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現実主義的経営者・トランプ大統領。就任式に於いて。

日本時間の1月21日午前2時頃、アメリカ新大統領・トランプ氏の大統領就任演説があった。ネット上でライブ中継が放送されていたので、僕もトランプ氏の演説をネットを介して生で視聴していた。

とにかく印象に残ったのは「労働」「雇用」など、仕事に関する用語。トランプ氏は大統領選の時から雇用を取り戻すことを熱心に訴えていたが、今回の就任式もその延長線上、あるいはさらに強調されたものであるような印象を受けた。

トランプ氏は本当に「大統領」なのであろうか、という不思議な感覚がする。少なくとも、政治家というよりかは経営者である。もちろんトランプ氏のこれまでの本業は経営者であるので、当たり前と言えば当たり前であるが、経営者的思考をそのまま政治に、しかも国のトップの頭脳として移植することには非常に不安を覚える。

最も大事な軍事・安全保障に関しては、同盟国・友好国の防衛にアメリカが力を割いていることに対して、米国が非常に損をしている、といった論調を繰り返していた。大局的な軍事バランスにも少しは気を向けてほしいものである。

「経営者トランプ」は、大統領の執務をこなしていくうちに、真の「大統領トランプ」脱皮できるか、これから見守っていきたい。

ケネディ大使の離日のメッセージ。

在日アメリカ大使のキャロライン・ケネディ大使が、日本での任務を終わらせた。離日に際して、ケネディ大使は動画でメッセージを寄せられた。ケネディ大使のメッセージを見て、近年の日米の友好関係と強じんな同盟関係を再確認することができた。

キャロライン・ケネディ大使の駐日は、いろいろな意味で特に印象的なものであった。

一つはもちろん、最も印象的なアメリカ大統領、J.F.ケネディの娘さんであるということ。ケネディ大使の仕事には、父のJ.F.ケネディの思想や血が流れている。ケネディ大使は、これまで以上に親日的・友好的なアメリカ大使であった。

もう一つは、女性であるということ。日本では政府、民間に限らず、要職はほぼ男性で占められている。近年、安倍総理は女性の社会進出、および要職への登用を促進させる政策を進めてきた。ケネディ大使の駐日着任はそれをさらに促進させる原動力になったに違いない。

キャロライン・ケネディ大使が3年ほど前に着任する際には、日本国民から熱狂的歓迎を受けた。そして今、離日に際して、静かではあるが友好的に送られようとしている。これほど日本人に愛された大使も珍しいのではないか。

間もなく、次の大使がやってくる。次期大使は、トランプ氏の政権移行チームの一人であるらしいが、トランプ氏がこれまでの友好的同盟国としての日米関係を引き継ぎ、上手く政権運営を行ってくれるか。これにはもちろん、トランプ氏だけではなく、まだ数年政権を握ると思われる安倍首相の手腕にも関わってくる。

トランプ・安倍外交に期待する。

単純”多数決的”主義を見直す。民が主役(つまり本来の民主主義)である再挑戦推進国家になることを目指してほしい。

昨年一年間、世界で、多数決的万能民主主義が様々な波紋を起こした。その最たるものが、イギリスのEU離脱、そしてトランプ氏の大統領当選であろう。

イギリスEU離脱もトランプ政権も、まだスタートしていないので、現時点で何とも言えないところであるが、双方とも大きな不安を伴っている。イギリスEU離脱の国民投票は、いかにも多数決的民主主義発祥の地の文化的側面が出た形であるが、投票確定後に後悔の念がイギリス国民を覆っているのを見ると、はたしてこの多数決による判断は正しかったのかと首をひねる。

イギリスEU離脱投票も、アメリカ大統領選も、(アメリカ大統領選は選挙人争奪という違いはあるが)どちらも基本的には少しでも上回った方が全てを取るというものだ。それから当たり前の話かもしれないが、どの国民も等しく一人一票である。

最近、グローバルに格差社会が問題になり、極度の平等主義が叫ばれている。確かに平等主義は非常に重要だが、平等にしなければいけないのは機会の平等であって、結果の平等ではない。結果に格差をつけてこそ、社会、そして科学の発展が生まれる。結果まで平等にしてしまえば、それこそ共産主義そのものである。

そして、再挑戦の機会を与えることも必要である。あまり好きな言葉ではないが、「敗者復活戦」とでも言うべきであろうか。

日本の社会は、学生時代からレールが引かれており、就職、昇進、定年退職まで基本的にはレールからはみ出ないように進んでいくようなシステムになっている。一度レールからはみ出た人間に対する偏見も非常に大きく、再びチャンスを得るのも非常に難しい。

