科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

無限大と無限小。

「100と1000とは何が違うか?」と問われれば、明らかに数の大きさ、すなわち量が違うと言うだろう。では「無限大と有限の数は何が違うか?」と言われれば、単に量が違うと言うだけでは済まされない。無限と有限では、量が違うという以前に、質が違うのだ。

数学が無限を扱いだしてから300年以上経つ。その起源は、ニュートンとライプニッツが独立に考案した微分法にまで遡る。ニュートンは物理学の問題を定式化するために微分法を考案し、ライプニッツは純数学的に微分法を考案した。今や無限を扱わない数学は数学とは言えないという状態である。昔ある数学者は、「数学とは無限を扱う学問である」と言ったという。確かに解析学は無限大・無限小を厳密に扱うことを基礎に置いているし、19世紀末にカントールによって考案された集合論は、無限を数えるということを目標に置いている。

ある意味、数学ができるかどうかは、無限を扱えるかどうかだと言える。有限的対象は無限的対象の中に含まれるが、では有限的対象が無限的対象の何%を占領しているかと言えば0%である。すなわち、有限の世界だけしか理解していなければ、それは全く理解していないと言うことなのである。

とは言え数学の中にも、有限にターゲットを絞った分野も数多く存在する。例えば代数学の有限群論や、あるいは幾何学で言えば3次元や4次元などにターゲットを絞った低次元幾何学がある。しかしそのような「有限」と表題を打った分野であっても、それらの分野の構築には無限を扱うテクニックなしでは全く進めることはできない。

無限の世界を知ることは、何も数学者だけに必要な事ではない。一般市民にとっても、無限の世界の一片を知ることはそれぞれの世界観に大きな広がりをもたらし、物事をより論理的に捉えることができるようになる。意外と無限は自分の身近にも存在するのである。例えば自動車メーターに表示される速度を理解するのにも、微分(すなわち無限小)を理解することなしには理解できない。人生を有限の中で終わらせるのか?それとも無限の世界に広げるのか?これは質的に大きな違いがある。そして無限を正確に理解するツールが数学と言うものなのである。

ノーベル化学賞・吉野彰博士は何を成し遂げたのか?

9日、ノーベル化学賞に旭化成名誉フェローの吉野彰博士が受賞されるという発表があった。日本人の受賞は喜ばしいことだが、吉野博士は何を成し遂げ受賞したのか?僕は専門外なので知らなかったが、吉野博士の論文一覧を調べ、その中に日本語で書かれた総合論文があったので、さっそくプリントアウトして目を通した。(「リチウムイオン二次電池の開発と最近の技術動向」日本化学会誌 (2000) No.8, 523-534 吉野彰, 大塚健司, 中島孝之, 小山章, 中條聡)

10ページほどの論文で、手っ取り早く調べるのにはちょうど良い。その論文によると、吉野博士たちは1980代から1990年代にかけて画期的なリチウムイオンバッテリーを開発したということである。では何が画期的であったのか?そこで良いバッテリーとしてのポイントが二つある。それは効率的であること、そして安定性(安全性)が高いこと。簡単に言えば、バッテリー開発とはこれらの追究である。そこで、これらを成し遂げるために、吉野博士たちは画期的な「負電極素材」を発見した。それが「負電極炭素素材」である。負電極を金属ではなく炭素素材を使ったことが画期的であったらしい。これによってブレークスルーを突き破った。

吉野博士らの負電極炭素素材の理論的基盤は、量子化学、特にフロンティア電子理論にあるらしい。フロンティア電子理論と言えば、日本人ならハッと気づくと思う。そう、日本人で初めてノーベル化学賞を受賞した福井謙一博士の理論である。ちなみに、2000年のノーベル化学賞受賞者の白川英樹博士の研究も関係しているらしい。

とは言え、吉野博士の研究の神髄は、理論ではなく実験にある。理論を言うのは易いが、それを実験で実現するのは難い。理論屋の僕にとって、吉野博士のノーベル賞受賞は少しだけ実験科学へ目を向けさせてくれた。今回、吉野博士の論文を読み、実験の見識と面白さを分けさせてくれることになった。

