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寛容な社会?

今世界は寛容さを求められている。難民問題や性別問題などを解決して、誰もが安心して生きて行ける社会にならなければならない。日本は難民に対して閉鎖的だと言われ、性別問題に関してもかなり遅れていると言われている。そういう意味では日本はかなり閉鎖的だと言える。とは言え、世界的には寛容な社会へという潮流が大きく流れていると言える。

しかし何かが違うと感じるのは僕だけだろうか?もちろん難民に対して寛容な社会になることは(国家の利益的な問題はあるにしろ)必要不可欠なことであるし、性別関連の問題に対して差別や偏見をすることはあってはならない。しかし注意すべきことは、思考無き拡大解釈はしてはならないということだ。もともとは解決しなければならない問題であっても、その方向性を無批判に突き進めて行けば逆の意味で差別的かつ息苦しい社会になってしまう。問題を次の一歩へと進める時には、さらに進めるべきかと繰り返し思考しなければならない。決して思考停止的に拡大解釈を続けてはならない。

寛容な社会を作ることは非常に重要な事だ。しかし寛容化へと拡大解釈し続けてしまうとシーソーは反対側に傾き、再び不寛容で息苦しい社会になってしまう。社会政策はバランスが重要なのである。なので政治家などの社会政策施行者は常にその塩梅を見極めなければならない。

寛容な社会を作るためには、社会を構成する一人一人の人間の意識も重要になる。人々の意識が変わらなければ寛容な社会は作れない。一人一人の意識が社会を変え、国家を変える。そして世界が変わるのである。もちろん現時点ではどこの国家にもおかしいことはたくさんある。そしてそのようなおかしな部分はどんな時代になっても存在し続けるのかもしれない。しかしだからと言って、寛容さを追求することを怠っていはいけない。そしてその際には、方向性と塩梅を見極めながら常に立ち止まって熟考し、実行に移していかなければならない。

アナログ回帰。

近年押し寄せている社会のデジタル化の波は非常に大きい。スマホを始め、身の回りの物のほとんどがデジタル化され、最近はIoT(Internet of Things)という言葉も流行している。その一方、一部ではデジタル回帰とも言われる動きが見られる。例えばiPadなどを始めとする電子機器などでの書類管理が進んでいるが、個人レベルでは紙(ペーパー)の魅力を再発見することもある。紙の書籍は今でも電子機器などでは得られない魅力と効果がある。またアップルウォッチなどのスマートウォッチが普及する一方、機械式時計がブームを起こしている。

僕自身も今、一部アナログ回帰しようと取り組んでいる。しかし一度デジタルの世界に慣れてしまえばアナログ回帰をすることは容易ではない。かなり意識しないとついついデジタルの世界にどっぷりとはまってしまう。無意識の内にどこかでネットとつながっている。確かにネットは非常に便利だが、依存症になるほど浸かるのは問題だ。現実世界を強く意識し、リアルで周りの人とつながることが大事である。

そんな僕も、現在使っている旧型のiPhoneを新型に買い換えたいという衝動は凄くある。スマホを買い換えるのも良いし、ネットを駆使するのも良いと思う。ただ現実世界に生きていることを忘れてはいけない。あるいはもしデジタルやネットの世界に浸かるのなら、徹底してそれらを駆使するという手もあるのかもしれない。例えばゲームにはまるのなら、ゲームをするのではなくゲームを作るというようにだ。またデジタルを駆使することによって無駄な時間を大幅削減するというのも手だ。間違ってもネットがネットを呼ぶように雪だるま式に時間やお金を浪費してはいけない。

アナログに生きながらも、デジタルを上手く駆使すれば時間もお金も有用に使えることが出来るだろうし、自分の打ち込むことにも効率的に取り組むことが出来るであろう。そして人との連絡や出会いも大きく増やせるかもしれない。しかしその塩梅が難しい。現代社会に生きている限り、デジタルな世界を無視することはできない。だからと言ってアナログ世界は必要ないかと言えば、それはそれで今でも魅力的な所はいくつもある。デジタル世界である現代社会の中で生きながら、いかにアナログの魅力と利点を取り入れられるか?これは簡単そうで非常に難しいスキルが必要である。デジタル回帰は一筋縄では行かなさそうだ。

法律は武器だ!

