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仕事や夢に対するお金の使い道。ヒカキンさんが良い言葉を言っていた。

僕が毎日楽しみにしているのが、YouTube動画「釣りよかでしょう」だ。そして毎日楽しみにしている「釣りよか」動画を観ていた時、「Hikakin TV」の160万円のフルスペックiMacProを買ったという動画のリンクがあった(2018/02/09公開の動画)。以前からiMacProのフルスペックPCには興味があったので、ワクワクしながら観ることにした。

ちなみに、フルスペックiMacProは、CPUが18コアで、メインメモリがなんと128GB(念のために、これはストレージの容量ではない!)。ストレージは4TBのSSDである。

ヒカキンさんの話に戻るが、ヒカキンさんは動画の中で、なぜ160万円もする超高性能パソコンを買ったかということを語っていたが、その中で非常に良い言葉を語っていた。それは、

「自分の夢や仕事に関するものは、その時自分が買える1番良い物を妥協せず買ってきた」

ということだ。さらに、

「本気で目指している夢だったら、全財産はたいても買うべき」

とも言っている。これらのヒカキンさんの言葉には、非常に同感である。僕もそんなに高額なものではないが、今目指していることに必要な専門書などに対しては、どんなに高額でも投資している。専門書は書籍と言っても非常に高いものもあり、一冊数万円するものもある。しかし少しでも必要だと感じた専門書は、即決で投資している。おかげで、専門書エンゲル係数(なんて言葉があるかどうかはわからないが)は非常に高い。

現在の百円は数年後の何千万円に化けると僕は思っている。さらにお金では買えないような経験も得られると思っている。僕が言うより、ヒカキンさんの動画を直接見た方が説得力があるかもしれないので、ヒカキンさんのこの回の動画はぜひ探してみてほしいと思う。この回の動画ではヒカキンさんは色々と良いことを言っている。

思いっきり投資した後は、それを成果へと化けさせるために全力だ!

サッカー日本代表に対する、僕の独断と偏見。

18日、サッカーの日本代表27人が発表された。まだW杯への最終選考ではないが、ハリルホジッチ前監督から西野監督に代わり、少し思うところがあるのでブログで書くことにした。初めに僕はサッカーに関して素人であることを断っておく。

日本代表前監督であるハリルホジッチ氏が解任された時、僕は非常に複雑な気持ちであった。別にハリルホジッチ氏のファンであったわけではないが、解任への経緯がどうしても納得できなかった。

W杯出場が決まり、W杯本番までのこの時期の試合は、野球で言えばオープン戦、言葉を変えれば練習試合である。その練習試合での敗戦を理由に監督を変えるという行為は非常にナンセンスだ。もちろん理由はそれだけではないだろうが、どう考えてもこの時期での監督解任は早計だとしか思えない。

僕の独断と偏見では、ハリルホジッチ氏は危ない橋を渡っていたように思える。W杯であわよくば4強、しかし悪ければグループステージで敗退。それくらいの覚悟があったのではないか。それに対して、西野監督は確実に16強を狙いに来たのではと思える。

もちろん、現実はどうなるかわからない。西野監督のもとで4強まで来る可能性もゼロではない。しかしハリルホジッチ氏は本気で4強を狙いに行っていたように思える。

本田、香川、岡崎のビックスリーを選んだことは非常に順当で、日本人受けする選出でもある。しかしあまりにも順当すぎる。新しい発見がない。

素人である僕の独断と偏見を並べてみたが、僕の勝手な予想が外れてW杯本番で勝ち上がってくれることを祈る。

究極の動物虐待は家畜だ。

最近は動物愛護団体などというものがあり、何かと動物虐待のニュースが取り上げられている。僕自身、動物を大切にすることは賛成であるし、無駄な動物虐待は無くさなければならないと思っている。

しかし最近は動物愛護の限度が行き過ぎているようにも思える。例えば以前、和歌山のイルカ漁に対して、イルカに対する虐待だと非難する声が海外で上がった。イルカは確かに普通の魚に比べると知能は高いであろう。そもそもイルカは魚類ではなく哺乳類である。

