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臓器移植のための海外渡航について

ニュースを見ていたら、海外で臓器移植を受けて無事回復した幼い女の子の話題が流れた。一つの幼い命が救われたことは大変喜ばしいことである。これからも長生きをして、移植された臓器を大切に生きてくれるとすごくうれしい。

ところで日本国内では臓器移植があまり進んでいない。これには医療技術的な問題よりも、法律や文化の壁が大きいみたいだ。科学的に言えば脳が死んだ時が死であるといえる。こう言えば単純だが、実際はそんなに単純な問題ではない。宗教的な問題もあるし、身近な人から見れば脳死であっても心臓が動いている人をなかなか死と認められないものである。

そこで臓器移植を受けないといけないが国内の現状では無理という状況では、海外に渡航して受けざる負えなくなる。しかし本当にそんな現状をそのままにしていいのか。国内ではダメだが海外ならいいよというのは、国内の問題を海外に丸投げしてしているようなものである。もちろん難しい問題であることはよくわかる。しかし難しい問題であることは海外でも同じである。

確かに死んだ人、あるいは脳死の人の臓器を移植するするのを見るのは周りの人にとって非常につらいかもしれない。それも海外でも同じである。しかし一人の人間の死が臓器移植によって新たな生を吹き込むことになるのである。もちろん脳死の人からの臓器移植を強制してはならない。全ての人間に尊厳はある。しかしせめて法的にはもっと移植を推進できる体制を整えるべきではないか。今では臓器を与えたくても与えられないのが現状である。もちろん最近は少し推進しては来たが。

法は国会で認められればすぐにでも変えられるけど、文化的意識を変えるのは非常に難しい。これは徐々に啓蒙活動をしていくしかない。

移植問題を海外に丸投げせずとも、国内で移植を受け、多くの命が助かるようになることを願っている。

全労働者非正規雇用制のすすめ

ここ数年、非正規雇用者の問題がクローズアップされている。確かに現在の非正規雇用制には問題が山積で、何らかの対策は打たなければならない状態になっている。

一番の問題は、非正規雇用者が企業の調整弁になっているということであろう。不振になって雇用者が過剰になったとき、非正規雇用者を切り捨て調整を図っているのである。

そしてもう一つの大きな問題は、給与の面であろう。正規雇用者と非正規雇用者が全く同じ作業をしていても、その両者で賃金が大きく差がつけられている。

そこでこれは一つの極論だが、全社員を非正規雇用制にしてみるのはどうかと思う。もう少し付け加えるなら、正社員と非正規社員の区別をやめるのである。

そんなことを言えば、企業の正社員たちは猛反発するであろう。正社員の身分の安定と、安定した給与があるからこそ、安心して生活ができると。

確かに正社員の安定した身分というのは必要かもしれない。しかし現在の多くの企業制度上、正社員の安定した身分は非常に不安定な非正規社員のもとに成り立っているのである。正社員が安定していれば、非正規社員は不安定で低賃金でも許されるのか。非正規社員も正社員と同じ人間なのである。ただ入ってきた窓口が違うというだけでこんなにも待遇の差をつけられていいのか。

非正規社員を正社員にという声はよく聞く。そこで逆転の発想で正社員と非正規社員という区別をやめてみてはどうかと私は思うのである。もちろん極論であり、問題はたくさんあるのは承知である。

区別をやめることによって、従来非正規だった人の賃金レベルを上げるのはもちろんだが、解雇するハードルも下げ、人材の流れも活発にすればいいのである。

企業にとって人材は宝である。企業にとって宝であるような人が、正社員制度をやめたからと言って企業が切ったりすることはありえない。正社員制度がなくとも重要な人には高給与を与えればいい。

まずは全ての人にチャンスを。社会からあふれた人にも優秀な人が埋もれている。結論を言えば、別に正社員がいてもいい。しかしその正社員の安定と高給与のために非正規社員が犠牲になるようなシステムはもうやめようではないかということなのである。

G型大学と、L型大学に分離する議論について

最近、大学をG(グローバル)型大学とL(ローカル)型大学に分離しようという議論が起こっている。現在の大学ではアカデミックな教育が主流となっており、平均的な大学でも経済の授業ではマクロミクロ経済学のようなアカデミック学問を教えるというような教養主義教育を行っている。

