社会・時事ネタ」カテゴリーアーカイブ

党首討論。

報道番組で、「今年は一回も党首討論が行われなかった」というニュースを見た。この背景にはもちろん森友・加計問題の影響があるのだろうが、与党党首である安倍首相が疑惑に対して逃げの姿勢をとるのは、国家元首として恥ずべきことだ。

もし森友・加計問題がクロだと認識しているのならば、首相のとるべき道は逃げではなく、「クロをシロである」と論破することではないだろうか。確かにこのような論破は道義的に問題はあるだろうが、しかしこのような論破ができる言論力は国家元首として必要な能力である。

国会は「国権の最高機関であり、唯一の立法機関である」と定められているが、それと同時に「言論機関である」ということは一般的な認識として認知されている。国会は「最高の言論機関である」と言える。したがって、国会で論破するのも大いにありなのである。

選挙時のポスターでは、候補者は「弁士」と名乗っている。弁士ならば弁士らしく言論で戦ってほしいものである。

実力と可能性。羽生永世7冠と藤井聡太四段。

12月5日、将棋の羽生善治氏が竜王位の奪取に成功し、永世7冠の称号を得ることになった。羽生氏は実力・実績共に誰もが認める史上最高の棋士であり、今回竜王位に返り咲いたことでさらに実績を積み上げていく予感を感じさせる。

羽生善治氏の永世7冠と共に、今年の将棋界での大きな話題は藤井聡太四段の快進撃であろう。藤井聡太氏の29連勝は非常に大きな実績であることは間違いないが、現段階ではもちろん何のタイトルも取っていないし、実績もまだほとんど出ていない。

羽生善治氏と藤井聡太氏をそれぞれ一言で表すのならば、“実績の羽生”、“可能性の藤井”ということではないだろうか。羽生氏の実績はこれから100年間破られることはないかもしれないが、藤井氏が将来それを破る可能性ももちろん大きい。

“これからの人間”である藤井聡太氏がこれからどれだけ大きな実績を積み上げるか、非常に楽しみであるが、羽生善治氏の大きすぎる実績には感服させられるのみである。

非公式戦では藤井氏は羽生氏を破ったが、公式戦での羽生対藤井の勝負が今から非常に楽しみである。その勝負が竜王戦7番勝負のタイトル戦になるかどうか、羽生氏がその座に就いた今、後は藤井氏の類まれな才能によってその舞台に上がってくるのを待つのみである。

「良い物を安く」は本当に正しいのか?

もちろん誰だって良い物を安く欲しいものである。良い物を安く提供するとは、日本の美徳のようなものかもしれない。しかしそのことに対する過度な追求は、間違った方向へ進むように感じる。

この様な安さへの過度な追求は、20世紀終わりから21世紀初めへの「失われた20年」につながっていく。市民への優しさを追及した結果、国民全体を考えるとそれが厳しさへと変わっていったのである。

当たり前の事だが、市民が安くで買えば、生産者はその分苦しくなるのである。

やはり、良い物を手に入れた時は、提供者に対してそれに値する対価をしっかりと支払うということは非常に重要なことである。しかし、そのような余裕がないこともあるであろう。その時はせめて提供者に対して感謝の気持ちを持ち、それを伝えるようにしよう。

第三者委員会は免罪符か?

最近、企業の不正が立て続けに起き、またビジネス以外でもスポーツの世界をはじめ何かと不祥事が続いている。もちろん、いつの時代でも何らかの不祥事は起きており、社会と不祥事は切っても切り離せない関係になっている。

不祥事が起きた時、最近は多くの場合第三者委員会というものが設置される。言葉のとおり(建前上は)不祥事の当事者とは利害関係のない人たちで構成される調査委員会だ。もちろん、第三者委員会が設置されることは悪いことではない。しかし、第三者委員会に関しても問題がないとは言えない。