よく社会の指標に「失業率」というものが取り上げられる。その話になると、失業率の数字ばかりが独り歩きするが、僕はこの数字以上に再挑戦のチャンスのなさの方がはるかに深刻な問題ではないかと思う。

失敗というのは、人間の成長にとって非常に大きな糧になるが、日本では「失敗=悪」ととらえられる風潮がある。就職においては、いかに人生経験をものにしてきたかということよりも、履歴書に空白がないかどうかに注目が移る。

その結果どうなるかというと、失敗の危険性がある挑戦をしないようになる。皆横並びに同じことをして、同じように進む。進んでいればまだいい方だが、停滞してしまっていることもよくある。

民主主義の話からそれてしまったが、民主主義とは言葉通り、民が主役なのである。主役は大いに挑戦して、有形無形のものを獲得していけばいい。そして失敗したら再び這い上がってまた挑戦すればよい。失敗回数に限度はない。百回失敗して、それで得た経験をもとに百一回目で成功を掴めばよい。

現在の日本に対して僕が不満をぶつけようとは思わないが、ただ一つ願っていることは「再挑戦推進国家」になってほしいということである。

頑張れ受験生!

1月14日・15日は、大学入試センター試験だ。僕の受験生時代を思い出す。余裕を見せびらかすために、試験の合間の時間には新聞を広げて、悠々自適に読んでいた。もちろん結果は・・・

ところで、僕は神戸で生まれ、神戸で育ち、センター試験も神戸で受けたのだが、センター試験の三日後くらいに阪神大震災が襲ってきた。震災前日は、夜中の4時過ぎまで勉強をして、寝付いて2時間くらいしたところで地震が襲ってきた。当時は現在のように地震活動期ではなく、僕は小さな地震さえも経験したことはなかった。初の地震体験が阪神大震災だった。

2月・3月にある国公立の2次試験などを受けに行くときには、地下鉄・JRはまだ完全に復旧しておらず、不通区間は歩いて行くしかなかった。須磨・鷹取あたりの焼野原を歩いて行ったことを思い出す。その当時に比べると、今では地震の痕跡はほとんどなくなった。

今日のタイトルは「頑張れ受験生!」ということだが、受験生はテストのときだけ頑張ればいいわけではない。当たり前のことだが、それまで1年以上頑張ってきたことの集大成が受験なわけであり、入試はこれまでやってきたことのアウトプットに過ぎないとも言える。とはいえ、それまでの努力を無駄にしないためにも健康に気を付けて、万全の状態で臨んでほしいものだ。

この一年も熊本の地震など、日本は様々な天災に見舞われた。そしてセンター試験真っ最中のこの二日間も、非常に寒い日が続く。負けるな、受験生!まだ2次試験や私立大学試験もあるが、一人でも多く最大の力を出し切れることを祈っている。

希望の同盟・・・安倍首相の真珠湾訪問で。

「希望の同盟」、安倍首相は27日午前(日本時間28日早朝)に訪れたハワイ・真珠湾で、日米同盟についてそう述べた。

アメリカの大統領と日本の首相が同時に太平洋戦争開戦の地に立つという、歴史的な日となった。

僕は映像では見なかったが、新聞で安倍首相のスピーチ全文を読んだ。オバマ大統領が5月に広島に訪れた時に行ったスピーチと同様に、安倍首相のスピーチも未来志向を強く表現したものであった。

今回のスピーチ内容は、非常に文学的表現であり、名スピーチであるように思える。もちろん安倍首相一人が作ったものではなく、側近・官僚・そして翻訳者・作家などが制作に関わった大作であることは容易に想像つく。とは言え、安倍首相の思いがつまったスピーチであることには変わりはない。

今回の安倍首相の真珠湾訪問は、5月のオバマ氏の広島訪問に対する返礼だと言われている。オバマ氏は広島では謝罪はしなかった。それに準じて安倍首相も今回は謝罪しなかった。しかし現在の強固な日米同盟下では、そんなことを気にする人は少ないのではないか。もちろん外交的には謝罪するかしないかは大きな問題になってくる。しかし日米両首脳は、過去への謝罪ではなく、未来への発展を取った。

