科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

文献の把握。

現在、取り組んでいるテーマに関しての文献を収集している。中には絶版になっている書物も多く、自然科学書専門古本書店に注文することも多い。先ほど、僕の研究において最も重要な書物を調べると、どうやら最近絶版になったようだが、ジュンク堂の在庫をネットで調べるとわずかに残っていたので、急きょ取り寄せの手続きをした。この書物は実は手元にあるのだが、かなり使い込んでボロボロになっており、さらに紛失すると大変な事になるので、予備として購入することにした。

学問をするにおいて、文献の把握は最も重要だ。実験系の科学だと言うまでもなく実験が最も重要だが、文献の把握はその次に重要だと言える。さらに理論系の学問においては言うまでもない。

論文や専門書を見る時、初めにリファレンス(引用文献や参考文献)をチェックすることが多い。リファレンスの一覧を見てその論文はどのような内容なのかをある程度把握できるし、リファレンスからリファレンスへとたどって行くこともよくある。特にその研究に関するオリジナルな文献に当たることは最も重要な作業である。

学問の研究をしていると、手元には膨大な文献が蓄積されていく。他の人が見たらどこに何の書物が置いているか全くわからないのではと思われるかもしれないが、研究者自身は数百冊ある専門書や論文などの文献の在り処は全て把握しており、瞬時に目当ての文献を手にすることが出来る。どの書物がどこに置いているかわからないというようでは全く話にならない。

研究者の中には書物をほとんど所有せずオリジナリティーの高い研究を行う人もいる。そのような人は相当独創的な人なのだろう。僕にはそのような真似は絶対にできないし、そのような研究者は非常に尊敬している。昔読んだ本に、大数学者である岩澤健吉博士に関する記事が載っていたが、その記事によると岩澤博士の本棚には数冊の書物しかなかったという。まさに驚異的である。

学問を研究するに当たって、研究スタイルは人それぞれだと思う。しかし岩澤博士のような驚異的な例外を除いては文献収集は必要不可欠な作業だ。目当ての文献を入手できるかどうかが結果に直結してくる。まさに「文献を制する者は、研究を制す」と言ってもいいだろう。文献を入手するための金銭と労力は絶対に惜しむべきではない。

自動車技術の飛躍から、近年の科学技術の発展に関して想う。

最近発売された、新型レクサスESのクラッシュテストの動画を観た。近年の自動車の安全対策には目を見張るものがある。レクサスESのクラッシュ動画には正面衝突、側面衝突など様々な事案が想定されているが、衝突部分は壊れても損壊部分がクッションとなり室内はほとんど無傷である。そのような安全設計になっていることは話には聞いていたが、その安全度は想像以上である。

近年の自動車に関するもう一つの大きな話題は自動運転であろう。テレビを観ていると、自動運転のレベル3において運転手がスマホを操作することも読書することも容認されるというニュースが流れていた。レベル3とはレベル0からレベル5まで6段階ある上から三つ目のレベルであり、2020年の実用化を目指しているという。ただレベル3では緊急時には運転手が運転を変われる状態である必要があり、したがって飲酒や睡眠はできない。

自動車の安全対策と自動運転は切っても切れない関係がある。現在の安全技術の最先端である衝突回避などはそのまま自動運転にも応用できるものであり、安全対策と自動運転は近年の自動車技術開発の両輪である。それに最近は電気自動車の開発が加わる。この三つの自動車技術は未来に向けた研究開発から実用化へと移ってきている。このような急速な自動車技術発展は僕を含む多くの人にとっては予測不可能であったことであり、自動車関係者にとってもここまで急速な発展はおそらく想像できなかったのではないだろうか。

この様な急速な発展を実現できたのは、AIなどのITの急速な発展に起因する。ITの急速な発展も多くの人にとっては予想が出来なかったことであり、それぞれの急速な発展が相乗効果で互いに発展し合うという様相だ。

20年くらい前までは未来の技術に対しての予想はある程度可能であり、大まかにはそのように発展してきたように思う。しかし近年のITの発展は未来を予想することを困難にしているように思う。それほどITの影響は絶大なものになってきている。その一方、IT以外の技術はそこまで急速には発展していないように思う。あるいは大きく発展している場合は何らかのITとの融合によって起きている。

IT以外では、近年は生命科学の発展が大きい。その代表例は、遺伝子編集を行うクリスパー・キャス9技術であろう。遺伝子編集も人類の歴史を変える驚がく的な技術である。近年はそのような華々しい技術分野に目が行きがちであるが、それらの基礎となっているのは数学や物理という歴史のある科学分野であり、そのような基礎分野の地道な発展も見逃してはならない。

新しい学問。

近年、プログラミング教育が徐々に盛んになり、小学校でもプログラミングが授業に取り入れられると聞いた。プログラミングはまだ教科とはなっていないようだが、17世紀にニュートンによって物理学が新しい学問として確立されたように、21世紀の今、プログラミングも一つの学問として成立するのではないかと感じている。

