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令和の始まりへ。

2019年5月1日、令和が幕を開けた。新たな象徴天皇のもとでのスタートだが、自分自身、そして国も社会も、さらには世界が良くなっていくことを願ってやまない。

僕の生き方は、令和になっても大きく変わらないだろう。しかし社会は確実に変わる。そこで、自分が時代に合わせて変えるべき事と変えるべきでないことをはっきりとさせなければならない。

人間というものは、一番大切なものを持ち続けていれば何とか生きることが出来る。もちろん現実はそれ一つだけで生きることはできないが、逆にたくさんのものを持っていても、一番大事なものが何かという事を認識できなければ苦しくなる。

では、令和の日本にとって一番大切なものは何か?もちろんそのような質問に対して簡単に答えが出るものではない。そのような答えが分かっていれば何も苦労しないだろう。さらに、政治的な事か?経済的な事か?あるいはエンターテイメント的な事か?ということによって答えは変わってくる。

近年は何かとITに関することが注目を浴びている。それは科学技術的にも、経済的にも、さらにはエンターテイメント的にも。しかしそのような視点はあくまで現時点での視点だ。三十年後はどうなっているのかわからないので、現時点だけでの視点で物事を考えるのは長期的視点で見れば危険だ。短期的視点、中期的視点、長期的視点での三本立てで考えなければならない

人間個人にとってもそれは同じだ。三本立てで考えないと人生を通じて最高のパフォーマンスは発揮できない。しかし一発屋になるのも、それはそれで一つの手であり一つの生き方だ。いや、むしろ一発でも大きいものを当てればそれは人生において大きな成果だと言える。

ただ、平成が終わって令和の時代になったからには令和の人間にならなければならない。平成の人間のまま過去の自分にとらわれてはならない。しかしいわゆる昭和の古い人間にとって、令和の人間になることはそう簡単ではない。特に過去の栄光がある人間にとってはなおさらだ。しかし過去の栄光にとらわれない人間にとっては大きなチャンスである。栄光は過去に見るのではなく、未来に見なければならない。

令和の人間として生きるために。

2019年4月30日、平成最後の日だ。明日から始まる令和という時代にどう生きるか?そのような事を考える一つの区切りになる。もちろん、令和になったからと言って自分自身や世の中が突然変わるわけではない。しかし、平成という時代に思うように生きることが出来なかった自分にとっては、明日から始まる令和という時代の中に自分の存在する場所見つけ、しっかりとした足取りで一歩一歩進んで行かなければならないと思っている。

平成と令和という時代の変わり目は、ちょうど僕の人生の変わり目に一致していると思っている。偶然か?と言えば完全に偶然である。しかし偶然と言えども、ちょうどその変わり目が一致したことは事実だ。いや、そのような事実にしなければならない。時代が変わるのと同じように、僕の人生も変えなければならない。そしてそのように変える自信がある。

平成から令和に変わるというこの区切りを、全ての日本人は前向きに捉えるべきだと思う。平成を思うように生きれなかった人は、令和こそは自分のものにするぞ!そして平成が自分にとって輝かしい時代であった人は、令和にはもっと輝くぞ!と。幸運な事に、今回の改元は祝福ムードの中で行われる。皆明るい気持ちで新しい時代を迎えることが出来るのだ。令和の時代は、平成の時代より明るい時代にならなければならない。世の中も、自分自身も。

僕は心に決めていることがある。それは、僕は昭和に生きる人でも平成に生きる人でもなく、令和に生きる人になるという事だ。自分の生命が終わる時、胸を張って令和を全力で生きたと言いたい。令和は絶対に良い時代になる。僕はそう信じている。そしてそのような令和という良い時代の人間になるためには、まずは積極的に人生を前に進める必要がある。時間は自動的に勝手に進む。しかし自分の人生というものは、自分で能動的に進めないと全く進まない。まずは平成から令和へと人生を前に進めなければならない。

分析だけでは解決しない。

勝負に敗れた時、その敗因を分析しようとする。分析することは確かに重要だ。しかし分析をどれだけしても解決しないこともある。例えばスポーツで敗れた時にもその原因を分析しようとするであろう。しかし自分の力を強くしないと根本的解決にはならない。分析三割、実行七割というのが原則であろう。

