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IT社会の今、日本はどのように舵を取れば良いのだろうか?

近年、社会におけるプログラミングの重要性がますます高まっている。それに伴って、学校教育においても、小学校からプログラミング教育が導入されることが決定されている。初めは試行錯誤で手探りの教育になることが予想されるが、それらが洗練されるのにはおそらく二十年はかかるものと思われる。

日本でプログラミングの重要性が議論される時、ほとんどの場合GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)の話が持ち出される。もちろん、これらの企業に共通するのはITであり、つまりプログラミングであるので、これらの事例を見てプログラミングの重要性へと話が進むのは分からない事ではないが、ただプログラミングの技術だけを高めればITで覇権が取れると思い込むのは早とちりではないだろうか?なぜなら、AppleにしてもFacebookにしても、そしてMicrosoftにしても、それぞれ世界で一、二を争う企業ではあるが、ジョブズが、ザッカーバーグが、そしてビルゲイツが世界で一、二を争うプログラマーである訳ではない。ジョブズやザッカーバーグ、ビルゲイツはもちろんIT技術は高いものを持っているだろうが、彼らが世界トップの企業を作るのに成功したのは、確実壮大で未来を見据えたビジョンを持っていたからではないだろうか?今、日本に一番欠けているのは、技術そのものではなく、むしろビジョンの方である。技術を高めるのは短期間である程度出来るであろうが、ビジョンを持てる人材を養成するのは一朝一夕では出来ない。日本ではこちらの方の教育が完全に欠けている。

なぜ日本の教育はビジョン構想には向かないのか?それは一番に受験システムに問題があると僕は考えている。そもそも学校は、大学は、何のためにあるのか?それはもちろんそこでの教育を通じて教養や技術、知識を身に付けるためである。しかし現在の教育システムでは、受験そのものが最大の目的になっている。受験技術をどれだけ身に付けるかという教育を推進する限り、ビジョンを持てる人間を養成するのは非常に難しい。学校に入ること自体が目的ではなく、入ってから研鑽することが重要なのである。

今、日本の教育の方向性は本当に正しいのか?この問いに絶対的な答えがないのは明らかだが、ただ正しい方向へ進んでいるとは思えない。もちろん、現場の教育者だけの責任ではなく、国を動かす政治家にも問題がある訳だが、そのような国の舵取りをする人たちの示す方向性が間違えば、数十年単位で致命的な問題になる。しかしだからと言って、政治家だけに問題を押し付けるのも間違っている。我々市民がこれらの問題を自己の問題だと捉え、積極的に発言し行動しなければならない。ではどのように考えれば良いか?それは今現在の問題だけを考えるのではなく、次世代、次々世代の事まで考え、長いスパンで物事を捉えることが必要である。現役世代至上主義で物事を考えることは、次世代の人間だけでなく現役世代に対してもデメリットは大きいのではないだろうか?

感情論に傾きすぎてはいけない。

最近、大きな交通事故が立て続けに起きている。別に交通事故だけに限ったことではないが、事故や不祥事が起こった時に世の中全体が感情論に傾きすぎているのではないかと強く感じる。もちろん人間であるからには感情論が出て来るのは自然の成り行きだ。しかし多くの物事では感情論だけでは解決も改善もなされない。そこに論理や倫理が持ち込まれてこそ、社会は前進するのである。

僕自身だって感情論で動くことは多々ある。特に個人的な事では別に感情論が入り込んでもある程度は容認されるものである。しかし社会の事となると話は別だ。社会が法で成り立っているからには、法の論理というものは非常に重要であり、それが無ければまさしく無法地帯になってしまう。さらに不確定の事を確定した事と思い込むのも非常に危険だ。そのような事が極限に達すると、冤罪が起こる。学校内でそのような事になると、教師や生徒によるいじめになったりする。何が確実で何が不確実なのか?そこをしっかりと見極めなければならない。

近年は国家関係においても感情論が問題になっている。特に日韓関係では政府トップまでもが感情論で物事を判断するという非常事態になっている。感情論で動く国家関係は疑心暗鬼しかもたらさない。もしかしたら多くの国民はそのような事を考えていないのかもしれないが、疑心暗鬼になれば身動きが取れず、国家的損害は絶大だ。

自分自身をコントロールするに当たっては、感情のコントロールが一番の課題になるであろう。「感情を制する者は自己を制す」とでも言えば良いだろうか。しかしまた、感情のコントロールほど難しいものはない。なぜなら、感情をコントロールするのはこれまた感情であるからである。そこをいかに論理でコントロールするか?それが実行できれば物事を的確に判断し対処することが出来るであろう。

数学者・志村五郎の死。

5月3日、数学者の志村五郎プリンストン大学名誉教授が亡くなられたというニュースが流れた。志村五郎と言えば、フェルマーの大定理の証明においてもキーになった「谷山・志村予想」が有名であり、数学を学んだことのある学生ならその名を一度くらいは聞いたことがあるはずだ。

しかし、今回驚かされたことは、志村氏の死去のニュースがヤフーニュースで流れていたことだ。僕もヤフーニュースで志村氏の死を知った。いくら数学関係者の中で有名だったとは言え、ヤフーニュースで流れる程世間の注目を浴びているとは考えもしなかった。ヤフーニュースでこのニュースを見た人のうちどれくらいの人が興味を持ったのかはわからないが、数学研究というものが少しでも市民権を得られればと強く思う。ちなみに、谷山・志村予想のもう一人、谷山豊氏は、若くして自死をされている。

本屋の数学書コーナーに行くと、谷山豊全集というものが並んでいる。数学関係の全集とは一般の人にはなじみがないかもしれないが、全集が出されるほど谷山氏は偉大な数学者であった。そして志村氏も同様に偉大な数学者である。偉大な数学者や物理学者の研究に対しては、コレクテッドペーパーやコレクテッドワークスと言われる論文集が出されることがある。これらの論文集は偉大な学者の研究が一望できる非常に便利なものである。もしかしたら、これから志村氏の論文集も出るのかもしれない。と思ってAmazonで確認してみると、既に志村氏のcollected papersが出版されていた。やはり偉大だ。

日本は自分で自分の足を引っ張っていないか?

最近、日本の社会を見て強く思うことがある。別に海外の事に熟知している訳ではないので日本の事だけとは断言できないが、少なくとも日本の社会については明らかにおかしいと思うことがいくつかある。そしてそれらの事によって、日本は自分で自分の足を引っ張っているのではないかと強く感じる。

一つ目は、日本社会の常識や習わしから来ること。もう一つは法整備から来ることだ。そのどちらにもかかわることだが、日本は先端的、前衛的な取り組みに対しては非常に冷たい。そして時にはそのような前衛的な取り組みをしている人を犯罪者扱いをする。例えば、ファイル共有ソフトWinnyを開発した東大の研究者がその最たる例であろう。Winnyは確かに問題を抱えたソフトであるが、それらの基幹技術は現在、仮想通貨にも共通するところがあると言われている。Winny開発者の逮捕は日本のITの進歩を遅らせた可能性があるし、現在GAFAに大きく遅れている現状はこのような最先端技術者を逮捕してしまうような日本の社会的意識に帰着するのではないかと感じる。

ITで覇権を握りたいという日本の願望は分かるが、社会的意識や行動を見るとこれと逆行するような動きをしていることが分かる。ITで覇権を握りたいと本気で思っているのならば、プログラミング教育などのような小手先の手段だけを変えるのではなく、まずはその背後にある社会的意識を変えることが必要である。(もちろん、プログラミング教育を否定する気は毛頭ない。)

今の日本はぶれ過ぎている。理念がはっきりとしていない。ただ単に「経済を発展させたい」それだけである。そのためにITを高めよう、プログラミングに力を入れよう、ということでは、一時的な表面的変化は起こせるが、根本的発展は望めない。それこそ小手先の手段で、目の前の事しか見ていない。もちろん、政界も財界も長期的視野で物事を考えたいとは思っているのだろう。しかし現実はそれが出来ていない。そのような長期的な発展を考えるのならば、まずは私利私欲、会社利会社欲、更には国益を度外視した視点で物事を考えなければならない。自分の事、自分たちの事だけを考えていては、自分達さえも持続的発展をさせることが出来ないだろう。

人間を見たい!

