科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

思想としての数学。

数学というものに対して、誤った認識を持っている人が多い。数学とは一見、ルールと論理に則ったガチガチの体系のように見える。しかし数学は論理だけでできるものではなく、数学者の思想、さらには性格までが反映する非常に人間的なものでもある。

例えば、ある定義から始めて数学的論理を構築していくと、全ての数学者が同じ結果にたどり着くかというと、全くそうではない。同じところから出発しても、違うところにたどり着くことは多々ある。右にも進み得るし、左にも進み得る。数学の多様性はそのように起こり得るのである。

数学者一人ひとり、数学というものに対してのスタンスは様々であるが、数学を一つの思想だと捉えている数学者も少なくないように思える。数学理論には数学者の思想が色濃く反映されているのである。そこが数学の面白い所であり、一筋縄ではいかないところでもある。

数学の歴史の原点とも言える古代ギリシャでは、数学は思想であり、宗教でもあった。ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、ギリシャ時代の新興宗教の教祖であったという話は有名である。数学とは無味乾燥な無機物ではなく、非常に人間的な有機物なのである。

とは言え、数学の非常に大きな特徴は“普遍性”である。地球上の人間が考え出した数学理論は、遠く離れた恒星シリウスの惑星に住む知的生物にも同様に発見されるであろう。もちろん数学にどのような思想を見出すかは様々であるが。

数学的思想は、数学研究を前進させる原動力である。思想無き数学は大抵取るに足らないものであることが多い。重要な数学理論の根底には、数学的思想が脈々と流れている。数学理論の豊かさを感じ取るためには、数学的思想を持つことが非常に重要なのである。

目には見えない自然則。

科学研究とは根本的には「自然則を見出す」ということに尽きる。自然則とは科学の根本的原理の事で、ニュートンの運動方程式や一般相対性理論のアインシュタイン方程式がこれに当たるだろう。さらに言えば、光速度不変の原理などはさらに根本的な自然則になる。

自然則の確固たる定義はない。なのでそれぞれの科学者がどこを土台に置くかによってそれは変わる。意識の科学研究においては客観的現象と主観的な意識の現象を結び付ける原理が自然則になる。

自然側は自然現象を高度に抽象化したものであるので、目には見えない。この「目には見えない」ものを見るのが科学者の腕の見せ所である。当たり前のことであるが、物体の運動が見えても、自然則が見えるわけではない。しかしそれを抽象的に抽出して数式として表現するのが科学者の仕事である。

科学研究においてはかなりセンスが問われる。ただ新しいことを発見すればそれでいいのか?もちろんそれも広義の意味での科学といえる。しかし現象を支配する原理を探究するのが科学というのならば、科学とは言えないことを研究している科学者は非常に多い。そんな科学界に一石を投じることができるような研究を行うことができるかどうか?科学者としてのセンスと力量が問われるところである。

脳は緻密で曖昧だ。

最近、「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)という本を読んだ。意識とはこれまで心理学などの非科学的分野の範疇を出なかったが、最近、意識とは何かということを科学的に定義し、科学的に解明するような研究が行われているようだ。

そもそも意識とはこれまで非常に捉えどころのないものであり、厳密に定義することさえ難しいものであった。しかし、まずは意識とは何かということを定義しなければ解析することもできない。そこに意識を科学することの難しさがある。

著者の渡辺博士は、意識の科学を「一人称の科学」と表現している。これまでの科学は、人間が自然を実験、観測するという意味で「三人称の科学」であった。しかし意識の科学に踏み込んで、科学者は初めて一人称の科学というものに遭遇した。意識を科学することの難しさは、この「一人称」であることに由来する。

僕はこれまで、実験科学というものに縁がなかった。数学や理論物理という理論系の科学にどっぷりと浸かってきた僕にとって、本書は科学実験の難しさを強く示唆するものであった。

この本にも書かれているように、人間の脳に電極などを差し込んで実験することには限界がある。というより、倫理的に無理な話である。そのような困難をどう掻い潜るかという挑戦が書かれているのも、この本の見どころである。