21日、統一地方選挙及び衆院補選があった。衆院の二つの補選では両方で自民党が敗れることになった。安倍政権の下で圧倒的な強さを誇った自民党であったが、今回の敗戦にはそのほころびが見える。二階幹事長は「敗因分析を急ぐ」と言っているそうだが、僕にはこの敗戦が分析によって解決するかといえば疑問に思う。なぜなら、分析によって解決するのは下層部への問題であって、より上部の問題に対しては分析だけで簡単に解決できるものではないからだ。

敗因分析以上の効果をもたらすのは、根本的理念の変革、及び根本的制度の変革である。しかしこれらの改革は大きな効果をもたらす可能性がある一方、大打撃を与える可能性もある。諸刃の剣である。理念に関してはそう簡単に変えるべきものではないし、その理念を貫き通すことによって信用も生まれる。今回の敗戦に関しても、理念の変更が大きな原因になったとは僕は考えてはいない。むしろ根本的制度の改革が裏目に出たのではと考えている。もちろん、社会的制度の変革などもあるが、一番大きなのは自民党総裁任期の変更であろう。もちろん、これ以外にもいろいろと原因はあるかもしれない。しかし次期参院選までに立て直すのは至難の業であろう。さらに分析だけで乗り切ろうと思えば、これは不可能だと言わざるを得ない。

自民党が次期参院選で立て直すには、分析以外の取り組みが鍵になって来る。特にインパクトのある標語的な政策を打ち出すのなら、それは次期参院選では効果的かもしれないが、持続性という観点で見れば賢い策とは思えない。もちろん、外的要因によって情勢が大きく変わる可能性もなくはない。これから政府与党がどのような動きに出るのか、注目してみたい。

地震学は真の科学になりえるか?

熊本地震から3年が経った。科学が発達した現在においても、大地震が発生するたびに毎度発せられるのが「想定外」という言葉だ。どこで地震が発生するのか全く予測がつかないのならいっそのこと地震予知など止めてしまえばとも思うが、その一方、地震予知への取り組みは地震学に対する最大の原動力にもなっているのでそう簡単な話ではない。

地震学は一応科学の一分野という事になっている。しかしどう考えても科学とは思えないような研究も存在する。というより、大地震が発生するたびに述べられる地震学者の見解は、どう考えても科学的とは思えないものが多い。その典型的な例が、「前回の地震から何十年経っているから、そろそろ起きる頃だ」というものだ。この様な見解は全く科学になっていない。これは科学ではなく、むしろ史学だ。このような史学的研究者は、百歩譲って地震学者だとしても、科学者とは名乗るべきではない。科学者から見ると、これは予測ではなくほとんど妄想と言って良い。もし本気で地震予知に力を入れるのならば、このような史学的な研究でなく、科学的メカニズムに則った研究に重点を置くべきだ。

もちろん、科学的に地震研究を行っている地震学者はたくさんいると思う。しかしメディアで取り上げられる地震学者の約半分は史学的だ。これにはメディア側にも責任があるのかもしれないが、一般市民ももっと科学的な地震学に興味を示すべきである。このような地震学に対する科学的理解があれば、防災効果は相乗効果で飛躍的に上がるはずだ。

僕は科学とは必ずしも日常に役立てるだけのものではないと思っているが、もし地震学を日常的に役立てたいと思うのならば、ただ単に起こるのかどうかという興味だけではなく、科学的な所からの根本的理解が必要だと思う。科学に対する実用的価値を過度に求めている割には、完全に重要な所が抜けているように思えてならない。

“ものつくり”国家、日本。それが良いのか?悪いのか?

日本は昔から「ものつくり国家」と言われてきた。現在でも高品位なものを作ることに関しては秀でているし、実際「made in japan」というブランドは現在でも広く通用する。これまで日本の「ものつくり」というものに日本人は大きな自信と誇りを感じていたが、現在そのような「ものつくり」に対する大きな自信があらゆることに対して影を落としているように感じる。

ハードとソフトを区別するのならば、ものつくりとはハードである。そして日本はものつくりに絶大な自信を持っているように、ハードに関しては今でも世界でトップレベルである。しかしソフトに関しては日本の一人負けの感がある。ものつくりのハードにこだわるあまり、ソフトに対する力が欠けていたのではないだろうか?

