社会・時事ネタ」カテゴリーアーカイブ

オリンピックもいよいよ終盤に。頑張れニッポン

リオデジャネイロオリンピックもいよいよ終盤戦に入ってきた。連日、日本人のメダル獲得に、日本中が沸いている。特に柔道では男子の全階級でメダルを獲得するという快挙に盛り上がった。

男子柔道の全日本の監督と言えば、井上康生監督だ。井上康生監督の指導手腕は僕には判断できないが、今回のオリンピックでしっかり成果を挙げたという事実が、井上監督が名監督であることを証明している。

井上康生の現役時代と言えば、勝つこと以上に「一本」にこだわった非常に男気のあるスタイルが有名だった。勝負である以上、勝つことが最高の価値を持つと言えるが、しかし井上康生の一本という勝ち方に対するこだわりは勝つこと以上の価値を持っているのではないかと僕は思う。

確かに井上康生の現役時代は、一本にこだわるが故、それがあだとなって負けることもあった。しかし井上康生の一本には金メダル以上の輝きがある。もちろん最高は一本を貫き優勝することだ。

どのような分野でも、柔道で言う一本にこだわる姿勢は、選ばれし者しか持てない。なぜならそのような勝ち方・姿勢にこだわるためには、すでに世界一であることが前提条件になるからだ。井上康生も例外なく世界一だった。

オリンピックで優勝する選手は超一流だが、その勝ち方・姿勢にこだわって勝つ選手は超超超一流である。

この後には、金メダル大大大本命の吉田沙保里選手も登場する。吉田選手が既定路線通り金を取るのか、大波乱が起きるのか。勝つものと思っているが、負けて話題になるのは大物の証拠である。そういえば、先日亡くなった千代の富士関も負けが話題になる大横綱だった。

あと数日、日本人選手の活躍を応援しよう!

結論ありきではなく、真理を追究する裁判を。女児焼死裁判再審無罪で。

8月10日、1995年に起きた小学6年女児焼死事件で無期懲役とされた母親ら二人の再審審理が行われ、無罪が言い渡され、検察は控訴を断念し、二人の無罪が確定した。

冤罪事件については、袴田事件の袴田巌さんの件など僕のブログでも数回取り上げたが、今回再び警察・検察の強引な自白誘導事例が明らかになった。検察側は完全に疑義が取り払われたわけでないと謝罪を拒んでいるようだが、このようなことから警察・検察の歪んだ体質が読み取れる。

確かに100%有罪を立件するのは簡単ではない。しかしそれ以上に一度立件された被告の無実を証明するのは難しい。というよりほぼ不可能に近い。検察側にすれば、一度立件すれば、必ず有罪判決を得なければならないという使命感があるようだ。しかし本当にそのようなことを国民は望んでいるのだろうか?国民・市民が本当に望んでいるのは、事件が事実なら罪を裁き、事実でないならば潔白を証明することだ。つまり裁判は真理を追究しなければならない。

もちろん、検察は有罪につながる証拠を血眼になって立証するのが使命だ。しかし証拠もなく、事実でない自白をでっち上げることが間違っていることはだれの目から見てもわかる。

裁判では可能性が焦点になる。黒に近いか、それとも白に近いか。しかし事実は完全な黒か、完全な白しか存在しないのである。もちろん法に触れるか触れないかというグレーゾーンも存在しないことはないが、少なくとも殺人事件でグレーは存在しない。

とは言え、裁判を進める裁判官・検察・弁護士らは事件の当事者ではないので、どうしても可能性を考慮しての判決になってしまう。しかしあくまでも原則は推定無罪である。しかし実態は推定有罪になることも非常に多い。今回の女児焼死事件もその最たるものだ。

以前のブログでも述べたが、事件に巻き込まれる社会は恐いが、無実の人間が突然犯罪者に仕立て上げられる社会はそれ以上に恐ろしい。

この様な冤罪を一刻も早く撲滅するためにも、取り調べの可視化、そして推定無罪の原則を徹底的に進めてほしい。

憲法改正、賛成か反対か、論理的・理性的に考えよう

昨晩、田原総一郎氏が司会をする「朝まで生テレビ」で、改憲についての是非が討論されていた。真夜中の番組とあって、僕は数十分しか見なかったが、今日本国民は憲法について真剣に考える時ではないかと思う。

