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ゴーン氏国外脱出。僕はゴーン氏の主張にかなり賛同している。

年末になり、元日産自動車社長のカルロス・ゴーン氏が国外脱出したと言うニュースが飛び込んできた。ゴーン氏がどのように脱出したかはまだはっきりとはしていないようだが、日本の検察側、裁判所側にとってはとてつもなく大きな失態だ。日本のメディアはゴーン氏の国外脱出を“逃亡”と表現し非難をする論調が強いようだが、僕はゴーン氏側の声明に対してかなり大きな共感を持っている。

では、ゴーン氏側の主張の何に共感しているか?それは、検察側の「有罪ありき」の取り調べ、そしてそれに呼応する裁判所側の姿勢だ。日本では起訴されると、有罪決定率が99.9%(この数字は比喩的に表現されたものと思われるが)にもなると言う。確かに起訴された人間が罪を犯している確率は高いであろうが、しかしその確率が99.9%と言うのは、明らかに常軌を逸している。その数字が主張しているのは、警察・検察は99.9%ミスをしないと言うことである。しかしこれまでいくつもの冤罪事件が明るみになってきた。その代表は殺人罪に問われて冤罪だとほぼ確定している袴田巌さんの件であろう。しかしこの袴田巌さんの件においても、検察側は自らのミスを認めていない。

では捜査・取り調べ・裁判とはどうあるべきか?それは有罪か無罪かを精査することである。すなわち、明らかに疑惑性が低い件はしっかりと無罪を導き出すべきである。しかし一度起訴されてしまうと、日本においては99.9%有罪になってしまう。どんなに疑惑性が低くても有罪の判決が出るのである。これは、一度起訴された件に関しては、検察側が何があっても自らのミスを認めないと言うことに原因がある。これは非常に恐ろしいことである。事件の被害にあうことは恐ろしいことであるが、何も犯罪をしていない人が拘束され犯罪者に仕立て上げられることはさらに恐ろし事である。しかし日本の現状はそのような事が横行しているとまでは言わないまでも、度々発生しているのである。

今後、ゴーン氏は日本の司法制度に挑戦してくると言われている。僕はこのことに対しては大いにゴーン氏に賛同する。この際、徹底的に日本の司法制度のおかしい部分を掘り下げ、改革の火を付けてもらいたいものである。そういう意味で、長い目で見ればゴーン氏の国外脱出、日本の司法への挑戦は必ず日本及び日本国民の安全と自由にとってプラスになるはずである。今回の件に関して、単に感情的に「逃亡はけしからん、ゴーン氏は悪だ」と捉えるのではなく、ゴーン氏の主張を吟味し、日本国の司法の在り方を見直すべきである。

では、これからゴーン氏の事件に対して日本はどのような姿勢を取るべきか?僕はゴーン氏の身の安全と自由を保障し、ゴーン氏の主張と日本の司法側の主張を真っ向対決させるべきだと思う。もうゴーン氏が有罪か無罪かと言う問題では全くない。世界の司法の常識と日本の司法の常識との対立である。僕はゴーン氏の今後の動きに大いに期待をしている。これは必ず日本のおかしな現状を変えるきっかけになるはずだ。

新庄剛志の挑戦。

“元”プロ野球選手の新庄剛志さんが、最近再びプロ野球に挑戦すると宣言して話題になっている。それに対する反応はまちまちであり、バカにする人も多いが、僕はこの究極に新庄らしい宣言に対して非常に好感を持っている。元監督の野村克也氏は、「究極のアホ」と言い放っているが、これも元教え子の新庄さんに対する一つの愛着の表れではないかと僕は思っている。もっとも、本気で新庄さんがプロに戻って来ると思っている人はほとんどいないようだが。(僕を除いて。)

そもそも、歳を取ると衰えるから無理だと考えることには何の根拠があるのか?いや、はっきりと根拠がある。科学的医学的に考えれば、歳を取ってプロ野球選手になることは不可能だ。しかし、新庄さんは“まだ”47歳である。まだまだ十分行ける!新庄なら!歳のせいにして不可能だと言うのは、ある意味単なる言い逃れでしかない。スポーツも学問も、生涯プロを目指すべきだ!