僕自身はそんなにたいしてプログラミングが出来るわけではないが、現代においてプログラミングを知らないと言うことは、日常生活で数学を使わないから数学は必要ないとか海外に行かないから英語が必要ないと言っているのと同じことではないかと感じている。

僕が大学院時代に所属していた学科は数学系の学科だったが、同期にプログラミングを研究していた友人がいた。その友人は国立情報学研究所でも講師をしていたようだが、大学院時代の僕はプログラミングの素養がほとんどなかったので、プログラミングに興味を持つことはなかった。しかし今考えると、そのようなプログラミングを専門としている友人が身近にいたことを活用できたのではないかと悔やんでいる。

プログラミングが一つの学問として成立するためにはこれからより洗練にかつ構築的に構成して行かなければならないとは思うが、プログラミングの学問としての成立前夜の今だからこそ、かなりチャレンジングなテーマが至る所に転がっているのではないかと強く感じている。

数学は文明の根幹か?道楽か?

数学に対する認識ほど、人によって大きく異なるものはない。数学の本質は科学の根幹であり、文明の根幹であるということだ。確かに最先端の数学がどのように社会の役に立っているかということは分かりにくい。しかし現代社会は応用科学抜きでは語ることはできず、応用科学は基礎科学抜きでは語れない。そしてそれらの基礎科学は数学抜きでは語れない。従って数学は現代文明の最も根幹に位置するところにあり、人間の文明レベルは基礎科学、そして数学に対する認識に由来するものであると言っても過言ではない。

しかしその一方、数学や基礎科学に対する研究を「道楽だ」と言い放つ人もそれなりにいる。日本においてそのような風潮が顕著に表れているのか?それとも世界的にそのような風潮なのか?どちらにしても日本においてそのような風潮があることは事実である。

日本におけるそのような風潮は、江戸時代にまでさかのぼることができる。江戸時代の日本の数学である和算は、世界的に見てもかなりレベルの高いものであった。しかし和算は世界の主流になることはなかった。その理由はいくつかある。一番大きな理由は、和算が個別の特殊性を帯び、体系的に構築されることがなかったということである。それに対してヨーロッパの数学は非常に体系的に構築され、高い継続性を帯びていた。和算の体系性のなさの多くは日本の和算家に責任があるのかもしれない。

しかし和算の継続性のなさにはもう一つの理由があると僕は考えている。それは日本市民が和算や数学に対して役に立つもの、あるいは意義のあるものだという認識に乏しく、大きく社会や産業界に広がっていかなかったからではないのかと考えている。もちろんそのような数学に対する認識は、ヨーロッパにおいても大きく言えることなのかもしれない。しかしそれが社会の中で体系的に共有されることはなかったのではないだろうか?そのような認識が日本の中で(あるいはヨーロッパでも?)数学に対して道楽という位置づけをするということに結び付いたのではないだろうか?

数学が文明の中でどのように共有されているかということを、明白に捉えることは非常に難しい。数学を専門に扱っている数学者でさえ、数学の文明の中での位置づけを明確に主張できる人は多くないのではないかと思う。しかし古くはギリシャ時代から、数学が文明の根幹を担っていたということは紛れもない事実である。数学に対する認識一つで文明のあり方が大きく変わってくるのではないだろうか?

世の中から科学に対する関心・感動がなくなってきている。

十年くらい前からだろうか。世の中から科学に対する関心・感動がなくなってきているように思える。なぜ十年前か?十年前というとちょうどスマホが世の中に出た頃だ。スマホに対する技術は凄い。そして現在もスマホに対する技術は年々向上している。しかしそのような新しい技術を凄いと感じたことはあるだろうか?ほとんどの人は「また新しい便利な機能が追加されたな」というくらいにしか思っていないと思う。

なぜ、世の中は科学に対する関心・感動を無くしたのか?それは現在の科学技術のほとんどがブラックボックス化されているからだ。技術の原理を知ろうにも、理解できるものではない。専門家でも畑が違えば理解することが困難だ。そういう意味で、スマホの科学に対する功罪は共に大きい。

一昔前までは、新しい技術が出れば「よくこんなものが出来たな」と感心したものだ。しかし現在は新しい技術が出来るのは当たり前となり、何の感動も覚えない。幼児でもスマホのスクリーンをタッチし、何の疑いも持たずにスクリーン上のキャラクターを操作している。

世の中の多くの人は、現在の科学技術の原理を微塵も知ろうとしない。スマホのように利用できて便利ならそれでいいのだ。科学の原理なんてどうだっていい。そう思っているのではないだろうか?

