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安倍氏、石破氏の自民二強体制。

現在の自民党、そして日本の政界は完全に安倍一強体制になっている。そして独裁とは言わないまでも、政界の論理はほぼ安倍氏の論理で動いている。僕自身、安倍氏にはこれまでそんなにネガティブな思いは持っていなかったが、現在の安倍首相の論理は客観的に見てかなりおかしい部分が散見される。

僕は以前から石破かぶれと言い放ち、石破茂氏に対してかなり期待を持っている。石破氏の防衛に関する著書も以前読んだりもした。なぜそこまで石破氏に期待するかというと、石破氏の防衛を中心とした深い見識と、その人柄にある。石破氏はかなり慎重に物事を進めるタイプだ。もちろん安倍氏の積極的な行動力も魅力だが、石破氏がもし首相になれば慎重ながらも動くべきところはしっかりと動くだろうと考えて良い。

次期自民党総裁選での安倍氏の圧倒的優位は現在のところ揺るがないが、このまま安倍氏が三選することには危機感を感じるのも事実だ。やはり総裁二期までという制限は大きな意味を持っていたと強く感じる。

理想としては、安倍氏と石破氏が自民党内で争い、お互いをけん制できるような体制にすべきではないかと思う。もちろん、石破氏以外の人物がそれに割って入ってもよい。そういう意味で、このまま安倍首相の三選に突入するのはあまりにも危険すぎる。三選を果たし長期政権を確立してしまえば、誰が安倍首相に苦言を呈することができるのか?自民党内はほぼ安倍氏のイエスマンになってしまうだろう。

9月の自民党総裁選まで短いながらもまだ時間はある。現状を変えるには政局だけに期待するのは少し無理があるだろう。従って国民の大きな声が必要になる。安倍首相を支持するのならそれはそれでいいとは思うが、もし安倍氏三選に危機感を感じているのならば、国民自らが声を上げるしかない。大きな機運も一人一人の声から成り立っていることを忘れてはならない。

学問の自由。

僕は最近、自由という言葉にこだわっている。まずは徹底的に自由になることが大事だと考えているからだ。

自由には大きく二つあると考えている。一つは行動の自由。そしてもう一つは精神の自由だ。行動の自由については非常に分かりやすい。一方、精神の自由とは非常に分かりにくいかもしれない。なぜなら精神の自由は外から見えるものではないし、明確に言葉にできるものでもないからだ。

しかし学問をするに当たって、精神が自由であることは非常に重要である。特に非常に自由な学問である数学をするにあたっては、精神が自由であることは必須であると言える。精神が凝り固まっている人間には数学をすることはできないし、物理学においても重要な発見はできない。

もちろん、数学や物理学だけではない。哲学などの人文科学でもそうであろうし、学問の垣根を超える学際的な分野を発展させるのにも自由な発想は不可欠だ。

しかし現在の日本の教育システムは凝り固まっている。特にマークシートの穴埋めにより能力を区別する現在のシステムはその最たるものだ。もちろん、30年くらい前と比べると現在のシステムは良くなっているところはあるかもしれない。しかし現在の教育システムは、人間の才能、意欲、行動力、発想力を正確に評価できていない。

日本は何人ものノーベル賞学者を輩出してきた。しかしその多くは日本の教育システムにノーを突きつけた人だ。ノーを突きつけた時は異端者と排除し、実績を出せばそれが最初に評価されるのは海外であり、そのあとにそれは日本の実績だと言い出す。あまりにも都合が良すぎるのではないか?

日本の教育システムの致命的な部分は、自由がないということだ。日本の教育の中で独創性を発揮できるところがあまりにも少なすぎる。しかも、自由や独創性を養うと謳っているところも、現実はシステム化され凝り固まっている。

教育の中での自由もそうであるが、現在の世の中は行動の自由を次々と束縛していき、精神の自由までも脅かしているように思える。一見自由に見えるのは「檻の中の自由」である。

数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞は、1990年に森重文博士が受賞してから出ていない。その理由は簡単だ。フィールズ賞には40歳以下という年齢制限があるからだ。すなわち、年齢制限のないノーベル賞よりも早く社会システムの影響を受ける。

もちろん、4年に一回開かれる今年の国際数学者会議で、日本人数学者がフィールズ賞を受賞するかもしれない。しかし受賞者が出たからと言って手放しで喜んでいいとは思わない。これからの日本の科学界に対する僕の展望は決して明るくないし、僕に限らず多くの日本人研究者がそう思っているものだと思われる。

やまゆり園事件から2年、断じて許せないもの。

知的障がい者施設、津久井やまゆり園での殺傷事件から26日で2年が経った。戦後、国内では経験したことのないような殺傷事件は、日本国民に何を問いかけたのだろうか?

