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シリア難民空爆、正義と悪というような一元的な見方でとらえられるような問題ではない

5月6日の報道ステーションで、シリア難民キャンプが空爆に遭い、28人が死亡したというニュースが流れた。もちろんこのことは大問題である。もしヨーロッパで20人も死亡するようなテロが起きると、数日間はその問題が流れ続けるであろう。しかし、今回のシリア難民空爆事件のニュースを取り上げたメディアは、報道ステーション以外(少なくとも僕が調べた範囲内では)見当たらない。大手新聞サイトにも掲載されていないのである。本当にこのような空爆事件が起きたのか、疑ってしまうほどである。

パリのテロが起きた時には、世界中のメディアが何週間にわたって報道し続け、被害者の悲しみを綿密に伝え続けた。しかし今回のシリア難民空爆事件は被害者の悲しみどころか、事件そのものさえほとんど取り上げられないのである。人権と平等が世界で叫ばれている現在、このような報道格差、あるいは感情格差は建前に大きく反しているのではないだろうか。

新興国が裕福になってきている現在でも、その流れに取り残されている発展途上国はまだまだ存在し、シリアの現状などは「発展途上」という言葉さえも使えないひどい状態になっている。

そして今回のシリア難民空爆事件、報道ステーションによるとアサド政権によるものかロシア軍によるものだと推測されているが、現状ははっきりしない。(悪とされる)イスラム国によるテロは逐一報告されている一方、(正義側とされる)欧米諸国による殺害は「ミス」の一言で済まされる。明らかに誰が見てもおかしい。しかし多くの人がそのことについて深く考えずに流してしまう。特に日本人は、欧米のすることは正しいと無条件に信じ込んでいる節があり、疑問を持たない。

今の世界の現状は、正義の欧米と悪のイスラム国という単純な一元的視点でとらえられるようなものではない。今一度、公平な目で問題を分析し、深く考察することが我々一般市民にも求められているように思われる。

高須院長の被災地支援と行動力

熊本での大地震被災者に対する支援が動き始めている。支援は公的機関によるもの、私的なもの、様々だ。実際に行動を起こし支援している人たちには、頭が上がらない。

美容外科の高須クリニック、高須克弥院長が、支援の表明をした。私的財産を投じ、ヘリで物資を届けるという。我々一般市民には到底まねのできないことだ。そして高須院長の行動力にはいつも驚かされる。

高須院長は災害支援以外にも、様々な支援活動を行っている。マイナーで資金に困っているスポーツへの支援、そして賛同する活動へのスポンサーなど、高須院長の社会的影響力は大きい。

本業の美容外科に関しては、新しい治療を自分の体を実験台にして確かめるなど、本業に関しても抜かりはないどころか、常に他者の数歩先を行っている。

高須院長には「知行合一」という言葉が似合っているかもしれない。考えるだけではなく、常に行動を起こし実行に移している。

考えるだけで、口にするだけで、全く実行に移さない人も多い。それが日本人特有のものか、人間の特性なのか、僕にはわからないが、言うより先に実行に移す高須院長の行動力に、我々は習わなければいけない。考えているだけでは何も動かない。とにかく少しでもいい。少しでも実行に移すことが世の中を変える原動力の一部になる。

高須院長の支援がいかされることを祈るばかりである。

STAP疑義、真相は?日本の報道姿勢は正しいか?若山教授に対する疑惑は?

最近、STAP問題がある方向へ傾き始めた。発端は、小保方晴子氏が出版した手記「あの日」と、小保方氏が立ち上げたホームページ「STAP HOPE PAGE」だ。そこで、現在まで責任を一身に背負ってきた小保方氏だが、最近は小保方氏の共同研究者で元上司の若山照彦・山梨大学教授への疑義が強まっている。

小保方氏の手記やホームページに対して「いい訳だ」と批判する声が強いが、僕自身は言い訳はしっかりするべきだと思う。真相はどうなのか、どこが正しくてどこが間違っているのか、それを知るためには本人の言い訳なしでは判断できない。

我々専門外の市民は、どうしてもマスコミからの一方的な報道に頼らざる負えない。そこで、張本人からの直接的な情報は貴重である。

今回の小保方氏からの情報発信によって、新たな疑惑が浮上してきた。若山氏への疑義だ。僕自身、直接この問題に関わっている訳ではないので、これ以上憶測で書くのは止めるが、ただどうやらSTAP問題の責任は小保方氏一人で背負うような単純な問題ではなさそうだ。しかもこの問題に関して、笹井氏の自殺という悲劇が起こっている。

