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知の爆発。

芸術家の岡本太郎が「芸術は爆発だ!」と言ったことは有名だ。僕には芸術がどう爆発するのか理解できないが、一流芸術家の岡本太郎がそう叫んだのなら、そういうこともあるのだろう。

芸術とは違うが、知も爆発する。それは個人レベルでもそうだし、社会レベルでもそうだ。しかし何もないところに知が爆発することはない。爆発するまでに知の蓄積が脈々と受け継がれて積み重なった所にしか知の爆発は起きない。だから何か爆発的な結果を出すためには地道に努力するしかないし、社会においても知を寛容に受け入れないと知の爆発は起きない。

物理学における知の爆発と言えば、誰もが20世紀初めの量子論・相対論革命を思い出すだろう。しかし量子論も相対論も、何もない所に降って湧いた訳ではない。それらが誕生するための基盤が着々と固められていたのである。そこにハイゼンベルグだとかシュレーディンガー、そしてアインシュタインがとどめを刺したということだ。

知の爆発はそんなに頻繁に起こる訳ではない。しかし常に知の爆発を起こすための努力はし続けるべきである。そしてそのためには、山中伸弥教授の言うVW(ビジョン&ハードワーク)が必要なのは言うまでもない、努力は必要だが、それだけでは生まれない。ビジョンが必要不可欠なのだ。日本人はハードワークは得意だがビジョンがないと言われ続けてきた。そして今ではそのハードワークまでもが失われつつある。そのような時代なのだと言われればそれまでであるが、個人が自分の立てた目標を成し遂げようとするときにはハードワークは必要だ。もちろんハードワークをしない自由もある。それはすべて自己責任と言える。

知の爆発を起こすべく、個人も社会もVWを掲げたいところだが、片一方が出来る人はそれなりにいても両方が出来る人はそうはいないのかもしれない。山中教授はiPS細胞という知の爆発を起こすことに成功した。そして生命科学の分野ではゲノム編集などの知の爆発が立て続けに起きている。他分野の人間はそれらを指をくわえて見るのではなく、周りの人に指をくわえさせるような知の爆発を起こさなければならない。

哲学無き学問は総じて軽い。

あけましておめでとうございます。新年の挨拶は軽くこれくらいにして、2019年一本目のブログ記事に入ろうと思う。

物事に取り組んでいる人は、大きく二つに分けられる。哲学を持って取り組んでいる人と、哲学無き人。哲学を学問として取り組んでいる人以外は哲学などは無用だと思っている人も多いが、哲学を持って取り組むことは非常に意味のある重要な事である。哲学無き学問は総じて軽いし、学問以外でも哲学のない物事は中身が詰まっていない張りぼてである事が多い。哲学を持って取り組んでいるかどうかによって、出来上がるものが天と地ほど違ってくる。

数学や物理の研究においても、哲学を持って取り組むことは重要だ。哲学がなければ数学は単なる計算に過ぎない。単なる計算ならコンピューターにやらせておけばよい。哲学的な部分があるからこそ人間がやる意義があるのである。数学は誰がやっても同じ結果にたどり着くと思っている人がいるが、それは全く違う。哲学の違いによって右にも左にも行き得るのだ。そこが数学研究の本質である。

ではそもそも哲学とは何か?この答えは一つではないし、答えるのは非常に難しい。ただ一つ確実に言えることは、哲学は人間だけが持ち得るものだと言うことだ。そういう意味で、哲学は人間らしさであると言える。「いかにして生きるべきか?」という問いを突き詰めていけば、自然に哲学へとたどり着く。それと同様に、「いかにして数学の本質を追究していくか?」ということを突き詰めれば、数学的な哲学を構築する必要性に迫られるはずだ。真剣に学問を追究すれば、哲学は自然と出来上がってくるものである。

もし今取り組んでいることに対して深く理解したいとか、本質を突きたいと思えば、一度立ち止まってそのことに対する哲学を立てる必要がある。そして哲学を立てることが出来れば、物事と哲学が相互作用を始め、有機的な構築が出来るはずだ。

文献の把握。

現在、取り組んでいるテーマに関しての文献を収集している。中には絶版になっている書物も多く、自然科学書専門古本書店に注文することも多い。先ほど、僕の研究において最も重要な書物を調べると、どうやら最近絶版になったようだが、ジュンク堂の在庫をネットで調べるとわずかに残っていたので、急きょ取り寄せの手続きをした。この書物は実は手元にあるのだが、かなり使い込んでボロボロになっており、さらに紛失すると大変な事になるので、予備として購入することにした。

学問をするにおいて、文献の把握は最も重要だ。実験系の科学だと言うまでもなく実験が最も重要だが、文献の把握はその次に重要だと言える。さらに理論系の学問においては言うまでもない。

論文や専門書を見る時、初めにリファレンス(引用文献や参考文献)をチェックすることが多い。リファレンスの一覧を見てその論文はどのような内容なのかをある程度把握できるし、リファレンスからリファレンスへとたどって行くこともよくある。特にその研究に関するオリジナルな文献に当たることは最も重要な作業である。

学問の研究をしていると、手元には膨大な文献が蓄積されていく。他の人が見たらどこに何の書物が置いているか全くわからないのではと思われるかもしれないが、研究者自身は数百冊ある専門書や論文などの文献の在り処は全て把握しており、瞬時に目当ての文献を手にすることが出来る。どの書物がどこに置いているかわからないというようでは全く話にならない。

研究者の中には書物をほとんど所有せずオリジナリティーの高い研究を行う人もいる。そのような人は相当独創的な人なのだろう。僕にはそのような真似は絶対にできないし、そのような研究者は非常に尊敬している。昔読んだ本に、大数学者である岩澤健吉博士に関する記事が載っていたが、その記事によると岩澤博士の本棚には数冊の書物しかなかったという。まさに驚異的である。

学問を研究するに当たって、研究スタイルは人それぞれだと思う。しかし岩澤博士のような驚異的な例外を除いては文献収集は必要不可欠な作業だ。目当ての文献を入手できるかどうかが結果に直結してくる。まさに「文献を制する者は、研究を制す」と言ってもいいだろう。文献を入手するための金銭と労力は絶対に惜しむべきではない。

自動車技術の飛躍から、近年の科学技術の発展に関して想う。

最近発売された、新型レクサスESのクラッシュテストの動画を観た。近年の自動車の安全対策には目を見張るものがある。レクサスESのクラッシュ動画には正面衝突、側面衝突など様々な事案が想定されているが、衝突部分は壊れても損壊部分がクッションとなり室内はほとんど無傷である。そのような安全設計になっていることは話には聞いていたが、その安全度は想像以上である。

近年の自動車に関するもう一つの大きな話題は自動運転であろう。テレビを観ていると、自動運転のレベル3において運転手がスマホを操作することも読書することも容認されるというニュースが流れていた。レベル3とはレベル0からレベル5まで6段階ある上から三つ目のレベルであり、2020年の実用化を目指しているという。ただレベル3では緊急時には運転手が運転を変われる状態である必要があり、したがって飲酒や睡眠はできない。

