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民進党政調会長に、待機児童問題追及の山尾志桜里氏

民主党と維新の党が合流してできた、民進党の政調会長に、待機児童問題書き込みで与党を追及した山尾志桜里氏の就任が決まった。山尾氏は当選二回だが、待機児童ブログで安倍首相らを追及し、存在感を示したことが評価されてのことだと思われる。

今さらながらであるが、待機児童書き込みをめぐっては賛否両論がある。「日本死ね」と言う表現はいかがなものかと思うが、この書き込みは今の日本の現状を本質的に表しており、書き込みが本当かどうかということは本質ではない。この問題を安倍首相らに突きつけ、迫った山尾氏は、非常に大きな役割をしたと評価されるべきだろう。

新政党となる民進党の旧母体・民主党は、今まで与党に対して本質的な追及ができず、悪く言えば足元をすくうような突込みしかできないふがいない政党であったが、最後の最後で山尾氏は核心に迫った形だ。

山尾氏は元検察官出身で、立ち位置としては弁護士出身の自民党・稲田朋美氏に近く、民主党の稲田的な存在感が求められるのかもしれない。

とにかく、岡田党首・枝野幹事長らが横滑りする中、新政党・民進党の執行部に新鮮な顔が現れたことには期待したいものである。

推定無罪の原則は働いているか

犯罪を裁くとき、原則は推定無罪であることが求められる。確実な証拠がない、あるいは不確実なとき、原則として被告の有利なように働きかけることになっている。自白に関しても、最近自白強要の実態があらわになっており、無批判に自白を採用することには、国民の間でも抵抗が出てきているのではないか。

今、元自衛隊幕僚長の田母神俊雄氏の横領疑惑が問題になっている。この様な事件の情報は、我々市民にとってはマスコミからの一方的な情報に頼らざる負えず、その内容もだいたいは疑惑の当事者に不利な情報であり、多くの市民は疑惑の当事者を犯罪者と決めつけてしまう。今回の田母神氏を現時点で犯罪者と見ている人は少なくないのではないかと思う。

僕はこのようなニュースに対して、できるだけ否定的に見るようにしている。従って、警察・検察の主張を疑うことが多い。もちろん警察・検察が決定的な証拠を提出している時は別だが、大体は証拠もあいまいなものが多い。最近では強姦事件のDNA鑑定のずさんさにより、有罪判決が覆ることも存在する。DNA鑑定自体は非常に信頼性の高いものだが、それを扱う人間の方に問題があるのだ。

現在の日本は、国家が犯罪者を殺す権利を認められている。死刑制度に賛成か反対かと言う問題はここでは論じないが、ただ確実に言えることは、無実の人間が死刑判決を受けると言う実例が存在することである。袴田事件の袴田巌さんは数十年の時間が経った後、何とか無実が認められたが、無実でありながら国家に殺された人間がいることは想像に難くない。

検察は被告を疑ってかかるのが仕事だから、被告にとって不利な証拠を突きつけることは当たり前である。しかし一つ勘違いしていることがある。検察の仕事は被告を犯罪者に仕立て上げることではない。弁護側との対立姿勢によって裁判のバランスを取り、裁判官が正当な判決を下せる状況を作ることである。検察の目的が被告を犯罪者に仕立て上げることになると、無実の者でも犯罪者として仕立て上げてしまうことになる。この様な意識が自白強要にも結び付いているのだろう。

日本の市民は、推定無罪の意識が低い。しかし、裁判の当事者を含め、もっと推定無罪の原則を徹底しなければ、新たな冤罪犠牲者が出ることになるだろう。

選挙権18歳へ引き下げの意味

21日(月)の報道ステーションで、選挙権18歳への引き下げ、特に高校生が選挙権を持つことについて特集され、意見を交わされていた。番組では現役高校生へのインタビューもされ、意見をもつ高校生の貴重な発言が流されていた。

ここで特に問題にされていたのが、高校による生徒の政治活動に対する管理についてだ。どうやら多くの高校では、生徒が政治活動を行う場合に、学校への報告を義務付けるような校則が制定されるようだ。学校側の言い分は、生徒の安全を守るためと言うが、この生徒の安全を守るとはいったいどういうことだろう。そこまで気にすれば、24時間生徒を監視するしかないのではないかと思う。

選挙権を持つということは同時に、選挙活動の自由も与えられるということだ。自由な活動権がないと、自由な発言、自由な意思表示ができないことは容易に推測できる。学校側の政治活動管理は、生徒の政治行為・意志表示の制限である。

そもそも18歳に選挙権を与えると言うことは、18歳を大人として認めることである。その一方で、18歳の政治活動を管理すると言うのは、18歳を大人と認めないと言うことではないのか。

