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対応の仕方が一年前と同じでは脳がない!

コロナ禍は一向に収まる気配がない。医療従事者はますます苦しく困難な状況に追い込まれ、医療崩壊寸前、あるいは既に医療崩壊が始まっているとも言われている。我々国民としても、これらの献身的に働く医療従事者をこれ以上苦しめないためにも、まずは自分自身が感染することを防ぎ、最低限マスクをするとか人混みを出来るだけ避けると言った行動をとらなければならない。我々に何ができる?と思うかもしれないが、私たち自身がコロナに感染することを防ぐことが医療従事者に対して協力できる最高で唯一の方法なのである。

医療従事者が苦しい立場で献身的に働いているのに対して、政治家は何をしているのか?今僕が一番問題だと考えているのが、一年前と同じ施策を今でも全く同じようにやっていることだ。具体的には緊急事態宣言、まん延防止法、そして補助金での支援の仕方など、一年前とほとんど変わらないやり方でやっている。しかし一年前と比べてコロナに対する知見は飛躍的に蓄積し分析されている。それと同時に新たな変異株が現れるなどコロナウイルス自体もどんどん変化し続けている。しかし政策だけはほとんど変わらないのである。そればかりか、オリンピックが強行され、五輪関係者をバブルで包んで外に影響を与えないと言っていたところが、今ではバブルの外(すなわち日本社会全体)の方がコロナ禍がはるかに悪化していると言う逆転現象が起きている。

コロナ禍が発生してから一年以上経つのだから、それに沿って政策も発展させていかなければならない。例えば先日僕がブログで執筆したように、一か月限定の強力なロックダウンを行うと言うのも一つの手であろう。ロックダウンを行うと人々の自由を侵害すると言う声もあるかもしれないが、ダラダラと緊急事態宣言を出し続ける方が結果としてはるかに人々の自由を奪ってしまうことになる。自由を何よりも大事にするフランスでさえも、強力なロックダウンを行っている。そもそも一年前と同じ施策が今でも通じると考える方がおかしな話であり、全く脳がないと言える。

そして最後の砦であるワクチンでさえも、ある程度普及すれば必ずコロナ禍を抑えることができるかと言えば、他国を見れば必ずしもそうとは言えない。なのでワクチンを普及させれば全てが上手くいくと言う考えも菅氏は改めなければならない。ただしワクチンは感染を防ぐと言うこと以上に重症化を防ぐと言う効果があるのは明白なので、僕はワクチン接種は非常に重要で強力な手段だと思っている。

オリンピックで活躍するアスリートは皆素晴らしいものであり、オリンピックはアスリートファーストで行わなければならない。しかしそれとオリンピックに対する政治判断は全く別物だ。菅氏はオリンピックが盛り上がれば政治での失策など皆忘れて支持率が上がると思っているようだが、僕はむしろそれとは全く逆だと思っている。オリンピックに湧いたがゆえに、菅政権の失策はむしろ浮き上がってくる。なのでオリンピックが終わると政府、そして菅氏への不満は爆発するであろう。何より菅氏は国民をバカにしている。しかしそのような菅氏を国民がバカにし見放すのも時間の問題である。

リレー日本代表、攻めて失敗した選手たちを称える!

8月6日もオリンピックでは様々なドラマがあった。まずは女子1500メートルで田中希実選手の8位入賞には非常に興奮させられた。そしてその一時間後に行われた400メートルリレーでそれは起こった。バトンミスによる失格だ。その時は何が起こったかわからず呆然としたが、バトン受け渡し区間内で上手くバトンを渡せなかったようだ。しかしその後の選手たちのインタビューでは、4人それぞれが口々に「攻めて行った結果だ」と発言された。もちろん僕のような素人にはそこまではわからない。しかし攻めて行った結果の失敗ならそれは大いに賞賛すべき失敗だと僕は思う。これこそ日本人に最も欠ける部分だと思うからだ。