まず初めに、言うまでもないがこの事件は断じて許されないものである。犯人の植松被告に対しては厳格な判決が求められる。

しかしその一方、植松被告の主張に賛同する一部の日本人がいるともよく聞く。その理由は次のようなものである。

意志疎通のできない知的障がい者は世の中で生きている意味がない。

と。

植松被告は「心失者」という言葉を使っているらしい。植松被告がどのような意図を持って心失者という言葉を使っているのかわからないが、その字から推測すると、心、すなわち意志がないと言う意味だろうかと思う。しかし本当に知的障がい者には心がないのだろうか?

僕は、意志疎通ができないというのは心がないということとは全く異なると思っている。意思疎通ができないというのは意志を表現できないということであって、意志がないという意味ではない。意思疎通困難者の中には内に秘める心、すなわち意志が必ず存在するのだと思う。

全く話は違うが、先日亡くなった理論物理学者のホーキング博士は、現代のコンピューターによる補助がなければ意思疎通が困難だったと言える。実際はコンピューターを使って縦横無尽にコミュニケーションを取っていたのであるが、そんなホーキング博士を意志がないとは誰も言わない。それどころか健常者以上の意志と思想を持っている。

意志疎通困難とは見かけだけの話であって、それを意志がないということは人間性を正しく判断していない。しかし植松被告の主張は、一般日本人が持つ偏見に対して一石を投じるものであると思う。実際に植松被告の主張に賛同する者は一部とはいえ存在する。さらに表だって賛同するわけではないが、偏見を持っている人はそれ以上いるのかもしれない。

しかしこれ以上そのような偏見を蔓延させることは許してはならない。植松被告の主張を綿密に分析し、それを偏見の解消へと変えることが強く求められていると言えよう。

物事を額面通りに受け取ることも大切だ。

物事を深く考えることは非常に大切だ。しかしそれは、裏を考えることではない。裏を考えることによって知った気分になるのは間違っていることが多く、時には額面通り受け取ることも大事なのだ。

しかしこれがなかなかできるものではない。何か直面すると、すぐにその裏を推測してしまうのだ。額面通り受け取れるかどうかということは、寛容な内面を持っているかどうかということに関わっている。寛容な内面が欠けているとどうしても裏を推測したくなってしまう。

もちろん、裏を推測することも大事なことはよくある。政治に関しては裏の取り合いでもあるし、詐欺に対しての対処は裏を推測することが重要になる。

しかし裏を考えすぎるが故に、物事の本質を見逃すことも多い。額面というものは一次情報である。まずは一次情報を基に物事を深く考えることが重要である。その一次情報に関して矛盾が出てくれば、そこから裏を考えればいいのである。一次情報を無視して初めから裏を考えるのは、全部とまでは言わないまでも多くの場合誤った結論を導いてしまうことになる。

しかし本当に大事なのは、額面か?裏か?ではなく、本質はどこにあるかということである。そのためには得られた情報をフルに活用しなければならない。そして時には仮定も必要であろう。しかし全てに共通するのは、繰り返しになるが「深く考える」ということである。

早寝早起きは絶対的な善なのか?

学校でも社会でも、そしてメディアでも、早寝早起きは絶対的な善であると主張されている。それは昔も今もほぼ同じだ。しかし最近それが絶対的に良いという訳ではないという記事をちらほら見かけるようになった。それは思想的な話ではなく、医学的な研究に基づくものだ。このようなことが科学的根拠を持って主張されることは喜ばしい限りだ。

僕自身は遅寝超遅起きの典型的な夜型人間。そして超ロングスリーパーだ。このような僕みたいな人間にとって、早寝早起き絶対主義の社会は非常に苦しいものである。夜型人間は夜に仕事をするというような自由も与えてもらいたいものである。

医学的研究に基づいた記事によると、体内時計の違いにより朝型と夜型に分かれ、朝型人間が夜に弱いのに対して夜型人間は夜に圧倒的に強いということになるという。(2017年のノーベル医学・生理学賞は、このような体内時計に関する研究に対して与えられている。)夜型人間は夜に最大限のパフォーマンスを発揮する。それらの事については僕自身の経験からほぼ間違いないと思っている。