現在、若者の選挙投票率が著しく低下し、相対的に高齢者の選挙発言が非常に強くなっている。当然政治家は高齢者重視の政策を訴え、若者は犠牲になっている。高校社会科の授業などではもちろん政治についてもしっかり習うと思うが、今までは高校卒業してから選挙権を得るまでの2年間の間に政治意識が冷めてしまっているのではないかと感じる。そういう意味ではその2年間のブランクを無くすことで若者の政治意識を喚起するのは非常に意義あることだ。

この選挙権18歳への引き下げを意義あるものにするためにも、高校生の政治活動の自由は何が何でも死守しなければいけない。

過ちを犯した人間を全否定する日本の狂気

日本という国はどうも過ち・失敗を犯した者に対して寛容でない。過ちを犯した人間に対して、徹底的に潰しかかろうとする。

最近テレビでは、清原氏・ベッキー氏・そしてショーンK氏が社会の、マスコミのバッシングを受けている。清原氏に関しては法に触れる犯罪行為を犯し、批難されるのは致し方ないし、僕自身も清原氏のしたことに対しては許すべきではないと思うが、しかし清原氏のこれまでの業績を全否定するのは少し違うと思う。そしてベッキー氏、ショーンKに対してもほとんど全否定状態だ。ベッキー氏に関しては犯罪行為を起こした訳でもなんでもなく、個人的交友関係のもつれでしかない。もちろん印象は悪いだろう。しかしこれをきっかけにあることないこと全てほじくりだし、全否定しかかっているのは異常だ。

この三人に対する対応は日本社会を象徴しているものであり、一般の人に対しても日本では「失敗」と言うものに対して非常に厳しい。その結果、日本はどうなったかと言えば、無難な生き方をし、履歴に空白がない人間が好まれることになっている。失敗覚悟で難問に挑戦する人が非常に少ないのである。皆が平均的な事をそつなくこなす、そんな社会にブレークスルーが生まれるはずがない。

アメリカではむしろ失敗を経験した人間の方が好まれるらしい。失敗は挑戦の証である。100回失敗しても、101度目で成功すればいいのである。しかし日本では1回の失敗を長く引きずることになる。極端に言えば、アメリカでは失敗は善であり、日本では悪なのである。

今、日本政府は、一億総活躍という政策を掲げている。もし国民総活躍を目指すのなら、失敗を経験した人間の知恵を生かし、失敗しても何度でも挑戦しなおせる社会にしなければならない。

小6女児焼死事件、母親の無罪確定へ

1995年に起きた、小6女児焼死事件で殺害犯とされ、約二十年刑に服されていた母親と内縁の夫に対して、再審で検察側が無罪を主張することが明らかになり、事実上無罪が確定した。今後は警察・検察側の取り調べに対する矛盾・自白強要に対して追及されるものと思われる。

以前にもブログで書いたが、犯罪に巻き込まれる社会は怖いが、無実の者が犯人に仕立て上げられ拘束されるような社会はもっと怖い。今回の検察側の無罪主張は、事実上検察側が白旗を上げたようなもので、これまでの自白・捜査に対して自らの不正行為を認めるものだ。

これからの警察・検察に対する不備・不正の追求は今回の事件に関してだけではなく、国家治安全体に対するあり方を問うものであり、再審では徹底的に警察・検察の過ちを追及し、二度とこのようなことが起きないように考え直してほしい。

最近、自白強要に対する不信感は、国民の間で高まっているものと思われる。現在裁判が進行中の、栃木小1児童殺害事件に関しても、自白の信用性をめぐって問題になっているが、検察側が裁判所で公開した取り調べ映像は数時間分に過ぎず、100時間をオーバーしようかという取り調べ全体の映像ではなく、検察側の都合のいい部分だけ抜き出したとも思われ、検察に対する不信感はぬぐいきれない。

今、早急に取り組まなければいけないのは、24時間体制の全取調べの可視化、そして審理する者、関係者がその全取調べのどの部分も確認できる制度の確立である。

警察・検察に対する不信のうねりは、袴田事件の袴田巌さんの再審無罪判決で大きく盛り上がった。それから警察・検察の自白に対しての信用性はほとんどなくなっている。そのような動きが栃木事件の映像放映につながったものと思われる。しかし何度も言うが、一番必要なのは、24時間全可視化による記録だ。これが実行されない限り、国民の警察・検察の取り調べの対する不信感はなくならないであろう。

東日本大震災から5年

今日、3月11日、東日本大震災からちょうど五年目にあたる。関西に住んでいる身である僕にとって、東北はあまりなじみがなく、どこか遠い話のようにも思えるが、東日本大震災当日、出先でたまたまテレビで見た地震と津波の映像には衝撃を受けた。

