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今の安倍政権は、倒れる要素しか見当たらない。

16日、政府(国土交通省)によるGoToトラベルキャンペーンが、都内在住の人に対して適用しないと言う決定がなされた。しかし都内在住者だけ適用しないと言う判断はいろいろな意味で問題だ。確かに現在、コロナ感染者は東京都が圧倒的に多いが、その周辺や大阪周辺でも拡大の一途をたどり、これが全国的傾向になるのも時間の問題だ。おそらく現在の都内の状況が二週間後の地方の状況になると考えるのが正常な展望であろう。なので、現時点だけの状況を見て都内在住者だけを除外するのは長期的展望に欠けるものだと言える。もちろん、都内在住者だけ除外するのは公平的観点からも適切ではない。おそらく二日後には全国でGoToキャンペーンが中止になると容易に想像できる。いや、そうしないと観光業界を助けるどころか、観光業を含めた日本産業全体に大打撃を与えてしまう。

それにしても、今回のGoToキャンペーンの不手際と言い、今の安倍政権は倒れる要素しか見当たらない。河井夫妻の金銭問題、そしてGoToキャンペーンを含むコロナ対策と言い、政府の対策は全て後手後手に回り、そして保身にしか感じられない。なぜ総理に強大な権力があるのか?もちろんこれには様々な議論があるではあろうが、今回のコロナ対策に関して言うと、対策するのに色々と時間がかかるものを総理の独断で迅速に進めることができると言うのも大きな理由であろう。なので今回のGoToキャンペーンに対しても総理の独断で迅速に全国で取りやめにすべきであった。しかし現実は、世論に押されて渋々とと言うところであろう。

もちろん、観光業界は今は壊滅的であり、迅速に対策を取るべきであろう。ならば他の手段はないのか?一番良いのはコロナが収まった後に大々的に進めることであろう。しかし現在の観光業界(そしてもちろんそれ以外の業界も)は一刻も争うような危機的状態である。しかし今回のGoToキャンペーンの予算は一兆円以上ある。ならば別の手段も考えるべきではないか?例えば観光業界への補助に回す方がまだ賢明だと言える。もちろん、例え一兆円と言う巨額な資金でも、全てに等分すれば大した額にはならない。ならば一時的な融資なども考えられる。

はっきり言って、このタイミングでのGoToキャンペーンなどほとんどの人は望んでいない。おそらく観光業界の人達の中にも有難迷惑だと考えている人もいるだろう。はっきり言って、今回のこの時期でのGoToキャンペーンは政府の失策である。もちろんこれだけで安倍政権が倒れるとは思わないが、しかしここ最近の様々な不祥事、そして最近の安倍首相の思考力・決断力のなさと保身に走る様子を見れば、政権が倒れるのは時間の問題だと言わざるを得ない。

コロナのワクチンに対する展望。

現在、コロナウイルスに対するワクチン開発が熾烈になって来ている。ではそのようなワクチン開発は果たして成功するのか?結論から言うと、運が良ければ早ければ来年前半くらいには実用化される。しかし運が悪ければ10年経ってもできない。ではここで言う「運」とは具体的にはどのような事か?

それには遺伝子が関係してくる。我々人間の遺伝子はDNAが主体になっているが、コロナウイルスの遺伝子はRNAの形を取っている。ではDNAとRNAは何が違うのか?簡単に言うと、DNAは二重鎖(いわゆる二重らせん)であるが、RNAは一本鎖である。それによって遺伝情報を転写する時に、DNAは修復機能があるがRNAには修復機能がない。それによって頻繁に変異が起こるのである。

現在、世界で蔓延しているコロナウイルスは一種類だけではなく、変異に変異を重ねて亜種が数十あるとも数百あるとも言われている。なのでこのような全ての種類に効くワクチンを開発することは非常に困難だ。そして今日効くワクチンが明日のコロナウイルスに効くとは限らない。HIV(エイズウイルス)に対するワクチンが数十年たった今日でも完成していないことは大まかには同じような事であり、今年効くインフルエンザワクチンが来年には効かなくなるのもこのような事である。

ノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶佑教授はある記事(文藝春秋digital)でこのような事を述べ、ワクチンに対する過度な期待に対して警笛を鳴らしている。本庶教授自身はワクチン開発に対して悲観的だ。本庶教授の専門は免疫学である。つまりワクチンに関してはプロ中のプロ、そのような研究者が悲観的に述べているのだから、これから進む道はかなり厳しいと言える。しかし本庶教授は悲観だけを述べているのではない。ワクチンだけでなく治療薬の開発にも力を入れるべきだと述べているのである。たしかにワクチンなら特定のコロナウイルスにしか効かない可能性が高いが、治療薬なら全てのコロナウイルスに効く可能性が高い。

しかし、ワクチンと治療薬は役割が全く異なる。ワクチンはウイルスにかからないように予防するものであるが、治療薬はかかった後に投与するものである。出来る事なら治療薬よりもワクチンができた方が社会的効果は圧倒的に高い。しかし現実は、ワクチン開発につぎ込んだ数百億、数千億円がパーになる可能性も高く、治療薬を同時進行で進める必要があるようである。

医学の専門外の人(安倍首相をはじめとする政府を含む)から見れば、さっさとワクチンを作って押さえてしまえと簡単に言うが、現実はそんなに単純なものではないようである。自分の人生に対して楽観的になることは時には大きな力になるが、コロナに対してはむしろもっと慎重(悲観的?)になるべきであるようである。

社会がますます表面的になって来ている。

普段生きていて色々と感じることがあるとは思うが、僕は社会が表面的になって来ているのではないかと強く感じている。確かに社会は悪い側面を無くし、皆が暮らしやすい社会に向かおうとしていることは間違いない。しかしそれに向かっている事と、本当にそうなっているかと言うことは全くの別問題だ。何かを良くすれば別の何かが悪くなってくる。まさしくもぐら叩きである。僕は日本に住んでいるので日本の事が気になってしかたないが、おそらく海外でも中身は違え大筋では同じであろうと思われる。

その中でも僕が特に感じているのは、同調圧力から表面的になることである。特に日本では、皆と同じことをしなければならないと言う意識が強く、一人だけ違うことをしていると奇異な目で見られることが多い。よく言われるように、出る杭は打たれると言うことである。これを解決する方法は一つしかない。それは出過ぎた杭になることである。四六時中野球ばかりしている少年がプロ野球選手を目指していると言うと、「そんなのは無理に決まっている。バカじゃないか!」と言われる。しかしメジャーリーグで活躍すれば、少年時代に野球に打ち込んでいたことが美化される。イチローさんが正しくそうであったらしい。研究者でも同じだ。ノーベル賞を取ると断言している少年がいたらどう思うだろうか?やはりそんなのは無理に決まっていると多くの人は言うであろう。それを覆すには実際にノーベル賞を取るしかない。もちろん、研究者の一番の目的はノーベル賞を取ることではないのだが。

表面的になって来ていると言うことは、言い換えると無難になって来ていると言うことである、近年、日本の科学研究のレベルはどんどん低下していると言われている。その理由として科研費の削減などが言われているが、僕はそれが本質ではないと考えている。研究者が、特に若手の研究者がどんどん無難になって来ているからではないかと思っている。その背景には、研究ポストに就くことが困難になり、確実に研究ポストに就くためには小さく無難な結果を継続的に出すことが求められると言うことがある。しかしそれらの研究者は、本当にそれが自分の求める姿なのだろうか?もしそうなら本当に悲しい話である。

もちろん社会の表面化は、日常生活においても色々と表れている。いや、日常生活の方が顕著に表れているのかもしれない。人付き合いでは自分を表面的に繕って、良い側面だけを見せようとする。しかし苦しんでいる自分も本当の自分自身なのである。だから僕はブログでも正直に苦しい時は苦しいと書くことにしている。確かにインスタグラムやフェイスブックに苦しい様子を載せてイイねがもらえるわけないし、もしイイねされたら逆に落ち込むであろう。社会が表面的になるにつれ、人間までもが表面的になってしまう。そこが大問題である。それは言い換えると、本質を見抜ける人間が少なくなってくると言うことだ。たしかにもともと本質を見抜ける人間と言うものは少ない。それがさらに少なくなるのだ。ただ表面を変えること自体悪いことではないと僕は思っている。しかし重要な事は、表面と同時に本質的な中身も良い方向へ変えなければならないと言うことだ。

コロナで社会はどう変わるか?

