社会・時事ネタ」カテゴリーアーカイブ

表現の自由はどこまで・・・

二週間前に起きたパリでのテロ事件で、被害出版社の風刺画が問題になった。パリでは表現の自由が声高に主張され、イスラム信者からは宗教に対する侮辱だと叫ばれている。

いったい表現の自由はどこまで許されるのだろうか。

通常の考えであれば、表現の自由は無制限に許されるものではないことは簡単に分かる。なぜなら、その表現が相手に対して被害を与えたり、犯罪的な行為であれば、許されるものではないからだ。

では、今回の風刺画の場合はどうであろう。この風刺画はイスラム信者の側に立てば明らかに侮辱的行為である。出版社側は表現の自由だというかもしれない。しかしこれは、表現の自由とかの問題以前に価値観の違いの問題だ。

ヨーロッパの価値観では、表現の限りない自由は当たり前で、今回のことはその範囲であるというかもしれないが、イスラム圏の価値観では考えられないことだ。

今回の問題で、ヨーロッパの自由さを素晴らしいことだと主張されてるが、その反面、今回の出版社の主張は、自分たちとは違う価値観を認めない、あるいは他人に対し自分たちの価値観を強引に押しつけていることにはならないかと思う。表現の自由の蓑に隠れて、多様な価値観の存在を認めないという行為ではないか。

出版社の風刺画を法的に規制するのは間違っているが、ただその自由の一方、多様な価値観のもと、それが適切かどうか自分で判断し、適切ではないと判断すれば自粛すべきではないかと思う。

今回の出版社の風刺画の問題自体は犯罪でもなんでもないが、思想的レベルの非常に低い出版社であることは間違いなさそうだ。

知恵を絞ればトイレも・・・

今日、市民トイレの命名権を売った?というニュースを見た。

命名権を売るだけなら、野球場のネーミングを数億円で売るということがよく話題になる。しかしこのトイレのネーミング、命名権を売ったとはいえ、厳密には売ったのではなく、ネーミング権を与える代わりにトイレの改装・清掃などを受け持ってもらうというもの。

以前のトイレは暗い・汚いトイレだったらしいが、ネーミング権を与え、照明がLEDに変わるなど、非常に清潔感のある市民トイレに変わったそうだ。

これこそ、新しい発想の転換である。汚いトイレも知恵を絞れば一転ピカピカトイレに様変わりするんですね。

阪神大震災20年目

今日1月17日で、阪神大震災から20年目。神戸市民なら毎年振り返る日だ。

震災の年、僕は大学受験生だった。確か震災三日前くらいにセンター試験があった。そんなに根を詰めて受験勉強をやっていたわけではなかったので、震災の前日も夜更かししていた。

寝付いたのは夜中の午前4時過ぎだったと思う。寝付いてすぐに地震が起きたという感じだった。ベッドを大男に揺さぶられているような感じだった。揺れているときは、地震という認識もなかった。幸い僕の住んでいるところは神戸でも被害の少ない地域だったので、混乱は全く起きなかった。

そして3日後に地下鉄が市街地まで再開したので、被害のひどい地域にいる親友の安否をたずねて行った。親友は無事だったようだが、避難しているようで会うことはできなかった。

約半月後、大学入試2次試験を受けるために神戸市街を通ったが、一帯焼野原で「私たちは大丈夫です」という木製の札が焼けた家の前にいたるところに立っていたのが心に残っている。

そういえば、身内に亡くなった人がいなかったせいか、個人的には神戸のシンボルの一つであもあり、毎日のように利用していた阪急三宮駅を取り壊しているテレビ映像を見たとき、涙が止まらなかった。

あれから20年、今では神戸の街で震災の爪痕を見つけるのが難しいほど復興している。(見かけ上は)

阪神の時はかなり街の復興が早かったように思えたが、東日本大震災の被災地ではまだまだ復興には時間がかかりそうな状況だ。今の僕には本当にどうすることもできないので心苦しくて、東日本の被災者に対して本当に申し訳ない気持が残るのみである。

阪神大震災の時、当時イチロー選手も在籍していたオリックスブルーウェーブが「がんばろう神戸」というスローガンを掲げて戦っていた。

被災者でない僕がこんなことを言う資格はないかもしれないが

「がんばって東日本」

とエールを送らしていただきたい。

新幹線死亡事故ゼロ?