しかし大学分離の議論では、G型大学(旧帝国大学及び早慶のようなトップレベルの大学)とL型大学(その他の大学)に完全に分離して、G型大学では従来のようなアカデミックな教育を進めるものの、L型大学では実業教育に特化した教育を行うというものである。先ほど出した経済の授業で言うと、L型大学では会計ソフトの使い方など、仕事で実際に必要なスキル(手に職とでも言うべきか)を叩き込むのである。

こうなってしまえば名称は「大学」であるものの、実際は職業訓練学校である。はたして大学をこのような職業訓練の場で終わらしてしまっていいのか。

職業訓練の場のような学校を作ることは結構なことである。問題はそれを大学が担うということである。もし職業訓練に特化するならば、大学という看板を下ろしてもらいたい。大学は最高学府である。だからこそ、レベルが少し低いと言えども大学にはアカデミックな教育、高度な教養を身に付ける場であってほしい。教養に興味のない者は、大学ではなくて職業訓練学校に行けばいいのである。

アカデミックな教育、教養が役に立たないとは、実に早計である。もちろん教養は実用を目的にしたものではないかもしれない。しかし高度な教養は社会全体のレベルを底上げし、産業の高度化をもたらす力になるであろう。また教養は人生の基盤でもあり、より質の高い人生を送るためには不可欠である。

ここまで言って納得できない人は、大学などに行かずに職業訓練学校に行って手に職をつければいいのである。職業訓練学校を低く見るつもりはない。高度な技術を身に付けるには職業訓練学校に行くべきだとも思う。

そもそも問題は大学を作りすぎたことにあるのかもしれない。今の大学の乱立状態は異常である。なぜ最高学府が一国に数百も必要なのか。

アカデミックな大学はレベルにかかわらず絶対に必要だが、アカデミックな教育、教養教育を学校側も学生側も望んでいない大学はすぐにでも「大学」の看板を下ろして職業訓練学校に衣替えしてほしいものである。

社会のバランス

どのような集団でも、集団の規模が大きくなれば極端に偏った考えの人が増えてくるものだ。しかし偏っていると言っても皆が同じ方向に偏っているのではなくて、右に偏っている人もいれば左に偏っている人もいる。これらの両極端の人たちはシーソーの両端みたいなもので、全体を見てみるとシーソーはバランスが取れている。

社会的に危ないのは、その片方側だけを認めない風潮だ。ナチスドイツ、金朝鮮などがそうである。最近の韓国もそのようになりつつある。片方を否定することによって、シーソーは片方に傾く。国なら国家が傾く。相反する主張を認めない国家は、独裁色の強い国家になっていく。

そのようなことを防ぐためには、「多様性」を認めなければならない。多様性の重要性はいろいろなことに当てはまる。人間社会をはじめ、自然の動物の生態系、あるいは学問の世界でも多様な主張は必要かもしれない。多様性のある世界が健全なら、偏った世界はある意味病的と言える。

しかし、時には偏ることも必要なこともある。多様性を認めるということは言い換えると面積が広くなるということである。国家というような規模の大きい集団ならそれでいいが、規模の小さな集団では、広くなるということは同時に浅くなるということでもある。ですから、規模の小さな集団が特色、個性を際立たせるためには、偏る、あるいは狭い範囲に集中するということも必要だ。しかしターゲットを集中する場合でも、アンテナは広く向けていなければ知識までもが偏ってしまう。

政治の世界ではよく右だ左だと非難し合っている。非難し合うのは結構なことであり、このように左右が非難し合っているということは逆に言うと両者の存在を前提として認めているということなので、ある意味健全な状態だと言えるかもしれない。

これから先も右と左がけん制しあうことができる国家であり続けることを願っている。

殺人を手段によって認否していいのか

最近、イスラム国(ISIL)の塩素ガスを使った攻撃が問題になった。塩素ガス攻撃、すなわち化学兵器は人道的に非道だということらしい。社会的な殺人事件から戦争による殺害まで、殺人にはいろいろあるが、殺人の仕方に、良い殺人と悪い殺人なんて本当にあるのだろうか。