日本人と言うものは何かと安全志向だ。とにかく確実に成功する保証がないと動かない。もちろん皆が皆そうとは限らないが、日本人の特性でそのようなところがあることは多くの人が認めるところだと思う。しかし僕は安全志向でなんとなく掴んだ成功より、攻めて攻めて攻めまくった結果の失敗の方がはるかに価値があると思う。もちろんオリンピックは4年に一度なので、頻繁にやり直すことはできない。泣いても笑っても4年に一度なのだから。しかし4年に一度の舞台でこのような失敗をしたことは非常に貴重である。

しかし僕は、いや、多くの日本人は同じような不満を抱えていると思う。それは今一番勢いのある日本人選手であるデーデー・ブルーノ選手の走る姿を一度も見れなかったことである。僕も正直言って、ブルーノ選手の走りを一番見たかった。まだ評価の固まっていない選手なので、どうなるかは全く分からない。そのような未知の選手だからこそ、その可能性に懸けてみたかった。しかし僕は今回出場した全ての選手に対して不満はないどころか、大いにリスペクトしている。とは言え、政府のほとんどの決定に対しては大きな不満を持っている。何より国民に響く、国民が納得できる説明が全くなされていない。現在のコロナ感染の爆発に対しても、「想定外」と他人ごとのように捉えているように感じられてならない。現在の政権は「菅“保身”政権」である。オリンピックのメダリストに上から目線で電話で話すよりも、政治家にはアスリートの人生を懸けた覚悟を見習ってほしいものである。

開催の是非が問われたオリンピックだが、アスリートたちには全く責任はない。なのでアスリートを責める人がいればそれは完全なお門違いである。アスリートにとってはこの4年に一度のオリンピックに人生がかかっている。この4年に一度のオリンピックの活躍次第で、その後の人生が左右されると言っていい。そして今回のリレーの失敗に関しても、その後の人生を大きく左右されるだろう。そしてそれが良い意味で影響されることを強く願っている。

ロックダウンはどうすべきか?

現在コロナ禍はますます猛威を振るい、感染者数は東京都だけでもついに五千人(8月5日)を超えた。緊急事態宣言やまん延防止法は出され続けているが、最近はそれらの法にも慣れが生じ、国民の多くは外出を控えようとはならない。そこでより強いロックダウン(都市封鎖)をすべきではと言う考えもあるが、ここでは(法的問題はわきに置いておいて)「ロックダウンするならどうすべきか?」と言う事を考えようと思う。

まずロックダウンをするなら、全国一律に実行することが重要である。そうでないと逆にロックダウン解除後地方からまたコロナが広まってしまうことになる。そしてもう一つ重要なのは、「一か月限定」と初めから宣言しておくことである。そしてその一か月間は厳重にロックダウンを遂行する。もしかしたら違反者に罰則を科すことも必要かもしれない。しかし一か月後には必ず解除することを約束する。そうでないと人々は終わりが見えなくて我慢できないであろう。

次に僕が重要だと思うことは、一か月間ロックダウンすることによって国民が被る不利益を保障することである。そこで「全国民一律給付金」の出番だ。例え5万円くらいであってもないよりかはある方が助かるし、またそれ以上に「給付金が出るなら一か月我慢しよう」と言う意識が広まるはずだ。なので確かに5万円だけでは生活費を完全に補うのは困難かもしれないが、一律給付金を出すことは非常に重要である。

しかしもう一つ最大の問題がある。現首相の菅氏がそのような事を言い出して国民は納得するだろうか?いや、現在の菅氏に対しては国民は何の信頼感も持っていない。そのような人間が言い出しても多くの国民は納得しないので、まずは首相を交代することが重要である。誰が良いとはここでは言わないが、少なくとも菅氏ではダメな事は明らかだ。

これが僕の考えるロックダウン案だが、もちろんここでは述べなかった法的問題も大きな問題である。なので迅速な法的整備を含めてこれらのことを実行できる人物でなければならない。確かに困難な事案ではあると思うが、僕は必ずしも不可能ではないと考えている。そしてロックダウンが終わる一か月後にはワクチン接種もかなり進んでいるに違いない。

最後に、ロックダウンの一か月間は経済的にも精神的にもかなりきつい状況にはなるが、長期的観点から見れば必ずこちらの方がダメージは少ないはずだ。なのでロックダウンに限らず、政府は目先の事ばかりにとらわれず長期的観点から政策を進めてほしいと強く願っている。

コロナ「東京株」は現れるのか?