新庄剛志の歴史は、不可能を可能にしてきた歴史だ。阪神タイガース時代、スター選手として活躍したが、突出していたと言う訳ではない。なので、大リーグ挑戦を宣言したとき、誰もが失敗すると言い放っていた。しかしいざアメリカに行くと、数字的にも日本と変わらない成績を残すことに成功している。そして何よりも、日本人初の大リーグでの4番打者になっている。松井秀喜よりも前に4番打者になっているのである。まさしく「奇跡を呼ぶ選手、クレヨンしんちゃん」なのである。

僕だって、他の選手がそんなことを言うのなら、絶対に無理だと思ってしまうだろう。(イチローは別格であるが。)しかし、新庄なら本当にやってしまうのではないかと心のどこかで思ってしまう。普通なら0%だ。しかし新庄なら3%くらいあるのではないか。僕はその3%に期待しているし、ワクワクしている。新庄はおバカキャラだけど、バカではない。新庄こそ究極の挑戦者であり、究極のエンターテイナーではないだろうか?

魔教育。

魔教育とは、特に小学校で行われている子供の将来をぶち壊しにする教育だ。そしてその原因は、小学校教師の極度なレベルの低さにある。

魔教育は、特に小学校の算数の授業で実行される。例えば
・例1、掛け算の交換法則を理解していない。
・例2、イコールの付け方に意味のない規則を教える。
・例3、筆算の棒を定規で書かせる。
・例4、「3=3.0」を理解していない。
などである。

例1については、面積の公式を「縦×横」は正解だが、「横×縦」は間違いだと言う嘘を教えることだ。
例2については、イコールを横に次々と並べてはいけないと嘘を教えることだ。
例3については、そのままである。
例4については、そもそも数字(算数以前の問題として)を理解していない。
もう、これらがなぜダメなのかという低レベルな事はここでは述べない。しかし、実際の小学校ではこのような魔教育が行われているようである。

僕は大学時代、教育学部の友達が多かったので、このような話をよく聞く。そしてそれらを指摘された教師は恐るべきことに、ネットで検索して調べるようである。しかもWikipediaで。そしてそのような小学教師であるほど、小学校の授業で算数が一番簡単だと言っているようなのである。

このような魔教育の根源は、「生徒のための教育」と言う意識が軽薄で、「教師(自分)のための作業」をこなしていると言う意識があることによるものではないかと思われる。魔教育は間違いなく子供の将来をつぶす。教師が人間として低レベルなのはどうでもよいが、子供にそのような低レベルな人間の作業に引きずり込むことは害悪でしかない。しかしこれらのことがあまり世の中の問題にならないのは、まさかそこまで低レベルな教師がいるとはだれもが想像していないからである。しかし実際は相当数の超低レベルな教師がいるようなのである。

未来的イメージと個性。

最近、車の雑誌を読んでいると、近未来の車として電気自動車や自動運転車のコンセプトモデルが出されているのを見ることが多い。ガソリンの自動車が廃れるのか残るのかは世界の環境政策にかかっていると思うが、ただ電動化、自動化の路線を突き進むことは疑いようのない事実のようだ。

そこで近未来のコンセプトモデルを見ると、もちろんそれぞれデザインは違うものの、何だか方向性が全て同じように感じてならないのだ。時代を先取りした前衛的モデルと言うコンセプトは同じでも仕方がないが、個性を出そうとしているのがそれらの全ての個性が同じように見えるのだ。これは実は個性を出しているようであって個性ではないと言える。それらの個性の源泉が全て画一的なのである。このような事は、あらゆる分野に対して言えるのではないだろうか?

「最先端=個性」では決してない。むしろ最先端は流行であると言うことが非常に多い。そして最先端にこだわるあまり、ただ単に流行に乗っているだけと言うことが少なくないのだ。このような事は学問にも言えることである。学問においても流行があり、一部の(多くの?)研究者たちはいかにして流行に乗り遅れないかと言うことばかり考えているようである。最先端は乗るものでなく作るものなのである。最先端に乗っかっている人に個性が出るはずがない。

車の話に戻るが、僕は最近のマツダのデザインが大好きだ。現在マツダの車に乗っているわけではないが、次車を買うときはマツダの車を買いたいと思っている。現在のマツダの車はデザインが秀逸であり個性的である。しかし前衛的な印象は受けない。車の質的にも非常に良いらしいが、僕は乗っていないので何とも言えない。しかし現在のマツダのスタイルは、あらゆる分野の人間に対して個性の一つの在り方を示しているのかもしれない。前衛性にこだわるあまり全ての人が同じ方向へ進み、結果的に個性を殺している。人々はもう少し、いや深く個性の在り方出し方を考えるべきではないだろうか?