震災と言えば、僕にとっては阪神大震災の方が印象に残っている。震災直下の神戸に住んでいたのだから当たり前かもしれない。震災は、社会も、国土も、人間の心も、人間のつながりも一変させる。東日本大震災の犠牲者二万人と言う数字は、あまりにも大きすぎてピンとこない。しかし以前、ビートたけし(北野武)が言っていた一言にハッとさせられる。

「2万人の人が死んだ事故が1件起きたのではなく、1人が死んだという事故が2万件起きたのだ」

昔、ドラマで、「同情するなら金をくれ」というセリフがあった。震災後の東北もそうかもしれない。お金が全てではないが、お金がないと復興もできない。台湾の人たちは数百億円という義援金を出してくれたという。親日国と言うものは本当にありがたい。台湾やトルコという親日国を、日本はもっと大切にしなければいけない。しかし現政権・首相にそのような認識が希薄に感じるのは非常に残念である。

ともあれ、東北の復興は心から願っている。願うだけではどうにもならないわかっていながら。

僕が言えることは、阪神大震災との比較くらいかもしれない。もちろん阪神と東北の被害の違いは桁違いであり、阪神の事例が東北にそのままあてはまるとは思はない。

阪神大震災時、僕は大学受験生であった。ちょうどセンター試験が終わった三日後だったような気がする。2次試験に向かう道中、須磨・長田あたりの焼野原を通り抜けて行った。その被害の大きかった長田あたりも、今では外見を見る限りは震災当時の面影は全くない。そういう意味では少なくとも外見は復興が完了したのかもしれない。もちろん被害を受けた人の心・生活が元通りになったのか、僕は何とも言えない。

東日本大震災の被害の大きかった東北の現状と言えば、テレビで見る限りはまだ被害を受けたそのままのところもあるようで、更地の状態のところもかなりあるようだ。外見だけ見てもこのような状態なので、被害を受けた人々の心・生活は想像を絶するものと思われる。しかし、被害を受けた東北の人たちが、不満を叫んだりするところはあまり見かけない。おそらく皆、胸の内に留めているのだろう。

東日本大震災が日本人に対して警告したのは「想定外を想定することの必要性」だろう。東日本大震災以降、想定外と言う言い訳は通用しなくなった。津波だけではない。原発もそうだ。起きる前にどうするかということと同時に、起きた直後にどのように対応するかということの重要性。震災ではどんなに巨大な防潮堤を作っても、絶対に防ぐことができないということがわかった。だから津波に襲われるという想定のもと、災害時にどのように行動するかということに焦点があてられるようになった。

東日本の復興は現在進行形だ。いつになったら元に戻るか、想像がつかない。福島原発の廃炉には数十年かかると言われている。とは言え、一日も早い復興が進むことを祈るばかりである。

日本人は西に憧れていた

NHKで、司馬遼太郎の特集を観て思った。太古の昔から江戸時代まで、日本は中国と朝鮮という「西」に憧れていた。壱岐では西から流れてきた漂流物を崇めていたという。そして明治維新が起こり、日本人が憧れる西は中国を飛び越えて、遠いヨーロッパとなった。日本人は憧れるヨーロッパの技術を無心で習得しようとし、そこで出来上がったのが反射炉をはじめとする当時の最新技術であった。ヨーロッパと並び憧れていたアメリカは、太平洋の東側と言うよりヨーロッパの西側と言った方がいいのかもしれない。

日本の最初の「国」は邪馬台国と言われている。邪馬台国には畿内説(奈良)と九州説がある。奈良と九州、距離的にはかなり離れているのに、なぜこのような一見単純に思えることがわからないのか。歴史と言うものは時間をさかのぼるにつれ指数関数的に曖昧になっていくからかもしれない。聖徳太子のいた奈良時代から邪馬台国の時代まで、時間的には数百年だが、実感的には邪馬台国は奈良時代よりも数倍昔だ。

以前から日本ではグローバル化、あるいは国際化と言うことが叫ばれている。しかし国際化を成し遂げるには、それ以上に自分たちの国「日本」のことを知らなければいけない。日本の強み弱みを熟知していないと海外に打って出てはいけない。英語を習得することは大事だが、それは国語、すなわち日本語を熟知していることが前提である。

我々の国「日本」を知るためには、司馬遼太郎のような「日本観」の専門家の書物が指針になる。中学の頃、司馬遼太郎の歴史小説が面白くて読んでいたが、その頃は日本観など頭の片隅にもなかった。大人になってから、そして司馬遼太郎が亡くなってから、司馬遼太郎の世界を見返すとき、そこには非常に広く深い日本観が存在していることに気付く。それが司馬遼太郎が亡くなっても、司馬書物が色あせない原因ではないだろうか。

