科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

科学とは原理の事だ!

科学という言葉を履き違えている人が多い。科学とは結果ではなくて原理の事だ。

例えば、エジソンは蓄音機を発明したが、蓄音機から音が出てくることが科学ではなくて、蓄音機から音が出てくる原理が科学なのである。発光ダイオードが光って照らされることが科学ではなく、発光ダイオードから光が出てくる原理が科学なのである。

現代社会は科学によって成り立っているとはよく言うが、社会におけるシステムや機器は科学から導き出される結果であって、科学そのものではない。何か科学的現象を体験するだけで科学に触れたと勘違いする人がいるが、原理にまで踏み込んで初めて科学なのである。

現代においてはほぼすべての事がブラックボックス化され、科学的側面が覆い隠されている。従って科学技術によって発展してきた社会が、皮肉にも人々を科学から遠ざけてしまうことになっている。こんな現代社会だからこそ、シンプルでも原理が見えるものに踏み込んでみることが必要なのではないか。少なくとも最先端技術に対して原理に踏み込むことは容易ではない。

この様な事を考えると、現象がどのような原理に基づいて成り立っているのか、ますます見えづらくなってくる。

草書のような理論。

書道には楷書と草書が存在する。楷書とは律義でしっかりと書かれた書体で、草書とは流れるように書き崩した書体と言える。僕のような書道の素養のない者にとっては楷書の方が分かりやすいが、書道のプロは草書を流暢に書き上げる。

ところで物理理論や数学理論は厳密にしっかりと構成されているので、書道で言うと完全に楷書の世界のように思える。しかし物理理論や数学理論にも草書のような世界があるのではないかと感じるところがある。しかしそれがどのようなものか、明確には出すことができない。

しかし一つの見解として、楷書は論理そのものであり、草書は論理の中にある感覚ではないかと思う。物理学者や数学者は、数式や理論を見ただけで数式を計算して解かなくてもある程度の世界が見えてくる。数式を眺めるだけで相互作用がどのように働いているかということが視覚的に見てとれる。そのような感覚が草書ではないかと思う。

書道のプロは、草書を流暢に書くことができるが、基本である楷書を書いても一流である。物理学者も楷書をしっかりと書くことは基礎として当たり前にできるが、いかに科学における草書を流暢に書き科学的世界観を表現できるかということが一流の成すべきことではないだろうか。

専門外の事から、スキルを修得する。

物事は意外と一見関係のないようなところから結びつくものである。それは勉強や研究であったり、人付き合いであったり、あるいはITスキルであったりする。

普段の生活において、専門の事だけをして過ごせるということはまずありえない。したがって多くの専門外の事、あるいは雑用をすることになる。しかしそのような雑用の中に意外なヒントが隠されている。またそのような専門外の事を学ぶことによって、人間の広がりというものが生まれてくる。

ノーベル賞物理学者の南部陽一郎氏は、ノーベル賞受賞の対象となった自発的対称性の破れの理論を、超電導理論(BCS理論)から導いたという。もちろん南部氏は超電導理論の専門家ではなく素粒子論の専門家である。

近年、数学と物理の垣根がきわめて低くなってきた。数学者は物理理論からヒントを得て、物理学者は数学者が顔負けするくらい高度な数学を駆使する。数学と物理学の双方にまたがる数理物理学という区分も、かなりメジャーになってきている。

視野を広げることが大事なのは万人が認めることだが、なぜ視野を広げることが大事かと聞かれるとそれに答えられない人も多いのではないだろうか?しかしその答えは考えて導かれるものではなく、実践して導かれることであることを忘れてはならない。

数学と物理があるから、生きていける。

人生を懸けるものは見つかっただろうか?僕にとっては数学と物理が人生そのものである。他人からは趣味だとかいろいろと言われるが、僕にとっては生きがいである。

幸運にも、理論系の学問は自分一人でもやっていける。もちろん専門書だとか論文だとかを手に入れるにはそれなりのお金がかかるが、多くの実験科学のように膨大なお金と実験施設がいるわけではない。

僕は数学と物理を趣味でやっているわけでは決してない。趣味と言われるくらいならまだ遊びと言われる方がマシだ。数学者とは数学で遊ぶことを生きがいにしている人である。僕が昔知り合っていた超一流数学者は、数学の事を「この遊びはやめられない」と言っていた。

