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東京医科大・女子減点問題。

東京医科大学で、女子受験者に対して減点していたことが問題になっている。言うまでもなく許されるものではないが、ただこの問題を東京医科大だけの固有の問題と捉えればいいのかというと僕はそれは全く違うと考えている。

この女子減点問題は、女性医師に対する処遇をめぐる国全体の問題である。東京医科大が女子受験者を減点していた理由として、女性医師の出産に対する問題と、外科などの労働環境の厳しい診療科を女性医師が避ける問題が挙げられている。これらの問題が現実として日本全体で大きな問題となっている。すなわち、これらの問題を解決するためには、国家が政策として取り上げて動かなければ解決できない問題である。まして東京医科大学一校で解決できる問題ではない。

ではこれらの問題は解決可能であるか?その答えは海外から寄せられている。駐日フィンランド大使館のツイッターによると、フィンランドでは女性医師の割合が57%であると書かれている。すなわち男性医師よりも女性医師の方が数が多いのだ。もしかしたら診療科により男女のばらつきがあるのかもしれないが、もしそのようなことがあるとしても男女それぞれが力が発揮できるところでそれぞれ活躍すればいいだけの話である。日本では女性が外科を避けることが問題になっているが、それなら女性が望む診療科で活躍すればいいだけのことだ。もちろん、外科で活躍したい女性医師がいるのならば、それを拒む理由もない。

今回の問題は国全体の問題であるが、単純に女性を優遇すればいいという話ではない。女性も男性も同じ土俵に上がることが出来るようにすることが求められるのである。もちろん出産という行為は女性にしかできない。そのことに関しては女性に十分な配慮を行う必要がある。そして最も重要な事は、これらの問題は医師の世界だけの問題ではなく、あらゆる業界が抱える日本の根深い問題であるということである。

今の日本に競争心はあるのか?

現在の日本では、競争することはあまりよくないという風潮が見受けられる。「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と言う歌も一昔前に流行った。もちろんそのような考え自体悪いことではないし、過度な競争には不毛な点も多々あることは事実だが、逆に現代の日本はあまりにも競争心がなさすぎるようにも感じる。

数学や物理の研究というと、独創性の世界であって競争の世界ではないと思っている人も多いかもしれない。しかし研究の独創性というものは当たり前であって、わざわざ言葉で「独創性が重要」と言っているようなレベルではスタートラインにも立てていない。研究論文では引用数などの数字で表れる評価もあるので、そういう意味では研究の世界でも競争は避けて通れない。

幼稚園の徒競走では、ゴール地点では皆手をつないで一緒にゴールをするという話を何度か聞いたことがある。幼稚園では“仲良く”ということでそれはそれでいいのかもしれない。しかしそれを何十年も引きずっていたのでは話にならない。

日本ではギラギラとしている人を嫌う風潮がある。そのせいか、ギラギラとした人間があまりにも少なすぎるような気がする。積極的にアクションを起こし、大きな成果を挙げることも重要である。そのような人生のギャンブルを懸ける人はどれだけいるのだろうか?

今、日本の学問における研究レベルの低下が叫ばれている。それを改善するためにはまずは競争の重要性を認識することが必要である。しかし受験テクニックを磨いて一時しのぎするという類のものではない。もっと本質的な所で競争しなければならない。

大学受験時に高木貞治の「解析概論」を読破するという強者はこれから現れるのだろうか?

現代の価値観だけで、歴史を語ってはいけない。

価値観というものは、時代によって変化していくものである。従って、現時点で良いと言われていることが、次の時代で悪と言われることは多々ある。すなわち現代の価値観だけで歴史を見てしまえば、歴史の本質を見誤ってしまうことになる。

太平洋戦争時の事に関しては、戦後ほぼすべての事が悪であると教え込まれてきた。その中でもA級戦犯は今でも極悪人だと思っている人がいる。この“A級”とは本来は“一番悪い”という意味では全くないのにもかかわらず。

さすがに戦国時代の事にもなると、現代の価値観を押し付ける人は少ない。もし現代の価値観だけで評価すれば、織田信長は残虐独裁者となってしまう。

日本人は同調圧力に弱いと言われる。そのうえ、日本の同調圧力はかなりひどいレベルである。このような同調圧力の中で独創的な成果を出そうとすれば、かなりの精神力が必要だ。すなわち独創的な才能があるかどうかということとは違う部分に左右されることになる。

