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核兵器弾道ミサイル迎撃に対する懸念について。

北朝鮮が、弾道ミサイル発射を宣告した。弾道ミサイルは、島根・広島・高知の上空を通過し、グアム周辺に落下するとの詳細な計画まで予告している。これから発射までの約一か月間、日本とアメリカは、防衛計画を煮詰めることになりそうだ。

そこで問題になるのが、北朝鮮の弾道ミサイルに核弾頭が搭載されるのかどうかということであろう。もし核弾頭が搭載されているミサイルを迎撃した場合、どうなるのか?防衛省局長は「迎撃により起爆装置などの機能は喪失する。核爆発による被害は発生しない」(時事通信)との認識を示している。

確かに迎撃により、起爆装置は作動しないかもしれない。起爆するには、核分裂連鎖反応を起こさないといけないが、核分裂連鎖反応は簡単には起きない。だから、防衛省局長の言っていることは全うなことだ。

しかし核爆発と核物質汚染は話が違う。核爆発しなくても、日本上空で迎撃すれば核物質の飛散は免れない。

確かに、核爆発に比べると核物質飛散の被害は小さいかもしれない。ただし、長期的な影響が残る核汚染に対する懸念は大きい。

もちろん、そのような被害がないことを祈るばかりであるが、ただ迎撃すれば完全に安全だという簡単な話でもないように思える。

核廃絶は100%正しい。

今年も広島・長崎での原爆被災日が過ぎた。原爆投下からもう72年を過ぎようとしているが、核兵器廃絶に向ける議論は一向に決着しない。

原爆の原理(あくまで”原理”である)は、アインシュタインによる特殊相対性理論にたどり着く。しかし、特殊相対論は原爆を作るために考え出されたものでは全くない。あくまで自然の真の姿を解明するために”自然科学の理論”として作られたものである。原爆の原理はあくまでも副産物、しかし最悪の副産物であった。

核兵器の責任を科学者にきせるのなら、誰の責任であろうか?間違ってもアインシュタインでは断じてない。原爆開発に向けた核分裂連鎖の技術的課題に取り組んだ科学者に責任の一部がある。しかし最も大きな責任は、科学者ではなく、科学者を利用して原爆を作成させた政治家にある。

そして現在、核兵器廃絶を進める人、あるいはそれを拒む人も政治家である。すなわち、未来への平和の扉の鍵は、政治家が握っている。

そして核兵器廃絶へ向けて科学者ができる事は、兵器への軍事技術の提供を拒むことだ。

しかし悩ましいのは、自国が核兵器を拒んでも、北朝鮮のように暴走して手を付けられない輩がいることだ。本当にやつらはどうしようもない。しかしそれらの源流をたどっていくと、欧米そして中国・ソ連(ロシア)の核開発競争にたどり着く。すなわち、現在の北朝鮮の核問題の責任の多くは、欧米中ソにあると言える。

この世の中に核兵器が存在する限り、人類の安泰はありえない。

核兵器「削減」を目標にして、核兵器の削減を実行するのはほぼ不可能だ。核兵器「廃絶」を目標にしない限り、削減は進まないであろう。

国連の会議(核兵器禁止条約の決議)で、日本は核兵器廃絶に賛成しなかった(正確には出席を拒み議論もしなかった)というニュースが流れている。被爆国日本が核兵器廃絶を拒否するとは、何とも情けない話である。

電気自動車(EV)は、本当に環境に優しいのか?

現在、自動車を取り巻く環境が劇的に変わっている。ガソリン車から電気自動車(EV)へと急激に移行しているのだ。

そもそもの発端は、フォルックスワーゲン(VW)による、ディーゼル排ガス不正問題。もちろん理由はこれだけではなく複合的要因があるが、排ガス不正問題はEVへの口火を切ることになった。

排ガスを出すガソリン車に比べて、EVは排ガスゼロで環境に優しいと言われている。しかしちょっと待て。EVに使用される電気は、もともとは発電所で作られたものではないか。ということは、発電所で排出される排ガスを考慮して比較しなければいけないのではないか?EVを排ガスゼロというのはフェアではない。

最近はガソリン車でも、ハイブリッド(HV)など劇的に燃費の良い車も出てきている。これらの排ガスと、EVで使われる電気の(火力発電所などによる)発電排ガスと比較するとどうなのだろうか?