人生を懸けて打ち込むのなら、世界でトップを目指すべきだ。科学は順位を争うものではないと言う人もいるが、科学とは誰が世界で一番に成し遂げるかという競争である。そのことを肝に銘じなければならない。

人生を懸けるものがあるかどうかは、人生で苦境に立たされた時に大きく左右される。人生を懸けるものがあるから、周りから見て絶望的な状況であっても小さな光を見出し突破することができるのである。

非常に気になる研究者、高橋政代・理研プロジェクトリーダー。

現在、日本の研究レベルの低下が叫ばれ、それに対する有力な打開策を見出されずにいるが、それでも日本にも世界トップレベルの魅力的な研究者は少なからず存在する。その中でもiPS細胞関連の研究に関しては日本の山中伸弥教授のiPS細胞発見が起点になったこともあって、この分野は日本が世界トップレベルを維持しているのではないかと感じる。

理研の高橋政代プロジェクトリーダーもその一人だ。高橋氏はiPS細胞の臨床への応用研究では世界トップの研究者と言ってもよく、日本国内では非常に良く知られた存在だ。ちなみに、旦那さんの高橋淳氏は京大iPS細胞研究所で教授をしており、夫婦そろってのiPS細胞研究のトップ研究者だ。

普段から高橋政代氏の研究に関しては、僕が分かる範囲でチェックしているが、今日なぜここで記事にしたかというと、雑誌ゲーテ7月号で高橋政代さんのことが記事になっていたからだ。研究の一般的な事も書かれているが、高橋さんの人柄などに関しても書かれている。

雑誌上で高橋さんは、自分に関して面白い表現をしている。自分の事を「ブルドーザーに乗ったサッチャー」と評しているのだ。さすが、一流の研究者というのはこういうものなのかと感心してしまった。学生時代の高橋さんは非常におとなしい女性だったと言っているので、もしかしたら研究に向き合うと人格が変わるのかもしれない。

僕は生命科学に関しては門外漢で、専門的知識を持っているとは言えないが、iPS細胞研究のこれからに関しては非常に期待しており、研究の発展、そして山中伸弥教授や高橋夫妻をはじめとするトップ研究者による尽力を非常に願っている。これからどのような研究結果が出てくるか楽しみである。

クレイ数学研究所の一億円ミレニアム賞問題。

物理や数学の問題と言うと、学校で解く問題や入試問題を思い浮かべる人は多いかもしれないが、世の中には最先端の数学者や物理学者が血眼になってかかっても解けない未解決問題が存在する。その中でも有名なのが、アメリカのクレイ数学研究所が2000年に一問1億円の懸賞金を懸けたミレニアム賞問題であろう。

クレイ数学研究所のミレニアム賞問題は、以下の7問である。

・リーマン予想

・バーチ&スウィンナートン-ダイア予想

・P vs NP問題

・ホッジ予想

・ポアンカレ予想

・ヤン-ミルズ理論の存在と質量ギャップ

・ナビエ-ストークス方程式

この7問のうち、現在までに解かれたのは、ポアンカレ予想1問のみである。(ポアンカレ予想を解決したペレルマン博士は1億円の受け取りを拒否している。)

この7問の中には、純粋数学的問題だけでなく数理物理学的問題も含まれている。

クレイの問題のような大問題に取り組みながら、その周辺で研究結果を出していくという道も凄く面白いと思うが、この7問に限らず、大きな未解決問題を解決するのは多くの数学者・物理学者の夢である。

少年だけでなく、大人にも大志を抱くことは凄く大事だし、エキサイティングなことである。

物理学と生物学、二つの領域。

物理学と生物学は両方とも科学の基礎である。しかしその特性は大きく違う。物理学は自然の一般性の基礎であり、生物学は自然の特殊性の基礎と言える。

科学には還元主義という考えがある。還元主義とはその名の通り、現象をより根本的な要素に還元してく思想である。例えば、生命現象を還元していけば化学にたどり着き、その化学をさらに還元していけば物理学にたどり着く。その物理学の中で最も還元していった極限にあるのが素粒子論である。

すなわち、還元の矢の先端にあるのが生物学で、矢の根っこにあるのが物理学である。還元の矢の先端に近ければ特殊的性質の色が強く、矢の根っこに近ければ一般的性質の色が強くなる。(紛らわしいが、矢印の根の部分を最初の部分という意味で“先端”と呼び、矢印の先端を最後にたどり着く部分という意味で“根っこ”と言っている。)

