科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

無限小の地球。

世界は広いとよく言われる。それは本当に正しいのか?科学技術の発達した現代では、世界を見ることは身の回りの物を見るくらい容易であるし、飛行機で回っても一日もかからない。さらに宇宙全体から見れば、地球上の世界などはっきり言って無限小だと言ってよい。なので広い視野を手に入れるためには、地球上の知見だけで終わらせるのではなく宇宙を理解しなければならない。

では宇宙を理解するためにはどうすればよいか?それは数学と物理を理解すればよいのである。数理は宇宙のかなたまで視野を広げさせてくれる。では、初めて宇宙を見た(理解した)のは誰か?これは疑いようもなくニュートンだと言える。ニュートンはリンゴを落ちるのを見て万有引力を発見したと言われている。これは何を意味するのか?じつはこのことの真意を理解している人は少ない。ニュートンはリンゴを落ちるのを見て、地上の重力と宇宙の星の運動を支配している力が同一のものだと見抜いたのである。すなわち、ニュートンは地上の世界と宇宙の世界を統一した初めての人物なのである。それに比べると、現代の身の回りの狭い科学技術にとらわれている人間がどれだけ小さいかが理解できる。

科学(サイエンス)は万能であっても、科学技術(テクノロジー)は万能ではない。科学は奥に潜む真理を明らかにするが、科学技術は表面的なものしか明らかにしない。すなわち世界(宇宙)の本質は科学にあるのに、ほとんどの人間の眼中には科学技術しか入っておらず、表面的な事しか見えていない。例を挙げると、科学(物理学)によって宇宙の果てまでもが理解できるが、科学技術(テクノロジー)はせいぜいロケットで月や火星に行くくらいが限界だ。世の中を本気で理解しようと思えば、宇宙の果てまでもを理解しようと言うくらいでなければならない。

科学技術の価値は誰でも理解できる。なぜなら科学技術と言うものは非常に即物的だからだ。しかし科学の本当の価値を理解している人は少ない。それは科学と言うものが非常に本質的であり、抽象的であるからだ。しかし現代の教育は技術の方に傾き過ぎている。その結果、人間の視野を非常に狭いものにしている。プログラミング教育もいいが、何か本質的なところをないがしろにされているように思えてならない。

良い問題を設定することの大切さ。

もし学生ならば、教師から出された問題を解くことに全力を尽くすかもしれない。確かに問題を解くことは重要である。社会においても、様々な問題が山積し、それらの問題を一つ一つ解決することが求められている。しかしそれらの問題が存在すると言うことは、誰かがそれらの問題に気付いたと言うことである。問題が設定されなければ解決も何にもない。実は問題を設定すると言うことは問題を解くこと以上に重要な事なのである。

例えば数学を例に挙げると、今から百年ほど前に、ポアンカレ予想と言う問題が設定された。設定者は名の通りポアンカレと言う数学者である。ポアンカレ予想は約百年後の21世紀初め、ロシアのペレルマン博士によって解決された。ペレルマン博士の業績はもちろん偉大なものであるが、現在でも「ペレルマンの定理」と言われることは少なく「ポアンカレ予想」と呼ばれている。これはやはり問題を設定したポアンカレの業績が大きく評価されていることの表れだと考えられる。

研究とはまず問題を設定するところから始まる。問題を与えられて、「はい、解きなさい」と言われるのは学生までだ。もちろん世の中には未解決問題がたくさんあり、それらの問題に取り組むのも一つの手だ。しかし大問題を解く過程では、様々な問題を見つけることが要求される。極論を言えば、研究とは問題を見つける作業だと言える。

良い問題を見つけるためには、ある程度センスがいる。与えられた難しい問題を解く才能と、良い問題を見つける才能は、重なるところはあるが別物だと言える。だから難しい入試問題が解ける人が必ず優秀な研究者になれるとは限らない。もちろん、研究者レベルでなくても身の回りには様々な問題が横たわっている。良い問題を見つけるセンスを身に付けるためには、そのような身の回りの小さな問題を発見するところから始まるのかもしれない。

