科学・数理(サイエンス)」カテゴリーアーカイブ

数学の全貌。

一体人類は数学の全貌のうち、何%を理解したのであろうか?50%か?1%か?あるいは0%か?もし数学の世界が無限に広がっているとすれば、いくら人間が頑張ったとしてもそれは有限なので0%と言う事になる。

しかしこればっかりは現在の人間にはわからない。そして将来、それが分かるかどうかも分からない。はたまた「ゲーデルの不完全性定理」という規格外の定理もあり、「数学の全貌」というものが定義できない可能性もある。

18世紀末、物理学は全て出尽くして、もうやる事はほとんどないと言われていたという。しかしそのような認識を打破したのがアインシュタインの相対性理論であった。そして量子力学がそれに続いて行き、相対論と量子論という二本柱が確立し、物理学はとてつもなく深い世界へと入り込んで行く。

では数学はどうか?数学もその時々、革命的な事象を起こしている。書き出したらきりがないが、20世紀に起こされた最大の数学的革命は、グロタンディークのスキーム論ではないだろうか?その他にも、ミルナーの7次元エキゾチック球面の発見、さらに時代をさかのぼればカントールの集合論も革命的であろう。

現在の状況を見てみると、数学はまだまだ終焉を迎えそうにない。もちろん、部分を見ると完成しそうなものはあるが、それをもって数学の完成かもしれないと思っているのならば、それはその数学者の妄想、あるいは大域的知見のなさなのかもしれない。

ただ、ある時、何となく取り組んでいる分野の全貌を垣間見る時がある。もしかしたらそれも妄想かも知れないが、一瞬世界が広がる時があるのである。そして再び闇へと戻る。しかし一度輝く世界を見ると、研究の指針が確立する。そしてその一瞬垣間見た数学的世界へと近づくことが出来る。数学の全貌は見ることはできないが、数学の一分野くらいはその全貌を垣間見ることは不可能ではないのではないだろうか。

数学総動員!

数学は大きく三つに分けられる。「代数学」「幾何学」「解析学」だ。しかしこのような分類は人間が便利上勝手に作ったものであって、それらの間に明確な壁がある訳でも何でもない。従って、それらの間をまたぐような分野ももちろん存在する。「代数幾何学」などはその代表であるが、それ以外にも「解析幾何」「代数解析」さらには「数論幾何」などもある。また、例えそれらの一分野を極めるにしても、他分野の知識は不可欠だ。

大体、一つの分野を細分化して突き詰めて行くには限界がある。その限界を突破するのも一つの手ではあるが、他分野を融合するのは最も賢明な手だと思える。ポアンカレ予想(幾何化予想)は位相幾何学の問題だと考えられていたが、ペレルマン博士は微分幾何学の技術を使って解いてしまった。そのような例は多々ある。代数学の殻に閉じこもってしまえば、代数学の問題さえ解けなくなってしまう。大きな問題ほど、他分野の技術を導入して初めて解決可能になる。

数理物理と言う分野は、非常に曖昧な分野だ。何が曖昧かと言えば、人によって数理物理に対する定義はまちまちだし、また取り組んでいる問題もまちまちだからだ。“数学的”な物理と考える人もいれば、“物理的”な数学だと考える人もいる。しかし一つ確実に言えることは、数理物理は数学と物理にまたがる学際的な分野だと言う事だ。従って、数理物理の研究に取り組むためには、学問の壁と取り払わなければならない。代数も幾何も解析も関係ない。使えるものは全て使うのだ。それこそ「数学総動員」である。

この様に考えると、超学際的な分野である数理物理は、非常に大きな可能性を秘めた分野である。数理物理は、代数学と幾何学と解析学を物理と言う舞台の下で融合してしまうかもしれない。とてつもなく大きな野望であるが、そのような事を考えても良いのではと思う。ここでは数学と物理を例に取り上げたが、化学や生物学や地学、さらには社会科学や哲学においても分野の壁を徹底的に取り払い、超学際的に攻めて行くことが必要なのではないかと強く思う。

学問とビジネス。

学問とビジネスとの関係は微妙だ。工学関係の研究だと製品に直結することも多いのでビジネスに直に結びつくが、数学や理論物理に関してはビジネスに直に結びつくことはほとんどない。しかしそれは現時点だけの関係であって、工学ならば数年後に大きなビジネスに結びつくところが、数学や理論物理の研究に関しては50年後100年後になることが多いと言う事だ。実際に20世紀前半に打ち立てられた量子力学のシュレーディンガー方程式が数年後に実用化されたという話はあまり聞かないが、現代社会においてはシュレーディンガー方程式を用いていない電子製品などというものは存在しない。青色発光ダイオードの中村修二の発明対価が200億円であるという判決が以前出たが、シュレーディンガーの功績を現在のビジネスにおいて発明対価を計算すれば、おそらく数百兆円は下らない。おそらく現在世に存在する電子製品の全てがシュレーディンガーの発明対価の対象になるはずだ。

しかし、数学や理論物理の研究者がビジネスに熱を上げているという話はほとんど聞かない。数学者がビジネスに無関心であると言う話も良く聞くが、そもそも数学がビジネスに結びつくとは誰も思っていおらず、初めからそれをビジネスに結びつけると言う発想自体がないものだと思われる。しかし数学者であっても生活しなければならないことは変わらず、大学や研究所に所属する数学者は所属機関から給料をもらっている。

別にビジネスに無関心であることが美徳でも何でもなく。むしろ数学者であっても積極的にビジネス的視点で物事を考えることは必要なのではないかと僕は思う。しかし別に営業や商売などを考える必要はない。数学者には数学者しかできないビジネスがあるはずだ。そこを考えないと、数学者である意味が薄れてしまう。しかし、ビジネスに無関心で研究に没頭するのもそれはそれで良いと思う。物事には役割分担がある。学問の根幹となる部分を数学者が行い、ビジネスの末端になる部分はビジネスマンがやればいい。もちろん、そのように上手く行けばの話だが。

もちろん、数学の真価がビジネスにあるとは思えない。しかし数学者であっても、お金を稼がなければ生きて行くことはできない。そういう意味では、バリバリのビジネスマンでなくとも数学者も広義のビジネスというものは考えなければならない。とは言え、数学者や理論物理学者は、ビジネス的観点からはかなり不遇な立場に立たされているように思える。中には数学者にはお金儲けは必要ないと言う人さえいる。何を根拠にそんなことを言うのだろうか?

とは言え、数学は面白い。物理学も面白い。その純粋に面白いと言う事に没頭しているだけだ。そのように純粋に学問に没頭している数学者・物理学者に対して、ビジネス的に冒涜することはいい加減にやめてもらたいものだ。

物事を極めるとは?

数学において、ある定理に他の定理を継ぎだして新しい定理を導き出すことがよくある。それぞれの定理についてはよく分かっているんだけど、それらを組み合わせると想像もできないような定理が導き出されるのである。その定理の継ぎ目はある意味ブラックボックスだと言える。少なくとも初めはそう思えてしまう。しかしそのような定理を駆使するにつれて、そのブラックボックスにイメージを見出せるようになる。そしてそれが明確にイメージ出来るようになると、そこからさらに次の定理を導き出せることになる。数学においては、対象に自分なりのイメージを描くことが非常に重要である。

数式は単なる計算過程ではない。数式そのものが持つ役割や、ある種の構造があり、そこを理解しないと次へは進めない。僕は音楽の訓練はほとんどやったことがないので、音符がほとんど読めない。しかしピアニストなどの音楽家は音符の羅列を読み取り、そこからある種のイメージを形作っているのではと思っている。きっと僕らには理解できない世界が広がっているのだろう。数学においては、専門外の人が見ればそれは数式の羅列にしか見えないのかもしれない。しかし数学者は、その数式の羅列からある種の構造やイメージを読み取り、自分の世界を形作って行く。そのような数学の中に広がる世界は、しばしば現実世界よりも豊かな景色を見せてくれる。そのような世界を見た後では、目で見える世界が些細な事に思えてくる。

