社会・時事ネタ」カテゴリーアーカイブ

安倍強権政治の副作用。

18日、セクハラ疑惑の財務事務次官の辞任が決まった。財務次官のセクハラ疑惑に関しては誰が見ても弁解の余地がないものであり、次官、そして財務省・政府の見解は非常に首をかしげるものばかりだ。

今回の疑惑をはじめ、政府周辺では最近、立て続けに疑惑・騒動が起きている。これらの疑惑に関しては様々な原因があるだろうが、その中の大きな理由に安倍政権があまりにも強くなりすぎたということがあるだろう。

強い政府は何も悪いことばかりではない。特に対外的には政府が強いことはポジティブな面も強く、強い政府・安倍一強だからこそ成すことができたことも少なくはない。僕自身も、安倍首相本人に対してはそんなに否定的には思っていない。

しかし現在、安倍首相はあまりにも強くなりすぎてしまった。おそらく安倍首相周辺はイエスマンの集団になり、そして安倍首相側の人間は安倍首相を盾にして一方的な解釈をしている。僕にはそう思える。

このような、官僚などの安倍首相周辺の状況を見ると、安倍政権もそろそろ潮時ではないのかと感じる。新しいトップのもとに、政府周辺の意識を改革することが求められる。

今さえ良ければいいのか?

元首相・小泉純一郎氏の記事を読んだ。小泉氏は震災以来、原発ゼロを訴えていることで有名だ。原発ゼロに関しては僕自身も賛成であるが、小泉氏によると、原発をめぐる状況には様々なしがらみがあるようで、一言で原発ゼロと言ってもそれを遂行するのは容易くないようだ。

ただ、原発がなくても電力需要を満たすことができる事は、震災直後の原発不稼働時期に証明されている。だから物理的には今すぐにでも可能なのだ。

元首相である小泉氏の意見は、政治界、経済界を総合しての知見によるものであると感じている。その小泉氏が原発ゼロを訴えているということは、おそらくそれが可能であるということであろう。いや、それを可能にしなければならないのかもしれない。そのためには国民も無関係ではなく、今さえ良ければいいという考えを捨てて行動しなければならないのかもしれない。

実力と努力と運。

大谷翔平選手を見て、この三つの事が頭に浮かんだ。大谷選手はこの三つ全てを持ち合わせている。

大谷選手の実力は誰も疑わないだろう。そして努力についても様々なメディアから伝えられている。そして運に関しては、多くの人が二刀流に懐疑的であった中、日本ハムファイターズに入団し、栗山監督という最大の理解者を得ることができた。そして現在、エンゼルスに入団したことも恐らく最適であったのだろう。

この運というものは、本当に運任せではない。運は自分が掴み取ることができるものだ。運を掴み取るのも実力のうちとよく言う。実力のない者は運をつかみ取れない。

実力と努力と運の三つを持ち合わせた人は多くないのかもしれない。しかしそれを初めから無理だと思う人は、持ち合わせていないという以前に、持ち合わせる資格がないと言える。自分は実力と努力と運を持ち合わせていると思い込み前に進める人が、この三つをつかみ取るチャンスを得られるのだろう。

「記憶にございません」は、せこい。

政治家への疑惑追及で定番の答弁となっている「記憶にございません」という言葉。この言葉は考えれば考えるほどせこい言葉であることに気付く。

この言葉の特徴は、「やっていません」とは言っていないところだ。記憶にございませんと否定して、もし本当であることが暴露されると「やっていたけど記憶にないだけだ」と言い逃れができる点だ。すなわち嘘は言っていないと。

政治家は非常に便利な言葉を開発したものだ。国会での疑惑の追及は「記憶にございません」のオンパレードだ。この言葉は本当に禁止用語にしてもらいたいくらいだ。

「記憶にございません」と弁明する政治家は、それだけで信用すべき価値のない人間である。

即結果を出す大谷翔平。

今、二刀流・大谷翔平が熱い。メジャーリーグが開幕し、初先発初勝利後、3試合連続の本塁打。もちろん活躍の内容も素晴らしいが、即戦力として求められ、即結果を出すことには頭が下がる。

僕自身は何に対しても意外と粘り強くこなすのだが、大体想定よりもはるかに長い時間がかかっている。時間が決められると時間内にはできない。即結果を出すということができないのだ。

時間がかかっても、それに見合うだけの成果を出せればよいと思っている。しかし人生は有限だ。いくら長くなっても寿命が来るまでに達成しなければならない。

大谷翔平のように大きな結果を即出すという離れ業はできないが、大きな結果を出すべく粘り強く前に進んでみよう。

知識の奥深さ。

科学や医学の事を取り上げるメディアは非常に多いが、それらのメディアで取り上げられている知識にどれくらいの深さを求めるかということは難しい問題である。あまりにも深く専門的になると見る人も離れてしまうので、どうしても表面的・実用的な知識の紹介になってしまう。それらの代表的な例がクイズ番組であろう。

実用的知識や雑学などは非常に面白く、知らないよりも知っていたほうが良いが、その一方で専門的見識を軽視することは非常に危険である。全ての分野において専門的見識を持つことは不可能であるが、自分の専門分野を持ち、その専門分野において深い見識を持つことは非常に重要である。

自分の専門分野を究めることは、その専門分野だけでなく、日常的な知識に対しても思考の深さを与える。表面的な実用的雑学的知識を習得すると同時に、知識を深く掘り下げる作業が人間の幅を広げることになるだろう。

企業の研究に、独創性はいらないのか?