一般科学と特殊科学。

科学にそのような分類があるのかどうかは分からないが、僕は科学を一般科学と特殊科学に分類している。一般科学とは物理学のことで、そこから化学→地学→生物学の順に特殊性が増す。すなわち生物学は特殊科学の極致と言えるわけで、生物学とはその特殊性を解明する学問だと言える。それに対して物理学はその一般性を解明する学問だと言える。

では、生物学の特殊性は何を意味するのか?それは(もしかしたら)生物学が宇宙の中でも地球上でしか成り立たたないサイエンスかもしれないということである。つまり知的生物(宇宙人)は、宇宙の中でも地球上(つまり地球人)しかいない可能性があると言うことである。生物学が地球上を対象とした学問であるのに対して、物理学は宇宙のどこでも成り立つ普遍性がある。

現在、多くの科学者が地球外知的生物、つまり宇宙人を真剣に探索している。それはそれで良いが、そのような知的生物が誕生する条件として、地球と同じ気温であり、地球のように水が存在することが条件であると多くの科学者が述べている。しかし僕は、このような条件に固執するのはあまりにも視野が狭すぎるのではと常々思っている。地球外知的生物が宇宙のどこにでも存在するという普遍性を前提にしている割には、地球と同じような環境でないと存在しないと言う特殊性を前提にしている。僕は、知的生物ではない、そもそも生物ではない全く違う形態のものが存在するのではと考えている。地球に存在する生物はそのような様々ある形態の一形態に過ぎないと言う訳である。地球上の生物は極めて特殊である。特殊であるからには、違う形の特殊性もあっていいのではないだろうか。もちろん、原始生物レベルの形態で一致することはあり得るが、高等生物レベルで一致することはほぼあり得ないのではないか。

話は変わるが、仮に知的生物らしきものがいるとしてその“知的”と言う意味をどう定義するか?それは数学と物理学を理解していることだとすべきである。その理由は、数学と物理学が宇宙のどこでも成り立つ科学(一般性のある知的学問)であるからである。知的生物がいるとしたら、何万何十万という星に存在するはずである。それか全くいないかのどちらかである。宇宙人がいないという考えをする人は視野が狭いと思われているが、もしかしたら宇宙人がいると考える科学者の方が圧倒的に視野が狭いのかもしれない。そもそも科学者が宇宙人がいると言う根拠の方が全く軽薄なものと思えてならない。少なくとも、地球上の生物とは全く形態の違うものが存在することを想定する必要があるのではないだろうか。

人間の感覚って、意外と当てにならない。

普段の行動を論理的に考えるか、感覚的に捉えるか、人によってその配分は様々であると思うが、普段の生活上のことや人間付き合いをあまりにも理詰めで考えると逆に上手くいかないこともある。問題はそこに心がこもっているか、と言うことである。感覚的に捉えつつも要所要所で論理的に判断するのが良いのではないかと僕は考えている。

しかしそれが数学のこととなると話は別だ。数学は100%論理的でなければならない。もちろん、理論の概要や方向性を感覚的に捉えることは不可欠であるが、それを基に理論を構築するときにはそれが100%論理的であることが求められる。ではなぜ数学においては100%の論理が必用なのか?

もしかしたら10%くらい感覚で記述しても良いのではと思うかもしれない。しかし数学においてはそうは言えないのである。例えば、99%論理で構築しているから1%くらいは感覚で記述しても良いとするとどうなるのか?数学はその1%から全てが崩壊するのである。あるいは、その感覚で記述した1%が実は全く見当違いであることもよくある。感覚的に当たり前であるように思えることが実は当たり前ではなく、そこに想像もしないような真実・真理が潜んでいることがよくあるのである。だから数学者は時には重箱の隅を突くようなことにこだわることがよくある。それは重箱の隅に大きな真理が潜んでいる可能性があるからである。そして理論の流れに論理でないところがあれば、それはまだ数学としては完成していないことになる。

数学を突き詰めていくと、人間の感覚と言うものが全く当てにならないと感じることがよくある。もちろん数学においても“数学的”感覚や意志を基に進めることはよくある。しかしそこから導き出される結果は100%論理的でなければならない。世の中には論理に真実や真理が潜んでいることがよくあるのである。そして数学においては、そのような論理こそが本質なのである。

世界旅行!

