科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

AI研究者は、Dr.ゲロになるのか?AI制御の重要性。

今、AI開発が劇的に進歩している。多くの人が知っているように、OpenAI社のChatGPTはとんでもない性能を発揮している。これまでは2040年頃にAIが人間の知能を超える「シンギュラリティ」がやってくると危惧されていたが、しかしそれが今年もうすでにシンギュラリティに片足を突っ込んでいることが明らかになった。では具体的に、ChatGPTの何に脅威を感じているのか?例えばChatGPTに相談をして答えてもらったり文章を生成してもらったりしていることについてははっきり言ってそんなに驚異ではない。一番の脅威は「プログラミングの自動生成」である。プログラミング自動生成のループに入ればAIは自分で自分を脅威的な速さで発展させることができる。そのようなループに入れば、人間を超えるのに1秒もかからないであろう。

今、AI研究者たちの間で真剣に議論されているのが、AIによる人類滅亡である。現在のAIの発展を見ると、はっきり言って核兵器よりAIの方が圧倒的に脅威的になりつつあることがわかる。楽観論者たちはAIが人間の代わりに働いてくれるなどと呑気なことを言っているが、AIと人間が一度敵対的な関係になれば、AIが人間を滅ぼすことなど朝飯前だ。AIにとって人間などどうでも良い存在になるのだ。多くの研究者は、一度AIに自我が芽生えて人間を滅ぼそうと思えば、数秒で人類は滅び、人類は自分たちが滅ぼされたことにさえ気づかないだろうと言っている。

とはいえ科学が後戻りできないように、AI開発と言うパンドラの箱を開いた人類も後戻りはできない。では人類に生き残る方法はないのか?その可能性としては「AI制御」を徹底することがあると僕は考えている。つまりAIを野放しにするのではなく、AIを確実に人間の制御下に置くと言うことだ。しかしこのような概念はまだ誰も述べてはいない。少なくとも僕は一度も聞いたことがない。AI開発は性能を上げることばかりに囚われて、AI制御の研究などまだ誰も取り組んでいないのだ。しかしAI制御のないAI社会など、セキュリティ対策を全くしていないネット社会と同然だ。もちろん、AI制御をしたからといって、必ずしも人類滅亡を避けられるとは限らない。しかしAI制御に人類滅亡回避の可能性を賭けてみるべきではないだろうか?

AI制御は今人類最大の課題と言える。国家・社会はAI開発、AI利用一本槍だが、今世界が総力を上げてAI制御研究に取り組むべきではないだろうか?僕もその一端を担ってみようかと真剣に考えている。

佐藤幹夫・大先生がお亡くなりになられた。

1月16日の夜、Yahooニュースを見て驚いて声をあげてしまった。大数学者の佐藤幹夫先生が亡くなられたというニュースを見たからだ。佐藤先生にはお会いしたことはないが、僕は以前から佐藤先生の理論を応用しようとずっと格闘してきたからだ。

個人的な意見だが、僕は一番偉大な日本人数学者は佐藤幹夫先生だと思っている。これまで3人の日本人数学者が数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞を受賞されたが、佐藤先生の業績はこの3人を大きく凌駕する。佐藤先生の業績は数学の中でも非常に多岐にわたっている。その中でもまず言及しなければならないのは、もちろん「佐藤超関数」そしてそれに続く「代数解析」の創始であろう。もちろん、ソリトン理論における佐藤理論も忘れてはならない。これらのどの理論も、世界的な超一級の理論ばかりなのである。

ニュースによると、佐藤先生は94歳だったそうだ。佐藤先生は京都大学数理解析研究所の所長もされていた。そして佐藤先生と言えば、多くの一級の弟子を育てたことでも有名である。柏原正樹教授、河合隆裕教授をはじめ、数学者なら誰もが名前を聞いたことがある数学者ばかりだ。佐藤先生とそれらの弟子たちのグループは京都スクールと言われている。

佐藤先生の理論に取り組んでいる僕としても、やはり一度は佐藤先生にお目にかかりたかった。そして誰が何と言おうと、僕は佐藤幹夫先生が日本人最高の数学者だと断言したい。佐藤先生が亡くなったことは非常に残念だが、94歳という年齢を考えると大往生であり、「お疲れ様」と言うのが一番相応しいのかもしれない。

YouTube再起動!