現在、新型コロナの「デルタ株」などの変異株が国内でも広まりつつある。デルタ株は従来の株よりも感染力が強く、重症化率も高いと言われている。このような株が広まれば、コロナ禍は量・質ともにさらに悪化していくものと思われる。

現在、東京オリンピックは無観客で行われているが、人々の接触は増加しつつあると思われ、今日(7月28日)には東京のみの感染者数だけでも3千人を超えた。ただ今回の第五波はワクチンの効果により死者や重症者の数が少なく、危機感があまり感じられないように感じる。確かにそれらだけを見れば深刻さは過去の波より低いようにも思われるが、僕はここに大きな危険が潜んでいると考えている。それは変異株「東京株」の出現だ。

まず変異株の事を述べる前に、少しコロナに関する科学的な側面を簡単に触れて、変異株がなぜ発生するのかについて述べる。ウイルスは増殖する際に、RNAと呼ばれる遺伝子をコピーする。通常は正しくコピーされるのだが、まれにコピーミスが起きる。そしてそのコピーミスによって変異株が生まれるのである。しかしコピーミスが起きる確率は限りなく低い。しかし一定の確率でコピーミスが起きるので、ウイルスが増えるほど、つまり感染者が増えれば増えるほどコピーの回数が多くなり、それに伴ってコピーミスが発生する可能性が高くなる。つまり現在、感染者数が多いが重症者数が少ないと(政府も?)楽観視しているが、しかしそれを野放ししていると「東京株」が発生する可能性が非常に高くなる。

ではなぜ「東京株」の発生がそれほど危険なのか?どのような変異株が現れるのか?それは発生して見なければわからない。もしかしたら従来の株とそんなに危険度が変わらない(もしかしたら危険度が下がっている可能性もある)かもしれない。しかし逆に危険度が大幅に増す可能性もある。現在のコロナの致死率は3%やそこらと言われている。しかし変異株によっては致死率が20%や30%に大幅に増加することも否定できない。そしてワクチンが効かない株になっている可能性もある。確かにそんなに病原性の高い変異株が現れる可能性は低いと思われるが、しかし可能性としては否定することもできない。そこが変異株の一番恐ろしいところなのである。

しかし現在の政府などの対応を見ていると、新たな変異株の発生の可能性など眼中にないように思われる。しかし一度高病原性の「東京株」が発生してしまえば、これは日本が国際問題に問われることにもなりかねない。もし感染者が増加しても変異株が発生しなければ、それは政策が正しかったのではなく、ただ確率的に発生しなかっただけなのである。しかしオリンピックが開催されコロナ感染者が激増している現在、変異株が発生する確率は急激に高まりつつあると考えられる。これらの話は全て確率的な問題になる。なので100%ではないが0%でもない。そして繰り返し述べるように、感染者が増加すればそれに伴って確率は高まる。政府分科会の尾身氏に対しても、それらに対する専門的な知見による指摘を行ってもらいたいと強く思っている。

‘‘何”が安心・安全なのか?

菅氏そして政府は、オリンピックを「安心・安全なものにする」と繰り返し述べている。しかしそもそも「‘‘何”が安心・安全なのか?」と言う事が全く述べられていない。もちろん、コロナが広まらないことが安心・安全であることは誰にでも分かるが、しかしどれくらい収められれば成功で、どれ以上広まれば失敗なのか?と言う事が全く述べられていないのである。つまり数学で言うところの、安心・安全の「定義」が全くなされていないのだ。このままだと、例えどれだけコロナが広まり問題になろうがうやむやにされる可能性があるし、また例えコロナが広まっても「想定内だ」と言い逃れされてしまう。つまり菅氏をはじめとする政府は、初めから言い逃れできる状況を作り出そうとしているのである。

もちろん、コロナの抑え込みに成功して大会を終えることができる可能性もゼロではない。おそらく政府もそうなれば儲けものと思っているのであろう。しかし現段階でも、ウガンダ代表のコロナ感染問題など既に問題が表面化している。しかし政府は対応を自治体に丸投げして責任を擦り付けようとしている。

