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英語力で評価されるのは二流だ!

女子ゴルフの渋野日向子選手がゴルフ・全英女子オープンで優勝した。渋野選手のいつでもスマイルが話題になったが、優勝スピーチも見る者を惹きつけた。渋野選手の優勝スピーチの英語はお世辞にも上手いとは言えないし、はっきり言って中学レベルである。しかしそのような中学レベルの英語スピーチを、「英語力が低レベルだからダメだ」と言う人はおそらくいない。なぜなら、本業であるゴルフのプレーでしっかりと世界一と言う結果を残しているからだ。彼女の上手くない英語力がゴルフの評価を下げることは全くないのだ。それどころか、最後に笑顔で放った「サンキュー」と言う一言が彼女の魅力をより一層強いものにした。

しかし世の中では、何かと「英語力が重要だ。英語力を身に付けないといけない。」と言われている。極端な場合では、「英語が出来ないと全てがダメだ」と英語力だけで人間を判断されることもある。しかし英語力は何のために付けるのか?それは、自分が取り組んでいる事をよりスムーズに進めるためだ。言い方を変えると、英語力は補助でしかないと言える。だから本業で圧倒的な力を見せることが出来れば、英語力などはどうでもよいのである。もし英語力で自分の力を評価されているのならば、それは本業で力を出せていない、自分が二流であると言うことである。

以前、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、英語が大の苦手であったと言う。確かノーベル賞授賞式でのスピーチでも、博士は日本語でスピーチしたはずだ。しかし博士が英語が話せないと言う事によって評価が下がったなどと言う事は聞いたことがない。それは彼の研究力が一流だからである。

渋野選手はこれから世界を転戦すると思われるので、英語力もこれからメキメキと付けて行くであろう。そして彼女の英語力はこれから彼女のプレーを大きく助けて行くと思われる。しかし彼女の評価は英語力でされるのではなく、ゴルフのプレーによってされる。なぜなら彼女は一流のゴルフプレーヤーであり、英語力ではなく、プレーと彼女自身の人間性に魅力があるからである。

必要なのは技術か?アイデアか?

日本では技術力が過度に高く評価される傾向がある。もちろん高い技術力がある事は素晴らしいが、ただ技術力があるだけでは何も成し遂げられない。技術というものは何かに応用して初めて威力を発揮するのであって、その「どのように応用するか?」というアイデアなしでは何も成し遂げられない。

逆にアイデアだけでも何も成し遂げられないし、学問で言うと、アイデアだけでは単なる素人の妄想でしかない。アイデアは具体的に構成して初めて意味を持つ。その具体化は技術によって成し遂げられる。

すなわち必要なのは、技術とアイデアの双方なのである。この二つは車の両輪である。片方が欠けても前に進まない。ただ、役割分担と言う事は出来る。アイデアを出す人と技術を持っている人が融合すればいい。もちろん、一人でアイデアと技術の両方を持っていれば理想的であるが、なかなかそのような人はいない。企業も同じで、良いアイデアと高い技術力の双方を持ち合わせている企業は少ない。

今日本で問題になっているのは、高い技術力を持ちながらも良いアイデアを出せない事である。日本の技術力は誰が見ても世界トップレベルである。しかし、現在非常に威力のある分野であるスマホ製品を見ても鳴かず飛ばずである。僕自身も日本企業は高い技術力を持っていると思いながらも日本製品に魅力を感じず、アップルのiPhoneを愛用している。日本企業がiPhoneのような素晴らしい製品を作ってくれればどれだけ良いかと思うが、現状を見るとそれは期待できない。日本企業は高い技術力を持ちながらも、アイデアは他国企業の後追いばかりである。