皆様は世界旅行に興味はおありでしょうか?世界旅行とはつまり、地球上をくまなく周る海外旅行と言える。僕はそのような旅行にほとんど興味がない。国内であろうが海外であろうが、これまで旅行をしたいとはほとんど思ったことがない。(しかしこれからは、そのような旅行も積極的にしようと思っている。)

しかし今僕は、ある世界旅行に躍起になっている。それは科学の世界の旅行だ。これまで僕は、数学と物理の世界を旅行することに打ち込んでいた。しかしそれはある意味‘‘国内旅行’’だと言える。世界旅行をするためには、化学、生物学、地学などのあらゆる分野を周らなければならない。科学の世界は美しく、そして豊富で面白い。数式を介して見る世界は非常に明確だ。海外旅行に行くお金があれば、そのお金で専門書の一冊でも買い、それに取り組む方が圧倒的に面白い。

僕は軸足を数学と物理に置いている。そのことは科学の世界の旅行をするにあたって非常に幸運だった。なぜなら、物理と数学を軸足にして、化学や生物学などに遠征をすることは十分可能だからだ。しかしその逆は基本的には難しい。そして数学に打ち込むことは、さらなる幸運をもたらす。それは、この自然(宇宙)だけでなく、数的宇宙までも理解することができるからだ。数的宇宙とは、ギリシャ哲学で言うところのイデアにあたるであろうか。すなわち、目で現実世界を見て、科学で自然(宇宙)を見て、数式で数的世界を見るのである。

僕は専門外の分野に取り組む時も、解説書ではなくできるだけ専門書を読むことにしている。確かに専門外の専門書を読むことは最初は骨が折れるが、慣れればむしろ数学や物理より簡単である。やはり一般解説だけで真理を理解するには限界がある。百冊の解説書を読むより、一冊の専門書を読む方がはるかに意義があるのである。まずは座右の専門書を定めるのが良い。専門書と格闘すれば、さらに奥に潜む真理が見えてくるに違いない。

地球外知的生物はいるのか?

地球外知的生物の存在に関しては、いつの時代も話題になる。地球外知的生物とは、いわゆる宇宙人であると言える。宇宙人だと言ってしまえば話は変な方向(オカルト系)に行ってしまうことが多いが、多くの科学者は地球外知的生物、つまり宇宙人はいるだろうと本気で考えている。僕自身も以前は地球外知的生物はほぼ間違いなくいるだろうと考えていた。その根拠は、地球と言う宇宙の一つの星に知的生物が存在するという事実から、宇宙に存在する無数の星の中には知的生物が存在する星があると考える方が至って自然であろうと言う考えからだ。そしてこのような考えを根拠にすると、知的生物が存在する星の数は数個・数十個ではなく、何万、あるいはそれ以上あると考えるのが自然だ。

しかし、僕はある分野の知見を得ることによって、考えは大きく変わった。つまり、宇宙にいる知的生物が地球上の人間だけである可能性も非常に高いと言うことだ。では、何を根拠にそのような結論を出したのか?それは進化論だ。進化論と言えばダーウィンを思うが、現在はダーウィンの自然淘汰による進化論を基礎にしつつも、非常に高度な理論に発展している。その中に、数学(特に確率論・統計学)に基づいた数理進化学と言うものがある。そして数理進化学は、数理遺伝学に基づいている。つまり、進化を遺伝子レベルで考察し、数理モデルを構築していくと言うものだ。

このような分子的な遺伝子レベルで進化を考えると、人間が誕生するまでの進化の歴史は偶然と奇跡の連続であることがわかる。そのようなことは、数学を駆使して解析することによって鮮明になってくる。地球においても、人間が誕生する確率はほぼゼロであった可能性がある。しかし偶然に偶然が重なって、偶然に人間が誕生したと言えるのである。そのような事が数学的解析によって鮮明になるのは特筆的である。