そもそもトップ(首相)とはどうあるべきか?トップとは責任の最終所在地である。なので問題が起きた時、最終的に責任を取るべきなのはトップ(首相)なのである。そのために首相には最大限の権限が与えられている。つまり民主主義国家において、権力と責任はセットであると考えなければならない。しかし現首相の菅氏には、権力を振りかざすことしか考えていないように見える。「責任」とは口には出すが、口だけであって全く責任を取るようなしぐさがない。つまり「義務を果たさず、権利だけを主張する」独りよがりな老人にしか見えないのである。

改めて言うが、安心・安全の定義をはっきりさせることは非常に重要だ。これをはっきりさせないと、国民はどこを目指して取り組めば良いかわからない。つまりどれだけ自粛すれば良いのかわからないのである。そのような状況で「頑張って自粛しなさい」と言われても、従う気になれない国民が多いのも当然だ。そもそも自分の行動を背中で見せなければならない総理がステーキ会食をして政局にうつつを抜かすのが現日本の政府の実態なのである。今の菅氏の行動・発言を見れば、政治家の資質と言う事以前に、人間そのものの資質が疑われる。

評論家とは究極的に無責任な存在だ!

今メジャーリーグで大谷翔平選手が爆発している。打者としての爆発が目立っているが、投手としても半端なくレベルの高いプレーをしており、ただ単にリリーフ陣の崩壊によって勝ち星がなかなか付かないだけのように見える。現在どの評論家も大谷選手の事を手放しで褒めたたえているが、二刀流の挑戦を始めた時の評論家の発言はどれも酷いものばかりであった。代表的なもので言うと、「そんなに甘くない」「どっち付かずになってしまう」と言ったものであろう。そしてそのような発言を今見返した時、あらゆる意味であきれ返ってしまう。それは大谷選手の活躍を見通せなかったからではなく、そのような発言を見た時、どれもド素人でも言えるような発言しかしていないことに驚きあきれ返ってしまうのである。もし元プロ野球選手の評論家なら、あらゆる側面からの分析によって評論してもらいたいものであり、そのような分析でも予見できなかったとなれば我々も納得し、大谷選手の凄さをさらに実感できるのである。そう考えれば、上の二つの発言のような評論は、超ド素人レベルの超無責任発言にしか思えない。

もちろん、これまで誰もやってこなかったようなことに挑戦・開拓する人に対しては、無責任な批判はつきものである。そしてもし失敗すれば「それ見たことか」と皆が笑う。なので新しいことに挑戦・開拓する時は、困難は取り組む対象だけでなく、世間の白い目とも戦わなければならない。世の中と言うものはしばしば不条理だと言われるが、しかし不条理が世の常だからと言って平気で無責任な発言をする人に対しては僕は怒りを隠せない。僕も今、数理物理(数学・物理)の研究で、誰もが成し遂げなかった(誰も取り組んでこなかった?)ことに挑戦している。そして結果を出せる自信は大いにある。しかし周りの目はかなり冷ややかだ。確かに今までの過程を見ると、そう思われるのは仕方ないのかもしれない。しかしこれまでの過程、これまでの人生に関しては人それぞれ特有の事情があり、これまで上手くいかなかったことに関してもその人の事情があるのである。しかし今までできなかったからと言って、それはこれからもできないと言う理由にはならない。もちろんこれまでずっと成功できなかった人のほとんどは、これからもできる見込みはないと思うのが常識なのかもしれない。しかしその人の常識を他人にまで押し付けるのはやめてほしい。さらに言えば、挑戦もしない人が人の挑戦に対して否定するのは明らかにおかしいしバカバカしい。それこそ無責任の極致である。

だいたい百年に一人の人間になろうとする人は世の中にはほとんどいない。しかし百年に一人の人間になろうと努力している人に対して外野から非難するのは究極的に卑怯でもある。大谷翔平選手は百年に一人の選手になろうと挑戦しているのである。並みの元プロ野球選手にはそのような事を全く理解できないのかもしれないが、超一流メジャーリーガーのイチロー氏は大谷選手がメジャーに挑戦する時「大谷は打者ではホームラン王を取れる可能性があるし、投手としてはサイヤング賞を取れる可能性がある」と二刀流を後押ししていた。やはり超一流の選手の事は、超一流の選手にしか理解できないのかもしれない。