最近、フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)数学者の広中平祐氏の著書を立ち読みした。それによると広中氏は夜中に研究をし、朝の5時頃に寝るということが書かれていた。広中氏のように、夜にパフォーマンスを発揮する人間を無理やり朝型にし、パフォーマンスを落とすようなことは、社会としても非常にもったいないと思うし、夜型人間にとっても非常に生きにくい世の中だ。

ただ社会というものは、ほとんどの事が朝型人間に合わせられている。朝型人間が夜早くに寝ることをとがめる人はいない。それどころか早寝は称賛されてさえいる。

ただ朝に弱く夜に強いだけで、そして夜に最大のパフォーマンスを出すというだけで徹底的に叩かれる世の中は、我々のような夜型人間には本当に生きづらいものである。

自分を汚していこう!

何事も綺麗な方が見栄えがいいし、汚れたものより綺麗なものの方が気持ちいい。

しかし綺麗なものと汚れているもののどちらが強いかと言えば、多くの場合、汚れているものの方が強い。それは人間にも言えることだ。綺麗なガラスのような人間よりも、泥にまみれている人間の方が圧倒的に強い。

僕は今、自分を徹底的に汚そうということに取り組んでいる。何に対して汚れるかということに関してはいろいろあるが、精神的な汚れから潔癖に対する汚れまでいろいろとある。

人間の活動というものは、グレーゾーンで行われる。そのグレーゾーンを切り抜けるのは綺麗な人間か?汚れている人間か?と問われれば、圧倒的に汚れている人間だと思う。あらゆるものに対して潔癖であることに、良いことはほとんどない。汚れに対する耐性が人間を強くするのである。

日本のトップである歴代の総理大臣を見ても、大物と言われる総理は総じて汚いと言われた人間だ。もちろん悪いことを肯定する気はないが、田中角栄氏をはじめ、汚れに対する耐性がある人間が大物と言われる存在になるように思える。

必ずしも潔癖であることが善であるわけではなく、現実に染まり大いに汚れることが人間を強くするように思える。

次世代社会を理解するために。

次世代社会を見通すためには何をしなければならないか?

今日、ある記事を読んだ。それはビットコインをはじめとする仮想通貨に関しての記事だ。しかし仮想通貨で儲けようという記事では全くない。次世代への仮想通貨の可能性、そして仮想通貨における信用性に関する記事だ。

僕はこれまで仮想通貨に関して「怪しい物」というくらいの認識しかもっていなかった。何しろ普段目にする仮想通貨に関してのニュースは、金儲けの投機対象としてのニュース記事ばかりだ。そんな記事しか見ていないと、正確な理解ができるわけがない。

しかし仮想通貨はITでもあり、信用の塊でもある。そしてそれらが次世代社会においてどのような役割を果たし、どれだけの人を救えるのか?そのような観点で書かれた記事はほぼ皆無に等しい。

しかしそのような観点で仮想通貨を見た時、知らないでは済まされないことに気が付いた。もちろん、現段階では仮想通貨に関する僕の理解は全くないと言ってよい。

では仮想通貨を理解するためにはどうすればよいか?それには二つの事が必要である。一つはブロックチェーンなどの仮想通貨の技術的側面を理解すること。そしてもう一つは実際に仮想通貨を所持して仮想通貨の可能性を実感することだ。

ある程度歳を取った人たちは、仮想通貨などの新しいシステムに飛び込むのは躊躇するかもしれない。もちろん金儲けなどのわかりやすい理由があれば別だが。しかし現代の若者たちはそれらの人とは違う世界を仮想通貨に見ているのかもしれない。それに対して、金儲けという側面だけしか見れない大人たちは非常に情けないと言える。しかし、現在のメディアを牛耳っているのが年寄であるのならば、そのような観点ばかりのニュースになるのも無理はない。

僕自身も、仮想通貨の未来がどうなるかは今は全く想像できない。しかしそこには社会を変革するくらいの大きな可能性があるのかもしれない。

プロスポーツ選手から活力をもらう。

テニスの錦織圭選手がウィンブルドンで8強に入った。途中までは僅差のゲームが続いたが、最後は錦織選手が圧倒的な力の差を見せつけた。

錦織選手に限ったことではないが、日本人プロスポーツ選手の活躍からはいつも活力を与えられる。最近ではサッカー日本代表、メジャーリーグの大谷翔平選手、そしてフィギュアスケートの羽生結弦選手など日本人選手の活躍が目覚ましいが、どのプロスポーツ選手からも大きな力を得ることができる。