例えば、猿にタイプライターを打たせてシェークスピアを書かせることは出来るか?と言う例え話がある。これは適当にタイプライター打っても、シェークスピアと同じ文章が書ける確率がゼロではない言う話だ。実際は、シェークスピアの長さを考えると、100億年打ち続けても偶然書き上げられる可能性はほぼゼロである。なので正岡子規の俳句にしよう。猿がタイプライターを適当に打って正岡子規の俳句が出来上がる可能性はほぼゼロであろう。しかし正岡子規の俳句が出来上がったのである。(実際は、猿が打って出来上がった俳句を「正岡子規の俳句」と名付けたと言うべきであろう。)正岡子規の俳句に当たるのが、地球での人間誕生なのである。

地球上に人間が誕生したからと言って、宇宙の他の星にも知的生物がいるという結論を出すのは早計だ。数理遺伝学による進化論からは、そのような結論を出すことができる。しかし、このことを証明することは容易ではない。知的生物がいるのならばその星を見つければいいが、いないことを証明するのはいわゆるブラックスワンがいないことを証明する問題に当たる。

地球は奇跡の星なのか?ありふれた星なのか?この答えに結論を出せる日が来るのかどうかは分からないが、数理遺伝学的に進化論を考えると、地球は奇跡の星である可能性が非常に高いと言えるのではなだろうか。

文化勲章。

先日、文化勲章の授章式(親授式と言うようだ)が行われた。今年の受章者は6人であり、最も注目されたのは、今年ノーベル化学賞を受賞された吉野彰博士ではないだろうか。しかしそれ以外の受賞者の中に、僕が尊敬する人が一人いる。数理工学者の甘利俊一博士だ。甘利博士は建前上「数理工学者」となっているが、その実績は非常に幅広く、数理脳科学から最近のAI技術にもつながるニューラルネットワークまで様々な研究貢献をされている。僕が一時期取り組んでいた、甘利博士の創始された情報幾何は、最も大きな貢献ではないだろうか。

もう数年前(10年前くらい?)だろうか、研究会で甘利博士と少しお話しする機会があった。当時から科学界では有名な方だったので、僕が持っていた甘利博士の著書にサインをお願いした。非常に温和で気さくな方だったように記憶している。もちろん、普段はどんな方か僕には分からないが、もしかしたら研究には厳しい方なのかもしれない。

甘利博士は非常に不思議な人である。何が不思議かと言うと、何が専門なのかわからないのである。あらゆることにおいて大きな結果を出されているので、どれを専門だと言っていいのかわからない。出発点は数理工学のようである。東大の計数工学科の教授もされている。その過程で、情報幾何学を打ち立てられた。情報幾何学は数学と言ってよい。そしてその後、理研の脳科学総合研究センターのセンター長をされ、数理脳科学の分野で大きな結果を出している。そしてその数理脳科学の知見に基づいて、AIのニューラルネットワークの理論にも貢献されているようである。

どう考えても、僕にはノーベル賞を受賞された吉野彰博士よりも甘利博士の方が偉大に思えてならない。現在83歳ではあるが、偉大な研究者は歳を取っても大きな研究を成し遂げる人も少なくない。現在現役かどうかは分からないが、残りの人生においての活躍を強く願うばかりである。

体系的に構築することの大切さ。

物事を体系的に構築していくか、それとも単発的にこなしていくかによって、その後の発展が大きく変わっていく。結論から言うと、継続性を付けるためには体系的に構築していくことが不可欠だ。それは数学の歴史を見ればよく分かる。

江戸時代の日本の数学、すなわち和算は非常に高度なものであり、問題によっては西洋の数学をしのぐものであった。しかし現代の数学において、和算の系譜は途絶えていると言ってよい。現在世界で行われている数学のほとんどは、起源をたどると西洋の数学にたどり着く。ではなぜ日本の和算が途絶え、西洋の数学が脈々と受け継がれているのか?それは体系的に構築しているかどうかと言うことに限る。

和算は一言で言えば、単発の問題の集まりである。もちろんそう言い切れないものもあるが、和算の主流は高度な難問を単発的に解いていくというものだ。それに対して、西洋の数学はほぼ一貫して体系的に構築していくことを主眼に置いている。西洋の数学は理論であり、日本の和算は解法だと言える。

