科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

AI(人工知能)の未来。

ここ2、3年で、AI(人工知能)が飛躍的に向上し、世間でもAIが注目されるようになった。特に最近では、AI利用による自動車の完全自動運転化、AIによる医療診断など、AIの適用範囲は拡大化している。

僕個人的には、数十年後、近い未来には、人工知能は人間を凌駕し、人工知能が人間を支配する可能性も大いにありうると考えている。まさしく映画・ターミネーターの世界である。

とは言え、人間の知能には得意不得意があるように、AIにも得意不得意がある。したがって分野によっては、AIには越えられない人間の壁があると考えるのが普通であろう。

1月6日(金)の読売新聞で、国立情報学研究所の新井紀子教授の対談記事が載っていた。AIによる東大合格プロジェクトで有名な研究者である。そこで新井教授は、AIは人間を超えることはできないと断言している。

コンピューターがどれだけ高度化しても、そのフレームを与えるのは人間である。したがって、フレームを与えないことには、AIは機能しない、と、新井教授は主張するのである。

確かに新井教授の主張はもっともである。僕もそう願いたい。しかし、フレームまで生み出してしまうAIの誕生は不可能なのであろうか?僕はAIに関して完全に専門外なので素人的発想になってしまうが、どうしてもそういう考えは拭えない。

専門家の新井教授が何を根拠にそのようなことを言っているかわからないが、おそらくその理由の一つに、AIの機能システムと、人間の頭脳システムが、質的に大きく異なっているからだということが想像できる。

AIを含めてコンピューターというものは、膨大な計算を瞬時に行い、ブルドーザー式に遂行することによって機能している。はっきりしたことはわからないが、人間の神経ネットワークによる知的機能は、コンピューターと質的に大きく異なっていることはわかっている。だからこそ、現在のコンピューターシステムとは違う、人間脳型コンピューターを開発しようという研究もまだ初歩的ながら存在する。

AIによって便利にしたいけど、AIに支配されてしまう危険性もある。非常にもどかしいことではあるが、科学というものは文明が滅亡でもしない限り後戻りできない。

時代が数学・科学研究に求めるもの。

僕は数理物理において微分幾何学的アプローチをとっているのだが、その微分幾何学においてもまだまだ分からないことだらけだ。

「岩波数学辞典」という書物がある。専門家向けの辞典であり、なかなか面白い書物だ。

岩波数学辞典の「大域リーマン幾何学」という項をじっくり読む機会があったのだが、あまりの自分の無知さに情けなくなった。それと同時に、現在の数学研究におけるテクニックの高度さを再確認させられた。また、日本人研究者の結果も多く、改めて日本人研究者の寄与の大きさを感じた。

はるか昔、ギリシャが繁栄していた時代、ギリシャの学問レベルの高さは桁違いだった。そのギリシャ時代、数学・科学に求められていたのは「モデル化」だ。今の常識から考えると変な話に聞こえるが、物質は「水・土・火など」の基本的な”粒子”からできているという考えが生み出された。現在の科学から考えると受け入れられない話かもしれないが、「原子論」というモデルが打ち出されたという点では、現在から振り返ってみても非常に画期的だ。数学ではナイル川の氾濫による測量学から「幾何学」が発展した。その中でも「ピタゴラスの定理」は非常に有名だ。

そして時は経て、16世紀。ケプラー、ガリレイ、ニュートンと連なる、「数学モデル的科学」すなわち「物理学」が誕生した。そこでもやはりモデルは重要だが、根幹となる部分が非常に簡潔に表現されている。その心は中学生でも理解できるくらいだ。むしろごちゃごちゃ複雑に表されて難しい理論の方が間違っていることが多かった(例えば天動説による天体の動き方など)。

そして時は経て20世紀。科学は直感だけでは簡単に理解できない時代に入った。その代表はもちろん「相対性理論」と「量子力学」。理論の数学的形式も、ニュートンの時代に比べて複雑になった。真理は大がかりな実験によって検証される時代だ。

そして数学もますます複雑になってきた。20世紀中ごろには、フランスで数学者集団「ブルバキ」なども結成され、「定義→定理→証明」の形式的構造主義が数学の世界を覆った。分野の細分化も進み、隣の分野のことでもなかなか理解できないという研究者も多い。