そう言われれば、確かにミサイルというよりロケットだ。(北朝鮮発射物体)

少し前に北朝鮮から発射された「ミサイル」だが、ある記事でこれはミサイルと言うより完全に「ロケット」だと主張してあった。普通に冷静に見ればその意見はもっともで、なぜ今まで気づかなかったのだろうか。先入観と言うものは怖いものである。

今回の北朝鮮の発射物体が、ミサイルではなくロケットである根拠は、

1)爆発物を積んだ形跡がない(自爆装置は積んでいたが)。

2)宇宙まで飛んで行って、地上に落下していない。

3)人工衛星らしきものを、軌道に投入している。

こう考えると、これをミサイルと考えるにはあまりにも無理がある。実際に今回の物体発射ではどこも被害が受けていない。むしろ数年前に韓国が沖縄上空へ向けて発射し、失敗したロケットの方が、よっぽど危なっかしい。

我々はどうしてもこの物体をロケットと認めたくないのか。日本はロケット大国と言っていいほどの技術を持っている。しかし韓国と比べると、ロケット技術では北朝鮮の方が上だ。

ロケット技術は容易にミサイル技術に転換できる。そういう意味では今回の北朝鮮ロケット打ち上げ成功は日米にとって脅威である。今回の打ち上げがロケットだからと言って油断はできない。

台湾地震、今度は日本が恩返しの番だ

先日の台湾地震での被害状況が次第に明らかになり、死者は百人を超えそうだという見通しが出てきている。日本に比べると台湾での地震はあまり聞かないが、それは日本が異常な地震大国であることと、国土面積の違いによるものである。台湾も環太平洋の地震多発地帯に位置する。

東日本大震災の際は、台湾から数百億円の寄付金が集まったという。親日国というものは本当にありがたいものである。僕のブログで何度も取り上げているように、トルコ・台湾は一、二を争う親日国である。親日国に対しては日本としても礼を尽くすべきである。今回の台湾地震では非常な被害が出ているが、多くのお金を出せる人はそれなりの金額を、少ししか出せない人は1円でも、そして出せない人は被災者への温かい気持ちを送らなければいけない。

地震に見舞われることは非常に災難である。しかしこの災難を負の出来事で終わらせずに、国家間の救済交流にきっかけにしなければいけない。地震が起こってしまったことは仕方ない。しかしこれをきっかけに国家間の絆を深めることが、負の出来事を少しでも正の方向に向けることができるであろう。

北朝鮮がミサイル発射、日米の太平洋防衛戦略の見直しが迫られる

今日7日午前9時31分頃、北朝鮮がミサイルを発射した。ミサイルは地上に落ちることなく宇宙空間に飛び去ったという。日本関係者は失敗することを願っていたのかもしれないが、もし失敗すれば失敗したで予測不能でまた怖い。宇宙空間に飛び去ったと言うが、それは意図的なものか、あるいは制御不能に陥ったためか、我々には全く判断できないが、宇宙まで飛び去ったという事実は北朝鮮の技術の一端を表し、北朝鮮技術をそう簡単に侮れない。北朝鮮は人工衛星を投入したと言うが、これは99%嘘であろうことは素人でも判断がつく。

今回のミサイル発射で国防の見直しを一番迫られるのはアメリカであろう。これまでは北朝鮮の直接的軍事的影響を受けるのは、北朝鮮に隣接する韓国、そして日本であった。しかし今回のミサイル発射は、北朝鮮がアメリカ本土に直接攻撃できる能力を持っていることを明らかにした。もうアメリカ本土は北朝鮮の射程内だ。そのため、太平洋上での軍事態勢が重要になってくる。

北朝鮮、そして中国に関して、日米の防衛体制は二段階体制なるであろう。第一列島線、つまり日本列島から沖縄・台湾・フィリピンにつながるラインの内側(西側)での体制は、日本に最も直接的に影響するもので、北朝鮮、中国からの脅威から守るために日本が最も力を入れなければいけない。

そしてもう一つは太平洋上での防衛だ。ここでの防衛体制では北朝鮮に対するものは単発的であり、メインは対中国となる。しかし太平洋の大きさに比例して、規模は世界的レベルだ。そしてその対策のメインは圧倒的にアメリカになる。アメリカの制海権・制空権は絶対死守、これに尽きるであろう。

今回の北朝鮮ミサイル実験によって日米韓は部分的に、しかしかなり大きい部分の見直しが迫られる。そしてまだ不明な部分、つまり北朝鮮の核の脅威などにも想定しなければいけない。これからの世界の防衛的均衡はどのようになるのであろうか、まだ全体像は不明だ。