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組織を眺める。

僕は組織に属しようとは思わないが、組織を眺めるのは大好きだ。巨大組織の代表と言えば、防衛省や警察組織であろう。なぜ防衛省や警察組織を巨大組織の代表と置いたのか?それは単に巨大であるというだけではなく、組織の縦関係が明確にされているからだ。

特に警察組織は面白い。一番下部に当たる巡査から頂点の警察庁長官・警視総監まで、その組織のピラミッド構造は壮大だ。警察組織の最高ポストは言うまでもなく警察庁長官であるが、実は警察庁長官は階級外にあるポストである。従って警察組織の最高階級は警視総監になる。ちなみに、巡査長というものもあるが、これも正式な階級ではなく、巡査部長になっていないベテランの巡査に与えられる称号であるようだ。

防衛や警察の組織にはなぜ厳格な上下関係があるのか?これには明確な理由がある。それは指示系統を明確にするためだ。例えば、軍が戦っている時に、上部から二つの命令が同時に来たとしよう。その時にどちらの命令に従うか?現場でそのような事を迷っていれば、その間に命を落とすことになりかねない。そのような時には、より地位が高い将校の命令に従うと原則決まっている。そのようにある意味命令指示系統をマニュアル化することにより、素早い判断と実行が可能になる。防衛や警察組織の厳格な上下関係は、組織の統率を図るためには必要不可欠なものなのである。

現在、社会的には全ての人がフラットになるように図られる方向に進んでいるように感じる。しかし社会格差は広がる一方である。格差自体は悪いものではないと僕は感じている。しかしその格差のあり様が非常に問題なのである。例えば機会の平等は非常に重要である。しかしそれは結果の平等まで保証するものではない。結果にまで平等を求めてしまえば、それは社会主義や共産主義のようになってしまう。

しかし、多くの組織はある程度、社会主義や共産主義的な所があるように感じている。特に日本社会では、日本という国が資本主義・民主主義であるにもかかわらず、そこにある民間組織、公的組織は非常に共産主義的である。ある中国人はこんなことを言ったという。「日本に来て、初めて真の共産主義を見た」と。

最近、警察の元幹部が「日本の警察組織では、無能な者が出世することはありえない」ということを書いていた。もしかしたら警察組織は本当にそうなのかもしれない。しかし多くの組織は必ずしもそのようにはなっていない。現在、社会全体が資本主義というものに懐疑的になり、資本主義を見直そうという動きがある。しかし問題の本質は、資本主義・民主主義が徹底されていない所にあるのではないだろうか。すなわち、民主主義・資本主義国家の中にある共産主義的な慣習が問題の本質だと僕は考えている。

姓名の順。

河野太郎外相が各国報道機関に対して、日本人の人名を「姓→名」の順番に表記するように要請した。この姓名の順番に対しては賛否両論あると思うが、僕はこの「姓→名」の順番にすることは大賛成だ。僕は元々この順番ですべきだと昔から思っていた。もちろん海外では「名→姓」の順が標準的だが、日本人の名に関しては「姓→名」の順にするのが筋だと思う。

外国人が日本に来て、名前を「姓→名」に変える人など一人もいない。阪神ファンなら誰でも「ランディー・バース」と呼ぶはずだ。誰も「バース・ランディー」とはよばない。(ちなみにバースは正式には「バス」という名前らしいが、いろいろあって球団登録名はバースになったらしい。)それなら日本人も海外では「Kihara Yasuaki」と表記すべきだ。

そしてもう一つの理由は、実はこちらの理由の方が圧倒的に重要だと思うのだが、日本においては「姓→名」だと主張することが、日本の文化を海外に広めるのに大きく影響していると考えるからだ。この「姓→名」の順番が、日本の一つの文化・風習を表している。日本の文化を世界に広めようという機運が高まる中、名前を海外の風習に合わせるのは非常におかしな話である。さらにおかしなことに、メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手のことを、日本のメディアは「ショーヘイ・オータニ」と記述している。何とも自虐的な話である。

僕のブログは「(Kihara,Yasuaki)のブログ」とタイトルを付けている。これには以上書いたような姓名順に対する僕の想いを込めて付けている。確かに世界標準という概念はあるが、何でも海外の風習に合わせれば良いというものではない。主張すべきところは主張しなければならない。今回の新たな、しかし本来の姓名順が海外でも定着することを祈るばかりである。

死刑とは、教育の無力な一側面を表している。

中学生殺害の犯人の控訴取り下げによって、被告の死刑が確定した。死刑の是非に関しては現在世界的に議論の的になっているが、今回の被告の死刑確定に関しても、いろいろと考えることはあるのではないだろうか?