21世紀、数学・科学に何を求められるのか、まだまだ明らかにはなっていないように思うが、超絶技巧的な論理技術には舌を巻いてしまう。これから揺り戻しが来て「単純な根幹」が明らかにされるか、超絶技巧がさらに続いていくのか、僕には全く想像できない。

しかし、現在の展望は覆されるものだと僕は思っている。

数学者は何のために研究するのか。

数学者に限らず、研究者は何のために研究するのか?もっともらしく、一番世間受けするのは間違いなく「世の中に役立てるため」であろう。その理由自体、僕も否定するつもりはない。実際、科学”技術”というものは、人に役立てるための研究がほとんどだ。

しかし、数学はどうであろうか?あるいは基礎科学はどうであろうか?数学が人の役に立っているというイメージは、一般には希薄かもしれない。とは言え、人の役に立つ数学(数理科学というべきか)は、最近飛躍的に増えてきている感もある。しかし、ほとんどの数学者はおそらく社会の役に立つ研究をしているなどとは思っていないはずだ。それに、数学の本質は、社会に役立てるためではない。格好良い言葉で言えば「知の地平線を広げるため」にやっているのだ。これは数学に限らず、多くの基礎科学研究について言える。

とは言え、様々な研究者の研究を見ていると、「研究のための研究」をしている印象も非常に受ける。ポストに就くための研究、研究費を稼ぐための研究。しかしそんな研究に大きな価値があるはずがない。

東京大学数理科学研究科の研究科長・坪井俊教授の、3年ほど前のインタビュー記事を見た。そこで坪井教授はこのように述べている。

「飛び抜けた、特に優れた研究が、少しだけ出ればいいんです」

数学の論文だけでも、一年で膨大な数の論文が世界で”生産”されている。しかしそのような論文のほとんどは、一年、いや数か月で忘れ去られる運命にある。いったい坪井教授の言うような「飛び抜けた、特に優れた研究」をしている研究者は、どれだけいるのであろうか?

とは言え、結果を出さなければ、研究環境を与えようにも評価のしようがない。そういう意味ではまず「研究のための研究」をすることも必要なのかもしれないが、今の日本に少しの飛び抜けた研究をすることができる環境はどれだけあるだろうか?

多くの研究現場では、短期的に成果を挙げられるような、近視眼的研究が幅を利かせている。年間に十本近くの論文を書く”生産者”もいる。もちろんその中にも大きな成果はあるのであろうが。坪井教授の言うような研究を少しだけでいい、そのような懐の深さも必要ではないだろうか?

偉大な数学者・岡潔は、生涯に数本の論文しか書かなかったという。しかし岡潔の偉大さは今でも伝説的である。今本当に必要なのは、論文生産者ではなく、第二・第三の岡潔ではないだろうか。

 

数学が最も自由な学問だと言われる訳。

「数学は非常に自由な学問である」と言っても、ほとんどの人はその言葉に反対し抗議するであろう。なぜならば、ほとんどの人がやってきた(やらされた?)小学校の算数から高校までの数学は、ガチガチに決まったルールがあり、決まった解き方があり、ただ一つの答えがある。おそらくそういう印象を持っている人が多いだろう。

では、数学の自由性とは何か?これにはいくつかの理由がある。最も認知されている自由性は、「解き方はいくつもある」ということではないだろうか。これに関しては高校数学レベルの問題でも感じられる自由性だ。

しかし数学者たちはそれよりももっと大きな自由性を感じている。それは「ルールは自由に変えることができる」というものだ。このことに関しては、大学で数学を学ぶレベルでないとなかなか実感しづらいことであるが、これこそが数学の神髄なのである。

数学者は取り組むテーマに応じて設定(つまりルール)を変えており、時にはルールを強め、時にはルールを弱めたりして、それに対してどのような結果が出るのかと探っている。ルールは非常に自由に変えられるものなのである。

例えば誰でも当たり前だと思っている、

1+1=2

という足し算。こんな式でさえも数学者たち(特に代数学者)は

1+1=0

と考えることがよくあるのである。ちなみにこのような足し算の世界は専門用語で「標数2の世界」と言う。

余談であるが、物理などは数学よりも自由性が少なく、縛りが強い。なぜなら物理の場合は、物理学者がどんなことを主張しようが、自然(宇宙)がその主張する法則と違えばその主張は間違っていることになるからである。