今回の安倍首相のスピーチには、タイトルが付けられている。

「和解の力」

世界のどこかで戦争や紛争が起こることはいつの時代でも同じであるが、考えてみれば非常に不思議でもある。世界から軍隊が全て無くなればいい、そう思う人が大多数であろう。しかし悲しいかな、いつの時代も侵略をたくらむ国家・組織が必ず存在する。それらから防衛するためにも軍隊、あるいは自衛隊は必要不可欠だ。しかし必要悪だとは言いたくない。そんなことを言ったら、国家を守る任務に就いている自衛隊員に失礼である。自衛隊員様、いつもお疲れ様です。

戦後約70年、日本は泰平の世が続いている。これは300年弱続いた泰平の江戸時代に次ぐものではないか。日本は平和国家である。平和は日本の基軸でもある。しかし、日本だけ平和ならば他国はどうでもよい、などという論理は、世界をリードするこれからの日本に対しては通じない。これからは他国の平和に対しても貢献する、そのような役割が求められている。

しかし、他国への貢献に対して、他の先進国と同じことをする必要はない。日本は日本独自のやり方で貢献すればいいのである。そこでどのような形で貢献するべきか、じっくり熟考して議論しなければならない。

安倍首相はただものの政治家ではない。僕はそう思う。

12月18日(日)、午後10時からの情報テレビ番組「ミスターサンデー」に安倍総理が出演していた。最近は安倍首相は積極的にテレビ番組に出ている感があるが、僕はそれは良いことだと思う。国のトップがテレビを視聴している一般大衆に現状を伝え、これからの展望を述べる、民主主義国家にとって非常に大切なことだ。

先日、安倍首相は地元山口に、ロシア大統領プーチン氏を招き、首脳会談を行った。その成果に対して否定的な意見が非常に多い。もちろん、今回の成果だけをピックアップして眺めていれば、安倍首相の一人負けの感がする。ロシアに食い逃げされたと評する人もいる。

もちろん、安倍首相が普通の首相なら「負けた」と評して終わりかもしれない。しかしこれまでの実績、戦略、実行力からみて、これで終わる総理ではないと僕は思っている。今回の首脳会談でプーチン大統領が大幅に遅刻して予定が狂ったと騒ぐメディアもあるが、プーチン大統領が遅刻するなどということは確実に想定内であって、おそらく安倍首相をはじめとする日本政府もそれを前提とした対策を取っていたことであろう。待ちぼうけをしている間、前日の国会が長引いて寝不足の安倍首相は、温泉につかり休憩をとっていたという。その余裕感は頼もしくも思える。

そして本題のプーチン大統領との会談内容であるが、もちろん安倍首相が話している内容が全てであるなんてことは誰も思っていないであろう。プーチンに食い逃げされただけだと評するのは、まさしく愚の骨頂だ。僕はそう思う。なぜなら安倍首相は普通の総理ではないからだ。安倍首相は確実に二手・三手先を読んでいる。そしてロシアに対しても何かを仕掛けている(良い意味で)に違いない。

ミスターサンデーの番組内で、キャスターの宮根氏と評論家の木村氏は安倍首相を「猛獣使い」だと評していた。プーチンやトランプという猛獣を上手く操っている。しかし、その猛獣に襲われないように気を付けてもらいたい。

そして僕が安倍首相が信頼できる首相だと確信している理由の一つに、何を問われてもまず「安全保障」を真っ先に挙げて重要視していることだ。普通の政治家なら、国民の顔色をうかがって、金銭的・福祉的政策など国民がすぐさま実感できるような政策をばら撒く。安全保障はいざ危機的状況に陥ると誰もが危機感を持つが、普段の平穏な時代には身をもって感じることがなく、ほとんどの国民が自分に関係ないことだと思い、気を留めない。しかし安全保障は国家の根本的土台だ。ビジネスも教育も、安全保障機能のしっかりした土台がないと成り立たない。そういう意味で、安全保障を真っ先に訴える安倍首相は信頼に足る首相だと思う。

もともと石破茂かぶれだと言われてきた僕だが、こんなことを書くと安倍かぶれと言われるかもしれない。しかしそれも、安倍首相がただものの首相ではないと確信しているからだ。これからも一国民として安倍首相に期待している。

福島に対する眼。今、放射線以上に怖いのは正確な情報の枯渇かもしれない。

21日、TBS「ニュース23」で、福島第一原発の特集をしていた。その中で、解説者が福島県立福島高校の男女学生8人と、福島第一原発へ視察するというコーナーがあった。福島第一原発敷地内は、今でも18歳以下の未成年の構内立ち入りは禁止されているのだが、今回は放射線の線量も下がってきたこともあり特別に許可されたそうだ。とは言え、現場に出るのは危険が伴うため、バス内からの視察となったようだ。