もちろん、活躍するプロスポーツ選手から得た力をどう自分の躍進につなげるか、そこは自分自身にかかっているが、自分も世界で活躍するプロスポーツ選手に負けないくらいの活躍をするぞと気合が入る。

僕はどの世界においても、プロといわれる人には敬意を持っている。スポーツ選手に限らず羽生善治氏や藤井聡太氏のようなプロ棋士をはじめ、全ての職種においてプロと呼ばれる人すべてにリスペクトしている。

明確にプロとアマチュアの線引きがされている分野もあるが、プロの定義が難しい職種もある。しかし一番大事なのは「プロ意識」だと思う。プロスポーツ選手を目指している人やプロ棋士を目指している人は、プロになる前から強いプロ意識を持っていると感じる。プロ意識なしにプロは成り立たない。

錦織選手は次は4強を目指して戦うことになる。しかし強い刺激をもらうためにも、4強と言わず頂点を目指して勝ち進んでほしい。僕も一日本人としてすごく応援している!

オウム事件・死刑執行の可否について。

7月6日、オウム真理教による一連の事件に関する死刑囚の死刑執行が行われた。7人同時執行という異例の決断だった。これらの執行に関しては様々な議論がされているが、単純に可否を決めつけられるものではない。

死刑執行に関しては人権問題に関連付けられ、近年は世界的に廃止する方向性が固まっている。特に今回の死刑執行に関して、EU諸国からは強い非難が浴びせられている。しかしEU諸国の主張に対して、単純にそれが正しいと受け入れることはできない。

その理由の一つ目は、EUの主張は死刑執行という行為のみに焦点を当てており、オウム事件そのものに関しては(EUの主張を見る限り)盲目的であるということである。オウム事件に限ったことではないが、事件(犯罪)と刑の双方を総合的に見る必要がある。さらに、加害者(死刑囚)の人権ばかりが論じられているが、被害者の人権が一切論じられていない。

二つ目は、死刑制度は犯罪の抑止力にならないという意見だが、抑止力になってないという根拠は示されておらず、さらに刑は犯罪の抑止力だけのためにあるのではない。

三つ目は、オウム事件の特殊性である。このオウム事件に関しては規模が桁違いに大きく、被害も桁違いである。さらに非常に組織的な犯罪であり、個人が気まぐれに起こした犯罪とは訳が違う。

次に、死刑廃止に対する妥当性についてであるが、何より死刑執行という行為は不可逆的だということは考えておかなければならない。死刑執行をした後になってからでは元には戻せない。特に冤罪が発覚した後になっては既に取り返しがつかない。実際、袴田事件の袴田巌さんのような事例が最近明らかになっている。袴田さんに関しては何とか解放することはできたが、おそらく冤罪により死刑執行された人もいるのではないかと推測される。

今回のオウム事件に関する死刑執行の可否を一言で論ずることはできない。しかし死刑制度に対する妥当性を真剣に論ずる必要性は強くあるように感じる。

サッカー日本代表、何が問題なのか?

サッカーW杯ポーランド戦、日本代表の戦いはあまりにも不甲斐無かった。特に終盤はパス回しによる現状維持で怒りに震えた人もいるだろう。僕もそのうちの一人だ。勝っていて、あるいは引き分けでそれを維持するためにというのならばまだわかる。しかし“負け”を維持するためのパス回しなど聞いたことがない。正直言って西野監督には失望した。

では、この終盤のパス回しによる現状維持の何が問題なのか?確かに現状維持すれば決勝トーナメントへの出場へ大きく進むことになる。目の前の勝負を捨て、その先の勝負を取ると考えれば、そのような作戦も十分にありだ。

しかし問題はそこではない。日本代表が戦っている時、もう一つの試合であるセネガル対コロンビア戦も同時に行われている。そちらでコロンビアが1点リード。このまま行けば日本は1点差で負けても決勝トーナメントへ進出が決まる。しかしセネガル対コロンビア戦もまだ終わっていない。つまり日本代表は自分たちの運命を現在進行中の他試合に預けたのである。まさしく他力本願。他試合の行方を“自分たち”で左右することはできない。ここに問題があるのではないかと思う。

とは言え、とにかく決勝トーナメントに進出が決定した。次の試合で西野監督の評価の全てが問われる。もしベルギーに勝利すれば西野監督は大きく再評価される。しかしベルギーに負けると西野監督と日本代表は世界の笑いの的になる。それが勝負の世界である。