国会で衆参両院で改憲勢力が改憲可能な三分の二を超え、改憲の是非を問う国民投票が現実的になった。ある意味、改憲勢力がここまで勢力を伸ばすことを許した国民の総意ともとれる。とは言え、改憲に対して非常に抵抗がある国民も多いことは間違いない。

現時点で改憲に賛成と決めている人、反対と決めている人、まだ決めかねている人、それぞれいると思うが、もしかしたら自分の感情や思い込みだけで決めてはいないだろうか?例えば、賛成の人は「現憲法は敗戦後にアメリカ駐留軍が勝手に作ったものだからけしからん」とか、反対の人は「改憲すれば、戦前の軍国主義に戻り、再び戦争を起こしてしまう」というふうにだ。

僕も以前は自分の中でどちらかに決めていたが、冷静に理性的に考えるとそんなに単純な問題でないと思い、現在は賛成・反対を決めかねている。一国民として正しい判断をするために、それぞれ最低限のことは勉強しなければいけない。

僕は法律の専門家でないので厳密な議論はできないが、しかし専門家ではないからと言って考えることを放棄していいわけではない。

今一度「論理的・理性的」に憲法改正について考え直してみよう。

多数決は絶対的か?イギリス国民投票から考える

先日、イギリスで、EUからの離脱か残留かを問う国民投票が行われた。結果はご存じのとおり、離脱派の勝利となった。ところがその後、イギリス通貨・ポンドは大幅下落し、世界経済は軒並み下落した。さらにイギリスの一部であるスコットランド、北アイルランドがイギリスから独立しようという機運が高まっているという。もしそうなれば、イギリスは解体し、イングランドへと縮小する道をたどることになる。

イギリスは言わずと知れた民主主義先進国である。民主主義の基本理念は単純に言うと多数決にある。今回の国民投票も多数決によって国家の行方を決めようというものであった。しかし今回の投票後の状況をみると、多数決社会の絶対性に疑問を抱かさざるを得ない。

もちろん、「民主主義」という言葉通り、民主主義国家では主権は国民にあり、国民が国の行方を決定する。この理念は素晴らしいものであり、絶対に継続しなければならないものだ。しかし全ての国民が正確で詳しい知識を持ち合わせているわけではない。全てを理解するには個人では限界がある。そこで投票によって議員を選出し、国民が間接的に政治に参加しようとするのが現代民主主義の理念だ。

選挙で選出された後、政治家、そしてそのトップである首相は強力な権力を駆使して重要事項を決定していく。そのために、国民は有能な政治家を見極めることが必要であり、国民レベルでは判断できないことを政治家は遂行していく。

しかし今回の国民投票では、政治家は直接的には介在せず、国民が直接決定するという形のものだ。そしてその結果が現在皆の知る通りだ。

果たして政治家が全てのことを国民投票として丸投げするのは正しいのだろうか?国家が間違った方向へ進みそうなときには、それを政治家が許される範囲内の権力をもって正すことも必要なのではないか。そのようなことをイギリスの国民投票からは考えさせられる。

多数決社会と政治家の権力行使のバランスを常に気にしなければならない。もちろん政治家が強権を持った極限が独裁であり、それが非常に危険であることは多くの人が認識している。しかし何かあるごとに全て国民投票に丸投げというのも、政治家の一部職務放棄とも考えられ、バランスを崩す原因にもなるのではないかと考える。

オバマ大統領、広島訪問。17分間のスピーチ

27日の午後、アメリカのオバマ大統領が被爆地広島を訪問した。唯一の原爆投下国が、唯一の原爆被爆国の被爆地を訪れるという、歴史的な出来事であった。

オバマ大統領のスピーチは予定では数分であったが、実際には17分にも及ぶ長いものとなった。オバマ大統領の核兵器廃絶への強い思いを感じさせるものであった。

オバマ大統領が謝罪をするのかということが論点にもなっていたが、オバマ氏のスピーチは謝罪という次元の話ではなく、非常に未来志向のスケールの大きな、また、強い信念を感じさせるものであった。

スピーチの内容は、太平洋戦争、原爆投下などの限られた話題ではなく、人類の歴史から古代から続く人類同士の紛争から始まり、科学技術の発展、そしてなぜ現在も不幸な争いが世界で続くのか、そして核兵器廃絶への絶対的必要性、そしてもちろん広島・長崎での不幸な出来事への言及、戦争で対峙し合った日本とアメリカが現在では日米同盟という形で強く結び付いていることなど、多岐にわたった内容となった。