僕自身は法律に関してはどちらかと言うと疎い方で、詳しい訳でも何でもない。僕はいろいろな分野の学問に対して興味を持っているが、法学に関してはなかなか乗り気になれない。法文自体に自然法則がある訳でもなく、法文を読むことは現時点では苦痛でもある。

しかし最近は、法律は出来る限り理解すべきだと思っている。法律を知ることは生きる上で武器になる。ビジネスを行っている人にとっては、法律を理解することは必要不可欠であるし、ビジネスの勝者は多くの場合、法律を上手く活用し、時には法律の網を上手く掻い潜った者である。また社会をストレスなく生きるためには、法律を正確に理解し、自分流に解釈することが必要だと思う。

ここ最近、日産のカルロス・ゴーン元会長に対する検察の取り調べが話題になっている。ここで争点になっているのは、当たり前の事であるが違法性があるかどうかだ。一般市民にとってはゴーン氏がけしからんと良い悪いという物差しで見てしまうが、事件の争点は良い悪いではなく、合法か違法かということである。もちろん、悪い事をしないようにするために法律というものが制定されているのだが、必ずしも「良い=合法、悪い=違法」というわけではない。そこに法律の本質がある訳であって、上手く法律を活用できるかということが物事を進める上で重要になる。

法律は非常に膨大である。従って我々のような専門外の人間が法律を全て理解するのは不可能であるが、自分に関係する法律の根幹くらいは理解しなければならないと思う。しかし僕は現在そこまでは法律を理解できていない。それが故に無用な悩みを抱えてしまうこともある。ストレスフリーに生き、自由に自分の打ち込むべきことに集中するためにも、自分に関わる法律の最低限の事くらいは理解したいものである。

同調圧力の中の相互監視社会。

日本は「絆」とか「力を合わせて」という美徳を持ち合わせている。と言いたいところだが、これは本当に美徳だろうか?震災が起きた時に協力し合う絆は確かに美徳であろう。しかし力を合わせて助け合うという一方、力を合わせていじめるということも至る所で見られる。自分と同じような人とは助け合う一方、異質なものを排除するという側面もある。良くも悪くもこれらは同調圧力のもたらす力だと言える。

今日本社会で最も怖いのが「相互監視」だ。犯罪者を監視するということにとどまらず、周りの人が人と違うことをしていないかということを常にチェックしている。またそれらの同調圧力の結果、「自分は皆と同じ振る舞いをしているか?」ということを常に気にし続けている。話す言葉はすべて当たり障りのない言葉だ。

なぜノーベル賞受賞者はノーベル賞を取れるのか?それは一言で言うと、皆と違うことをしているからだ。同調圧力の下では独創的結果などは100%生まれない。日本において独創性を発揮しようとすれば、何をやるかという以前にまずは同調圧力を跳ね飛ばすというところから始めなければならない。そのような精神力を持つことは決して容易ではない。しかし残念な事に、まずはそのような精神力から話を始めないといけない。それが現在の(昔からか?)日本の現状である。日本では確実に出る杭は打たれる。従って出すぎた杭になれるような飛び抜けた結果を出すか、皆と同じ普通の結果しか出さないかのどちらかしか生き残れない。

努力しないのが普通である集団の中では、努力する人が叩かれるという何とも悲惨な状況も存在している。皆がお互いに可能性の芽を潰しあっている。この様な社会に未来はあるのかと言えば、確実に未来はない。今まで上手く行ったからといって、これからも上手く行くとは限らない。同調圧力の中にある相互監視社会が何をもたらすか?そのことに対してもう少し想像力をたくましくしなければならない。

権力や政治力ではなく、実力で!

権力者が備えているべき力、それは実力である。しかし現実はどうやらそのようではない。政治力によって権力者になる人も多い。もちろん実力を発揮して上にのし上がる人も多いが、政治力だけによってのし上がれる世界というのは多くの場合歪んでいる。

もちろん政治力が全く悪かと言えばそうではなく、政治力が重要な実力になる世界もある。特に大きな組織では政治力によって組織の調和と調整を行うということが重要であることが多い。しかし例えばスポーツの世界では政治力などはほとんどいらないし、学問の世界でも厳格な実力の世界であるべきだ。しかしどのような世界でも政治力を持つ人が一定の力を得るという構造が見られる。

しかし例え政治力が必要な世界でも、初めは実力を磨くべきだ。技術者なら技術を、そして社会においても社交力や知識などを身に付けて行くべきだ。もちろんそれぞれの世界で必要になる力はそれだけではなく、実際はあらゆる力の総合力が必要になる。

ある一部の分野では世襲というものが根強く続いている。それはそれでいいのかもしれないが、僕はそのような世界とは対極的な位置にいる。そのようなポジションで生きている人間にとっては、付けるべき力は政治力ではなく実力である。実力の世界というものは非常に面白くエキサイティングだ。初めは何も約束がされていない。そのような地点からスタートしどこまで世界の本質に潜り込めるか?全ては自分の力にかかっている。あとは自分の意志をどこまで貫けるかだ!

