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ネクスト資本主義

最近、「資本主義」というものに、人々は疑問を持ち始めた。今までの資本第一主義の社会に何かしら違和感を感じているのだろう。

昨日1月29日の田原総一郎氏のブログで、氏は現在の資本主義に言及し、資本主義の終焉、ポスト資本主義について意見を述べている。氏は資本主義に置き換わる、新しい「・・主義」を模索し探しているのだろう。

しかし私は社会のシステムを「主義」とひとくくりででまとめてしまうことに限界があるのではないかと思う。

いま、あらゆるジャンルで「多様性」というものが注目されている。資本主義の次に来るのもまさしく「多様化された社会」ではないだろうか。

今までは資本主義陣営では、共産主義は批判の的であった。しかし共産主義自体はもともと民衆の格差をなくすために考案された。実際の共産主義国の実情はともかく、共産主義の理念自体は悪くないと思う。

そしていま、世界的ベストセラーになっている、トマ・ピケティの著書「21世紀の資本」(あまりにも分厚いので僕はあまり読む気にならないが)では、資本主義社会では貧富の格差が大きくなっていくのが普通の状態だと警鐘を鳴らしているらしい。しかしピケティに言われなくても、貧富の差の問題は今では万人が認識している。

それから私が思うには、資本主義というのは「社会組織第一主義」でもあるのだと思う。しかしいま重きは、社会組織から個人個人に移ってきている。そういう意味でも多様性のある社会が重要になってきているのだ。

「主義」という言葉でまとめてしまっては多様性を押し殺してしまうかもしれない。そういう意味で、ポスト資本主義とは言わずに、私はあえて「ネクスト資本主義」という言葉を使った。

多様性とは言い換えると「バラバラ」ということかもしれない。社会秩序を保ちながら多様性を容認するのは簡単ではない。しかしその舵取りをする政府、あるいは霞ヶ関、社会的指導者は、そのバランス感覚に細心の注意を払わなければならない。

ともかく、人々が住みよい社会、そして個人の意思が尊厳される世の中になることを願っている。

パーフェクトベビー

ここ数年、遺伝子検査の進歩が目覚ましい。血液を検査するだけで、現在の病気や体質だけでなく、将来に罹患するであろう病気までわかっしまうらしい。

もちろんこのような流れは、現存する人間だけでなく、将来生まれてくるであろう胎児にもなされることは容易に推察できる。

以前から、胎児の遺伝子を検査して、ダウン症などの遺伝病が発覚すると堕胎するということは、「命の選別である」と問題になっていた。そして現在では男女の産み分けも100%の確率でできるらしい。さらに受精卵の遺伝子検査をすることによって、生まれてくる人間の遺伝病だけではなく、性格や才能までわかるらしい。

このように、生まれてくる人間を人の手で操作し、誕生する理想的な赤ちゃんを、「パーフェクトベビー」というらしい。

パーフェクトベビーの問題を一言で断罪するのは非常に難しい。社会的問題、宗教的問題、倫理的問題、科学的問題などの複合的な見解が複雑に絡み合う問題なので、永遠に答えの出ない問題かもしれない。

しかし多くの人は何かしら違和感を感じるところだろう。永遠に解決できない問題かもしれないが、議論はしなければならない。簡単に線引きできる問題ではないが、社会的ルールとしてどこかで線引きしなければいけない。

優秀で健康な子供に生まれてきてほしいというのは、親にとっては誰でも思う親心だ。しかしこのパーフェクトベビーをめぐる問題には、ゆがんだ親心が関わっていないかと思うのだが。

これから社会で大いに議論し、適切な落としどころを見つけなければいけない問題だ。

置いた拠点に悔やまれる(人質事件をめぐって)

現在、1月28日午前三時。

数時間前に新たな映像がネットに流された。それによると後藤健二さんの救出期限は24時間とイスラム国側に指定された。

そこでやはり悔やまれるのは、救出拠点をヨルダンに置いたことだ。確かにヨルダンは親日国家で、ヨルダン国家・国民には感謝しなければいけない。

しかしなぜ拠点をトルコに置かなかったのか。それが悔やんでも悔やみきれない。トルコは以前ブログで書いたように、歴史的な経緯もあって、「超」が付くほどの大親日国家だ。しかも報道によると、トルコは以前、イスラム国に拘束されていた人質数十人を奪還したようだ。このように、親日であり、人質救出の実績のあるトルコに窓口を置かなかったのは、日本の痛恨の極みである。

もちろんトルコに拠点を置いたからといって、必ず成功するとは限らない。しかしトルコに拠点を置かなかったことは、救出作戦とは関係なしにしても、外交として一つの失敗だったのではないか。僕はヨルダンに何も悪気はないし、親日であることには感謝しているが、トルコではなくヨルダンに拠点を置いたことに関しては全く理解できない。

しかし一度ヨルダンに拠点を置いたからには、それで突き通すしかない。安倍首相をはじめ日本政府、そしてヨルダン政府は全力を尽くしているのも伝わってくるので、外部の人間としてはそれらの政府、首相を信じることしかできない。

