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ITを思想として捉える。

ITと言えば、現在ではどうしてもビジネスという側面で見てしまう人が多い。特に世界の富豪の上位はことごとくIT企業関連者だ。日本で見ても、孫正義氏からホリエモン、さらに最近話題の前澤友作氏まで、IT関連の人間が幅広く活躍している。

しかし、そのようなIT関連の人間の中でも異色の人物が、MITメディアラボ所長の伊藤穣一氏ではないだろうか?

最近、伊藤穣一氏の著書「教養としてのテクノロジー」(NHK出版新書)を読んだ。この本の何がユニークかと言うと、ITをビジネスではなく思想という観点から捉えているところだ。もちろん伊藤氏は、ITを使ったビジネスでも大きな成果を挙げてきたし、高度な技術も持ち合わせている。しかし伊藤氏の姿勢の特徴的なところは、ITを使っていかにして市民を豊かにするか、そしていかにして自由になるか、ということを追求しているところだ。

伊藤氏が所長を務めているMITメディアラボは、利害関係からは一線を画している。そのため、中立な立場でITの可能性を追求し提言することができる。そして反権力的な立場をとっているところも特徴的だろう。

ビジネスからは距離を置いている一方、ITを使った未来への探究に関しては非常に前衛的だ。もちろん民間のIT企業も未来への開拓は精力的に行っている。しかしビジネスからは距離を置いているMITメディアラボの取り組みはそれらの企業の取り組みとは毛色が違う。未来に関して悲観的でも楽観的でもなく前向きだと言えるだろう。

ITを使った金儲けに関する本は山ほど出ている。しかし伊藤氏の著書のようなITを思想と捉えている本は僕は他に見たことがない。新書なので専門知識がない人も手にとって気軽に読める本となっているが、この本を読んで得るところは非常に大きいと感じた。

責任者とは?

組織やプロジェクトには責任者がいる。責任者とは文字通り責任を伴った者であるが、そもそも責任者にはどのような権限があり、どのような責任を伴った者なのか?

責任者とは何か不手際やスキャンダルが生じた時、責任を取るものだと考えられている。しかしもしその責任者にその組織を動かしたりプロジェクトを一元的に動かす権限がなければ、なぜその人に責任だけ負わせるのか?ということになる。すなわち責任者に組織やプロジェクトをコントロールできる権限が付与されてこそ、責任者という地位が成り立つのである。

責任者に組織やプロジェクトをコントロールできる権限があると、責任者はそれを上手く成功させようとコントロールできる。すなわち失敗やスキャンダルを防ぐようにコントロールすることもできるのである。そのうえで不手際やスキャンダルが生じれば明らかに責任者の責任である。

しかし世の中には「名ばかり責任者」が多すぎるように感じる。特に本当に権限を持つ者が責任を逃れるために、名ばかり責任者に責任だけ負わせるという構図が多くの組織に見られる。

大きな権限と責任は一体となって運用されなければならない。権限だけでは独裁者になるし、責任だけでは名ばかり責任者になってしまう。権限と責任の双方を持ち合わせないと、組織やプロジェクトの大きな成功と発展は望めない。

徹底的に知ることが大事。

もし何かの物事について知るのなら、徹底的に知ることにこだわったほうが良い。それが嫌なら知らないで真っ白な状態でいる方が良い。一番悪いのは、中途半端に知ることだ。

中途半端に知ってしまうと、物事を不正確に判断したり、不必要に心配を増幅したりしてしまうことになる。もし何かについて疑問に思った時には、徹底的に学習して知るのが良い。

僕自身も何かに関して知った時に、それに対して不安になることがよくある。以前はそれ以上の情報をシャットアウトしてあえて知らないようにしようとしていたが、それでは不安を抱えたまま過ごすことになってしまう。そこで最近は不安になった時には徹底的にそのことについて知ろうという姿勢に変えた。すると、そのことに対する習熟度が増すにつれて不安が軽減されていくことに気付いた。