歴史に対する評価も、かなり同調圧力がかかっているように思える。A級戦犯を称賛しようものなら、極悪人だと非難されるだろう。もしそう批難する人がいれば、城山三郎著「落日燃ゆ」を読んでもらいたい。

いつの時代も現在の価値観が正しいものだと教え込まれる。もちろんこれはほぼ同調圧力によるものだが。しかし次の時代には次の時代の同調圧力がかかり、違う価値観に変わってしまう。すなわち一時代の価値観だけで歴史を評価すると見誤ってしまうのだ。

価値観が時代により変遷することを考慮すると、歴史は点ではなく線で見ることが必要である。そしてこのような大局的な視点で物事を見ることは、何に対しても非常に重要な事であることがわかる。

子供は誰のために産むの?

今、自民党議員のLGBT(性的少数者)に対する発言が問題になっている。LGBTの人たちは子供を産まないので生産性がない、という趣旨の発言だ。

もちろん、政治家が出生率の低さを問題にし、出生率を上げるために子育て支援などに力をいれるという政策を議論するのは大いに納得するし、そのような前向きな政策はどんどん進めてほしいと思う。しかしある特定の人たちを指し、「あなたたちは子供を産まないから国家に貢献していない」と発言するのは、間違っているということを通り越し危険性さえ感じる。

そもそも何のために子供を産むのか?その思いは様々であるだろうが、国家のために子供を産むという人は現代日本ではまずいないだろう。国家の生産性を上げるために子供を産むなどという思想は、戦前の日本の体制に通じるような危険性を感じる。

子供たちは日本の将来を担っているが、決して国家のピースではない。子供を国家の駒などと考えるような国に輝きも自由も感じないし、輝ける将来の大人である今の子供たちは、そんな国を見放していくであろう。

数学の重要性、英語の重要性。

早稲田大学政治経済学部は、2021年度の入試から数学を必ず課すという。これまで私立文系の入試というと、国・英・社の三教科入試が主流であったが、早稲田政経の数学必修化は何を意味するのだろうか?

文系学問に数学は必要ないという考えは根強くある。しかし直接的にせよ間接的にせよ、文系学問でも数学あるいは数学的思考が必要なものは多くある。経済学部では数学は欠かせない道具であり、数学なしでは経済学は成り立たない。そして哲学ではその論理構造は数学そのものと言ってよい。政治においても統計的解釈を必要とすることは多々あり、統計学、すなわち数学は全く無視できない。

数学を無視するということは、有力な武器を自ら捨てるということである。これは海外へ旅行に行くのに英語を無視することと同じである。今や日本国内にいても外国人と接する機会は多々あり、日本人同士の会話においても英語に関する話題は頻繁に出てくる。

英語と同じように、数学も現代社会に広く根付いている。コンピューター社会となった今、それらを制御するプログラミングは数学そのものであるし、日常生活において何か計画を立てるとき、それらに対する論理的思考の原点は数学にある。

2021年の早稲田政経の入試の数学必修化は、社会に対する数学の重要性を訴える一石になるものだと思う。英語の重要性は皆が認識しているのに、数学の重要性に対する認識はまだまだ甘い。これからは数学の重要性を明確に可視化していくことが求められる。

安倍氏、石破氏の自民二強体制。

現在の自民党、そして日本の政界は完全に安倍一強体制になっている。そして独裁とは言わないまでも、政界の論理はほぼ安倍氏の論理で動いている。僕自身、安倍氏にはこれまでそんなにネガティブな思いは持っていなかったが、現在の安倍首相の論理は客観的に見てかなりおかしい部分が散見される。

僕は以前から石破かぶれと言い放ち、石破茂氏に対してかなり期待を持っている。石破氏の防衛に関する著書も以前読んだりもした。なぜそこまで石破氏に期待するかというと、石破氏の防衛を中心とした深い見識と、その人柄にある。石破氏はかなり慎重に物事を進めるタイプだ。もちろん安倍氏の積極的な行動力も魅力だが、石破氏がもし首相になれば慎重ながらも動くべきところはしっかりと動くだろうと考えて良い。

次期自民党総裁選での安倍氏の圧倒的優位は現在のところ揺るがないが、このまま安倍氏が三選することには危機感を感じるのも事実だ。やはり総裁二期までという制限は大きな意味を持っていたと強く感じる。

