実には人間には独自の生活様式が存在する。その根源は、理性、知性というものを人間が保持している事にあり、理性や知性は論理、すなわち理屈なしには語れない。屁理屈に始まって、それを知性にまで高めることが出来れば、物事の捉え方が大きく変わるはずだ。

世の中が無難になりつつある。

「無難」と漢字で書けば、「難が無い」という意味で良い事のように聞こえるが、それ以上に「当たり障りのない」という意味を感じるのではないだろうか?近年ますます世の中は無難になりつつある。それは「難が無い」という意味でも、「当たり障りがない」という意味でも。

なぜ世の中はこんなに当たり障りのない世の中になってしまったのか?おそらく多くの人は当たり障りのない無難な世の中を望んでいるのだろう。しかしその一方、少なくない人たちが当たり障りのない世の中に息苦しさを感じているのだと思う。僕もそのうちの一人であるが、結局無難社会の原点を探って行くと、「失敗を許さない世の中」というものにたどり着くのだと思う。一つの失敗を過度に叩きつける。その結果、失敗しないようにと可もなく不可もなくという生き方を取るようになる。もちろん、そのような生き方の人に挑戦を取りに行くようなことを望むのには無理がある。そして世の中から挑戦者が消えて行く。果たしてそれでいいのだろうか?

実は多くの人が無難な生き方を出来るのも、一部の挑戦者が行動しているからだと言える。世の中を変えて行くのは間違いなく挑戦者である。しかし挑戦者がいなかったら現状維持が出来るかと言えば、それは大きく異なる。良く変えようという力を働かせていても負の力というものは非常に強く、後退して行くことになる。それはなぜかと説明するまでもなく、現実社会を見ていれば明白である。

現実が「総無難化社会」になりつつある現代において、やはり希望は一部に挑戦者が存在することだと思う。挑戦者がいればいる程、無難な社会が成り立つのである。しかし、社会の全てが無難になった時、社会は崩壊すると僕は思っている。皆が皆、挑戦者になれるわけではないと思うが、皆が安心して暮らせる社会になることを望むばかりである。

記録なんて、ちっぽけなもの。

大谷翔平選手を見ていてそう思う。大谷選手は、打者に専念すればホームラン王を取れる可能性を秘めているし、投手に専念すればサイヤング賞を取れる可能性を秘めている。野球評論家の中にも、打者に専念した方が良いとか投手に専念した方が良いとかいろいろと声が上がっている。もちろん、どちらかに専念すれば様々な記録を残すことが出来るだろう。しかし僕を含め、多くの人はそのような記録ではなく、二刀流という前人未到の挑戦を目撃したいのではないだろうか?

そのような事を考えると、打者としての記録や投手としての記録なんてちっぽけなものに思えてくる。大谷選手は、記録を作るのではなく、新しい記録部門を創出することこそふさわしいのではないだろうか?大谷選手の出現により、二刀流に関する新記録部門が出来ればそれほど面白い事はない。なぜなら、ホームラン王と言えども10年あれば10人出て来ることになる。最多勝投手だって同じである。しかし大谷選手が記録部門を作れば、それは大谷選手によって創られたと永遠に語り継がれることになる。

賞を取ることは非常に意義がある。しかし毎年与えられる賞なら10年で10人出て来る訳であって、新しい受賞者によって次々と上塗りされる訳である。もちろん、イチロー選手の最多安打記録のように、唯一の記録も存在する。そのような事を考えると、イチロー選手の成した仕事の大きさに改めて驚がくする。

イチロー選手がメジャーで次々と記録を打ち立てていた頃、少なくとも日本人でこれに匹敵する記録を残せる選手は出ないのではと誰もが思った。しかしイチロー選手が引退したと時を同じくして、大谷選手がそれに匹敵するような活躍をしようとしている。大谷選手は誰もが憧れるスターだ。しかし憧れることは簡単でも、それを目指すことは簡単にできない。さらにそれを成し遂げる事はほとんどの人は出来ない。しかし今日本に必要なのは、あらゆる分野で大谷級のホームランを飛ばす人材ではないだろうか?なぜか日本人は初めからそんなことは不可能だと決めつけてしまう。他人に対しても、自分に対しても。しかし、大谷級を目指す人が一人でも多く出て来るような土壌を作ることが必要である。そのような人の中から、一人か、あるいは二人か、大谷級のホームランを飛ばせる人が出て来るのではないだろうか。

「無思想」の怖さ。

思想を持つことに対して、どう思っているだろうか?思想は人々を自由にする可能性を秘めており、人間が自律的に活動するためには思想を持つことが不可欠だ。その一方、世界のある地域では過激思想派と言われる人たちが紛争やテロを起こしている。すなわちそれらのいわゆる過激思想と言われているものが、人々を不幸に陥れている。人によっては思想と言えば過激思想を連想する人もいるかもしれないが、僕に言わせれば、そのような過激思想は非常に陳腐なものであり、思想とは言えないものである。なので過激派を思想と結び付ける事には僕は大きく違和感を覚える。そもそも、過激思想をたどって行けば、それは一部の人の単なるエゴに過ぎないことが分かる。

