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日本には日本の仕方がある。

戦後の日本は極めて平和だ。戦争には直接的には一度も関わっていないし、治安は他国に比べて極めて良いし、特に貧しいわけでもない。しかし、そのような事を完全に良い事だと考えて良いものだろうか?

戦争には直接的に関わっていないけど、世界では様々な戦争・紛争が起きている。もちろん、僕自身も戦争をしないのは良い事だとは思うが、それは言い方を変えると自分の手を汚さないと言う事も出来る。日本の平和を守るために、他国が様々な代理戦争を引き受けている。もちろん、代理戦争と言うとかなり大げさかもしれないが、世界の平和を守るために日本は一切手を汚さない。そしてそのような綺麗な手を誇っている。何度も言うが、戦争などしないに越したことはない。しかし日本が一切犠牲を出さない分、他国がその分の犠牲を引き受けているという側面はないだろうか?

しかし、そのような手を汚さない平和主義で行くなら、徹底的にその路線で行くのも意義があると僕は考えている。アメリカなどはイラク戦争やイスラム国との戦いに積極的にかかわろうとしてきた。そのような中、徹底的に平和主義を貫く日本には、平和主義であるからこその国際的信用も生まれている。日本は絶対に戦争を起こさない。だから戦争当事国からもそれなりの信用が生まれ、日本に対する役割が生まれる。なので、それはそれで日本の世界に対する一つの国際貢献だと思う。

現在、憲法第九条を始めとする憲法改正が議論されている。しかし僕は九条の改正には反対だ。なぜなら、天皇が日本国の象徴であるように、九条は日本の平和主義の象徴である。そのような象徴があるからこそ、世界からの信用を得ることが出来る。もちろん、出る時は出なければならない。そして紛争や国際問題に対しても、日本流のアプローチの仕方があるはずだ。しかし九条を改正してしまうと、それが根底から覆ってしまう。日本は九条を盾に、世界の問題に積極的にアプローチすべきである。

何事にも言えることだが、他人と同じように振る舞う必要はない。主義・主張をはっきりとさせ、自分なりのアプローチや態度を取るべきである。これまで日本が国際紛争に対する姿勢で批判を浴びてきたのは、自衛隊を派遣しなかったことではなく、自分の態度をはっきりと主張しなかったからである。特にお金だけ払って適当にごまかそうという姿勢は一番良くない。日本には日本のやり方がある。それをある程度愚直にやり通すことが重要なのである。

メディアの報道について考える事。

メディアは何をどう報道すべきか?これは問い詰めて考えると実に難しい問題であることが分かる。もちろん、何も考えなくても報道は出来る。しかし社会に利益があるように、かつ市民の役に立ち、市民が知りたいことを報道する。そして取り上げられる側も、見る側も、全てにおいて適切である事。このようにどうすべきかと考え出したらきりがない。そして簡単に分かるように、これらの事を全て満たすことは現実的に不可能である。誰かが利益を受ければ誰かが不利益を被る。そのような中、どこに妥協線を見出すか?これは考える人によっても、時代によっても、大きく変わるところだと思う。

しかし中には、見る側取り上げられる側双方に何のメリットもないくだらない記事も多く存在する。しかし実際は、そのようなくだらない記事を見て喜ぶ人が多くいるからそのようなくだらないメディアが存続できるのであるが、需要があるからと言ってそれが本当に必要かと言えばそう思えないこともたくさんある。そしてそのようなくだらないメディアは、世の中に低俗さと害しかもたらさない。

主要メディアにおいても、深く考えるべきことは沢山ある。例えば、事件事故が起きた時に被害者の実名をどう扱うか?事実をありのままに伝えるのならば実名を流すべきであろう。しかし被害者の実名を流すことによって、被害者が二次被害を受けるのではないか?あるいは尊厳を傷つけられるのではないか?そのようなことを考えると、実名を流すかどうかという一つの問題を取っても深く考えるべきことである。

特に最近危険だと思うのが、社会の風潮に安易に乗ることだ。変な言い方だが、報道にも流行がある。敏感に取り上げられる事から、重要なのに無視されがちな事。そのようにその時々に流行が目まぐるしく変わる。もちろん、そのような流行に乗ることは、市民の知りたいことに敏感に答えると言う事で一理あると思う。しかしそれとは別に、伝える意義が大きくあることは流行や風潮に関係なく大きく伝えなければならない。