ハードは目の前の机に置いてはっきりと見ることが出来る。しかしソフトは机の上に置くことも出来なければ、現物としてもなかなか認識しづらい。ソフトとはある意味「設計図」である。昔なら紙の上に書かれた図であり、現代ならコンピューター上に書き込まれるプログラミングである。これらの紙やプログラミング画面自体に全く価値はない。価値は紙の上の、あるいはコンピューター上の「情報」にあるのである。これらの重要性を認識するためには、目に見えない価値を感じなければならない。それらの価値を認識するにはものつくりの価値を認識するだけでは足りず、時にはものつくりの価値へのこだわりが情報の価値を見ることに対して盲目的にさせる。今日本に必要なのは、このような目に見えない価値を認識する力ではないだろうか?

ものつくりはそれはそれで素晴らしい。しかしこれからは「もの」と「情報」、すなわち「ハード」と「ソフト」の双方の重要性を認識する必要がある。ものつくり国家から脱却するのではなく、さらにソフトの強みを付け加える必要があるのである。これはコンピューターソフトに対してだけではなく、全ての目に見えない価値を作り上げることであることは言うまでもない。

「令和」、いい響きだ。

「令和」、この言葉を聞いたとき、僕は非常に心地よい気持ちに襲われた。「令」という文字が非常に可憐な印象をもたらし、そして平和の「和」だ。この言葉を聞いただけでも良い時代になりそうだし、絶対に良い時代になるはずだ。

平成の30年、二度の震災があるなど日本は災難に見舞われたが、僕個人的にも地獄のような時代であった。それは平成に入って間もなく訪れ、平成が終わろうという今、そこから脱出できそうである。それだけに令和という時代にすごく光を感じるし、絶対に輝く時代にするという思いは強い。

何度見てもこの「令和」という文字は良い。響きも良い。この二文字を見ているだけでこれから本当に良い時代になりそうだ。僕は昭和に生まれ、平成を過ごし、令和を生きようとしている。しかし人生が終わる時どの時代を生きたかと問われれば、胸を張って令和を生きたと言いたい。

今日は長々と論を書くつもりはない。ただただ令和という時代に期待を持ち、日本にとっても僕にとっても良い時代になることを望むだけである。いや、望むだけで良くはならない。自ら動かなければ時代は切り開けない。一か月後の令和という時代の幕開けが待ち遠しい。

日本において「挑戦」とは?

28日、池上彰氏のテレビ番組で、村上ファンドの村上世彰氏が「チャレンジする人を叩くような世の中であってはならない」と言っていた。十数年前、村上氏は悪者のレッテルを貼られ、世間から強いバッシングを受けていた。しかし現在、村上氏は再び(どちらかと言うと良い意味で)注目を浴びている。当時村上氏がどのような悪い事をしたのか?その内容を言える人は当時も今もほとんどいないと思う。しかし法的に引っかかることを行い、メディアでバッシングを受けていたから当然悪い人だろうというくらいの認識だろう。そんな僕自身も、村上氏の功罪を詳しく知っている訳ではないが、ただ一つ言えることは、村上氏は人がしないことをしていた、言葉を変えるとチャレンジをしていたと言うことであろう。それが良かったか悪かったかはともかく。

日本では「出る杭は打たれる」とよく言われている。出る杭とは言葉を変えると「挑戦する人」だ。世の中を変えるのは99%挑戦する人だ。挑戦しないとは言い換えると「現状維持」ということである。しかし現状維持を目指して現状維持に成功することはほとんどない。現状維持を目指すとは、没落への始まりである。それは社会的にも、経済的にも、人間的にも、そういう意味である。世の中とは現状を良くしていくというチャレンジによって継続されていくのだと思う。だから現在の社会が成り立っているのは、現状維持を目指している人が現状維持をしているからではなく、チャレンジしている人の行動によって発展しているからである。

現在、日本においても挑戦し続けている人はそれなりにいる。しかし成果を出す前までは、それらの多くの人が苦境に立たされているように感じる。もちろん無難にくぐり抜けて行けばそのような苦境に立たされずに済むであろう。しかし無難と挑戦はほとんどの場合相反する意味を持つ。社会を変えて発展させるのは挑戦する人なのに、それらの利益を享受するのは無難に過ごす人。そのような社会的構造を変えない限り、日本の発展はないと思う。そのようなほころびが国のあらゆるところに露呈しているのが現在の日本である。そして将来の日本はどうなるのか?想像に難くない。