数学や音楽に限らず、一つの世界を極めた人にはその人にしか見えない世界が広がるのではと僕は思っている。その世界を極め、そのような世界を見た後では、世界観も大きく変わるだろうし、すなわち生き方も変わる。ある意味、そのような世界を捉える事は、物事を極める大きな理由となる。しかし簡単にはそのような世界を捉えられない。時間と労力が必要なのだ。もちろん、そこまで打ち込むためには、面白くないと出来ない。しかしただ楽しむだけでは一線を超えることはできない。そのラインを超えるためには生みの苦しみがある。そしてそのラインを超えた時、新たな世界が見えてくるのである。

「なぜ自分は生きるのか?そしていかにして生きるべきか?」そのような捉えどころのない問いに対しても、一つの事を極めた人は明確に答えることが出来るであろう。とは言え、そのような問いに対する答えは一つではない。だから一つ答えが出た後になっても、「いかにして生きるべきか?」という問いかけを続ける。そのような事を続け、問題を明確化して行く。僕らが生きる表面世界のさらに奥の世界が見えた時、人間は次のステージに進めるのだと僕は考えている。

お金のかかる科学。

科学には、お金のかかる科学とお金のかからない科学が存在する。数学や理論物理などの理論系はお金のかからない科学の代表であろう。そしてそれらの科学は、やろうと思えば一人で実行できる。そのような意味で手軽な科学だと言えない訳ではないが、だからと言って簡単な科学である訳では全くない。お金がかからない分、頭脳が圧倒的に必要になる。おそらく科学の中で一番頭を使うのが、数学と理論物理ではないだろうか?お金がかからない分、やろうと思えば中学生でも研究できるのではないだろうか?しかし間口は広くても、それを実行できる人は非常に限られてくるのではないかと思う。

物理においても、実験物理となると途端にお金がかかることがある。特に加速器などを使用する素粒子実験はお金がかかる科学の代表と言える。現在、東北地方に建設が計画されている加速器の建設金額は数千億円と言われる。これは国際プロジェクトなので全てが日本が負担する訳ではないが、とにかく巨額である。このような巨額科学プロジェクトを、費用対効果だけで評価してはとても実行できるものではない。科学の価値というものは費用対効果だけではなく、純粋な科学的価値という側面もある。しかしこれの難しい所は、誰もが科学的価値を認識できる訳ではないということである。むしろ科学的価値を認識できない人の方が圧倒的に多い。それらの人にどう理解してもらうかは、科学に関わる人の重要な課題である。

そして科学的価値というものは、研究費などの金額に比例しない。書籍と紙と鉛筆だけで出来るお金のかからない科学の中にも、圧倒的な科学的価値を持つものも多く存在する。それらの代表が相対性理論であろう。アインシュタインは紙と鉛筆だけで理論を完成させた。しかしその理論の影響力は圧倒的である。数千億かかる巨大プロジェクトよりも圧倒的に価値がある。とは言え、そのような巨大な価値を生み出せる科学者というものは、百年に数人と言ったところだろうか。

現代科学の多くは多額のお金がかかり、世間においても科学はお金がかかると言った認識が浸透しているのではないだろうか?もちろん、お金がある方が大きな成果を生み出せる科学も多くある。むしろそのような科学の方が圧倒的多数ではないかと思う。そういう意味では世間の認識は正しいと言える。しかしそれは結果論であって。科学の価値はそれにかかる金額に比例しない。そしてそこから生まれる儲けの金額とも関係ない。儲けの金額は、科学的価値ではなくビジネス的価値である。科学の価値を純粋に判断できる価値観を持つことは、世の中のあらゆるものが持つ本質的価値を見抜く力に通じるものがある。物事の本質を見抜く目を養うためにも、科学そのものを理解し、それらの価値を判断できる力を付けることが必要ではないだろうか?そして世間一般の人たちがそのような力を付けることは、ビジネス的な利益を含めて大きく国益にも貢献するはずだ。

学問と芸術。

学問と芸術、この二つの取り合わせに対してどのような印象を受けるだろうか?もしかしたらほとんどの人は、学問と芸術は全く違う対照的なものと思うかもしれない。しかし学問とは芸術的側面も持ち合わせており、この二つは切っても切り離せない関係であるように僕は思える。

絵画を見る時、「美」という感性は大事だ。もちろん「美」以外にも多くの判断基準があるだろう。しかし「美」はその最も大きな判断基準であるように思える。そして数学や物理においても「美」という判断基準は非常に大事である。ある理論が価値のある理論か?という判断をする時に、数学者や物理学者は美的センスをフルに働かす。さらに理論の方向性を決定する時に、「美しいのはどの方向か?」という事を見抜き、正しい方向へと進むことも多々ある。アインシュタインは理論の美というものを非常に大事にしていたと言われる。実際に、相対性理論は非常に美し理論である。素晴らしい理論には往往として美を備えている。

この様に、学問は芸術的側面を備えている。学者は数学や物理の理論を構築するに際して、芸術作品を創造するような感覚を覚えることがある。このようなレベルになると、芸術と学問を区別することもバカバカしくなる。極論を言うと「学問は芸術である」とでもなるのだろうか?学問が芸術であったとしても、その逆に、芸術が学問なのかは僕にはわからない。もしかしたら学問を追究するように芸術を究める芸術家もいるのかもしれない。

はっきりと言えることは、学問と芸術は相関性があるという事だ。それは学問を究めれば究める程はっきりとしてくる。学問の研究者には芸術に対しての理解が深い人が多いように思える。一つの分野だけの殻に閉じこもっている人の多くは陳腐だ。学問の中にある芸術的側面を捉え、それによって学問研究を遂行する感性を持つことは非常に大事である。

最適解と厳密解。

科学を理解するとは、科学には何が出来ないかを理解することである。科学を理解している人は、科学には何が出来ないかを理解している。しかし科学を理解していない人は、科学で何でもできると思っている。これはAIにも言えることであり、AIを理解している人は、AIには何が出来ないかを理解している。しかしAIを理解していない人は、AIで何でもできると思っている。では現在のAIには何が出来て、何が出来ないのだろうか?

数学や物理学は、“厳密解”の学問である。数学者は数個の定義から多くの事を厳密に導いて行く。これは完全論理である。この様な事は人間だからできることであり、AIにはほとんどできない。それはなぜか?それを知るにはAIの仕組みを知らなければならない。しかし難しい事はいらない。僕だってAIの専門家である訳ではない。概要を知るだけでもかなりのことが分かる。

AIを動かすには、まず膨大なビッグデータが必要である。このデータの数が多ければ多いほど精密な結論を導くことが出来る。このような道筋は数学とは対照的である。数学が厳密解の学問であるのに対し、AIはビッグデータから“最適解”を導いているのである。よって、AIに数個の定義を見せても、そこからは何も出来ない。意外とAIは論理に弱いのである。

AIと言えば、最近は将棋AIが話題になる。この将棋AIもやはり最善手と言われる最適解を探しているのである。なので厳密解ではないから、AIだって負けることがある。もちろん、人間の棋士だって厳密解を出せるわけではない。もし厳密解を出せるのなら百戦百勝である。

AIで何でもできると思っている人は、AIの事を何もわかっていない。現在ではむしろ人間の方が万能なのである。人間は物を持ち上げることも出来るし、数学も文学も出来る。そして料理も出来る。まだまだ人間も捨てたものではない!

氷山の一角から、その下を暴き出す。

社会においても学問においても、目に見えている部分は氷山の一角だ。研究者はその氷山の一角を見て、その下はどうなっているかという事を追究するのが仕事だ。もちろん氷山と同じで、その下の見えない部分の方が圧倒的に大きい。しかし水面に出ている1割から水面下の9割をどう暴き出すか?そこが研究者の腕の見せ所である。

高校までの数学は、水面に出ている1割に過ぎない。なので本格的に数学を追究しようと思えば、大学レベルの数学を勉強することは必須だ。その中でも、大学一年で学ぶ線形代数と微積分はそれらの全ての土台となる。そしてそれらを縦横無尽に使いこなして水面下へと迫ることになる。

水面下の氷山はどのようになっているか?多くの場合、それは驚くべき形態を取っている。水面上とはまるで違う表情をしているのだ。ただはっきりと言えることは、違う形態を取っているとは言え、水面上の見える部分とは連続的に繋がっている。これは数学に限らず、全ての学問に言える。もしそこが繋がっていなければ、水面下を追究すべき手が無くなってしまう。しかし必ず何らかの形で繋がっているのだ。

現在、人間が認識している数学は果たして全数学のうち何割か?1割なのか?1%なのか?もし数学に無限の広がりがあるのならば0%という事になる。これらの事は答えようのない問いである。何に取り組んでいても、水面に見えるところだけを見ていては本質は掴めない。本質を掴むためにどこまで水面下に迫れるか?学問とはそういうものであると僕は考えている。

数学とは本質を抽出して行く作業だ!