それから、安倍首相にとってはここは踏ん張りどころだとは思うが、健康には留意してほしいと思う。

一人の日本国民として、日本国首相安倍を見守っています。

I am Kenji(人質事件をめぐって)

イスラム国人質事件で、現段階で湯川さんは殺害されたといわれているが、後藤健二さんはまだ生存しているようだ。

この事件に対する対応は世界が見ている。日本国政府の対応、そして日本国民の対応。

人質事件が起こると毎度出てくるのが「自己責任論」。しかし同じ日本人をそんなに簡単に見捨てていいのか。そのような日本人の声は、全世界が聞いているぞ。日本という国、日本国民はそんな自分勝手な低レベル国家なのかと。

今すべきは後藤さん助けるために少しでも状況を好転させること。これは日本政府だけの役割と思うかもしれないが、日本国民一人一人の声も集まれば日本国の世論となり、イスラム国側に圧力をかけられるかもしれない。そのためにも自己責任論などという、自ら同胞を見捨てるようなバカな声を発信してはいけない。

しかし、いま嬉しい運動が起こっている。

「I am Kenji」運動。

もちろんこれは、パリのテロ事件での、「I am  シャルリー」運動をもじったものと思われるが、このような運動を起こし、日本国民が一致団結していることを示すことが、今われわれ一国民がイスラム国に圧力をかけられる一番の手段ではないか。

「I am Kenji」

そして後藤健二さんが無事戻ってきたら、こう声をかけてあげよう。

「また紛争地に行って、良質なレポートを届けてくれ」と。

友好国と隣国

イスラム国に拘束されていた二人のうち、湯川さんが殺害されました。しかしまだ後藤さんの生存が濃厚な状況なので、政府は後藤さん一人だけでもという方針で行くみたいです。

そこで重要になってくるのがイスラム国とのパイプですが、日本政府はイスラム国とのパイプを持ってないようです。頼るべきは、日本と国交のある中東国。そこで真っ先に思い浮かぶのはトルコではないでしょうか。

日本とトルコは大の友好国で、その歴史は明治時代にさかのぼります。紀伊半島沖で沈没したトルコ船の船員を救出し、生存者を日本の軍艦でトルコまで運んだことから縁の発端は始まります。

そしてトルコの日本に対する友好的な好意は今でも非常に強く、日本人としては非常にありがたいことですが、日本はというと韓国・中国との関係ばかりに目が行き、トルコなど眼中にないというような扱いです。

確かに日本とトルコは地理的に非常に離れています。しかし、友好国などというものは、作ろうと思っても簡単にできない。だからこそトルコのような親日国家に対して日本も大切に接しなければいけない。

親日国家を大切にすることは、普段は利などあまり感じないかもしれませんが、いざというときに必ず力になってくれる。イラン・イラク戦争の時にイランから邦人を救出してくれたのはトルコ政府・国民だったことを、決して忘れてはいけない。

今回の人質事件対策本部はヨルダンに置かれているようで、ヨルダンも日本の友好国だということを初めて知りました。やはり危機の解決の糸口は友好国にあり、トルコ・ヨルダンになるのではないでしょうか。

近くの敵を懐柔することも必要かもしれませんか、遠くの友も大切にすることを忘れずに。日本政府なら必ずうまくやってくれると信じています。

自己責任論

現在、イスラム国での人質事件は期限が過ぎたが、大きな進展はないようだ。

外国での人質事件が起こるたびに必ず上がるのが「自己責任論」。自分が勝手に行ったのだから、すべて捕まった本人の責任だというものである。しかし、日本の法律には、自己責任論などというものは存在しない。それに、日本国は海外で被害にあった日本人を助ける義務がある。

確かに今回の2億ドル(200億円以上)という金額は法外なものだ。しかし、初めからこの金額に対して救助を放棄をしてしまえば、日本は国家の体を放棄しているのと同じことになる。確かに今回の救出作戦は非常に厳しいもので、成功するかわからない。しかし、首相をはじめ、日本国が全力を挙げて取り組んでいることに、日本国民の一人として誇らしく思う。

今回拘束されている湯川さん、後藤さんは、決してわがままで行ったのではない。それに万が一自分で勝手に行ったとしても、国は救助する義務はある。

今回の救出作戦は、今回一件だけで終わるものではない。日本の自国民を守る姿勢は対外的に示され、日本という国の思想なり品格なりの高さを示すものになるであろう。

今は二人の無事を祈るのみである。

表現の自由はどこまで・・・

二週間前に起きたパリでのテロ事件で、被害出版社の風刺画が問題になった。パリでは表現の自由が声高に主張され、イスラム信者からは宗教に対する侮辱だと叫ばれている。

いったい表現の自由はどこまで許されるのだろうか。

通常の考えであれば、表現の自由は無制限に許されるものではないことは簡単に分かる。なぜなら、その表現が相手に対して被害を与えたり、犯罪的な行為であれば、許されるものではないからだ。