では、無思想についてはどうであろうか?実は無思想というものは非常に大きな危険性を秘めている。その典型的な実例が第二次大戦中のナチスである。ナチスの幹部であり、数百万人のユダヤ人をアウシュビッツへと送り込んだアイヒマンは、その行為から考えるととてつもない極悪人に思える。しかし戦後、イスラエル当局が捕まえてみると、アイヒマンは極悪人という印象とは程遠い「無思想」な人間だったという。無思想であるが故に、事務的にユダヤ人を拘束し、機械的にユダヤ人を収容所へと送っていたという。すなわち、アイヒマンは何も考えない無思想な人間であったからこそ、あれほどまで残虐な行為を行えたのだろうと考えられている。

アイヒマンの実例から見えてくるものは、無思想、そして思考停止することの怖さである。ある意味、自分なりの思想を持つという事が人間らしさであると言える。無思想とは極論を言うと、非人間的人間であると言える。無思想は何も生み出さない。そしてそれは時にはナチスのような残虐な側面を見せる。しかし多くの人は、自分は特に思想は持っていないが、そんな残虐な事はしないと思っているだろう。では、自分は選挙の時にはしっかりと投票に行っているだろうか?思想とはそのような日常から生まれるものである。選挙で投票するとは、自分の意思表示であり、思想の表現である。その反面、選挙に対する無関心は無思想の表現だと言える。だからどの党のどの候補にでもいいから、自分でしっかりと思考して投票することが重要なのである。投票は国民に与えられた国政、地方政治に対する最大の思想表現なのである。そしてそのような「投票」という思想表現が政治を動かし、世の中を良い方向へと変えて行ける可能性を作るのである。

しかし現実を見ると、世の中には無思想な人があまりにも多い。さらに日本では、思想表現をする人を毛嫌いして排除しようという風潮さえある。しかし本当に危険なのは、思想を表現することではなく、むしろ無思想な方なのである。例え日常の小さなことに対してでもいいから、自分でしっかりと思考して自己表現することが非常に重要なのである。

僕の強み、僕の面白さ。

頂点を極める人の多くは、途中で何らかの挫折があるにしても、全体的に見れば調子良く進んでいる人ではないだろうか?テレビなどで成功者を特集した番組を見ると、大概途中で大きな挫折をしたというのがお決まりのパターンだ。しかし僕から見れば、「そんなのは挫折でも何でもなく、一つの失敗に過ぎないのでは」と思うことがよくある。もちろん、成功者がこれまで全て上手く行ってここまで来たと言ったら話にならない。なので「挫折したけど、それを乗り越えてきた」と言いたいのだろう。しかしそこそこの失敗(挫折)などは誰でもある。なのでわざわざ「挫折を乗り越えてここまで来た」という話を作ることもないのではないかと思う。

僕自身、これまでどうだったか?一言で言うと、致命的な出来事はあった。ただし結果論から言うと、致命“的”であって、致命傷ではなかった。なぜなら、僕は今生きている訳だし、現在人生の中で最も意欲的な時期を送っているからだ。そしてこれが僕という人間の最も面白い所であり、強みでもあると思う。なぜなら、致命的な状態になり、どん底の状態を経験しながらも、今世界の頂点を本気で目指している。学問の世界で頂点を目指すとはあまり使われない言葉であるが、そのようなレベルの結果を出すべく進んでおり、勝算もある。

学問の世界で、ここまで致命的な状況に陥り、そこから這い上がった人はいないのではないかと思う。予定調和という言葉からは程遠い道のりである。最も打ち込むべき時期である大学・大学院時代に打ち込める状態ではなかった。しかし今はほぼ万全の状態だ。だから今はとことん攻めている。しかしそれでもまだ僕は満足していない。もっと調子を上げないといけないと思っている。そして今の自分ならそれが出来ると思っている。

このような道のりを歩み、研究に突き進んでいる研究者は他にいないのではと思う。そしてこれまでの道のりもあり、ポジション的には非常に苦しい位置にいる。色々な面で今は非常に苦しい。しかし今、非常にエキサイティングな人生を満喫している。苦しさと刺激的楽しさは両立するのである。とは言え、このような人生は命がけでもある。何も比喩で言っているのではなく、本当に命を懸けている。しかしだからこそ、ここまで攻めた人生を送れるのだと思う。

今、一つ目の結果に手が届くところに来ていると実感している。もちろん、もしそこに届かなければ文字通り命取りである。そして僕は貪欲なので、一つ目の結果を出せれば、そこからさらに前に進む用意がある。とにかく今は非常にエキサイティングなのである。いつか安定することはあるのだろうか?と思うが、安定など来ないことを願う。いつまでも人生を攻め続けて行きたいと思っている。