数学というものに対する認識は人それぞれ違うと思う。しかし人それぞれ違うとは言え、それぞれが数学というものに対してどのようなものかという認識を持つことは大切だ。もしかしたら人によっては、レジで計算するために必要なものだというくらいの軽い認識かも知れない。しかしそのような認識でも何も持たないよりかははるかにましだ。

研究レベルの数学に対しても、数学者の数学に対する認識はそれぞれ違うと思う。しかしそのような違いがあるからこそ、多様性のある数学の世界というものが出来上がる。そして一人の研究者にとっても、数学というものに対する解釈の仕方は複数あるかもしれない。僕自身もいくつかの解釈を持っている。なので表題の「数学とは本質を抽出して行く作業だ」というものは、その一つと捉えてもらいたい。

数学というものに取り組む時、「本質は何か?」という問いは非常に重要である。数学の深化とは、本質を切り出していく方向へ進むことである。もちろん数学の中にも純粋数学や応用数学と言われるそれぞれ毛並みの違う分野がある。特に応用数学に関しては、純粋数学によって切り出された本質を具象化する方向へ進むものである。とは言え、数学の本質を抽出して行く作業はどのようなものでも必要不可欠な作業だ。なので、数学を「本質を抽出して行く作業」だと捉える事は的外れなものではないと思う。

近年、学問がますます実用重視になって来ているように思う。お金に結び付く応用研究に重点が置かれ、すぐには実用化されない基礎研究が軽視されている。その基礎研究の究極が数学である。しかし、応用研究というものは、基礎研究の成果の上に成り立っている。従って、現在の基礎研究軽視は将来の応用研究から出る実用化にも大きく影響してくる。もちろん企業の開発現場であればそのような事もわからない訳ではないが、教育現場での基礎学問軽視は非常に問題があるように思える。

現在の社会の中には、「役に立つものを出せ!役に立たないものはいらない!」という圧力があるように強く感じる。学校現場でもそうである。社会に直接役に立つものか、受験に利用できる事に重点が置かれているのではないだろうか?そのような社会や教育現場の短絡的な風潮に危機感を感じているのは僕だけではないはずだ。

数学者・志村五郎の死。

5月3日、数学者の志村五郎プリンストン大学名誉教授が亡くなられたというニュースが流れた。志村五郎と言えば、フェルマーの大定理の証明においてもキーになった「谷山・志村予想」が有名であり、数学を学んだことのある学生ならその名を一度くらいは聞いたことがあるはずだ。

しかし、今回驚かされたことは、志村氏の死去のニュースがヤフーニュースで流れていたことだ。僕もヤフーニュースで志村氏の死を知った。いくら数学関係者の中で有名だったとは言え、ヤフーニュースで流れる程世間の注目を浴びているとは考えもしなかった。ヤフーニュースでこのニュースを見た人のうちどれくらいの人が興味を持ったのかはわからないが、数学研究というものが少しでも市民権を得られればと強く思う。ちなみに、谷山・志村予想のもう一人、谷山豊氏は、若くして自死をされている。

本屋の数学書コーナーに行くと、谷山豊全集というものが並んでいる。数学関係の全集とは一般の人にはなじみがないかもしれないが、全集が出されるほど谷山氏は偉大な数学者であった。そして志村氏も同様に偉大な数学者である。偉大な数学者や物理学者の研究に対しては、コレクテッドペーパーやコレクテッドワークスと言われる論文集が出されることがある。これらの論文集は偉大な学者の研究が一望できる非常に便利なものである。もしかしたら、これから志村氏の論文集も出るのかもしれない。と思ってAmazonで確認してみると、既に志村氏のcollected papersが出版されていた。やはり偉大だ。

感覚と論理。

感覚的な事と論理的な事は相反することのように思っている人もいるかもしれないが、感覚と論理はむしろ相補的、すなわち相補うような存在であると僕は考えている。物事を論理的に考えることは重要であるが、論理ばかりに目が行ってしまっていれば物事の本質を見失うことがある。重要なのは、論理からいかに感覚を掴むかということである。

ここで例を取り上げる。物理理論である電磁気学では、最も基礎となるマクスウェルの方程式と呼ばれる四つの方程式がある。そこではdiv、grad、rot、という三つの記号が出て来る。これらの記号は偏微分を使って数学的に厳密に表現することが出来る。しかしこれらの数式を覚えるだけではマクスウェル方程式の本質は掴めない。重要なのは、div(ダイバージェンス)を「発散」、grad(グラディエント)を「傾き」、rot(ローテーション)を「回転」と感覚的に捉える事である。この様に感覚的に捉えることが出来れば、後はそれらの感覚を基に容易に式変形が出来る。

日常では感覚は五感で捉えられることが多いが、数学や科学においては論理によって感覚を捉えるのである。論理と感覚を縦横無尽に使うことが出来れば、日常においても大きなスキルになるし、学問においては真の理解に結び付けることが出来、さらにそこから新し理論を構築することが出来るであろう。

地震学は真の科学になりえるか?

熊本地震から3年が経った。科学が発達した現在においても、大地震が発生するたびに毎度発せられるのが「想定外」という言葉だ。どこで地震が発生するのか全く予測がつかないのならいっそのこと地震予知など止めてしまえばとも思うが、その一方、地震予知への取り組みは地震学に対する最大の原動力にもなっているのでそう簡単な話ではない。

地震学は一応科学の一分野という事になっている。しかしどう考えても科学とは思えないような研究も存在する。というより、大地震が発生するたびに述べられる地震学者の見解は、どう考えても科学的とは思えないものが多い。その典型的な例が、「前回の地震から何十年経っているから、そろそろ起きる頃だ」というものだ。この様な見解は全く科学になっていない。これは科学ではなく、むしろ史学だ。このような史学的研究者は、百歩譲って地震学者だとしても、科学者とは名乗るべきではない。科学者から見ると、これは予測ではなくほとんど妄想と言って良い。もし本気で地震予知に力を入れるのならば、このような史学的な研究でなく、科学的メカニズムに則った研究に重点を置くべきだ。

もちろん、科学的に地震研究を行っている地震学者はたくさんいると思う。しかしメディアで取り上げられる地震学者の約半分は史学的だ。これにはメディア側にも責任があるのかもしれないが、一般市民ももっと科学的な地震学に興味を示すべきである。このような地震学に対する科学的理解があれば、防災効果は相乗効果で飛躍的に上がるはずだ。

僕は科学とは必ずしも日常に役立てるだけのものではないと思っているが、もし地震学を日常的に役立てたいと思うのならば、ただ単に起こるのかどうかという興味だけではなく、科学的な所からの根本的理解が必要だと思う。科学に対する実用的価値を過度に求めている割には、完全に重要な所が抜けているように思えてならない。

ブラックホールが直接観測されたようだが。

4月10日、国際的な研究チームが、ブラックホールを直接的に観測することに成功したことが報道された。最近はブラックホールというものが完全に市民権を得て日常的にも話題になることが多いが、これまではブラックホールの存在は間接的にしか観測されておらず、今回の観測が初の直接的観測となったようだ。

ブラックホール存在はアインシュタインの一般相対性理論からの帰結として出て来るが、相対論から初めてブラックホールの存在を導き出したチャンドラセカールのことはあまりよく知られていないように感じる。今回の直接的観測は大きな成果かも知れないが、それは重要性からという以上に、興味の大きさから来るものだと感じないわけではない。重要性という観点で言えば、チャンドラセカールの理論の方が圧倒的に大きい。しかし大理論の常と言うか、チャンドラセカールが理論的にブラックホールを発見した当時は周りの研究者からはほとんど受け入れられなかったという。もちろん、今となってはチャンドラセカールに対する評価は絶大だが。