今必要なのは、「日本の常識である、空気を読んだ検証」ではない。「厳密なる中立な検証」だ。STAP問題はすでに終わった問題となっているようだが、もう一度あらゆる可能性を考慮して、先入観のない厳密に中立な第三者による再検証が必要かもしれない。その検証を実行するためにも、小保方氏の立ち上げた「STAP HOPE PAGE」は大きな役割を果たすかもしれない。

報道ステーション、終了。古舘さん、お疲れ様。

3月31日で、テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」が終了した。12年間の長きにわたる放送だった。改めて、12年間メインキャスターを務められた古舘伊知郎さんには「お疲れ様」と言いたい。

この報道ステーションは、久米宏さんがメインキャスターを務められた「ニュースステーション」の後番組として始まり、久米さん・古舘さん共に高視聴率を維持し、最も注目を浴びるニュース番組として存在感を発揮した。

では、報道ステーションと他のニュース番組では何が違ったのか。報ステでの古舘さん個人の影響力は非常に大きく、いい意味で独裁的であった。古舘さんは可能な範囲で、自分の意見を自分の言葉で最大限表現しようとした。それが視聴者の反発を食らうこともあったであろう。しかし古舘さんは自分のスタンスを崩さずにやり通したことが、支持された一番の理由ではないだろうか。

古舘さんは、今回報ステのキャスターを降りるにあたって、「この12年間は非常に窮屈であった」と述べられている。公共放送であるテレビニュース番組では制約も大きく、また一定の中立性も求められる。その中でいかにして古舘色を出していくか、苦労されたのだと思う。

テレビニュース番組の中では最もメインキャスターの個人色の強い番組であったことから、おそらく好き嫌いがはっきり出るニュース番組であったと思う。僕は個人的には古舘さんの報ステは好きだった。もちろん細かいことの好き嫌いを言い出せばきりがない。しかし古舘さんの発言には、古館さん個人の思いも含め、基本的に支持してきた。

古舘さんは今後、しゃべりたいことをしゃべりたいように表現すると言っている。報ステで制約を受けてきた反動で、火炎放射のごとく喋り捲るのではないか。

今後の古舘さんの活躍を、そして制約のない言語表現を期待したい。

民進党政調会長に、待機児童問題追及の山尾志桜里氏

民主党と維新の党が合流してできた、民進党の政調会長に、待機児童問題書き込みで与党を追及した山尾志桜里氏の就任が決まった。山尾氏は当選二回だが、待機児童ブログで安倍首相らを追及し、存在感を示したことが評価されてのことだと思われる。

今さらながらであるが、待機児童書き込みをめぐっては賛否両論がある。「日本死ね」と言う表現はいかがなものかと思うが、この書き込みは今の日本の現状を本質的に表しており、書き込みが本当かどうかということは本質ではない。この問題を安倍首相らに突きつけ、迫った山尾氏は、非常に大きな役割をしたと評価されるべきだろう。

新政党となる民進党の旧母体・民主党は、今まで与党に対して本質的な追及ができず、悪く言えば足元をすくうような突込みしかできないふがいない政党であったが、最後の最後で山尾氏は核心に迫った形だ。

山尾氏は元検察官出身で、立ち位置としては弁護士出身の自民党・稲田朋美氏に近く、民主党の稲田的な存在感が求められるのかもしれない。

とにかく、岡田党首・枝野幹事長らが横滑りする中、新政党・民進党の執行部に新鮮な顔が現れたことには期待したいものである。

推定無罪の原則は働いているか

犯罪を裁くとき、原則は推定無罪であることが求められる。確実な証拠がない、あるいは不確実なとき、原則として被告の有利なように働きかけることになっている。自白に関しても、最近自白強要の実態があらわになっており、無批判に自白を採用することには、国民の間でも抵抗が出てきているのではないか。

今、元自衛隊幕僚長の田母神俊雄氏の横領疑惑が問題になっている。この様な事件の情報は、我々市民にとってはマスコミからの一方的な情報に頼らざる負えず、その内容もだいたいは疑惑の当事者に不利な情報であり、多くの市民は疑惑の当事者を犯罪者と決めつけてしまう。今回の田母神氏を現時点で犯罪者と見ている人は少なくないのではないかと思う。

僕はこのようなニュースに対して、できるだけ否定的に見るようにしている。従って、警察・検察の主張を疑うことが多い。もちろん警察・検察が決定的な証拠を提出している時は別だが、大体は証拠もあいまいなものが多い。最近では強姦事件のDNA鑑定のずさんさにより、有罪判決が覆ることも存在する。DNA鑑定自体は非常に信頼性の高いものだが、それを扱う人間の方に問題があるのだ。

現在の日本は、国家が犯罪者を殺す権利を認められている。死刑制度に賛成か反対かと言う問題はここでは論じないが、ただ確実に言えることは、無実の人間が死刑判決を受けると言う実例が存在することである。袴田事件の袴田巌さんは数十年の時間が経った後、何とか無実が認められたが、無実でありながら国家に殺された人間がいることは想像に難くない。