現在僕が危険だと思っていることの一つが、日本人自身による日本称賛だ。現在のテレビ番組を見ると、「日本はこんなに凄い」という趣旨のテレビ番組が溢れている。これはある意味末期的症状と言える。今だからこそ、むしろ日本の危機的状況を指摘して変えるべきところを変えて行かなければならない。そしてそれが出来る人は、無難な人ではなく挑戦する人である。今真っ先に変えなければならないことは、挑戦する人が力を十分に発揮できる世の中にすることではないだろうか。

日本的学問の自由。

数学も科学も普遍的なものなので「日本的」と言うのはおかしいかもしれないが、あえて言うと日本的数学、日本的科学というものがあるような気がする。数学の発祥は二千年程前のギリシャに行きつくし、科学というものが厳密に成り立ったのは17世紀のニュートンに行きつくと言える。従って、数学や科学はヨーロッパ的と言え、質的にも量的にも圧倒的にヨーロッパの功績が大きい。もちろん20世紀以降で言えばアメリカの功績が大きいのは言うまでもないが。

では日本的な数学・科学とは、どういう所が日本的なのか?それは理論内容と言うより理論が内包する哲学にあると言える。特にその中でも京都学派と言われるものの個性は際立っている。京都学派と言えば、哲学の西田幾多郎、和辻哲郎から、物理学の湯川秀樹、朝永振一郎を思い浮かべるが、忘れてはならないのが数学の佐藤幹夫だ。それらの哲学は京都と言う土地が醸し出すものなのか、それとも研究者の個性の醸し出すものなのか、と悩んでしまうが、おそらくその両方ともであろう。最近、佐藤幹夫の理論に触れることが多いが、その一番特徴的な所は圧倒的な個性であろう。佐藤幹夫の理論には佐藤幹夫という人間の個性が凝縮されている。

京都は非常に自由だと言われる。そのような京都に憧れる研究者も多いが、最近僕が危惧しているのは日本全体に覆う制約だ。少し前のブログでも少し触れたが、法的にも日本の学問研究を規制する方向に向かっている。この流れは世界の学問の潮流とは真逆を行くものだ。こんな事では日本の科学や広く学問が衰退するのも無理はない。この様に学問に理解のない日本においては科学技術をリードして行けるはずもなく、それに伴って経済も衰退していくのが目に見えている。学問と経済は関係ないと考える人も少なくないが、現代社会では全てが科学などの学問によって支えられていると言っても過言ではなく、目の前の金銭的な事ばかり見て行う施策政策のもとでは、経済や金融などの金銭的豊かさまでも奪ってしまうことになるだろう。

今の日本はとてもじゃないが世界をリードしているとは言えない。科学などの学問や経済において日本は後れをとっている。しかし後れをとっているが故に目の前の事しか見えていない。今日本にとって必要なのは長期的展望である。確かに目の前を走るGAFAは気になるし、焦ることもあるだろう。しかしそれを追いかけてばかりいればその結果は二番煎じ三番煎じであろう。いや、二番三番ならまだましだ。それほど現在の日本の置かれた状況は深刻だ。

広い認識では、「教育が国を作る」と言われている。明治維新後の日本の発展、そして戦後の日本の発展は教育が作ったと言っても過言ではない。しかし教育も時代によって変えて行くべきだ。戦後の教育が上手く行ったからと言ってその教育が今の時代にマッチするとは限らない。それどころか今の日本の教育は世界的潮流に逆行している。それは国の政策レベルでも学校の教育レベルでも同じだ。僕が現場の教師から聞く話は非常にひどいものである。学問において自由を伝えるべき教師がそれと真逆な事を教えている。教育というものは一朝一夕で成果の出るものではない。だからこそ長期的展望をもって日本の学問、日本の教育というものを構築して行かなければならない。そこでキーワードになるのはやはり「学問の自由」としか考えられない。

イチロー選手、お疲れ様。イチローが発した気になった言葉。

21日、メジャーリーグ・マリナーズのイチロー選手が引退を発表した。本当にお疲れ様です。イチローのような超有名選手の事をここでいろいろ言ってもあらゆるメディアの繰り返しになるのでいちいち言わないが、イチローが引退会見で発した一つの言葉が非常に気になったので、ここではその言葉について考えようと思う。