ノーベル賞を知ることは良い指針になる。

今年もノーベル賞の季節がやってきた。7日の生理学・医学賞では日本人の受賞はならなかったが、毎年どのような研究がノーベル賞に輝くのか、興味が注がれる。一般市民の興味としては、どうしても日本人が受賞するのかということばかりに注目が集まるが、「誰が?」と言うこと以上に、「何が?」と言うことに注目することが非常に重要だと思っている。

科学の分野は非常に広大なので、一般市民が科学の全貌を知ることは非常に難しいが(科学者だって全貌を知ることは難しい)、現在注目されている分野、そして重要な分野を知るのに、ノーベル賞の対象になった研究内容を知ることは非常に良い指針になる。ノーベル賞の受賞対象になった研究はどれも重要なものばかりだ。だからノーベル賞の受賞対象になった研究の概要を知れば、一応一つのポイントを押さえることになるだろう。毎年のノーベル賞の対象になった研究を知れば、その時の研究のトレンドを押さえることができるかもしれない。しかしノーベル賞の対象となるのは二昔くらい前の研究内容であることが多く、現在進行形の研究内容を知るにはどうしても無理がある。しかし二昔前の研究であっても、知らないより知る方がはるかにましだ。

2016年に生理学・医学賞を受賞した大隅良典博士の研究内容であるオートファジーという現象は当時僕は全く知らなかったが、最近生物学の教科書を読んでみるとオートファジーが基礎的現象として書かれている。大隅博士のノーベル賞受賞がなければ、そのような事も見逃していたかもしれない。

ノーベル賞受賞研究に対して「専門外だから」とか「自分には関係ない」とか言って興味を示さない人もいるかもしれない。しかし専門外だからこそ知る価値があるのである。専門の事なら、わざわざノーベル賞を待つまでもないわけであって、例えば僕ならば専門の物理学よりも、専門外の生理学・医学賞の方が興味を惹かれる。科学の事がよくわからないのならば、まずはノーベル賞の研究について調べてみて、そこから興味の範囲を広げていくのも非常に良いアプローチだと僕は考えている。

最近、あらゆる学問が面白い!

最近、あらゆる学問に対して面白いと感じている。以前はサイエンス、特に物理・数学に対してだけというところがあったが、今、あらゆる学問が面白く感じ、あらゆる学問に取り組み始めている。

なぜ、以前は他の学問に興味を持てなかったのか?その理由を考えると、一つ目は学問と言えば受験勉強を意味していたこと、もう一つは時期的なものであると僕は考えている。受験勉強というものは非常に小さいものである。そして表面的なものである。なので、なかなか面白さの核心に迫れない。そのような中、本当の面白さを伝えようとすると、自然、受験勉強の範囲を超えてしまう。しかし学校ではなかなか受験勉強を超えるようなことを教えようとしない。僕が大学受験生だったころ、自分が取り組んでいた数学や物理学は、高木貞治の解析概論であり、ファインマン物理学であった。しかし受験にこだわていると、なかなかそのレベルの事まで取り組もうとは思えない。このような事を解決するためには、学生と学校の教師の双方の意識を変えなければならない。

とは言え、大学に入れば自由に学問に取り組むことができる。しかし一般教養の授業の中には、どうしてもやりたくない授業も存在する。僕ならば第二外国語のフランス語の授業がそうだった。しかし今、あらゆる学問が面白く、フランス語にも興味を持っている。要はやりたくなった時にやればよいのである。学生時代にやりたくなければ無理してやる必要はない。しかし面白く感じた時には思いっきり取り組めばよい。それでいいのである。

科学(サイエンス)と言うものは、層構造をなしている。一番土台になるのは物理であって、その上に化学(バケガク)、生物学・地学と重なっている。なので、生物学に取り組むためにはその土台にある化学を理解しなければならない。もちろん、さらに基をたどれば化学は物理を土台にして成り立っている。今、専門の数理物理の研究の合間に、生物学の勉強に取り組んでいる。しかしその土台にある化学が完全に理解できていない。なので化学も真剣に取り組む必要がある。そのような事を考えると、学問というものは全て有機的に繋がっており、全ての学問に対して(強弱はあれ)取り組む必要があるのかもしれない。

学問に取り組むうえで大切なのは、受験勉強ではなく楽しさの本質に迫れるレベルまで取り組むこと、そして面白いと思ったときに思いっきり取り組むことである。学問とは本質的に楽しいものである。(そして時には苦しいものでもある。)そこに学問の本質が存在していると僕は思っている。