数学の自由な世界、そのような世界に数学者は魅了されているのである。

役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる。

とある科学雑誌で、今年のノーベル医学・生理学賞受賞者の大隅良典さんの特集をやっていた。その中で、大隅教授の弟子の研究者が、最近の学生は「役に立つ科学をして社会に貢献したい」ということを強く主張するということに嘆いていた。

僕も以前のブログで、科学では、「役に立つかどうかということ以外の物差しを持つことが大切だ」と書いた。これはどういう意味か。

役に立つかどうかということは誰が見ても非常によくわかりやすい。しかし「科学的価値」というものは役に立つかどうかということとは全く別であり、それを理解できる人は意外にも非常に少ない。

役に立つ科学とは、科学技術など工学や医学のことであって、純粋科学の価値と役に立つかどうかとは無関係である。もちろん去年ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村さんなどは、発明した薬によってアフリカを中心とする多くの人々を救った。この様に、役に立つということは非常に素晴らしいことは言うまでもない。

しかし、基礎科学・数理科学に取り組んでいる人にとって「それは何の役に立つのですか?」という問いほど悲しいものはない。なぜならそのような問いは科学的価値が全く認識されていない表れだからである。

現在、山中伸弥教授が発見したiPS細胞が医療や創薬において非常に大きな力を発揮し、役に立つ科学の代表のように言われている。そのようなことからiPS細胞は役に立てるために開発されたと勘違いしている人が多い。しかし山中教授がiPS細胞を開発した本来の目的は、「各臓器に分化した細胞にも、分化する前の受精卵と同じ全ての情報を無くさずに保持している」ということを示すことであった。その証拠に、2012年のノーベル医学・生理学賞での山中教授の他のもう一人の受賞者であるガートン博士は、そのことをカエルで証明したことを評価されての受賞である。山中教授はそれをマウス、そして人間でも同じであることを示したのである。

話しは変わるが、20世紀初めに打ち立てられた物理の量子論は、純粋に自然の根本的な仕組みを理解するためだけに研究された。量子論のような原子レベルの理論が人間の役に立つと思った人は、当時は皆無であったであろう。しかし科学技術の基に成り立っている現代社会において、量子論を利用することは必要不可欠である。そういう意味で「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」と言えるのである。

真の科学的価値を判断できるセンスを持った人が少しでも増えることを願うばかりである。

なぜ自然(宇宙)は「古典」ではなく、「量子」を選んだのか?

物理学をやっている人がまず思うことは、「なぜ自然(宇宙)は量子の論理に支配されているのか」ということではないだろうか?

ここで言う「古典」と「量子」とは、古典力学と量子力学(広く一般に量子論)のことである。古典力学とはいわゆるニュートン力学のことで、1600年代に誕生し、もう300年以上の歴史がある。それに対して量子力学が誕生したのは1925年、プランクの量子論仮説までさかのぼっても1900年なので、高々100年ちょっとの歴史しかない。

ちなみに、1905年に特殊相対性理論、1916年に一般相相対性理論がアインシュタインにより打ち立てられている。しかし相対性理論は新しい理論だが、論理的には「古典論」の部類に入る。

なぜ「自然が量子の論理であるか」ということに不思議を感じるのか?それは古典論に比べて量子論は複雑、そして一見して非常に不自然に見えるからであろう。しかし量子論は非常に豊富な内容を含んでいる。最近で言うと、超伝導やボース・アインシュタイン凝縮、もっと単純に原子が壊れずに存在するのも量子論のおかげである。

物理学の歴史を単純化すると、

古典論 → 量子論 → 未来の理論(統一理論?)