もちろん、エネルギーは分散して作るより大規模に集中して作る方がエネルギー効率が良いと言われている。なので、EVの方が圧倒的に環境に優しく効率的である可能性は高い。

しかしEVは、

燃料→電気→動力、

と二回変換しているのに対し、ガソリン車は、

燃料→動力、

と一回の変換で済む。変換が少ない方が効率が良いのは明らかだ。

本当にEVは環境に優しいのか?一度数値的な検証をすることが必要ではないか。

民進党・代表選に注目だ!

ブログでは、どちらかと言うと民進党に批判的な記事を書くことが多かったが、次回の民進党・代表選に関しては、非常に期待を抱いている。今のところ、前原誠司・元外相と枝野幸男・元官房長官が立候補を表明しているが(8月3日現在)、この二人に対しては非常に頼もしい気持ちを抱いている。

枝野氏は東日本大震災時の官房長官で、原発事故で総理が混迷する中、的確に働きハードワークする姿に、「エダる」という言葉も生まれた。

前原氏は外相としての特筆すべき実績は特に言及されないが(とは言え、もちろん大臣としての実績は多々ある)、人間性と政治手腕は非常に期待が大きい人物でもある。

官房長官と外相という要職をこなした二人だが、代表になれば党のトップとしてリーダーシップを発揮しなければならない。そこで大きく求められるのが「大局観」だ。前代表の蓮舫氏にはこれが決定的に欠けており、場当たり的なスキャンダル追及に明け暮れていた。

枝野氏・前原氏の二人に関しては、どちらが代表になってもしっかり勤め上げると思うが(もちろん実際になってみないとわからないが)、今の民進党に必要なのは「ウルトラC」ではなく、「小さなことからコツコツと実績を積んで国民の信頼を得ていくこと」だ。この二人なら、それが可能だと僕は思っている。

知る権利?

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者による手記「絶歌」(2015年出版)について、購入を控えた神戸市立中央図書館に関する記事(神戸新聞NEXT)を見た。

この加害者による手記に関しては、様々な問題があると思うが、「プライバシーと知る権利のバランスをどう図るか」というのが一番の争点だと思う。

最近は「知る権利」という言葉がよく出されるが、この加害者の手記に関しておかしいのは、被害者のプライバシーに関しては公にされて、加害者に関しては名前が明らかにされていない(当時は加害者は少年だったため名前が公開されず、この手記の著者名も”元少年A”となっている)ことだ。事件当時、少年だった加害者の名前が伏せられるのは法に則ったものだが、手記を出版するにあたって知る権利が叫ばれる中、著者名だけが伏せられているのは明らかに矛盾している。

この著書に限らず、最近世の中のあらゆるところで知る権利が無差別に主張されていることには、疑問を感じてしまう。そもそも知る権利とは、「公的情報に関して市民が知る権利がある」という趣旨がメインだったはずだが、今では個人のプライバシーまで知る権利を押し付けられようとしている。

知る権利があるなら、「知られない権利」もあるはずだ。知る権利が法で定められていると主張するなら、そもそも法をしっかりと勉強しなければいけない(僕自身も法に詳しいわけではないので、あまり強く言えないが)。中身を吟味せずに”知る権利”という法のタイトルだけを用いて主張を押し付けるのは、明らかに間違っている。

ホリエモンロケットは、挑戦者の証だ!