自動車の安全対策と自動運転は切っても切れない関係がある。現在の安全技術の最先端である衝突回避などはそのまま自動運転にも応用できるものであり、安全対策と自動運転は近年の自動車技術開発の両輪である。それに最近は電気自動車の開発が加わる。この三つの自動車技術は未来に向けた研究開発から実用化へと移ってきている。このような急速な自動車技術発展は僕を含む多くの人にとっては予測不可能であったことであり、自動車関係者にとってもここまで急速な発展はおそらく想像できなかったのではないだろうか。

この様な急速な発展を実現できたのは、AIなどのITの急速な発展に起因する。ITの急速な発展も多くの人にとっては予想が出来なかったことであり、それぞれの急速な発展が相乗効果で互いに発展し合うという様相だ。

20年くらい前までは未来の技術に対しての予想はある程度可能であり、大まかにはそのように発展してきたように思う。しかし近年のITの発展は未来を予想することを困難にしているように思う。それほどITの影響は絶大なものになってきている。その一方、IT以外の技術はそこまで急速には発展していないように思う。あるいは大きく発展している場合は何らかのITとの融合によって起きている。

IT以外では、近年は生命科学の発展が大きい。その代表例は、遺伝子編集を行うクリスパー・キャス9技術であろう。遺伝子編集も人類の歴史を変える驚がく的な技術である。近年はそのような華々しい技術分野に目が行きがちであるが、それらの基礎となっているのは数学や物理という歴史のある科学分野であり、そのような基礎分野の地道な発展も見逃してはならない。

新しい学問。

近年、プログラミング教育が徐々に盛んになり、小学校でもプログラミングが授業に取り入れられると聞いた。プログラミングはまだ教科とはなっていないようだが、17世紀にニュートンによって物理学が新しい学問として確立されたように、21世紀の今、プログラミングも一つの学問として成立するのではないかと感じている。

僕自身はそんなにたいしてプログラミングが出来るわけではないが、現代においてプログラミングを知らないと言うことは、日常生活で数学を使わないから数学は必要ないとか海外に行かないから英語が必要ないと言っているのと同じことではないかと感じている。

僕が大学院時代に所属していた学科は数学系の学科だったが、同期にプログラミングを研究していた友人がいた。その友人は国立情報学研究所でも講師をしていたようだが、大学院時代の僕はプログラミングの素養がほとんどなかったので、プログラミングに興味を持つことはなかった。しかし今考えると、そのようなプログラミングを専門としている友人が身近にいたことを活用できたのではないかと悔やんでいる。

プログラミングが一つの学問として成立するためにはこれからより洗練にかつ構築的に構成して行かなければならないとは思うが、プログラミングの学問としての成立前夜の今だからこそ、かなりチャレンジングなテーマが至る所に転がっているのではないかと強く感じている。

数学は文明の根幹か?道楽か?

数学に対する認識ほど、人によって大きく異なるものはない。数学の本質は科学の根幹であり、文明の根幹であるということだ。確かに最先端の数学がどのように社会の役に立っているかということは分かりにくい。しかし現代社会は応用科学抜きでは語ることはできず、応用科学は基礎科学抜きでは語れない。そしてそれらの基礎科学は数学抜きでは語れない。従って数学は現代文明の最も根幹に位置するところにあり、人間の文明レベルは基礎科学、そして数学に対する認識に由来するものであると言っても過言ではない。

しかしその一方、数学や基礎科学に対する研究を「道楽だ」と言い放つ人もそれなりにいる。日本においてそのような風潮が顕著に表れているのか?それとも世界的にそのような風潮なのか?どちらにしても日本においてそのような風潮があることは事実である。

日本におけるそのような風潮は、江戸時代にまでさかのぼることができる。江戸時代の日本の数学である和算は、世界的に見てもかなりレベルの高いものであった。しかし和算は世界の主流になることはなかった。その理由はいくつかある。一番大きな理由は、和算が個別の特殊性を帯び、体系的に構築されることがなかったということである。それに対してヨーロッパの数学は非常に体系的に構築され、高い継続性を帯びていた。和算の体系性のなさの多くは日本の和算家に責任があるのかもしれない。

しかし和算の継続性のなさにはもう一つの理由があると僕は考えている。それは日本市民が和算や数学に対して役に立つもの、あるいは意義のあるものだという認識に乏しく、大きく社会や産業界に広がっていかなかったからではないのかと考えている。もちろんそのような数学に対する認識は、ヨーロッパにおいても大きく言えることなのかもしれない。しかしそれが社会の中で体系的に共有されることはなかったのではないだろうか?そのような認識が日本の中で(あるいはヨーロッパでも?)数学に対して道楽という位置づけをするということに結び付いたのではないだろうか?

数学が文明の中でどのように共有されているかということを、明白に捉えることは非常に難しい。数学を専門に扱っている数学者でさえ、数学の文明の中での位置づけを明確に主張できる人は多くないのではないかと思う。しかし古くはギリシャ時代から、数学が文明の根幹を担っていたということは紛れもない事実である。数学に対する認識一つで文明のあり方が大きく変わってくるのではないだろうか?

世の中から科学に対する関心・感動がなくなってきている。

十年くらい前からだろうか。世の中から科学に対する関心・感動がなくなってきているように思える。なぜ十年前か?十年前というとちょうどスマホが世の中に出た頃だ。スマホに対する技術は凄い。そして現在もスマホに対する技術は年々向上している。しかしそのような新しい技術を凄いと感じたことはあるだろうか?ほとんどの人は「また新しい便利な機能が追加されたな」というくらいにしか思っていないと思う。

なぜ、世の中は科学に対する関心・感動を無くしたのか?それは現在の科学技術のほとんどがブラックボックス化されているからだ。技術の原理を知ろうにも、理解できるものではない。専門家でも畑が違えば理解することが困難だ。そういう意味で、スマホの科学に対する功罪は共に大きい。

一昔前までは、新しい技術が出れば「よくこんなものが出来たな」と感心したものだ。しかし現在は新しい技術が出来るのは当たり前となり、何の感動も覚えない。幼児でもスマホのスクリーンをタッチし、何の疑いも持たずにスクリーン上のキャラクターを操作している。

世の中の多くの人は、現在の科学技術の原理を微塵も知ろうとしない。スマホのように利用できて便利ならそれでいいのだ。科学の原理なんてどうだっていい。そう思っているのではないだろうか?