近年、AIが発達しており、人間に変わってAIが活動することも一部の分野で見られている。特に将棋AIが話題になっているが、AIが強いかどうかということと、それに魅力を感じるかということは全く別問題である。今若くしてトップ棋士にまで上り詰めた藤井聡太七段は確かに強いが、将棋AIと藤井七段のどちらが強いかと言えば、どうやら将棋AIの方が強いみたいだ。しかし魅力という点では、おそらくほとんどの人が藤井七段の方に感じるだろう。将棋に関しても、「人間」がプレーするということに魅力を感じるのである。

しかし逆に言えば、人間がすることに魅力を感じない分野においては、おそらく全てコンピューターや機械に取って代われると言うことが出来る。すなわち、これからの時代を生き抜くには二つの方法がある。一つはコンピューターよりも高いパフォーマンスを発揮すること。もう一つはコンピューターにない人間的魅力を発揮することだ。この二つのどちらかを実行することが出来れば、これからの時代を生き抜けることが出来るだろう。

今、コンピューター全盛期の時代にあって、人間の価値というものが再認識されているのではないだろうか。AIなどのコンピューターの性能が飛躍的に上がった現在にあって、人間はどうあるべきか?何をすべきか?さらにはどう生きるべきか?と言う事を深く考えることが求められている。逆に言えば、何も考えずにその場しのぎの軽い生き方をしていれば、次世代を乗り切れないと言える。

これらのことから、AIが発達して便利になると言われている次代は、人間にとって普通に生きる事さえ厳しい時代になると言える。しかし深く考えて生きれば、必ず乗り越えられる。これからの時代、それぞれの人間がどう生きているかという事が深く問われることになるだろう。

令和の始まりへ。

2019年5月1日、令和が幕を開けた。新たな象徴天皇のもとでのスタートだが、自分自身、そして国も社会も、さらには世界が良くなっていくことを願ってやまない。

僕の生き方は、令和になっても大きく変わらないだろう。しかし社会は確実に変わる。そこで、自分が時代に合わせて変えるべき事と変えるべきでないことをはっきりとさせなければならない。

人間というものは、一番大切なものを持ち続けていれば何とか生きることが出来る。もちろん現実はそれ一つだけで生きることはできないが、逆にたくさんのものを持っていても、一番大事なものが何かという事を認識できなければ苦しくなる。

では、令和の日本にとって一番大切なものは何か?もちろんそのような質問に対して簡単に答えが出るものではない。そのような答えが分かっていれば何も苦労しないだろう。さらに、政治的な事か?経済的な事か?あるいはエンターテイメント的な事か?ということによって答えは変わってくる。

近年は何かとITに関することが注目を浴びている。それは科学技術的にも、経済的にも、さらにはエンターテイメント的にも。しかしそのような視点はあくまで現時点での視点だ。三十年後はどうなっているのかわからないので、現時点だけでの視点で物事を考えるのは長期的視点で見れば危険だ。短期的視点、中期的視点、長期的視点での三本立てで考えなければならない

人間個人にとってもそれは同じだ。三本立てで考えないと人生を通じて最高のパフォーマンスは発揮できない。しかし一発屋になるのも、それはそれで一つの手であり一つの生き方だ。いや、むしろ一発でも大きいものを当てればそれは人生において大きな成果だと言える。

ただ、平成が終わって令和の時代になったからには令和の人間にならなければならない。平成の人間のまま過去の自分にとらわれてはならない。しかしいわゆる昭和の古い人間にとって、令和の人間になることはそう簡単ではない。特に過去の栄光がある人間にとってはなおさらだ。しかし過去の栄光にとらわれない人間にとっては大きなチャンスである。栄光は過去に見るのではなく、未来に見なければならない。

令和の人間として生きるために。

2019年4月30日、平成最後の日だ。明日から始まる令和という時代にどう生きるか?そのような事を考える一つの区切りになる。もちろん、令和になったからと言って自分自身や世の中が突然変わるわけではない。しかし、平成という時代に思うように生きることが出来なかった自分にとっては、明日から始まる令和という時代の中に自分の存在する場所見つけ、しっかりとした足取りで一歩一歩進んで行かなければならないと思っている。

平成と令和という時代の変わり目は、ちょうど僕の人生の変わり目に一致していると思っている。偶然か?と言えば完全に偶然である。しかし偶然と言えども、ちょうどその変わり目が一致したことは事実だ。いや、そのような事実にしなければならない。時代が変わるのと同じように、僕の人生も変えなければならない。そしてそのように変える自信がある。

平成から令和に変わるというこの区切りを、全ての日本人は前向きに捉えるべきだと思う。平成を思うように生きれなかった人は、令和こそは自分のものにするぞ!そして平成が自分にとって輝かしい時代であった人は、令和にはもっと輝くぞ!と。幸運な事に、今回の改元は祝福ムードの中で行われる。皆明るい気持ちで新しい時代を迎えることが出来るのだ。令和の時代は、平成の時代より明るい時代にならなければならない。世の中も、自分自身も。

僕は心に決めていることがある。それは、僕は昭和に生きる人でも平成に生きる人でもなく、令和に生きる人になるという事だ。自分の生命が終わる時、胸を張って令和を全力で生きたと言いたい。令和は絶対に良い時代になる。僕はそう信じている。そしてそのような令和という良い時代の人間になるためには、まずは積極的に人生を前に進める必要がある。時間は自動的に勝手に進む。しかし自分の人生というものは、自分で能動的に進めないと全く進まない。まずは平成から令和へと人生を前に進めなければならない。

分析だけでは解決しない。

勝負に敗れた時、その敗因を分析しようとする。分析することは確かに重要だ。しかし分析をどれだけしても解決しないこともある。例えばスポーツで敗れた時にもその原因を分析しようとするであろう。しかし自分の力を強くしないと根本的解決にはならない。分析三割、実行七割というのが原則であろう。

21日、統一地方選挙及び衆院補選があった。衆院の二つの補選では両方で自民党が敗れることになった。安倍政権の下で圧倒的な強さを誇った自民党であったが、今回の敗戦にはそのほころびが見える。二階幹事長は「敗因分析を急ぐ」と言っているそうだが、僕にはこの敗戦が分析によって解決するかといえば疑問に思う。なぜなら、分析によって解決するのは下層部への問題であって、より上部の問題に対しては分析だけで簡単に解決できるものではないからだ。

敗因分析以上の効果をもたらすのは、根本的理念の変革、及び根本的制度の変革である。しかしこれらの改革は大きな効果をもたらす可能性がある一方、大打撃を与える可能性もある。諸刃の剣である。理念に関してはそう簡単に変えるべきものではないし、その理念を貫き通すことによって信用も生まれる。今回の敗戦に関しても、理念の変更が大きな原因になったとは僕は考えてはいない。むしろ根本的制度の改革が裏目に出たのではと考えている。もちろん、社会的制度の変革などもあるが、一番大きなのは自民党総裁任期の変更であろう。もちろん、これ以外にもいろいろと原因はあるかもしれない。しかし次期参院選までに立て直すのは至難の業であろう。さらに分析だけで乗り切ろうと思えば、これは不可能だと言わざるを得ない。

自民党が次期参院選で立て直すには、分析以外の取り組みが鍵になって来る。特にインパクトのある標語的な政策を打ち出すのなら、それは次期参院選では効果的かもしれないが、持続性という観点で見れば賢い策とは思えない。もちろん、外的要因によって情勢が大きく変わる可能性もなくはない。これから政府与党がどのような動きに出るのか、注目してみたい。

地震学は真の科学になりえるか?