進化生物学者・木村資生博士に対して下した僕の評価。

最近、進化生物学者の木村資生博士(1924-1994)の書いた本に目を通した。科学書としてはかなり面白い本であった。その木村博士に対して僕は評価を下したい。進化生物学者としては一流であると感じたが、人間としては極度に視野の狭い人間である。人間としての評価は低いと下さなければならなかった。もちろん、僕は木村博士に対して評価を下せるような立場の人間であるわけではない。ましてや僕は生物学の専門家でも何でもない。それを承知の上で僕が下した評価である。

木村博士が人間としてどのように低レベルなのか?その理由を書き表したいと思う。生物学の知見を人間に適用するときには、特に慎重にならなければならない。そして一側面から見た判断ではなく、多面的に捉えなければならない。しかし木村博士は、人間を遺伝学的にしか捉えられていない。人間の未来に対して、非常に狭い視野からしか捉えられていないのである。そして慎重さが全くない。さらに批判の受けそうな意見は他の学者の受け売りであると責任を逃れている。

もちろん、進化遺伝学的な見地からの意見としては一理ある。しかし人間の将来を論じるにあたっては、遺伝学的な視点だけではすぐに限界に達してしまう。人間の未来を建設するとき、一番大事なのはいかに人間が人間らしくいられるかということである。もちろん、そのような事は科学の範疇からは外れるかもしれない。しかし科学者だからと言って、科学以外の事に対して無知であってはいけない。いや、科学者だからこそ、社会や哲学的な事にも思考を向けなければならない。そういう意味では、木村博士は科学理論を構築することには長けているかもしれないが、科学者としては失格だと言わざるを得ない。

人間社会の背景と言うものは、時代ごとに変わっていくものだ。そういう意味では木村博士の生きた時代の背景と言うものは今とは違うものであり、人間に対する考えというものも今と違うのは当然かもしれない。しかしその一方、時代が変わっても不変なものも存在する。そのような普遍的なものを理解することが、真理を探究する科学者にとって不可欠な要素でもある。そういう意味で、木村博士の議論は時代背景の違いを差し引いても容認できないものである。特にこれからの時代は、科学者は科学だけをやっていればそれで良いという時代ではない。倫理や哲学、そして人間の心など、あらゆるものに目を向け、思考と想いを巡らさなければならないと僕は強く感じている。

理論の力。

科学においても社会においても、理論なしで物事は語れない。もちろん、理論だけで語れないことも多いが、科学においては理論と実験は両輪であり、社会においても理論と実行は両輪である。

科学の研究を行いたいと思う時、どのような事を想像するだろうか?おそらく多くの人は、試験管をグルグル回しながら実験している姿を想像するのではないだろうか?そして実験などしようにも、施設も実験器具もないし、大金もないので、できないに決まっていると思い込んではいないだろうか?そこでだ。科学は実験だけで成り立っているのではない。実験結果から理論を構築し、そして理論を実験で確かめる。すなわち理論があるではないか!実験ができなければ理論を行えばよい。基本的に理論はお金がかからない。とは言え、もちろん専門書を購入したり、論文を入手するためのパソコンとプリンターがいる。専門書は一般書に比べてもかなり高額である。しかしその気になれば理論はいつでも研究ができる。だから科学研究をしたければ、理論をすればよい。

理論は一般の人が思うより威力がある。よく理論を「机上の空論」だと言う人がいるが、確かに現実社会における生活においてはそのような事も多いが、科学においては多くの場合、理論は実験よりも強力である。その最たる例がアインシュタインの相対性理論であろう。

また、数学を行うのもかなり良い。専門的数学分野を研究するためにはかなり高度な知識がいるが、しかし現代社会においては、その気になればそこまで到達できる道は開けている。あとはどこまで頭脳を使って考えるかである。なにより、数学はペンと紙だけで出来る。ペンと紙で宇宙を網羅することができるのである。

実験と観察の科学だと思われている生物学においても、理論は非常に重要だ。最近、進化学の本を読んでいるが、進化学というのは、自然淘汰に基づく数学(特に統計学と確率論)だと言って過言ではない。数学を駆使しないと進化さえも語れないのである。

理論は皆が思うよりも強力である。ならば理論をものにしない手はない。もし科学に対する興味と実行力があれば、今すぐペンと紙を用意して理論に取り組むのはどうであろうか?理論に魅了された一人として、理論の威力(と魔力?)を多くの人に感じ捉えてくれればと強く思う次第である。