皮肉なことに、新しい技術が世の中に出る度に、世の中の人は科学技術に対して無関心になっていく。厳密に言うと二極化しているということだろうか?科学に大きく関心がある人、そして科学に全く関心のない人。この二極化は日を追うごとに顕著になってきている。

科学に無関心な人ほど、科学で何でもできると思っている。しかしそんなことは断じてないのだ。科学にできないことは山ほどある。科学を理解するとは、科学には何ができないかを理解することだ。コンピューターにできないことも山ほどある。まずは科学の限界と現在地を明確に理解し、ブラックボックスを覆う布を一枚でも多く剥いでいかなければならない。

根っこと先端の両方から攻めて行く。

学問というものは、基礎の積み重ねが大事である。従って学問の知恵というものは一朝一夕では築き上げることはできない。しかし、下からの積み重ねばかりではいつまで経っても最先端の現場にはたどり着けないこともある。そのような時はいきなり先端に飛び出るのも一つの手である。

とは言え、先端に出るためにはある程度の積み重ねが必要であることは言うまでもない。いきなり初心者がプロの中に入り込むことはできない。なので、先端に出るという手はセミプロ以上のレベルになって使える手であると言える。

以上は主に学問に対する話であるが、社会では初めて行うことにおいてもいきなり現場に飛び出ることが要求されることがある。また、「思ったら、考えたら、即実行」という精神が多くの場合大きな成功を生むことになる。そういう意味で、いきなり最前線に飛び出るということは非常に重要である。

学問の話に戻るが、近年のネットの発達によって、最前線の知識を得ることは容易になった。素人でも最新の論文を入手できる。数学や物理においては、最新の論文がarXivというサイトで全て公開されている。数学者や物理学者は論文雑誌に投稿する前にまずarXivにアップすることが通例になっている。時にはポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマンの論文のように、論文雑誌には投稿せずにarXivだけにアップするということもある。arXivは誰でも家庭のパソコンですぐに見れる。非常に便利な世の中である。

基本的文献で根っこから攻め、arXivで先端を攻める。数学や物理ではこのような攻略法が行われているが、このような双方からの攻めはあらゆる分野に適用できることだろう。

重要な古典的論文を読む。

研究者の多くは、最新の論文をチェックすることに労力をかけている。もちろん最先端の研究を推し進めるには、最先端の論文から新しい知識を得て、その先を築いていかなければならない。しかしそれは、枝葉の継ぎ足しであって、根幹となる部分の改革にはほとんどつながらないことが多い。

基礎を書き換えるためにはどうすればいいか?そのためには最新の論文ばかりに注目するのではなく、重要な古典的論文を読むことが必要になる。また、少し離れた分野の古典的論文を読むことも時には大きな力になる。最新の論文と重要な古典的論文をバランスよく修得することが必要だ。

僕は最近、重要な古典的論文を読むことを重視している。20世紀には様々な重要な論文が出されてきた。そのような革命的論文を一つ一つ習得していくのは非常に面白い。しかし忘れてはいけないのは、ただ習得するだけではなく次への研究へと生かさなければならない。

僕は最近、全く専門外の論文も読み始めた。例えば、山中伸弥教授のiPS細胞関連の論文などは非常に面白い。ただ専門外の論文には、わからない専門用語が多数出てきたり、その分野での英語の言い回しが分かり辛かったるする。しかしそのような困難も読み続けて行けばわかるようになるのだろう。専門外の人間が生物の実験をするなどということは全く持って無理だ。だからiPS細胞の論文を読むことは趣味の域を全く出ないのが悔しいが、その分数学や物理の専門の分野で力を発揮すればよい。

大型書店に行けば、日本語で書かれた専門書が多数置いてある。さらにAmazonを使えば、洋書も自由に手に入る。論文もネットで入手できるものが多い。そういう意味では、知識を修得するには非常に自由な時代になってきている。多くの知識を習得し、そこから自分の頭を使うことによって“知恵”へと昇華させることができれば、目的のものを構築して行く助けになるに違いない。

広中平祐の“電話帳”。

広中平祐とは、1970年にフィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)を受賞した日本の大数学者だ。広中博士の専門は代数幾何学。その広中博士のフィールズ賞受賞対象となった論文は特異点解消の大論文と言われているが、あまりにも分厚いので通称“電話帳”と呼ばれている。

僕は最近、過去の重要論文を読むことも大事だと考えているので、広中博士の特異点解消の大論文も僕の専門外ではあるが一読してみようと思い、プリントアウトした。やはり電話帳と言われているだけあって、一つの論文としては異例の200ページ越えだ!広中博士の論文は専門家にとっても難解だと言われておりどこまで僕が読み切れるかわからないが、挑戦してみようと思う。ちょうど代数幾何をマスターしたいと思っていたところなので、広中博士の論文を理解することを目指すことはちょうど良い目標になる。しかし何年かかるだろうか・・・。

広中博士の論文は大部であり、非常に重要な論文であるが、論文の良し悪しは量で決まるわけではない。たった数行の論文でも重要な論文はある。例えば今僕の手元にある「ワード・高橋恒等式」が書かれたワード博士の論文は、たった半ページだ。しかし重要な論文であることには間違いない。近年は内容よりも書いた論文の本数で評価されるきらいがあるが、僕は重要な論文が一本ある方がはるかに価値があると思う。大数学者、岡潔は、生涯で数本しか論文を書かなかったと言われているが、岡に対する評価は絶大だ。

専門の論文を読むことは普通であるが、専門外の重要論文を読むことによって得られる知見を大切にすることも非常に重要である。そのような重要論文を手当たり次第に読むことができればよいが、僕の英語力のなさもあってなかなかそうもいかない。ましてやフランス語で書かれた論文となれば、もうお手上げ状態だ。(数学の昔の論文は、フランス語で書かれたものが多々ある。)しかし論文が論文を呼ぶように、着実に手を広げていければと思っている。

生命の誕生は偶然か?必然か?

宇宙のある領域に生命が誕生する確率は何%なのか?この問いは地球上に住んでいる人間には難問である。なぜなら、少なくとも地球上には生命が100%存在しており、さらに知的生命体(人間)さえも100%存在している現実を毎日見せられている我々は、どうしてもこの確率を高く見積もってしまう。逆に地球上に存在する生命の現実を知らされていなければ、生命の存在、さらには知的生命体がその領域に誕生する確率は確実に0%と断定するだろう。しかし地球上に生命体、そして人類が存在する事実から、0%とは断言できない。

もし地球と同じ環境の惑星が存在すれば、そこには生命が誕生するであろうか?この答えは三種類ある。一つは100%、二つ目は0%、三つ目はその中間。この答えを出すために実験を行うことは不可能なので、人それぞれ言いたい放題である。しかしこのことの考察は、生命誕生のメカニズムを探るサイエンスにおいて非常に重要な問題である。近年は実験室で原始生命体を作ることに成功したとかいう話も聞くが、実験室と自然環境では設定に大きな隔たりがあり、実験室の結果をそのまま地球型惑星に拡張することはできない。