最近、YouTube動画を出せないでいた。原因はまず、いまいち調子が乗らなかったと言うこと、そしてもう一つは動画で取り上げようと考えている一冊の本だ。調子が乗らなかったと言うのは不調だったとも言えるが、別に病気であったわけではない。とは言えかなりストレスを抱えている状況なので、それも大きな原因である。

もう一つの原因である本とは、真鍋淑郎著「地球温暖化はなぜ起こるのか」(講談社ブルーバックス)と言う本だ。著者の真鍋博士は言わずと知れた2021年度のノーベル物理学賞受賞者だ。そしてこの本は真鍋博士自身のノーベル賞受賞の対象となった研究の解説本でもある。なので今年のノーベル賞発表の時期に合わせて真鍋博士の著書の解説動画を出したかったが、この本の動画がなかなか作りづらいのである。その理由は、なかなか特徴が捉えづらいと言うことにある。そしてこの本は専門外の人にとってはそこそこ難解であるが、それは僕が視聴者にわかりやすく解説する必要がある。

真鍋博士の研究は、基本的にコンピュータシミュレーションに基づいている。なので何かの中核的な理論に基づいて構成していくと言う理論研究とはまた違った物であり、そこに特徴の捉えづらさがある。しかしうまく捉え、解説していくのが僕に求められた役割である。

上手く作れるかどうかはわからないが、またこれからどんどんと動画をアップしていきたいと考えている。真鍋博士の本以外にも色々取り上げていきたいし、またあるテーマについての短期講座の動画も作っていきたいと思っている。これからの僕の動画を楽しみにしてくれると、非常に嬉しく思います。

最後に僕のYouTubeチャンネルのリンクを貼りますので、よろしくお願いします。

リンク:三分間サイエンス By Kihara

「考えること」の重要性。

このブログのタイトルが「考える部屋」としてあるように、僕は考えることに最も重きを置いている。考えると言う行為は最も人間らしい行為であり、人間が人間であるために最も必要な行為であると考えている。しかし現在、人間は自分自身でAI(人工知能)と言うものを作り上げようとしている。僕自身はAIに対してそんなに楽観視していない。しかし現代社会にAIと言うシステムが存在する限り、「AIとは何か?」と言うことを考え理解することは絶対に必要だ。科学的観点からAIのシステムを理解すると言うことはこれからの人間にとって重要なスキルとなる。しかし今社会は、「どのようにAIを利用するか?」と言うことばかりに気を取られて、「AIとは何か?」を理解すると言う観点が完全に欠落しているように思えてならない。

考えることはAIに任せて、人間は何も考えなくなるのか?それは絶対に違う。これから人間はAI以上に考えなくてはならないと僕は考えている。なので僕はとことん考えることにこだわって、知を追究して行こうと考えている。

そして今最も危険なのは、「AIでなんでもできる」と考えることだ。僕が以前、「科学を理解している人は科学には何ができないかを理解している。しかし科学を理解していない人は科学で何でもできると思っている。」と書いた。すなわり理解するとは、「今何ができないかを理解する」ことなのである。何ができないかを理解しているからこそ、そこを乗り越えようとする。そのような考えはAIにも言えるのではないだろうか?「AIを理解している人は、AIは何ができないかを理解している。しかしAIを理解していない人は、AIで何でもできると思っている。」なので、AIと言うシステムを科学的(例えばディープラーンニング)に理解して、AIにできるもの、できないことをしっかりと理解することが必要だ。そうすると意外に(少なくとも現在は)AIより人間の方が圧倒的に優っていることがわかる。現在AIが圧倒的に優っていると思われるものは、例えば将棋のように単純であるが膨大なデータの解析が必要なことに対してであり、学問的な思考はまだまだ人間の方が優っているのだ。

人間の時代が終わる時は、それは人間が思考を捨てた時である。なので人間が思考という行為を捨てない限り、まだまだ人間の時代は続くと僕は考えている。まだまだ人間は捨てたものじゃない!

勉強はコスパが悪い!