ということになるだろうが、これはアインシュタイン流に言い直せば、

単純 → 複雑 → 美的

ということになると推測される。

ここで「美的」と書いたが、かのアインシュタインは、根本的基礎理論は美しくなければならないと言い、「美しいかどうか」ということを指導原理にしていた。量子論が現在非常に複雑であるのも、美的への途中過程だからだと思われる。

量子というと一般人には遠い世界に感じられるかも知れないが、今の電子機器製品には量子論は欠かせないし、近い未来には量子コンピューターというとんでもないものができると言われている。

しかし、「なぜ自然(宇宙)は量子なのか?」という問いは、神のみぞ知るということなのか、それともそれ以上の答えを人間は用意できるのか。現在の人間はそれを知る由もない。

天皇陛下が論文を書かれた。

ニュースを見ていると、明仁天皇陛下(平成)が皇居に生息するタヌキに関する論文を書かれたという記事を見つけた。陛下が書かれた論文とはどんなものなのか興味を持ったので、さっそくネットで陛下の論文を見つけて読んでみた。

皇居には多数のタヌキが生息しているらしく、数か所に「溜め糞」と呼ばれるタヌキのトイレのようなところがあるらしい。陛下はその溜め糞で採取したタヌキの糞を顕微鏡で観察して、糞に含まれる内容物を分析したようだ。

ちなみにこの論文は、陛下を含む5人の共著となっている。

僕は普段は物理・数学関係の論文しか読まないので、生物関係の陛下の論文について論評などできないが、興味深く読ましていただいた。

そういえば、昭和天皇も植物の研究をされていたことを思い出し、生物の研究と陛下はゆかりがあるのだろうと感じた。秋篠宮殿下のナマズの研究は非常に有名だ。

ところで論文の内容とは直接関係ないのだが、面白いと思ったところがあった。皇居の住所と陛下の所属機関だ。論文には陛下の所属機関は「御所」となっており、住所は「〒100-0001 東京都千代田区千代田1− 1  御所」となっている。なんだか変に感心してしまった。住所だけ見ても、まさしく住んでいる世界が違う!

我が国の「象徴」が書かれた論文、日本国民として一度見られるのも良いかと思う。日本の陛下が研究という学術に自ら関われていることには、日本国民として誇らしい。

ノーベル医学・生理学賞2016、受賞おめでとうございます。東京工業大・大隅良典栄誉教授。

10月3日夕方に発表された、ノーベル医学・生理学賞に、東京工業大学の大隅良典栄誉教授が受賞されることが決まった。心から祝福いたします。

6時半から受賞者発表があると知っていたので、ノーベル財団のホームページでのネット中継を見ていたが、中継が不調でテレビの速報で知ることになった。大隅教授のことは全く知らなかったが、日本人受賞者の研究内容の概観を知ることくらいは教養のうちだと思い、大隅教授の研究概要をこれから調べようと思う。

大隅教授の研究内容は、たんぱく質の分解のメカニズムを解明したことらしい。専門用語で「オートファジー(自食作用)」と言うそうだ。僕は専門の数理物理以外にも科学全般に興味があるので生物学の初歩の概観くらいは知っているつもりだが、大隅教授の研究のような専門的なことになると手を挙げざる負えない。

さらに驚いたことは、今回の医学生理学賞の受賞は大隅教授の単独受賞であるということだ。日本人の単独受賞は1987年の利根川進博士以来のことである。これはどういうことかと例を挙げて言うと、2008年の物理学賞受賞者の日本人三人、南部陽一郎博士・小林誠博士・益川敏英博士の場合、一個のノーベル賞を三人で分けることになる。それも単純に三等分ではなく、南部博士が二分の一、小林・益川両博士が四分の一ずつである。賞金もそのように分割される。

毎年秋になると、ノーベル賞は日本の風物詩になってきた感がある。そして明日・明後日と物理学賞・化学賞と続く。さらに日本人の受賞が続くのか、非常に気になるところである。

人間の臓器と、セイコーの時計に共通する機構と精神。

山中伸弥先生と山中先生が発見したiPS細胞に非常に興味を持っており、先日、iPS細胞の現状を解説する動画を見ていた。iPS細胞の話はいつ聞いても非常に将来性のある、非常に魅力的な科学技術だ。改めてiPS細胞の凄さと山中先生の成した偉業に感嘆した。

ところでiPS細胞は万能細胞であるから、心臓や筋肉の細胞にも分化できる。しかし心臓や筋肉は鼓動や運動を行うわけであるから、何かしらの刺激を与えて動かしてやらなければいけない。その信号が電気信号である。