数学においても、計算力が抜群にあろうが豊富な理論的知識があろうが、それをどのように発展させるかと言うビジョンがなければ新しい理論を構成することはできない。もちろん、数学以外の学問においても同様であろう。学生のうちは、熱心に勉強してたくさんの知識を身に付ければ良い。本もたくさん読めば良い。しかし、学生を卒業した後はそれらの知識を基にアウトプットをしていかなければならない。そのためには、読書をして技術を付けるだけでは何の進展も望めない。アウトプットするためには、はっきり言ってビジョンなき読書は無力なのである。アイデアを基に実行しなければ何も生み出せない。今、日本が陥っている「技術バカ」ではなく、また「アイデアのみのド素人」でもなく、「技術とアイデアの双方を兼ね備えた実行家」として遂行することが必要なのである。

高橋政代博士、民間企業に移籍。

理化学研究所の高橋政代博士が、理研から民間企業へ移籍したと言うニュースが報じられた。高橋政代博士はiPS細胞を用いた眼科再生治療研究の第一人者で、iPS細胞治療の臨床応用に関しても世界で初めて成功している。高橋博士の民間企業への移籍は何を意味しているのか?そしてこれから基礎研究はどのように進むのか?少し考えてみたいと思う。

もっとも、僕は医療に関して全くの部外者であり、医療の専門家でも何でもないので、再生医療の未来なんて言う大それた事は何も言えない。ただ研究者としての立場からは何等か言えることがあると思い、少し自分の意見を書こうと思う。

日本の研究者は大きく二つに分けられる。公的機関の研究者と民間企業の研究者だ。数学や理論物理ならフリーの研究者というのも可能である。高橋博士は公的機関から民間企業へと渡ることになった。公的機関から民間企業へと移籍すると言う事は、公的機関にいては何か不都合があったのだろう。それは何か?それは大きく二つにに分けられる。一つは研究遂行に関する事。医学研究ならばしっかりとした施設が必要だし、それらを含めて多額の研究費も必要になる。理研がそれらを満たしていないとは考えにくいが、高橋博士の構想に照らし合わせるとそれらを満たしていなかったのではと考えられる。あるいは例え理研がそれらを満たしていても、オファーのあった民間企業がそれ以上の研究費と優れた施設を保持していたのかもしれない。それならばほとんどの研究者はその民間企業へと移籍するはずだ。高橋博士がこれからその優れた企業で、これまで以上の優れた研究成果を挙げることを強く祈るばかりである。なぜなら、高橋博士の研究成果は、医療と言う形で社会利益へと直で結び付くからである。

もう一つは、個人的な利益である。個人的利益とは、一言で言うと報酬、そして地位や名誉だ。日本では特にこのような面を軽視しがちだ。ひどい場合には、「研究者は好きな事をしているから、お金はいらないだろ」と言われることもある。バカヤロー!研究者だって人間だ。だから人権もあるし、成果に対して対価を得る権利もある。日本では、いや、世界でもそうだが、研究結果がたどり着く最終工程、つまり製品化や医療行為に対してお金が集まる仕組みになっている。だから企業のトップが儲かる訳であり、医者が儲かる訳である。同じ医者でも、基礎医学研究者は基本的には儲からない。だからお金が欲しい医学部生は、医学研究者ではなく医者になり、最終的には開業医になろうとする。では、多くの開業医と、山中伸弥教授や高橋政代博士などの基礎医学研究者ではどちらが偉大か?百人いれば99人は同じ答えを出すだろう。(もちろん、優秀で偉大な開業医もたくさんいる。)高橋博士が個人的にどうであったかは僕には知る由はないが、研究者にとっても報酬や地位名誉は非常に重要である。