本質的に重要な成果は、多くの場合すぐには受け入れられない。なので大理論を目指すには、同時に小さな結果を出し続けることが要求される。それが出来ないと自滅することになるかもしれないので、結果が出て評価されるのが先か?自滅するのが先か?という争いになる。

成果の大小は研究費の大きさに必ずしも比例しない。今回のブラックホールの直接観測には多くの研究者と多くの観測施設が関わっていたようだが、おそらくかかったお金も膨大であろう。しかしブラックホールの存在を導き出したチャンドラセカールは、おそらく紙とペンだけでこの重要な結果を出したと思われる。ペンの力は偉大である。そして科学では往々にして、ほとんどお金をかけずにペンだけで大理論が出される。もちろん研究している分野によってかかるお金はまちまちだが、研究結果は必ずしも研究費に比例しないことは認識しておくべきである。もちろん、研究者が生活できるくらいの最低限のお金は必要だが。

数学の基礎の基礎。

「基礎」と言っても、初歩という訳では全くない。「土台」という意味である。数学の土台に当たるところは、数学基礎論(数理論理学)である。数学基礎論が数学の一番の土台である割には、数学科の学生でも基礎論を修得している人は少ないであろう。僕もその修得していない人のうちの一人だが、数学をやっていて基礎をたどって行くとやはり基礎論になるので、最近、基礎論が気になっている。

基礎論の金字塔は何と言っても「ゲーデルの不完全性定理」であろう。これはすごく単純に誤解を恐れずに言えば「数学にはバグがある」ということだが、そもそもここで言う「数学」とは何か?数学の定義とは何か?ということが問題になってくる。ここで言う数学とは通称「ZFC」(ツェルメロ・フランケル体系に選択公理を付け加えたもの)のことだ。ZFCは基礎論や数理論理学をやっている人以外には馴染みのないものだが、ZFCがどのようなものくらいかは知っておいた方が良いかもしれない。

数学基礎論は数理論理学とも言われるように、数学よりも論理学に近いかもしれない。数理論理学者のことを「ロジシャン」と言うらしい。数学はロジックだけでは発展しないが、数理論理学を進めるのは99%ロジックなのかもしれない。

数理物理を研究しようと思うと、当たり前の事だが応用数学だけでなく純粋数学も必要だ。その純粋数学の基礎を突き詰めると数理論理学になる。従って数理論理学を勉強することは数学者にとっても理論物理学者にとっても非常に有益であるに違いない。最近、数理論理学の専門書をチェックしたので注文しようと思う。ゲーデルの論文の日本語訳も手元にあるが、「原論文でも」と思ったが、原論文がドイツ語であるので歯が立たない。まぁ、日本語でも英語でもいい。とにかく原典に当たることが重要だ。研究にも利用できるような気が(少し)する。

数学は非常に広い。しかし本質を知るにつれて既知の数学が少し窮屈になってきた。しかし未知の数学は恐ろしく広いはずだ。その証拠に数学の発展はエンドレスに続いている。既知の数学を勉強して理解するのは難しくないかもしれないが、未知の結果を出すのには骨が折れる。まぁ、何本骨が折れても目標とする結果が出れば良いのだが。

大学初年級の数学と小学校の算数。

理系における大学初年級の数学と言えば、線形代数、微分積分、集合・位相だ。これはどこの大学も大筋は変わらないと思う。特に数学科では大学1、2年でこの三教科を叩き込まれる。この三教科が簡単か難しいかはともかく、大学初年級でこれらの教科を理解することは可能かもしれない。しかし「“なぜ”この三教科を叩き込まれるのか?」ということを理解している人はほとんどいないと思う。しかしこの「なぜこの三教科を勉強するのか?」ということを理解することは、数学を修めるうえで一つの目標かも知れない。

学年が進んで行けば、群論・環論・体論の代数学や複素解析、関数解析、位相幾何学など様々な分野に進むことになる。しかしこれらの分野を理解して行けば、その根底にある構造は線形代数、微分積分、集合・位相にたどり着く事に気づく。だからこの三教科を理解しておけばその後の理解は容易になるし、理解していなければ数学の本質が掴めない。線形代数、微分積分、集合・位相は全ての数学の根幹なのである。

このような数学的構造はあらゆる分野に応用できるのではないかと僕は思う。物理学や工学はもちろんの事、生物学や経済学、さらには哲学まで、全ての根幹はここにあると考えている。数学は理系教科であり文系の人には必要ないと考えている人は多いだろう。しかし数学的思考は文系であろうが日常生活であろうがどこでも応用されるものである。特に全ての事柄において「構造」を見抜くには数学的視点は非常に有効である。

最後に一つ述べたいことは、小学校の算数はバカには出来ないと言うことだ。小学校の算数をバカにする人は、100%数学を理解していない。小学校の算数には数学の重要なエッセンスが凝縮されている。例えば(あえて専門用語で言うと)「可換」という概念や「測度」という概念、更には論理構造など、これらの大学レベルの高度な概念のエッセンスは全て小学校の算数に表れている。しかし肝心の小学教師がこれを全く理解していない。特にこれらを全く理解していない教師ほど、小学算数を誰でも教えられるとバカにしている。そして嘘を教えている。

初年級に叩き込まれるものには必ずその理由が存在する。大学初年級の数学にしても、小学算数にしてもそうだ。そしてここをしっかりと理解すれば、その後はそれらの組み合わせに過ぎない。ここでは算数・数学を例に取って言ったが、これらの事はあらゆる分野に当てはまる事である。初年級の学問をバカにしてはいけない。

日本的学問の自由。

数学も科学も普遍的なものなので「日本的」と言うのはおかしいかもしれないが、あえて言うと日本的数学、日本的科学というものがあるような気がする。数学の発祥は二千年程前のギリシャに行きつくし、科学というものが厳密に成り立ったのは17世紀のニュートンに行きつくと言える。従って、数学や科学はヨーロッパ的と言え、質的にも量的にも圧倒的にヨーロッパの功績が大きい。もちろん20世紀以降で言えばアメリカの功績が大きいのは言うまでもないが。

では日本的な数学・科学とは、どういう所が日本的なのか?それは理論内容と言うより理論が内包する哲学にあると言える。特にその中でも京都学派と言われるものの個性は際立っている。京都学派と言えば、哲学の西田幾多郎、和辻哲郎から、物理学の湯川秀樹、朝永振一郎を思い浮かべるが、忘れてはならないのが数学の佐藤幹夫だ。それらの哲学は京都と言う土地が醸し出すものなのか、それとも研究者の個性の醸し出すものなのか、と悩んでしまうが、おそらくその両方ともであろう。最近、佐藤幹夫の理論に触れることが多いが、その一番特徴的な所は圧倒的な個性であろう。佐藤幹夫の理論には佐藤幹夫という人間の個性が凝縮されている。

京都は非常に自由だと言われる。そのような京都に憧れる研究者も多いが、最近僕が危惧しているのは日本全体に覆う制約だ。少し前のブログでも少し触れたが、法的にも日本の学問研究を規制する方向に向かっている。この流れは世界の学問の潮流とは真逆を行くものだ。こんな事では日本の科学や広く学問が衰退するのも無理はない。この様に学問に理解のない日本においては科学技術をリードして行けるはずもなく、それに伴って経済も衰退していくのが目に見えている。学問と経済は関係ないと考える人も少なくないが、現代社会では全てが科学などの学問によって支えられていると言っても過言ではなく、目の前の金銭的な事ばかり見て行う施策政策のもとでは、経済や金融などの金銭的豊かさまでも奪ってしまうことになるだろう。

今の日本はとてもじゃないが世界をリードしているとは言えない。科学などの学問や経済において日本は後れをとっている。しかし後れをとっているが故に目の前の事しか見えていない。今日本にとって必要なのは長期的展望である。確かに目の前を走るGAFAは気になるし、焦ることもあるだろう。しかしそれを追いかけてばかりいればその結果は二番煎じ三番煎じであろう。いや、二番三番ならまだましだ。それほど現在の日本の置かれた状況は深刻だ。

