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問題を総合的、戦略的に考える重要性。

世の中にはあらゆる問題が溢れ返っている。社会問題、教育問題、国際問題など分野は様々だが、それらに対して場当たり的に対処していてはその場しのぎにしかならず、総合的、戦略的に取り組んでいかなければならない。

それは科学に対する問題でも同じだ。ある問題点が出て、そこだけを計算して数値を出しても、それはただの数値以上のものではない。その部分が全体の中でどういう位置づけか?そしてその問題を解決するためにはどのような道筋を立てるべきか?そのように問題を総合的、戦略的に考えていかないと永遠に穴の中で留まってしまうことになる。

近年の日本の政策を見ていると、何だかその場しのぎで済ましていることが多いように感じる。少なくとも、以前はある程度一貫した主張があったように思えるが、その時代は日本には経済的な余裕もあり、そういう意味では金銭的な基盤がしっかりとしていたから主張もある程度しっかりとしていたのかもしれない。とは言え、海外を眺めてみると、必ずしも金銭だけが物を言うようには思えない。お金が少なくてもしっかりとした主張をする国は存在する。

戦略のない対処は博打でしかない。上手くいけば運が良かった、上手くいかなければ運がなかったというようでは全く話にならない。確かに目標地点へ到達するまではかなりの失敗をするかもしれない。しかし重要なのは最終地点で成功するかということである。そのためには戦略的に物事を進め、途中では戦略的に失敗をし、最後で目標へ到達する。途中結果だけを見て物事を早計するようなことだけはあってはならない。

日本は良いのか?悪いのか?

最近テレビを観ていると、「日本はこんなにも凄い」ということを紹介する番組が多くなった。外国の人たちが「日本が凄い」と言ってくれるのは非常にありがたいが、日本人が自分で自分たちのことを称賛するのはいかがなものかと強く感じる。外国人が「日本が凄い」と言っているのを流す番組もあるが、その番組を企画・製作しているのは日本のテレビ局なので、結局日本人による自画自賛でしかない。

僕は日本で生まれ日本で育ち、生粋の日本人だと思っており、日本が好きだが、日本が本当に良い国か?と問われると、手放しでYesと言えない自分がいる。日本にずっと住んでいるからこそ、日本の良いとこ悪いとこが手に取るように感じる。

とは言っても、どこの国も良いとこ悪いとこはあるのかもしれない。世界で非常に住みやすい国だと称賛されている北欧でも、確かに国民に対する支援は手厚いが、それも高率の税金とのトレードオフの産物だ。どちらが良いとか悪いとかの問題ではない。

日本が本当に良い国か?悪い国か?ということを判断するためには、一度日本を離れて日本という国を外側から眺めないといけないのかもしれない。もし外から見て本当に日本が良い国だと感じたら、その時日本の事を大いに称賛したいと思う。僕の心はどちらに傾くだろうか?

数字ではないデータ。

現在のプロスポーツの世界はデータ社会である。その最先端を行っているのがプロ野球の世界であろう。投手の球速は昔から測定されているが、メジャーリーグの大谷翔平選手のニュースを見ていると、打球の飛んだ角度から打球の速さまで、様々なデータが紹介されている。その他にも、投球の回転軸や回転数までもが測定されている。

あらゆるデータを測定し活用することはもちろんメリットが大きいが、僕は必ずしもメリットばかりではないと感じている。例えばメンタル的な部分も大きな要素を占めるし、生きていく中では知らない方が良かったという情報も多々ある。大事なのは、自分がどのような情報を手に入れ、逆にどのような情報をシャットアウトするかという明確な基準を持つことだ。

そして大事なのは、データの中には数値で表せられない要素もたくさんあるということだ。さらに、数値的データも必ずしも完璧ではない。もし数値的データが完璧ならば、全ての人が上手くいっているはずだ。しかし現実はそうではない。

多くの人は「目に見えること」で評価しようとするが、それ以上に大事なのは「目に見えない部分を見る」ということだ。数字ではないデータをどれだけ把握しそれを基にコーディネートしていくか。そのことの重要性を理解していないと、数値的データに振り回されることになってしまう。

