科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

最も小さく、最も大きな夢。

「素粒子」、それは最も小さい世界の話であり、最も大きな夢の話でもある。

素粒子の定義は時代によって変わる。百年以上前の素粒子とは分子・原子であったが、時代が進むにつれ、原子核・電子、そしてクォーク・レプトンへと微小になっていく。最近はもっと小さい世界の話もある。

素粒子の世界を記述するのが「素粒子論」。素粒子の科学は、理論が実験を先行している。その大きな理由は金銭的理由だ。素粒子実験の施設である加速器は建設するのに数百億円、数千億円かかると言われている。それに対して実用的対価は事実上ゼロ。そんな科学の存在を世間は簡単に認めない。

素粒子物理の実用化は考えられないが、素粒子物理は人間の知的活動の集大成だと言える。素粒子への挑戦は、人間の知性への挑戦である。

この最も小さい世界への、最も大きな挑戦に、科学の壮大な夢が存在する。

佐藤幹夫の一本の道。

佐藤幹夫氏は日本が誇る大数学者だ。数学の中で「佐藤理論」と言われるものは数多く存在する。佐藤幹夫氏が創始した代表的な理論は、ハイパーファンクション(佐藤超関数)、代数解析、佐藤のソリトン理論であろう。これらの理論は理解していない人にとっては一見つながりがないバラバラの理論に思えるが、それらの理論を知るにしたがって全てが一本の道につながっていることがわかる。

僕も昔は、佐藤幹夫とはあらゆる分野で大理論を次々に打ち立てた(これは事実だが)とてつもない大数学者だと思っていたが、佐藤幹夫氏の中では全てが一つにつながっているのである。

佐藤幹夫氏は数学者であるが、数理物理学にも取り組んでおられる。数理物理学という言葉の定義は非常にあいまいで、はっきりと確定した定義はないに等しい。したがって、数理物理学者と言っても皆取り組んでいる分野は違うと言っていい。そして数理物理学に取り組むにあたっては、分野の壁にこだわっていれば身動きが取れなくなる。数理物理学者とは雑食性なのである。

佐藤幹夫氏は(おそらく)すでに引退しておられると思われるが、僕は勝手に佐藤幹夫氏は20世紀最大の数学者だと思っている。もちろん世界を見渡せば、代数幾何学のグロタンディークや微分トポロジーのミルナーのように偉大な数学者は何人かいるが、研究の独創性と多様性に関しては佐藤幹夫の右に出るものはいないと感じている。

科学の研究とは?

「科学の研究とは、世界で一番を取ることである。」もちろんそうは言っても、これは科学の一側面を表したものに過ぎないが、科学の研究に二番煎じ三番煎じは存在しないのは確かだ。二番三番は研究ではなく勉強である。

ただ、テーマは様々あるので、一番と言っても色々な一番がある。大きな一番から小さな一番。ただ、二番は存在しない。

科学では一番乗りが全てを取るのだが、なぜそうなるのかは理由は簡単だ。二番三番はただ一番の成果を追試すれば自動的に結果が出るからだ。もちろん事実はそんなに簡単ではないが。

ただ、ビジネスではもちろん話は違う。ビジネスでは初めから二匹目のどじょうを狙う戦略も重要だ。

科学の研究というものにも流行というものがあり、一部の研究者、いや結構多くの研究者はいかに流行を追うかということに全力を尽くしている。それはいかがなものかとも感じるが、ただ他の研究者が口出しするようなことではないのかもしれない。

他の研究者がやっていない独創的なテーマに取り組んでいる研究者の結果は、いつか必ず大きな評価が下される。ただ、流行の研究が即評価されやすいのに対して、独創的研究は評価されるのに時間がかかる。

しかしそんなことを考えずに、自分が重要だと思う研究に打ち込めばいいだけなのかもしれない。

複雑化と単純化。

世の中には二つの大きな流れがある。複雑化と単純化だ。それは科学においても言えることだ。大雑把に言えば、基礎科学の大きな流れは単純化であり、応用科学は複雑化であると言える。