現職のアメリカ大統領として被爆地を訪れることは非常に覚悟のいる事であり、それを実行したオバマ大統領には敬意を表したい。

スピーチが終わった後、オバマ氏が被爆者の代表者とハグを交わしたことは、非常に印象的であった。

話しは変わるが、現在アメリカでは次の大統領選の予備選挙が続いている。そこで過激発言などでトランプ氏が非常に大きな勢いを保っている。本選ではトランプ氏とヒラリー氏の対決になるものと思われる。トランプ氏の台頭には非常に危機感を覚えるが、今回オバマ氏が強い覚悟をもって広島を訪れ、未来に向けての強い意志を表し、核兵器廃絶と世界の平和を約束した行為を、次期大統領にも何が何でも継承してもらいたい。

パナマ文書問題の報道について

少し前から、パナマ文書問題がメディアを賑わしている。このパナマ文書にあるタックスヘイブンでの行為は、良いか悪いかで言うと確かに良くはない。しかし完全に悪いかと言えば一概にそうとも言えないのではないか。

このパナマ文書に関する問題の本質は、タックスヘイブンの利用者や企業ではなく、タックスヘイブンおよびそれらに関わるシステムにある。メディアではタックスヘイブンの利用者に対してあたかも犯罪者のように扱っているが、彼らは犯罪を犯しているわけではない。(もちろん中には法を犯しているものもあるであろうが。)法を犯さずに脱税まがいのことができる事が問題なのだ。彼らは法を犯していないので、犯罪者扱いをするのは少し違う。もちろん一国の首相が、政治家が自国に税金を払わずにタックスヘイブンを利用していたとなれば、これはモラル上大問題である。元首としての資質を問われ辞任を迫られるのはやむを得ないだろう。

誰がタックスヘイブンを利用したかということは一般市民の興味をひき、それが故にメディアはそれを血眼になって情報を集め報道するのであろうが、本来はタックスヘイブンのシステムの問題に焦点を当てるべきである。

この様に、世間メディアの焦点が少しずれていることが非常に気になる。もう少し問題の本質に焦点を当てるべきではないかと思う。

シリア難民空爆、正義と悪というような一元的な見方でとらえられるような問題ではない

5月6日の報道ステーションで、シリア難民キャンプが空爆に遭い、28人が死亡したというニュースが流れた。もちろんこのことは大問題である。もしヨーロッパで20人も死亡するようなテロが起きると、数日間はその問題が流れ続けるであろう。しかし、今回のシリア難民空爆事件のニュースを取り上げたメディアは、報道ステーション以外(少なくとも僕が調べた範囲内では)見当たらない。大手新聞サイトにも掲載されていないのである。本当にこのような空爆事件が起きたのか、疑ってしまうほどである。

パリのテロが起きた時には、世界中のメディアが何週間にわたって報道し続け、被害者の悲しみを綿密に伝え続けた。しかし今回のシリア難民空爆事件は被害者の悲しみどころか、事件そのものさえほとんど取り上げられないのである。人権と平等が世界で叫ばれている現在、このような報道格差、あるいは感情格差は建前に大きく反しているのではないだろうか。

新興国が裕福になってきている現在でも、その流れに取り残されている発展途上国はまだまだ存在し、シリアの現状などは「発展途上」という言葉さえも使えないひどい状態になっている。

そして今回のシリア難民空爆事件、報道ステーションによるとアサド政権によるものかロシア軍によるものだと推測されているが、現状ははっきりしない。(悪とされる)イスラム国によるテロは逐一報告されている一方、(正義側とされる)欧米諸国による殺害は「ミス」の一言で済まされる。明らかに誰が見てもおかしい。しかし多くの人がそのことについて深く考えずに流してしまう。特に日本人は、欧米のすることは正しいと無条件に信じ込んでいる節があり、疑問を持たない。

今の世界の現状は、正義の欧米と悪のイスラム国という単純な一元的視点でとらえられるようなものではない。今一度、公平な目で問題を分析し、深く考察することが我々一般市民にも求められているように思われる。

高須院長の被災地支援と行動力

熊本での大地震被災者に対する支援が動き始めている。支援は公的機関によるもの、私的なもの、様々だ。実際に行動を起こし支援している人たちには、頭が上がらない。

美容外科の高須クリニック、高須克弥院長が、支援の表明をした。私的財産を投じ、ヘリで物資を届けるという。我々一般市民には到底まねのできないことだ。そして高須院長の行動力にはいつも驚かされる。