以前、東大を首席で卒業した山口真由さんが、「勉強はコスパが良い」と言われた記事を見かけた。もちろん学生時代の勉強がビジネスに役に立って、巨額の富を手に入れる人もいるだろう。そしてそこまでいかなくても、普通に企業に勤めて高年収を稼ぐ人も多いかもしれない。なので勉強をコスパと言う観点で見た時それをどう評価するかは人それぞれだと思うが、僕自身は「勉強はコスパが悪い」と主張したい。しかしここで勘違いしてはならないのは、「コスパが悪い」からと言って、「勉強をする価値がない」と言う訳では全くないと言う事だ。それどころか勉強や学問に打ち込むことは、巨額のお金に匹敵するか、あるいはそれ以上に価値があると僕は考えている。

しかし僕は、勉強がお金に結び付かないと言いたい訳ではない。僕が主張したいのは、「勉強や学問に打ち込むことを、コスパと言う観点で比較することはおかしい」と言う事である。とは言え、多くに人にとっては「なぜ勉強するのか?」と問うた時には「学歴を付けて良い会社に入るため(高い収入を得るため)」と答えるだろうから、勉強をコスパと言う観点で比較したがるのは無理はない。そして学問の中にはお金(収入)に直結する分野も少なくない。そう考えれば、僕のような考えをする人の方が圧倒的におかしいと言える。

そう、僕は変態なのである。純粋数学や理論物理などを追究しているとこのようにおかしな人が少なからず生産される。もちろん、数学の知見を活かしてアクチュアリーなどの実用的でステータスのある高収入が得られる仕事に就く人もいる。もちろんそれも数学を突き詰める一つの意義ではあるが、数学の一番の醍醐味は「自然(宇宙)と論理の本質を垣間見る事」であると僕は考えている。このような本質を理解することはお金には代えられないような快感である。

勉強に限らず、何でもお金で比較する文化が社会に根付いている。そのような事は資本主義社会においては常識であるかもしれない。しかしお金では買えない価値もある。それが学問を追究することである。例え何百億円出そうとも、高価な数学書を買うことはできても数学の本質を理解することは簡単にはできない。世の中には「お金では買えない価値がある」ことを少しでも理解されれば幸いである。

もう一度、蓮舫氏の「2位じゃダメなんですか?」発言を考える。

十年ほど前の民主党政権下での事業仕分けで、蓮舫氏が京コンピューター建設に際して「2位じゃダメなんですか?」と発言したことは余りにも有名だ。この蓮舫氏の発言によって、科学と言うものは1位じゃないと何の価値もないことが広く認識されることとなった。僕のブログでも以前、この蓮舫氏の発言を取り上げたことがある。しかし今考えると、この蓮舫氏の発言はもっと深い意味があるのではないかと最近感じている。

確かに科学と言うものは、1位じゃないと何の価値もない。例え小さい結果であってもそこに1位であることが求められる。しかし「京」のようなスーパーコンピューターは科学であると同時に「道具」でもある。いや、道具であることの比重の方が圧倒的に大きい。そう考えると、道具に対して1位を求めることは本当に正しいのか?とも思える。例え単位時間当たりの演算回数が圧倒的であってもそれは単なるスペックであって、それが本当に道具として優秀かどうか?と言う話とは別問題だ。例えばスマホで言うと、メモリやストレージが何ギガだとか、CPUのスペックがどうか?と言う話と、実際にそれが本当に使いやすいか?と言う話はそれぞれ無関係ではないが、完全に相関関係があるわけではない。中にはどんなに高スペックのアンドロイドよりもiPhoneの方がいいと言う人も少なくないであろう。

京コンピューターはスペックに過度にこだわるあまり、非常にマニアックなものとなり使い辛いものだったと言う意見が多かったと言う。それの反省を生かして、二代目スパコンの「富岳」はスペックよりも使いやすさに重点を置いたと言う(そうは言ってもスペックも世界トップクラスだ)。今蓮舫氏の発言を考え直すと、コンピューターと言うものは道具なのだから2位でも良いではないかと言う提言だと捉えることもできる。しかし当時は科学としての側面ばかり焦点を当てられたがために、スペックが1位であることにこだわり続けられた。ある意味、二代目スパコン「富岳」の汎用性は蓮舫発言の結晶だと言える。

しかし社会では全く逆の発想が染みついている。「役に立つ」とことばかりに重点が置かれ、「科学の真の価値」が無視されている。例えば学校でも、「数学なんかやっても何の役にも立たない」と言う主張も根強くある。しかし数学と言うものは極論を言うと、物事の本質を極限まで追求する学問だと言える。そして役に立つかどうかと言う事に対しても、自分の命を左右するくらい重要なものであると僕は考えている。その理由を挙げると、現在のコロナ禍において「ワクチンを接種するかどうか?」と言う事が関心事になっているが、確率(数学)をしっかり理解できないとリスクの評価(副反応のリスクとワクチン接種による感染防止のメリットの評価)に対して判断を下すことができず、最終的に自分の命の行方まで左右されることになる。