広い認識では、「教育が国を作る」と言われている。明治維新後の日本の発展、そして戦後の日本の発展は教育が作ったと言っても過言ではない。しかし教育も時代によって変えて行くべきだ。戦後の教育が上手く行ったからと言ってその教育が今の時代にマッチするとは限らない。それどころか今の日本の教育は世界的潮流に逆行している。それは国の政策レベルでも学校の教育レベルでも同じだ。僕が現場の教師から聞く話は非常にひどいものである。学問において自由を伝えるべき教師がそれと真逆な事を教えている。教育というものは一朝一夕で成果の出るものではない。だからこそ長期的展望をもって日本の学問、日本の教育というものを構築して行かなければならない。そこでキーワードになるのはやはり「学問の自由」としか考えられない。

数学は哲学、しかし哲学は数学ではない。

古代ギリシャでは、数学は哲学の一部門であった。もちろん科学も哲学の一部であった。それらの数学や科学は「自然哲学」と呼ばれていたみたいだ。すなわち、自然の仕組みを解明する科学は、自然に対する徹底的な思考、すなわち哲学なのである。しかし現代では科学と哲学はほぼ別部門になっている。

しかし現代でも、科学に対して哲学的な姿勢を求めることは重要ではないかと強く感じる。すなわち、数学や科学を「自然哲学」と捉えるのである。しかし何もマニアックな哲学と同じように捉える必要はない。大事なのは、数学や自然に対して「意志」を持って究明することである。数学はある意味ロジックであるが、しかしロジックだけで数学が成り立つ訳ではない。そこには数学者の意志や哲学が入魂されているし、計算だけならロジックだけで出来るかもしれないが、概念の定義などはロジックだけでできるものではない。

最近、ロジカルシンキングという言葉をたまに聞くが、数学においてはロジカルシンキングは当たり前の事であり、重要なのはロジカルシンキングを超えるところにある。数学的実態をどう視覚的に捉えるかとか、それまでにはなかったロジックを発明する必要もある。数学とは実に有機的で色鮮やかなものなのである。もし数学に対して無機的で機械的だと感じているのならば、それは数学の本質が見えていないということだ。

時には完全なロジックから、ロジック以上のものが生まれることもある。その代表が「ゲーデルの不完全性定理」であろう。ゲーデルの哲学がどんなものであったか?僕には知る由もないが、完全なロジシャンであるゲーデルであるからこそ、普通の数学者以上の有機的な偉大な哲学があったに違いない。

数学や科学において、本質的に直感はあてにならない。

数学や科学においては、実に直感はあてにならないものである。例えば有限の数を数えるという直感が無限の数では全くあてにならないことを示したのが、集合論を創始したカントールである。さらに空間や時間というものが直感から得られるものとは全く違うことを示したのが、特殊相対性理論を構築したアインシュタインであった。

数学や科学を構築するにあたっての大原則が二つある。一つ目は概念の厳密な定義、二つ目が厳密な論理による展開である。この二つがないと、数学や科学の発展はありえない。なぜ古代ギリシャ時代のユークリッドは誰もが当たり前に思えることを、一見回りくどく思えるような論理で展開したのか?それは物事の本質を明らかにするためである。当たり前に思えることを論理的に基礎づけしてみると、当たり前だと思っていたことが当たり前ではないことが明らかになる。そして本質は何で、それに付随するものは何かとういうことも白日の下にさらされる。2千年前のユークリッドの定式化なしに現代の科学の発展はありえないのである。

しかし19世紀の哲学者・ショーペンハウアーは「意志と表象としての世界」で、ユークリッドの議論を「義足を履くために足を切断するようなものだ」と言っている。ショーペンハウアーは「直感こそが一番正しいものだ」と論じているのである。さらに空間や時間に関する論理に至っては、その当時の科学的見識に照らし合わせても目を当てられないくらいひどいものである。ニュートンの科学的見識に照らし合わせてもショーペンハウアーの議論は幼稚なものであるが、「意志と表象としての世界」を出版したのは1918年なので、その十年以上前にはアインシュタインの特殊相対性理論と言われる時間と空間の物理学が世に出ている。ショーペンハウアーが不勉強だったのかとも思ったが、おそらく数学や科学に敵対心を持ち、それらを否定することに躍起になっていたのではないかと思われる。

僕は科学を専門としている人間の中では、かなり哲学を重視し好意を持っている方だと思っている。しかし最近、ショーペンハウアーをはじめとするドイツ哲学に失望している。そう言えば、微分積分学をニュートンと独立に発見したライプニッツは哲学者としても有名だ。ライプニッツの哲学に触れた訳ではないが、数学者であるライプニッツの哲学はおそらく自然科学的だと思われる。機会があればライプニッツの哲学にも踏み込んでみようと思う。

なぜ論理的である哲学で直感が重視されるのか?僕には理解できない。初めに述べた無限の数を扱う集合論や時間と空間を扱う相対性理論以上に、ミクロの世界を扱う量子論は反直観的だ。全てが直観とは反する振る舞いをする。科学では直感の呪縛から逃れることが大きな飛躍につながるのである。直観とは実にあてにならないものである。そう人間に気づかせてくれるのが、人間が科学を追究する一つの意義かも知れない。

加速器実験、理論の力。

素粒子物理学の研究は、理論研究と並行して実験を行うことが必要である。しかしこの素粒子実験というものはとてつもない巨額の費用が必要になる。現在東北で進んでいる加速器計画の建設費は数千億円だという。もちろんこれらの加速器研究は国際研究であるので全て日本が負担する訳ではないだろうが、それにしても加速器研究にかかる研究費は桁違いである。これらの研究は実利があるかと言われれば、金銭的な実利は期待できない。しかしこのような金銭的実利ははっきり言って小さな問題であり、重要なのは人類の知に貢献できるかということだ。

現在、素粒子の理論研究はとてつもないレベルにまで進んでいる。しかしそれを確かめる実験はそう簡単には進まない。先述したように巨額の費用がかかるためだ。しかし実験で正しいことが証明されなければ科学は正しい進歩をすることはできない。間違った事を基に間違った理論が進む危険性も大いにあるからだ。現在非常に進んでいる素粒子理論が正しいとは限らない。これが正しいということを証明するには、理論という範疇を超えて実験で証明するしかないのだ。

しかし、先進的な素粒子理論以外にもするべき理論研究は他にもある。それらに対する研究費を出すべき人に投資できているか?一度精査する必要があるのではないだろうか。もちろん加速器実験に数千億円つぎ込むのも良い。しかしつぎ込むべき研究者に数百万円の研究費を出せているか?大きなプロジェクトだけではなく、足元もしっかりと見なければならない。

加速器の巨大プロジェクトを遂行するのは、日本をはじめとする先進国の責務だ。このような研究を遂行できる国力は誇るべきものである。しかし理論の力も見逃してはいけない。実験に比べると理論にかかる研究費などは微々たるものだ。そこにしっかりと研究費を投資出来れば、費用対効果は限りなく高い。しかし現在、基礎理論にしっかりと研究投資できているかと言えば疑問に感じるところがある。実験の大型プロジェクトを遂行するのも非常に意義があるが、数学などで理論的大型プロジェクトを遂行することもそれ以上の意義があると思うのだがどうだろうか?

どれくらいの教養を目指すか?