結果を出すまではバカと言われ続けられるのかもしれない。ならば結果を出せばいいのだ。結果を出してしまえば誰も文句は言わない。僕も今、大きな挑戦をしている。そして結果を出すまではバカと言われ続けることを覚悟している。しかし結果を出すことは僕にとってゴールではない。それは僕の人生、そして研究者としてのスタートであると考えている。結果を出して満足するのではなく、結果を次のさらに大きな結果へと繋げなければならない。そして僕は死ぬまで挑戦し続ける覚悟である。

立ったままの河野太郎氏。腰痛であるとのことだが。

国会の委員会での答弁での事だが、河野太郎氏は答弁を終えても席に戻らず、立ったまま受けると言う場面があった。普通はそのたび席に戻り官僚からのメモを受け取るなりして準備するのだが、立ったまま席に戻らないとなるともちろんそのような事はできない。すなわち河野氏はその場その場で質問に対して即座に考え答えなければならない。今回は腰痛で椅子に座れなかったとのことだが、それはともかくこれにはもちろん政治家自身の資質や才能がもろに現れる。河野氏はそのような場を難なくこなしていた。

以前僕は、「河野太郎氏は信用するに値する政治家だ」と述べた。そして今回の河野氏の答弁を見て、その確信に誤りはなかったと感じた。もちろん河野氏以外の政治家でもそのような受け答えをできる人はいるだろう。しかし様々な事を総合的に考えると、河野太郎氏こそ総理に最もふさわしい人物だと僕は実感している。

僕が今信用している政治家は二人。石破茂氏と河野太郎氏だ。そして現在の立ち位置などを考えると、河野氏こそ首相にふさわしく、また最も首相の座に近い人物ではないかと僕は考えている。河野氏は頭脳だけでなく、海外に対する様々な振る舞いなどを見ても怯むことなく明確に答えを出し対応している。そのような河野氏を見ていると頼もしくも思えてくる。

現在、五輪を開催すべきか中止すべきかと言う事で国内が揺れている。しかしさらに踏み込むと問題は五輪そのものではないと僕は考えている。問題の本質は、様々な決定権を持つ首相がどのように考えどのように結論を出すかだ。しかし現在の無策無能総理のままであれば、五輪を実行しようが中止しようが良くはならないと僕は考えている。なぜなら実行するにしろ中止するにしろ、単に決定すればよいと言う問題ではなく、様々な過程を経て様々な対処をしなければならないからだ。なのでそれを誰がするかと言う事が重要になる。もし河野氏が首相であれば、五輪を実行するにしろ中止するにしろ良い結果をもたらすだろうと僕は考えている。今後、河野太郎氏首相待望論が沸き上がって来る事は間違いないと僕は考えている。

「プロ論」・大坂なおみ選手の発言について考える。

プロテニスプレイヤーの大坂なおみ選手が、試合後のインタビューを拒否すると宣言して物議をかもすことになった。テニスに限らず、確かに様々なインタビューを見ていると的外れな質問も多く、中には選手自身の人格を否定するものも存在する。そのような状況を考えると、大坂なおみ選手のようなトッププレイヤーが訴えかける事は非常に意義がある。しかし、インタビューを完全に拒絶するのは全く違うと僕は考えている。インタビューを受けることもプロ選手にとって試合を行う事と同じくらい重要な事だと思うからだ。それはなぜか?プロ選手がお金を稼げるのは直接的には体を動かしてプレーしているからではない。選手がプレーしている姿を“客やファン”が応援し、それに対してお金を投じているからだ。ファンがテレビを見ていることもスポンサーを通じてお金に変換される。そして一部のスポンサーが選手に多額の契約金を払えるのは、テレビなどに映る自社のロゴや使用している自社製品が広告となるからだ。決してプレーしている行為自体がお金を生み出しているのではない。そう考えると、インタビューも多くのファンが楽しみに注目しているのであり、それもプロとしての立派なプレーの一部と言える。