生物学の面白さはその特殊性にあり、物理学の面白さはその一般性にある。とは言っても特殊科学である生物学の研究においても、その中にある普遍性を突き詰めることが最も重要になる。ワトソン・クリックの遺伝子の二重らせんはその最たるものであろう。

物理の研究者にとっても生物学的知見は素養として重要であり、生物学者にとっても物理学的素養は重要である。それを行動において強く示したのが量子力学を打ち立てた物理学者・シュレーディンガーの著書「生命とは何か」であろう。

細部を極めるのも必要であるが、広く科学の一般的知見を身に付けることもそれに劣らず重要である。

小保方晴子氏を知りたい。

雑誌で小保方晴子氏が書かれたコラムを読みながら、ふと思った。「小保方晴子氏を知りたい!」

なぜ小保方氏を知るべきなのか?それはいくつか理由がある。その中でも一番の理由は、小保方氏を知ることによって、生物学の研究の世界のあり方、常識が理解できるからだ。

小保方氏の生物学での足跡は、言うまでもなく悪しき足跡だ。本人に悪意があったか無かったかは僕には知る由はないが、悪意の有無に関わらず小保方氏の責任は重い。STAP騒動以降、小保方氏には暗い影が落ちている。その中でも一番の闇は、笹井氏を亡くしたことであろう。

小保方氏の実験ノートが公開されていたが、素人の僕から見てもひどいものであった。小保方氏の行った実験の在り方を反面教師として、生物学の実験とはどうあるべきなのかということが見えてくる。

同じ科学でも、物理学や数学の世界と生命科学の世界では全くしきたりが異なる。小保方氏を通して生命科学の世界を少しでも覗いてみたいと強く感じる。

不幸にも、科学は人間の役に立ってしまった。

このタイトルは書き間違いではない。“不幸”にも科学は人間の役に立ってしまったのである。

ある物事が人間の役に立つことは悪いことではない。ほとんどの人は、いかに人間の役に立てるかということを考えて物事に取り組んでいるのであろう。

ではなぜ、人間の役に立つことが不幸なのか?

現代において、科学はあまりにも人間の役に立ってしまったので、科学は人間の役に立てるものと誤解している人が多い。いや、ほとんどの人はそう思っているであろう。しかし、ニュートンが物理学を打ち立てたのは役に立てるためではないし、アインシュタインだってそうである。20世紀初めに、相対性理論を人間の役に立てるなどと言ったら、ほとんどの人は鼻で笑っていたであろう。

科学は人類の知見であり、人間のレベルを指し示すものと言ってもいいだろう。人間が人間らしく生きる知恵であり。極端に言えば人間そのものと言える。そのような思想の絶頂期はギリシャ時代であった。アリストテレスもアルキメデスも、人類の知見と思想を高めるために数学や科学の研究に打ち込んでいた。また、それがギリシャ時代の知識人の常識であった。

この様な考えは現代人にはとうてい受け入れられるものではないかもしれない。しかしそれはギリシャ人より現代人が進化した結果だとは言えない。むしろ思想的には大きく退化している。

確かに現代では科学的知識は大きく進歩した。しかし人間の本質的部分では、現代人がギリシャ人から学ぶところは決して少なくない。

先入観を排除せよ!

先入観とは、良く言えば“経験”であるが、悪く言えば“思い込み”である。経験をもとに先入観を構築していくことによって知識は体系化されていくが、壁にぶつかり飛躍が必要になった時には先入観を排除する必要がある。

物理学の歴史で言えば、一番大きな先入観の排除につながったのは、アインシュタインが特殊相対性理論を打ち立てた時であろう。アインシュタインは、それまでの経験的常識であった“ガリレイの相対性原理”を否定することによって、既存の理論を大きく変えることになった。

20世紀の科学における二大発見は、“相対性理論”と“量子力学”である。しかしその成り立ちは大きく違う。量子力学が時間をかけて多くの研究者が構築していったのに対し、相対性理論はアインシュタインが突然世に出した。量子力学の成り立ちが“連続的”ならば、相対性理論は“断層”である。しかし双方に共通するのは、先入観の排除だと言えよう。

科学を例に取り上げたが、これらの教訓はあらゆることに対して言える。既存の事柄の継続を行うのなら先入観によって進めるのが手っ取り早いが、飛躍を望むのならば先入観を排除しなければならない。

一度染みついた先入観を排除するのは容易いことではないが、それを乗り越えた時、その先にはエキサイティングな世界が広がっている。