理想としては、安倍氏と石破氏が自民党内で争い、お互いをけん制できるような体制にすべきではないかと思う。もちろん、石破氏以外の人物がそれに割って入ってもよい。そういう意味で、このまま安倍首相の三選に突入するのはあまりにも危険すぎる。三選を果たし長期政権を確立してしまえば、誰が安倍首相に苦言を呈することができるのか?自民党内はほぼ安倍氏のイエスマンになってしまうだろう。

9月の自民党総裁選まで短いながらもまだ時間はある。現状を変えるには政局だけに期待するのは少し無理があるだろう。従って国民の大きな声が必要になる。安倍首相を支持するのならそれはそれでいいとは思うが、もし安倍氏三選に危機感を感じているのならば、国民自らが声を上げるしかない。大きな機運も一人一人の声から成り立っていることを忘れてはならない。

学問の自由。

僕は最近、自由という言葉にこだわっている。まずは徹底的に自由になることが大事だと考えているからだ。

自由には大きく二つあると考えている。一つは行動の自由。そしてもう一つは精神の自由だ。行動の自由については非常に分かりやすい。一方、精神の自由とは非常に分かりにくいかもしれない。なぜなら精神の自由は外から見えるものではないし、明確に言葉にできるものでもないからだ。

しかし学問をするに当たって、精神が自由であることは非常に重要である。特に非常に自由な学問である数学をするにあたっては、精神が自由であることは必須であると言える。精神が凝り固まっている人間には数学をすることはできないし、物理学においても重要な発見はできない。

もちろん、数学や物理学だけではない。哲学などの人文科学でもそうであろうし、学問の垣根を超える学際的な分野を発展させるのにも自由な発想は不可欠だ。

しかし現在の日本の教育システムは凝り固まっている。特にマークシートの穴埋めにより能力を区別する現在のシステムはその最たるものだ。もちろん、30年くらい前と比べると現在のシステムは良くなっているところはあるかもしれない。しかし現在の教育システムは、人間の才能、意欲、行動力、発想力を正確に評価できていない。

日本は何人ものノーベル賞学者を輩出してきた。しかしその多くは日本の教育システムにノーを突きつけた人だ。ノーを突きつけた時は異端者と排除し、実績を出せばそれが最初に評価されるのは海外であり、そのあとにそれは日本の実績だと言い出す。あまりにも都合が良すぎるのではないか?

日本の教育システムの致命的な部分は、自由がないということだ。日本の教育の中で独創性を発揮できるところがあまりにも少なすぎる。しかも、自由や独創性を養うと謳っているところも、現実はシステム化され凝り固まっている。

教育の中での自由もそうであるが、現在の世の中は行動の自由を次々と束縛していき、精神の自由までも脅かしているように思える。一見自由に見えるのは「檻の中の自由」である。

数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞は、1990年に森重文博士が受賞してから出ていない。その理由は簡単だ。フィールズ賞には40歳以下という年齢制限があるからだ。すなわち、年齢制限のないノーベル賞よりも早く社会システムの影響を受ける。

もちろん、4年に一回開かれる今年の国際数学者会議で、日本人数学者がフィールズ賞を受賞するかもしれない。しかし受賞者が出たからと言って手放しで喜んでいいとは思わない。これからの日本の科学界に対する僕の展望は決して明るくないし、僕に限らず多くの日本人研究者がそう思っているものだと思われる。

やまゆり園事件から2年、断じて許せないもの。

知的障がい者施設、津久井やまゆり園での殺傷事件から26日で2年が経った。戦後、国内では経験したことのないような殺傷事件は、日本国民に何を問いかけたのだろうか?

まず初めに、言うまでもないがこの事件は断じて許されないものである。犯人の植松被告に対しては厳格な判決が求められる。

しかしその一方、植松被告の主張に賛同する一部の日本人がいるともよく聞く。その理由は次のようなものである。

意志疎通のできない知的障がい者は世の中で生きている意味がない。

と。

植松被告は「心失者」という言葉を使っているらしい。植松被告がどのような意図を持って心失者という言葉を使っているのかわからないが、その字から推測すると、心、すなわち意志がないと言う意味だろうかと思う。しかし本当に知的障がい者には心がないのだろうか?