今年になって、社会は、そして世界は大きく変革してきている。それは良い意味でも悪い意味でも大きな変革だ。もちろん現時点だけを切り取って見ると、ほとんどネガティブのような事柄しか見えない。しかし少ないながらも、ポジティブな変革も見え始めている。そしてそのような少数のポジティブな変革が、今後数年数十年にわたって大きな波となるのではないだろうか?

一番目に見える変化は、仕事のオンライン化、そして街のスーパーやショップで取られているレジなどの前のビニールシートによる隔離だ。仕事のオンライン化は想像もしないような職種にまで広がっている。もしコロナがなければオンライン化など1%も考えなかった職種まで、ありとあらゆる分野まで広がっている。このようなオンライン化は果たして一過性のものなのだろうか?否、これはコロナ禍が去っても多くの職種で根付くであろう。そもそも当たり前のように思っていた通勤と言う概念も、必ずしも必要なものではなかったことが明らかになって来ている。もちろん今後、オンラインから元の対面式に戻る職種もあるだろう。しかし半分くらいはオンラインのまま存続するのではないだろうか?

先日、病院に行く機会があった。小さな診療所だがそこでは医者と患者がビニールシートで隔離されていた。果たしてそこまでする必要はあるのかとも思うかもしれないが、病人と日常的に関わる医者にとっては命に係わる死活問題だ。現在はコロナ対策と言う意味合いがほとんどだが、コロナ禍が去った後でもインフルエンザなどの感染症の予防には大きな威力を発揮するであろう。なのでこのようなビニールシートによる隔離は今後定着していく可能性はおおいにある。

コロナは人々を追い詰め、大きな脅威をもたらしてきた。しかしそれによって人々はこれまでの常識を考え直し、それが常識ではなかったことに気づくこととなった。そしてそのことが次代に向けて大きな変革の波となって行く。コロナで没落する人もいれば、コロナがきっかけで大きく成長する人々も出て来るだろう。そこには常識にこだわるか否かと姿勢が大きく影響してくる。常識にこだわり現状維持にこだわり続ければ、長期的には必ず没落していく。常識を疑いリスクを取って未知の世界に飛び込むことが、危機的状況を脱するには必ず必要だ。さあ、僕もこれからどんどん未知の世界に飛び込んで行こう!

近くの本屋に行ってみた。

緊急事態宣言が出てから、近くのショッピングモールも一部の店舗(スーパーやドラッグストア)を除いて全部休業していた。その間、スーパーに買い物に行くと二階から上が全てシャッターで閉まっており、いかにも感染症が蔓延していますと言うような雰囲気が漂っており、その風景を見るだけでも気分が滅入りそうになっていた。もちろん、人通りもポチポチと言うくらいで閑散としていた。

21日、ついに僕の住んでいる兵庫県も緊急事態宣言の解除が決定した。それに合わせて今日から近くのショッピングモールも全店再開することとなった。そこでさっそく三階にある本屋さんに足を延ばしてみることにした。

人通りは以前の三倍から四倍くらいあり、本屋さんもなかなかにぎわっているような気がした。もちろん現在も三密には気を付けなければいけないので、人でにぎわっていることには不安はあったが、それ以上に明るい雰囲気に心が安らぐように感じた。雑誌を手に取って眺める喜びが何よりも格別だ。やはりAmazonだけに頼っていると、必要最小限のものしか手に取れないので、いわゆる無駄(良い意味で)である一般雑誌を気楽に読めるのはありがたいものだ。