専門を究めないといけないのは当然のことだが、教養も非常に重要である。しかし目指す教養のレベルは人それぞれ違う。お話を聞くようなレベルなのか?解説書を読むくらいのレベルなのか?それとも論文を読むくらいのレベルなのか?僕は専門外の教養であっても、代表的な論文くらいは読むレベルでありたいと思っている。例えばノーベル賞受賞者の研究を知りたいのならば、その研究者の代表的論文くらいは読みたいと思っている。

ということで、2018年度ノーベル医学・生理学賞受賞者の本庶佑博士の論文を読もうと、本庶博士のホームページを訪ねた。そのホームページには全論文のリストがあったので目を通して見ると、なんと637本の論文リストがあった。とてもじゃないが全部読めないし、どれが一番重要な論文かもわからない。そこで代表論文と書かれたリストを目を通して見たが、これも数十本ある。おそらくどれも重要な論文ではあろうが、さすがに数十本目を通す力はない。本庶さんの論文を読みたいが、どれを読めばよいのかわからない、と迷っていてもしょうがないので、とりあえず重要そうな論文を一本ダウンロードしてみた。専門的な遺伝子名などはよくわからないが、とりあえず目を通して見ようと読んではいるが、さすがに正確には理解できそうにない。でも色々と論文を読んでいくと、少しずつ分かってくるのかもしれない。空いた時間で専門外の生物学・医学関係の論文に当たってみようと思う。

専門家はスペシャリストであり、教養家はある意味ジェネラリストであると言える。しかしジェネラリストであっても軸となる専門は必要だし、スペシャリストであっても幅広い教養は必要である。そしてどれくらいの教養を得るかと言った時、専門研究者のように実験をして新しい見地を得るまでは行かないが、論文を読んで専門的知識を得るくらいのことはした方が良いと考えている。

最近、何だか知識欲がかなり湧いて、専門外の分野に関しても色々な文献を当たっている。もちろん専門外の事は専門的知識がないことも多々あるので基礎的文献を読むことは必要だが、いきなり最先端の論文に当たるのもありだと思う。ここで重要なのは最先端に“触れる”ではダメなのだ。最先端を“理解”しなければならない。そしてもちろん、専門分野を追究することも怠ってはいけない。専門分野に関しては新しい知見を生み出すことが要求される。二刀流という言葉は少し違うような気がするが、専門と教養の二刀流になることが、科学に生きる人間には必須であるように強く感じている。

脳と意識の科学のこれから。

20世紀後半からの科学では、人間の本質は脳であるという主張が強いように感じる。確かに心臓移植というものはあるが、仮に脳を移植するとすればそれはもう別人と言って良い。ある意味脳が本質的であるという意見は的を得ているが、脳も体がなければ生きていけない。そういう意味で、体は脳の付属品かと言えばそうは言い切れない部分がある。

しかし近年の科学の進歩は加速度的に速くなってきている。それに伴って、人間というものに対する見解も変化している。しかし脳の研究、さらに言えば意識の研究というものはまだ黎明期だと言える。意識の本質は何か?ということに対する科学的な答えはまだ99%出て来ていない。そもそも意識を科学するにはまず何から手を付ければよいか?ということさえはっきりしていないと言える。しかし始まったばかりながらも、意識の科学研究は確実に進歩している。

脳はある意味特別な臓器だと言えるが、元を正せば皮膚や心臓、血液などと同じように一個の受精卵を起源としている。そういう意味では心臓と脳を生物学的に100%区別することは出来ないのかもしれない。しかし99%区別することは出来るかもしれない。現時点での脳の研究、意識の研究は、人間やその他の動物などの脳を使って研究されている。しかし人間の脳に実際に極板を入れるなどということは倫理的に許されないから、研究者は試行錯誤して脳の本質を見出そうとしている。脳や意識の研究は、現代科学の中で最も困難で最も独創性のいる研究だと言える。

これからの科学研究によって、脳が他の臓器と違って神聖的な臓器だと言われる可能性もないわけではないが、これまでの流れを見ると最終的には、生物学的には根本的に他の臓器と何ら変わりがないと言われるような気がする。それ以上のことは生物学というより、脳のネットワーク的情報理論的なアプローチが取られるような気がする。脳という臓器にネットワークが乗っているという意味では脳は特別な臓器である。しかし「特別」と「神聖」は全く違う。この特別であるが神聖的でない脳という臓器の本質に迫ることは、人類にとって最もエキサイティングな挑戦だと言える。

世界が広がる?

現実の世界、つまり地球の広さは何千年経っても変わらない。しかし自分の頭の中の世界は思考の深さに応じていくらでも広がるし、また思考を怠ればどんどん狭くなっていく。よく自分の世界を広めるために世界を旅行するという人がいる。確かにそれは間違っていないだろう。しかし旅行で広がる世界なんてたかが知れている。それよりも思考によって広がる世界の方が圧倒的に広いのだ。何なら思考によって宇宙全体を飲み込むこともできる。しかし思考しなければ目の前の事さえ見えない。

世界を広める一番効果的な方法は、数学や物理を極める事だ。何なら生物学でもいい。生物学を究めることによって人体の細部に入り込むこともできる。化学は身の回りの現象を理解し、さらに面白い物を誕生させることが出来るかもしれない。地学を究めることによってこの地球を根本的に理解できるかもしれない。科学を理解するとは、自分の世界を圧倒的に広める事なのである。

科学を理解する時に大事な事は、マクロとミクロの双方から理解することだ。経済学でマクロ経済とミクロ経済があるように、科学の世界にもマクロとミクロがある。数学はそれがさらに顕著で、無限大と無限小までも厳密に扱ってしまう。マクロとミクロの両方から複眼的に世界を見ることによって、世界の広さは何十倍にも何百倍にもなる。単眼的思考は最弱であり、複眼的思考は最強である。

科学に哲学を持ち込めば最高である。世間では科学と哲学は相いれないものだという認識が強い。確かに科学と哲学は違う。科学の理論の中に哲学論理を持ち込むのは間違っている。しかし、科学に対する思考の中に哲学的要素を持ち込むことはいくらでもできる。というより、哲学無き科学は常に貧弱である。もし科学を究めようと思えば、広く学問を究めなければならない。超複眼的思考によって、誰もがまだ到達していない科学の頂に立つことを目指すことは、非常にエキサイティングである。

数式は大好きだが、数字は嫌いだ!

数学とは字のごとく数字の性質を扱う学問だが、高校までの数学とは違って大学以降の数学では意外と数字自体を扱うことは少ない。もちろん数学である以上、主人公は数字なのだが、その構造や演算の性質を記述する時は数字自体よりも数式で表す方が見通しが良くなり、一般性も高くなる。

タイトルで「数字は嫌いだ」と述べたが、ここで勘違いをしないでほしい。正確に書くと、「規則性のない数字、意味のない数字」が大嫌いだということである。だから数学で出てくる数字が嫌いなわけではない。簿記などのように何の規則性も数学的意味もない数字が大嫌いなのである。実際、数学に出て来る数字は非常に面白い。数学に出て来る数字と数式を縦横無尽に扱い、その性質を暴露することは非常に快感である。しかし簿記に出て来るような数字を見るとめまいがする。

なぜ近代数学は具体的な数字を扱うことが減ったのか?それは数学が高度な抽象理論なったことが原因である。昔は二次方程式の具体的な解を求めることが目的であった。それが「解の公式」という形で一段抽象化され、「5次方程式の解の公式が存在しない」というガロア理論へと高度に抽象化される。もちろん高度に抽象化された理論は難解かもしれないが、非常に豊富な内容を包摂する。そのような実り豊かな数学の世界を垣間見た数学者は、その世界からは抜け出せなくなる。それはいわば「数学中毒」と言えるかもしれない。しかしそのような中毒なら思う存分かかってみたいと思う。

世の中では抽象理論を敵視する風潮がある。抽象理論なんて何の役にも立たず、具体的な事象を示すことが大事だと。確かに社会で生きるためには具体性が最も重要なのかもしれない。しかし社会を高い視点で取りまとめる立場になるほど、抽象理論が威力を発揮する。商売をするには具体的な商品の値段が重要だが、経済政策を取りまとめる政府にとっては抽象理論が軸となる。数学も、身の回りで必要になる計算は具体的な数字の世界であるが、数学の世界の本質をより掘り下げるためには高度に抽象化した理論が必要になる。

物事をどれだけ抽象的に捉えることが出来るかということは、言い換えればその人の思考レベルを表していると言える。もし自分の生きる上でのホームグラウンド、あるいはテリトリーがはっきりしているのならば、そこでどれだけ思考や技術を抽象化できるかということに取り組むことは意味のある事である。さらに、もし自分がその世界のプロであるならば、抽象化の作業は欠かせない。抽象化の度合いはその人のステージなのである。

一般理論と特殊理論。

数学や物理理論は大きく一般理論と特殊理論に分けられる。もちろんその中間的な性質のものもあり、そう厳密に分けられる訳ではないが、大まかにはこのように分けられるであろう。一般理論には一般理論の面白さがあり、特殊理論には特殊理論の面白さがあるので、どちらが面白いかと一概に言える事ではないが、僕はどちらかというと一般理論の方が好きだ。