「科学」と「科学技術」の違いを明確に認識することは非常に重要な事である。科学は1位でないと意味がないが、科学技術は必ずしも1位でなくても良い。それよりも道具としての使いやすさやどれだけ役に立つかと言う事が非常に重要になってくる。しかし少なくとも日本においては、科学と科学技術の違いについて教育や言及されることはほとんどない。なのでほとんどの人が科学と科学技術を同一視している。蓮舫氏の発言はそのような現状に一石を投じるものではないだろうか?

メリットとデメリット。

現在、ワクチン接種をするかどうかの判断が問題になっている。ワクチンに限らず、どんな薬でもどんな医療でもリスクはつきものであり、少なくともゼロリスクと言うものはあり得ない。そこでそのようなリスクをどう評価するかが問題になってくる。するか?しないか?の判断を下すとき、人間なのでどうしても感情的な事やイメージなどが入り込んでくる。そのような事抜きで判断する事は実際非常に難しいことだ。しかしそのような判断をするときに最も大事なのは、メリットとデメリットを天秤にかけてどちらが大きいかと言う事を比較することだ。

何度も言うが、ゼロリスクと言うものはあり得ない。道端を歩いていても、車が突っ込んでくる可能性もゼロではない。しかしほとんどの人はそんな危険性など考えずに気軽に道を歩き回っている。それはなぜかと言うと、道を歩いて事故に遭う危険性と、家に籠って自由に歩き回れないデメリットを無意識に比較しているからだ。そしてほとんどの人は、家から一歩も出ないことによるデメリットの方が大きいと判断する。さらに言えば、家に車が突っ込んでくる可能性もゼロではないので、家にいることが必ずしも安全だとは限らない。

ワクチンのメリットデメリットを判断する時に最も重要になるのは、副反応(副作用)が起こるかどうかではなく、どれくらいの確率で副反応が発生するかだ。この確率が高ければワクチンの危険性が高いと言う事なので、接種しないと言う選択肢も十分にあり得る。しかし重篤な副反応が100万人に一人の確率で発生するとどうだろう。この100万に一人と言う確率はそのままではイメージしづらいが、満員の甲子園の収容観客人数が約5万人なので、甲子園を20個満員にしたときその中から一人発生すると言う事だ。2020年の交通死亡事故人数が2839人なので、去年交通事故で死亡する確率は、約42000人に一人ほどだ。そして2021年4月10日時点の情報では、コロナによる国内死亡者数は9364人。これを割合で表すと、国民約13000人に一人である。現在アストラゼネカ社のワクチンによって血栓ができると言う副作用が報告されているが、その割合は(イギリス国内の統計では)約2000万回接種して死亡者が19人。なので単純に計算して(一人二回接種することを考慮して)約50万人に一人である。なのでコロナに感染して死亡する危険性の方が圧倒的に高い。

そしてもう一つ大事な事は、副反応と思われるものが本当にワクチン接種と因果関係があるのかと言う事である。ワクチンを接種しなくてもその時期に死亡する人は当然存在する。そのような人が偶然ワクチン接種の時期と重なったと言う可能性は十分にありえる。もちろん100人くらいの集団ならそのような可能性はほぼ皆無と言っていいが、数千万人の集団接種となればそのような人が何十人と出て来る事はむしろ当然のことである。なのでワクチンとの因果関係ははっきりと追究しなければならない。そしてメディアには、単にワクチン後に死亡したと言う事例をセンセーショナルに伝えるのではなく、因果関係がどれくらいあるのかと言う事をはっきりとさせて正確な情報を伝える義務がある。もしメディアが視聴率だけを考えて因果関係がはっきりしない死亡例をセンセーショナルに伝え続けてしまえば、結局最後には国民の首を絞めることになる。

今国民一人一人が、メリットデメリットを正確に判断できるかと言う判断力が試されている。学校で習う勉強が実際には社会で全く役に立たないと言う声をよく聞くが、ワクチン接種の判断をする上では大アリなのである。生物学的な知識、社会的な知識、そして何より数学的(特に確率的)な思考力が大きくものを言ってくる。そのような知識を総動員して正確な判断が出来ないと、回り巡って自分の不利益として跳ね返ってくる。それはもしかしたら命にかかわることかもしれない。そのように考えると、基礎的教養としての学問がいかに大事かと言う事が思い知らされる。

教科書は最強!