教育とは、人間の育成である。さらに、教育が国を支えていると言っても過言ではない。現在の日本は小学校から中学校までは義務教育となっており、おそらくほぼすべての市民がこれらの教育を受けている。これらの義務教育の年限は9年と非常に長い。9年あれば色々なことが出来る。人によってはとてつもなく大きな飛躍をすることも可能であろう。

しかしその一方、今回の被告のような人間が現れるのも現実である。この被告もおそらく最低でも9年の義務教育を受けたことであろう。もしかしたら高校にも行っていたのかもしれない。それならば合計12年である。そのような9年、もしくは12年の教育を受けた者が、結果として何の落ち度もない将来のある二人の中学生を殺害したことになる。この者が受けた長年の教育とはいったいなんだったのだろうか?

もちろん、ほとんどの者は殺人など犯さない。なのでこの殺人犯の例は非常に特殊だといえる。しかしその殺人犯が9年以上の教育を受けていたことも事実である。もちろん、算数・理科・国語・社会の授業が直接良い影響を与えるとは思わない。しかし間接的には人間形成に非常に大きな影響を与えると思う。なぜなら、算数などの勉強は、ただ単に計算技術を身に付けるだけのものではなく、大きな世界観を形成することに役立つからである。数学に打ち込む者の世界観は非常に豊富だ。これは間違いないであろう。そしておそらく、国語や社会だって世界観の形成に大きく影響を与えるであろう。本当に数学が出来る人間に、数学は出来るけど人間が出来ていないなんてことは基本ありえない。もしそういう人がいたら、その人の数学は単なる張りぼてであると思って良い。学問とはそういうものである。

なぜ、今回の殺人事件の被告には教育が無力だったのか?これは非常に深い問題であり、真剣に深く考えなければならない。そしてこの問いを考えることは、日本で教育を受ける全ての人に大きな影響を与える。ただ単に被告の死刑が確定したという事実を伝えるだけでは駄目だ。この事に対して深く考証して教育現場にフィードバックして行かなければならない。

保険・保証中毒。

世の中には保険・保証が溢れている。保険・保証があるから安心して物事に取り組んだりすることが出来る。社会において、保険や保証は非常に大事なものだ。

しかし、この保険や保証がある事が当たり前になった社会において、世の中の人は保険・保証中毒になってはいないだろうか?保険や保証がないと動かない。保険や保証がないと安心できない。確かに保険や保証は安心をもたらすであろう。しかし時には保険がなくても前に進めなければならない時がある。さらに言えば、人生に対して常に保険を求めていればチャレンジなど全くできない。もちろん、保険がないと動かないというのも一つの手かもしれない。しかしそのような人が、チャレンジする人間に対して言及する権利は全くない。保険を求めている人に、チャレンジする人間の意志など理解できるはずはないのだから。

チャレンジというものは、時には命さえも懸けなければならないことがある。チャレンジとは危険地帯に出向くことであるとも言える。保険を求めることは安全地帯に留まる事である。危険地帯に出向く人と安全地帯に留まる人を同列に扱うことはできない。

もちろん、どうでもいい事に対してまで危険にさらす必要はない。そのような事に対しては保険を掛ければ良い。しかし、何事に対しても保険がないと動けないのは人間の精神的には健全ではないと僕は思っている。しかし近年の世の中には保険を掛けないと動けない人があまりにも多い。あまりにも多いがために社会システムまでもが保険を前提とした仕組みになって来ている。これは社会の在り方として正常なのか?病んでいるのか?どちらにしても、チャレンジする人をもう少しサポートするような仕組みが出来てもよいのではないだろうか。