高校生らは「福島県民」という「当事者」として、原発を含めた福島の現実を伝えなければいけないという使命感もあり、そのための正確な現状を知るためにも原発視察に参加したようだ。十代の若者たちがそこまで考えていることに、これらの8人の高校生には本当に脱帽してしまう。それに対して福島の正確な現状も知らずに、風評被害に恐れている自分が本当に情けない限りである。

そしてこのように情けない自分を通して一つ感じたことは、放射線ももちろん怖いが、福島の正確な情報・福島県民の生活状況をほとんど知らないことは更に怖いことだということである。そのことに番組に出ていた福島で生活している高校生に、そしてそれらの高校生が使命感を持って福島第一原発を視察しているのを見てひしひしと感じさせられた。

現在のネット社会では、我々はわからないことがあればすぐにネットで検索して調べてしまう。しかしネットというものは意外といい加減なもので、調べる内容によっては正しい情報が少なく間違った情報ばかり出てきてしまうことがある。ネットは非常に便利なものであるが、本当の情報を知るためにはやはり本などの紙の情報に当たることも必要であり、時には現場に自ら足を運ぶことも必要だ。

このことから、今必要なのは情報の量ではない。いくら多くの情報を持っていても間違った情報ばかりでは意味がない。どれだけ質の良い正しい情報を見出せるか、簡単にネットで検索できる現代社会だからこそそのことが重要になってきているのではないかと福島の高校生を見ながら感じた次第である。

日本国民、特に若者と自衛隊のかかわりはどうあるべきか。稲田防衛大臣の発言について考える。

少し前、稲田朋美防衛大臣の「若者全員、自衛隊に触れる制度を」という発言が取り上げられ、議論になった。この発言にはいろいろ反対意見もあると思うが、僕はこの稲田発言には非常に重要な意味があると思う。

この発言に反対する人は、

自衛隊 → 軍国主義 → 戦争

というステレオタイプな考えに陥る人が多いような気がする。もちろんもし本当にそんなことになるのならば何が何でも反対しなくてはならない。この思考に関しては、共産党議員が防衛費に関して「人殺し予算」と発言したことにもつながるだろう。このようなステレオタイプ議員の発言の方がはるかに恐ろしいと思うのは僕だけであろうか?

この問題に関しては、「静」と「動」の状態について考えるのがいいのではないか。自衛隊の存在を敵視する人は

自衛隊の存在 → 他国(中国など)といさかいを起こす → 「動」の状態になる。

と考えているのではないか。逆に言えば、自衛隊が無くなれば「静」の状態になり、平穏(平和?)な世の中になる、と。

しかし実際は、

自衛隊の存在 → 他国に対する抑止力 → 「静」の状態になる。

ではないだろうか。普段日本に住んでいると、日常生活を送るうえで軍事的紛争とは無縁であり、「静」の状態にあるように感じる。しかし実際は年間数百回という自衛隊機のスクランブル発進(緊急発進)により中国・ロシア軍の侵入の試みを防いでいるのである。即ち、自衛隊の「動」によって、我々の日常生活上の「静」の状態が保たれている。

改めて稲田防衛大臣の話に戻るが、自衛隊が陰に陽に日本国民の生活と関わっているのは明らかだ。日本国民はもっと自衛隊の存在に目を向けるべきである。自衛隊の存在から目をそらすのは、現状から目をそらすことである。そういう意味で、日本国民、特に若者が自衛隊と触れ合う場を作り、自衛隊の存在について熟考するきっかけを作ることは必要である。

このことを誤解している人は、

自衛隊と触れ合う → 自衛隊に加わる → 徴兵

という論理になっているように思える。確かに自衛隊への参加を強制することは避けなければならない。しかし現実として、自衛隊は日本国家という機構の一部、それもかなり大きな一部を担っている。

自由主義国家日本において、自衛隊の存在に関して反対するのは自由かもしれない。しかしイメージから反対するのではなくて、自分の頭でしっかり熟考したうえで判断を下してほしいものである。

ジャーナリスト・立花隆氏を想う

初めに書いておくが、立花隆さんはまだご存命である。(2016年現在、76歳)