大学受験の数学に慣れた学生が、大学での数学に戸惑うことが多いという話はよく聞く。それは受験数学が単発問題の解法であり、大学数学が体系的な理論構築であるからだと言える。確かに問題が解けた時はうれしい。しかし問題はその後である。小さな問題でも、それを解いた後どのようにつなげるか?そのような事の繰り返しが体系的な構築につながるのである。

もし物事に継続性を付けたいのなら、体系的に構築するという視点が必用である。そして大問題を解く場合にも、そのための足場として理論体系を構築する必要がある。「継続は力なり」と言う言葉があるが、その前に「体系性は継続なり」と言う言葉を付け加えなければならない。

宇宙は数学モデルで記述できる。

宇宙の法則は数学モデルで記述される。宇宙の法則とは、物理学のことである。物理学は一貫して数学によって記述されており、数学的でない物理法則などは全く存在しないし、仮に存在するとすればそれはまだ完全ではなく、対処療法的なものであると考えられる。宇宙の原理、すなわち物理法則には謎が多いが、一番の謎は「なぜ宇宙は数学で記述されるのか?」と言うことであろう。

物理学を構築するとき、まずは「物理学は数学で記述される」と言うことが前提になっている。この前提が覆されれば物理は学問として成り立たなくなる。宇宙とは、物理とは、数学の具現化なのである。なので物理を行おうとすれば、まずは数学をマスターしなければならない。

1600年代にニュートンによって物理に数学の波がもたらされたわけであるが、現代ではそのような波は科学全体に押し寄せている。例えば化学や生物学であり、サイエンスではないが経済学でも高度に数学化された理論が用いられている。その中でも僕が最近面白いと感じているのは、生物学、特に脳科学の分野である。脳科学の中には数理脳科学と言う分野がある。もちろんその中でも様々なアプローチがあるが、特に日本の甘利俊一博士が創設した情報幾何学を駆使した脳回路のネットワーク理論が有名である。脳とはまだまだ分からないことだらけで、その原因は人間の脳を取り出して研究することができないことにある。しかし最近はMRIなどで遠隔的に脳内の活動を観測できるようになり、これらの分野の研究が飛躍的に進んでいるようである。

とは言え、生物学の数学化は記述的であり、物理学の数学化は根源的かつ本質的である。物理学の最終理論、すなわち「Theory of Everything (TOE)」は完全に数学的だと考えられる。TOEが完成すれば、なぜ物理は数学で記述できるのかと言うことが明らかになるかもしれない。宇宙の、物理の本質は数学のどこにあるのか?それを解明するためには、自然を極限まで数学的に追究していかなければならない。

どういう原理なんだろう?

今の時代、ほぼ全ての人がスマホを持っていると言っても過言ではない。スマホでなくてもガラケーを持っている。新しいスマホを手に入れた時、どのように思うだろうか?おそらくほとんどの人は、「どのように使うか?」と言うことに全力を尽くすだろう。そして世間では、スマホやパソコンを使いこなせる人が、「最先端機器に強い」と言われることが多い。しかしスマホを使いこなせることとスマホの原理を知ることとは全く別次元の問題だ。

現代社会は便利さを極限まで追求している。「どれだけ便利か?」と言うことが、ビジネスの命だと言える。そのような便利さを享受するためには、原理を知ることは必要ない。しかし物事の本質を知るためには、原理を知ることは不可欠だ。

来年から小学校でもプログラミング教育が始まる。プログラミング教育とは、スマホ・コンピューターがどのように動いているかを理解するための教育だ。もちろん、プログラミングがコンピューターの全てではない。しかしソフトウェアの多くの部分は理解できるだろう。スマホを使いこなすだけならプログラミングなど知る必要はない。しかし原理を知ることによって、単なるユーザーからコンピューターのプロデューサーになれる。つまり与えられる側か、与える側か、と言うことである。

プログラミングだけでなく、数学や物理だってその根本は自然の原理を知ることである。原理を知ることは、物事の本質を掴むことになる。つまり数学や物理を学ぶことは、本質を見抜く目を養うことになる。だから数学者や物理学者は、その他の関係ないように見えるほとんどの事に対して本質を見抜くことができる。もし本質を見抜けない数学者・物理学者がいれば、それらの人は似非である。原理を知るということは、本質を掴むための道のりの原点なのである。