倫理に敏感になりすぎた社会。

倫理というものは社会の規範に依存する。従って、絶対的な倫理観というものがあらかじめある訳ではなく、社会、すなわち人々の意識の持ちようによって倫理は変化して行く。もちろん、誰が考えても絶対的に正しい倫理、間違っている倫理というものはあるのかもしれない。しかし多くの倫理は大衆迎合的であり、多くの人の意見、多くの人の意識に迎合する方向へ変化して行く。

倫理は非常に大事だが、日々の生活の中であまりにも倫理に過敏になりすぎるのは非常に問題である。そのような過敏な倫理観そのものが、人々を社会で生きにくくするためだ。倫理にはある程度の曖昧さ、ゆとりを持たせなければならない。そのようなあいまいさを持たせられなければ、人々に対してどのように行動すべきだと絶対化し、皆無難で画一的な行動を即すことになる。

人間の生き方、そして人間性は非常に多様性のあるものだ。しかしそれを否定し画一化すると、それはもう人間と呼べない。行動の自由が限定化され、思想の自由が全くなくなってしまう。思想は人間の人間であるが故の源泉であり、思想が無くなれば人間的活動をすることが厳しくなる。この事はこれからのAI社会においては真剣に議論すべきことである。人間は決してAIではない。だからこそ、人間が人間であるためにはどうすれば良いかということをそれぞれが深く考えることが必要である。

今、スマホ一台で何でもできる世の中になって来ている。だからこそ、何も考えないで軽く生きていると、スマホに人生を操られることになる。スマホはあくまで自分の人生における便利ツールであり、人生そのものではない。しかし現実は人間がスマホに合わせて生きていると言う事が起きている。何もスマホの存在を否定するつもりはない。僕だってスマホをかなり活用している。しかし以前のブログで書いたように、YouTubeアプリをあえて削除するなどして自分の生活を自分でコントロールすることが必要だ。これからの社会は、自分をコントロールできる人間と自分をコントロールできない人間の二分にされるのではないだろうか?それによって社会の構造も恐らく大きく二分化されるであろう。どちらの世界に入るかは、それぞれの人間の意志にかかっている。

IT社会の今、日本はどのように舵を取れば良いのだろうか?

近年、社会におけるプログラミングの重要性がますます高まっている。それに伴って、学校教育においても、小学校からプログラミング教育が導入されることが決定されている。初めは試行錯誤で手探りの教育になることが予想されるが、それらが洗練されるのにはおそらく二十年はかかるものと思われる。

日本でプログラミングの重要性が議論される時、ほとんどの場合GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)の話が持ち出される。もちろん、これらの企業に共通するのはITであり、つまりプログラミングであるので、これらの事例を見てプログラミングの重要性へと話が進むのは分からない事ではないが、ただプログラミングの技術だけを高めればITで覇権が取れると思い込むのは早とちりではないだろうか?なぜなら、AppleにしてもFacebookにしても、そしてMicrosoftにしても、それぞれ世界で一、二を争う企業ではあるが、ジョブズが、ザッカーバーグが、そしてビルゲイツが世界で一、二を争うプログラマーである訳ではない。ジョブズやザッカーバーグ、ビルゲイツはもちろんIT技術は高いものを持っているだろうが、彼らが世界トップの企業を作るのに成功したのは、確実壮大で未来を見据えたビジョンを持っていたからではないだろうか?今、日本に一番欠けているのは、技術そのものではなく、むしろビジョンの方である。技術を高めるのは短期間である程度出来るであろうが、ビジョンを持てる人材を養成するのは一朝一夕では出来ない。日本ではこちらの方の教育が完全に欠けている。

なぜ日本の教育はビジョン構想には向かないのか?それは一番に受験システムに問題があると僕は考えている。そもそも学校は、大学は、何のためにあるのか?それはもちろんそこでの教育を通じて教養や技術、知識を身に付けるためである。しかし現在の教育システムでは、受験そのものが最大の目的になっている。受験技術をどれだけ身に付けるかという教育を推進する限り、ビジョンを持てる人間を養成するのは非常に難しい。学校に入ること自体が目的ではなく、入ってから研鑽することが重要なのである。