確かにISILの斬首などは見ていて(僕は見ていないが)残虐極まりないと思う。このようなことは許されないものだ。かと言って米軍による空爆は許されるのであろうか。空爆はISILの幹部、兵士を狙ったものだと思われるが、同時に多数の一般市民も犠牲になっていることは容易に推察できる。しかし空爆による何十、何百とも思われる市民の犠牲の話は一向に出てこない。

斬首であろうが空爆であろうが、殺人には変わりない。もちろん空爆の一番の原因はISILの残虐な施政にあるのだが。空爆による殺人は合法的な殺人として認められるのだろうか。

合法殺人か、違法殺人かの区別は簡単だ。米国米軍寄りの殺人は全て合法で、米国米軍に敵対する側の殺人は違法なのである。

世界は米国を中心に回っていると言っても過言ではない。米国のすることがスタンダードなのである。ヨルダン兵士の殺害に対する哀悼の意は出されても、空爆によって犠牲になった数多くの市民に対する哀悼の声明は一切出されていない。

今、科学兵器に対する批判がなされているが、ベトナム戦争では米軍の枯葉剤によって数多くの市民が犠牲になり、その影響は今でも残る。今、一部の国の核兵器開発が国際的に非難されているが、太平洋戦争では米軍は実際に核兵器を投下し、朝鮮戦争で北に味方する中国の数都市に対する米国による原爆投下の計画があったことが今では明らかになっている。

時代時代によって、残虐非道か合法かの基準は変わっているのである。簡単に言えば、米国が非道と言えば非道であり、合法と言えば合法なのである。

しかし、殺人が手段によって区別されるのは明らかにおかしい。どんな手法を使っても殺人は殺人なのである。まだ殺人人数で罪の大きさを決める方がより理にかなっている。人数で比べると、米軍の空爆による被害は計り知れない。

とは言ってもISILを擁護するつもりはさらさらないのだが。原因はISIL側にある。しかしだからと言って無差別に空爆をすることには疑問である。仮に空爆を認めるとしても、市民にどれだけの被害が出たかという検証をし、一般市民にさらけ出すべきだと思う。

米軍側の攻撃の検証が全く明らかにされないのは、情報操作にもつながり、ある意味非常に恐ろしい状態に陥っているのではないかと思う。

紛争の全貌を公平な立場から明らかにしてほしいものである。

権利と義務

最近、シリア、そしてイスラム国への渡航を計画していた人に対する旅券強制返納が話題になっている。その人物(以下、氏と呼ぶ)は、行動、報道の自由を訴えかけて国を提訴すると言っているが、ここでこの問題について少し考えてみる。

この問題の核心は、「権利と義務のバランス」だ。行動、報道の自由があるのは言うまでもない。その一方で国は国民を守る義務がある。この二つの事柄は一部相反するところがあるので、今回はその部分が問題になっている。行動の自由があるとはいえ、殺害される確率が高いような危険地域に一国民が行くことを、国はみすみす指をくわえて見ているだけではいけない。後藤健二さんのケースでも、国はイスラム国に行こうとする後藤さんに対して再三警告したようだ。しかしそれを振り切って最悪の結果になった。

国としても同じ過ちを繰り返したくはないのだろう。後藤さんにしても氏にしても自己責任で行くと主張して行動しようとしている。しかし今回の人質事件を見ても、自己責任で済まされる問題ではない。と言っても何も後藤さんたちを、自己責任だと言って断罪するつもりはないのだが。

民主主義、自由主義国家において、行動の自由、報道の自由は通常は制限を受けるべきではない。しかし今回のイスラム国の渡航に関しては、生命の行方がかかっている。行動の自由と命の重さ、どちらが重いかというともちろん人命だ。

今回の旅券強制返納は特例らしいが、自由主義国家の日本としては苦渋の決断だったと思う。しかし国民の人命を第一に守る国だと示すためにも、しっかり決断してもらいたい。

 