検察は被告を疑ってかかるのが仕事だから、被告にとって不利な証拠を突きつけることは当たり前である。しかし一つ勘違いしていることがある。検察の仕事は被告を犯罪者に仕立て上げることではない。弁護側との対立姿勢によって裁判のバランスを取り、裁判官が正当な判決を下せる状況を作ることである。検察の目的が被告を犯罪者に仕立て上げることになると、無実の者でも犯罪者として仕立て上げてしまうことになる。この様な意識が自白強要にも結び付いているのだろう。

日本の市民は、推定無罪の意識が低い。しかし、裁判の当事者を含め、もっと推定無罪の原則を徹底しなければ、新たな冤罪犠牲者が出ることになるだろう。

選挙権18歳へ引き下げの意味

21日(月)の報道ステーションで、選挙権18歳への引き下げ、特に高校生が選挙権を持つことについて特集され、意見を交わされていた。番組では現役高校生へのインタビューもされ、意見をもつ高校生の貴重な発言が流されていた。

ここで特に問題にされていたのが、高校による生徒の政治活動に対する管理についてだ。どうやら多くの高校では、生徒が政治活動を行う場合に、学校への報告を義務付けるような校則が制定されるようだ。学校側の言い分は、生徒の安全を守るためと言うが、この生徒の安全を守るとはいったいどういうことだろう。そこまで気にすれば、24時間生徒を監視するしかないのではないかと思う。

選挙権を持つということは同時に、選挙活動の自由も与えられるということだ。自由な活動権がないと、自由な発言、自由な意思表示ができないことは容易に推測できる。学校側の政治活動管理は、生徒の政治行為・意志表示の制限である。

そもそも18歳に選挙権を与えると言うことは、18歳を大人として認めることである。その一方で、18歳の政治活動を管理すると言うのは、18歳を大人と認めないと言うことではないのか。

現在、若者の選挙投票率が著しく低下し、相対的に高齢者の選挙発言が非常に強くなっている。当然政治家は高齢者重視の政策を訴え、若者は犠牲になっている。高校社会科の授業などではもちろん政治についてもしっかり習うと思うが、今までは高校卒業してから選挙権を得るまでの2年間の間に政治意識が冷めてしまっているのではないかと感じる。そういう意味ではその2年間のブランクを無くすことで若者の政治意識を喚起するのは非常に意義あることだ。

この選挙権18歳への引き下げを意義あるものにするためにも、高校生の政治活動の自由は何が何でも死守しなければいけない。

過ちを犯した人間を全否定する日本の狂気

日本という国はどうも過ち・失敗を犯した者に対して寛容でない。過ちを犯した人間に対して、徹底的に潰しかかろうとする。

最近テレビでは、清原氏・ベッキー氏・そしてショーンK氏が社会の、マスコミのバッシングを受けている。清原氏に関しては法に触れる犯罪行為を犯し、批難されるのは致し方ないし、僕自身も清原氏のしたことに対しては許すべきではないと思うが、しかし清原氏のこれまでの業績を全否定するのは少し違うと思う。そしてベッキー氏、ショーンKに対してもほとんど全否定状態だ。ベッキー氏に関しては犯罪行為を起こした訳でもなんでもなく、個人的交友関係のもつれでしかない。もちろん印象は悪いだろう。しかしこれをきっかけにあることないこと全てほじくりだし、全否定しかかっているのは異常だ。

この三人に対する対応は日本社会を象徴しているものであり、一般の人に対しても日本では「失敗」と言うものに対して非常に厳しい。その結果、日本はどうなったかと言えば、無難な生き方をし、履歴に空白がない人間が好まれることになっている。失敗覚悟で難問に挑戦する人が非常に少ないのである。皆が平均的な事をそつなくこなす、そんな社会にブレークスルーが生まれるはずがない。

アメリカではむしろ失敗を経験した人間の方が好まれるらしい。失敗は挑戦の証である。100回失敗しても、101度目で成功すればいいのである。しかし日本では1回の失敗を長く引きずることになる。極端に言えば、アメリカでは失敗は善であり、日本では悪なのである。

今、日本政府は、一億総活躍という政策を掲げている。もし国民総活躍を目指すのなら、失敗を経験した人間の知恵を生かし、失敗しても何度でも挑戦しなおせる社会にしなければならない。

小6女児焼死事件、母親の無罪確定へ

1995年に起きた、小6女児焼死事件で殺害犯とされ、約二十年刑に服されていた母親と内縁の夫に対して、再審で検察側が無罪を主張することが明らかになり、事実上無罪が確定した。今後は警察・検察側の取り調べに対する矛盾・自白強要に対して追及されるものと思われる。