今、日本の教育の方向性は本当に正しいのか?この問いに絶対的な答えがないのは明らかだが、ただ正しい方向へ進んでいるとは思えない。もちろん、現場の教育者だけの責任ではなく、国を動かす政治家にも問題がある訳だが、そのような国の舵取りをする人たちの示す方向性が間違えば、数十年単位で致命的な問題になる。しかしだからと言って、政治家だけに問題を押し付けるのも間違っている。我々市民がこれらの問題を自己の問題だと捉え、積極的に発言し行動しなければならない。ではどのように考えれば良いか?それは今現在の問題だけを考えるのではなく、次世代、次々世代の事まで考え、長いスパンで物事を捉えることが必要である。現役世代至上主義で物事を考えることは、次世代の人間だけでなく現役世代に対してもデメリットは大きいのではないだろうか?

感情論に傾きすぎてはいけない。

最近、大きな交通事故が立て続けに起きている。別に交通事故だけに限ったことではないが、事故や不祥事が起こった時に世の中全体が感情論に傾きすぎているのではないかと強く感じる。もちろん人間であるからには感情論が出て来るのは自然の成り行きだ。しかし多くの物事では感情論だけでは解決も改善もなされない。そこに論理や倫理が持ち込まれてこそ、社会は前進するのである。

僕自身だって感情論で動くことは多々ある。特に個人的な事では別に感情論が入り込んでもある程度は容認されるものである。しかし社会の事となると話は別だ。社会が法で成り立っているからには、法の論理というものは非常に重要であり、それが無ければまさしく無法地帯になってしまう。さらに不確定の事を確定した事と思い込むのも非常に危険だ。そのような事が極限に達すると、冤罪が起こる。学校内でそのような事になると、教師や生徒によるいじめになったりする。何が確実で何が不確実なのか?そこをしっかりと見極めなければならない。

近年は国家関係においても感情論が問題になっている。特に日韓関係では政府トップまでもが感情論で物事を判断するという非常事態になっている。感情論で動く国家関係は疑心暗鬼しかもたらさない。もしかしたら多くの国民はそのような事を考えていないのかもしれないが、疑心暗鬼になれば身動きが取れず、国家的損害は絶大だ。

自分自身をコントロールするに当たっては、感情のコントロールが一番の課題になるであろう。「感情を制する者は自己を制す」とでも言えば良いだろうか。しかしまた、感情のコントロールほど難しいものはない。なぜなら、感情をコントロールするのはこれまた感情であるからである。そこをいかに論理でコントロールするか?それが実行できれば物事を的確に判断し対処することが出来るであろう。

数学者・志村五郎の死。

5月3日、数学者の志村五郎プリンストン大学名誉教授が亡くなられたというニュースが流れた。志村五郎と言えば、フェルマーの大定理の証明においてもキーになった「谷山・志村予想」が有名であり、数学を学んだことのある学生ならその名を一度くらいは聞いたことがあるはずだ。

しかし、今回驚かされたことは、志村氏の死去のニュースがヤフーニュースで流れていたことだ。僕もヤフーニュースで志村氏の死を知った。いくら数学関係者の中で有名だったとは言え、ヤフーニュースで流れる程世間の注目を浴びているとは考えもしなかった。ヤフーニュースでこのニュースを見た人のうちどれくらいの人が興味を持ったのかはわからないが、数学研究というものが少しでも市民権を得られればと強く思う。ちなみに、谷山・志村予想のもう一人、谷山豊氏は、若くして自死をされている。

本屋の数学書コーナーに行くと、谷山豊全集というものが並んでいる。数学関係の全集とは一般の人にはなじみがないかもしれないが、全集が出されるほど谷山氏は偉大な数学者であった。そして志村氏も同様に偉大な数学者である。偉大な数学者や物理学者の研究に対しては、コレクテッドペーパーやコレクテッドワークスと言われる論文集が出されることがある。これらの論文集は偉大な学者の研究が一望できる非常に便利なものである。もしかしたら、これから志村氏の論文集も出るのかもしれない。と思ってAmazonで確認してみると、既に志村氏のcollected papersが出版されていた。やはり偉大だ。

日本は自分で自分の足を引っ張っていないか?