もう安倍政権を支持することはできない。

僕はこれまで何度も述べてきたように、自民党・石破茂氏を一貫して支持してきた。そして現政権は自民党安倍政権であるが、これまでいろいろと不満を抱えつつも安倍政権を支持してきた。しかし今、もう安倍政権を支持することに限界を感じ、安倍政権を支持することはできないと判断した。

ではなぜ安倍政権を支持することができなくなったのか?それは今までの様々な問題の蓄積からであるが、最後のとどめとなったのが現在問題になっている「桜を見る会」問題だ。しかし桜を見る会自体は僕はそんなに深刻には考えてはいなかった。地元の有権者を招くようなことは当たり前の話としてあると想像できるし、参加者の会費に関しても確かに白ではない。しかし僕はそんなことだけで安倍政権を不支持にしたりはしない。問題はその後である。安倍首相、そして安倍政権に関わる周辺の政治家と官僚たちの事後対応が圧倒的に問題だ。完全なる隠蔽主義と都合の良いいい加減な解釈。そして周りの政治家や官僚は安倍首相に対してノーと言えず、完全なるイエスマンになっている。はっきり言って、このような状況は国民にとって害悪でしかない。国民の自由と安全までが危機にさらされていると言ってよい。

これまで安倍首相は様々な成果を挙げてきた。特に外交に関しては圧倒的な力を発揮し、それに長期政権のメリットも加わり、日本の外交・防衛に大きな貢献をしてきたと言える。現在日韓関係がもつれ、韓国にとって安倍首相は大きな脅威であろう。しかし今の状況は日本国民にとっても安倍首相は脅威であるように思えてならない。日本国民の様々な自由が奪われようとしている。中国ほどではないが、国のためとなれば国民の自由も束縛されるのが当たり前と言う風潮になりつつある。数理物理研究者としては、学問の自由が大きく侵されようとしていることが許せない。もうあらゆることが、首相多選の害悪にさらされている。やはり首相任期2期6年と言う制限は大きな役割を果たしていたと言える。3期9年は独裁の域に入りつつある。

僕個人の希望としては、次の政権に石破氏が就いてほしいと強く願っている。しかしそうなったとしても、3期9年は良いとは思えない。やはり首相任期は2期6年に戻すべきである。現安倍政権があまりに強くなりすぎて、その強さだけが目立ってしまっている。そしてデメリットがその大きな強さによってもみ消されている。今自民党内で安倍首相にノーを言えるのは石破氏しかいない。現在、石破氏の立場は非常に微妙なものになっているが、石破氏が最後の砦になってせめてもの政権チェック機能をはたしてほしいと強く願う。

悪い人間が犯罪を犯すのか?

京アニの放火犯罪の容疑者が、容態の改善によって医療施設を転院した。その際、容疑者はこれまでお世話になった医療関係者に対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と感謝の意を示したと言う。僕はこの容疑者のこの言葉に関していろいろと考えるところがあった。

容疑者の放火に関してはれっきとした殺人であり許されることはないが、今回の事件はただ単に「極悪な人間が殺人を犯した」と単純に割り切れるものでもないように思えてならない。そのように考えるきっかけとなったのが、前記の容疑者の言葉である。

生まれながらに悪い人間、そして良い人間と言うものがあるのか?もちろん人間にはそれぞれ個性があり、性格や考え方などが生まれながらによってある程度もたらされるところはあると思う。しかしそれと同時に、育ってきた環境によって方向づけられるところもかなりある。もしかしたら、今回の容疑者も“普通に人並みに”悪い人間だったのかもしれない。なので育ってきた環境によっては、普通に何も犯罪を犯さずに暮らしていた可能性も高い。しかし彼の言葉から、これまで人から優しくされることがなかったのではないかと想像することができる。もしかしたら、これまで彼に優しく寄り添う人間がいたら、彼は感情をポジティブな方向へ向け、人に優しい人間になっていたのかもしれない。そう考えると、彼に対して一方的に極悪な人間だと決めつけることに少しの抵抗を感じないわけではない。