よく新幹線の安全性に関して引き合いに出されるのが、事故による乗客の死亡数がゼロという事実。実際、東日本大震災でも新幹線の事故による死者はゼロであったし、2004年の新潟中越地震による脱線事故でも死者は出なかった。

しかし、一つ重要な事案を忘れてないか?1995年の阪神大震災である。この震災による新幹線の事故は確かになかった。しかしそれは、地震が始発電車が運行する前の午前5時46分に起きたという、運が良かったということ以外の何物でもないのではないか。

阪神大震災で、新幹線の橋脚は何本も崩れ、高架はいたるところで落下していた。もしこの地震が”午後”5時46分だったらどうだったであろう。落下した高架に新幹線がさしかかれば、少なくとも死者は3ケタはいったであろうことは容易に推察できる。

しかし鉄道関係者も報道関係者も、この事実には誰も触れようとしない。むしろあえて避けているようにも見える。

将来、もし地震などで新幹線で大事故が起きたときは「想定外」と言い放つのだろうか。しかし阪神大震災の状況を見ると、想定外でもなんでもない。

この震災時の新幹線の被害状況が現在の新幹線運行と路線建設に生かされていればいいのだが・・・。この時を振り返る人は一人も見かけない。

日本製の良さを再発見する日本

今日新聞で、日本製の生地を使い日本で縫製された衣服に、「純日本製」を示す特別なタグをつけるという記事があった。日本製の良さを知ってもらい、アピールするためだそうだ。

最近大幅な円安のせいか、あらゆる業種で日本のメーカーの製造日本回帰ブームが起こっている。もちろん日本としては嬉しいことではあるが、円高になると海外に行き、円安になると日本に戻るという単純思考によるものだと少し残念だ。

確かに中国・東南アジアで作られた製品は安かった。もちろん値段は高いより安い方がいいかもしれない。しかし、信頼のあるmade in japanを求めている人も少なくなかったと思う。しかし電気量販店、あるいは大手服屋さんにいけばすぐに気付くが、日本製が欲しくて日本製を探してもなかなか見つからない。そして仕方なしに外国製を買うことになる。

ここ最近、純日本製の製品を手に入れるのが一番難しい国は日本である、と皮肉られたこともある。そして日本メーカーは自ら日本製の信頼性を手放していたのである。

今までの日本メーカー海外製作の逆輸入戦略は正しかったのだろうか?これは答えの出せない問いだ。なぜなら、そのまま日本で作った場合どうなったかというモデルケースがほとんどないからだ。しかし日本で製作し、高品質高信頼の製品を打ち出していく戦略もあったはずだ。もしそうしていたならば、過去10数年の、特に電機メーカーの壊滅状態は避けられた可能性もある。

円安で純国内生産で輸出するという戦略が容易になった今、日本製を大きくアピールし日本製の信頼を大きく揺るがないものにする絶好のチャンスだと思う。このチャンスを生かすも殺すも、経営者の日本製に対する価値観をどう表現するかにかかっている。

ベンチャーの捨て身のアイデアに注目せよ

ここ十年くらい、日本でもベンチャー企業の重要性が認識されてきた。しかし、アメリカがベンチャー企業主義と言うならば、日本は大企業主義とでも言うのだろうか。

なぜベンチャー企業を注目し、支援をすることが大事なのか?おそらく日本では、どんな大企業も生まれたときはベンチャー企業であって、大企業の卵は大事にしなければならない、という考えが強いように思える。

しかし大企業とベンチャー企業の一番の違いは、企業の規模ではなくて起業精神ではないかと思う。大企業はどうしても保守的になりがちだ。しかしベンチャー企業は、資金を集めるためにも斬新なアイデアを打ち出していかなければならない。ベンチャーは現状維持では後がないので捨て身のアイデアを出してくる。その捨て身のアイデアこそ、未来の社会・技術の卵ではないかと思う。