多くの研究は一見金銭的利益には結びつかない。もしかしたら社会的貢献からも非常に遠い位置に見えるかもしれない。しかしそれは多くの本質を見逃している。まず研究結果というものは人類すべての知の財産であり、人間社会に多大な貢献をしている。そして金銭的利益に関しては、それが一年後に金銭的利益に結び付くかと言えば絶望的であるが、10年後に結び付く可能性はそれなりにあり、50年後、100年後にはほぼ確実に結びついている。しかしその時にはほとんどの研究者は息絶えているだろう。だから、研究者がまだ息をしている間にそれなりの対価を与えることが必要だ。高橋博士の移籍はその実現例であったのかもしれない。いや、そう思いたい。今回の高橋博士の例のように、基礎研究者が民間で活躍し報酬を得られる仕組みを積極的に作って行きたいものである。高橋博士の場合は医学と言う医療に直結する分野だから実現したが、数学者がその基礎研究を民間企業で行い、報酬を得、地位と名誉を得られる日は来るのだろうか?少しだけ期待してみよう。

炎天下で何も考えずに死に物狂いで倒れる高校球児の姿は、もうダサい。

先日、大船渡高校の佐々木朗希投手についての話題を書いたが、数日経っても佐々木投手の決勝での登板回避に関しては賛否が分かれているようだ。僕はこの佐々木投手の登板回避とそれを決断した監督に対して称賛を送ると言ったが、現代的な野球システムを考えると称賛ではなく、常識的な判断でさえあると思える。

投手の肩は消耗品だ。それは野球に対する現代的知識としては常識である。佐々木投手の登板を抑えたことは、日本の宝を守ったとさえ言える。もちろん、今回の登板回避によって佐々木投手の未来が100%明るいものになったという保証はない。登板を抑えても故障する時はするし、投げ続けても耐えられる人は耐えられる。ただ確率的な問題だと言える。今回の佐々木投手の登板回避は、将来の成功の確率を高めたものだと言える。

高校野球と言えば、炎天下で無我夢中でプレーし、倒れることが美しいとこれまで言われてきた。現在でもそのようなステレオタイプのイメージを高校球児に押し付ける人は少なくない。しかし、もうそのような野球イメージはダサい。“何も考えず”に死に物狂いでプレーし倒れるような選手に、今は美しさなど感じない。むしろ今回の佐々木投手のように将来のプロでの活躍のために肩を守り、将来に備える方がはるかにクールである。甲子園に出ることが絶頂であるような選手は(もちろん高校野球としてはレベルが高いのだろうが)、結局そのレベルの選手でしかないと言う事だ。佐々木投手擁する大船渡高校に勝利し、マウンドではしゃぐ花巻東の選手に器の小ささを感じたのはそういうことだ。(一言付け加えると、花巻東は菊池投手や大谷選手を大切に育てた非常に素晴らしいチームである。)

それでも、がむしゃらに投げ続けることが本来の野球の姿で、現在の野球選手は甘やかされていると言う人がいるだろう。ならば、そのような昔の日本の野球レベルと現在の野球レベルはどちらが高いか?火を見るより明らかである。30年ほど前までメジャーで通用した選手はいたであろうか?野茂英雄氏がアメリカに渡るまで、本格的にメジャーでプレーできた選手はいない。しかし現在ではほぼ毎日のようにメジャーで活躍する日本人選手の姿を見るようになった。明らかに圧倒的に現在の方が日本の野球レベルは高いのである。システムは日々科学的に洗練されたものになって行く。科学嫌いの人にとっては不本意であるかもしれないが、そのようにしてあらゆる分野のレベルは向上して行く。野球だって例外ではない。

炎天下で何も考えずにプレーする高校球児はもうダサい。そしてそのような姿をダサいと思われるような野球知識を、多くの人が付けなければならない。これからは頭を使い、考えながらクレバーにプレーして行く時代なのである。そのようなスマートな野球こそが、これからのカッコいい野球選手の姿である。