自動車技術の飛躍から、近年の科学技術の発展に関して想う。

最近発売された、新型レクサスESのクラッシュテストの動画を観た。近年の自動車の安全対策には目を見張るものがある。レクサスESのクラッシュ動画には正面衝突、側面衝突など様々な事案が想定されているが、衝突部分は壊れても損壊部分がクッションとなり室内はほとんど無傷である。そのような安全設計になっていることは話には聞いていたが、その安全度は想像以上である。

近年の自動車に関するもう一つの大きな話題は自動運転であろう。テレビを観ていると、自動運転のレベル3において運転手がスマホを操作することも読書することも容認されるというニュースが流れていた。レベル3とはレベル0からレベル5まで6段階ある上から三つ目のレベルであり、2020年の実用化を目指しているという。ただレベル3では緊急時には運転手が運転を変われる状態である必要があり、したがって飲酒や睡眠はできない。

自動車の安全対策と自動運転は切っても切れない関係がある。現在の安全技術の最先端である衝突回避などはそのまま自動運転にも応用できるものであり、安全対策と自動運転は近年の自動車技術開発の両輪である。それに最近は電気自動車の開発が加わる。この三つの自動車技術は未来に向けた研究開発から実用化へと移ってきている。このような急速な自動車技術発展は僕を含む多くの人にとっては予測不可能であったことであり、自動車関係者にとってもここまで急速な発展はおそらく想像できなかったのではないだろうか。

この様な急速な発展を実現できたのは、AIなどのITの急速な発展に起因する。ITの急速な発展も多くの人にとっては予想が出来なかったことであり、それぞれの急速な発展が相乗効果で互いに発展し合うという様相だ。

20年くらい前までは未来の技術に対しての予想はある程度可能であり、大まかにはそのように発展してきたように思う。しかし近年のITの発展は未来を予想することを困難にしているように思う。それほどITの影響は絶大なものになってきている。その一方、IT以外の技術はそこまで急速には発展していないように思う。あるいは大きく発展している場合は何らかのITとの融合によって起きている。

IT以外では、近年は生命科学の発展が大きい。その代表例は、遺伝子編集を行うクリスパー・キャス9技術であろう。遺伝子編集も人類の歴史を変える驚がく的な技術である。近年はそのような華々しい技術分野に目が行きがちであるが、それらの基礎となっているのは数学や物理という歴史のある科学分野であり、そのような基礎分野の地道な発展も見逃してはならない。

情報耐性。

近年の社会は情報の嵐である。もちろん有用な情報も多いが、中には無駄な情報やフェイクニュースなどもたくさんある。そのような情報社会に対してどのように向き合っていくか?そして無駄な情報やフェイクニュースからどのように自分を守るか?そのような情報耐性を身に付けることが求められている。

情報耐性は、無駄な情報やフェイクニュースに対してだけではない。役に立つ情報や必要な情報に対しても、それらに過度に振り回されれば自分というものが確立できない。必要な情報に対してもその情報にどのように対処していくかということは重要である。

情報耐性を身に付ける第一歩として、情報の質を見極めるというスキルを身に付けることが必要だ。その情報の情報源はどこなのか?その情報は信頼できるか?そのような事を判定してから情報の有用性を判断しなければならない。また情報氾濫時代においては、ネットなどの情報をダダ流ししているだけでは知識人とは言えない。情報氾濫社会だからこそ自分独自の知見というものが重要になる。もう、一つ一つの情報自体にほとんど価値はない。

情報耐性を身に付けていないと、人間は社会の操り人形になってしまう。人間というものは、社会に属していると同時に一個人としての独立性も確立していなければならない。しかし現代人はますます社会やネットに対する属性を深めてきている。その証拠にスマホや携帯なしに生きることはできるかと考えると、精神的なネット依存の度合いを容易に感じられるだろう。今一度情報社会との向き合い方を真剣に考える必要があるだろう。

二刀流!

最近は二刀流が何かと話題だ。二刀流と言えば真っ先にメジャーリーグの大谷翔平選手の名前が挙がる。大谷選手は、投手に専念すれば大リーグ一の投手になれる可能性があるし、打者に専念すれば大リーグ一の打者になれる可能性がある。そのようにあまりにも才能豊かな選手であるが故に、一本に絞るべきだと言う人が多い。しかし大谷選手の一番の魅力は、一番の打者、一番の投手と言う以前に、前代未聞の二刀流選手だということである。僕自身も大谷選手の二刀流を見続けたい気持ちは非常に大きい。一番であるという以上に「唯一」の二刀流大リーガー、大谷翔平を見たいのである。