メディアは何をどう伝えるべきか?これは伝える側だけでなく、受け取る我々も考えなければならない事である。そしてそのような事を考えるためには、伝える側、受け取る側双方に明確な知識を持つことが要求される。もちろん、そんな堅い事ばかり考えずに、娯楽的な報道もあってよい。将棋の藤井聡太七段の話題やメジャーリーグの大谷翔平選手の話題などは実に愉快なものである。もちろん、対戦相手にとっては残酷な物語であるが。そのような多様性をもたらすことも報道の重要な使命である。

受け取る側が「報道はどうあるべきか?」と本気で考えた時、報道自体も大きく変わるものだと僕は考えている。

お金というものは、信用の塊だから。セブンペイ問題について。

現在、セブンペイの不正利用が問題になっている。セブンペイ社長が基本的セキュリティシステムである2段階認証を認識していなかったことが話題になっているが、問題の根源は「利便性優先でセキュリティを重要視していなかったこと」であることは明らかだ。利便性を高めることは確かに大事だが、それはセキュリティが確保されているという前提があってのものだ。金融システムにおいて、セキュリティ無き利便性など存在しない。

セブンペイの会見でも、利便性を高めるためにセキュリティを後回しにしたと言っているが、そもそもその順序がおかしい。小学生でも分かる論理だ。すなわち、セブンペイ社長の思考は小学生レベル以下だと言える。もちろん、セブンペイはすぐに2段階認証を取り入れるなどの処置を行うだろう。しかしその背後にある希薄なセキュリティ意識がそのままでは、時間が経てばまた違う問題が噴出する可能性が高い。

そもそも、ITツールにはバグは付きものだ。バグが見つかりそれにパッチを貼って行く。そのような事は、マイクロソフトのウインドウズのような高度なセキュリティシステムを持つものでも日々行われている。もちろん、ウィンドウズとセブンペイでは、規模もレベルも全く違う。しかし、金融システムにおいては高高度のセキュリティシステムが求められる。セブンペイが信用を取り戻すには、これから迅速なアップデートによりパッチを貼り続け、高高度なセキュリティシステムを保っていくことでしか成しえない。

日本におけるコード決済の先駆けのうちの一つであるペイペイは、ソフトバンクとヤフーというITスペシャリスト的な企業が開発したものだ。それでも初めは不正利用が発生した。もちろんそれも、セキュリティコード入力システムの不備という初歩的なミスでお粗末であったと言えるが、後発のセブンペイが類似とも言える初歩的ミスを犯すことは問題が大きい。そしてITスキルと知識が全くない者が社長を務めるという初歩的人選ミスを犯すセブンペイにおいては、問題はより深刻だと言える。

世の中が無難になりつつある。

「無難」と漢字で書けば、「難が無い」という意味で良い事のように聞こえるが、それ以上に「当たり障りのない」という意味を感じるのではないだろうか?近年ますます世の中は無難になりつつある。それは「難が無い」という意味でも、「当たり障りがない」という意味でも。

なぜ世の中はこんなに当たり障りのない世の中になってしまったのか?おそらく多くの人は当たり障りのない無難な世の中を望んでいるのだろう。しかしその一方、少なくない人たちが当たり障りのない世の中に息苦しさを感じているのだと思う。僕もそのうちの一人であるが、結局無難社会の原点を探って行くと、「失敗を許さない世の中」というものにたどり着くのだと思う。一つの失敗を過度に叩きつける。その結果、失敗しないようにと可もなく不可もなくという生き方を取るようになる。もちろん、そのような生き方の人に挑戦を取りに行くようなことを望むのには無理がある。そして世の中から挑戦者が消えて行く。果たしてそれでいいのだろうか?

実は多くの人が無難な生き方を出来るのも、一部の挑戦者が行動しているからだと言える。世の中を変えて行くのは間違いなく挑戦者である。しかし挑戦者がいなかったら現状維持が出来るかと言えば、それは大きく異なる。良く変えようという力を働かせていても負の力というものは非常に強く、後退して行くことになる。それはなぜかと説明するまでもなく、現実社会を見ていれば明白である。

現実が「総無難化社会」になりつつある現代において、やはり希望は一部に挑戦者が存在することだと思う。挑戦者がいればいる程、無難な社会が成り立つのである。しかし、社会の全てが無難になった時、社会は崩壊すると僕は思っている。皆が皆、挑戦者になれるわけではないと思うが、皆が安心して暮らせる社会になることを望むばかりである。

記録なんて、ちっぽけなもの。

大谷翔平選手を見ていてそう思う。大谷選手は、打者に専念すればホームラン王を取れる可能性を秘めているし、投手に専念すればサイヤング賞を取れる可能性を秘めている。野球評論家の中にも、打者に専念した方が良いとか投手に専念した方が良いとかいろいろと声が上がっている。もちろん、どちらかに専念すれば様々な記録を残すことが出来るだろう。しかし僕を含め、多くの人はそのような記録ではなく、二刀流という前人未到の挑戦を目撃したいのではないだろうか?