世の中には多種多様な情報が溢れている。しかしそれらの情報の多くは不確かで中途半端だ。そのようなことに対してネットの情報だけに頼ってしまえば、不確かさが増すだけである。やはり専門の文献や新聞を読むなりして、確実な情報を入手することが大事である。

近年のネット社会は、情報を簡単に手に入れることを可能にした反面、ほとんどの情報を中途半端に不確かにしてしまった。そのようなネット社会の現在だからこそ、紙(ペーパー)の文献から情報を取得し、そこから知恵を創出することを心がけることが非常に重要ではないかと強く感じる。

「入試が重要すぎる」問題。

最近、東京医科大学の入試が問題になっている。それに対して僕の知人が「日本では入試があまりにも重要になりすぎている」とSNSに書き込んでいた。日本人にとっては入試は人生の一大イベントであり、人生を左右する重要な問題とされているが、そこまで入試を重要視することは本当に正しいのであろうか?

よく知られていることであるが、アメリカでは大学の卒業生の子供や多額の寄付金を収める人が入試で優遇されることがよくある。日本人の感覚で考えるととんでもないことであるが、アメリカ的な考えでは、その多額の寄付金により他の学生が大きなメリットを受けるので、全体を考えると良いことであるとなるそうだ。

日本人的な考えでは、「公平性」の立場からそれはけしからんということになってしまう。確かに入試というイベントだけを考えればそのような考えは間違っていない。しかし大学に入学した後はどうであろう。とてもじゃないが、入学後の大学システムは公平とは言えない。入学後に厳しい評価を下されるアメリカの方がはるかに公平だと言えるだろう。日本の大学の入学後は完全にザルである。

この様な事は、日本人の気質から来るものかもしれない。日本人は時間に正確で厳しいと言われる。確かに待ち合わせに一分でも遅れると時間にルーズな人間だと評価される。すなわちスタートの時間には非常にシビアだ。しかし終了の時間が一時間以上遅れることは日常茶飯事である。それを考えると、日本人は一体どこが時間に厳しいのかと感じる。

大学システムに関しても同じではないだろうか?スタート(入試)には非常に厳しいが、入学後から卒業資格を得ることに関しては非常にルーズで公平でもなんでもない。

僕の知人が言っているように、スタート、すなわち入試があまりにも重要になりすぎて、人生の本質を見失っているのではないかと思う。もうそろそろ、入試の結果だけで人物を評価し人生を固定化してしまうシステムを見直すべきではないだろうか?

投資を勘違いしてる?

最近は少し収まっているものの、相変わらず投資熱は強い。もちろん投資自体は全然悪いものではないが、金融投資に対する風潮にはおかしいところも多々感じる。

何がおかしいか?それは「投資をしないと老後が不安だ」とか、投資熱が熱いことに対して「投資をしないと時代遅れだ」という考え方だ。それらの背後には「投資は絶対に儲かる」という考え方があるような気がする。しかし当たり前の事だが、金融投資で儲かることもあれば、損することもある。しかし儲かるという情報ばかりが拡散され、損をするという情報はほとんど流れない。

そして投資という言葉を使っているものの、ほとんどの人が行っていることは“投機”に近い。投資とは、投資先の企業に対して金融支援を行うものだ。その結果その企業からリターンをもらう。しかしそのような構造を頭に入れて投資をしている人はほとんどいないように感じる。

その最も象徴的なものは、仮想通貨に対する投資であろう。そしてそれに対して投資という言葉を使ってはいるが、それは紛れもなく“投機”である。実際、著名な投資家であるウォーレンバフェットは、仮想通貨のような投機には一切手を出さず非難している。

もちろん僕は、仮想通貨の未来に対して批判しているのではない。そしてそれはウォーレンバフェットも同じであろう。問題なのは、人々の仮想通貨に対する考え方である。投機対象としてしか見ていない現状は明らかにおかしいのである。