宇宙のある領域に生命、さらには知的生命体が誕生するかという問いは、「猿はタイプライターでシェイクスピアを打つことができるか?」という問いに似ていると僕は感じる。もし時間が無限にあれば、猿はいつかはシェイクスピアを打つことはできるであろう。しかし時間や宇宙空間は有限である。従って猿はシェイクスピアを打てる確率は限りなく0%に近い。生命誕生の問題も、時間や宇宙空間が無限であれば無限に生命体が誕生する。しかし時間や宇宙空間は有限である。さらにはこの問題の設定に「宇宙の“ある領域”」という制限まで付け加えた。この制限を設定に付け加えた理由は、地球上の知的生命体である人間が地球外生命体と接することが可能であるケースを想定するためである。

とは言え、地球上に生命体が誕生したことは奇跡であることは間違いない。さらには知的生命体である人間が誕生したことは、さらにそれとは比べ物にならないくらいの奇跡である。しかし、現在の人間が進もうとしている道はおかしくなってきていると僕は非常に危惧している。明らかにここ数年で人間の進化のパラダイムは大きな変化を遂げている。この変化が正常進化か?それとも異常への始まりか?このような事を危惧するのは僕が旧人類であるからだろうか?100年後の未来を開拓していく新人類の正常進化に大いに期待している。

視点の遠近法。

物事を解決するためには二つの視点が大事だ。一つは視点を近づけて物事を拡大してみる方法。もう一つは視点を引いて物事の大局的構造を見渡す方法だ。

物事を解析する時に、多くの人は視点を近づけて見ようとしがちだ。もちろんその方法も非常に有効であり、物事を拡大することによって細部が明らかになり、より詳細な解析が可能になる。しかしそれと同時に視点を遠ざけて全体を見渡すことの重要性を忘れてはならない。

多くの数学分野では、専門をより細分化し詳細な計算を実行するということが行われている。もちろんそのことによって多くの未知の事柄が明らかになり、研究が進むことであろう。しかし新しい分野というのは多くの場合、大局的に物事を捉える事から生まれる。もちろん詳細な計算はどの数学分野でも必須だが、大局的に捉えることなしに重要な結果はなかなか生まれない。

物事を捉えるときは、多くの場合複数の視点を持つことが重要になる。複数の視点を持つことによって物事の本質が立体的に浮かび上がる。三つ、四つの視点を持てればそれに越したことはないが、まずは遠近二つの視点を持つことを心がけなければならない。

物事を解析する目的は、何も数値をはじき出すことではない。数値を出すということは手段であり、最終的な目的は物事の本質を捉える事である。そこを勘違いすると永久に最終的な答えを出すことはできない。

構造論と反応論。

物事を考察する時には、構造的側面と反応的側面の両方を考えることが重要である。これは多くの学問にも言える。原子核物理は大きく構造論と反応論に分類することができ、経済学においても世の中の構造とその間で行われる動的な仕組みを知ることが必要である。構造論と反応論は、空間的軸で考えるか、時間軸で考えるかということだと言える。

構造論と反応論は多くの場合補完的である。もちろん最近は多くの事に関して細分化されており、巨大な対象の隅を突くような視野の狭い研究が多くの事に対して見られることに危惧を感じているが、ミクロの目とマクロの目の両方を上手く利用しながら本質を明らかにしていくことが必要である。

あらゆる研究において、多くの場合構造論が先行し、その後に反応論が続くという形態を取ることが多い。構造論は静的であり単純化しやすい。しかし反応論は動的であるがゆえにその反応をモデル化することは困難を極める。もちろんこの逆もあり、反応を解析することによって新たな構造が見えてくることもある。しかし繰り返すように、この二つは単純に分離できるものではなく、それぞれ補完的に、あるいは融合的に行うことによって物事の真の姿が見えてくる。

構造の解析からは物事の外見の本質を知ることができ、視覚的に非常に面白いものである。そして反応の解析からは物事の変化の様子を知ることができ、始点から始まる変化のすそ野がどのように広がっていくかという壮大な物語を知ることができる。そしてこの二つを融合することによって、初めて物事の全体像が見えてくるのである。

永遠の命は違った形で?

昔から(一部の?)人間は、永遠の命を求め続けてきた。僕自身は永遠の命には全く興味がなく、むしろ寿命があるからこそ生きていることに大きな価値があると思っている。しかしそれとは別に、永遠の命というものが実現可能か?という問題に関しては大きな興味がある。

余談だが、昔読んだ手塚治虫の漫画「火の鳥」では、火の鳥の生血を飲むと永遠の命が手に入ると伝えられ、人々が火の鳥を追い求めるというストーリーが展開されている。そこで書かれている永遠の命を手に入れた人間の末路は悲惨で壮絶であった。もし本気で永遠の命を手に入れたいと思っている人がいるのならば、火の鳥を一読してもらいたいと思う。

永遠の命とは程遠いが、寿命を延ばすことに関しては人類は大きな成果を挙げてきた。そして2018年度のノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑博士らが開発したオプジーボは、一部の(全部ではないと強調されている)ガンを征服することに成功し、その延長戦上にガンの征服が見えてくるのかもしれない。しかし例え人間がガンを征服したとしても、それは病気の一つ(しかし最も大きな病気である)を征服したに過ぎず、永遠の命を人類が手に入れたとは全く言うことができない。

これまでは、仮に永遠の命を手に入れることがあるとすれば、それは医学の進歩の延長線上にあると考えられてきた。(もちろん僕はそのようなことは不可能ではないかと考えているが。)しかし近年の(ITを含む)科学技術の発展により、違う形で永遠の命というものが実現されるのではないかと思い始めた。そのきっかけは、一冊の本「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)を読んだことだ。この本では、人間の意識を機械に移植するということが究極の目標だと書かれている。そして著者の渡辺博士はそのための基礎研究として「意識とは何か?」ということを科学的に研究されている。渡辺博士の研究は単なる思い付きによるものではなく、細胞レベルからマクロの人間レベルに至る地道な実験によるものである。

もし人間の意識を機械に移植できれば、人間は半永久的に生きることができると言えるのではないだろうか。現時点ではこのようなことが実現できるかどうかは不明である。しかし人間の脳は一種の自然コンピューターだと見なせ、人間が現実に存在するという事実からコンピューターを人間化することは原理的に可能であると言える。ただ、意識を科学的に解明するということはとてつもなく手ごわい問題であり、そのような基礎科学的問題の解明にどれだけ時間がかかるかもわからない。しかし科学的興味として、非常にエキサイティングな問題であることには間違いない。

永遠の命は医学ではなく、IT及びコンピューター技術(ともちろん生命科学)によりもたらされる可能性があるということを渡辺博士の著書では示唆されている。そのようなこれまでの常識を180度ひっくり返すような未来が来るのかどうか?興味があるが、それまで現在生きている人間が生きているのかどうかは分からない。

ノーベル賞から一般人が学ぶべきこと。

先日は本庶佑教授のノーベル医学・生理学賞受賞で盛り上がったが、ノーベル賞を一夜騒ぎのお祭りで終わらせるのではなく、科学者でない一般人にとってもノーベル賞から学ぶべきこと、考えるべきことはいろいろある。