タイトルをこのように書いたが、もちろん企業における研究でも独創的な研究はいくらでもある。しかし僕が最近感じているのは「独創的なテーマの選定」の必要性だ。

最近、大手企業をはじめ、AI研究所なるものが続々でき、AI研究に対して巨額の予算が投じられている。もちろんそれだけの予算が投じられる背景には、将来ビジネスとしてそれを上回る利益を回収できる見込みがあるからだろう。

企業は大原則として利益追求のためにあるのだから、儲かる研究に資金を投じるのは当然である。しかし大手企業が新しい独創的テーマを選定できないことに、多少危機感を覚える。それで次世代ビジネスの世界で戦っていけるのかと。

分野が違うと、意外と本質は見えないものなのかもしれない。しかし本質の中には分野を問わず共通基盤的なものもある。そのような共通基盤的な本質を把握することは、どのような対象を専攻するにあたっても必要だと思うのだが。

批判を恐れてはいけない。

最近何かと批判・炎上が話題になるが、批判に対して過敏になりすぎている世論・メディアに疑問を感じる。

例えば、批判が100件あったと言ったら単純に多いようにも思えるが、日本人口を単純に1億人と考えれば100人はたった0.0001%に過ぎない。100万人でやっと1%なのである。もちろん批判的な人たちが皆、批判的行動を起こすとは限らないので何とも言えないが、メディアが十人・百人の批判に過敏になるのは行き過ぎだと思う。

一般論に変わるが、どんなことに対しても批判的な勢力は一定の割合で存在する。だから100%支持されようと考えるのはナンセンスだ。確かに批判の割合が多ければそれは考え直すべきなのかもしれないが、一つ一つの批判に対して過敏になる必要はない。

それに新しいこと、革新的な事を行う場合は、ある程度の批判は付きものだ。これらの批判を気にしすぎていては革新は生まれない。批判を覆すほどの結果を出せば、何も問題はないのである。

高梨沙羅、W杯歴代最多54勝目!

スキージャンプ・高梨沙羅さんが、歴代最多のW杯54勝目をあげた。通算104戦目での勝利なので、単純に出場試合の半分以上で勝利していることになる。

高梨沙羅さんと言えば、五輪で勝てないと言われることも多いが、W杯でこれだけ勝ち続けることは五輪で金メダルを取る事よりも圧倒的に難しい。五輪が瞬間風速だとすれば、W杯での通算勝利は持久力だと言える。

高梨さんはまだ21歳。これからさらに記録を伸ばし続ける可能性はある。4年後は五輪で勝利とつい思ってしまうが、今のままでも十分に偉大だ。

高梨さんに対して今日本人にできる事は、世界の頂点に立つ高梨さんを励みに自分もより上を目指すことだろう。この何気ないことの積み重ねが、結果的に頂点に立てるか平凡に終わるかという差になって表れてくる。

高梨さんの勝利に奮い立って、世界を舞台に暴れよう!

情報は正しいか?

近年のネット社会化によって、あらゆる情報が無料で簡単に手に入るようになってきている。しかし、その情報は本当に正しいか?と問われると、疑わしい情報もかなりある。

特にネット情報は真偽疑わしいものが混在しており、素直に情報を受け取ることは非常に危険だ。そういう意味で、現在においても信頼性の高い新聞紙による情報はかなり価値があると言える。

テレビにおいては、堅い報道番組とワイドショー的な情報番組では信頼性の落差は非常に大きく、特に後者においては司会者・コメント者が真偽に対する深い考察もなく情報・意見を垂れ流しにしていることもよく見られ、時にはそれらの真偽疑わしい情報が世論を形成する場合もあり、非常に危惧される状況である。

最近、フェイクニュースが問題にされている。悪意の持った偽情報に関しては言語道断だが、現実問題としてフェイクニュースが世間では真情報と信じられることも多く、情報を受け取る者に対しても情報に対する姿勢が問われるところだ。

これらの通り、現代では「火のないところに煙が立つ」ということが当たり前のように起こっており、そのような現実を情報受信者に対しても肝に銘じて情報に向き合うことが求められる。