数学における特殊理論の代表は、特殊関数と言われる部類のものだろう。特殊関数とはある特殊な性質を持つ関数の事だが、僕は以前特殊関数にはほとんど興味がなかった。しかし最近ある事に気づいた。特殊理論と言われるものでも、それをどんどん掘り下げて追究して行くと一般理論にたどり着くのだ。特殊理論とは一般理論という大陸から離れた小島という捉えられ方をされることが多いが、その深い所ではその小島と一般理論大陸は強くつながっているのである。そこに特殊理論の醍醐味がある。最近はパンルヴェ方程式と言われる特殊な方程式が、百年近く経った今になって一般理論と結びつきそうだという研究結果もあるみたいだ。

ところで、“特殊”相対性理論はその名に反して最も“一般的”な物理理論と言える。“一般”相対性理論はそれに比べると少し特殊だ。物理理論においても、特殊な理論をさらに掘り下げると一般理論へと昇華することが多い。しかし数学と比べると、物理理論は一般理論とは言え特殊性が強いように感じる。最近では物理理論をきっかけに新しい数学理論が出来たり、その逆の事が起こったりということが日常茶飯事である。物理の枠組み、あるいは数学の枠組みということにこだわっていれば、数学と物理の間にまたがる本質的な仕事は出来ない時代なのだろうと強く感じる。

ここまで物理と数学における一般理論と特殊理論に関して述べたが、そのような構造は様々な所で見られる。経済でも「マクロ経済」と言われる一般理論のようなものから「ミクロ経済」と言われる特殊理論のようなものがある。ネットビジネスにおいても「プラットフォーマー」という一般的な部類から、プラットフォーマーが作った枠組みの中でどうビジネスを行うかという特殊な部類がある。そのような例を見ても、一般的な部類の方がその適用範囲の広さからより規模の大きい仕事が出来るようである。しかしプラットフォーマーのような一般的な仕事も、元を正せば非常に特殊な仕事から発展していることに気付く。なので一般的な部類で仕事をするにしても、特殊な仕事は無視できない。いかにして一般と特殊の間を行き来してその間の本質的なつながりを見抜くか?そのような本質を見抜いた時、仕事のスケールが飛躍的に大きくなることであろう。

地球船宇宙号?

「宇宙船地球号」とは非常に的を得た命名である。その名前の中には、宇宙と比べた時の人間の存在の小ささが表現されている。しかし現在、情報社会が飛躍的に発達し、コンピューターは極度に高度化し、科学技術の発展も留まるところがない。そしてそれと同時に科学理論も常識では考えられないような展開を見せている。そのような現状の中、宇宙というものをどう捉えるかと考えた時、もしかしたら「地球船宇宙号」なんてこともあり得るのではないかとふと考えてしまう。

もちろん「地球船宇宙号」などというのは、考える僕のおごりかもしれない。いや、そうであってほしいと思う。人間はまだ月までしか到達していないし、あと数十年経っても太陽系の外には出ることはないかもしれない。しかし人間の知識は過去から未来まで宇宙全体を飲み込もうとしている。少なくとも物理理論はそのような領域に達している。宇宙の誕生の原理さえも解明しようと必死になっている。ただこれらの理論は検証することが非常に難しく、正しいかどうかを判定できないところがもどかしい気がする。

一昔前まで、人間が自然(地球)を支配するという思想があった。現在は人間も自然の一部であるという思想が強くなったが、技術的にはかなりコントロールすることが出来る。特に負の支配、つまり環境破壊に関しては、人間の行動を意識的にセーブしなければ一瞬にして地球を破壊できるレベルまで来ている。しかしその逆、つまり破壊したものを作り直すことは非常に難しい事業であり、お金も時間も膨大にかかる。そういう意味では人間が自然(地球)を支配するというのは幻想かもしれない。

しかし人間の知は無限であるような気がする。それは何も人間の知によって全てのことが出来るという意味ではなく、自然法則をエンドレスに理解できるということである。宇宙から素粒子まで、人間の知のスケールは果てしなく大きい。とは言え、まだまだ道半ばと言える。そのような人間の自然科学の知は、科学“技術”へと応用される。そこが面白い所であり、恐い所でもある。

科学技術というものは必ずしも豊かさだけをもたらすわけではなく、負の側面もある。特に現代技術ではそれが顕著だ。最近ではゲノム編集された子供が生まれたということが話題になった。一人の科学者だけなら完全に倫理観を守ることはできるが、科学者が何万といる中ではその中の何人かが倫理観に反した行動を取るともわからない。さらに科学技術者自身は社会の発展のためと思ってしていることでも、それが破滅を招くことも十分にあり得る。科学の発展は進化か?暴走か?それが実際に行ってみないとわからないところが科学技術展望の難しい所である。

面白い事、発見!

最近、面白い理論を知った。数学の代数的な理論であるが、知ったというより「気付いた」と言った方が正確かもしれない。昔からその理論の存在は知っていたが、最近必要に迫られてその理論の専門書を読むと、びっくりするくらい面白い理論であることに気が付いた。以前の僕は代数学は専門外であると全く手を付けることはなかったが、いざ手を付けてみるとこれが非常に面白い!物事というものは、必要に迫られて取り組む方がより面白く感じられ、意外な発見をするものかもしれない。

僕は計算よりも構造に興味がある。その理論も計算理論というよりも構造理論だ。しかもその構造の理解の仕方が面白い。計算半分、図を半分という具合に、視覚的に構造を訴えてくる。そして理論の適用範囲が非常に広い。代数学の理論ではあるが、解析学、幾何学、そして数理物理学にも縦横無尽に利用されている。良い理論というものは、無限の適用範囲があるのかもしれない。

物事に取り組む時、壁を作るのは好ましくない。専門ではないからと言って初めから手を付けないのは、あらゆる意味で不生産的だ。必要なものは何でも取り組んで行く、そのような姿勢で取り組むことが大きな成果へとつながるのだと思う。専門にこだわり続けば永遠に蛸壺の中で過ごすことになってしまう。

僕は基本的には分野の区別というものをしない。数学と物理学という区別も意識しないし、最近は全く専門外と言えるかもしれない生物学の論文も読んだりしている。分野の壁とは人間が便利上の理由で人工的に作ったに過ぎない。そもそも自然に物理学と化学の境目なんて存在しない。化学と生物学も同じだ。分野の壁にこだわるのは非常にバカバカしいことである。

数理的自然と自然科学は全てが一体化して構成されている。数学の理解なしに物理学の理解はありえないし、物理学の理解なしに化学や生物学の理解はありえない。数理と自然科学を一体として理解する姿勢がなければ、科学の本質は永遠に理解できないだろう。

より深いレベルで!

理論には深さがある。表面的な所から土台となる部分まで、深度によってそれぞれが階層をなしている。最近の技術で言うと、プログラミング言語が典型的な例かもしれない。表面的なプログラミング言語からアセンブリ言語まで、それぞれがそれぞれの階層で役割を果たし、コンピューターをプログラムしている。

数学にも階層が存在する。どのように階層分けするかはそれぞれの数学者によって違ってくるが、おそらく一番深い所にあるのが数理論理学であろう。しかし数理論理学は数学というよりむしろ論理学の範疇にあると言え、一般の数学者にとっては近寄りがたい存在である。

余談であるが、数理論理学の定理であるゲーデルの不完全性定理は何とも不思議で壮大な定理である。不完全性定理は、今風に言えば「数学にはバグがある」とでも言うべきであろうか。数学は完全無欠な体系であると信じられていたのが、数学は不完全であるというのである。不完全性定理のゲーデルの論文の日本語訳は岩波文庫でも出ているが、通常の数学ではなく論理学的な流儀で書かれており、理解するのは簡単ではない。

ゲーデルの不完全性定理が数学の一番深い階層にある理論だとすると、一番表面的な所にあるのは応用数学ということになるであろうか。とは言え、応用数学という言葉を持ち出すのは適当ではないかもしれない。なぜなら応用数学とは理論名ではなく、さらにあまりにも言葉の適用範囲が広く的確に指定できない。