僕が大学院時代にお世話になった数学者は、当時の僕にとっては意外に思えることを言っていた。それは「自分は数学の研究によってお金をもらっているのではなく、(授業やゼミなどの)教育を行うことによってお金をいただいている」と言うものだ。もしかしたらその数学者の研究力について誤解する人もいるかもしれないので付記するが、その数学者は現在、東京大学の教授になられている世界的な研究者だ。確かに数学の研究で結果を出したところで直接にはお金には結びつかない。そういう意味では、教育によってお金を儲けているとは的を得た発言だ。

もし大坂選手が本当にプレーの技術だけを磨きたいのならば、プロになるのではなく客のいないテニスコートで黙々とプレーするしかない。そうすれば誰も口出しする人もいないし、自分の思い通りにプレーできる。しかしもちろんそれではお金は一円も入ってこない。どれだけ最強であっても、客の前でプレーしなければスポンサーもつかないであろう。すなわち大坂選手の言っていることは、「義務を果たさずに権利だけ主張している」と言える。

そして最後に大坂選手のメンタルについてだが、問題発言後になって、大坂選手がうつ状態だと言う事が言われるようになった。そのことについてはもちろん気の毒であるが、しかしプロ選手にとってメンタル面のスランプが体のケガとは別物だと言う訳ではない。もし大坂選手がうつで不調なのならば、療養などして万全の調子になって戻って来てほしいと願っている。プロの世界でうつだから大目に見てくれるなどと言う事は全くないのである。そこは自分の力で、そして時には他人の力も借りて這い上がって来るしかない。大坂選手は強靭な体を持っており、そして強靭な精神力の持ち主だ。それは大坂選手の実績が示している。ここまでかなり厳しいことを書いてきたが、僕自身も大坂選手の大ファンであり、これからもグランドスラムを制覇するような活躍をすることを強く願っているし、応援もしている。大坂なおみ選手、頑張って!

河野太郎氏は完全に信頼するに値する政治家だ!

一週間ほど前、ワクチン接種推進担当大臣の河野太郎氏は、ワクチン予約の混乱について「完全に僕の失敗だ」と自身の失敗を認める発言をした。この発言を聞いて、僕だけでなく多くの人はこう感じたに違いない。「この人は信頼するに値する人間だ!」。自身の失敗を率直に認め、河野氏はこれからの政策改善に向けて大いに進んでくれるだろう。このような河野氏の姿に対して、どうしてもこの人と対比してしまう。菅氏だ。菅氏は保身に終始して、会見に対してもろくな受け答えができない。そして自身の失敗を一切認めようとせず、責任を全て周りの人間に押し付けようとする。聞こえの良い言葉を発しては、それをどのように実現するか?と言う策に関しては一切ない。そして追い込まれて決めたことに対しては、「誰々が言ったから」と全く無責任な発言をする。本当にこんなにも無策無能の総理は生まれてこの方見たことがない。酷かったと言われる民主党政権下での鳩山・菅(カン)政権でもここまで無責任ではなかった。僕自身、これまでは基本的には自民党政権を支持してきたが、菅政権下での自民党は全く支持できない。

このような事態の中、河野氏の立派な発言を聞いたものだから、河野氏が救世主のようにも見えてくる。これまで僕は石破茂氏を支持していると公言してきたが、これからは河野氏も積極的に支持していこうと思う。人間と言うものは、たった一言の発言に人間性が現れるものだ。河野氏の発言は、国民受けを狙ってのもののようには全く感じない。いや、そのような事を考えるのならばむしろ自身の責任を否定したはずだ。そして例えそれが考えて用意した言葉であるのならば、政治家としては非常にセンスのあるものだと言える。どちらにしろ、自身の責任を率直に認める河野氏の姿勢は、近年の政治家には全くなかったものだ。とは言え、人間性だけで政治ができるわけではない。しかし河野氏は政治政策能力も十分に持ち合わせていると僕は感じている。