学問とビジネス。

学問とビジネスとの関係は微妙だ。工学関係の研究だと製品に直結することも多いのでビジネスに直に結びつくが、数学や理論物理に関してはビジネスに直に結びつくことはほとんどない。しかしそれは現時点だけの関係であって、工学ならば数年後に大きなビジネスに結びつくところが、数学や理論物理の研究に関しては50年後100年後になることが多いと言う事だ。実際に20世紀前半に打ち立てられた量子力学のシュレーディンガー方程式が数年後に実用化されたという話はあまり聞かないが、現代社会においてはシュレーディンガー方程式を用いていない電子製品などというものは存在しない。青色発光ダイオードの中村修二の発明対価が200億円であるという判決が以前出たが、シュレーディンガーの功績を現在のビジネスにおいて発明対価を計算すれば、おそらく数百兆円は下らない。おそらく現在世に存在する電子製品の全てがシュレーディンガーの発明対価の対象になるはずだ。

しかし、数学や理論物理の研究者がビジネスに熱を上げているという話はほとんど聞かない。数学者がビジネスに無関心であると言う話も良く聞くが、そもそも数学がビジネスに結びつくとは誰も思っていおらず、初めからそれをビジネスに結びつけると言う発想自体がないものだと思われる。しかし数学者であっても生活しなければならないことは変わらず、大学や研究所に所属する数学者は所属機関から給料をもらっている。

別にビジネスに無関心であることが美徳でも何でもなく。むしろ数学者であっても積極的にビジネス的視点で物事を考えることは必要なのではないかと僕は思う。しかし別に営業や商売などを考える必要はない。数学者には数学者しかできないビジネスがあるはずだ。そこを考えないと、数学者である意味が薄れてしまう。しかし、ビジネスに無関心で研究に没頭するのもそれはそれで良いと思う。物事には役割分担がある。学問の根幹となる部分を数学者が行い、ビジネスの末端になる部分はビジネスマンがやればいい。もちろん、そのように上手く行けばの話だが。

もちろん、数学の真価がビジネスにあるとは思えない。しかし数学者であっても、お金を稼がなければ生きて行くことはできない。そういう意味では、バリバリのビジネスマンでなくとも数学者も広義のビジネスというものは考えなければならない。とは言え、数学者や理論物理学者は、ビジネス的観点からはかなり不遇な立場に立たされているように思える。中には数学者にはお金儲けは必要ないと言う人さえいる。何を根拠にそんなことを言うのだろうか?

とは言え、数学は面白い。物理学も面白い。その純粋に面白いと言う事に没頭しているだけだ。そのように純粋に学問に没頭している数学者・物理学者に対して、ビジネス的に冒涜することはいい加減にやめてもらたいものだ。

大船渡・佐々木朗希投手の器。

高校野球地区予選決勝で、佐々木朗希投手擁する大船渡高校が花巻東高校に敗れ甲子園出場を逃した。大船渡の監督は決勝で佐々木投手の出場を回避すると言う決断を下したが、この決断に関しては賛否両論あるようだ。僕の個人的意見としては、今回の大船渡の監督の決断には称賛を送りたいと思う。

多くの人が言うように、佐々木投手は高校野球の世界で満足するような器ではない。彼には甲子園よりメジャーのマウンドの方が似合うはずだ。高校野球で頂点に立つのではなく、メジャーで世界一の投手になってほしいと願っている。

過去を振り返れば、イチローさんは甲子園で注目を浴びるなどと言う事は眼中にもなかったように思う。少なくとも甲子園で負けて泣くような男ではない。今回大船渡と対戦した花巻東高校時代の大谷翔平選手も、甲子園では目立った活躍はしていなかったように思える。(もちろん、高校で160キロを出したという記録はとてつもないが。)佐々木投手には、イチローさんや大谷翔平選手が見ている世界を見てほしいと多くの人は願っているはずだ。

今回の決勝で出場回避して負けたことは、佐々木投手の器をさらに大きく見せられたように感じる。大船渡に快勝した花巻東の選手たちはマウンドではしゃいでいたが、佐々木投手との対比によって逆に器の小ささを感じさせられもした。もちろん、花巻東と言うチームのレベルが非常に高いのは百も承知である。佐々木投手の器がデカすぎるのだ。

今回の敗退によって、佐々木投手の本領を垣間見ることは持ち越しになった。しかしそれは楽しみが先延ばしになったに過ぎない。数年後、メジャーのマウンドで雄たけびを上げる佐々木朗希投手の快投を楽しみにしよう。

選挙権。

7月21日、参議院議員選挙が行われた。今回の選挙の投票率は50%を割り、すなわち二人に一人は投票所に足を運ばなかったことになる。その理由は人それぞれであるとは思うが、「自分が投票しても何も変わらない」と言う意見も良く聞く。果たしてそのように考えるのは正しいのであろうか?