一つ目の問題は、第三者委員会が本当に利害関係のない人たちで構成されているかということだ。もし不祥事の当事者が設置したとなれば、何らかの関係があるという疑念が持たれるのは当然のことだ。

そしてもう一つは、第三者委員会を設置することが免罪符になっているのではないかということだ。第三者委員会を設置したという行為が、不祥事の当事者の正当性を保証することだという当事者の主張が感じられる。「第三者委員会を設置してそれで終わり」では何の意味もない。第三者委員会を設置したから、あとはその人達に聞いてくれという責任回避の態度も見え隠れする。

不祥事→第三者委員会→責任回避、という定番のルートが出来上がっているのが良いのか悪いのか意見が分かれるところだろうが、第三者委員会が免罪符になっているのならば、それは明らかに問題があると言わざるを得ない。

トランプをめぐる、アメリカ軍指揮系統の麻痺。

先日、アメリカ軍の司令官が、「トランプ大統領が核攻撃を指令しても、それが違法なら従わない」という趣旨の事を発言したという。これはアメリカ軍の指揮系統の一部が麻痺状態であることを意味している。

この発言の重要な所は「違法なら」という部分であろう。何をもって違法と言うかは微妙で難しいところだ。そしてトランプ大統領の核攻撃の指令を否定するために、司令官が違法性を作り上げることもできる。

とは言え、このような状態は、アメリカにとって不利益な事であり、トランプアメリカと密接な関係にある日本にとっても不利益極まりない。その一方、北朝鮮にとっては願ったりかなったりであろう。

確かに、トランプ氏自身に問題があることは否めない。しかし一度選挙という民意によって作り上げた指示系統を内部の人間が否定することはそれ以上に危険だ。

アメリカ大統領という存在は非常に強力な権威・権力であり、「任期付の独裁者」とも言われる。この独裁的なシステムが吉と出るか凶と出るか、我々日本人は吉と出ることを願う他はない。

内閣官房参与は多すぎるのか?

毎日新聞のウェブで、「内閣官房参与、15人も必要?自民野党時は「多すぎる」」という記事を読んだ。内閣官房参与は特定分野のスペシャリストで、総理に助言する非常勤のアドバイザーだ。普段はなかなか表に出ることはないが、国政の鍵を握る人たちだと言えるのかもしれない。

現在、内閣官房参与をされている飯島勲氏はテレビでもおなじみで、飯島氏は内閣官房参与を国民に身近に感じさせてくれる存在かもしれない。

内閣官房参与が15人も必要か?という問いに対して、僕は肯定的だ。特定分野のスペシャリストとしての役割は大きく、存在意義も非常に大きい。ただ、今回新たに任命された二人の参与に対しては、その存在に疑問を抱かざる負えない。

この新しい二人の参与は元国会議員であり(そのうちの一人は衆議院議員総選挙で落選した人だ)、官邸関係者は「政治経験が豊富で、アドバイザーとして適任だ」と語っているようだが、そもそも政治家のトップであり政治のトップスペシャリストである総理大臣が、政治経験が豊富であると元国会議員を置くのは、参与の趣旨からしても明らかにおかしい。しかも一人は、「首相と衆院当選同期で盟友」であるらしく、これでは仲の良い者を近くに置いたと言われても仕方がない。

内閣官房参与は非常に重要なスペシャリスト集団だ。だからこそ、その趣旨に沿った真に有能なスペシャリストを慎重に任命してもらいたい。

配慮ではなく、生徒を盾に取った保身だ!