外交の場ではもっと自国の主張を

日本は行儀が良い。本当に良すぎる。東日本大震災の日本人の対応などについてはいい意味でこう言われたりしたが、今回は逆の意味でとらえたい。

何についてか?一番言いたいのは外交、国際的な態度である。日本国内ではあえて主張しないで慎ましくすることは上品で行儀が良いと言われるが、海外ではそんな日本の常識は通じない。外交にして然りである。主張すべきところはしっかり主張し、弁解すべきところはしっかり弁解しなければならない。

最近の韓国に対する対応などはいい例である。韓国は日本に対して何かとケチをつけてくるが、最も看過できないものの一つは伊藤博文暗殺犯の安重根を英雄視し、国際的にそれをアピールしていることだ。慰安婦問題についてもいろいろ言いたいことがあるが、いろいろなメディアで取り上げられていることもあり、今ここでは控えておく。

伊藤博文は日本国初代総理大臣で、言わば日本の国祖とでも言うべき人物である。その国祖を暗殺した暗殺犯を英雄視する韓国に対して、日本はなぜ抗議し、批難しないのか。こんなことで行儀よくしても、国祖伊藤の名誉が国際的に汚されるだけだ。

これがどれだけ重い意味があるか、第一次世界大戦を振り返ればわかる。第一次世界大戦が勃発したのは史実が示す通り、オーストリア皇太子が外国人青年に暗殺されたのがきっかけだ。暗殺が戦争に発展するくらいの重大事なのだ。その暗殺犯を国を挙げて英雄視する国がどこにあるのか。

韓国は暗殺犯を国を挙げて英雄視し、記念館まで作っているのである。歴代大統領のほとんどが暗殺されるという、暗殺が文化になってしまった韓国という国が異常すぎると言えばそれまでだが。

慰安婦問題について日本の名誉を回復するのは最重要課題だが、安重根を英雄視する韓国を国際的に非難することも重要ではないか。そのままにしておけば、韓国は何百年と同じことを言い続けるだろう。実際今でも豊臣秀吉は韓国では非難の対象だ。日本が元寇のフビライを非難し続けているみたいなものだ。もちろん、今の時代にフビライを非難する日本人など聞いたことがない。

「清く慎ましく」という日本の常識は、外交では通じない。声を上げなければならない。主張すべきことは主張する国にならなければならない。

 

自白強要事件

2月4日、パソコン遠隔操作事件の裁判で、容疑者の片山被告に懲役8年の求刑が言い渡された。この事件は悪質で、見も知らずの第三者を犯罪者に仕立て上げるという卑劣なものであり、この判決は妥当なものと思われる。

しかしこの事件の一番の問題は別のところにある。警察、検察側の取り調べだ。この事件によって4人の市民が無実の罪で警察に捕まった。そこでそれぞれ取り調べをを受けたのだが、4人のうちなんと2人が自白したというのである。もちろんこの4人は何も犯していない。犯罪者でない人たちの半数の人たちが警察、検察によって犯罪者に仕立てられようとしたのである。これは片山被告の犯罪よりも比べ物にならないくらい大きく深刻な問題である。

一言で言えば、国家権力が何も犯していない市民を犯罪者に仕立て上げたのである。今回の出来事は、真犯人が捕まったからこそ虚偽の自白が明らかになったものの、もし真犯人が捕まっていなければこの無実の2人は刑務所に入れられていたかもしれない。

たった一つの事件だけで半数の2人の自白強制があったという事実は、他の事件で同様なことがかなりたくさんあると推測される。まさしく今回の件は氷山の一角だと思われる。

最近記憶に新しいのは、袴田事件で死刑判決を受けた袴田巌さんであろう。彼は無実の罪で数十年、人生の大半を刑務所の中で過ごし、いつ死刑が執行されるかわからない恐怖の中で暮らしていたことであろう。

1億人以上の人間が暮らしていれば、犯罪も多々起きるのは当たり前であり、中には残虐な事件も起こることであろう。しかしこれらの犯罪者は当然のことながら、警察の捜査に追い詰められ、捕まれば裁きを受ける。