最近、日本の社会を見て強く思うことがある。別に海外の事に熟知している訳ではないので日本の事だけとは断言できないが、少なくとも日本の社会については明らかにおかしいと思うことがいくつかある。そしてそれらの事によって、日本は自分で自分の足を引っ張っているのではないかと強く感じる。

一つ目は、日本社会の常識や習わしから来ること。もう一つは法整備から来ることだ。そのどちらにもかかわることだが、日本は先端的、前衛的な取り組みに対しては非常に冷たい。そして時にはそのような前衛的な取り組みをしている人を犯罪者扱いをする。例えば、ファイル共有ソフトWinnyを開発した東大の研究者がその最たる例であろう。Winnyは確かに問題を抱えたソフトであるが、それらの基幹技術は現在、仮想通貨にも共通するところがあると言われている。Winny開発者の逮捕は日本のITの進歩を遅らせた可能性があるし、現在GAFAに大きく遅れている現状はこのような最先端技術者を逮捕してしまうような日本の社会的意識に帰着するのではないかと感じる。

ITで覇権を握りたいという日本の願望は分かるが、社会的意識や行動を見るとこれと逆行するような動きをしていることが分かる。ITで覇権を握りたいと本気で思っているのならば、プログラミング教育などのような小手先の手段だけを変えるのではなく、まずはその背後にある社会的意識を変えることが必要である。(もちろん、プログラミング教育を否定する気は毛頭ない。)

今の日本はぶれ過ぎている。理念がはっきりとしていない。ただ単に「経済を発展させたい」それだけである。そのためにITを高めよう、プログラミングに力を入れよう、ということでは、一時的な表面的変化は起こせるが、根本的発展は望めない。それこそ小手先の手段で、目の前の事しか見ていない。もちろん、政界も財界も長期的視野で物事を考えたいとは思っているのだろう。しかし現実はそれが出来ていない。そのような長期的な発展を考えるのならば、まずは私利私欲、会社利会社欲、更には国益を度外視した視点で物事を考えなければならない。自分の事、自分たちの事だけを考えていては、自分達さえも持続的発展をさせることが出来ないだろう。

人間を見たい!

近年、AIが発達しており、人間に変わってAIが活動することも一部の分野で見られている。特に将棋AIが話題になっているが、AIが強いかどうかということと、それに魅力を感じるかということは全く別問題である。今若くしてトップ棋士にまで上り詰めた藤井聡太七段は確かに強いが、将棋AIと藤井七段のどちらが強いかと言えば、どうやら将棋AIの方が強いみたいだ。しかし魅力という点では、おそらくほとんどの人が藤井七段の方に感じるだろう。将棋に関しても、「人間」がプレーするということに魅力を感じるのである。

しかし逆に言えば、人間がすることに魅力を感じない分野においては、おそらく全てコンピューターや機械に取って代われると言うことが出来る。すなわち、これからの時代を生き抜くには二つの方法がある。一つはコンピューターよりも高いパフォーマンスを発揮すること。もう一つはコンピューターにない人間的魅力を発揮することだ。この二つのどちらかを実行することが出来れば、これからの時代を生き抜けることが出来るだろう。

今、コンピューター全盛期の時代にあって、人間の価値というものが再認識されているのではないだろうか。AIなどのコンピューターの性能が飛躍的に上がった現在にあって、人間はどうあるべきか?何をすべきか?さらにはどう生きるべきか?と言う事を深く考えることが求められている。逆に言えば、何も考えずにその場しのぎの軽い生き方をしていれば、次世代を乗り切れないと言える。

これらのことから、AIが発達して便利になると言われている次代は、人間にとって普通に生きる事さえ厳しい時代になると言える。しかし深く考えて生きれば、必ず乗り越えられる。これからの時代、それぞれの人間がどう生きているかという事が深く問われることになるだろう。