熊本地震から3年が経った。科学が発達した現在においても、大地震が発生するたびに毎度発せられるのが「想定外」という言葉だ。どこで地震が発生するのか全く予測がつかないのならいっそのこと地震予知など止めてしまえばとも思うが、その一方、地震予知への取り組みは地震学に対する最大の原動力にもなっているのでそう簡単な話ではない。

地震学は一応科学の一分野という事になっている。しかしどう考えても科学とは思えないような研究も存在する。というより、大地震が発生するたびに述べられる地震学者の見解は、どう考えても科学的とは思えないものが多い。その典型的な例が、「前回の地震から何十年経っているから、そろそろ起きる頃だ」というものだ。この様な見解は全く科学になっていない。これは科学ではなく、むしろ史学だ。このような史学的研究者は、百歩譲って地震学者だとしても、科学者とは名乗るべきではない。科学者から見ると、これは予測ではなくほとんど妄想と言って良い。もし本気で地震予知に力を入れるのならば、このような史学的な研究でなく、科学的メカニズムに則った研究に重点を置くべきだ。

もちろん、科学的に地震研究を行っている地震学者はたくさんいると思う。しかしメディアで取り上げられる地震学者の約半分は史学的だ。これにはメディア側にも責任があるのかもしれないが、一般市民ももっと科学的な地震学に興味を示すべきである。このような地震学に対する科学的理解があれば、防災効果は相乗効果で飛躍的に上がるはずだ。

僕は科学とは必ずしも日常に役立てるだけのものではないと思っているが、もし地震学を日常的に役立てたいと思うのならば、ただ単に起こるのかどうかという興味だけではなく、科学的な所からの根本的理解が必要だと思う。科学に対する実用的価値を過度に求めている割には、完全に重要な所が抜けているように思えてならない。

“ものつくり”国家、日本。それが良いのか?悪いのか?

日本は昔から「ものつくり国家」と言われてきた。現在でも高品位なものを作ることに関しては秀でているし、実際「made in japan」というブランドは現在でも広く通用する。これまで日本の「ものつくり」というものに日本人は大きな自信と誇りを感じていたが、現在そのような「ものつくり」に対する大きな自信があらゆることに対して影を落としているように感じる。

ハードとソフトを区別するのならば、ものつくりとはハードである。そして日本はものつくりに絶大な自信を持っているように、ハードに関しては今でも世界でトップレベルである。しかしソフトに関しては日本の一人負けの感がある。ものつくりのハードにこだわるあまり、ソフトに対する力が欠けていたのではないだろうか?

ハードは目の前の机に置いてはっきりと見ることが出来る。しかしソフトは机の上に置くことも出来なければ、現物としてもなかなか認識しづらい。ソフトとはある意味「設計図」である。昔なら紙の上に書かれた図であり、現代ならコンピューター上に書き込まれるプログラミングである。これらの紙やプログラミング画面自体に全く価値はない。価値は紙の上の、あるいはコンピューター上の「情報」にあるのである。これらの重要性を認識するためには、目に見えない価値を感じなければならない。それらの価値を認識するにはものつくりの価値を認識するだけでは足りず、時にはものつくりの価値へのこだわりが情報の価値を見ることに対して盲目的にさせる。今日本に必要なのは、このような目に見えない価値を認識する力ではないだろうか?

ものつくりはそれはそれで素晴らしい。しかしこれからは「もの」と「情報」、すなわち「ハード」と「ソフト」の双方の重要性を認識する必要がある。ものつくり国家から脱却するのではなく、さらにソフトの強みを付け加える必要があるのである。これはコンピューターソフトに対してだけではなく、全ての目に見えない価値を作り上げることであることは言うまでもない。

「令和」、いい響きだ。

「令和」、この言葉を聞いたとき、僕は非常に心地よい気持ちに襲われた。「令」という文字が非常に可憐な印象をもたらし、そして平和の「和」だ。この言葉を聞いただけでも良い時代になりそうだし、絶対に良い時代になるはずだ。

平成の30年、二度の震災があるなど日本は災難に見舞われたが、僕個人的にも地獄のような時代であった。それは平成に入って間もなく訪れ、平成が終わろうという今、そこから脱出できそうである。それだけに令和という時代にすごく光を感じるし、絶対に輝く時代にするという思いは強い。

何度見てもこの「令和」という文字は良い。響きも良い。この二文字を見ているだけでこれから本当に良い時代になりそうだ。僕は昭和に生まれ、平成を過ごし、令和を生きようとしている。しかし人生が終わる時どの時代を生きたかと問われれば、胸を張って令和を生きたと言いたい。

今日は長々と論を書くつもりはない。ただただ令和という時代に期待を持ち、日本にとっても僕にとっても良い時代になることを望むだけである。いや、望むだけで良くはならない。自ら動かなければ時代は切り開けない。一か月後の令和という時代の幕開けが待ち遠しい。

日本において「挑戦」とは?

28日、池上彰氏のテレビ番組で、村上ファンドの村上世彰氏が「チャレンジする人を叩くような世の中であってはならない」と言っていた。十数年前、村上氏は悪者のレッテルを貼られ、世間から強いバッシングを受けていた。しかし現在、村上氏は再び(どちらかと言うと良い意味で)注目を浴びている。当時村上氏がどのような悪い事をしたのか?その内容を言える人は当時も今もほとんどいないと思う。しかし法的に引っかかることを行い、メディアでバッシングを受けていたから当然悪い人だろうというくらいの認識だろう。そんな僕自身も、村上氏の功罪を詳しく知っている訳ではないが、ただ一つ言えることは、村上氏は人がしないことをしていた、言葉を変えるとチャレンジをしていたと言うことであろう。それが良かったか悪かったかはともかく。

日本では「出る杭は打たれる」とよく言われている。出る杭とは言葉を変えると「挑戦する人」だ。世の中を変えるのは99%挑戦する人だ。挑戦しないとは言い換えると「現状維持」ということである。しかし現状維持を目指して現状維持に成功することはほとんどない。現状維持を目指すとは、没落への始まりである。それは社会的にも、経済的にも、人間的にも、そういう意味である。世の中とは現状を良くしていくというチャレンジによって継続されていくのだと思う。だから現在の社会が成り立っているのは、現状維持を目指している人が現状維持をしているからではなく、チャレンジしている人の行動によって発展しているからである。

現在、日本においても挑戦し続けている人はそれなりにいる。しかし成果を出す前までは、それらの多くの人が苦境に立たされているように感じる。もちろん無難にくぐり抜けて行けばそのような苦境に立たされずに済むであろう。しかし無難と挑戦はほとんどの場合相反する意味を持つ。社会を変えて発展させるのは挑戦する人なのに、それらの利益を享受するのは無難に過ごす人。そのような社会的構造を変えない限り、日本の発展はないと思う。そのようなほころびが国のあらゆるところに露呈しているのが現在の日本である。そして将来の日本はどうなるのか?想像に難くない。

現在僕が危険だと思っていることの一つが、日本人自身による日本称賛だ。現在のテレビ番組を見ると、「日本はこんなに凄い」という趣旨のテレビ番組が溢れている。これはある意味末期的症状と言える。今だからこそ、むしろ日本の危機的状況を指摘して変えるべきところを変えて行かなければならない。そしてそれが出来る人は、無難な人ではなく挑戦する人である。今真っ先に変えなければならないことは、挑戦する人が力を十分に発揮できる世の中にすることではないだろうか。

日本的学問の自由。

数学も科学も普遍的なものなので「日本的」と言うのはおかしいかもしれないが、あえて言うと日本的数学、日本的科学というものがあるような気がする。数学の発祥は二千年程前のギリシャに行きつくし、科学というものが厳密に成り立ったのは17世紀のニュートンに行きつくと言える。従って、数学や科学はヨーロッパ的と言え、質的にも量的にも圧倒的にヨーロッパの功績が大きい。もちろん20世紀以降で言えばアメリカの功績が大きいのは言うまでもないが。

では日本的な数学・科学とは、どういう所が日本的なのか?それは理論内容と言うより理論が内包する哲学にあると言える。特にその中でも京都学派と言われるものの個性は際立っている。京都学派と言えば、哲学の西田幾多郎、和辻哲郎から、物理学の湯川秀樹、朝永振一郎を思い浮かべるが、忘れてはならないのが数学の佐藤幹夫だ。それらの哲学は京都と言う土地が醸し出すものなのか、それとも研究者の個性の醸し出すものなのか、と悩んでしまうが、おそらくその両方ともであろう。最近、佐藤幹夫の理論に触れることが多いが、その一番特徴的な所は圧倒的な個性であろう。佐藤幹夫の理論には佐藤幹夫という人間の個性が凝縮されている。