一人の票は数千万分の一である。問題はこれをどう捉えるかである。数千万分の一とはかなり小さい数字のように思える。これだけを見ると、自分の一票だけでは何も変わらないようにも思える。しかし、一票を投じた人たちの票の積み重ねによって政治は動いている。この数千万分の一が世の中を動かしているのである。こう考えると、投票している人としていない人では、イチとゼロなのである。政治家は国民がコントロールしなければならない。そして政治家をコントロールしているのは、一票を投じた国民なのである。

日本国民であるならば、中学高校で日本史を習ったはずだ。そこでいかに国民が選挙権を獲得して行くかと言う歴史を習ったはずだ。昔は一定金額以上の税金を払った男子だけが選挙権を保持していた。ある意味、選挙権を保持していると言う事は特権階級の証であった。そして徐々に一般国民にも選挙権が与えられるようになった。そのような歴史を習ったのならば、選挙権がいかに貴重なものかは理解できるはずだ。なので、自分が一票入れても何も変わらないと言って投票所に足を運ばない人は、自分の無知をひけらかしているのに等しい。

トップホストのローランド流に言うのならば、「日本人には二種類いる。政治を動かす人か、政治を動かせない人か」と言う事だろう。もちろん、政治を動かす人と言うのは投票する人であり、動かせない人と言うのは投票しない人である。もちろん、投票をしない人に対して投票を強要するのは間違っている。ただ投票をしない人は、自分の保持する権利をみすみす放棄している、ただそれだけである。

選挙に対するメディアの役割。

テレビニュースなどのメディアでは、度々政治家の不祥事が取り上げられている。そのような度重なる不祥事に対して国民の怒りも相当あるだろうし、そのような不祥事が政治家不信を招き、政治家に対する期待は無くなって行く。その結果、投票率は低下し、特に若者の投票離れが顕著になって行くのだと思う。

この様な選挙離れに対して政治家の責任は非常に大きいが、その一方、メディアの側にも大きな責任があるのではないかと僕は考えている。その理由は二つある。まずは政治家が自分に利の大きい高齢者向けの政策の発信がメインになる中、メディアもそれに対応して高齢者向けの政治ニュースをメインに扱っていることだ。それによって若者は疎外感を感じるのではないだろうか。自分には政治は関係ないし、政治家の側も若者の方を向いていない。そう感じられれば若者の足が投票所から遠のくのも無理はない。

もう一つは、メディアが政治家の不祥事は大きく取り上げるが、政治家の成果や取り組んでいる事を軽視していることだ。不祥事などは市民の目耳を集めやすい。以前話題になった号泣議員などはその最たる例だ。しかし政治家が今何に取り組んでいるのか?そのような事をいったいどれだけの人が理解しているだろうか?これは単に市民が不勉強だからと言うだけではない。メディアがこう言った話題をなかなか取り上げない事も原因である。号泣議員のニュースには膨大な時間が割かれてきた。しかし普段の政治家の取り組みに関するニュースはほとんど目にすることはない。相当能動的に知ろうと思わなければこのような情報を仕入れることはできない。

メディアと言えども商売なので、市民が興味ある情報をメインに垂れ流すことはもちろん理解できる。しかし政治家が現在何に取り組んでいるかと言う情報は非常に重要である。そのような情報を日常的に発信すれば、もう少し政治が身近なものになるのではないだろうか?若者の足を投票所に向かわせるためには、まずは日常的に政治ニュースに触れられる環境を作ることが大事である。