皮肉なことに、新しい技術が世の中に出る度に、世の中の人は科学技術に対して無関心になっていく。厳密に言うと二極化しているということだろうか?科学に大きく関心がある人、そして科学に全く関心のない人。この二極化は日を追うごとに顕著になってきている。

科学に無関心な人ほど、科学で何でもできると思っている。しかしそんなことは断じてないのだ。科学にできないことは山ほどある。科学を理解するとは、科学には何ができないかを理解することだ。コンピューターにできないことも山ほどある。まずは科学の限界と現在地を明確に理解し、ブラックボックスを覆う布を一枚でも多く剥いでいかなければならない。

根っこと先端の両方から攻めて行く。

学問というものは、基礎の積み重ねが大事である。従って学問の知恵というものは一朝一夕では築き上げることはできない。しかし、下からの積み重ねばかりではいつまで経っても最先端の現場にはたどり着けないこともある。そのような時はいきなり先端に飛び出るのも一つの手である。

とは言え、先端に出るためにはある程度の積み重ねが必要であることは言うまでもない。いきなり初心者がプロの中に入り込むことはできない。なので、先端に出るという手はセミプロ以上のレベルになって使える手であると言える。

以上は主に学問に対する話であるが、社会では初めて行うことにおいてもいきなり現場に飛び出ることが要求されることがある。また、「思ったら、考えたら、即実行」という精神が多くの場合大きな成功を生むことになる。そういう意味で、いきなり最前線に飛び出るということは非常に重要である。

学問の話に戻るが、近年のネットの発達によって、最前線の知識を得ることは容易になった。素人でも最新の論文を入手できる。数学や物理においては、最新の論文がarXivというサイトで全て公開されている。数学者や物理学者は論文雑誌に投稿する前にまずarXivにアップすることが通例になっている。時にはポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマンの論文のように、論文雑誌には投稿せずにarXivだけにアップするということもある。arXivは誰でも家庭のパソコンですぐに見れる。非常に便利な世の中である。

基本的文献で根っこから攻め、arXivで先端を攻める。数学や物理ではこのような攻略法が行われているが、このような双方からの攻めはあらゆる分野に適用できることだろう。

重要な古典的論文を読む。

研究者の多くは、最新の論文をチェックすることに労力をかけている。もちろん最先端の研究を推し進めるには、最先端の論文から新しい知識を得て、その先を築いていかなければならない。しかしそれは、枝葉の継ぎ足しであって、根幹となる部分の改革にはほとんどつながらないことが多い。

基礎を書き換えるためにはどうすればいいか?そのためには最新の論文ばかりに注目するのではなく、重要な古典的論文を読むことが必要になる。また、少し離れた分野の古典的論文を読むことも時には大きな力になる。最新の論文と重要な古典的論文をバランスよく修得することが必要だ。

僕は最近、重要な古典的論文を読むことを重視している。20世紀には様々な重要な論文が出されてきた。そのような革命的論文を一つ一つ習得していくのは非常に面白い。しかし忘れてはいけないのは、ただ習得するだけではなく次への研究へと生かさなければならない。

僕は最近、全く専門外の論文も読み始めた。例えば、山中伸弥教授のiPS細胞関連の論文などは非常に面白い。ただ専門外の論文には、わからない専門用語が多数出てきたり、その分野での英語の言い回しが分かり辛かったるする。しかしそのような困難も読み続けて行けばわかるようになるのだろう。専門外の人間が生物の実験をするなどということは全く持って無理だ。だからiPS細胞の論文を読むことは趣味の域を全く出ないのが悔しいが、その分数学や物理の専門の分野で力を発揮すればよい。

大型書店に行けば、日本語で書かれた専門書が多数置いてある。さらにAmazonを使えば、洋書も自由に手に入る。論文もネットで入手できるものが多い。そういう意味では、知識を修得するには非常に自由な時代になってきている。多くの知識を習得し、そこから自分の頭を使うことによって“知恵”へと昇華させることができれば、目的のものを構築して行く助けになるに違いない。

広中平祐の“電話帳”。

広中平祐とは、1970年にフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)を受賞した日本の大数学者だ。広中博士の専門は代数幾何学。その広中博士のフィールズ賞受賞対象となった論文は特異点解消の大論文と言われているが、あまりにも分厚いので通称“電話帳”と呼ばれている。

僕は最近、過去の重要論文を読むことも大事だと考えているので、広中博士の特異点解消の大論文も僕の専門外ではあるが一読してみようと思い、プリントアウトした。やはり電話帳と言われているだけあって、一つの論文としては異例の200ページ越えだ!広中博士の論文は専門家にとっても難解だと言われておりどこまで僕が読み切れるかわからないが、挑戦してみようと思う。ちょうど代数幾何をマスターしたいと思っていたところなので、広中博士の論文を理解することを目指すことはちょうど良い目標になる。しかし何年かかるだろうか・・・。