ただ緊急事態宣言が解除されたからと言って油断してはならない。ほぼ確実に第二波はやってくる。なのでマスクは手放せないし、人との距離も取らなければならない。非常に憂鬱な状況ではあるが、そのような気持ちがちょっと緩和する本屋のひと時であった。

コロナとの共生。

現在、新型コロナによるパンデミックの出口は見えてこない。それもそのはずである。まだ人類と新型コロナとの歴史はたった半年。まだワクチンの開発も始まったばかりだし、少しずつコロナ治療に効果的な既存薬もポチポチと見つかってきつつあるところだ。しかしこのような状況が永遠に続くわけではないし、どこかで出口が見つかることはほぼ確実(97%くらい)だ。

しかしその出口がいつになるかはまだ確実に見通せてない。ワクチン開発は一年程で完成するはずだと言われているので、一年半後くらいには解決している可能性は高い。しかしそれも希望的観測である。もしかしたら数年数十年コロナとの戦いが続くかもしれない。どちらにしても、パンデミックが解決するまではコロナといかにうまく付き合うかと言うこと、つまり共生を考えなければならない。もちろん、気分の良い共生では全くないが。

では共生とは具体的にはどのような事であるか?それは一番には、感染者の数を常に医療のキャパシティ内で収めると言うことだ。最近「ハンマー&ダンス」と言う言葉が生まれている。つまりハンマー(都市封鎖によって抑え込む)とダンス(都市封鎖の解除による自由によって感染者が増加する)を繰り返すことによって、感染者の数を医療のキャパシティ内で収めるモデルだ。感染の数理モデル的に、民衆の大部分が抗体を持つまでは流行が収まらないことがわかっている。そして抗体を持つには二つの方法しかない。一つは感染すること、そしてもう一つはワクチンによって人工的に抗体を作ることだ。そしてこのように多くの市民が抗体を持つまで、ハンマー&ダンスを繰り返すことが必要になる。その間は、いかにうまくコロナと付き合うかと言うことが一番重要な課題である。

ただ、ワクチンができないと何も解決しないかと言えばそうではない。有効な治療薬が現れるという可能性も十分にあるからだ。つまり治療薬によってコロナは恐ろしい病気ではなくなり、もし感染してもほとんど死ぬことはなくなると言うことだ。しかしこれもあくまで治療のための手段であって、予防するワクチンとは役割が質的に違う。しかし近い将来、新型コロナが季節型インフルエンザ的な認識になる可能性は十分にあるし、もしかしたら天然痘のように絶滅させることもできるかもしれない。しかし楽観論だけではいけない。ウイルスには突然変異がつきものである。いつコロナが強毒化するかもわからない。未来のことは確実に見通せないが、パンデミックが終息するまでは可能な限り良質(つまり被害の少ない)共生をすることが求められる。

5Gで完結する可能性と、5Gの危険性。

今、ネットの世界(移動通信システム)が4Gから5Gへ変わる過渡期にある。5Gに対しては非常に大きな期待が寄せられ、実際に具体的な応用に対するビジョンはかなり明確であり、それらのどれを見てもかなり大きな革新が成し遂げられるように思える。具体的には自動運転、遠隔操作による医療(手術)、さらにエンターテイメントの世界において内容が具体的に詰められている。それらのビジョンがいつどのくらい現実化されるかはまだ未定ではあるが、色々な話を聞いてみるとどれも近い将来(2、3年後?)にはそれなりの形になっているのではとも感じられる。

このような5Gに対するビジョンから感じられる威力を見て、一部の世界では早くも6Gに取り組もうと言う話が出てきている。しかし僕は今から6Gに取り組むことにほとんど意味はないのではと考えている。その理由は、6Gに取り組む事に対する動機である。5Gに関しては、自動運転を始め具体的な動機が数多くある。しかし6Gを考える動機に具体性がほとんどなく、ただ現在の5Gのインパクトに刺激されて、6Gを先取りすれば巨大な利益を得られるのではと言うそれのみのように感じられてならない。それは自己啓発本を読んで大きなビジネスに取り組もうと考えることと大して変わらないように思える。