では、今回の風刺画の場合はどうであろう。この風刺画はイスラム信者の側に立てば明らかに侮辱的行為である。出版社側は表現の自由だというかもしれない。しかしこれは、表現の自由とかの問題以前に価値観の違いの問題だ。

ヨーロッパの価値観では、表現の限りない自由は当たり前で、今回のことはその範囲であるというかもしれないが、イスラム圏の価値観では考えられないことだ。

今回の問題で、ヨーロッパの自由さを素晴らしいことだと主張されてるが、その反面、今回の出版社の主張は、自分たちとは違う価値観を認めない、あるいは他人に対し自分たちの価値観を強引に押しつけていることにはならないかと思う。表現の自由の蓑に隠れて、多様な価値観の存在を認めないという行為ではないか。

出版社の風刺画を法的に規制するのは間違っているが、ただその自由の一方、多様な価値観のもと、それが適切かどうか自分で判断し、適切ではないと判断すれば自粛すべきではないかと思う。

今回の出版社の風刺画の問題自体は犯罪でもなんでもないが、思想的レベルの非常に低い出版社であることは間違いなさそうだ。

知恵を絞ればトイレも・・・

今日、市民トイレの命名権を売った?というニュースを見た。

命名権を売るだけなら、野球場のネーミングを数億円で売るということがよく話題になる。しかしこのトイレのネーミング、命名権を売ったとはいえ、厳密には売ったのではなく、ネーミング権を与える代わりにトイレの改装・清掃などを受け持ってもらうというもの。

以前のトイレは暗い・汚いトイレだったらしいが、ネーミング権を与え、照明がLEDに変わるなど、非常に清潔感のある市民トイレに変わったそうだ。

これこそ、新しい発想の転換である。汚いトイレも知恵を絞れば一転ピカピカトイレに様変わりするんですね。

阪神大震災20年目

今日1月17日で、阪神大震災から20年目。神戸市民なら毎年振り返る日だ。

震災の年、僕は大学受験生だった。確か震災三日前くらいにセンター試験があった。そんなに根を詰めて受験勉強をやっていたわけではなかったので、震災の前日も夜更かししていた。

寝付いたのは夜中の午前4時過ぎだったと思う。寝付いてすぐに地震が起きたという感じだった。ベッドを大男に揺さぶられているような感じだった。揺れているときは、地震という認識もなかった。幸い僕の住んでいるところは神戸でも被害の少ない地域だったので、混乱は全く起きなかった。

そして3日後に地下鉄が市街地まで再開したので、被害のひどい地域にいる親友の安否をたずねて行った。親友は無事だったようだが、避難しているようで会うことはできなかった。

約半月後、大学入試2次試験を受けるために神戸市街を通ったが、一帯焼野原で「私たちは大丈夫です」という木製の札が焼けた家の前にいたるところに立っていたのが心に残っている。

そういえば、身内に亡くなった人がいなかったせいか、個人的には神戸のシンボルの一つであもあり、毎日のように利用していた阪急三宮駅を取り壊しているテレビ映像を見たとき、涙が止まらなかった。

あれから20年、今では神戸の街で震災の爪痕を見つけるのが難しいほど復興している。(見かけ上は)

阪神の時はかなり街の復興が早かったように思えたが、東日本大震災の被災地ではまだまだ復興には時間がかかりそうな状況だ。今の僕には本当にどうすることもできないので心苦しくて、東日本の被災者に対して本当に申し訳ない気持が残るのみである。

阪神大震災の時、当時イチロー選手も在籍していたオリックスブルーウェーブが「がんばろう神戸」というスローガンを掲げて戦っていた。

被災者でない僕がこんなことを言う資格はないかもしれないが

「がんばって東日本」

とエールを送らしていただきたい。

新幹線死亡事故ゼロ?

よく新幹線の安全性に関して引き合いに出されるのが、事故による乗客の死亡数がゼロという事実。実際、東日本大震災でも新幹線の事故による死者はゼロであったし、2004年の新潟中越地震による脱線事故でも死者は出なかった。

しかし、一つ重要な事案を忘れてないか?1995年の阪神大震災である。この震災による新幹線の事故は確かになかった。しかしそれは、地震が始発電車が運行する前の午前5時46分に起きたという、運が良かったということ以外の何物でもないのではないか。

阪神大震災で、新幹線の橋脚は何本も崩れ、高架はいたるところで落下していた。もしこの地震が”午後”5時46分だったらどうだったであろう。落下した高架に新幹線がさしかかれば、少なくとも死者は3ケタはいったであろうことは容易に推察できる。

しかし鉄道関係者も報道関係者も、この事実には誰も触れようとしない。むしろあえて避けているようにも見える。

将来、もし地震などで新幹線で大事故が起きたときは「想定外」と言い放つのだろうか。しかし阪神大震災の状況を見ると、想定外でもなんでもない。

この震災時の新幹線の被害状況が現在の新幹線運行と路線建設に生かされていればいいのだが・・・。この時を振り返る人は一人も見かけない。