京都は非常に自由だと言われる。そのような京都に憧れる研究者も多いが、最近僕が危惧しているのは日本全体に覆う制約だ。少し前のブログでも少し触れたが、法的にも日本の学問研究を規制する方向に向かっている。この流れは世界の学問の潮流とは真逆を行くものだ。こんな事では日本の科学や広く学問が衰退するのも無理はない。この様に学問に理解のない日本においては科学技術をリードして行けるはずもなく、それに伴って経済も衰退していくのが目に見えている。学問と経済は関係ないと考える人も少なくないが、現代社会では全てが科学などの学問によって支えられていると言っても過言ではなく、目の前の金銭的な事ばかり見て行う施策政策のもとでは、経済や金融などの金銭的豊かさまでも奪ってしまうことになるだろう。

今の日本はとてもじゃないが世界をリードしているとは言えない。科学などの学問や経済において日本は後れをとっている。しかし後れをとっているが故に目の前の事しか見えていない。今日本にとって必要なのは長期的展望である。確かに目の前を走るGAFAは気になるし、焦ることもあるだろう。しかしそれを追いかけてばかりいればその結果は二番煎じ三番煎じであろう。いや、二番三番ならまだましだ。それほど現在の日本の置かれた状況は深刻だ。

広い認識では、「教育が国を作る」と言われている。明治維新後の日本の発展、そして戦後の日本の発展は教育が作ったと言っても過言ではない。しかし教育も時代によって変えて行くべきだ。戦後の教育が上手く行ったからと言ってその教育が今の時代にマッチするとは限らない。それどころか今の日本の教育は世界的潮流に逆行している。それは国の政策レベルでも学校の教育レベルでも同じだ。僕が現場の教師から聞く話は非常にひどいものである。学問において自由を伝えるべき教師がそれと真逆な事を教えている。教育というものは一朝一夕で成果の出るものではない。だからこそ長期的展望をもって日本の学問、日本の教育というものを構築して行かなければならない。そこでキーワードになるのはやはり「学問の自由」としか考えられない。

イチロー選手、お疲れ様。イチローが発した気になった言葉。

21日、メジャーリーグ・マリナーズのイチロー選手が引退を発表した。本当にお疲れ様です。イチローのような超有名選手の事をここでいろいろ言ってもあらゆるメディアの繰り返しになるのでいちいち言わないが、イチローが引退会見で発した一つの言葉が非常に気になったので、ここではその言葉について考えようと思う。

僕が気になった言葉、それは「今の野球は頭を使わなくなってきている」というものだ。どういう意味で頭を使わなくなってきていると言ったのかは定かではないが、僕はあらゆる意味でこの言葉が気になっている。野球においてどう頭を使わなくなっているか?あくまで僕の推測だが、それは、ビッグデータを高性能コンピューターで解析することが容易になり、選手はこれまで頭を使って駆け引きをしていたのが、コンピューター解析の結果にそのまま従うだけになってしまったというものではないかと考えている。20年ほど前に、ヤクルトの野村監督、古田敦也捕手に代表されるID野球というものが注目され、それが頭を使う野球の代表のように言われていた。当時のID野球では、データを収取し、それらのデータを分析するということを全て頭を使って行わなければならなかった。しかし現在はそれらは全てコンピューターあるいは球団のデータ解析スタッフがやってくれる。選手自身は頭を使う余地がないのだ。イチローが駆け出しの頃は、まだまだ頭を使う部分が多分にあったと思う。しかしここ数年はそのように頭を使う作業がなくなっていたのかもしれない。

イチローは野球において頭を使わなくなったと言ったのだろうが、僕はこのことが現代社会全般に言えるのではないかと強く感じる。その理由は野球におけるものと大筋一致する。特にここ数年はAIが急激な発達を遂げ、これまで人間が考えていたことがAIに取って代わられることが多くなった。特に日常生活における行動をAIに基づいて行うことは、人間としての存在理由の根本にかかわることではないかと危惧している。コンピューターの発達によって世の中は非常に便利になってきている。しかし「便利」ということは「頭を使わなくても良い」ということに置き換えられるのではないだろうか。現代社会はますます頭を使わなくても良い「無脳社会」になってきているように思える。

人間は頭を使うことによって大きな進化を遂げた。そして現代はコンピューターが大きな進歩を遂げている。しかしそのコンピューターの進化に反比例して人間の頭脳は退化して行くようにも思える。もちろん、頭を使わなくても生きて行ける社会になることに賛同する人も多くいるだろう。しかしそこに人間の存在価値を考えるとそう簡単に喜べないように思える。そこに一つの言葉を投げかけたのが今回のイチローであったのではないだろうか?

グレーに行くリスクが取れない?

多くの人は何かと白黒を付けたがる。しかし実際はグレーな事も多々ある。それがむしろ自然な事だと思うのだが、グレーは悪い事だと捉えられる風潮を強く感じる。しかし僕自身はグレーは決して悪い事ではなく、むしろグレーゾーンに飛び込んで行くことも大事ではないかと強く思っている。

これらのことはビジネスにおいて顕著に見られる。ビジネスにおいてグレーとは良い悪いということではなく、合法か?違法か?ということである。しかし実際は合法か?違法か?ということは簡単に判断できないことも多い。危険性を過度に恐れてグレーゾーンに飛び込めない人や企業を多く見かける。完全な白になることが確定しないと飛び込んでいけないのだ。しかし欧米企業はグレーの使い方が上手い。グレーには確かにリスクがある。しかし大事なのはそれらのリスクを上回るメリットがあるかどうかだ。小さなデメリットを取って大きなメリットを取るということが大事だ。しかし日本では、デメリットを取らずメリットも取れないという身動きが取れない状態でいることが多い。

人間も同じだ。完全に真っ白な人に魅力はあるか?完全に真っ白ということは何もしていないということだ。何かの行動を起こすたびに汚れて行くことはごく自然な事だ。時には人のためにグレーゾーンに飛び込んで行くこともあるだろう。自分の保身の事ばかり考えて常に真っ白な安全地帯にいる人は、はっきり言って心は真っ黒だと言える。社会的に白黒グレーであるということと、心が白いか黒いかということは全く別である。

大事なのは、自分を守り過ぎないということだ。自分を守る事ばかり考えると、クレジットカードでいうところのスーパーホワイトになってしまう。社会というグレーな世界をいかに対処して生きて行くか?もちろん社会的にはグレーでもなんでもいいが、心は出来るだけ白くありたいものである。

Aさんの美容整形。

最近タレントのAさんの美容整形が話題になっている。美容整形に対しては賛否両論分かれるが、日本においてはネガティブな意見が多いように感じる。特に「親からもらった容姿を捨てるなんて」という意見もあるが、勉強を努力して道を開くのと同じで、美容整形をして未来を変えるのもかなりアリだと僕は思う。

僕自身は美容整形に対して特に肯定も否定もしないが、今回のAさんの美容整形に関しては肯定的に捉えている。Aさんの整形は金銭的にも数百万円かかっているとも言われ、施術もかなり大規模なものだ。大規模であるが故に、リスクも高いと言われている。今回の施術をするに当たっては相当な覚悟をしたはずだ。そして色々な意味で自分の未来を変えるという強い思いもあったはずだ。

確かに未来を変えたければ色々な手段がある。勉強を頑張るとか仕事を頑張るとか、できる事は身の回りにいろいろある。しかしそのような選択肢のうちの一つとして美容整形というものもあってもよいのではと思う。今回の美容整形の金額は巨額であり、その資金を稼ぐのも大変だ。その資金を稼ぐためにも努力をしているはずだ。Aさんは色々ある選択肢の中から美容整形という選択をしたというだけの話である。