ノーベル賞から学ぶべき最も重要な事は、基礎科学は本来、役に立つかどうかで評価されるものではないということだ。確かに重要な科学的成果が人々の役に立つことは往々にしてある。しかし役に立つかどうかということは科学の一側面しか表していないのである。特にノーベル賞受賞対象となる基礎科学は、極論を言うと役に立つかどうかということとは全く関係ない。実際、2017年のノーベル物理学賞受賞対象となった重力波は、少なくとも現段階では全く役に立つめどは立っていない。しかしそれでも科学的価値は絶大なのである。

科学は役に立たないと意味がないと思っている人は、“科学”と“科学技術”を混同しているのではないか?科学技術は確かに役に立たないと意味がないのかもしれない。しかし科学の価値は、役に立つかどうかという所とは全く別次元の所にある。役に立つかどうかという物差しとは全く違う物差しが必要なのである。

以前僕のブログで、「役に立つ科学は、役に立たない科学から生まれる」ということを書いた。これは僕が百歩譲って書いた論である。百歩譲って科学の価値を役に立つかどうかということに置いたとしても、役に立たない科学は重要だということである。

今週はノーベル賞の発表が続くノーベルウィークであるが、今一度、役に立つかどうかという尺度とは違った観点から科学を眺めてもらいたいと強く願う。

本庶佑教授、ノーベル医学・生理学賞受賞!

2018年のノーベル医学・生理学賞に、京都大学の本庶佑特別教授が受賞されることになった。心よりお祝いを申し上げたい。

本庶佑教授の名前だけは以前から知っていたが、今回の受賞報道で抗がん薬のオプジーボを開発された方と知って、そうだったのかと納得した。やはりノーベル医学・生理学賞を受賞される方々は、単に基礎研究として大きな成果である(これは最も重要だが)だけでなく、多くの人々の命を救う可能性を秘めているというところが、また非常に素晴らしいところである。このことは、iPS細胞の山中伸弥教授にも言えることではないだろうか。

本庶教授は会見で、「教科書を信じないことが大切だ」と言っておられた。これは非常に共感するところだ。学校では教科書は絶対だと教えられるが、そのような教育は権威や権力に従い盲目的になるというところへつながっていく。自分で何かを発見するためには、まずは過去の成果を疑うことから始まり、過去の成果を覆すことにより新たな成果となる。

特に医学へのつながりの強い生物学や、過去の史実が次々と否定される歴史学では、過去の常識が現在の非常識となることが多い。そして絶対的だと思われている物理学などの科学全般において、科学を盲目的に信じることは最も非科学的な行動だということを心に留めておかなければならない。

今週のいわゆる“ノーベルウィーク”はまだ続く。他の賞でも日本人研究者の受賞者は出るのだろうか?

科学を哲学する。

科学と哲学は、似ても似つかないものだと思っている人は多い。そもそも大学では科学は理系であり、哲学は文系となっている。しかしこのような理系と文系という区別をすること自体が明らかにおかしいのであって、そのような日本人のステレオタイプな見方は改めなければならないと強く感じている。

科学の中でも、理学系の基礎科学の人と、工学系の技術の人では、科学に対する捉え方が大きく違うように感じる。僕は、基礎科学と哲学は非常に共通するところが多いように感じている。実際僕は、科学と哲学を区別することはなく、科学も哲学であると思っている。ただ科学は対象が“自然”であるというそれだけの事である。哲学を追求することができなければ、自然を追求する科学はできない。

日本の哲学の中心地は、明らかに京都だ。西田幾多郎をはじめとする京都大学の京都学派の伝統は脈々と受け継がれている。京都には哲学の道と言われる通りもある。

哲学と双璧を成すように、基礎物理学の中心も京都である。言うまでもなく湯川秀樹からの伝統であるが、物理をやっている人にとって京都には一種の憧れがあるのかもしれない。また、京都大学には基礎物理学研究所というものもある。

京都という土地は、学問を醸成するにはよい環境なのだろうか?僕は京都に住んだことはないが、京都を訪れると何か独特の雰囲気を感じる。ただ訪れているだけなのに、京都学派の息づきを感じるのだ。

理系だとか文系だとか言って学問を強引に区別するのは明らかに間違っている。科学をするのに哲学的な思考が重要であるように、物事を大局的に捉えるためには分野の垣根を越えなければならない。近年は分野を細分化し、より専門家が進んでいるが、そのような流れは本来あるべき姿とは逆に流れているように強く感じる。

数理物理学とは?

僕のブログでもしばしば数理物理という名前を出しているが、そもそも数理物理学とはどのような学問なのか?ということを書いて見よう。

何を研究しているか?と聞かれた時、ほとんどの研究者は“分野”の名前を答えるだろう。例えば物理であれば「素粒子論」だとか、数学であれば「微分幾何学」だとか言うだろう。しかし「数理物理学」とは分野の名前ではないと僕は思っている。では何か?それは“手法”の名前である。

数理物理学とは「数学的理論と技術をフルに駆使して研究する物理」だ。だから同じ数理物理学研究者でも、全く違う分野を研究している人がいる。また物理寄りの数理物理学研究者がいれば、数学寄りの数理物理学研究者もいる。ただ確実に言えることは、数理物理を研究するためには数学と物理の知識を両方持ち合わせていなければならないということである。

数学と物理の両方が大好きな人にとっては、数理物理とは天国である。数学でも遊べるし、物理でも遊べる。また学際分野だとも言え、数学と物理の融合の仕方も千差万別である。この融合がまた面白い。

数理物理学の研究者で今世界で最も活躍していると言われている人は、プリンストン高等研究所のエドワード・ウィッテン教授である。ウィッテン教授は同じテーマでも数学と物理の両方の論文を書くことでも有名である。ウィッテン教授の代表作(これがまたたくさんある)の一つであるサイバーグ・ウィッテン理論の論文は、数学者と物理学者の双方に対して大きな影響を与えた。ただウィッテン教授の次の世代が台頭することが望まれるが、ウィッテン教授の勢いはまだまだ健在だ。

ウィッテン教授の研究は絶大なインパクトがあり、「流行を作り出す数理物理学者だ」と言える。しかし世の中の多くの学者は、流行に乗り合わせているというのが現状かも知れない。今多くの物理学者や数学者に対して求められているのは、流行に飛びつくことではなく、流行を作り出せる独創性を発揮することではないかと僕は強く感じている。

岩波講座。

岩波書店は日本で最も権威と歴史のある出版社だと言ってよい。もちろん規模の大きさで言えば、岩波書店よりも大きな出版社はあるが、岩波書店に対する信用は絶大である。

岩波書店と言えば、岩波文庫を想像する人は多いかもしれない。岩波文庫には過去の名著が目白押しである。何を読もうか迷った時には、書店で岩波文庫を眺めればいい。僕自身は、岩波文庫に並んでいる哲学書をよく眺め購入している。