しかし今回の自白強要を強いた警察、検事は何の裁きも受けない。自白強要は、警察、検察による事件である。もし自白強要によって無実の人間が死刑になれば、これはもう国家による殺人事件である。しかし今回の遠隔操作事件による自白強要が明らかになった後も、警察、検事の悪質不正な実態が何も明らかにならない。真犯人の片山被告のニュースばかりで、自白強要犯の警察、検察は何のおとがめなしである。

こんな事があっていいのか!自白強要は立派な犯罪である。

現在、取り調べの可視化が議論になっている。このように自白強要の事実の横行が発覚した以上、有無を言わさず可視化することは当然のことではないのか。これらの警察、検察の放漫さには憤りを感じる。

官僚は敵か味方か

よく政治家が、官僚に対して敵視をむき出しにすることがある。選挙でも官僚主導から政治家主導へ導くと訴え、官僚が悪とでも言わんばかりの主張をたまに聞く。

政治家の答弁にしてもその答弁原案はほとんど官僚が作り上げており、政治に官僚の力は欠かせない。しかし官僚には政治活動はできない。なので政治は政治家がするのが当たり前のことだが、政治家には官僚を敵視するのではなく、むしろ味方に引き入れて官僚の頭脳を使い倒すくらいの気概を持ってほしい。選挙で官僚排除を訴えるのではなく、官僚の力をフルに使うと演説するような政治家がいてもいいのではないか。

少し前の話になるが、菅直人元首相は官僚に対し敵視をむき出しにし、官僚排除を訴えかけていた。その結果と言えば、鳩山氏と並んでダメ首相の二人組である。

官僚の仕事はかなりハードである。政治家の国会答弁がある前には官庁に泊まり込んでほぼ徹夜で答弁原案作成、資料作成に取り組むこともしばしばであるらしい。もちろん権力闘争に明け暮れている官僚もいるだろうが、それに関しては政治家の方がはるかに激しいだろう。

官僚は毒にも薬にもなる。それを薬にするのが政治家ではないか。官僚排除とは言っても政治家だけでは何もできない。個々のプロフェッショナルな案件は、その道に長く取り組んでいる官僚の力は必須である。しかし、官僚が実際にどんなことをしているかはなかなか明らかにならない。そして何か成果が出たり前進した時は、それは政治家が行ったということになる。政治家が俳優とすれば、官僚は影武者というところだろうか。

政治家に最も必要な力のうちの一つは、いかにして官僚を生かすかということではないだろうか。少なくとも、今までの官僚を生かせなかった首相、政治家はダメ政治家だったではないか。

これからは選挙時には、公約の内容だけではなく、その人は公約実現のために官僚を生かす力、人柄があるかという所も見てはどうだろうか。

トヨタの莫大な利益と、下請け会社

昨日、トヨタの三月期の決算が発表された。それによると、2.7兆円の利益が出るそうだ。膨大な額である。ギリシャの国家予算に匹敵する額である。

もちろん日本企業がうまくいくことはいいことだが、昨日のこのトヨタの利益に関するニュースに対する扱いに対して違和感を感じた。トヨタ本体の莫大な利益を下請け企業にも還元しなければならないという弱い論調の一方、そんなことしたらトヨタ本体の利益創造体質が弱くなり良くないという論調が目立つことだ。

とんでもない。トヨタがここまで利益が上げられるのは、一番は円安効果、それから倹約によるものだが、それに匹敵するくらい下請け孫請け部品メーカーに対するコスト削減要求によるものだ。

デフレ不景気の時代、トヨタはこれらの部品メーカーに対し、無茶ともいえるコスト削減を迫り、倒産寸前、あるいは倒産したメーカーも多々あったと聞いている。ならばトヨタ本体に莫大な利益が出た今、まずこれらの下請けメーカーに利益還元することが先ではないか。

トヨタ本体の自分たちだけ良ければいい主義、それに大企業だからと同調するマスコミ。本当にトヨタ本体だけ良ければいいのか。下請け孫請けまで含めて一つの自動車グループと見るべきではないのか。

デフレ不景気の時代、トヨタ本体よりさらに厳しい状態だった下請け孫請けメーカー。マスコミや評論家も、これらの下請け企業まで目を配った論評をしてもらいたい。