高須院長は災害支援以外にも、様々な支援活動を行っている。マイナーで資金に困っているスポーツへの支援、そして賛同する活動へのスポンサーなど、高須院長の社会的影響力は大きい。

本業の美容外科に関しては、新しい治療を自分の体を実験台にして確かめるなど、本業に関しても抜かりはないどころか、常に他者の数歩先を行っている。

高須院長には「知行合一」という言葉が似合っているかもしれない。考えるだけではなく、常に行動を起こし実行に移している。

考えるだけで、口にするだけで、全く実行に移さない人も多い。それが日本人特有のものか、人間の特性なのか、僕にはわからないが、言うより先に実行に移す高須院長の行動力に、我々は習わなければいけない。考えているだけでは何も動かない。とにかく少しでもいい。少しでも実行に移すことが世の中を変える原動力の一部になる。

高須院長の支援がいかされることを祈るばかりである。

STAP疑義、真相は?日本の報道姿勢は正しいか?若山教授に対する疑惑は?

最近、STAP問題がある方向へ傾き始めた。発端は、小保方晴子氏が出版した手記「あの日」と、小保方氏が立ち上げたホームページ「STAP HOPE PAGE」だ。そこで、現在まで責任を一身に背負ってきた小保方氏だが、最近は小保方氏の共同研究者で元上司の若山照彦・山梨大学教授への疑義が強まっている。

小保方氏の手記やホームページに対して「いい訳だ」と批判する声が強いが、僕自身は言い訳はしっかりするべきだと思う。真相はどうなのか、どこが正しくてどこが間違っているのか、それを知るためには本人の言い訳なしでは判断できない。

我々専門外の市民は、どうしてもマスコミからの一方的な報道に頼らざる負えない。そこで、張本人からの直接的な情報は貴重である。

今回の小保方氏からの情報発信によって、新たな疑惑が浮上してきた。若山氏への疑義だ。僕自身、直接この問題に関わっている訳ではないので、これ以上憶測で書くのは止めるが、ただどうやらSTAP問題の責任は小保方氏一人で背負うような単純な問題ではなさそうだ。しかもこの問題に関して、笹井氏の自殺という悲劇が起こっている。

今必要なのは、「日本の常識である、空気を読んだ検証」ではない。「厳密なる中立な検証」だ。STAP問題はすでに終わった問題となっているようだが、もう一度あらゆる可能性を考慮して、先入観のない厳密に中立な第三者による再検証が必要かもしれない。その検証を実行するためにも、小保方氏の立ち上げた「STAP HOPE PAGE」は大きな役割を果たすかもしれない。

報道ステーション、終了。古舘さん、お疲れ様。

3月31日で、テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」が終了した。12年間の長きにわたる放送だった。改めて、12年間メインキャスターを務められた古舘伊知郎さんには「お疲れ様」と言いたい。

この報道ステーションは、久米宏さんがメインキャスターを務められた「ニュースステーション」の後番組として始まり、久米さん・古舘さん共に高視聴率を維持し、最も注目を浴びるニュース番組として存在感を発揮した。

では、報道ステーションと他のニュース番組では何が違ったのか。報ステでの古舘さん個人の影響力は非常に大きく、いい意味で独裁的であった。古舘さんは可能な範囲で、自分の意見を自分の言葉で最大限表現しようとした。それが視聴者の反発を食らうこともあったであろう。しかし古舘さんは自分のスタンスを崩さずにやり通したことが、支持された一番の理由ではないだろうか。

古舘さんは、今回報ステのキャスターを降りるにあたって、「この12年間は非常に窮屈であった」と述べられている。公共放送であるテレビニュース番組では制約も大きく、また一定の中立性も求められる。その中でいかにして古舘色を出していくか、苦労されたのだと思う。

テレビニュース番組の中では最もメインキャスターの個人色の強い番組であったことから、おそらく好き嫌いがはっきり出るニュース番組であったと思う。僕は個人的には古舘さんの報ステは好きだった。もちろん細かいことの好き嫌いを言い出せばきりがない。しかし古舘さんの発言には、古館さん個人の思いも含め、基本的に支持してきた。

古舘さんは今後、しゃべりたいことをしゃべりたいように表現すると言っている。報ステで制約を受けてきた反動で、火炎放射のごとく喋り捲るのではないか。

今後の古舘さんの活躍を、そして制約のない言語表現を期待したい。