そのような事を考えると、打者としての記録や投手としての記録なんてちっぽけなものに思えてくる。大谷選手は、記録を作るのではなく、新しい記録部門を創出することこそふさわしいのではないだろうか?大谷選手の出現により、二刀流に関する新記録部門が出来ればそれほど面白い事はない。なぜなら、ホームラン王と言えども10年あれば10人出て来ることになる。最多勝投手だって同じである。しかし大谷選手が記録部門を作れば、それは大谷選手によって創られたと永遠に語り継がれることになる。

賞を取ることは非常に意義がある。しかし毎年与えられる賞なら10年で10人出て来る訳であって、新しい受賞者によって次々と上塗りされる訳である。もちろん、イチロー選手の最多安打記録のように、唯一の記録も存在する。そのような事を考えると、イチロー選手の成した仕事の大きさに改めて驚がくする。

イチロー選手がメジャーで次々と記録を打ち立てていた頃、少なくとも日本人でこれに匹敵する記録を残せる選手は出ないのではと誰もが思った。しかしイチロー選手が引退したと時を同じくして、大谷選手がそれに匹敵するような活躍をしようとしている。大谷選手は誰もが憧れるスターだ。しかし憧れることは簡単でも、それを目指すことは簡単にできない。さらにそれを成し遂げる事はほとんどの人は出来ない。しかし今日本に必要なのは、あらゆる分野で大谷級のホームランを飛ばす人材ではないだろうか?なぜか日本人は初めからそんなことは不可能だと決めつけてしまう。他人に対しても、自分に対しても。しかし、大谷級を目指す人が一人でも多く出て来るような土壌を作ることが必要である。そのような人の中から、一人か、あるいは二人か、大谷級のホームランを飛ばせる人が出て来るのではないだろうか。

「無思想」の怖さ。

思想を持つことに対して、どう思っているだろうか?思想は人々を自由にする可能性を秘めており、人間が自律的に活動するためには思想を持つことが不可欠だ。その一方、世界のある地域では過激思想派と言われる人たちが紛争やテロを起こしている。すなわちそれらのいわゆる過激思想と言われているものが、人々を不幸に陥れている。人によっては思想と言えば過激思想を連想する人もいるかもしれないが、僕に言わせれば、そのような過激思想は非常に陳腐なものであり、思想とは言えないものである。なので過激派を思想と結び付ける事には僕は大きく違和感を覚える。そもそも、過激思想をたどって行けば、それは一部の人の単なるエゴに過ぎないことが分かる。

では、無思想についてはどうであろうか?実は無思想というものは非常に大きな危険性を秘めている。その典型的な実例が第二次大戦中のナチスである。ナチスの幹部であり、数百万人のユダヤ人をアウシュビッツへと送り込んだアイヒマンは、その行為から考えるととてつもない極悪人に思える。しかし戦後、イスラエル当局が捕まえてみると、アイヒマンは極悪人という印象とは程遠い「無思想」な人間だったという。無思想であるが故に、事務的にユダヤ人を拘束し、機械的にユダヤ人を収容所へと送っていたという。すなわち、アイヒマンは何も考えない無思想な人間であったからこそ、あれほどまで残虐な行為を行えたのだろうと考えられている。

アイヒマンの実例から見えてくるものは、無思想、そして思考停止することの怖さである。ある意味、自分なりの思想を持つという事が人間らしさであると言える。無思想とは極論を言うと、非人間的人間であると言える。無思想は何も生み出さない。そしてそれは時にはナチスのような残虐な側面を見せる。しかし多くの人は、自分は特に思想は持っていないが、そんな残虐な事はしないと思っているだろう。では、自分は選挙の時にはしっかりと投票に行っているだろうか?思想とはそのような日常から生まれるものである。選挙で投票するとは、自分の意思表示であり、思想の表現である。その反面、選挙に対する無関心は無思想の表現だと言える。だからどの党のどの候補にでもいいから、自分でしっかりと思考して投票することが重要なのである。投票は国民に与えられた国政、地方政治に対する最大の思想表現なのである。そしてそのような「投票」という思想表現が政治を動かし、世の中を良い方向へと変えて行ける可能性を作るのである。

しかし現実を見ると、世の中には無思想な人があまりにも多い。さらに日本では、思想表現をする人を毛嫌いして排除しようという風潮さえある。しかし本当に危険なのは、思想を表現することではなく、むしろ無思想な方なのである。例え日常の小さなことに対してでもいいから、自分でしっかりと思考して自己表現することが非常に重要なのである。

なぜ笑う?