未来を変えるため、自分を変えるためにはいろいろな手段がある。人間の内面は大切だが、外見も自分という人間の一側面である。そして美容整形して変えた外見も立派な自分自身だと思う。何もしないで現状維持する人より、ある意味行動的で立派だと思う。もし自分の現状を変えたければ、何か行動を起こさなければ始まらない。もちろん美容整形をする必要はなく、勉強でもスポーツでも何でもいい。考えたら即動いて、自分という人間をより高いレベルに上げられるように試行錯誤してみよう。

資本と頭脳。

現代社会では資本と頭脳は蜜月関係にある。資本のあるところに頭脳は集まり、そして頭脳は資本を得る。

現在、自動車業界では自動運転の覇権を巡って熾烈な争いが起きているが、その中でも特徴的なのが自動車メーカーとIT企業との連携だ。これにはもちろん自動運転にはITが欠かせないという側面があるが、それとは別に資本と頭脳を求めあっているとも言える。技術と資本を持っている大手自動車メーカーが、資本と頭脳を持っているIT企業を求めているという形だ。

では、現在どのくらい資本と頭脳が結びついているか?もちろんこのような抽象的な話に正確に答えを出すことはできないが、僕の独断と偏見ではおそらく頭脳の97%は巨大資本と結びついていると思われる。しかしこれは逆に言うと、3%はまだ資本に見出されていない、あるいはこの3%の頭脳は資本を必要としていないと言える。資本から隠れている3%の頭脳は、社会的に影響を与えることは少ないかもしれない。しかし人類文明に与える影響はある意味巨大である。

最高の頭脳に資本は必ずしも必要ではないとは言え、資本がこれらの頭脳を全く無視していることは大きな問題である。実際は無視というより見出す力がないと言えるが、その原因は前例至上主義と偏見であろう。しかし最高の頭脳は、前例にとらわれない大きさがあると言える。前例に収まる頭脳などは巨大な頭脳とは言えない。これらの隠れた3%の頭脳を見出すだけで、世の中の資本は3倍大きくなるし、人類文明のレベルは10倍高まるのではと僕は考えている。

投資は人から言われてやるものではない。

投資に対しては色々な解釈があるが、どのような投資においても投資は人から言われてやるものではなく、自分が能動的に動いてやるものである。そしてどのような投資でも、リスクは必ず存在する。リスクがない投資などあり得ない。しかしリスクは他人が背負ってくれるものではなく、自分が全て背負うものである。だから責任は全て自分にある。自分が背負うリスクに対して、人の言うことに従って行うことは明らかにおかしい。

例えばお金を持っていれば銀行などから投資の話が来るかもしれない。老後のために投資をすべきだという話が舞い込んでくることはよくある話だ。しかし「老後のため」という言葉の裏には「必ず儲かる」というニュアンスで話していると思われる。少なくともそのような話に乗る人はそう思って投資をするのであろう。しかしそこでリスクの事は考えているか?おそらくほとんど考えてはいない。しかしもし投資して損をしても、銀行は「リスクがないとは一言も言っていない」と言うはずだ。リスクの話はしていないから、リスクがないとも言っていない。これは確かに間違ってはいない。全ては自己責任である。自己責任において投資するからこそ、リスクの話もしないような銀行員の話に乗るのではなく、自分で徹底的に調べて、リスクを承知の上で自ら証券会社に赴かなければならない。

金融の投資の話は非常に分かりやすいが(簡単に儲かるという話ではない)、人生における投資はさらに重要である。もちろん金銭的な面ではお金の投資より少額かもしれないが、人生の投資はお金と時間、そして自分の頭脳を著しく消費する。もちろん人生における投資も全て自己責任である。上手く行かなくて他人のせいにするなどということはあってはならない。金銭的にもお金の投資より少額ではあるかもしれないが、人生における投資はお金の投資以上にセンスが問われる。良質な知識を入手するためには新聞や書籍などに投資することは必要であるし、人間関係を築くのにも交際費が必要である。実はこれらの投資は本気で取り組むとかなりの金額になる。専門書は一冊一万円以上するものも少なくないので、百冊買えばそれで百万円である。しかしお金は富豪でない限り有限であると考えなければならない。この限られた金銭的資源をどのように分配するかということは吟味して考えなければならない。さらに時間に関してはどんな大富豪であっても平等に有限であるので、その分配はさらに熟考することが求められる。

近年はネットの発達などにより簡単に情報が手に入るようになったせいか、全てを外部に頼ろうとする風潮が強くなってきているように感じる。しかし本当に重要なのは、外部の情報ではなく「内部の思考」である。そしてその内部の思考によって行動を決断して行かなければならない。投資という行動決定においても、やはり能動的に自己決定し自己責任を負うということが一番重要になる。

どこまで「資本の論理」を受け入れるべきなのか?

現代社会のスタンダードシステムは間違いなく「資本主義」である。あるいは「民主主義」だと言える。20世紀には中国・ロシアを中心とする「共産主義」や「社会主義」といったシステムがあったが(もちろん現在もある)、誰が見ても成功したとは言えない。現在では中国までもが積極的に資本の論理を取り入れている。資本主義というものは一見成功したように見えるが、はたしてそれは本当に正しいのであろうか?

資本主義や民主主義は「正しい」とか「正義だ」とよく言われるが、資本主義であっても問題は山積している。貧富の格差の拡大や環境汚染、未来の事を考えない「現在至上主義」などが挙げられるが、これらの問題を解決するためには資本主義や民主主義というものを見返すことが必要だ。自由市場主義によって利益は最大化されると言われるが、総数が増えてもそれが一部に偏っていれば理想から離れている。民主主義は全ての民衆の意見を反映できると言われているが、結局多数意見だけがまかり通ってしまう。もちろん、社会主義、共産主義と比べればはるかにマシなシステムである。しかしだからと言ってこれからも従来のシステムのままで良いかと言われれば決してそうではないはずだ。

拝金主義でなくても、「お金はいくらあっても困ることはない」という考えを持つ人は多い。だから際限なくお金を求めてしまう。儲かる所に資本を集中させ、利益を上げる事を第一目標に掲げて行動を起こす。このような資本の論理に問題はないのか?と言われれば、現在あらゆるところで問題が露呈していると言える。まずは環境問題。経済最優先の行動や政策を実行するが故に、そこから発生する環境汚染には無頓着になってしまう。環境問題が重要な問題だと思いながらも、自分たちの利益を優先するが故に行動を起こせない。原発問題はその最たるものであろう。事故が起きてもまだ経済効率化の夢を見ている。資本主義と民主主義の行きついたところがそれである。

民主主義の理想は確かに悪くない。そして資本主義に関しても良いところはたくさんある。しかし今はそれを大幅に補正すべきではないだろうか?確かに民主主義、資本主義に代わる理念は簡単には出てこないかもしれない。だが今はそれらをバージョンアップすべきだ。現在のシステムのままだと、明らかに地球が持たない。自然が持たない。そして人間が持たない。ではどうすれば補正の指針を見つけられるのか?それは、人間が便利さばかりを追求することを自制することだ。いったん便利さを味わった人間は後には戻れない。そして人間はエンドレスに便利さを求めている。例えそれが破滅へと向かう道であっても。

今人間が見ている未来予想図は、どれを見ても限りなく便利な社会である。それに理想を持っている人も多いかもしれない。しかしそれが虹色の社会だと言えるのか?そのような社会で人間が人間らしく生きることが出来るのか?僕はどうしてもそうは思えない。そして現在に生きる人間が未来に生きる人間に対して負債を重ね続けるようなことはあってはならないことだ。現在至上主義から未来志向主義へと変革する必要があるのではないだろうか?

完全バランスな社会などあり得ないのか?