そして僕が現在思うのは、5Gでほとんどの事が完結するのではと言うことである。少なくとも現在、5Gに対する欠点は聞こえてこない。例えば4G以前の時代では、通信量の制限に関してはずっと不満の声があった。それが5Gではリミットレスになる。ただ5Gに何も問題がないのかと言えば、一つだけあると僕は考えている。それはセキュリティ問題である。24時間ネットにつながっていることから、個人の行動などがダダ漏れする危険性がある。つまり事実上、24時間監視される危険性をはらんでいるのである。ただ現在、このようなセキュリティに関する危険性の声はあまり大きくは聞こえてこない。しかし5Gが普及すれば、いずれはこのような事は問題になると僕は考えている。

なので、もし6Gを本格的に考えるときが来れば、その中心はセキュリティ問題になると僕は考えている。それはプライバシーの問題、そして自動運転などの際一番の危険性になるハッキングなどの問題である。なので6Gではビジネス的な視点だけでは全く進められないのではと僕は思っている。しかし現在一部で進められている6G構想は、ほぼ全てビジネス的観点、そして支配的観点からの視点からである。しかしもし5Gの問題を克服しようと思えば、国と言う国境は無意味になるし、階級と言う視点も無意味になるかもしれない。このように考えるとますます現在の6G構想が無意味に思えてならない。

「迷惑をかけてはいけない」の裏返し。

多くの日本人は、子供の事から「人様に迷惑をかけてはいけない」と強く言われて育ってきたのではないだろうか?日本人にとって人に迷惑をかけないと言うことは大きな美徳であり、それが立派な大人かどうかの大きな判断基準にもなっている。確かに「人に迷惑をかけない」と言う部分だけを切り取って見れば非常に良いことのように感じるかもしれないが、実はこのような考えが社会として大きな危険性をはらんでいると僕は感じている。

人に迷惑をかけないと言うことを裏返せば、それは人から迷惑をかけられることに対しては許さないと言うことでもある。実際、日本人は人からの迷惑に対して非常に厳しい。電車で子供が泣いているとあからさまに迷惑な態度を取る人が多いし、電車が数分でも遅れようなものなら駅員に対して罵倒する人も見かける。人に迷惑をかけてはいけないと言う考えは、人からの迷惑を許さないと言うことを経て、非寛容な社会を生み出している。

以前ドイツに住んでいる日本人が書いた記事を読んだが、ドイツでは人に迷惑をかけることは当たり前の事であり、日常茶飯事であるらしい。これは裏返せば、周りから迷惑をかけられても大丈夫だよと言う考えにつながる。つまり迷惑をかけたりかけられたりすることはお互い様だと言うことであり、これが寛容な社会、寛容な心を生み出しているようだ。

ヨーロッパでは電車が数分数十分遅れることはよくあると聞くが、それに対して怒る人がいるとは聞いたことがない。日本の新幹線は秒単位で制御されており、一分でも遅れると一大事のように扱われる。そのような日本の感覚でヨーロッパの電車事情を見るとびっくりするかもしれないが、その根底には寛容な思想・社会があると考えればむしろそっちの方が健全なように思える。

日本では最近、自分たちを自画自賛する風潮が強くなってきている。しかしそれは非常に危険な状況になっているサインであるように思える。新幹線の運行が正確だと自画自賛し、絆の心が美しいと自画自賛している。別に新幹線の正確さや絆の心が良くないとは全く思わないし、むしろそれは良いことであるかもしれないが、それらの心の裏を考えてみると非常に恐ろしいように思える。自分たちに同調する人たちには絆の心を持ち助け合うが、少しでも考えの違う人や違う行動をする人に対しては村八分状態である。現在のコロナ禍においてもそのような行為はニュースなどで頻繁に見かける。思いやりや絆、そのような言葉だけを切り取ると一見美しいように感じるが、実はその裏に非常に非寛容な心がべったりと張り付いていることを強く感じる。今日本人に欠けているのはまさしくこのような寛容さであると言えるのではないだろうか?