僕が気になった言葉、それは「今の野球は頭を使わなくなってきている」というものだ。どういう意味で頭を使わなくなってきていると言ったのかは定かではないが、僕はあらゆる意味でこの言葉が気になっている。野球においてどう頭を使わなくなっているか?あくまで僕の推測だが、それは、ビッグデータを高性能コンピューターで解析することが容易になり、選手はこれまで頭を使って駆け引きをしていたのが、コンピューター解析の結果にそのまま従うだけになってしまったというものではないかと考えている。20年ほど前に、ヤクルトの野村監督、古田敦也捕手に代表されるID野球というものが注目され、それが頭を使う野球の代表のように言われていた。当時のID野球では、データを収取し、それらのデータを分析するということを全て頭を使って行わなければならなかった。しかし現在はそれらは全てコンピューターあるいは球団のデータ解析スタッフがやってくれる。選手自身は頭を使う余地がないのだ。イチローが駆け出しの頃は、まだまだ頭を使う部分が多分にあったと思う。しかしここ数年はそのように頭を使う作業がなくなっていたのかもしれない。

イチローは野球において頭を使わなくなったと言ったのだろうが、僕はこのことが現代社会全般に言えるのではないかと強く感じる。その理由は野球におけるものと大筋一致する。特にここ数年はAIが急激な発達を遂げ、これまで人間が考えていたことがAIに取って代わられることが多くなった。特に日常生活における行動をAIに基づいて行うことは、人間としての存在理由の根本にかかわることではないかと危惧している。コンピューターの発達によって世の中は非常に便利になってきている。しかし「便利」ということは「頭を使わなくても良い」ということに置き換えられるのではないだろうか。現代社会はますます頭を使わなくても良い「無脳社会」になってきているように思える。

人間は頭を使うことによって大きな進化を遂げた。そして現代はコンピューターが大きな進歩を遂げている。しかしそのコンピューターの進化に反比例して人間の頭脳は退化して行くようにも思える。もちろん、頭を使わなくても生きて行ける社会になることに賛同する人も多くいるだろう。しかしそこに人間の存在価値を考えるとそう簡単に喜べないように思える。そこに一つの言葉を投げかけたのが今回のイチローであったのではないだろうか?

グレーに行くリスクが取れない?

多くの人は何かと白黒を付けたがる。しかし実際はグレーな事も多々ある。それがむしろ自然な事だと思うのだが、グレーは悪い事だと捉えられる風潮を強く感じる。しかし僕自身はグレーは決して悪い事ではなく、むしろグレーゾーンに飛び込んで行くことも大事ではないかと強く思っている。

これらのことはビジネスにおいて顕著に見られる。ビジネスにおいてグレーとは良い悪いということではなく、合法か?違法か?ということである。しかし実際は合法か?違法か?ということは簡単に判断できないことも多い。危険性を過度に恐れてグレーゾーンに飛び込めない人や企業を多く見かける。完全な白になることが確定しないと飛び込んでいけないのだ。しかし欧米企業はグレーの使い方が上手い。グレーには確かにリスクがある。しかし大事なのはそれらのリスクを上回るメリットがあるかどうかだ。小さなデメリットを取って大きなメリットを取るということが大事だ。しかし日本では、デメリットを取らずメリットも取れないという身動きが取れない状態でいることが多い。

人間も同じだ。完全に真っ白な人に魅力はあるか?完全に真っ白ということは何もしていないということだ。何かの行動を起こすたびに汚れて行くことはごく自然な事だ。時には人のためにグレーゾーンに飛び込んで行くこともあるだろう。自分の保身の事ばかり考えて常に真っ白な安全地帯にいる人は、はっきり言って心は真っ黒だと言える。社会的に白黒グレーであるということと、心が白いか黒いかということは全く別である。

大事なのは、自分を守り過ぎないということだ。自分を守る事ばかり考えると、クレジットカードでいうところのスーパーホワイトになってしまう。社会というグレーな世界をいかに対処して生きて行くか?もちろん社会的にはグレーでもなんでもいいが、心は出来るだけ白くありたいものである。