物理学の形式主義。

近年、物理学は、ますます形式主義に傾いてきているように思える。このような形式主義を批判する人も多いが、その一方、形式主義は多くの恩恵をもたらしてくれる。では物理学の形式主義とはどういうことか?それは「数学的形式」だと言える。そもそも、物理学はその誕生時から数学と密接に結び付いている。ニュートンが力学を打ち立てた背景には、ニュートン自身による微分学の定式化がきっかけとなっている。物理学は数学的定式化を成功させて初めて成り立つのである。

物理学の中でも、数学に対する依存度は様々である。物性理論よりも素粒子論の方が圧倒的に数学的である。さらには、数理物理のような物理学の数学的定式化自体を目的にしたものもある。物理学から数学を遠ざけることはある意味退化だと言える。しかしそれが退化だとしても、それに意味を見出し生き残っていく可能性は大いにある。しかし物理学の進化は数学の発展を用いて初めて成し遂げられることが多い。

20世紀中ごろ、数学界では構造主義という考えが吹き荒れていた。フランスの数学者集団ブルバキが強く推し進めていた考えであるが、僕はこのような思想は今の物理でこそ威力を発揮するのではと考えている。今の数学や物理学におけるキーワードは「多様化」であると僕は感じている。なのでそれらの学問を一つの思想の下でまとめることは不可能である。しかし僕は、物理学の構造主義を大きく推し進めて行きたいと考えている。

現在、学問の多様化を推し進めるあまり、全ての分野において平等化が起きているように思える。しかし多くの理論の中には、重要なものもあればそうでもないものもある。これらを一律に並べることは避けるべきである。なぜなら、一律に並べる、すなわち重要度を判断しないということは、物事の本質を掴めていないということである。しかし、まだ開花していない取り組みを評価することは非常に重要である。しかし、現在の評価基準は全く逆転している。ビジネスでベンチャー企業を支援することが重要であるように、科学でも可能性のあるベンチャー研究を支援すべきである。山中伸弥教授のiPS細胞は、そのような大きな可能性のあるベンチャー研究を支援することにより花開いたのである。

現在、科学の世界は多様化しているが、構造主義的に推し進めることは最も大きな可能性を秘めているのではないかと僕は強く感じている。

科学技術から距離を置く。

「現代社会を支配するものは何か?」と問われれば、おそらく多くの人は「科学技術」と答えるだろう。その答えは間違っていない。しかし完全に正しいとは言えない。世の中には科学技術では解決できない問題は沢山あり、そのような事を理解するためにも科学技術至上主義にどっぷりと浸かることは避けなければならない。

そのためには、一つのことを理解しなければならない。それは「科学と科学技術は根本的に違うものである」ということである。しかし、このことをしっかりと理解している人は非常に少ない。ほとんどの人は「科学=科学技術」だと思い込んでいるのである。

そもそも、科学と科学技術は目的が違う。科学の目的は「真理への探究」であり、科学技術は「役に立つことを発明すること」である。それに加えるのなら、科学技術は「ビジネスの手段」だとも考えられるのではないだろうか。

iPS細胞の研究を例にとると、山中伸弥教授の第一発見、つまり「山中ファクターと言われる四つの遺伝子を細胞に組み込むと細胞が初期化される」というiPS細胞の原理の発見は、完全に科学である。しかし、網膜再生などのiPS細胞を使った再生医療は科学技術である。それぞれ非常に意義のある大きな研究であるが、そのどちらに大きな価値を見出すかはその人の基本的価値観に大きく左右される。

人間社会は経済なしでは語れない。つまり科学技術によるビジネスがあって、世の中は回るのである。しかし、そのような科学技術の根源は純粋な科学である。もちろん、科学と科学技術の線引きをどこで行うかは難しい問題であり、また明確に分離できるものでもない。しかし、科学技術が社会・経済の根源であるとすれば、科学は人間の思考の根源である。科学技術が人間の生活を支えているとすれば、科学は人間の頭脳を支えているのである。