社会は刻々と変化している。しかしその変化が進化か?と問われれば必ずしもそうとは思わない。確かに科学技術は確実に進化している。しかし人間自体は数年数十年で進化するわけではなく、モラルが良くなっている訳でもない。もちろん、より良い社会を目指して変化して行くことは必要だ。しかしそれが進化ではなく単なる変化、あるいは時には改悪だと思えることは非常に多い。

ではなぜ進化させようと思っていることが結果的に改悪になっているのか?それは視野の狭さに原因がある。ある事を改良しようとすると、そのことしか見えていないのだ。本来は物事というものはあらゆることが有機的につながって相互作用を起こしている。なので一点だけを見て変えようと思えば他の所で改悪的な影響が出るのは避けられない。生きやすい社会にしようと思って変えたことが、結果的に息苦しい社会を作ることになる。

現在、社会は非常にストレスを抱えていると僕は強く感じる。ネットやスマホにより生活は便利になり、交通は発達し、バリアフリーはいたるところで実践されている。しかし社会のあらゆるところで聞こえるのは、ストレスフルな現状に対する不満だ。ネットやスマホにより確かに便利になっている。しかしその一方、ネットやスマホに対してストレスを感じてはいないだろうか?もちろんそのような事は人それぞれ様々だが、便利さが新たなストレスの種になることはよくある。社会システムや法律を変えたことによって息苦しくなることがよくある。そのようなストレスを感じないためにもある程度の鈍感力は必要だとは思うが、何に関しても鈍感になり切ることなど簡単にできない。

生きやすい社会に変えようと思えば、広い視野であらゆるつながりを考慮しなければならない。一点だけを見て変えることほど危険な事はない。社会はバランスが重要なのである。しかし人間自体完璧でも何でもないので、完全バランスな社会などあり得ない。なのでどうしても生きづらい所やストレスを感じるところは随所に出て来る。そのような社会に中でいかに自分の人間性を発揮するか?そしていかにして広域的に良い社会を作っていくか?簡単な事ではないが、そのような事を思考しながら時代を前に進めて行かなければならない。

四大陸選手権優勝!紀平梨花選手の体力と精神力に学ぶ。

2月8日(日本時間9日)に行われたフィギュアスケート・四大陸選手権で、紀平梨花選手が優勝した。ショートでは5位と出遅れたが、フリーで圧倒的な差をつけての勝利だ。僕は紀平選手のフリースケーティングのプログラム「Beautiful Storm」が大好きだ。曲も衣装も、もちろん紀平選手の演技も全てが美しく哲学的だ。なぜこのような素晴らしい演技が出来るのか?本人に聞くまでもなく、体力と精神力の全てが極められているからだろう。僕は全てのプロスポーツ選手をリスペクトしている。プロスポーツとは「極限への挑戦」だ。極限を極められない選手はプロの世界から去らねばならない。体力と精神力を極限状態に保ち続けられる者のみがプロの世界で生き延びられる。このようなプロスポーツ選手から我々が学び取ることが出来ることはたくさんある。

紀平選手から学び取れることの一つ目は、挽回力だ。今シーズンのほとんどの試合で、紀平選手はショートプログラムでミスをし出遅れている。しかしほぼすべての試合でそれを圧倒的なフリースケーティングで逆転している。ショートでミスをして出遅れればそれを引きずりそうな気もするが、紀平選手はショートのミスを逆に修正のチャンスと捉え、それを基にフリーでは最高以上の演技をしている。紀平選手にとってミスはネガティブな事ではなく、次へのステップの足場としてポジティブに捉えている。これは全ての人が学ぶべきことだ。失敗は決してネガティブな事ではない。むしろチャンスなのである。

二つ目は、安定力とトータルでの力だ。これまでショートでミスをしがちだとは言え、ショート、フリーでの合計ではほぼすべて勝利している。この安定感は圧倒的である。人間は誰しも調子の良い時と悪い時がある。しかしその好不調の波をいかに高いレベルで安定させるかということが非常に重要である。高いレベルでの安定感こそが紀平選手の実力だと言える。

三つ目は、圧倒的に高い精神力だ。今回、紀平選手は試合前に怪我をした。指の脱臼だそうだ。そのようなアクシデントの中でも紀平選手は圧倒的な力を発揮することが出来た。もちろん直接的な影響が少ない指のけがとは言え、精神的な影響は非常に大きいと思われる。普通ならけがをきっかけに負のスパイラルに陥るところだろうが、紀平選手からはそのような事は微塵も感じられなかった。おそらく精神面を完全にコントロールすることが出来ているのだろう。この様に、自分の精神を完全に自分の支配下に置けるかということは、最高のパフォーマンスを発揮するうえで非常に重要である。

紀平選手からは学び取れることが山ほどある。スポーツは科学技術などのように直接的に人間の生活に影響を与えるという訳ではないが、人間の心には多大な影響を与えることが出来る。それらの影響から人間の生き方が変わることもある。プロスポーツ選手の演技・プレーから何かを感じ取って、それを自分の生き方の向上につなげることが出来れば、自分を人間的に高い所へと持ち上げることが出来るであろう。

大本営(公式)情報と非公式情報とをどう解釈するか?

政府や官庁から発表される公式発表や企業などが発表する公式情報、つまり大本営情報と非公式情報をどう解釈し向き合うか?これは意外と難しい微妙な問題である。大本営情報だけに言及して行けば、全ての責任から逃れられるだろう。もし大本営情報が間違っていれば責任は発表した組織側にあり、受け取った方は騙された被害者となるからである。しかし大本営情報だけしか見なければ、全ての市民は思うように操られることになる。すなわち非公式の情報を入手することは生きて行く上で必要不可欠である。

しかし非公式情報の中にはどこの骨ともわからないものもたくさんある。信頼できる筋の情報もあれば、全く信用できない筋の情報もある。特にネット社会となった現在では、誰もが情報発信者になることが出来、情報の質というものを考えた時、非常に怪しい情報の方がはるかに多いことになる。そのような現在においては、やはり新聞などのメディアの質は相対的高くなり、信頼できる情報源として必要不可欠である。

もちろんフェイクニュースなどは論外であるが、フェイクニュースが世の中を動かすことがある現実を考えれば、情報の質に対する世の中の意識はかなり低いと言わざるを得ない。多くの情報を入手するという以前に、情報の質というものに目を光らせなければならない。とは言うものの、もちろん100%真偽を見抜くということは当事者でない限り不可能だ。しかし90%見抜くことは意識の持ちようで十分に可能である。

ではそのような意識を持ち真偽を見抜くためにはどうすればいいか?そのためにはやはり一次情報を確認するしかない。事実を確認する、あるいはサイエンスにおいては原論文に当たるということである。そのためには一次情報である大本営発表を確認することは不可欠であるが、時には大本営発表が偽物であることもある。それを見抜くためには社会全体の流れや概観、そして整合性を掴む必要がある。すなわち全体的な骨格と細部の両方を掴まなければならない。そのためにはただ情報をインプットするだけではなく、自分からアウトプットして行くことが必要だ。なぜならアウトプットするためには物事の概観と整合性を掴むことが必要不可欠だからである。

社会や物事の本質を掴むためにも、大本営発表と非公式発表の真偽を大局的な観点から判断し、知識を構成して行くことが必要である。

全豪優勝、大坂なおみに究極の姿を見た!

大坂なおみがテニス・全豪オープンで優勝した。そして何より嬉しいのが世界ランク1位が確定したことだ。これまでは日本人トップ選手がいかにランク1位選手に勝つかということに注目されていたが、今はランク1位になってしまった。本当に空いた口がふさがらない。それと同時に日本人選手が一分野で世界トップに立ったことに同じ日本人として誇りに思う。

大坂なおみ選手は世界1位になったが、それは人間の目指す究極であり、また何かに打ち込んでいる人ならだれもが目指すべきところだと思う。しかし多くの人は「そんなのは絶対に無理に決まっている」と言って挑戦すらしない。もちろんそのような人にとっては、実力云々という以前の問題として可能性はゼロである。しかし頂点を目指している人には、0.1%、あるいは0.01%の可能性を秘めている。そしてその可能性を5%、10%と高めて行くのである。「そんなのは無理に決まっている」と言う人にバカにされる筋合いはない。頂点を目指している人は胸を張って目指せばよいのである。

もちろん、全ての人が頂点に立てるわけではない。頂点に立てるのは70億分の一なのである。しかしそれを目指す価値は大きい。しかしそれには大きなリスクも存在する。挑戦するにはそれだけの覚悟を持たなければならない。リスクを取れない人はまずそのスタートラインに立てない。成功すればその対価は非常に大きいが、失敗した時の代償も非常に大きい。そのような事に耐えられる覚悟が必要なのである。

僕は最近、人間とは若返ることが出来るということを実感している。もちろん肉体的には老化して行くのが自然の摂理であり、それは避けられない。しかし精神の老化は避けられるどころか逆に若返ることもできる。ではどうすれば精神を若返らせることが出来るのか?それは挑戦し続けることである。挑戦を止めた時点から精神は老化して行く。見かけは若くても中身は老人のような人間もいる。逆に肉体は老いても青年のような精神の持ち主もいる。外見のアンチエイジングに力を注ぐこと以上に、挑戦し続け精神の若返りに力を注ぐべきである。世界の頂点に挑戦し、世界の頂点に立った大坂なおみの精神は、究極的に若いに違いない!