ホリエモンこと、堀江貴文氏の立ち上げた会社が、7月30日午後4時半ころ、ロケットを打ち上げたという。このロケットはかなり本格的なもので、全長10メートル、重量は1トンにもなるという。今回の打ち上げは失敗したそうだが、いろいろな意味で注目すべき打ち上げだ。

このロケットの一番の特徴は、完全に民間企業だけで製作・打ち上げしているという点である。ロケットという巨大プロジェクトではどうしても公的な機関・開発研究施設の力を借りないと困難が伴うが、今回のプロジェクトが完全民間であるということの意味合いは非常に大きい。

堀江氏はご存じのとおり、考えたことは実行に移す人だ。あまりにも積極的に行動したためか、刑務所にも収監されたが、そんな逆風にも倒れず、出獄した後もこれでもかというくらい積極的に様々なことを実行している。今となれば、堀江氏の刑務所収監は、実行力の塊である彼の”勲章”でもあるように思える。

僕自身もかなり実行力には自信があるが、堀江氏と比べればかすんで見えないくらいにちっぽけに感じてしまう。

今回のロケット打ち上げは失敗したが、彼は確実に再挑戦するであろう。ロケット打ち上げは堀江貴文氏の挑戦の証である。

これまでボクシング王者挑戦(あるいは防衛)戦について思っていた、一つの疑問。

先日中国で、無名の日本人ボクサー(世界7位)が、世界王者の中国人ボクサーに挑戦し、下馬評を根底から覆す勝利を収めた。その日本人ボクサーの名は木村翔(28)という。僕はボクシングを観ることは好きなのだが、木村ボクサーの名前は全く知らなかった。この勝利の結果はニュースで知ったのだが、このニュースの一番の注目点は、中国という完全アウェーでの勝利だということだ。

これまでボクシングのベルト(王者)をかけた試合に関して、いつも疑問に思っていたことがある。それは、日本人が戦う王者戦がほぼ例外なく日本国内で行われているということである。心理戦でもあるボクシングの試合で、ホーム開催は圧倒的有利である。なので、日本人の戦う王者戦は圧倒的有利な環境で行われていることになる。そのことに疑問と不満を感じていた。

今回、日本人ボクサーが”敵地”中国という完全アウェーで勝ったことの価値の大きさは、非常に大きなものである。

今回の試合中、中国人王者が木村ボクサーに拳をタッチするだけで大いに歓声が沸き、木村ボクサーのパンチが当たってもシーンと静まり返っていたという。この様な状況の中で勝利した木村さんのメンタルは凄いものである。

しかし、このような状況は、これまで日本人ボクサーが外国人ボクサーにやってきたことそのものである。日本で行われる王者戦は、(当たり前のことだが)いつも日本人ボクサーの肩を持つものであった。そのような試合ばかりで、中立的に考えて圧倒的有利なホーム試合での日本人ボクサーの勝利にどれだけの価値があるか、疑問に思っていた。

しかし、今回の木村翔さんの勝利は、このような疑問を吹っ飛ばしてくれるものだ。外国で勝って王者になったボクサーの価値は非常に大きい。

ちなみに、日本人ボクサーが海外で世界王者を奪取したのは、1981年以36年ぶりだそうだ。

天才とは、この子のためにある言葉だと思った。

「メッセンジャーの○○は大丈夫なのか?」という番組に、インスタグラムのフォロワーが8万人いる女子小学生が紹介されていた。観る前は、「どうせ背伸びした小学生だろ」というくらいのことしか思っていなかったが、先に結論を言うと「天才少女」、さらに言えば、世界を相手にしてもトップに上り詰めるくらいの天才少女だ。

天才とは学問で言えば、アインシュタインやグロタンディークのことであり、現代で言えばエドワード・ウィッテンのことである。

よく話題になるIQ200の天才とか言われている人などは、天才の端くれでもない。IQなどというペーパーで測れる数値を取り上げられている時点で、天才でも何でもない。そして東大模試偏差値100とか言うやつ、ハイハイという感じである。もしこれらの人が天才というのなら、上に挙げた天才学者に匹敵する業績を挙げてください、と言いたくなる。

しかし、冒頭に挙げた少女、これは本当に天才である。少女(名前はLaraはさんと言う)は何をしている人であるかと言うと「デザイナー」である。そして12歳の小学生でありながら、人気のカバンブランド「サマンサ・タバサ」とデザイナー契約しているのである。

この子のデザインした絵を見ると、凄い!のである。”上手い”ではない。凄い!のである。この凄さは、素人でも瞬時にわかる。もちろんデザイナーの作品という性質上、玄人受けしても素人に分からなければ、凄いデザイナーとは言えない。