社会的思想の観点から見た自由。

シリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平氏が解放されて、しばらく経った。安田純平氏の拘束・解放に当たって日本国民として考える事、思うことはいろいろある。

まず重要な事は、安田氏は大手メディアの所属ではなくフリーのジャーナリストだということだ。紛争地で犠牲になるジャーナリストのほとんどはフリージャーナリストだ。これは何も大手メディアの危機管理がしっかりとしているという訳ではなく、むしろ大手ジャーナリストは危険地には入らず、身の危険がある取材はフリージャーナリストが一手に引き受けているという現実からだ。言い方を変えると、大手メディアは自分の手を汚さず、安全地帯でぬくぬくとしていると言える。

そして最も重要な事は、今回のような事案が発生すると日本国内で必ず発生する「自己責任論」だ。自己責任論を叫ぶ国民の言いようは一見理があるように思えるが、その根底には非常に危険な思想が横たわっている。はっきり言ってこのような事は思想と呼ぶに値しないものであるが。

日本では皆がしないことをする人に対しては非常に風当たりが強い。このことは何もジャーナリストに対してだけではない。科学研究でも同じだ。ある程度確立された分野内で、ある程度他人が行った研究を追従する。そして人がしないことをする人に対して「意味がない」「絶対にうまくいかない」と盲目的に批判する。そしてノーベル賞を取った途端に手のひら返しだ。

もし皆がしないことを誰もしなくなったらどうなるのか?そのような世界に持続的な発展はない。このことが最も顕著に表れているのが、FAGA(Facebook、Apple、Google、Amazon)が支配する現在の社会構造だろう。このような社会構造に日本が乗り遅れたのは、何もITの重要性に気付かなかったからではない。皆のしないことをせずに他人の事を追従することしか考えない日本人的思考であると僕は考えている。これではもしITの次に来るパラダイムが訪れても日本はその主役にはなれないだろう。

少し話はずれたが、安田氏への自己責任論的批判には、誰もしないことへの批判に対する構造的問題が存在する。そして言うまでもなく、自由への放棄でもある。ある記事でこのようなことが書かれていた。「この国にはハロウィーンでバカ騒ぎする自由はあるが、真の言論の自由度はすこぶる低い。」(プレジデントオンライン・元木昌彦氏の記事)

一体この国にある自由とは何なのだろうか?確かに日本という国は世界的に見れば自由な国である。国家システム的な視点から見れば自由かもしれない。しかし問題は社会的思想から見た自由である。今回の安田氏の解放に対して政府が自己責任論を言っている訳ではない。国に自己責任論などという法律はどこにもないのに、多くの国民が自ら自己責任論を主張している。僕はそのような社会的思想は国民が自らの首を絞めつける行為だと考えている。自己責任論を叫んでいる人たちは、「自分はそんなことをしない。だから自分には関係ない」とでも思っているのかもしれない。しかし社会的思想はあらゆるところで繋がっている。今回の安田氏の行動は、我々市民の生活に密接に関係していることだと気付かなければならない。

多くの日本人が自ら自由を放棄し、自らの首を絞めつけようとしている。そのような国の50年後、100年後にどのような自由が確保できているか?はっきり言って見通しは暗いものだと言わざるを得ない。

大人になるとは、自分を汚していく作業だ!

以前の僕は、人間としていかに潔癖であるかということを考えていた。しかし今は違う。大人として、そして人間として成長するとは、自分を汚していく作業で、いかに汚れた状況の中でたくましく生きるかということが大事だと考えている。そして潔癖とは弱さであると気付いた。

人間が前に進む時に必ず必要になるのが「挑戦」だ。そして挑戦をし続ければ、成功することもあるし失敗もある。しかし汚れるということは挑戦者の証なのである。

日本の社会では、多くの場合減点主義を取ることが多い。しかし減点主義を取った結果、多くの人は挑戦をしないで減点を免れるという手法をとる。この場合確かに減点はされないが、加点もされない。すなわち永遠のゼロなのである。