日本国憲法。

ジュンク堂でいろいろと本を眺めていると、岩波文庫から「日本国憲法」という表題の新刊が出ていた。振り返ってみると、憲法と言えば学生時代に習った事ぐらいしか知らないのではと思い、ここは一冊680円出して買うかと思い、購入することにした。家に帰って改めて目次を眺めると、日本国憲法以外にも大日本帝国憲法、パリ不戦条約、ポツダム宣言、降伏文書、日米安全保障条約など盛りだくさんな内容である。ここで重要なのは、この本が単なる解説書ではなく(解説も一部に載っているが)、原文がそのまま載っていることである。物事に当たる時、まずはやさしい解説書から入る人が多いが、原文に直接当たるということは最も重要な事である。

日本国憲法ははっきり言ってそんなに長くない。もちろん憲法は、国の根幹、基本原則を表したものだから、短く強く表明することが重要であり、長々と述べることは相応しくない。日本国憲法はこのような短い文章であり、読むのにそんなに労力もいらないと思うが、そのような事に今まで一度も当たってこなかった自分が恥ずかしい。もちろん読むこと自体には労力はいらないというものの、考えて行くと非常に深い問題であり、考えて解釈をし続けても終わりがない深い文章なのだろうと思う。

この本を眺めてまず思うのは、日本にとって天皇の存在はいかに重要であるかということである。日本国憲法も大日本帝国憲法も、第一章は「天皇」である。非常に歴史が長く権威がある天皇という存在を、いかに明治の仕組みの中で、あるいは戦後の仕組みの中で位置づけるかということは、明治の日本人の、そして戦後の昭和の日本人たちの知恵が凝縮されているのではないかと強く感じる。そしてそれらの知恵は大筋の所非常に上手く行っているのではないかと強く感じる。今年の5月からは新天皇が誕生する。新天皇の存在が平和な世の中を導いてくれることを深く願う。

日本人であるならば、日本国憲法を熟知することは必須なのかもしれない。しかし実際に熟知している人は(恥ずかしながら僕も含めて)多くはないのではないかと思う。しかし日本に住んでいる日本人である限り、「知らない」では済まされないのではと強く思う。日本国憲法は決して長くはなく、読むだけならそんなに時間はいらないはずだ。少し時間がある時に気軽に手にとって眺めるだけでも、日本という国に対する理解は一層深まるに違いない。

世界を大きく変えるのは、本質的に一人だ!

日本は全体主義で、協調を重んじる。そして何かを達成すれば皆が頑張ったからだと称え、誰かが成功すれば周りの人の支えがあったからだと労う。そのこと自体は間違っていないのかもしれないし、悪い事ではない。しかし日本における全体主義、協調主義は度が過ぎるようにも感じる。様々な世界において大きな変革が成し遂げられたとき、それを実行したのは集団であっても、その鍵となるのは多くの場合一人である。なのでその一人がいなければ物事は全く進まなかった可能性は大きい。

日本の協調重視社会においては、集団や組織が重視される反面、個が軽視される傾向にある。極端な場合では、組織に反して一人が成し遂げたこと、更には組織に足を引っ張られながらも個人が成し遂げたことでさえ、その功績が組織のものになることがある。それは企業の技術開発ではよくある話だ。青色発光ダイオードの技術開発に大きく貢献した中村修二博士の例はその代表である。日本でもそろそろ個の大きな力を認めるべきではないかと強く感じる。

日本では、「個の力は小さくても、皆が集まれば大きな力になる」と色々な所で言われる。確かにそのような事はあらゆるところで見られる。しかしそれは全てではない。個だからこそ大きな力を発揮できることもあるし、集団になったがために力と個性がなくなってしまうこともよくある。もちろん、個と言っても完全に一人だけで生きている訳ではないが、個の力に対する軽視は個から広がる変革に対しては足を引っ張るものでしかない。

物理や数学の歴史を見れば、大きな革命のほとんどは個から生まれたことが分かる。その代表例がアインシュタインの相対性理論である。逆に集団的研究から生まれたものは、少なくとも理論系では少ないと感じる。

「人間は一人で生きている訳ではないし、全ての事は人との関わりからから生まれる」などと言いたい人も多いとは思うが、問題はそのような次元の話では全くない。そのような言葉を全ての分野、全ての事柄に持ち込むと、個から発せられる力を潰し消すことになってしまうだろう。

地震に対する意識が変わった日。

昨日の1月17日は、阪神大震災から24年目の日だったが、僕にとって、そしておそらく日本の多くの人にとって、地震に対する意識が変わって24年目の日ではなかったのではないだろうか。

僕はその時、神戸に住んでいたが、今では全くもってアホらしい話であるが、関西は地震が起こらない所だと信じ込んでいた。また関西で地震が起こらないことは、当時関西人の間では常識であったように記憶している。実際、阪神大震災が起こるまでの18年間の人生の中で、神戸で地震を感じたことは震度2程度の微弱な地震一回だけしか記憶にない。その一回は家のトイレに入っていた時に感じたので、なぜだか覚えている。そのような意識しかなかったので、大地震に対する心構えなど皆無であった。

しかし、阪神大震災後、日本は大地震時代に入る。いつどこで大地震が起こるか油断できない。日本に住んでいる限り、大地震の危険性からは逃れられないというのが現在の日本人の常識的な意識ではないだろうか?関西でも去年、大阪で大地震が起きた。地震を抑え込むことはできないので、人間の意識の方を変えるしかない。

阪神大震災が起こる24年前まで、地震の危険性と言えば首都圏直下型地震一辺倒だった。もちろん今でも首都圏直下型地震の危険性は高いのであろう。しかしそれは首都圏だけが特別なのではなく、広く日本全体の危険性の一部という認識ではないだろうか?静岡県を中心とした東海地震の危険性も、今では南海トラフ地震と名を変え、さらに九州周辺まで範囲を広げ、桁違いの危険性が認識されるようになった。もう日本に住んでいる限り、地震と共生するしかないのだろうか。地震が起こるということを前提に、いかに身を守るか?現在は防災というより、減災に重点が置かれるようになってきている。

プレートの境目に存在する日本列島に住んでいる限り、地震、そして火山からは正面から向き合って行かなければならなさそうだ。

寛容な社会?