安倍首相は政策実行能力は非常に高かったが、森友・加計問題で大きく信用を失った。それは自身の失敗を全く認めようとしない姿勢に由来する。そして菅氏は政策実行能力が全くないうえに、失敗を全く認めない所だけは安倍氏を引き継いでいる。しかしこれまで菅氏を持ち上げて来たマスコミにも責任はある。実家がイチゴ農家だから人柄が信用できるとかさんざん持ち上げて来た。それによって総理就任当初は支持率爆上げであった。しかし僕は、菅氏の総理就任数日後に「菅政権は間違いなく短命に終わる」と言うブログ記事を書いた。それにはしっかりとした根拠がある。それは、菅氏の官房長官時代の仕事ぶりをしっかりと見ていたからだ。しかし多くの人は、菅氏の官房長官時代の仕事ぶりを見て総理もしっかりと務まるだろうと考えたのだろう。しかし僕の結論は全く逆だった。確かに菅氏の官房長官時代の仕事ぶりはまさしく特筆すべきものであった。しかしそこには菅氏の意見や展望が全く見えなかった。官僚の作り上げたシナリオを読み上げるだけだと感じたのだ。確かに二番手ならそれでいい。そして菅氏は有能な二番手だったと言える。しかしトップに立つべき人では全くなかった。トップは指示を出す側の人間であり、全ての最終判断を下さなければならない。しかし菅氏は官房長官時代には、少なくともそのような事をした記憶はなく、そしてそれができるようには到底思えなかったのである。

これまで僕は石破総理を待望していたが、今の石破氏の置かれた立場を見ればそれはかなり厳しいのが現状である。しかし河野氏は現時点で総理を狙える位置にいる。それならば河野氏には次期総理に積極的に挑戦してもらいたい。僕自身も河野太郎総理を待望している。そしてそれの実現化はかなり近い未来にあると僕は考えている。

スマホから便利さを考える。

スマホがますます便利になり、現在ではスマホは社会インフラとまで言われるようになっている。僕自身もスマホをかなり駆使しており、スマホを使いこなしている部類に入ると思う。しかしその一方、「通話とメールだけできればいいのではないか」と思うこともたまにある。実際二十年以上前までは携帯電話さえ普及しておらず、メールなどなくても特に不便だと意識することもなかった。しかし現在は、スマホがないと生きて行けないと感じる人も多いと思われ、スマホは便利さの象徴となっている。

しかし「便利である」と言う事と「良い」と言う事は全く違う概念だ。しかしいつの時代もそうだが、科学技術が発展して便利になることが正義だと捉えられ、技術者たちは特に疑問を抱くこともなく便利さを追求して行っている。しかしITに関して言っても、ネットワークが高度になればなるほどサイバー攻撃なども急速に増え、その対策が急速に重要性を増してきている。そう考えれば、便利さを高めるために開発しているのか?それともサイバー犯罪を防ぐために開発しているのか?もちろん両方とも大事なのだが、技術開発の本来の目的がゆがんできているようにも思える。

ITだけではないが、技術者は「便利な世の中を作るため」と言う正義を掲げて突き進んでいるが、僕にはそれは単に技術者のエゴではないかとも思えてくる。そのような状況は、戦後の核開発にも似ている。もちろん核開発が便利さをもたらすとはほとんどの人は思っていないが、しかし核を開発すれば他国も核を開発し、脅威も増してくる。それはITの発展とサイバー攻撃の高度化にも似ている。

僕が中学生の頃、雑誌で「未来はどうなっているのか?」と言う特集があった。そして友人同士でも「将来の世の中はどうなっているのだろう」と言う会話をすることも少なくなかったように思える。しかし現在「未来はどのような世の中になっているだろう」と言う会話をすることはほぼ皆無であり、雑誌で50年後の世の中を予想するなんて記事も全く見かけない。そもそも現在において、10年後の世の中を想像することも困難である。5年後なら「自動運転車が実用化して・・・」などと言う予想を何とかすることができる。このような状況は果たして正常なのか?異常なのか?そもそも想像もすることもできない10年後の世界が存在するのだろうか?そもそも自分たちが想像もすることができない社会を無批判に作り上げていくことが正しいのか?僕はこのような現在の状況を非常に危惧している。