命を守る経済。

人々にとって経済とは単純に言えば金儲けの事であり、いかにして利益を出すかと言うことが一番の関心ごとではないだろうか?平時であればいかにして多く儲けるか?そして政府にとってもいかにして黒字を増やすか?と言うことが最重要課題であろう。しかし現在のような緊急時においては、かなり様相が変わって来る。

今一番大事なのは、いかにして国民をコロナから守るか?一人でも多くの人間の命を守ることだ。そして人々を感染から守ると同時に、人々を経済的死から守ることも重要である。コロナにかからず生き延びても、経済的死によって自殺する人が出て来ることは容易に想定できる。先日もとんかつ屋の店主が火を付けて自殺したと言うニュースがあった。このような緊急時において大切なのは、命を守る経済だと言える。

現時点に限れば、裕福になる経済を目指すことは無力であるし、そのような事はコロナが終息してから考えればよい。むしろ今はセーフティネット経済が必用である。今生き延びるための資金をどう獲得するか?そして今の仕事・事業をどう維持していくか?現在の状況を考えると、やはり国の支援なしでは切り抜けられない。コロナ禍は努力だとかそういうこととは関係なくやってきて、また今ある経済的苦しさは事業内容に大きく左右されると言える。そして今切り抜けた後にどう回復するかと言うことも重要である。経済的命と生命的命、両方を守る政策が必要になってくる。

しかしこれが一か月二か月で終息するのなら我慢して持つかもしれないが、先が全く見通せない。医学的一般論で言えば、ワクチンができるまでは完全に終息させることは難しい。そのワクチンも早くて一年かかると言われている。例え最短で一年で回復するとしても、そのような確信がなければ続けるのは難しいし、そもそも一年持たすには相当の余裕がなければ難しい。

今、命を守る経済を立ち上げなければならない政府。しかし安倍首相の現在の実行力は何とも心もとない。正直安倍政権のままで現在のコロナ禍を乗り越えられるとは思えない。しかし現在の野党は最弱である。現在は経済だけでなく、政治的にも戦後最大の危機だと言えるのではないだろうか。

ITにできないことは何か?

ここ数年、ITによって何でもできると言う風潮が強くなっていた。ITによって飛躍的に便利になり、極端な話ではAIが全ての仕事を請け負って人間は何もしなくていいと言う話までされることもあった。しかし今回のコロナ禍によって、ITの限界が露呈したように僕は感じる。

ITが発達しようとしまいと、人と人が対面すると言う行為の重要性は全く変わらないし、確かにITによって人と人が連絡する手段は飛躍的に向上したが、人と人の触れ合いそのものはほとんどITとは別の話である。今あらゆる物事をITによって解決しようと言う動きがあるが、それと同時にITではできない事、つまり人間の営みの本質的なところの重要性が認識されつつあるのではないかと僕は強く感じている。

例えば、好きな女の子と会いたいと思ってLINEで連絡を取ることはできるが、ITが男女の深い付き合いを結び付けてくれるわけではない。やはり最終的には人間の、男と女の感情と古典的行動によるものである。そしてビジネスにおいても業種にもよるが、全てがITで完結するわけではない。

現在ITと言うものが非常に重要視され、ビジネスにおいてもその中心に置かれることも多いが、これから数十年スパンで見るとITの価値と言うものは下がっていくのではないかと僕は思っている。それに対して、人と人が直接会うと言う古典的な行為の持つ価値が非常に高くなると僕は考えている。確かに人と人が会う前段階、つまり連絡を取り合うとか大まかな相性を占うと言うことはITでいくらでもできる。しかし最終的な決断は人間の古典的な判断にかかっている。

これから先、ITにできることはどんどんITに任されていくとは思うが、それと同時にITにできない事の価値はどんどん高まっていくはずだ。そしてその結果残ったものが真に価値あるものであると僕は考えている。