今世界は寛容さを求められている。難民問題や性別問題などを解決して、誰もが安心して生きて行ける社会にならなければならない。日本は難民に対して閉鎖的だと言われ、性別問題に関してもかなり遅れていると言われている。そういう意味では日本はかなり閉鎖的だと言える。とは言え、世界的には寛容な社会へという潮流が大きく流れていると言える。

しかし何かが違うと感じるのは僕だけだろうか?もちろん難民に対して寛容な社会になることは(国家の利益的な問題はあるにしろ)必要不可欠なことであるし、性別関連の問題に対して差別や偏見をすることはあってはならない。しかし注意すべきことは、思考無き拡大解釈はしてはならないということだ。もともとは解決しなければならない問題であっても、その方向性を無批判に突き進めて行けば逆の意味で差別的かつ息苦しい社会になってしまう。問題を次の一歩へと進める時には、さらに進めるべきかと繰り返し思考しなければならない。決して思考停止的に拡大解釈を続けてはならない。

寛容な社会を作ることは非常に重要な事だ。しかし寛容化へと拡大解釈し続けてしまうとシーソーは反対側に傾き、再び不寛容で息苦しい社会になってしまう。社会政策はバランスが重要なのである。なので政治家などの社会政策施行者は常にその塩梅を見極めなければならない。

寛容な社会を作るためには、社会を構成する一人一人の人間の意識も重要になる。人々の意識が変わらなければ寛容な社会は作れない。一人一人の意識が社会を変え、国家を変える。そして世界が変わるのである。もちろん現時点ではどこの国家にもおかしいことはたくさんある。そしてそのようなおかしな部分はどんな時代になっても存在し続けるのかもしれない。しかしだからと言って、寛容さを追求することを怠っていはいけない。そしてその際には、方向性と塩梅を見極めながら常に立ち止まって熟考し、実行に移していかなければならない。

アナログ回帰。

近年押し寄せている社会のデジタル化の波は非常に大きい。スマホを始め、身の回りの物のほとんどがデジタル化され、最近はIoT(Internet of Things)という言葉も流行している。その一方、一部ではデジタル回帰とも言われる動きが見られる。例えばiPadなどを始めとする電子機器などでの書類管理が進んでいるが、個人レベルでは紙(ペーパー)の魅力を再発見することもある。紙の書籍は今でも電子機器などでは得られない魅力と効果がある。またアップルウォッチなどのスマートウォッチが普及する一方、機械式時計がブームを起こしている。

僕自身も今、一部アナログ回帰しようと取り組んでいる。しかし一度デジタルの世界に慣れてしまえばアナログ回帰をすることは容易ではない。かなり意識しないとついついデジタルの世界にどっぷりとはまってしまう。無意識の内にどこかでネットとつながっている。確かにネットは非常に便利だが、依存症になるほど浸かるのは問題だ。現実世界を強く意識し、リアルで周りの人とつながることが大事である。

そんな僕も、現在使っている旧型のiPhoneを新型に買い換えたいという衝動は凄くある。スマホを買い換えるのも良いし、ネットを駆使するのも良いと思う。ただ現実世界に生きていることを忘れてはいけない。あるいはもしデジタルやネットの世界に浸かるのなら、徹底してそれらを駆使するという手もあるのかもしれない。例えばゲームにはまるのなら、ゲームをするのではなくゲームを作るというようにだ。またデジタルを駆使することによって無駄な時間を大幅削減するというのも手だ。間違ってもネットがネットを呼ぶように雪だるま式に時間やお金を浪費してはいけない。

アナログに生きながらも、デジタルを上手く駆使すれば時間もお金も有用に使えることが出来るだろうし、自分の打ち込むことにも効率的に取り組むことが出来るであろう。そして人との連絡や出会いも大きく増やせるかもしれない。しかしその塩梅が難しい。現代社会に生きている限り、デジタルな世界を無視することはできない。だからと言ってアナログ世界は必要ないかと言えば、それはそれで今でも魅力的な所はいくつもある。デジタル世界である現代社会の中で生きながら、いかにアナログの魅力と利点を取り入れられるか?これは簡単そうで非常に難しいスキルが必要である。デジタル回帰は一筋縄では行かなさそうだ。

法律は武器だ!

僕自身は法律に関してはどちらかと言うと疎い方で、詳しい訳でも何でもない。僕はいろいろな分野の学問に対して興味を持っているが、法学に関してはなかなか乗り気になれない。法文自体に自然法則がある訳でもなく、法文を読むことは現時点では苦痛でもある。

しかし最近は、法律は出来る限り理解すべきだと思っている。法律を知ることは生きる上で武器になる。ビジネスを行っている人にとっては、法律を理解することは必要不可欠であるし、ビジネスの勝者は多くの場合、法律を上手く活用し、時には法律の網を上手く掻い潜った者である。また社会をストレスなく生きるためには、法律を正確に理解し、自分流に解釈することが必要だと思う。

ここ最近、日産のカルロス・ゴーン元会長に対する検察の取り調べが話題になっている。ここで争点になっているのは、当たり前の事であるが違法性があるかどうかだ。一般市民にとってはゴーン氏がけしからんと良い悪いという物差しで見てしまうが、事件の争点は良い悪いではなく、合法か違法かということである。もちろん、悪い事をしないようにするために法律というものが制定されているのだが、必ずしも「良い=合法、悪い=違法」というわけではない。そこに法律の本質がある訳であって、上手く法律を活用できるかということが物事を進める上で重要になる。

法律は非常に膨大である。従って我々のような専門外の人間が法律を全て理解するのは不可能であるが、自分に関係する法律の根幹くらいは理解しなければならないと思う。しかし僕は現在そこまでは法律を理解できていない。それが故に無用な悩みを抱えてしまうこともある。ストレスフリーに生き、自由に自分の打ち込むべきことに集中するためにも、自分に関わる法律の最低限の事くらいは理解したいものである。

同調圧力の中の相互監視社会。

日本は「絆」とか「力を合わせて」という美徳を持ち合わせている。と言いたいところだが、これは本当に美徳だろうか?震災が起きた時に協力し合う絆は確かに美徳であろう。しかし力を合わせて助け合うという一方、力を合わせていじめるということも至る所で見られる。自分と同じような人とは助け合う一方、異質なものを排除するという側面もある。良くも悪くもこれらは同調圧力のもたらす力だと言える。

今日本社会で最も怖いのが「相互監視」だ。犯罪者を監視するということにとどまらず、周りの人が人と違うことをしていないかということを常にチェックしている。またそれらの同調圧力の結果、「自分は皆と同じ振る舞いをしているか?」ということを常に気にし続けている。話す言葉はすべて当たり障りのない言葉だ。

なぜノーベル賞受賞者はノーベル賞を取れるのか?それは一言で言うと、皆と違うことをしているからだ。同調圧力の下では独創的結果などは100%生まれない。日本において独創性を発揮しようとすれば、何をやるかという以前にまずは同調圧力を跳ね飛ばすというところから始めなければならない。そのような精神力を持つことは決して容易ではない。しかし残念な事に、まずはそのような精神力から話を始めないといけない。それが現在の(昔からか?)日本の現状である。日本では確実に出る杭は打たれる。従って出すぎた杭になれるような飛び抜けた結果を出すか、皆と同じ普通の結果しか出さないかのどちらかしか生き残れない。

努力しないのが普通である集団の中では、努力する人が叩かれるという何とも悲惨な状況も存在している。皆がお互いに可能性の芽を潰しあっている。この様な社会に未来はあるのかと言えば、確実に未来はない。今まで上手く行ったからといって、これからも上手く行くとは限らない。同調圧力の中にある相互監視社会が何をもたらすか?そのことに対してもう少し想像力をたくましくしなければならない。

権力や政治力ではなく、実力で!

権力者が備えているべき力、それは実力である。しかし現実はどうやらそのようではない。政治力によって権力者になる人も多い。もちろん実力を発揮して上にのし上がる人も多いが、政治力だけによってのし上がれる世界というのは多くの場合歪んでいる。

もちろん政治力が全く悪かと言えばそうではなく、政治力が重要な実力になる世界もある。特に大きな組織では政治力によって組織の調和と調整を行うということが重要であることが多い。しかし例えばスポーツの世界では政治力などはほとんどいらないし、学問の世界でも厳格な実力の世界であるべきだ。しかしどのような世界でも政治力を持つ人が一定の力を得るという構造が見られる。

しかし例え政治力が必要な世界でも、初めは実力を磨くべきだ。技術者なら技術を、そして社会においても社交力や知識などを身に付けて行くべきだ。もちろんそれぞれの世界で必要になる力はそれだけではなく、実際はあらゆる力の総合力が必要になる。

ある一部の分野では世襲というものが根強く続いている。それはそれでいいのかもしれないが、僕はそのような世界とは対極的な位置にいる。そのようなポジションで生きている人間にとっては、付けるべき力は政治力ではなく実力である。実力の世界というものは非常に面白くエキサイティングだ。初めは何も約束がされていない。そのような地点からスタートしどこまで世界の本質に潜り込めるか?全ては自分の力にかかっている。あとは自分の意志をどこまで貫けるかだ!