ラグビーW杯100日前イベントで、前回のW杯で活躍した五郎丸歩氏が「日本が優勝します」と言ったところ、会場から笑いが起こったという。僕はこのような嘲笑に対して怒りさえ覚える。そもそも当事者たちが努力して汗を流しながら上を目指しているところに、傍観者たちが「そんな事出来るはずはない」と言える資格はあるのだろうか?当事者たちは本気で優勝を目指していると思う。もしかしたら当事者の中にも、ベスト4に残れば良いと思っている人もいるかもしれないが、プロの現役プレーヤーとして優勝を目指すことは自然な事だし、当然の事でもある。

今回の出来事を見て、サッカーの本田圭佑選手の事を思い出した。本田圭佑選手も、W杯の度に「優勝を目指す」と言っていた。そしてその時にも周りの傍観者たちは、本田選手の発言に対して嘲笑していた。努力をしているのは傍観者ではなくプレーヤーである。そしてそれらのプレーヤーが優勝を目指していることを、傍観者が否定するような社会に対して、果たして未来を期待できるだろうか?

僕が目指しているところは、周りから見てとてつもなく高い所にあるように見えるのだろうと思う。そしてそのような目標を持つことに対して、否定されたりバカにされたりすることは多い。しかし自分の将来を一番見通せるのは自分自身である。もちろん、何の努力もせずに、何の根拠もなしに、とてつもなく高い目標を掲げるのは明らかにおかしい。しかし自分は努力を行い、そして具体的なビジョンをもち、それらを基に達成できるという勝算を持っているのである。同じように、あるいはそれ以上に努力して実績を挙げている人から「まだまだ足りない」と言われるのならまだわかるが、平々凡々に当たり障りなく生きている人から嘲笑される筋合いはない。

僕は五郎丸氏や本田圭佑氏の発言を本気で信じている。もしかしたらそれが達成できる確率は1%かもしれない。しかし可能性は確実にあるのだ。それを当事者たちが本気で言うのなら、それを信じる価値はある。彼らに言わせれば、人間は二通りに分けられると言うのかもしれない。頂点を目指す人と、そうでない人。そして頂点を目指している人が頂点を目指せる環境を作ることが大事なのではないだろうか?僕は彼らを、そして自分を本気で信じている。

山里亮太さん、結婚おめでとう!

お笑い芸人の山里亮太さんと、女優の蒼井優さんが結婚をされた。僕は以前から山里亮太さんが大好きで、テレビで見せる山里亮太さんの多彩な顔にはいつも引き込まれる。山里亮太さんの結婚には、一ファンの僕としても非常に嬉しく、祝福を送りたい。

山里亮太さんは非常に多彩な人だ。お笑い芸人でありながら、硬派な話題にも鋭く対応する。軟派な話題から硬派な話題まで幅広くこなす山里さんの対応力には舌を巻いてしまう。

山里さんは様々なテレビ番組に出演されているが、僕が一番好きな番組は、金曜日の夜中(関西地方)に流されている番組だ。その番組では、山里さんと池上彰さんが生徒と先生のような形で議論するという形式で進められてるが、山里さんが質問する際にも視聴者がその話題の問題点が分かるように話される。山里さんの話は非常に分かりやすいのだ。ただお笑いの話を延々とするのではなく、問題点が非常に整理されている。この様に整理して話せる人はなかなかおらず、山里さんは非常に聡明な方だという印象を強く受ける。

今回の結婚によって山里さんの話術と話の中身のレベルが一層高くなることを楽しみにして、これからの活躍を強く願うばかりである。

川崎の無差別殺傷事件について。

現在、川崎での無差別殺傷事件について広く議論されている。なぜ容疑者はこのような事件を起こしたのか?事件を防ぐ手立てはなかったのか?この事件について考えるべきことは尽きない。

今一番問題になっている意見は「自殺するのなら一人で死ねばいい」というものだ。この意見がどのように問題なのか?これに対する僕の意見を書いてみる。

この事件の容疑者は、事件後自殺をした。従って初めから自分は死ぬつもりで事件を起こしたと思われる。ではそれなら、この容疑者は一人で死ねば問題はなかったのか?それは全く違うし、問題の争点が完全にずれている。なぜならこの事件が起きたのは、この容疑者を自殺にまで追い込んだことにあり、「容疑者の自殺=無差別殺傷事件」という構図が成り立つからである。すなわち事件を防ぐためには、そもそも容疑者の自殺を防ぐことが必要であったのだと考えられる。