しかし、科学技術が高度に発達した現代社会においては、純粋な科学が過度に軽視されているように思える。その原因は、科学と科学技術を区別できていないことにある。今一度、科学の本来の意味というものを深く考える必要があるのではないだろうか?「役に立つ」は分かりやすい。「お金になる」も分かりやすい。しかし、「真理を探究する」という心は簡単には分からない。しかし、そのような心を理解できれば、物事の本質を見抜くことができるようになる。そしてそれは、巡りめぐってビジネスにも大きな貢献をするはずだ。iPS細胞のように。

数学の全貌。

一体人類は数学の全貌のうち、何%を理解したのであろうか?50%か?1%か?あるいは0%か?もし数学の世界が無限に広がっているとすれば、いくら人間が頑張ったとしてもそれは有限なので0%と言う事になる。

しかしこればっかりは現在の人間にはわからない。そして将来、それが分かるかどうかも分からない。はたまた「ゲーデルの不完全性定理」という規格外の定理もあり、「数学の全貌」というものが定義できない可能性もある。

19世紀末、物理学は全て出尽くして、もうやる事はほとんどないと言われていたという。しかしそのような認識を打破したのがアインシュタインの相対性理論であった。そして量子力学がそれに続いて行き、相対論と量子論という二本柱が確立し、物理学はとてつもなく深い世界へと入り込んで行く。

では数学はどうか?数学もその時々、革命的な事象を起こしている。書き出したらきりがないが、20世紀に起こされた最大の数学的革命は、グロタンディークのスキーム論ではないだろうか?その他にも、ミルナーの7次元エキゾチック球面の発見、さらに時代をさかのぼればカントールの集合論も革命的であろう。

現在の状況を見てみると、数学はまだまだ終焉を迎えそうにない。もちろん、部分を見ると完成しそうなものはあるが、それをもって数学の完成かもしれないと思っているのならば、それはその数学者の妄想、あるいは大域的知見のなさなのかもしれない。

ただ、ある時、何となく取り組んでいる分野の全貌を垣間見る時がある。もしかしたらそれも妄想かも知れないが、一瞬世界が広がる時があるのである。そして再び闇へと戻る。しかし一度輝く世界を見ると、研究の指針が確立する。そしてその一瞬垣間見た数学的世界へと近づくことが出来る。数学の全貌は見ることはできないが、数学の一分野くらいはその全貌を垣間見ることは不可能ではないのではないだろうか。

数学総動員!

数学は大きく三つに分けられる。「代数学」「幾何学」「解析学」だ。しかしこのような分類は人間が便利上勝手に作ったものであって、それらの間に明確な壁がある訳でも何でもない。従って、それらの間をまたぐような分野ももちろん存在する。「代数幾何学」などはその代表であるが、それ以外にも「解析幾何」「代数解析」さらには「数論幾何」などもある。また、例えそれらの一分野を極めるにしても、他分野の知識は不可欠だ。

大体、一つの分野を細分化して突き詰めて行くには限界がある。その限界を突破するのも一つの手ではあるが、他分野を融合するのは最も賢明な手だと思える。ポアンカレ予想(幾何化予想)は位相幾何学の問題だと考えられていたが、ペレルマン博士は微分幾何学の技術を使って解いてしまった。そのような例は多々ある。代数学の殻に閉じこもってしまえば、代数学の問題さえ解けなくなってしまう。大きな問題ほど、他分野の技術を導入して初めて解決可能になる。

数理物理と言う分野は、非常に曖昧な分野だ。何が曖昧かと言えば、人によって数理物理に対する定義はまちまちだし、また取り組んでいる問題もまちまちだからだ。“数学的”な物理と考える人もいれば、“物理的”な数学だと考える人もいる。しかし一つ確実に言えることは、数理物理は数学と物理にまたがる学際的な分野だと言う事だ。従って、数理物理の研究に取り組むためには、学問の壁と取り払わなければならない。代数も幾何も解析も関係ない。使えるものは全て使うのだ。それこそ「数学総動員」である。

この様に考えると、超学際的な分野である数理物理は、非常に大きな可能性を秘めた分野である。数理物理は、代数学と幾何学と解析学を物理と言う舞台の下で融合してしまうかもしれない。とてつもなく大きな野望であるが、そのような事を考えても良いのではと思う。ここでは数学と物理を例に取り上げたが、化学や生物学や地学、さらには社会科学や哲学においても分野の壁を徹底的に取り払い、超学際的に攻めて行くことが必要なのではないかと強く思う。