しかし日本ではベンチャーとはいっても、大企業の二番煎じ三番煎じのアイデアが多いみたいだ。出資する側にしても、アメリカでは新しいアイデアに未来をかける意味でも捨て身の斬新なアイデアを評価するが、日本では前例がないといって鼻で笑う。そして結局、二番煎じ三番煎じ的企業が一時的には生き残り、そして潰れていく。

少し話が変わるが、日本では最近になってようやくホワイトハッカーの重要性に気づき、ハッカーの養成に国を挙げて支援をする策を打ち出した。しかしホワイトハッカーの重要性など外国では十年以上前から認識されており、アメリカなどでは国の中枢部にかかわっている。しかし日本では、ハッカーと言えばブラックハッカーのネガティブなイメージしかなく、その社会的イメージをずるずると引きずったまま最近までその重要性に気づかなかった。

最近の日本のハッカー養成の重点化においても、重要性を認識してという以上に、外国でハッカーが注目を浴びているからという、外からの要因が大きいのではないかと思う。所詮、この政策も二番煎じ三番煎じなのである

今日本で一番注目を浴びているベンチャー分野はITだが、ITも現在の技術であって未来の新技術ではない。本当に注目されるべきなのは、今は黎明期だが将来大きく伸びる可能性のある分野ではないだろうか。

20年前のITがそうだった。そして国内でもソフトバンクなどはそのころITに注目し、現在ITの旗手になっている。21世紀に入って注目しても所詮二番煎じ三番煎じなのである。

もちろんiPS細胞関連の医療分野など、日本発の誇るべき分野も存在するのは確かだ。そのような分野を増やすためにも、黎明期にあるベンチャー企業の捨て身のアイデアにも注目しなければならないのではないかと思う。

就職予備校化した大学

今は一月、受験の季節がそろそろ始まる。受験生は試験対策のラストスパートをかけているところではないでしょうか。

ところで以前から、現在の大学についておかしいと思っていることがある。今に始まったことではないが、多くの大学生・大学院修士課程生にとって、大学が就職予備校化していることである。

大学生にとって、就職活動は3年生の後半くらいから始まる。準備まで含めるともっと前から始めている学生もいるのではないか。

受験生は大学合格を目指して頑張っているのだろうが、大学に入学するとさっそく次はどの企業に入りたいかということに興味は移る。しかし、その前に打ち込むことがあるだろう。言うまでもなく、勉強・研究である。

大学は就職予備校ではない。学問の最高学府である。その最高学府である大学に入学し、授業料を払っていながら学問に打ち込まないのは、非常にもったいないことだ。

もちろん大学で学問に真剣に打ち込んでいる学生も多くいる。しかし、自分が大学生・院生の頃を思い返しても、専らの興味の関心は就職対策で、学問は二の次三の次という学生が多数いた。特に大学院修士課程は2年間の過程で、1年の後期から就職活動に打ち込み、研究に打ち込むのは実質的に入学してからの半年という学生も多かった。就職内定した後は用済みで卒業するために最低限のことしかしないという人も。

しかしこのような状況は、学生だけが原因ではない。大学側も就職率などというものを大々的に宣伝し、「就職力」というわけのわからない言葉を打ち出している。そしていわゆる一流企業と言われるところにどれだけ入学させるかということに躍起になっている。大学からしてこのざまである。このようなことはいわゆる旧帝国大学と言われるトップレベルの大学も例外ではない。

繰り返し言うが、まじめに勉強・研究に打ち込んでいる学生もたくさんいる。しかしその一方で就職活動に打ち込むことに明け暮れ、勉学に力が入っていない学生も多いのも事実である。

大学がそこまで「就職力」みたいなことにこだわり力を入れるのならば、いっそのこと就職予備校を作ってしまえばいい。あるいは就職大学と名乗った方がいい。

いま、大学に入ってこんな勉強・研究をしたいと夢を膨らませている受験生は、入学した後もその夢に打ち込み、そのうえで就職活動もうまくこなしてほしいものである。