以前にもブログで書いたが、犯罪に巻き込まれる社会は怖いが、無実の者が犯人に仕立て上げられ拘束されるような社会はもっと怖い。今回の検察側の無罪主張は、事実上検察側が白旗を上げたようなもので、これまでの自白・捜査に対して自らの不正行為を認めるものだ。

これからの警察・検察に対する不備・不正の追求は今回の事件に関してだけではなく、国家治安全体に対するあり方を問うものであり、再審では徹底的に警察・検察の過ちを追及し、二度とこのようなことが起きないように考え直してほしい。

最近、自白強要に対する不信感は、国民の間で高まっているものと思われる。現在裁判が進行中の、栃木小1児童殺害事件に関しても、自白の信用性をめぐって問題になっているが、検察側が裁判所で公開した取り調べ映像は数時間分に過ぎず、100時間をオーバーしようかという取り調べ全体の映像ではなく、検察側の都合のいい部分だけ抜き出したとも思われ、検察に対する不信感はぬぐいきれない。

今、早急に取り組まなければいけないのは、24時間体制の全取調べの可視化、そして審理する者、関係者がその全取調べのどの部分も確認できる制度の確立である。

警察・検察に対する不信のうねりは、袴田事件の袴田巌さんの再審無罪判決で大きく盛り上がった。それから警察・検察の自白に対しての信用性はほとんどなくなっている。そのような動きが栃木事件の映像放映につながったものと思われる。しかし何度も言うが、一番必要なのは、24時間全可視化による記録だ。これが実行されない限り、国民の警察・検察の取り調べの対する不信感はなくならないであろう。

東日本大震災から5年

今日、3月11日、東日本大震災からちょうど五年目にあたる。関西に住んでいる身である僕にとって、東北はあまりなじみがなく、どこか遠い話のようにも思えるが、東日本大震災当日、出先でたまたまテレビで見た地震と津波の映像には衝撃を受けた。

震災と言えば、僕にとっては阪神大震災の方が印象に残っている。震災直下の神戸に住んでいたのだから当たり前かもしれない。震災は、社会も、国土も、人間の心も、人間のつながりも一変させる。東日本大震災の犠牲者二万人と言う数字は、あまりにも大きすぎてピンとこない。しかし以前、ビートたけし(北野武)が言っていた一言にハッとさせられる。

「2万人の人が死んだ事故が1件起きたのではなく、1人が死んだという事故が2万件起きたのだ」

昔、ドラマで、「同情するなら金をくれ」というセリフがあった。震災後の東北もそうかもしれない。お金が全てではないが、お金がないと復興もできない。台湾の人たちは数百億円という義援金を出してくれたという。親日国と言うものは本当にありがたい。台湾やトルコという親日国を、日本はもっと大切にしなければいけない。しかし現政権・首相にそのような認識が希薄に感じるのは非常に残念である。

ともあれ、東北の復興は心から願っている。願うだけではどうにもならないわかっていながら。

僕が言えることは、阪神大震災との比較くらいかもしれない。もちろん阪神と東北の被害の違いは桁違いであり、阪神の事例が東北にそのままあてはまるとは思はない。

阪神大震災時、僕は大学受験生であった。ちょうどセンター試験が終わった三日後だったような気がする。2次試験に向かう道中、須磨・長田あたりの焼野原を通り抜けて行った。その被害の大きかった長田あたりも、今では外見を見る限りは震災当時の面影は全くない。そういう意味では少なくとも外見は復興が完了したのかもしれない。もちろん被害を受けた人の心・生活が元通りになったのか、僕は何とも言えない。

東日本大震災の被害の大きかった東北の現状と言えば、テレビで見る限りはまだ被害を受けたそのままのところもあるようで、更地の状態のところもかなりあるようだ。外見だけ見てもこのような状態なので、被害を受けた人々の心・生活は想像を絶するものと思われる。しかし、被害を受けた東北の人たちが、不満を叫んだりするところはあまり見かけない。おそらく皆、胸の内に留めているのだろう。

東日本大震災が日本人に対して警告したのは「想定外を想定することの必要性」だろう。東日本大震災以降、想定外と言う言い訳は通用しなくなった。津波だけではない。原発もそうだ。起きる前にどうするかということと同時に、起きた直後にどのように対応するかということの重要性。震災ではどんなに巨大な防潮堤を作っても、絶対に防ぐことができないということがわかった。だから津波に襲われるという想定のもと、災害時にどのように行動するかということに焦点があてられるようになった。

東日本の復興は現在進行形だ。いつになったら元に戻るか、想像がつかない。福島原発の廃炉には数十年かかると言われている。とは言え、一日も早い復興が進むことを祈るばかりである。