悪しき平等主義。

近年は平等と言う事に対して社会が敏感になっている。もちろん、平等な社会にすることは重要なことであるし、多くの事に対しては平等は良い影響を与える。しかし、思考停止的に平等にこだわってしまえば、それが悪しき平等主義に繋がってしまうこともある。

例えば企業でも給与に関しては、皆同じように昇給して同じ金額の給与をもらうことが平等と考えられて来た。最近は、同一労働同一賃金と言う事が広く問題に上がることが多くなったが、このような同一労働同一賃金には僕自身も大きく賛成である。同じ成果を挙げたのならば同一賃金を支払うのは理に適っている。問題なのは、ある意味同一労働同一賃金の対極にある事と言えるが、能力も成果も異なるのに“平等に”同一賃金を要求することだ。しかし日本では、このような悪しき同一賃金主義がはびこっており、それが日本の将来を暗いものにするのではないかと僕は、そして一部の人は危惧している。

そのような悪しき同一賃金主義の下では、能力のある者は正当に能力を評価してくれる海外に流れ、結局能力のない者だけが残ると言う事になってしまう。能力のない者にとっては居心地の良い日本社会である。よく言われているように、平等にすべきなのは、機会の平等であって結果の平等ではない。しかし、日本では結果の平等に極度にこだわっており、その結果、共産主義的な低いレベルでの平等が行われ、そのレベルは年々低くなってきているように思われる。

今日本で必要なのは、人物に対する正当な評価である。結果に対する平等ではなく、正当な評価が真の平等に繋がると僕は考えている。悪しき平等とは、見える所だけを平均で均した見かけ倒しの平等である。見かけではなく、その中身まで掘り下げて評価をしなければならない。そうしないと、世の中にはびこっている悪しき平等主義は無くならないであろう。

自由だとか、人権だとか。

現在、香港のデモが注目を浴びている。香港のデモは条例の制定に関するものだが、簡単に言うと、自由だとか人権に関するせめぎ合いだ。日本では近年、このようなデモは全くと言っていいほど見かけない。それはある意味、日本が平和であることを象徴していると言えるが、果たしてこのような平和に見える日本で自由や人権が守られているかと言うと疑問に感じることが多い。

日本と言う国は資本主義であり、自由主義の国である。そして多くの日本人は日本が自由な国だと信じている。もちろん、中国などに比べると自由な国である。しかしそのような自由度が年々落ち続けているように思えてならない。

自由度が落ち続けている理由はいくつか考えられる。その代表は、テロ対策を強化した結果だと言える。テロを防ぐためには規制を強化しなければならないこともあり、ある程度はやむを得ない所はある。しかし、深刻なのはもう一つの理由だ。それはITの飛躍的な発展である。ITが発達するにつれ監視が容易になり、それに乗じてあらゆる組織が自己を守るために監視を強化している。確かにスマホは非常に便利なツールである。しかしスマホを持つことによって、人々は常に行動を記録されることになる。しかし多くの人はそのような実感はない。この様な状況は、檻の中の自由だと言える。

現在の状況は非常に危うい基盤の下に自由が成り立っていると言える。しかし一歩踏み外せば、それは全てもろく崩れ落ちる事になるのではないか。そして科学技術の発展が逆行することは99%無いので、このような自由の崩壊を防ぐことは非常に難しい。しかし不可能ではないと僕は考えている。まず人々が、ネット社会では容易に監視が可能であることを認識することである。そして自由が失われつつあると感じた時には声を上げることが必要である。社会というものは、法一つで劇的に変えられる。もちろんそれが100%である訳ではないが、市民が選挙で投じる一票によって社会は大きく変わる。今月、参議院議員選挙が行われる。自分の意志を示し政治を動かすために、まずは一票を投じることが非常に重要である。