その岩波文庫と並び、岩波を代表するのが「岩波講座」と言われるシリーズだ。岩波講座はいくつかの分野で出ている。さらに同じ分野でも時を経て新しい岩波講座が企画されることが多い。数学でも過去に数回岩波講座が出ている。僕自身も岩波講座の数学シリーズには非常にお世話になっている。研究者にとって岩波講座はなくてはならないものだと言っても過言ではないと思う。

歴史学においてももちろん岩波講座は出ている。その中でも日本史の岩波講座は歴史研究界において非常に重要な地位をせめているようだ。岩波講座が出版時の日本史研究のスタンダードと言ってもいいらしい。日本史を研究する者にとって、岩波講座を熟知することは研究者への第一歩なのかもしれない。歴史の一般書を読んでも、岩波講座が参考文献として引用されていることが多い。

もしこれから何らかの学問に打ち込もうと考えているのならば、まずは岩波講座を読むのが非常に良い。岩波講座は10冊以上(岩波講座・基礎数学は79冊である!)の本で構成されることが多く、全て集めるのは非常に大変だが、金銭的に無理がある場合は古本などで安くで購入するのも一つの手である。

学問の研究者にとって、岩波講座は信用のおける非常に重要な書物群となっている。

思想としての数学。

数学というものに対して、誤った認識を持っている人が多い。数学とは一見、ルールと論理に則ったガチガチの体系のように見える。しかし数学は論理だけでできるものではなく、数学者の思想、さらには性格までが反映する非常に人間的なものでもある。

例えば、ある定義から始めて数学的論理を構築していくと、全ての数学者が同じ結果にたどり着くかというと、全くそうではない。同じところから出発しても、違うところにたどり着くことは多々ある。右にも進み得るし、左にも進み得る。数学の多様性はそのように起こり得るのである。

数学者一人ひとり、数学というものに対してのスタンスは様々であるが、数学を一つの思想だと捉えている数学者も少なくないように思える。数学理論には数学者の思想が色濃く反映されているのである。そこが数学の面白い所であり、一筋縄ではいかないところでもある。

数学の歴史の原点とも言える古代ギリシャでは、数学は思想であり、宗教でもあった。ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、ギリシャ時代の新興宗教の教祖であったという話は有名である。数学とは無味乾燥な無機物ではなく、非常に人間的な有機物なのである。

とは言え、数学の非常に大きな特徴は“普遍性”である。地球上の人間が考え出した数学理論は、遠く離れた恒星シリウスの惑星に住む知的生物にも同様に発見されるであろう。もちろん数学にどのような思想を見出すかは様々であるが。

数学的思想は、数学研究を前進させる原動力である。思想無き数学は大抵取るに足らないものであることが多い。重要な数学理論の根底には、数学的思想が脈々と流れている。数学理論の豊かさを感じ取るためには、数学的思想を持つことが非常に重要なのである。

目には見えない自然則。

科学研究とは根本的には「自然則を見出す」ということに尽きる。自然則とは科学の根本的原理の事で、ニュートンの運動方程式や一般相対性理論のアインシュタイン方程式がこれに当たるだろう。さらに言えば、光速度不変の原理などはさらに根本的な自然則になる。

自然則の確固たる定義はない。なのでそれぞれの科学者がどこを土台に置くかによってそれは変わる。意識の科学研究においては客観的現象と主観的な意識の現象を結び付ける原理が自然則になる。

自然側は自然現象を高度に抽象化したものであるので、目には見えない。この「目には見えない」ものを見るのが科学者の腕の見せ所である。当たり前のことであるが、物体の運動が見えても、自然則が見えるわけではない。しかしそれを抽象的に抽出して数式として表現するのが科学者の仕事である。

科学研究においてはかなりセンスが問われる。ただ新しいことを発見すればそれでいいのか?もちろんそれも広義の意味での科学といえる。しかし現象を支配する原理を探究するのが科学というのならば、科学とは言えないことを研究している科学者は非常に多い。そんな科学界に一石を投じることができるような研究を行うことができるかどうか?科学者としてのセンスと力量が問われるところである。

脳は緻密で曖昧だ。

最近、「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)という本を読んだ。意識とはこれまで心理学などの非科学的分野の範疇を出なかったが、最近、意識とは何かということを科学的に定義し、科学的に解明するような研究が行われているようだ。

そもそも意識とはこれまで非常に捉えどころのないものであり、厳密に定義することさえ難しいものであった。しかし、まずは意識とは何かということを定義しなければ解析することもできない。そこに意識を科学することの難しさがある。

著者の渡辺博士は、意識の科学を「一人称の科学」と表現している。これまでの科学は、人間が自然を実験、観測するという意味で「三人称の科学」であった。しかし意識の科学に踏み込んで、科学者は初めて一人称の科学というものに遭遇した。意識を科学することの難しさは、この「一人称」であることに由来する。

僕はこれまで、実験科学というものに縁がなかった。数学や理論物理という理論系の科学にどっぷりと浸かってきた僕にとって、本書は科学実験の難しさを強く示唆するものであった。

この本にも書かれているように、人間の脳に電極などを差し込んで実験することには限界がある。というより、倫理的に無理な話である。そのような困難をどう掻い潜るかという挑戦が書かれているのも、この本の見どころである。

そして、意識というものを解明することは、近年のコンピューターの発展と連動するものである。人間の脳は一種のコンピューターともみなせるからだ。さらにこれからのコンピューター科学の発展において、脳の機能、意識の本質と無縁でいることはできない。

この本は非常に挑戦的で革命的な本である。著者の渡辺博士は、自身の意識を機械に移植することが夢だと書いている。そのようなコンピューターに対する前衛的な期待が、これらの意識研究を前進させる原動力になっているのかもしれない。

この著書は、最先端の科学を理解したいと思う人には非常にエキサイティングな本であるし、コンピューター科学技術に関わる人にとっても非常に得るものがある一冊となっている。

(科学に対する)思想はあるから、技術を付ける。

人間が生きていくにあたって、思想を持つことは重要だ。しかし思想だけでは物事は動かない。具体的な技術を身に付けることが必要である。

世界の多くの人は、世界が平和になることを望んでいる。それも一種の思想と言える。しかし思っているだけでは世の中は動かない。一人一人がアクションを起こすことが求められるのである。確かに市民一人のアクションの割合は、全世界人口から考えれば小さいかもしれない。しかし民主主義社会では選挙というアクションを通じて市民が意思表示をすることができる。大きな波も小さな部分から成り立っていることを忘れてはならない。