深い階層であればあるほど抽象的であり奥が深い。深い階層の数学には憧れもあるが、手ごわい相手でもある。20世紀の偉大な数学者であるジョン・フォン・ノイマンは、若い頃は基礎的な分野、つまり深い階層で研究しており、晩年はコンピューターのような表面的な階層に移って行ったようである。逆に表面的な階層から深い階層へと移る人もいる。深い階層と表面的な階層のどちらが偉いかという問題ではないが、どちらのテリトリーで研究するにしろ深い階層の存在を意識することは非常に重要であると思う。

二つの方法。

問題を解決するには二つの方法がある。一つは制限を付けて特殊化する方法。もう一つは制限を外して行き一般化する方法。どちらが良いかは臨機応変に考えなければならないが、僕自身は一般化して行く傾向がある。

制限を付けて特殊化して行くことのメリットは何か?それは問題を視覚化できやすくし、何を計算すればよいか見通しが良くなることである。しかしその一方、細分化されすぎて適用範囲が極度に狭まってしまう可能性が高い。

では、制限を外して一般化するメリットは何か?それは一般化されるが故に抽象的になり、適用範囲が圧倒的に広くなる可能性が高くなることである。しかし一歩間違えると自明な結果しか得られず、何の意味もなさなくなる可能性がある。

確実に結果を出そうと思えば、制限を付け特殊化して行くことが非常に有効である。しかしその結果自体はちっぽけなものになるであろう。一般化して行けば問題が壮大になり、あらゆる知識が必要になる。従って問題を解決するための準備が膨大な量にのぼり、準備だけで息切れしてしまう可能性がある。しかしもし結果が出れば非常に大きな成果になるであろう。

フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)受賞者の広中平祐が学界で問題提起した時、多くの数学者は制限を付けて特殊化して部分的に解決すべきだと言ったらしい。しかしこれまた偉大な数学者の岡潔は、むしろ制限を外して一般化して問題を解決すべきだと言ったという。その結果、広中平祐は一般化して問題を解決することに成功し、フィールズ賞を受賞したという。

問題を解決するに当たり、特殊化するか?一般化するか?これは取り組む問題にもよるが、それ以上にその人の思想が顕著に表れるところだと思う。しかしもし抽象化することに長けているのならば、一般化して問題を大きく捉えるべきだと僕は強く感じる。

リーマン予想が解けた?

去年終わり頃の朝日新聞デジタルのニュースの中に、「リーマン予想証明?」という記事があった。リーマン予想は少しでも数学をかじったことのある人なら、名前ぐらいは聞いたことがあるだろう大問題だ。しかしこのような大問題は、解けたというニュースが流れては「間違っていた」と否定されることがほとんどであり、今回のニュースも怪しいものではと記事を見てみたら、その解いた数学者がなんとマイケル・アティヤ大先生だということでびっくり仰天した。

アティヤ先生は現在89歳で、数学者の間では「アティヤ・シンガーの指数定理」や「ADHM構成」など、知らない人はいないのではというくらい超一流数学者だ。僕の手元にも、アティヤの論文(指数定理関係など)は数編置いてある。ちなみに、アティヤ先生の専門は幾何学や数理物理学である。しかし今回のリーマン予想は(僕はそっちの方面には詳しくないが)、数論関係の問題なので、アティヤ先生のこれまでの専門とは少し畑違いなのではと僕は感じる。しかし一流数学者ほど分野の垣根にとらわれず、幅広く大きな業績を残すものである。

リーマン予想には僕はあまり詳しくないが、160年未解決であったらしい。まだアティヤ先生の証明が正しいとは確定していないが、現在査読が進行中であるようだ。そして誰もが、アティヤ先生ならあり得るかもと思っているに違いない。記事によると、アティヤ先生は別の(物理的)問題を考察する中で、副産物としてリーマン予想が解けたと言っているようだ。

果たして本当に解けたのかどうか?解けたのなら大きなことであるし、もし間違っていたのならリーマン予想に取り組む他の数学者にとっては希望が繋がれる。おそらく今年中には解けたのかどうかが一応確定するのではないかと思われる。

時代によって変わる本質、変わらない本質。

よく「時代が変わったから」と言われ、納得させられることがある。しかし物事の本質は時代によってそう大きくは変わらないことが多い。時代によって変わるのは物事ではなく、人間の方だ。人間の受け取り方、理解、解釈が時代によって目まぐるしく変わるのである。

例えば、人間の死という現象自体はどの時代も変わらない。しかし時代の文化、認識、そして科学の発展によって、人間の死というものが持つ意味が大きく変わるのである。そのように、時代によって変わる本質だと思われているものは、大きく人間が介する物事が多い。人間が関与しているからこそ、本質が急激に変わったりするのである。

では科学の本質は時代によって変わるのか?これは非常に難しい問題である。もちろん、科学というものは常に発展し続けており、科学の本質と思われるものは時代によって大きく変わってくる。しかしこれも、科学を作っている人間の理解が変わっていると言える。自然科学の言う「自然」自体は時代によって変わるはずもないように思える。例えば運動方程式が時代によって変わることはない。科学の本質は「自然」の側にあるのであって、人間は「理解させていただいている」と言う方が正しい。

しかし、自然の側にも時代によって大きく本質が変わるものもある。その代表は「生命」である。生命というものは絶えず進化しており、数億年前の生命と現在の生命は構造的に大きく違うところがある。例えば、原核生物と真核生物では本質的に異なる部分が多い。とは言え、「生物」と言う意味で本質的に共通する部分も大きいが、これらの違いは時代の進化による本質の変化と見て良い。これらの変化は人間の理解の変化などと比べ物にならないような本質的変化である。

近年、コンピューターの進化が激しい。コンピューターはもちろん人工物であるが、その本質は情報理論的構造、及び論理構造であり、数学にかなり近い構造をしている。僕は、コンピューターの進化は、「第二の生命の変化」だと考えている。つまり、コンピューターの進化は時代によって変わる本質的変化だと言える。しかしその進化は超絶的に速い。生命が数億年かけて進化したようなことを、コンピューターは数年で成し遂げてしまう。コンピューターは単なる道具ではなく、一つの大きな科学的対象だと捉えるべきである。

本質を捉える際は、変わる本質と変わらない本質を見分けなければならない。そのことを理解しないと、物事の本質に踏み込んで理解することはできない。

知の爆発。

芸術家の岡本太郎が「芸術は爆発だ!」と言ったことは有名だ。僕には芸術がどう爆発するのか理解できないが、一流芸術家の岡本太郎がそう叫んだのなら、そういうこともあるのだろう。

芸術とは違うが、知も爆発する。それは個人レベルでもそうだし、社会レベルでもそうだ。しかし何もないところに知が爆発することはない。爆発するまでに知の蓄積が脈々と受け継がれて積み重なった所にしか知の爆発は起きない。だから何か爆発的な結果を出すためには地道に努力するしかないし、社会においても知を寛容に受け入れないと知の爆発は起きない。

物理学における知の爆発と言えば、誰もが20世紀初めの量子論・相対論革命を思い出すだろう。しかし量子論も相対論も、何もない所に降って湧いた訳ではない。それらが誕生するための基盤が着々と固められていたのである。そこにハイゼンベルグだとかシュレーディンガー、そしてアインシュタインがとどめを刺したということだ。

知の爆発はそんなに頻繁に起こる訳ではない。しかし常に知の爆発を起こすための努力はし続けるべきである。そしてそのためには、山中伸弥教授の言うVW(ビジョン&ハードワーク)が必要なのは言うまでもない、努力は必要だが、それだけでは生まれない。ビジョンが必要不可欠なのだ。日本人はハードワークは得意だがビジョンがないと言われ続けてきた。そして今ではそのハードワークまでもが失われつつある。そのような時代なのだと言われればそれまでであるが、個人が自分の立てた目標を成し遂げようとするときにはハードワークは必要だ。もちろんハードワークをしない自由もある。それはすべて自己責任と言える。

知の爆発を起こすべく、個人も社会もVWを掲げたいところだが、片一方が出来る人はそれなりにいても両方が出来る人はそうはいないのかもしれない。山中教授はiPS細胞という知の爆発を起こすことに成功した。そして生命科学の分野ではゲノム編集などの知の爆発が立て続けに起きている。他分野の人間はそれらを指をくわえて見るのではなく、周りの人に指をくわえさせるような知の爆発を起こさなければならない。