環境と言うものは、自分ではどうしようもないと言う側面がある。今回の事件に対する責任は彼だけではなく、これまで彼の環境を作ってきた親、そして学校の教師、そして彼に関わってきた全ての人々、そして日本の社会全体にあるのかもしれない。だから今回の事件に対して、自分は関係ないと他人ごとにはできない。おそらく彼に対しては、今後極刑が課せられることは免れないと考えられるが、その極刑は同時にこれまで彼の環境を作ってきた日本社会が課せられた刑だとも捉えられる。彼の起こした犯罪を教訓として、社会と人間の在り方を再考する必要があるのではないだろうか。

文化勲章。

先日、文化勲章の授章式(親授式と言うようだ)が行われた。今年の受章者は6人であり、最も注目されたのは、今年ノーベル化学賞を受賞された吉野彰博士ではないだろうか。しかしそれ以外の受賞者の中に、僕が尊敬する人が一人いる。数理工学者の甘利俊一博士だ。甘利博士は建前上「数理工学者」となっているが、その実績は非常に幅広く、数理脳科学から最近のAI技術にもつながるニューラルネットワークまで様々な研究貢献をされている。僕が一時期取り組んでいた、甘利博士の創始された情報幾何は、最も大きな貢献ではないだろうか。

もう数年前(10年前くらい?)だろうか、研究会で甘利博士と少しお話しする機会があった。当時から科学界では有名な方だったので、僕が持っていた甘利博士の著書にサインをお願いした。非常に温和で気さくな方だったように記憶している。もちろん、普段はどんな方か僕には分からないが、もしかしたら研究には厳しい方なのかもしれない。

甘利博士は非常に不思議な人である。何が不思議かと言うと、何が専門なのかわからないのである。あらゆることにおいて大きな結果を出されているので、どれを専門だと言っていいのかわからない。出発点は数理工学のようである。東大の計数工学科の教授もされている。その過程で、情報幾何学を打ち立てられた。情報幾何学は数学と言ってよい。そしてその後、理研の脳科学総合研究センターのセンター長をされ、数理脳科学の分野で大きな結果を出している。そしてその数理脳科学の知見に基づいて、AIのニューラルネットワークの理論にも貢献されているようである。

どう考えても、僕にはノーベル賞を受賞された吉野彰博士よりも甘利博士の方が偉大に思えてならない。現在83歳ではあるが、偉大な研究者は歳を取っても大きな研究を成し遂げる人も少なくない。現在現役かどうかは分からないが、残りの人生においての活躍を強く願うばかりである。

フィギュアスケートの華。

僕はスポーツ観戦が大好きだが、特に冬になるとフィギュアスケートの大会が待ち遠しくなる。近年、日本のフィギュアスケートは非常に高いレベルにある。男子で言えば羽生結弦、宇野昌磨のツートップがダントツだが、僕は特に女子選手のスケーティングが非常に好きだ。

女子フィギュアスケート選手にはそれぞれいくつかのタイプに分かれると僕は考えている。フィギュアスケートの王道は紀平梨花、ジャンプ大会の王道はロシア勢というように。そして僕が特に思っているのが‘‘女子’’フィギュアスケートの王道である本田真凛だ。僕は紀平梨花選手のスケーティングが大好きだ。特に先シーズンのフリースケーティングのプログラムであるBeautiful Stormは超名作である。紀平梨花選手に比べ、最近は本田真凛選手の低迷ぶりが話題になっているが、僕は本田真凛選手も紀平梨花選手に負けず劣らずの名選手だと思っている。

本田真凛選手がどう名選手なのか?それは彼女が女性でしか出せない魅力的なスケーティングを最高に表現しているところだ。よく言われているように、本田真凛選手のスケーティングには華がある。これは誰もが認めるところで、おそらく女性の華という点では本田真凛選手に匹敵する選手はいない。彼女の柔らかい滑り、美しい表現は見る者を魅了する。彼女はフィギュアスケートの王道ではないかもしれないが、まぎれもなく‘‘女子’’フィギュアスケートの華だと僕は思っている。

近年、特に女子選手において、フィギュアスケートがジャンプ大会化していると言われている。もちろん高度なジャンプをするためには高い技術が必用であるし、それは認められるべきであろう。しかし最近はジャンプばかりが注目を浴びており、本来のスケーティングの魅力が過小評価されているように感じる。そういう意味で、本田真凛選手はもっと高い評価を受けるべきである。彼女はロシア選手のような4回転ジャンプはできないかもしれないが、ロシア選手は本田選手のような華は出せない。