もちろん、首相や大統領には大きな権力がある。だからこそそれらの人物には、思想だけではなく強く巧みな技術で世の中を動かすことが求められる。

かのアインシュタインが相対性理論を発見した時に、ある哲学者は「自分は相対主義者だから、自分に数学的知識があれば自分が相対性理論を発見したであろう」と言ったという。しかしその哲学者は何も生み出していない。相対主義者などということは相対論を生み出す思想でも何でもないが、百歩譲ってそれが思想だと認めるとしても、肝心な技術(数学)が全くなかったわけである。科学を含め、物事を生み出すには思想と技術は双璧なのである。

僕は今、数理物理の研究において成し遂げようとしていることがある。それに対してのフレームワーク(思想から導き出される物理学的骨格)はほぼ明確に出来上がっている。そのフレームワークに肉付けするための技術(数学)を埋めていかなければならない。自然(科学)を理解するためにも思想と技術は重要なのである。

もし自分に思想があるというのならば技術を身に付けなければならないし、逆に技術があるのならば思想という大局観を身に付けなければならない。そして思想という大局観と具体的技術の双方を極めた時、目標とする構築物を完成させることができる。

八百万の神。

欧米と日本の宗教観の決定的な違いは、一神教か八百万(やおろず)の神かということだろう。欧米ではキリスト教ならキリストが唯一の神であり、その他の神が存在することを許さない。イスラム教もアラーが唯一の神である。しかし日本にはあらゆる神があらゆるところに存在する。例えば山に神が存在したり、木に神が宿っていたりする。あるいは今僕が使っている椅子や机にも神が宿っているのかもしれない。

これらの宗教観はあらゆるところに反映されている。それはサイエンスだって例外ではない。

ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えて宗教裁判にかけられたという話は有名だ。そのような宗教観の下、それを覆すような斬新な科学理論を唱えるのには知能だけではなく強い覚悟もいる。そのような覚悟を持ちサイエンスを進化させたガリレイやニュートンには敬服の念を抱く。しかしそのような抑制下において強い信念の下に研究を進めたからこそ、革命的な科学理論を唱えることができたのかもしれない。

それに比べて、八百万の神の国の日本ではサイエンスに対する抑制は軽いように思われる。だからこそ欧米の進歩したサイエンスを何の疑いもなく受け入れ、崇めたのかもしれない。しかし何の批判もなく科学の新論を崇めることは危険に思える。どうやら日本には、欧米のような批判の文化は根付いていないようだ。欧米哲学、特にドイツ哲学を見れば、その基盤は全て批判することにあることがわかる。

近年では日本ではiPS細胞が大きな話題となっている。もちろんそれは悪いことではないし、山中伸弥教授が発見した日本発の技術を盛り上げることは、日本にとって意味のあることである。しかしサイエンスでは流行から流行は生まれないと僕は思っている。流行に乗っている限り、次の世代の流行を生み出せない。すなわち、現在の流行に乗ることではなく、次の世代の流行を作ることが重要である。そのためにはいかにして本質を見抜くかということが重要である。

話しは初めに戻るが、一神教の欧米ではなく、八百万の神の日本だからできるサイエンスがあるはずだ。例えばiPS細胞やES細胞など多能性幹細胞の研究では倫理観が強い影響を与える。そして自然界の最も基礎的な理解を与える素粒子論などの基礎物理学もそうである。これから日本がサイエンスの研究において突き抜けることができる事があるとすれば、そのような思想が強く影響するところではないかと強く感じる。

手段を選ぶ?選ばない?

目的の事を達成するためには、手段を選ばないという人は多いかもしれない。もちろん、最終目標が定まっていれば手段を選ばないというのは正しいことかもしれないが、僕はかなり手段を選んでしまう。

ゴール地点にたどり着くことは非常に重要だが、そこまでどのような道をたどって行ったかということも非常に重要な要素だと考えている。ゴールまでどのような道をたどって行ったかということには、その人の人柄や人間性が現れる。お金を稼ぐことは非常に重要だが、どのように稼いだかということにもこだわりたいところである。

どのような道筋をたどったかということは、どのような人生を送ったかということとニアリーイコールだと考えている。もちろん世間は最終的なゴール地点ばかりに目が行きがちであるが、それまでの道筋こそがその人のオリジナリティーの発揮される場所である。

数学や物理の研究においては、逆に手段を選ぶ人は多い。代数が専門だから代数的な手法にこだわるというようなことだ。しかし問題を解決するに当たっては、本来手段を選ばずにやるべきだと思う。その方が学問の大きさが圧倒的に広がる。

ポアンカレ予想(幾何化予想)を解決したペレルマン博士は、本来トポロジー(位相幾何学)の問題だと思われていたポアンカレ予想を微分幾何学の手法で解決した。このような姿勢はどの分野に取り組む人も学ぶべきことだと思う。

道筋をこだわる所ではこだわって、こだわらないところでは雑食的に何でも学び使ってみるという使い分けを上手く行い、人生を豊かにしていくことが必要ではないだろうか?

学問の自由。

僕は最近、自由という言葉にこだわっている。まずは徹底的に自由になることが大事だと考えているからだ。

自由には大きく二つあると考えている。一つは行動の自由。そしてもう一つは精神の自由だ。行動の自由については非常に分かりやすい。一方、精神の自由とは非常に分かりにくいかもしれない。なぜなら精神の自由は外から見えるものではないし、明確に言葉にできるものでもないからだ。

しかし学問をするに当たって、精神が自由であることは非常に重要である。特に非常に自由な学問である数学をするにあたっては、精神が自由であることは必須であると言える。精神が凝り固まっている人間には数学をすることはできないし、物理学においても重要な発見はできない。

もちろん、数学や物理学だけではない。哲学などの人文科学でもそうであろうし、学問の垣根を超える学際的な分野を発展させるのにも自由な発想は不可欠だ。

しかし現在の日本の教育システムは凝り固まっている。特にマークシートの穴埋めにより能力を区別する現在のシステムはその最たるものだ。もちろん、30年くらい前と比べると現在のシステムは良くなっているところはあるかもしれない。しかし現在の教育システムは、人間の才能、意欲、行動力、発想力を正確に評価できていない。

日本は何人ものノーベル賞学者を輩出してきた。しかしその多くは日本の教育システムにノーを突きつけた人だ。ノーを突きつけた時は異端者と排除し、実績を出せばそれが最初に評価されるのは海外であり、そのあとにそれは日本の実績だと言い出す。あまりにも都合が良すぎるのではないか?

日本の教育システムの致命的な部分は、自由がないということだ。日本の教育の中で独創性を発揮できるところがあまりにも少なすぎる。しかも、自由や独創性を養うと謳っているところも、現実はシステム化され凝り固まっている。

教育の中での自由もそうであるが、現在の世の中は行動の自由を次々と束縛していき、精神の自由までも脅かしているように思える。一見自由に見えるのは「檻の中の自由」である。

数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞は、1990年に森重文博士が受賞してから出ていない。その理由は簡単だ。フィールズ賞には40歳以下という年齢制限があるからだ。すなわち、年齢制限のないノーベル賞よりも早く社会システムの影響を受ける。

もちろん、4年に一回開かれる今年の国際数学者会議で、日本人数学者がフィールズ賞を受賞するかもしれない。しかし受賞者が出たからと言って手放しで喜んでいいとは思わない。これからの日本の科学界に対する僕の展望は決して明るくないし、僕に限らず多くの日本人研究者がそう思っているものだと思われる。

科学とは原理の事だ!