大谷選手の価値は二刀流の大リーガーというだけではない。大谷選手の二刀流の成功によって、様々な分野で二刀流に挑戦する人が出ており、二刀流が注目を浴びている。日本には二刀流という言葉があると同時に、「二兎追うものは一兎も得ず」という言葉もある。これまでは二つの事を同時にするというと、そういう意見をされることが多かったのではないかと思う。しかし大谷翔平選手の成功により、二刀流が肯定的に捉えられるようになってきた。しかし二刀流には一兎も得ずという危険性は常に付きまとう。二刀流に挑戦するに当たっては、そのようなリスクにさらされることは覚悟しないといけない。

学問を追究するにおいては専門を定め、一兎を追うことに専念することが要求される。それ故、学者は「専門家」とも呼ばれる。しかし研究者にも二刀流がいても良いのではないかと思う。何なら三刀流、四刀流でもいい。特に人生においては何刀流にでもなるくらいの気構えが必要である。細分化された専門にこだわり重箱の隅を突くようなことは避けたい。重要な事を成し遂げるには、しばしばいくつにもわたる知識と知恵が必要になる。すなわち一つの刀では核心に迫れない。本質に迫るような仕事を成し遂げる人は、いくつもの刀を持っている。

大谷翔平はとてつもなく凄い人間になってしまったが、大谷翔平のように二刀流に挑むバカな人間が何人も現れれば、その中の一人や二人くらいは大谷選手に迫るくらい凄い人間になるのかもしれない。歴史を変える人間とは、そのようなバカな人間から出てくるものである。

才能、努力、運。

大きなことを成し遂げようと思えば、才能、努力、運の全てが揃っていなければならない。しかしこの三つは独立したものではなく、全てが連動している。才能とは努力ができる力であり、努力をすることによって運が巡ってくる。そして運を掴む才能が必要である。

先日、フィギュアスケートのグランプリファイナルがあり、女子シングルでは紀平梨花さんが優勝した。紀平梨花さんのスケーティングの才能は誰もが認めるところだが、その才能はおそらく努力の賜物であろう。そしてそのような努力と才能によって、グランプリシリーズ三戦全勝という運を掴み取ったのだと思う。

繰り返し言うようだが、運とは偶然ではない。努力ができない人間には200%運は巡ってこない。しかし努力ができるという才能を持った人には70%くらい運が巡ってくる。100%ではなく70%であるところが「運」という所以なのだ。そして自分の努力次第ではこれを80%、90%へと高めることができる。

人生は一筋縄ではいかない。そこが苦しく面白いところである。「努力は嘘をつかない」とよく言われる。これが100%本当かどうかは僕にはまだわからない。ただそれが本当であろうと嘘であろうと、今自分にできる事は努力しかない。努力が必ず報われるとは限らないから努力をしないというのは最もナンセンスな行為だ。少なくとも努力をした後には努力が残る。あとは自分を信じることができるかどうかだ。努力をしない人間は、自分を信じ抜くことができないのであろう。自分を信じ抜くことができるというのは大きな才能だと思う。

紀平梨花さんの活躍に刺激を受けて、自分の取り組んでいる事、自分の進むべき道を自信を持って進める事ができれば、それも自分という人間の大きな力だと思う。

命が大事なのか?経済が大事なのか?

社会の機能において、経済の重要性は言うまでもない。現代社会においては、お金が回らないと生活そのものが成り立たなくなる。すなわち、経済が人の命を握っていると言っても過言ではない。

では、「人の命と経済のどちらが大事か?」と問われれば、ほとんどの人が人の命の方が大事だと言うだろう。このことは誰が考えても異論はない。しかし現在のエネルギー政策においては、必ずしもこの答えのように進むとは限らないようだ。人の命よりも経済の方が優先されることはよくある。このことは道義上は明らかに間違っている。しかし経済が多くの人の命を救う可能性があるということを考えれば、経済の重要性も考慮に入れなければならない。とは言え、無駄な犠牲を強いることは決してあってはならない。

エネルギー政策に携わっている政治家たちは、物もお金も、そして人間もマクロなレベルで考えることになるので、どうしても現場というものが見えにくくなるのかもしれない。もちろんそのような事を避けるために政治家は視察を頻繁に行っている。しかしそれで十分かと言われれば決して十分とは言えない。経済学にマクロとミクロがあるように、人間の動きにもマクロとミクロがある。この双方の視点を併用して施策を打ち出すことが大事であるが、実際にそれができる政治家は少数派であろう。

又聞きであるが、東日本大震災の時にビートたけしがこんな言葉を言っていたらしい。それは「2万人が死んだということが一件起きたのではない。一人が死んだということが2万件起きたのである。」確かにマクロ的な視点では、震災という出来事を一件の大きな事件とまとめようとしてしまう。しかしミクロ的な視点で見ると、そこには2万件という膨大な事件が日本各地で同時発生していたのである。何を主眼に置いて見るかによって、物事の捉え方は大きく変わる。何事も複眼的に見て判断しなければいけない。