何度も言うが、決して上手いという評価ではない。もちろん上手いのは言うまでもないのだが、その子の立っている舞台は「上手い絵を書く画家」とは全く違う。一言で言えば、「世界観」が違う次元にいるのである。12歳の小学生だが、すでに舞台は世界を相手にしたデザイナーの世界にいるのである。小学生だからとか、12歳だからという扱いは全く無用である。

稼ぎも桁違いのようだ。それは当然である。才能ある人が実績を出せば、それに見合う対価を得るのは当然である。たまたまうまく流行に乗った子供芸人とは話が違う。

通称”天才”少年少女が取り上げられると「将来が楽しみである」と言われるのが筋だが、この少女は既に世界のトップにいる。IQ200の”通称”天才にこの子の存在を知らしめて欲しい。

安倍首相の「こんな人たち」騒動。

都議選の応援演説で放った、安倍首相の「こんな人たち」という言葉に、多くの国民は悲しんだのではないだろうか。僕もそのうちの一人である。

僕自身は安倍首相に対してそんなに否定的な見方をしていない。安倍首相の残した実績は偉大なものであるし、政治家としての手腕は飛び抜けたものがある。そこは素直に認めるべきだ。

僕は、政治家の一つや二つの失言くらいのことは、そんなに気にはしない。むしろ、些細な失言に対して上げ足を取る政治家に対しての方が悪印象を持つ。

しかし、今回の「こんな人たち」の一言に、「安倍首相は国民に対してそんな目線で見ていたのか」と非常に失望した気持ちにさせられた。まして、安倍首相を支持していた人たちにとってはなおさらだ。この一言で安倍首相のことを全否定しようとは全く思わないが、かなり冷めた気持ちにはなった。

そしてここ最近、安倍首相とともに、菅官房長官の発言もかなりおかしくなってきている。政府の”両輪”がそろって狂い始めてきたように思う。これらは長期政権によるほころびのサインなのかもしれない。やはり政治組織のトップの任期制限というものは、非常に重要なのかもしれない。

現在の国会において安倍支持勢力が多数をせめる中、そう簡単に安倍首相が失脚するとは考えられないが、やはり(僕個人的には)石破茂氏に対する期待は高まる(すみません、石破かぶれなもんで)。そういう意味でも、最近安倍首相とは距離を取り、足元を固めつつある石破氏の行動は、非常にうれしい。

とは言え、現在はまだ安倍政権が続く。安倍氏の一言には非常に冷めたが、総理に就いている以上は、ここぞ挽回とこれからも実績を出し続けてほしい。一国民として期待している。

情報の信頼性には、最大限の注意を払わなければいけない。

何ともお粗末な事案が発覚した。フジテレビがネット上の虚偽の情報をそのまま番組で垂れ流したという。情報を全国に流し、報道も担うメディアとして、素人レベル以下の失態だ。テレビメディアの信頼性の失墜にも大きくつながる。まさかテレビ業界でここまで放送モラルが低下しているとは想像もしていなかった。

情報を読み解く時に一番重要になるのが、情報の信頼性だ。具体的には、情報源(ソース)はどこか、あるいは情報の執筆者は誰か。この二つは情報に接するにあたって注意しなければならない、基本中の基本である。

フジテレビの行った行為は、その辺の井戸端会議レベルの話である。本当の井戸端会議ならば、曖昧なうわさで盛り上がるのもよくある話だが、テレビがそれをやっちゃ終わりでしょ、ということである。

現在、ネット上ではフェイクニュースが飛び交い、社会問題化している。それに対応するためにもメディアは情報の出所と信頼性に慎重にならなければならない。今、新聞・テレビメディアに求められているのは、まさしく”信頼性”これに尽きる。信頼性無視で情報を入手するだけならば、今の時代ネットで無限に手に入れられる。だからこそわざわざお金を払って、信頼性の高い新聞などの情報記事を購入する意味があるのである。

メディアに関する話をしたが、我々一般人も注意しなければいけない。信頼性のないネットニュースで仕入れた情報を安易に流したり話したりすると、自分の信頼性の破滅を招くことになる。