大阪府立高校での黒染め強要問題。そこで学校側の言い分が次々と出されているが、学校問題で毎回思うことだが、なぜ大人はここまで汚く保身に走るのだろうか。

生徒が不登校になってからクラス名簿と座席表から除名していたということが明らかになった。このこと自身ももちろん問題だが、その除名した理由が「生徒が登校していないことを、ほかの生徒から変に詮索されないよう配慮して載せなかった。登校すればすぐに元に戻すつもりだった」(読売オンライン)であったという。学校側が排除しておきながら登校すれば元に戻すというのも矛盾しているが、生徒を盾に取った言い分には卑劣さを感じさえする。

大人は子供よりも立派であるとは僕は全く思わない。子供の方が真実を見極めていることは良くあることであり、大人になればなるほど汚いことを覚えていく。それにしても度重なる学校問題での大人教師の言い分は毎回卑劣を極める。

このような社会的問題が起きても、教師にとっては学校も生徒もどうでもいいのか?自分の身分さえ保証されればどうでもいいのか?もちろん立派な教師もたくさんおり、むしろ生徒想いの教師の方が多数であるだろうが、生徒を盾に取った卑劣な保身教師には怒りを感じる。

政治家の言葉使い。

政治家の発する一言一言は、社会全体から注目を浴びている。そして注目されるのは発言内容だけではない。言葉使いも注目されるポイントだ。その言葉使いに政治家の人柄なり思想がにじみ出てくる。

最近は自党の党首に向かって品の悪い言葉使いで非難したり、あるいは公では到底使ってはいけない言葉を平気で発する政治家も存在する。

選挙時のポスターには、多くの政治家が肩書として「弁士」と名乗っている。弁士であるからには、発言にはプロ意識を持ってもらいたいものである。そして国会では弁をもって物事を正してもらいたいものである。

思考の停止した教師たち。

最近物議を醸している大阪府立高校での髪黒染め強制問題。昔からつくづく考えるのが、規則の妥当性を全く考えずに規則を強制する教師たちの存在についてだ。

どんな世界でも規則は完全ではない。悪法というものは多くの世界で存在する。少し前に「規則を破ることの大切さ」というテーマでブログを書いたが、まさしく今回の問題はそれにあたる。その規則にはどういう意味があるのか?ということを自分の頭で考えて、そのうえでどう考えてもおかしい規則は「破るべき規則」であって、破るべき規則を破ることは非常に重要である。

政治政党の中には「悪法も法である」という立場をとるものもあるが、少年少女の人生を破壊するような規則を放置していいはずがない。

おそらくこれらの教師たちはこれまで、学生時代から従順に規則を守り続けてきた人たちであろう。それ故に「なぜその規則が存在するのか?」ということを自分の頭で考えることを怠ってきたのではないか。

今回の問題を機に、周りのあらゆることに対して「それは正しいのか?どういう意味があるのか?」ということを振り返って考えるきっかけになればと僕は期待している。

「非常識=悪」ではない。

山尾志桜里衆議院議員が、スキャンダルの相手を政策顧問に置いたという報道に対して非常識だという声がある。確かに非常識と言えば非常識だ。普通の人がしないという意味で非常識だ。

しかし「非常識=悪」とは僕は考えていない。

僕はこれまで山尾議員を擁護するようなブログ記事を2度ほど書いたと思う。ではなぜ山尾議員を擁護するのかというと、理由は簡単で、「批判するようなことではない」からだ。

スキャンダルでも、金銭的スキャンダルとなると話は全く違う。金銭的スキャンダルを起こす議員に対しては、議員としてのモラルの欠如が問われるところである。もちろん、政治活動にはお金は付きものであるし、資金を集めることは議員としての宿命であるとも言える。だから、議員がお金を集めること自体はグレーであっても必ずしも悪とは言えない。しかし某議員のように、私腹を肥やすための不正なお金集めをする者は、はっきり言って議員の資格はない。

山尾議員の場合、単なる個人的色恋沙汰に過ぎない。多くの人は良い印象を持たないかもしれないが、政治家としての人間性とははっきり言って関係ない。

今回山尾議員は、そのスキャンダルの相手を政策顧問に置いた。確かにどういう意図なのか理解できないところはある。しかし山尾議員がこの弁護士の手腕を高く評価し、政策顧問として置くことを強行したのならば、僕はこの腹の座った山尾議員の決断を称賛したい。もちろん、個人的な好みで置いたのならば論外であるが。