複雑化の代表的なものは生物、特に人間であると言える。人間は膨大な数の細胞からなっており、複雑化の集大成である。しかしその複雑化の結果、マクロなレベルで非常に秩序のとれた単純化の様相も持っている。この様に一概に単純化か複雑化かとは一方には決められない。

基礎物理は単純化の作業の代表例である。特に素粒子論などの分野では、その単純化の作業を「還元主義」と表現される。この還元主義は科学の体系全体にも言えることであり、

マクロ生物学→分子生物学→化学→物性物理→素粒子物理

という還元的体系を構成している。従って、一番根本的な位置にある素粒子論を理解することは、還元主義的には科学全体を理解することにあたる。

複雑なことを理解することは個々の事象の理解につながるが、単純化をして理解することは物事の本質の理解につながる。単純化と複雑化はどちらが偉いというわけではなく、双方が両輪となって科学の理解は深まっていく。

考古学と最先端科学技術。

エジプト・クフ王のピラミッドの内部に巨大空間が見つかったという(読売オンライン)。この空間は名古屋大学をはじめとする国際研究チームが解明したというが、その解決手法は、宇宙から飛来するミュー粒子を使ってピラミッドの中身を透視するというものであった。

ミュー粒子とは素粒子論でもおなじみで、スピンが2分の1の粒子なのでディラック方程式で記述できるはずだが、一昔前まではミュー粒子を扱うような素粒子論などの純粋科学が何かに役に立つとは、ほとんどの研究者は考えなかったであろう。まさに「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということを実証した形だ。

普通の人からすれば変な話かもしれないが、純粋科学に取り組んでいる人の中には、役に立たないことを誇りに思っている人々がいる。しかもその数は少なくない。しかし役に立たないという言葉の裏返しは「科学的価値がある」ということである。実はこれらの人々は科学的価値があることを誇りに思っているのだ。

クフ王のピラミッドの話に戻るが、素粒子論が考古学に利用されるとは、時代も進歩したものである。この先、どのような役に立たない純粋科学が日常で用いられるようになるか、期待するところである。

理論は正しいのか?間違っているのか?

最近何かと話題の「ダークマター(暗黒物質)」。観測データに照らし合わせると、ダークマター・ダークエネルギーが宇宙の質量のほとんど(90%以上)をせめるという。ダークマターの候補になる物質はいくつか考えられているが、現在ではまだそれを特定するには至っていない。

ただそれらは既存の理論に基づいたデータであり。理論そのものが間違っているという可能性も否定できない。実際、現在の宇宙モデルの基になっている一般相対性理論は不完全である(量子論でないという意味で)というのは物理学者の間では共通の認識であり、一般相対論が量子化(量子重力理論)されれば解決されるという可能性も否定できない。また、既存の理論を修正するという試みも行われている。

いずれにせよ、現在の観測データは既存の知識だけでは説明できない状況が起きている。現在の理論は正しいのか?間違っているのか?また間違っているのならば修正すれば観測と一致するのか?あるいは根本的書き換えが要求されるのか?まだ結論は出ていないが、根本的書き換えによって物理の世界に大変革が起きる可能性は否定できない。

未来の物理理論の風景はどうなっているのか?その風景を作り上げる物理学者には強い野望が求められるところである。

眼で世界を見るのではなく、紙とペンで宇宙を見る。

世界を見ることによって見識を深めるということは昨今のブームみたいなものでもあるが、宇宙から見れば地球上の世界は微々たるものだ。それならいっそのこと、宇宙を見て全てを見渡せばいい。

しかし、望遠鏡の性能にも限界があるので、眼で宇宙を見渡すには限界がある。しかし紙とペンさえあれば宇宙を全て見渡すことが可能だ。しかしおそらくまだ誰も宇宙全てを見渡してはいない。初めて宇宙を見渡す人間は誰になるのであろうか?