フィギュアスケートはあらゆる要素があり、それらの総合力で争われる。しかし最近は、過度にジャンプが評価されているし、見ている人もジャンプに注目しすぎているように感じる。僕はこのようなジャンプ大会に対して、非常に退屈を覚える。そのような状況だからこそ、本田真凛選手が新鮮に魅力を感じるのだ。紀平梨花選手も大好きであるが、本田真凛選手にはそのような華を極めるスケーティングで勝負して上位に食い込んでほしいと強く願っている。

契約書の形骸化。

スマホやパソコンで様々なサービスを受けるとき、初めにサービスの契約内容が示され同意を求められる。しかしそのような契約内容を一度でも読んだことがあるだろうか?僕自身もほとんど読んだことはないし、多くの人は初めの一文字さえも目を通さないのではないだろうか?もちろん契約書に目を通さないのには理由がある。その一番大きな理由は、契約書の文字が非常に小さく、しかも非常に長いからではないだろうか。実際、ほとんどの契約書は見るに堪えないような文章になっている。そのように、契約書と言うものが現実的には形骸化している状態だ。僕はこのことは非常に大きな問題であると考えている。

ほとんどの契約書は、サービスを利用する人のことを考えていない。ではなぜそのような読む人のことを全く考えていない契約書が氾濫しているのか?それはサービスを提供する側の一種の防御、悪く言えば保身のためである。しかし責任はサービスの提供側だけにあるわけではない。サービスを受ける側も、何の疑問もなくスルーして同意ボタンをポチる。そこで多くの人が、契約書のありように疑問を持てば、もう少しマシな契約書、マシな制度ができるはずだ。

国と国との条約であれば、政府や外交官は契約書の一言一句を漏らさずチェックするであろう。しかし普段サービスを受けるのは、法の知識のほとんどない一般市民だ。そのような市民相手に、条約レベルの細かく長い契約書を提示するのはあまりにも不親切すぎる。そして実際は、99%の人がその契約書の内容を全く理解してない。これは契約書のあり方として明らかに問題である。しかしこのような状況を変えるためには、国の政策レベルで変える必要がある。法が国会で成立されるからには、政府が動かなければ変えることができない。

それらの解決策として、このようなことはどうだろうか?例えば従来の契約書の形式は維持しつつも、利用者にはそれに基づいた簡約的な契約書を示す。このような二段階的な契約書は完全ではないにしろ、現状よりはるかに意味があり効果的だと思う。とにかく、現状の契約形式は分かりやすく効果的なものに変えるべきだと僕は思っている。もちろん、すぐに解決できる問題ではないが、政府や官僚が時間をかけてでも検討すべき課題であると僕は考えている。

どういう原理なんだろう?

今の時代、ほぼ全ての人がスマホを持っていると言っても過言ではない。スマホでなくてもガラケーを持っている。新しいスマホを手に入れた時、どのように思うだろうか?おそらくほとんどの人は、「どのように使うか?」と言うことに全力を尽くすだろう。そして世間では、スマホやパソコンを使いこなせる人が、「最先端機器に強い」と言われることが多い。しかしスマホを使いこなせることとスマホの原理を知ることとは全く別次元の問題だ。

現代社会は便利さを極限まで追求している。「どれだけ便利か?」と言うことが、ビジネスの命だと言える。そのような便利さを享受するためには、原理を知ることは必要ない。しかし物事の本質を知るためには、原理を知ることは不可欠だ。

来年から小学校でもプログラミング教育が始まる。プログラミング教育とは、スマホ・コンピューターがどのように動いているかを理解するための教育だ。もちろん、プログラミングがコンピューターの全てではない。しかしソフトウェアの多くの部分は理解できるだろう。スマホを使いこなすだけならプログラミングなど知る必要はない。しかし原理を知ることによって、単なるユーザーからコンピューターのプロデューサーになれる。つまり与えられる側か、与える側か、と言うことである。

プログラミングだけでなく、数学や物理だってその根本は自然の原理を知ることである。原理を知ることは、物事の本質を掴むことになる。つまり数学や物理を学ぶことは、本質を見抜く目を養うことになる。だから数学者や物理学者は、その他の関係ないように見えるほとんどの事に対して本質を見抜くことができる。もし本質を見抜けない数学者・物理学者がいれば、それらの人は似非である。原理を知るということは、本質を掴むための道のりの原点なのである。