しかし僕は、挑戦をし続け減点を繰り返しながらも、ここぞという時に大きな加点を狙うということが大事なのではないかと考えている。永遠のゼロではその人は存在しないのと同じだ。人間の手腕の見せ所は、減点をいかに加点に変えるかということである。

これまでの横並び主義の日本社会の中であれば、減点主義で調整型の社会でも良かったかもしれない。しかし今の世の中はボーダーレスである。日本の田舎に居ても、さらにはインフラも整っていない発展途上国に居ても、スマホとパソコン一つで世界のどこの人とも繋がり、最先端の仕事ができる世の中である。そのような世界で減点主義で調整型の組織が生き残れるはずがない。事実、これまで一流企業と呼ばれたシャープが買収され、世界的なトップ企業と言われたソニーも現在では見る影もない。

今必要なのは、リスクを取りとことん前に進むことだ。そして汚れることを恐れてはならない。社会からの評価を気にしてしまうかもしれないが、自分が評価をする側にならなければならない。人生が幕を閉じる時にボロボロで見る影もない、そのような人生を送れたら本望である。

紛争鉱物。

スマホなどの最先端の電子機器には、レアメタルなどの鉱物が多く使用されている。これらの鉱物の一部は、アフリカの最貧国でも採取されている。しかしそれらの国で採取される鉱物を巡って、現在大きな問題が発生している。

アフリカのコンゴでは、多くの鉱物が採取されるらしい。埋蔵している資源だけで見るとコンゴは資源大国である。しかし現状は最貧国と言える状態だ。これらの国で、鉱物を巡って過酷な労働が強制され、暴行・虐殺が横行しているという。これらの事を聞いて日本人はどう思うだろうか?「暴行や虐殺は許されないことだが、日本人である私らには関係ないことでどうすることもできない」と思う人も多いかもしれない。しかしこれらの事に関して日本人は関係ないどころか密接な関係があり、関与することもできる問題なのである。

先ほどの話で取り上げたスマホなどの電子機器に使用されている鉱物は、これらの国で取られた鉱物である可能性は高い。この様な人権的な問題がある中で取られた鉱物を「紛争鉱物」という。私たちができる手段の内の一つは、これらの紛争鉱物が使われていないか監視することだ。最近ではこのような監視が国際的に行われ、紛争鉱物でないものにはタグをつけ、紛争鉱物に対して流通制限をしているという。

私たちは多くの電子機器に囲まれ、スマホなどの便利な機器を利用してスマートな生き方をしている。しかしスマートで、時にはお洒落に振る舞うことの背後には、このような紛争鉱物を巡って過酷な労働を強いられている人たちがいる。すなわち私たちの生活は、これらの人の人権侵害の下に成り立っていると言える。

自分たちだけが良ければいいという考えはもはや通じない。日本国内を豊かにすることは大事だが、それが世界の人たちの豊かさの下に成り立っていなければならない。しかし現実は、多くの人たちの犠牲の下に成り立っている。紛争鉱物はそのような世界の構造的な問題を提起し、これからの社会の在り方を考えさせられる。

教育と国力。

日本は明治に開国して、飛躍的に発展・工業化したと言われている。それの対比として、江戸時代の農業を中心とした形態は国際的に遅れていたという認識がある。しかし本当に江戸時代の日本は遅れていて、明治になった途端に何の素養もないところに欧米の技術が流入し発展したのだろうか?