広中博士の論文は大部であり、非常に重要な論文であるが、論文の良し悪しは量で決まるわけではない。たった数行の論文でも重要な論文はある。例えば今僕の手元にある「ワード・高橋恒等式」が書かれたワード博士の論文は、たった半ページだ。しかし重要な論文であることには間違いない。近年は内容よりも書いた論文の本数で評価されるきらいがあるが、僕は重要な論文が一本ある方がはるかに価値があると思う。大数学者、岡潔は、生涯で数本しか論文を書かなかったと言われているが、岡に対する評価は絶大だ。

専門の論文を読むことは普通であるが、専門外の重要論文を読むことによって得られる知見を大切にすることも非常に重要である。そのような重要論文を手当たり次第に読むことができればよいが、僕の英語力のなさもあってなかなかそうもいかない。ましてやフランス語で書かれた論文となれば、もうお手上げ状態だ。(数学の昔の論文は、フランス語で書かれたものが多々ある。)しかし論文が論文を呼ぶように、着実に手を広げていければと思っている。

生命の誕生は偶然か?必然か?

宇宙のある領域に生命が誕生する確率は何%なのか?この問いは地球上に住んでいる人間には難問である。なぜなら、少なくとも地球上には生命が100%存在しており、さらに知的生命体(人間)さえも100%存在している現実を毎日見せられている我々は、どうしてもこの確率を高く見積もってしまう。逆に地球上に存在する生命の現実を知らされていなければ、生命の存在、さらには知的生命体がその領域に誕生する確率は確実に0%と断定するだろう。しかし地球上に生命体、そして人類が存在する事実から、0%とは断言できない。

もし地球と同じ環境の惑星が存在すれば、そこには生命が誕生するであろうか?この答えは三種類ある。一つは100%、二つ目は0%、三つ目はその中間。この答えを出すために実験を行うことは不可能なので、人それぞれ言いたい放題である。しかしこのことの考察は、生命誕生のメカニズムを探るサイエンスにおいて非常に重要な問題である。近年は実験室で原始生命体を作ることに成功したとかいう話も聞くが、実験室と自然環境では設定に大きな隔たりがあり、実験室の結果をそのまま地球型惑星に拡張することはできない。

宇宙のある領域に生命、さらには知的生命体が誕生するかという問いは、「猿はタイプライターでシェイクスピアを打つことができるか?」という問いに似ていると僕は感じる。もし時間が無限にあれば、猿はいつかはシェイクスピアを打つことはできるであろう。しかし時間や宇宙空間は有限である。従って猿はシェイクスピアを打てる確率は限りなく0%に近い。生命誕生の問題も、時間や宇宙空間が無限であれば無限に生命体が誕生する。しかし時間や宇宙空間は有限である。さらにはこの問題の設定に「宇宙の“ある領域”」という制限まで付け加えた。この制限を設定に付け加えた理由は、地球上の知的生命体である人間が地球外生命体と接することが可能であるケースを想定するためである。

とは言え、地球上に生命体が誕生したことは奇跡であることは間違いない。さらには知的生命体である人間が誕生したことは、さらにそれとは比べ物にならないくらいの奇跡である。しかし、現在の人間が進もうとしている道はおかしくなってきていると僕は非常に危惧している。明らかにここ数年で人間の進化のパラダイムは大きな変化を遂げている。この変化が正常進化か?それとも異常への始まりか?このような事を危惧するのは僕が旧人類であるからだろうか?100年後の未来を開拓していく新人類の正常進化に大いに期待している。

視点の遠近法。

物事を解決するためには二つの視点が大事だ。一つは視点を近づけて物事を拡大してみる方法。もう一つは視点を引いて物事の大局的構造を見渡す方法だ。

物事を解析する時に、多くの人は視点を近づけて見ようとしがちだ。もちろんその方法も非常に有効であり、物事を拡大することによって細部が明らかになり、より詳細な解析が可能になる。しかしそれと同時に視点を遠ざけて全体を見渡すことの重要性を忘れてはならない。

多くの数学分野では、専門をより細分化し詳細な計算を実行するということが行われている。もちろんそのことによって多くの未知の事柄が明らかになり、研究が進むことであろう。しかし新しい分野というのは多くの場合、大局的に物事を捉える事から生まれる。もちろん詳細な計算はどの数学分野でも必須だが、大局的に捉えることなしに重要な結果はなかなか生まれない。

物事を捉えるときは、多くの場合複数の視点を持つことが重要になる。複数の視点を持つことによって物事の本質が立体的に浮かび上がる。三つ、四つの視点を持てればそれに越したことはないが、まずは遠近二つの視点を持つことを心がけなければならない。

物事を解析する目的は、何も数値をはじき出すことではない。数値を出すということは手段であり、最終的な目的は物事の本質を捉える事である。そこを勘違いすると永久に最終的な答えを出すことはできない。