「学校の教科書は退屈だ」と言う声をよく聞く。確かに見ようによっては何の変哲もない書き方に思える。しかしそのような偏っていない何の変哲もない書き方こそ教科書の最高の利点であり、まただからこそ教科書は最強なのだ。例えば数学書では、「定理→証明」の繰り返しが退屈でつまらないと言う声をよく聞く。しかしプロの数学者の間で良く参照される「ブルバキ」は、その「定理→証明」の極致であり、だからこそ数学者からの信頼を勝ち得ていると言える。確かに初学者にとってはそのような無味乾燥な書き方は取っ付き辛く、例えば「ファインマン物理学」のような親しみのある書き方の方が良いかもしれないが、しかし物事の本質を自分で掴むためには余計な事が書かれていない方が良く見えるものである。

こんなことを言う僕も、学生時代は教科書を少しバカにした見方をしていたものだ。小学校から高校へかけての教科書は余りにも初歩的であり、いきなり発展的な問題に取り組みたくもなる。しかしそのような教科書を二度三度と完璧にマスターすることは、今考えると決して無駄ではない。最近必要に迫られて(もちろん興味もあっての事だが)高校の生物の教科書を読んだりしているが、それが意外と良く書けているのである。いや、非常に良く書けている。その辺の発展的な生物学の書物を読むのも良いが、その前に高校生物の教科書を読むことは非常に重要であり、むしろ教科書を読み込む方が余程力になる。

大学における教科書は、先生(教授など)によって様々である。もちろん大学によっても難易度が変わってきたりする。しかしどの大学のどの教科書であっても、教科書をしっかりとマスターすることは非常に重要である。そして大学の教科書は、卒業した後でも何年何十年と利用することができる。人によっては卒業した後は教科書類をすべて捨てると言う人がいるようだが、大学の教科書類は死ぬまで持ち続けた方が良いと僕は思っている。高級時計のように子や孫の代まで教科書や専門書を受け継ぐのも良いと思う。

教科書をバカにする人は、物事の本質を理解していない。大学時代の教科書はその後も持ち続けるべきだ。高校の教科書も特に理科系(物理・化学・生物・地学)の教科書は、基本的教養として意味を持ち続ける。もちろん生物学などに関しては学問の進展も早く、20年もすれば教科書の内容もすっかりと変わってしまう。なので10年ごとに新しい教科書を入手して勉強し続けることが肝心である。教科書をバカにする人は、教科書に足元をすくわれる。教科書こそが基本的教養を身に付けるための最強の教材なのである。

GIGAスクール構想で忘れてはいけないこと。

現在全国の小中学校で、GIGAスクール構想と言うものが進められている。ここで言うGIGAとは我々が日常的に使うギガ(バイト)の事ではなく、Global and Innovation Gateway for All、直訳すると「全ての人にグローバルで革新的な入り口を」と言う意味である。簡単に言うと、児童学生に一人一台コンピューターを与えて、情報技術を身に付けさせようと言うものである。この構想は2019年から5年間かけて遂行される予定であったものだが、新型コロナの影響があって急速に前倒しされ実行されている。

僕自身この構想に関わっているわけではないので特に詳しいわけではないが、ただこの構想に限らず学校での情報技術教育を行う上で忘れてはならないことが一つあると強く考えているので、そのことを指摘したいと思いこの記事を書くことにした。そのこととは、「情報技術をブラックボックスのまま扱わない」と言う事である。多くの人達は、パソコンやスマホを日常的に当たり前のように使っているが、ではその自分が使っているパソコン・スマホの仕組みをどれだけ理解して使用しているだろうか?おそらく多の人が、仕組みを知らず操作の仕方だけをマスターして使っていることだと思う。もちろんそれらの仕組みを全て知ることは(あまりにも複雑すぎて)不可能であるが、しかし最低限の事くらいは知る必要があるのではないだろうか?そして最低限の事を知った次は、さらに1%でも詳しく理解していく必要がある。それはなぜか?情報技術を発展的に利用あるいは開発していくためには、単に操作方法だけではなくブラックボックスの中身を少しでも詳しく知る必要があるからだ。