科学という言葉を履き違えている人が多い。科学とは結果ではなくて原理の事だ。

例えば、エジソンは蓄音機を発明したが、蓄音機から音が出てくることが科学ではなくて、蓄音機から音が出てくる原理が科学なのである。発光ダイオードが光って照らされることが科学ではなく、発光ダイオードから光が出てくる原理が科学なのである。

現代社会は科学によって成り立っているとはよく言うが、社会におけるシステムや機器は科学から導き出される結果であって、科学そのものではない。何か科学的現象を体験するだけで科学に触れたと勘違いする人がいるが、原理にまで踏み込んで初めて科学なのである。

現代においてはほぼすべての事がブラックボックス化され、科学的側面が覆い隠されている。従って科学技術によって発展してきた社会が、皮肉にも人々を科学から遠ざけてしまうことになっている。こんな現代社会だからこそ、シンプルでも原理が見えるものに踏み込んでみることが必要なのではないか。少なくとも最先端技術に対して原理に踏み込むことは容易ではない。

この様な事を考えると、現象がどのような原理に基づいて成り立っているのか、ますます見えづらくなってくる。

草書のような理論。

書道には楷書と草書が存在する。楷書とは律義でしっかりと書かれた書体で、草書とは流れるように書き崩した書体と言える。僕のような書道の素養のない者にとっては楷書の方が分かりやすいが、書道のプロは草書を流暢に書き上げる。

ところで物理理論や数学理論は厳密にしっかりと構成されているので、書道で言うと完全に楷書の世界のように思える。しかし物理理論や数学理論にも草書のような世界があるのではないかと感じるところがある。しかしそれがどのようなものか、明確には出すことができない。

しかし一つの見解として、楷書は論理そのものであり、草書は論理の中にある感覚ではないかと思う。物理学者や数学者は、数式や理論を見ただけで数式を計算して解かなくてもある程度の世界が見えてくる。数式を眺めるだけで相互作用がどのように働いているかということが視覚的に見てとれる。そのような感覚が草書ではないかと思う。

書道のプロは、草書を流暢に書くことができるが、基本である楷書を書いても一流である。物理学者も楷書をしっかりと書くことは基礎として当たり前にできるが、いかに科学における草書を流暢に書き科学的世界観を表現できるかということが一流の成すべきことではないだろうか。

専門外の事から、スキルを修得する。

物事は意外と一見関係のないようなところから結びつくものである。それは勉強や研究であったり、人付き合いであったり、あるいはITスキルであったりする。

普段の生活において、専門の事だけをして過ごせるということはまずありえない。したがって多くの専門外の事、あるいは雑用をすることになる。しかしそのような雑用の中に意外なヒントが隠されている。またそのような専門外の事を学ぶことによって、人間の広がりというものが生まれてくる。

ノーベル賞物理学者の南部陽一郎氏は、ノーベル賞受賞の対象となった自発的対称性の破れの理論を、超電導理論(BCS理論)から導いたという。もちろん南部氏は超電導理論の専門家ではなく素粒子論の専門家である。

近年、数学と物理の垣根がきわめて低くなってきた。数学者は物理理論からヒントを得て、物理学者は数学者が顔負けするくらい高度な数学を駆使する。数学と物理学の双方にまたがる数理物理学という区分も、かなりメジャーになってきている。

視野を広げることが大事なのは万人が認めることだが、なぜ視野を広げることが大事かと聞かれるとそれに答えられない人も多いのではないだろうか?しかしその答えは考えて導かれるものではなく、実践して導かれることであることを忘れてはならない。

数学と物理があるから、生きていける。

人生を懸けるものは見つかっただろうか?僕にとっては数学と物理が人生そのものである。他人からは趣味だとかいろいろと言われるが、僕にとっては生きがいである。

幸運にも、理論系の学問は自分一人でもやっていける。もちろん専門書だとか論文だとかを手に入れるにはそれなりのお金がかかるが、多くの実験科学のように膨大なお金と実験施設がいるわけではない。

僕は数学と物理を趣味でやっているわけでは決してない。趣味と言われるくらいならまだ遊びと言われる方がマシだ。数学者とは数学で遊ぶことを生きがいにしている人である。僕が昔知り合っていた超一流数学者は、数学の事を「この遊びはやめられない」と言っていた。

人生を懸けて打ち込むのなら、世界でトップを目指すべきだ。科学は順位を争うものではないと言う人もいるが、科学とは誰が世界で一番に成し遂げるかという競争である。そのことを肝に銘じなければならない。

人生を懸けるものがあるかどうかは、人生で苦境に立たされた時に大きく左右される。人生を懸けるものがあるから、周りから見て絶望的な状況であっても小さな光を見出し突破することができるのである。

非常に気になる研究者、高橋政代・理研プロジェクトリーダー。

現在、日本の研究レベルの低下が叫ばれ、それに対する有力な打開策を見出されずにいるが、それでも日本にも世界トップレベルの魅力的な研究者は少なからず存在する。その中でもiPS細胞関連の研究に関しては日本の山中伸弥教授のiPS細胞発見が起点になったこともあって、この分野は日本が世界トップレベルを維持しているのではないかと感じる。

理研の高橋政代プロジェクトリーダーもその一人だ。高橋氏はiPS細胞の臨床への応用研究では世界トップの研究者と言ってもよく、日本国内では非常に良く知られた存在だ。ちなみに、旦那さんの高橋淳氏は京大iPS細胞研究所で教授をしており、夫婦そろってのiPS細胞研究のトップ研究者だ。

普段から高橋政代氏の研究に関しては、僕が分かる範囲でチェックしているが、今日なぜここで記事にしたかというと、雑誌ゲーテ7月号で高橋政代さんのことが記事になっていたからだ。研究の一般的な事も書かれているが、高橋さんの人柄などに関しても書かれている。

雑誌上で高橋さんは、自分に関して面白い表現をしている。自分の事を「ブルドーザーに乗ったサッチャー」と評しているのだ。さすが、一流の研究者というのはこういうものなのかと感心してしまった。学生時代の高橋さんは非常におとなしい女性だったと言っているので、もしかしたら研究に向き合うと人格が変わるのかもしれない。

僕は生命科学に関しては門外漢で、専門的知識を持っているとは言えないが、iPS細胞研究のこれからに関しては非常に期待しており、研究の発展、そして山中伸弥教授や高橋夫妻をはじめとするトップ研究者による尽力を非常に願っている。これからどのような研究結果が出てくるか楽しみである。