ならば、容疑者を自殺へと追い込んだものは何だったのか?家庭の事情、社会的事情、それとも容疑者の人間性なのか?それは今となっては分からない。しかし一つの事情だけでなく、これらの複数の要因が重なって起きたのではないかと考えられる。この中で最も考えなければならないことは、社会的事情であろう。社会の在り方次第では、家庭の事情や人間性の問題も乗り越えられた可能性がある。特に日本は再チャレンジが非常に難しいという固有の事情がある。このことは、多くの人間を追い詰める原因として十分だ。これは言い換えると、たまたま上手く行けば全てが上手く行くが、たまたま上手く行かないことがあると全てが上手く行かない可能性があるという事だ。もちろん人によっては、何度上手く行かなくてもめげずに何度も立ち上がれる人がいる。逆に、些細な失敗が原因で立ち上がれない人もいる。どちらの人間が素晴らしという事ではなくて、これは人間の多様性の問題であり、多様性が存在することは非常に重要な事である。現在は少子化が問題になっており、至る所で子供を産むことが重要だと言われているが、そのような社会の中でも子供を産まずに色々と貢献できる人も社会にとって大事である。さらには社会貢献だけでなく、学問、芸術などで独自の存在感を発揮する人もいる。このような全ての人が大事なのである。

川崎の事件はただ単に容疑者だけの問題でなく、社会の問題だと考えなければならない。「一人で死ねばいい」という世論は、巡り巡って自分の首を絞めることになるのではないかと僕は考えている。容疑者を追い詰めている要因は、社会に生きる全ての人を追い詰める要因である可能性が高い。このような世論は、度々取り上げられる「自己責任」という世論にも通じるものがある。これらの事は自分には関係ないと思うかもしれないが、社会全体を支配する圧力を通じて自分にも影響を与える問題であると認識することが重要ではないだろうか?

組織を眺める。

僕は組織に属しようとは思わないが、組織を眺めるのは大好きだ。巨大組織の代表と言えば、防衛省や警察組織であろう。なぜ防衛省や警察組織を巨大組織の代表と置いたのか?それは単に巨大であるというだけではなく、組織の縦関係が明確にされているからだ。

特に警察組織は面白い。一番下部に当たる巡査から頂点の警察庁長官・警視総監まで、その組織のピラミッド構造は壮大だ。警察組織の最高ポストは言うまでもなく警察庁長官であるが、実は警察庁長官は階級外にあるポストである。従って警察組織の最高階級は警視総監になる。ちなみに、巡査長というものもあるが、これも正式な階級ではなく、巡査部長になっていないベテランの巡査に与えられる称号であるようだ。

防衛や警察の組織にはなぜ厳格な上下関係があるのか?これには明確な理由がある。それは指示系統を明確にするためだ。例えば、軍が戦っている時に、上部から二つの命令が同時に来たとしよう。その時にどちらの命令に従うか?現場でそのような事を迷っていれば、その間に命を落とすことになりかねない。そのような時には、より地位が高い将校の命令に従うと原則決まっている。そのようにある意味命令指示系統をマニュアル化することにより、素早い判断と実行が可能になる。防衛や警察組織の厳格な上下関係は、組織の統率を図るためには必要不可欠なものなのである。

現在、社会的には全ての人がフラットになるように図られる方向に進んでいるように感じる。しかし社会格差は広がる一方である。格差自体は悪いものではないと僕は感じている。しかしその格差のあり様が非常に問題なのである。例えば機会の平等は非常に重要である。しかしそれは結果の平等まで保証するものではない。結果にまで平等を求めてしまえば、それは社会主義や共産主義のようになってしまう。

しかし、多くの組織はある程度、社会主義や共産主義的な所があるように感じている。特に日本社会では、日本という国が資本主義・民主主義であるにもかかわらず、そこにある民間組織、公的組織は非常に共産主義的である。ある中国人はこんなことを言ったという。「日本に来て、初めて真の共産主義を見た」と。

最近、警察の元幹部が「日本の警察組織では、無能な者が出世することはありえない」ということを書いていた。もしかしたら警察組織は本当にそうなのかもしれない。しかし多くの組織は必ずしもそのようにはなっていない。現在、社会全体が資本主義というものに懐疑的になり、資本主義を見直そうという動きがある。しかし問題の本質は、資本主義・民主主義が徹底されていない所にあるのではないだろうか。すなわち、民主主義・資本主義国家の中にある共産主義的な慣習が問題の本質だと僕は考えている。