最後に、一番価値のある投資は「自己投資」だと僕は考えている。自分がなりたいもの、そしてそれに近づくためには何をすればいいか?そのようなことに対してお金を投資するのが最も価値のある投資だと僕は考えている。

東京医科大・女子減点問題。

東京医科大学で、女子受験者に対して減点していたことが問題になっている。言うまでもなく許されるものではないが、ただこの問題を東京医科大だけの固有の問題と捉えればいいのかというと僕はそれは全く違うと考えている。

この女子減点問題は、女性医師に対する処遇をめぐる国全体の問題である。東京医科大が女子受験者を減点していた理由として、女性医師の出産に対する問題と、外科などの労働環境の厳しい診療科を女性医師が避ける問題が挙げられている。これらの問題が現実として日本全体で大きな問題となっている。すなわち、これらの問題を解決するためには、国家が政策として取り上げて動かなければ解決できない問題である。まして東京医科大学一校で解決できる問題ではない。

ではこれらの問題は解決可能であるか?その答えは海外から寄せられている。駐日フィンランド大使館のツイッターによると、フィンランドでは女性医師の割合が57%であると書かれている。すなわち男性医師よりも女性医師の方が数が多いのだ。もしかしたら診療科により男女のばらつきがあるのかもしれないが、もしそのようなことがあるとしても男女それぞれが力が発揮できるところでそれぞれ活躍すればいいだけの話である。日本では女性が外科を避けることが問題になっているが、それなら女性が望む診療科で活躍すればいいだけのことだ。もちろん、外科で活躍したい女性医師がいるのならば、それを拒む理由もない。

今回の問題は国全体の問題であるが、単純に女性を優遇すればいいという話ではない。女性も男性も同じ土俵に上がることが出来るようにすることが求められるのである。もちろん出産という行為は女性にしかできない。そのことに関しては女性に十分な配慮を行う必要がある。そして最も重要な事は、これらの問題は医師の世界だけの問題ではなく、あらゆる業界が抱える日本の根深い問題であるということである。

今の日本に競争心はあるのか?

現在の日本では、競争することはあまりよくないという風潮が見受けられる。「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と言う歌も一昔前に流行った。もちろんそのような考え自体悪いことではないし、過度な競争には不毛な点も多々あることは事実だが、逆に現代の日本はあまりにも競争心がなさすぎるようにも感じる。

数学や物理の研究というと、独創性の世界であって競争の世界ではないと思っている人も多いかもしれない。しかし研究の独創性というものは当たり前であって、わざわざ言葉で「独創性が重要」と言っているようなレベルではスタートラインにも立てていない。研究論文では引用数などの数字で表れる評価もあるので、そういう意味では研究の世界でも競争は避けて通れない。

幼稚園の徒競走では、ゴール地点では皆手をつないで一緒にゴールをするという話を何度か聞いたことがある。幼稚園では“仲良く”ということでそれはそれでいいのかもしれない。しかしそれを何十年も引きずっていたのでは話にならない。

日本ではギラギラとしている人を嫌う風潮がある。そのせいか、ギラギラとした人間があまりにも少なすぎるような気がする。積極的にアクションを起こし、大きな成果を挙げることも重要である。そのような人生のギャンブルを懸ける人はどれだけいるのだろうか?

今、日本の学問における研究レベルの低下が叫ばれている。それを改善するためにはまずは競争の重要性を認識することが必要である。しかし受験テクニックを磨いて一時しのぎするという類のものではない。もっと本質的な所で競争しなければならない。

大学受験時に高木貞治の「解析概論」を読破するという強者はこれから現れるのだろうか?