幾何化予想(ポアンカレ予想)を解決した数学者ペレルマンは、幾何化予想を解決することによって宇宙を見たと言ったという。しかし僕の個人的見解では、ペレルマンはまだ宇宙全体は見ていないと考えている。ペレルマンの3次元幾何だけでは、相対論的宇宙を見るのにはまだまだ不足がある。

宇宙の果てというものは、望遠鏡で見るものではない。紙とペンで見るものであると僕は考えている。紙とペンには限りない可能性が秘められている。

科学は間違いを犯しながら発展していく。

科学と言うと、「正確なもの」「絶対的に正しいもの」だと思われがちだが、科学のこれまでの歴史は間違いを修正していく歴史でもある。

例えば、物理学はニュートンにより打ち立てられ、自然の法則を寸分の狂いもなく表すものだと思われていた。ところがそれから200年以上経ったころに、それはアインシュタインにより否定される。そのアインシュタインの理論も現在では完全だとは思われておらず、量子重力理論などのアインシュタインを超える理論の出現が期待されている。

とは言え、物理学は科学の中でも特に精密な部類に入る。生物学や地学などでは修正どころか前時代の理論が完全否定され、全く反対の事が正しいとされることがよくある。

しかし、科学が間違っているととらえるのは間違っている。多くの科学は非科学的なものよりも圧倒的に正しく正確だ。しかも科学には根拠(理論)が存在する。なので、基本的には科学に基づいた考えを受け入れるのが原則である。

もし現在の科学が100%正しいのならば、科学の発展は完全に止まってしまう。現在の正しい科学から、「より正しい科学」へと脱皮していくのが科学の発展というものである。

科学者の探求心は常に深いレベルへと向けられ、継続的発展が行われることになる。

重力波観測から、重力波天文学へ。

2017年度のノーベル物理学賞に、重力波を世界で初めて観測した、アメリカの重力波観測施設「LIGO」のワイス博士、ソーン博士、バリッシュ博士の三人が受賞されることが決まった。

僕自身は実験に関しては非常に疎いので、実験の詳細な内容は説明しきれないが、この三人のうちソーン博士は、理論家の間でも有名な名前だ。

というのは、超有名な重力理論の専門書、マイスナー、ソーン、ホイーラーの三人の著書「GRAVITATION(重力理論)」の著者のうちの一人であるからだ。この「GRAVITATION」は非常に分厚い書物で(日本語版は1324ページある)、研究者の間では通称「電話帳」と呼ばれている。「電話帳のソーンだ」と言えば、ほとんどの理論家でもわかるだろう。

今回の授賞理由となった重力波の観測は、まだ「検出した」という段階なので、これからどう具体的な「観測」へと結びつけるかがこれからの課題であろう。

「重力波天文学」という言葉もでき始めているらしいが、このような分野が発展した暁には、ブラックホールの観測などに大きな威力を発揮するものと思われる。

なぜ基礎科学が重要なのか?

10月2日(月)からノーベル賞の発表が始まる。文学賞で注目されている村上春樹も気になるが、やはり科学分野3賞がどのような分野に授与されるかは注目されるところである。

ところで、ノーベル賞は基礎科学重視である。もちろん2014年の物理学賞の青色発光ダイオードのような応用分野に授与されることもしばしばあるが、割合で言うと基礎分野への授与が多いのではないかと思われる。

では、なぜ基礎科学が重要なのか?その答えを誤解を恐れずに一言で言えば、「基礎科学の方が純粋に科学的価値が高い」からである。それの対比として応用分野の重要性を一言で言うと「役に立つ」ということであろう。

しかし厄介なのが、この基礎科学の「科学的価値」というものは、なかなか多くの人には理解されない。純粋科学の科学的価値は、数値では表現できないし、言葉でも簡単に表せない。そのせいか、基礎科学を研究している人に対して「道楽だ」という言葉を投げかける人もいる。なかなか基礎科学の重要性をわかってもらえないのが少し悩ましい。

もちろん、応用科学も元をたどれば基礎科学の結果の上に成り立っている。基礎科学がなければ応用科学も存在できない。そう言えば少しは基礎科学の重要性はわかってもらえるかもしれない。しかしそれは純粋に「価値」を理解するのとは少し違う。

ほとんどの基礎科学者は「基礎」を研究していることに誇りを持っている。そして「基礎」の価値と重要性をどこまで理解して受け入れられるか、それは社会の熟成度を大きく示すものである。