僕がまだ大学生の頃、若者を中心に立花隆ブームが起こっていた。その頃は立花隆さんはジャーナリストというよりもノンフィクション作家として幅を利かしており、「脳を鍛える」という本が非常に面白かったような記憶がある。

しかし立花隆さんと言えば何と言っても「田中角栄研究・人脈と金脈」という論文記事で、当時の怪物的首相・田中角栄を失脚へと追い込んだことが一番の仕事で、これ抜きには語れない。首相の金銭スキャンダル記事を書くと言う行為は命を懸ける行為であり、記事が公になる前に知られれば確実に命はない。

しかし現在のジャーナリストのスクープ記事を見ると、何とも不甲斐無いものばかりだ。どれを見ても女性スキャンダルばかり。雑誌も女性スキャンダルをすっぱ抜いて首を取ったような気でいる。それが芸能人のものならまだわからなくもないが、政治家の女性スキャンダルをすっぱ抜いてどうする。その前に金銭スキャンダル・権力スキャンダルをすっぱ抜いてみろと言いたくなる。一昔前までは大手メディアは、政治家の下半身のスキャンダルは無視するという暗黙の了解があったそうだが、いまはどうやら・・・

立花隆さんのような、命を懸けたジャーナル記事を見たいものである。

立花さんの田中研究の裏にはアメリカのCIAがついていたという陰謀説もあるようだが、このような自分の頭で物事を考えられない人間の「何でも陰謀説」には本当に辟易する。物事の原因を陰謀説になすり付けると、追及はそこで終わり、考える頭を思考停止させる。

それから、立花さんの記事が出たときなどにも、他の記者から「自分達も知っていた」という声が多かったという。しかし記者が知っているだけでは何の意味もない。それを執筆して世に出すと言う行為が大仕事なのである。またそこに命が懸っている。

最近、命を張って現状を伝えているジャーナリストと言えば、真っ先に戦争ジャーナリストが出てくるが、政治ジャーナリストも仕事によっては命を懸けた重要なものになることにもっとに広く気づくべきだ。

気概のあるジャーナリストの出現を望む。

過度な平等論的選挙法が、政治への関心を薄くする。

10月8日、池上彰さんの番組で、世界の社会に関する解説をされていた。特に選挙に関する話は非常に面白く、北朝鮮の監視選挙など半分面白く半分恐ろしいような実態も取り上げられていた。

その中でもアメリカの選挙と日本の選挙、特に選挙法とのかかわりについて少し考えるところがあった。よく知られているように、アメリカではそれぞれ個人が自身の支持する候補者を積極的にアピールし、さらに新聞・テレビ局などの各メディアまでがそれぞれ支持する候補者を明らかにし、積極的アピールをする。

それに対して日本では各メディアは中立でなければならなく、特定の候補を支持する行動は許されず、討論番組では各党の代表を平等に取り上げなければならない。そして個人が特定の候補者に肩入れし、周りにアピールする行動は(違法とは言えなくても)好ましいとされず、行動によっては選挙法で捕まることもある。ネットでの選挙関連の書き込みにも制限があり、現在選挙でのネットの取り上げ方についていろいろと議論されている。

ところで、8日の池上さんの番組で、カンニング竹山さんがこのような発言をされた。

「選挙法で何もかも平等に扱わなければいけない感じになっているので、選挙に関する話題を話すことができなくなり、選挙に関する関心が薄れてしまう」(言葉は正確ではないが、このような趣旨のことを発言された)

この発言には僕ももっともだと感じた。日本では過度の選挙平等主義のため、政治の話題をすることさえ国民はためらっているのではないか。その結果選挙や政治への関心が薄くなり投票率の低下につながっているのではないかと僕も感じている。

実際に僕も、前回の参議院議員選挙の時に、選挙に関する各党の公約について意見を書こうと思ったが、そのようなことをネットで書くのが法に触れるのか触れないのか判断できなかったので書くのをやめてしまった。

アメリカでは国民一人一人が候補者の支持をアピールするのに積極的行動を取っているので、自然関心は高くなり、投票率も日本に対して高いことは容易に想像できる。

(と思って少しネットで調べてみたが、そんなに極端に高くはなく、日本と同じように若者の投票率の低さが目立った)

とはいえ、アメリカの選挙時の世界を巻き込んでの熱狂は、メディアを巻き込んでまで支援するシステムがあるからこそだと思う。

この様に考えると、日本国民を委縮させる選挙法というものを今のままにするのもどうかと、カンニング竹山さんの発言を聞いて考えさせられた。