そして、意識というものを解明することは、近年のコンピューターの発展と連動するものである。人間の脳は一種のコンピューターともみなせるからだ。さらにこれからのコンピューター科学の発展において、脳の機能、意識の本質と無縁でいることはできない。

この本は非常に挑戦的で革命的な本である。著者の渡辺博士は、自身の意識を機械に移植することが夢だと書いている。そのようなコンピューターに対する前衛的な期待が、これらの意識研究を前進させる原動力になっているのかもしれない。

この著書は、最先端の科学を理解したいと思う人には非常にエキサイティングな本であるし、コンピューター科学技術に関わる人にとっても非常に得るものがある一冊となっている。

(科学に対する)思想はあるから、技術を付ける。

人間が生きていくにあたって、思想を持つことは重要だ。しかし思想だけでは物事は動かない。具体的な技術を身に付けることが必要である。

世界の多くの人は、世界が平和になることを望んでいる。それも一種の思想と言える。しかし思っているだけでは世の中は動かない。一人一人がアクションを起こすことが求められるのである。確かに市民一人のアクションの割合は、全世界人口から考えれば小さいかもしれない。しかし民主主義社会では選挙というアクションを通じて市民が意思表示をすることができる。大きな波も小さな部分から成り立っていることを忘れてはならない。

もちろん、首相や大統領には大きな権力がある。だからこそそれらの人物には、思想だけではなく強く巧みな技術で世の中を動かすことが求められる。

かのアインシュタインが相対性理論を発見した時に、ある哲学者は「自分は相対主義者だから、自分に数学的知識があれば自分が相対性理論を発見したであろう」と言ったという。しかしその哲学者は何も生み出していない。相対主義者などということは相対論を生み出す思想でも何でもないが、百歩譲ってそれが思想だと認めるとしても、肝心な技術(数学)が全くなかったわけである。科学を含め、物事を生み出すには思想と技術は双璧なのである。

僕は今、数理物理の研究において成し遂げようとしていることがある。それに対してのフレームワーク(思想から導き出される物理学的骨格)はほぼ明確に出来上がっている。そのフレームワークに肉付けするための技術(数学)を埋めていかなければならない。自然(科学)を理解するためにも思想と技術は重要なのである。

もし自分に思想があるというのならば技術を身に付けなければならないし、逆に技術があるのならば思想という大局観を身に付けなければならない。そして思想という大局観と具体的技術の双方を極めた時、目標とする構築物を完成させることができる。

八百万の神。

欧米と日本の宗教観の決定的な違いは、一神教か八百万(やおろず)の神かということだろう。欧米ではキリスト教ならキリストが唯一の神であり、その他の神が存在することを許さない。イスラム教もアラーが唯一の神である。しかし日本にはあらゆる神があらゆるところに存在する。例えば山に神が存在したり、木に神が宿っていたりする。あるいは今僕が使っている椅子や机にも神が宿っているのかもしれない。

これらの宗教観はあらゆるところに反映されている。それはサイエンスだって例外ではない。

ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えて宗教裁判にかけられたという話は有名だ。そのような宗教観の下、それを覆すような斬新な科学理論を唱えるのには知能だけではなく強い覚悟もいる。そのような覚悟を持ちサイエンスを進化させたガリレイやニュートンには敬服の念を抱く。しかしそのような抑制下において強い信念の下に研究を進めたからこそ、革命的な科学理論を唱えることができたのかもしれない。

それに比べて、八百万の神の国の日本ではサイエンスに対する抑制は軽いように思われる。だからこそ欧米の進歩したサイエンスを何の疑いもなく受け入れ、崇めたのかもしれない。しかし何の批判もなく科学の新論を崇めることは危険に思える。どうやら日本には、欧米のような批判の文化は根付いていないようだ。欧米哲学、特にドイツ哲学を見れば、その基盤は全て批判することにあることがわかる。

近年では日本ではiPS細胞が大きな話題となっている。もちろんそれは悪いことではないし、山中伸弥教授が発見した日本発の技術を盛り上げることは、日本にとって意味のあることである。しかしサイエンスでは流行から流行は生まれないと僕は思っている。流行に乗っている限り、次の世代の流行を生み出せない。すなわち、現在の流行に乗ることではなく、次の世代の流行を作ることが重要である。そのためにはいかにして本質を見抜くかということが重要である。