牛も豚も哺乳類である。しかし食肉用の牛や豚は家畜として育てられている。家畜とは極論を言えば飼い殺しである。要は我々、牛肉や豚肉を食べるときは牛や豚の命に感謝しなければならないということである。牛肉・豚肉を食べなくても生きることはできるが、生き物を食べる行為は自然の摂理である。

それと同時に、人間が特定の動物を食べるということは、その国、その地域の文化でもある。ヨーロッパ人がフォアグラを食べるように、日本人がイルカやクジラを食べるということである。考えようによってはフォアグラの方がよっぽど残酷である。

タイトルで「究極の動物虐待は家畜だ」と書いたが、家畜も人間の文化であり、自然な行為なのである。イルカ漁を非難する人たちは、(おそらく)家畜の牛肉を食べている。人間以外の動物だって、他の生き物を食べて生きている。動物は他の命を食べて生きているのである。

普段はあまり意識することはないが、たまに意識した時は、食する命に対して感謝しよう。

無駄な情報を頭に入れないということも大事。

近年、情報社会が発達する中で、いかに多くの情報を手に入れるかということが重要になってきている。特にビッグデータ産業においては膨大な情報を手に入れ解析することが重要である。

しかし人間が生きて行く中で、一人の人間がインプットできる情報量は限られている。その中でいかに必要かつ重要な情報をインプットするかということが問われてくる。それと同時に、いかに害悪な情報を頭に入れないかということも非常に重要である。

害悪な情報を頭に入れたがために、身動きが取れなくなってしまうことがある。本来は手に入れる情報は、身動きの自由度を高めるべきものでなければならない。

情報は自分の身を置いている環境に基づいて、ある程度は勝手に入ってくる。そしてそれ以上の情報は自分から乗り込んで手に入れることになる。厄介なのは、勝手に入ってくる情報の中に害悪な情報が結構混じっていることだ。なので、そのような情報をシャットアウトするための意識を持たなければならない。

情報量で勝負することは、コンピューターに任せておけばよい。一人の人間としては、いかに質の良い情報を手に入れるかということであって、同時にいかに害悪な情報を締め出すかということである。そのためにロジカルで正しい判断力を付けることが求められる。

データは助けにはなるけれど、全てではない!

近年、非常に高度な情報社会になってきたが、それと同時に起こっているのがデータ万能主義だ。データは確かに大きな力にはなる。だからと言ってデータに溺れてはいけない。データは助けにはなるけれど、全てではないのだ。

近年、ビッグデータが非常に注目を浴び、データサイエンティストの活躍が注目を浴びている。しかしこのような情報社会下でも、独創的な仕事を中心とした世界ではデータだけではどうにもならない発想が重要だ。

例えば単純作業や、多くのデータを解析することによって成り立つ世界では、すでに人間は太刀打ちできない。だからこそ、人間はコンピューターが活躍するところとは別世界で勝負せざるを得ない。

自分はどこで勝負すべきか?現在の状況ではなく、十年後、二十年後を見据えて勝負を懸けることが重要になってくる。

南北朝鮮、和解か?

27日、北朝鮮・金正恩氏と韓国・文在寅氏による南北首脳会談が開かれ、非常に融和的な結果をもたらした。休戦協定は平和協定に転換することで合意し、朝鮮半島の非核化も明言された。これらの文言だけを聞くと非常に実りのある会談であったように思える。しかし問題もないわけではない。

一番の懸念は、非核化へのプロセスが全く明示されていないことだ。非核化へどのように進んで行くか?このことを具体的に明示しない限りは、再び反故にされる可能性もある。

とは言え、今回の金正恩氏と文在寅氏の行動はリスペクトに値する。今回の会談を「パフォーマンスだ」と非難する人がいるが、僕は非常に重要なパフォーマンスであったと思う。そして何よりも、金氏、文氏の命を懸けた会談(大げさでなく)であったと思う。二人が板門店で会うという行為自体、命を懸けたものであり、二人の覚悟は非常に伝わってくる。

今後、南北朝鮮は東西ドイツがたどった道をたどれるのか?非常に注目されるところである。

数値は絶対だが、解釈はあいまいだ。

例えば、健康診断では様々な数値がはじき出されるが、その数値をもって健康かどうかを判断する基準はあいまいだ。たしかに数値自体は絶対的で間違いないのだろうが・・・。

健康診断以外でも、原発事故による放射線物質汚染に対する基準、タバコの害に対する基準、どちらも数値は(おそらく)厳密に出てくる。しかしそれに対する解釈は人間の主観による部分も大きい。