江戸時代の日本は、世界的に見て類を見ないくらいに高い識字率を誇っていたという。寺子屋では庶民が読み書きそろばんを習い、民衆知識の基盤を固めていた。さらに上流階級に属する武士の中で優秀な者は藩校などの学問所で学び、高度な人材を育成していた。その中のさらに優秀な者は、江戸に留学し昌平黌(後の東大)などの官僚養成学校で学問を究めていた。

明治維新は「断層」だと広く認識されているが、明治における急激な近代化は、江戸時代から続く高い識字率と読み書きそろばん、そして高度な学問文化が基盤となっていた。なので、文明的には江戸と明治は強い連続性によって結ばれている。

さらに政治組織においても、幕府から明治政府へと変わったとは言え、官僚組織の多くの部分は幕府官僚から明治官僚組織へとそのまま移されたという。すなわち、政府の実務レベルでは、その多くが幕府方式がそのまま明治政府へ引き継がれたのである。しかも幕府の官僚システムは非常に高度で優秀であったという。

このように、江戸から明治期においての国家システムは非常に優秀で、それが国力の大きな発展につながったと言える。しかし残念な事か、第二次世界大戦を経て国の在り方が大きく変わったとは言え、基盤となる官僚システムは江戸から現在まで継続されているのではないかと感じる。もちろん、改良はその都度なされてはいるであろう。しかし大きくは変わってはないはずだ。

そしてシステムそのものが変わっていないということ以上に問題なのは、江戸からの国家システムが作り上げた「国民の意識」が変わっていないということではないだろうか?その代表例が「出る杭は打たれる」という意識である。そしてそれは、横並び意識の蔓延でもある。

しかし今日本に最も必要とされているのは、「出る杭を作り上げる」ということではないだろうか?これは出る杭になる“人間”を創り出すことであり、また出る杭となる“組織・企業”を創り出すことである。出る杭に当たる企業とは現在で言うと「GAFA(Google・Apple・Facebook ・Amazon)」が代表例と言える。トヨタなどは非常に大きな企業だが、出る杭というより“優等生”といった言葉が適切であろう。

また、これらのことは企業だけに限らない。科学の研究においても言えるし、スポーツにおいても言える。日本は優等生を作るのは得意だが、出る杭を誕生させる度量がない。ただスポーツにおいては近年、大谷翔平選手をはじめとする規格外の出る杭が誕生しているように感じる。

優等生の頂点が天才だとすれば、今日本が一番必要としているのは「異才」だと言えるのではないだろうか?昔、「異能流出」という言葉を見たことがある。これからの日本が現状維持を目指すのならば、その先にあるのは大量の異能流出である。

大学は何のためにあるのだろうか?

近年、大学への進学率は非常に高くなっており、とりあえず大学に行くという人も多いだろう。もちろんそれは悪いことでは全くないが、しかしその一方、大学に何をするために行くか?また、大学は何のためにあるのか?という議論が社会でほとんど行われていないことに危機感を感じる。

大学は何のためにあるのか?と聞かれたら、多くの人は学問を修めるためにあると答えるだろう。しかし体育大学などではスポーツがメインであるように、学問以外の目的のためにある大学もある。(もちろん体育を学問的に研究されてもいるが。)また、専門職大学(大学院)のように、実務を目的とした大学も存在する。なので、大学の主目的が学問であると一概に答えることはできない。

近年、益々顕著になりつつあるのが、大学の就職予備校化だ。このことに異論がある人も多いであろうが、現実は就職が最大目的だという人の方が圧倒的多数であろう。もちろん、希望する職種を目指して大学で学問に励むという頼もしい強者も多くいるが、その一方、大学の授業そっちのけで就職活動に埋没する人には疑問を感じる。

もちろん、大学で学問を学ぶ力と就職してから必要になる力はかなり違う。なので、就職するために大学で真剣に学ぶ必要はないという声も聞かれるかもしれない。しかしそれなら、そもそも大学に行く必要は全くない。大学が就職予備校と化す前に、就職予備校というものを本当に作ればよいのではないかと強く感じる。それは就職予備校というものに対してのネガティブな意見ではなく、就職予備校で徹底的に実用的知識及び行動力を身に付けるというポジティブな意見からだ。大学に行くのなら、学問に励みつつ就職活動を遂行してほしいと強く願う。

僕の身の周りであった出来事であるが、現実として学問に真剣に励んでいる人がそれが故に就職にあぶれ、ゼミ中に教室の後ろで携帯をいじくっている人が就職活動に励み日の目を見るということが至る所で見られた。これは大学及び社会の構造的欠陥ではないかと強く感じる。

とは言え、好きで学問を修め研究を行っている人にとっては、このような事はあまり気にしないのかもしれない。大学でサボって上手く就職した人も、仕事で成果を出せれば大学時代のことなどは小さな問題なのかもしれない。とにかく自分がすべきことを見つけ、それにまい進することができれば、その人にとっても社会にとっても大きな財産になるのではないかと強く感じる。

今すべきことに対して、一歩でも前に進むことを考え行動していく。これができれば人生に対してそう大きく迷うこともないのではないだろうか。

本庶佑教授、ノーベル医学・生理学賞受賞!