話しは初めに戻るが、一神教の欧米ではなく、八百万の神の日本だからできるサイエンスがあるはずだ。例えばiPS細胞やES細胞など多能性幹細胞の研究では倫理観が強い影響を与える。そして自然界の最も基礎的な理解を与える素粒子論などの基礎物理学もそうである。これから日本がサイエンスの研究において突き抜けることができる事があるとすれば、そのような思想が強く影響するところではないかと強く感じる。

手段を選ぶ?選ばない?

目的の事を達成するためには、手段を選ばないという人は多いかもしれない。もちろん、最終目標が定まっていれば手段を選ばないというのは正しいことかもしれないが、僕はかなり手段を選んでしまう。

ゴール地点にたどり着くことは非常に重要だが、そこまでどのような道をたどって行ったかということも非常に重要な要素だと考えている。ゴールまでどのような道をたどって行ったかということには、その人の人柄や人間性が現れる。お金を稼ぐことは非常に重要だが、どのように稼いだかということにもこだわりたいところである。

どのような道筋をたどったかということは、どのような人生を送ったかということとニアリーイコールだと考えている。もちろん世間は最終的なゴール地点ばかりに目が行きがちであるが、それまでの道筋こそがその人のオリジナリティーの発揮される場所である。

数学や物理の研究においては、逆に手段を選ぶ人は多い。代数が専門だから代数的な手法にこだわるというようなことだ。しかし問題を解決するに当たっては、本来手段を選ばずにやるべきだと思う。その方が学問の大きさが圧倒的に広がる。

ポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマン博士は、本来トポロジー(位相幾何学)の問題だと思われていたポアンカレ予想を微分幾何学の手法で解決した。このような姿勢はどの分野に取り組む人も学ぶべきことだと思う。

道筋をこだわる所ではこだわって、こだわらないところでは雑食的に何でも学び使ってみるという使い分けを上手く行い、人生を豊かにしていくことが必要ではないだろうか?

学問の自由。

僕は最近、自由という言葉にこだわっている。まずは徹底的に自由になることが大事だと考えているからだ。

自由には大きく二つあると考えている。一つは行動の自由。そしてもう一つは精神の自由だ。行動の自由については非常に分かりやすい。一方、精神の自由とは非常に分かりにくいかもしれない。なぜなら精神の自由は外から見えるものではないし、明確に言葉にできるものでもないからだ。

しかし学問をするに当たって、精神が自由であることは非常に重要である。特に非常に自由な学問である数学をするにあたっては、精神が自由であることは必須であると言える。精神が凝り固まっている人間には数学をすることはできないし、物理学においても重要な発見はできない。

もちろん、数学や物理学だけではない。哲学などの人文科学でもそうであろうし、学問の垣根を超える学際的な分野を発展させるのにも自由な発想は不可欠だ。

しかし現在の日本の教育システムは凝り固まっている。特にマークシートの穴埋めにより能力を区別する現在のシステムはその最たるものだ。もちろん、30年くらい前と比べると現在のシステムは良くなっているところはあるかもしれない。しかし現在の教育システムは、人間の才能、意欲、行動力、発想力を正確に評価できていない。

日本は何人ものノーベル賞学者を輩出してきた。しかしその多くは日本の教育システムにノーを突きつけた人だ。ノーを突きつけた時は異端者と排除し、実績を出せばそれが最初に評価されるのは海外であり、そのあとにそれは日本の実績だと言い出す。あまりにも都合が良すぎるのではないか?