脳からの指令は電気信号として目的の臓器へと伝わる。iPS細胞から作成された臓器の卵にも、電気信号を与えることによって鼓動などの運動をさせることができる。即ち人間の体は電気信号によって高度に制御されているのだ。

この様な話を聞いてふと思い出したのが、日本が誇る世界的時計企業セイコーの腕時計だ。時計の歴史は簡単に言うと、昔からある機械式、1960年代にセイコーが開発して一気に腕時計の主役に躍り出たクォーツ式がある。ゼンマイで動く機械式に対して、電気信号で非常に正確に制御をしているのがクォーツ式である。

そしてセイコーは1990年代、機械式とクォーツ式のいいとこどりをした新機構「スプリングドライブ」を発明した。簡単に言うと、動力はゼンマイから得て、その動力によって微弱な電流を起こし、クォーツ式の原理で制御しようと言うものだ。これは世界でもセイコーにしかできない画期的最先端技術だ。(最近になって、ピアジェが似たような機構を開発した。)

ところで人間の臓器とセイコーの時計をなぜ取り上げたかというと、この「繊細な電気信号で動きを制御する」という機構が臓器と時計で非常に似ていると感じたからだ。物を作るだけなら作れるかもしれない。(いや、実際は時計を作るのは非常に難しいが。)しかしそれを自分の力(すなわちゼンマイ)で電気信号を起こし、制御するという機構は、時計界ではセイコーだけが、そして医療界では日本発の技術であるiPS細胞が大きくリードしている。

この時計作成と臓器作成、全くの異分野に思えるが、その根底に流れる思想の一部は共有しているのかもしれない。これこそジャパニーズスピリット、世界をリードする原動力である。

20年後の情報社会のリーダーになりたいのなら、「量子情報技術」に注目だ!

現在、情報社会を生き抜くため、あるいは高いポジションに就くためには、情報技術・コンピュータースキルは欠かせないと言われている。特に最近の親たちは、子供たちにコンピュータープログラミングのスキルに力を入れることに必死になっているようだ。コンピュータースキルの重要性は明らかだ。

しかし、一般の市民がコンピューター(パソコン)を買えるようになった1980年代はどうだったであろうか?当時パソコンは一部のマニアの間での機器でしかなかった。それに当時数十万円するパソコンに価値を見出せる人はほとんどいなかった。それから30年以上経ち、一般家庭にパソコンが行き届き、さらにスマートフォンのようにコンピューターが携帯できる時代になり、ようやく市民も情報技術・プログラミングスキルの重要性に気づき始めた。とは言え、それらの人たちも情報技術・プログラミングそのものの知識をどれだけ持っているかと言えば多少疑問であり、「プログラミングブーム」に流されている感もぬぐえない。

20世紀中ごろ、コンピューターの黎明期にあったような状況が、現在も起きているのではないかと僕は思っている。それは何かというと「量子情報・量子コンピューター」の分野である。はっきり言ってこれまでの「古典的情報・コンピューター」は成熟の域に達し、原理的部分は完成しきっており、市民はパッケージングされたソフトやアプリなどの末端的操作のスキル向上に励んでいる。

しかし量子情報・量子コンピューターは全く違う。量子分野では基本的素子を作る技術でさえまだまだ初歩的段階であり、現在は技術より理論が大きく先を行っている。逆に言うと、量子的な技術はこれから爆発的に発展する可能性があり、今から量子情報・量子コンピューター技術に取り組めば二世代先のトップランナーになれる可能性があるのである。その頃になっておそらく一般市民は量子の重要性に気づき、「量子プログラミングブーム」が起きるかもしれない。しかし現在は20世紀中ごろのコンピューターと同じように、市民はほとんどその可能性に気づいておらず、子供に量子情報技術を身につけさせようという親は全くといって存在しない。

現在ほとんどの人が可能性に気づいていないからこそ、量子情報技術の分野には大きなチャンスがある。さらに黎明期から取り組めば、根本的技術に対する知識の理解度も全く違うので、他と大きく差を付けられる。

もちろん、現在はまだ量子コンピューターは存在しない(量子コンピューターもどきと言われるものは存在する)。量子コンピューターを完成させるという大きな夢を持てるのも、現在の子供たちの大きな特権だ。

これから20年後・30年後には必ず量子の時代がやってくる!