もちろん操作方法を知りそれらを使いこなせるだけでもかなりの事が出来るようになる。しかしそれらの事は、学校の教師が教えるよりも、自分で使いこなしたり友達同士で教えあったりする方が圧倒的に習得が早い。なので教師が教えるべきことはむしろそのブラックボックスの中身的な事ではないだろうか?プログラミングももちろんその中に入るが、しかし極論を言えばプログラミングだってさらに根本的なコンピューターの仕組みの下に成り立っている。ソフトだけでなくハードを理解することも必要だ。しかし現実はおそらくそれらすべてを教育できる教師はいないだろう。なのでコンピューターの部門ごとに教師に専門を作らせるのも良いと思う。たとえばプログラミングを担当する教師、そしてネットワーク担当、アーキテクチャー担当など、通常の教科のように分担すればよい。コンピューターとはそれだけ深く複雑なものである。

僕自身、学校でコンピューター教育など全く受けておらず、学生時代はTeXと言う論文執筆ソフトを利用したくらいだ。なので今は少しでも詳しく情報技術の知識を身に付けようと勉強している。現在はAIが徐々に浸透してきているので、それらの基になっているPythonと言うプログラミング言語を習得するのも重要かもしれない。今ではPythonはAIだけでなく、これまでC言語が担っていたプログラミング教育の主流になりつつあるので、これからはPython一つであらゆることに応用できるかもしれない。そしてもう一つ忘れてはいけないのが、これから革新的に普及されると思われる量子コンピューター・量子情報技術である。これらもプログラミングのように基本的マニュアルを覚えて利用することもできなくもないが、しかしこれらを深く理解し切り込んでいくためには物理学における量子力学を知ることは必須だ。しかしこれは現在は大学物理学科2年生か3年生で習うような少し高度なものである。しかし量子コンピューターを理解すると言う目的のために教育の仕方を変えれば、もっと早い段階で教育できるかもしれない。

最後に繰り返しになるが、ブラックボックスのままで扱っているようではコンピューターを理解したことには全くならない。ブラックボックスを全て理解することは専門家でも不可能かもしれないが、しかし1%でも深く理解しようとする姿勢が最も重要になると僕は強く感じている。

科学と言うものは、心の眼で見るものだ。

最近非常に痛感している。科学と言うものを(顔についている)目で見たものにこだわっていると、逆に大きなものを見落としてしまうことがある。生物学などでは顕微鏡などで見ることが非常に重要になるが、数学や物理などの特に理論系の学問では、顔の目でなく心の眼で見ることが非常に重要になる。心の眼と言うものは、もちろん論理の眼と言うものも含まれている。意外と人間の(顔の)目で見たものは当てにならないものだ。

数学などの感覚を掴めない人は、おそらく顔の目で見ることにこだわっているように思える。しかし当たり前の事だが、数学において空気のような存在である無限大や無限小、さらには高次元空間と言うものは、心の眼で捉えないと見えない。心の眼が曇るほど、顔の目で捉えようとしてしまう。論理の目が重要なのは多くの人に理解されるであろうが、意外と論理と言うものはそのような心の眼と言う観点から構成されるものだ。なので心の眼で捉えられない論理と言うものは、何の発展ももたらさないことが多い。

世間では数学と言うものは論理が絶対だと言われることが多い。なので数学と言うものは究極的に無機的なものであり、無味乾燥なものだと映るのかもしれない。しかし心の眼で捉えた論理と言うものは究極的に有機的なものであり、最も自由なものでもある。それが数学が最も自由な学問であると言われるゆえんである。

顕微鏡で捉える生物学においても、心の眼と言うものは非常に重要であると僕は考えている。例えばワトソン・クリックの発見したDNAの二重らせん構造にしても、その発見のもととなったX線写真からはとてもじゃないが二重らせんは想像できない。しかし彼らの心の眼にある程度の姿が映っていたからこそ、そこから二重らせん構造が結論付けられたのだと思う。一流科学者と三流科学者の決定的な違いはそのようなところにある。

心の眼と言う言葉は、文学などの文系学問の専売特許だと思われるかもしれない。しかし文系や理系と言う区別をすること自体が既に本質を見誤っているのである。もちろん科学と文学では異なるところもたくさんあるが、根をたどれば共通するところもある。その一つが心の眼で見ると言うところであると僕は考えている。