日本の教育システムの致命的な部分は、自由がないということだ。日本の教育の中で独創性を発揮できるところがあまりにも少なすぎる。しかも、自由や独創性を養うと謳っているところも、現実はシステム化され凝り固まっている。

教育の中での自由もそうであるが、現在の世の中は行動の自由を次々と束縛していき、精神の自由までも脅かしているように思える。一見自由に見えるのは「檻の中の自由」である。

数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞は、1990年に森重文博士が受賞してから出ていない。その理由は簡単だ。フィールズ賞には40歳以下という年齢制限があるからだ。すなわち、年齢制限のないノーベル賞よりも早く社会システムの影響を受ける。

もちろん、4年に一回開かれる今年の国際数学者会議で、日本人数学者がフィールズ賞を受賞するかもしれない。しかし受賞者が出たからと言って手放しで喜んでいいとは思わない。これからの日本の科学界に対する僕の展望は決して明るくないし、僕に限らず多くの日本人研究者がそう思っているものだと思われる。

科学とは原理の事だ!

科学という言葉を履き違えている人が多い。科学とは結果ではなくて原理の事だ。

例えば、エジソンは蓄音機を発明したが、蓄音機から音が出てくることが科学ではなくて、蓄音機から音が出てくる原理が科学なのである。発光ダイオードが光って照らされることが科学ではなく、発光ダイオードから光が出てくる原理が科学なのである。

現代社会は科学によって成り立っているとはよく言うが、社会におけるシステムや機器は科学から導き出される結果であって、科学そのものではない。何か科学的現象を体験するだけで科学に触れたと勘違いする人がいるが、原理にまで踏み込んで初めて科学なのである。

現代においてはほぼすべての事がブラックボックス化され、科学的側面が覆い隠されている。従って科学技術によって発展してきた社会が、皮肉にも人々を科学から遠ざけてしまうことになっている。こんな現代社会だからこそ、シンプルでも原理が見えるものに踏み込んでみることが必要なのではないか。少なくとも最先端技術に対して原理に踏み込むことは容易ではない。

この様な事を考えると、現象がどのような原理に基づいて成り立っているのか、ますます見えづらくなってくる。

草書のような理論。

書道には楷書と草書が存在する。楷書とは律義でしっかりと書かれた書体で、草書とは流れるように書き崩した書体と言える。僕のような書道の素養のない者にとっては楷書の方が分かりやすいが、書道のプロは草書を流暢に書き上げる。

ところで物理理論や数学理論は厳密にしっかりと構成されているので、書道で言うと完全に楷書の世界のように思える。しかし物理理論や数学理論にも草書のような世界があるのではないかと感じるところがある。しかしそれがどのようなものか、明確には出すことができない。

しかし一つの見解として、楷書は論理そのものであり、草書は論理の中にある感覚ではないかと思う。物理学者や数学者は、数式や理論を見ただけで数式を計算して解かなくてもある程度の世界が見えてくる。数式を眺めるだけで相互作用がどのように働いているかということが視覚的に見てとれる。そのような感覚が草書ではないかと思う。

書道のプロは、草書を流暢に書くことができるが、基本である楷書を書いても一流である。物理学者も楷書をしっかりと書くことは基礎として当たり前にできるが、いかに科学における草書を流暢に書き科学的世界観を表現できるかということが一流の成すべきことではないだろうか。

専門外の事から、スキルを修得する。

物事は意外と一見関係のないようなところから結びつくものである。それは勉強や研究であったり、人付き合いであったり、あるいはITスキルであったりする。

普段の生活において、専門の事だけをして過ごせるということはまずありえない。したがって多くの専門外の事、あるいは雑用をすることになる。しかしそのような雑用の中に意外なヒントが隠されている。またそのような専門外の事を学ぶことによって、人間の広がりというものが生まれてくる。

ノーベル賞物理学者の南部陽一郎氏は、ノーベル賞受賞の対象となった自発的対称性の破れの理論を、超電導理論(BCS理論)から導いたという。もちろん南部氏は超電導理論の専門家ではなく素粒子論の専門家である。

近年、数学と物理の垣根がきわめて低くなってきた。数学者は物理理論からヒントを得て、物理学者は数学者が顔負けするくらい高度な数学を駆使する。数学と物理学の双方にまたがる数理物理学という区分も、かなりメジャーになってきている。

視野を広げることが大事なのは万人が認めることだが、なぜ視野を広げることが大事かと聞かれるとそれに答えられない人も多いのではないだろうか?しかしその答えは考えて導かれるものではなく、実践して導かれることであることを忘れてはならない。