現代の価値観だけで、歴史を語ってはいけない。

価値観というものは、時代によって変化していくものである。従って、現時点で良いと言われていることが、次の時代で悪と言われることは多々ある。すなわち現代の価値観だけで歴史を見てしまえば、歴史の本質を見誤ってしまうことになる。

太平洋戦争時の事に関しては、戦後ほぼすべての事が悪であると教え込まれてきた。その中でもA級戦犯は今でも極悪人だと思っている人がいる。この“A級”とは本来は“一番悪い”という意味では全くないのにもかかわらず。

さすがに戦国時代の事にもなると、現代の価値観を押し付ける人は少ない。もし現代の価値観だけで評価すれば、織田信長は残虐独裁者となってしまう。

日本人は同調圧力に弱いと言われる。そのうえ、日本の同調圧力はかなりひどいレベルである。このような同調圧力の中で独創的な成果を出そうとすれば、かなりの精神力が必要だ。すなわち独創的な才能があるかどうかということとは違う部分に左右されることになる。

歴史に対する評価も、かなり同調圧力がかかっているように思える。A級戦犯を称賛しようものなら、極悪人だと非難されるだろう。もしそう批難する人がいれば、城山三郎著「落日燃ゆ」を読んでもらいたい。

いつの時代も現在の価値観が正しいものだと教え込まれる。もちろんこれはほぼ同調圧力によるものだが。しかし次の時代には次の時代の同調圧力がかかり、違う価値観に変わってしまう。すなわち一時代の価値観だけで歴史を評価すると見誤ってしまうのだ。

価値観が時代により変遷することを考慮すると、歴史は点ではなく線で見ることが必要である。そしてこのような大局的な視点で物事を見ることは、何に対しても非常に重要な事であることがわかる。

子供は誰のために産むの?

今、自民党議員のLGBT(性的少数者)に対する発言が問題になっている。LGBTの人たちは子供を産まないので生産性がない、という趣旨の発言だ。

もちろん、政治家が出生率の低さを問題にし、出生率を上げるために子育て支援などに力をいれるという政策を議論するのは大いに納得するし、そのような前向きな政策はどんどん進めてほしいと思う。しかしある特定の人たちを指し、「あなたたちは子供を産まないから国家に貢献していない」と発言するのは、間違っているということを通り越し危険性さえ感じる。

そもそも何のために子供を産むのか?その思いは様々であるだろうが、国家のために子供を産むという人は現代日本ではまずいないだろう。国家の生産性を上げるために子供を産むなどという思想は、戦前の日本の体制に通じるような危険性を感じる。

子供たちは日本の将来を担っているが、決して国家のピースではない。子供を国家の駒などと考えるような国に輝きも自由も感じないし、輝ける将来の大人である今の子供たちは、そんな国を見放していくであろう。

数学の重要性、英語の重要性。

早稲田大学政治経済学部は、2021年度の入試から数学を必ず課すという。これまで私立文系の入試というと、国・英・社の三教科入試が主流であったが、早稲田政経の数学必修化は何を意味するのだろうか?

文系学問に数学は必要ないという考えは根強くある。しかし直接的にせよ間接的にせよ、文系学問でも数学あるいは数学的思考が必要なものは多くある。経済学部では数学は欠かせない道具であり、数学なしでは経済学は成り立たない。そして哲学ではその論理構造は数学そのものと言ってよい。政治においても統計的解釈を必要とすることは多々あり、統計学、すなわち数学は全く無視できない。

数学を無視するということは、有力な武器を自ら捨てるということである。これは海外へ旅行に行くのに英語を無視することと同じである。今や日本国内にいても外国人と接する機会は多々あり、日本人同士の会話においても英語に関する話題は頻繁に出てくる。

英語と同じように、数学も現代社会に広く根付いている。コンピューター社会となった今、それらを制御するプログラミングは数学そのものであるし、日常生活において何か計画を立てるとき、それらに対する論理的思考の原点は数学にある。

2021年の早稲田政経の入試の数学必修化は、社会に対する数学の重要性を訴える一石になるものだと思う。英語の重要性は皆が認識しているのに、数学の重要性に対する認識はまだまだ甘い。これからは数学の重要性を明確に可視化していくことが求められる。