たしかに全ての害悪に対する数値がゼロであれば、何の心配もないし、スッキリするかもしれない。しかし何に対してもゼロという数値はまずありえない。例えば放射線物質に関しては微量ながら自然界にも存在するわけであるし、(個人的にはタバコは大嫌いなので、なくなってほしいが)わずかなタバコの煙よりも害悪を与える自然要因はいくらでもある。

全ての害に関して、完全にゼロにすることは原理的に不可能であり(タバコはただ無くせばいいだけかもしれないが)、仮にできたとしても膨大なコストがかかる。そのコストを他の要因の低減に回した方がはるかにコスト対効果は高い。

害を容認するわけでは全くないが、一つの要因だけに注目するのではなく、あらゆる要因を総合的に判断する大局的な視点が大事である。

ファンキーなホンダ・モンキー125cc。

ホンダの人気原付バイク「モンキー」の125cc版が、今年7月に発売されるという記事を見た。もともとモンキーは50ccのバイクであったが、規制とか何とかで発売が中止され、125ccとして生まれ変わるみたいだ。

モンキーは実にファンキーなバイクだ。人間で言えば、久保田利伸とかルパン三世が似合いそうだ。ルパン三世はチンクエチェント(FIAT500)という車に乗っていたが、もしルパンがバイクに乗っていたら間違いなくモンキーであろう。ちなみに僕は大学時代まで、久保田利伸に似ていると言われていた。

僕はファンキーなことが大好きだ。ブログでは毎日、少し真面目な記事を書いているが、根はファンキーである。いや、ファンキーでありたいと思っている。ルパンみたいになりたいと思っている。

今年の7月にモンキーが発売されると知って、本気でモンキーが欲しくなった。(僕は中型二輪の免許を持っており、昔はホンダ・NSR250という凄く速いバイクに乗っていた。)モンキーに乗ってファンキー道を極めるのも面白いかもしれない。

オフレコ。

現在、財務事務次官のセクハラ問題に関して、「オフレコ」が話題になっている。ある記事では、今回の女性記者の情報提供について、オフレコ規則を破る自殺行為だとも言っている。はたしてそうだろうか?

オフレコとは、政治・経済関連の機密事項、及び発信者の秘密を目的としたものだ。今回の次官と女性記者のやり取りはオフレコだったということだが、そもそもセクハラ発言に関してオフレコにする必要は全くないし、セクハラをオフレコとするならば、それはオフレコを盾とする隠匿以外の何物でもない。

確かにオフレコを守ることは非常に重要である。時には国家機密に関するものもあるだろう。それらに関してオフレコを破っていたのでは国益に関わることもあり、また取材そのものも成立しない。

しかし今回のセクハラ騒動は、オフレコを守るべきものでもなんでもないし、オフレコとは全く次元の異なる事案でもある。こんなことをいちいち書かざるを得ないのも非常に次元の低い話であるが。

安倍強権政治の副作用。

18日、セクハラ疑惑の財務事務次官の辞任が決まった。財務次官のセクハラ疑惑に関しては誰が見ても弁解の余地がないものであり、次官、そして財務省・政府の見解は非常に首をかしげるものばかりだ。

今回の疑惑をはじめ、政府周辺では最近、立て続けに疑惑・騒動が起きている。これらの疑惑に関しては様々な原因があるだろうが、その中の大きな理由に安倍政権があまりにも強くなりすぎたということがあるだろう。

強い政府は何も悪いことばかりではない。特に対外的には政府が強いことはポジティブな面も強く、強い政府・安倍一強だからこそ成すことができたことも少なくはない。僕自身も、安倍首相本人に対してはそんなに否定的には思っていない。

しかし現在、安倍首相はあまりにも強くなりすぎてしまった。おそらく安倍首相周辺はイエスマンの集団になり、そして安倍首相側の人間は安倍首相を盾にして一方的な解釈をしている。僕にはそう思える。

このような、官僚などの安倍首相周辺の状況を見ると、安倍政権もそろそろ潮時ではないのかと感じる。新しいトップのもとに、政府周辺の意識を改革することが求められる。