僕は、意志疎通ができないというのは心がないということとは全く異なると思っている。意思疎通ができないというのは意志を表現できないということであって、意志がないという意味ではない。意思疎通困難者の中には内に秘める心、すなわち意志が必ず存在するのだと思う。

全く話は違うが、先日亡くなった理論物理学者のホーキング博士は、現代のコンピューターによる補助がなければ意思疎通が困難だったと言える。実際はコンピューターを使って縦横無尽にコミュニケーションを取っていたのであるが、そんなホーキング博士を意志がないとは誰も言わない。それどころか健常者以上の意志と思想を持っている。

意志疎通困難とは見かけだけの話であって、それを意志がないということは人間性を正しく判断していない。しかし植松被告の主張は、一般日本人が持つ偏見に対して一石を投じるものであると思う。実際に植松被告の主張に賛同する者は一部とはいえ存在する。さらに表だって賛同するわけではないが、偏見を持っている人はそれ以上いるのかもしれない。

しかしこれ以上そのような偏見を蔓延させることは許してはならない。植松被告の主張を綿密に分析し、それを偏見の解消へと変えることが強く求められていると言えよう。

物事を額面通りに受け取ることも大切だ。

物事を深く考えることは非常に大切だ。しかしそれは、裏を考えることではない。裏を考えることによって知った気分になるのは間違っていることが多く、時には額面通り受け取ることも大事なのだ。

しかしこれがなかなかできるものではない。何か直面すると、すぐにその裏を推測してしまうのだ。額面通り受け取れるかどうかということは、寛容な内面を持っているかどうかということに関わっている。寛容な内面が欠けているとどうしても裏を推測したくなってしまう。

もちろん、裏を推測することも大事なことはよくある。政治に関しては裏の取り合いでもあるし、詐欺に対しての対処は裏を推測することが重要になる。

しかし裏を考えすぎるが故に、物事の本質を見逃すことも多い。額面というものは一次情報である。まずは一次情報を基に物事を深く考えることが重要である。その一次情報に関して矛盾が出てくれば、そこから裏を考えればいいのである。一次情報を無視して初めから裏を考えるのは、全部とまでは言わないまでも多くの場合誤った結論を導いてしまうことになる。

しかし本当に大事なのは、額面か?裏か?ではなく、本質はどこにあるかということである。そのためには得られた情報をフルに活用しなければならない。そして時には仮定も必要であろう。しかし全てに共通するのは、繰り返しになるが「深く考える」ということである。

早寝早起きは絶対的な善なのか?

学校でも社会でも、そしてメディアでも、早寝早起きは絶対的な善であると主張されている。それは昔も今もほぼ同じだ。しかし最近それが絶対的に良いという訳ではないという記事をちらほら見かけるようになった。それは思想的な話ではなく、医学的な研究に基づくものだ。このようなことが科学的根拠を持って主張されることは喜ばしい限りだ。

僕自身は遅寝超遅起きの典型的な夜型人間。そして超ロングスリーパーだ。このような僕みたいな人間にとって、早寝早起き絶対主義の社会は非常に苦しいものである。夜型人間は夜に仕事をするというような自由も与えてもらいたいものである。

医学的研究に基づいた記事によると、体内時計の違いにより朝型と夜型に分かれ、朝型人間が夜に弱いのに対して夜型人間は夜に圧倒的に強いということになるという。(2017年のノーベル医学・生理学賞は、このような体内時計に関する研究に対して与えられている。)夜型人間は夜に最大限のパフォーマンスを発揮する。それらの事については僕自身の経験からほぼ間違いないと思っている。

最近、フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)数学者の広中平祐氏の著書を立ち読みした。それによると広中氏は夜中に研究をし、朝の5時頃に寝るということが書かれていた。広中氏のように、夜にパフォーマンスを発揮する人間を無理やり朝型にし、パフォーマンスを落とすようなことは、社会としても非常にもったいないと思うし、夜型人間にとっても非常に生きにくい世の中だ。

ただ社会というものは、ほとんどの事が朝型人間に合わせられている。朝型人間が夜早くに寝ることをとがめる人はいない。それどころか早寝は称賛されてさえいる。

ただ朝に弱く夜に強いだけで、そして夜に最大のパフォーマンスを出すというだけで徹底的に叩かれる世の中は、我々のような夜型人間には本当に生きづらいものである。