2018年のノーベル医学・生理学賞に、京都大学の本庶佑特別教授が受賞されることになった。心よりお祝いを申し上げたい。

本庶佑教授の名前だけは以前から知っていたが、今回の受賞報道で抗がん薬のオプジーボを開発された方と知って、そうだったのかと納得した。やはりノーベル医学・生理学賞を受賞される方々は、単に基礎研究として大きな成果である(これは最も重要だが)だけでなく、多くの人々の命を救う可能性を秘めているというところが、また非常に素晴らしいところである。このことは、iPS細胞の山中伸弥教授にも言えることではないだろうか。

本庶教授は会見で、「教科書を信じないことが大切だ」と言っておられた。これは非常に共感するところだ。学校では教科書は絶対だと教えられるが、そのような教育は権威や権力に従い盲目的になるというところへつながっていく。自分で何かを発見するためには、まずは過去の成果を疑うことから始まり、過去の成果を覆すことにより新たな成果となる。

特に医学へのつながりの強い生物学や、過去の史実が次々と否定される歴史学では、過去の常識が現在の非常識となることが多い。そして絶対的だと思われている物理学などの科学全般において、科学を盲目的に信じることは最も非科学的な行動だということを心に留めておかなければならない。

今週のいわゆる“ノーベルウィーク”はまだ続く。他の賞でも日本人研究者の受賞者は出るのだろうか?

便利なことは、自由なのか?

近年、ますます便利な世の中になりつつある。しかしその一方、便利であるように錯覚しているだけなのではないかとも感じる。

便利の代表格は、スマホであろう。スマホは確かに便利である。そして最近はスマートスピーカーなるものまで出現している。このように大きく便利になりつつある一方、それらの便利さははたして人間に対する束縛を本当に解放しているのかと疑問に思ったりする。

なぜ科学技術を発展させる必要があるのか?その一番の理由は「自由を得る」ためである。20世紀には自動車が発達し、新幹線などの鉄道網が発達した。それらは確かに人々を便利にした。そして20世紀終わり頃に普及した携帯電話、今で言うガラケーも、当時は非常に便利に思えた。

携帯電話が普及する前は、友人と連絡を取るのにも一苦労だった。ましてや気になる女の子と連絡を取ることは一大イベントであった。しかしそのような不便さが逆に大きな達成感と幸福感を生んでいたのではないかと感じる。

今は好きな女の子がいれば、スマホでボタンをポチっと押すだけで簡単に連絡が取れる。昔のような行き違いなどはほとんどないのではないかと思う。待ち合わせでのすれ違いなども、ラインや電話ですぐに連絡が取れる現在では考えられない。

21世紀も18年過ぎ、爆発的に便利さが発達した。しかしこの18年の技術の発展が果たしてそこに住む人を自由にしたかというと、僕は強い疑問を感じる。確かに物理的には大きく自由になった。しかし精神的に自由になったかというと、むしろ束縛するような方向へと向かっているのではないかと思う。しかもこの流れは前には戻せない。科学技術は前には戻せないという特性を持っている。

この精神的な束縛は、年配よりもIT社会をよく熟知している若者の方が強く感じているのではないかと思う。もう少し詳しく言うと、圧倒的な便利さだけしか感じない人と、その便利さの背後にある束縛を強く感じる人の二極化が起きているのではないだろうか?

便利さとは何か?それによってもたらされる自由とは何か?今そのような事を真剣に考える必要があるのではないだろうか?