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量子コンピューターについて。

先日、日本が量子コンピューター研究に多額の投資を行うと発表し、それを受けて量子コンピューター関連銘柄が高騰しているというニュースがあった。

量子コンピューターとは、従来のコンピューターとは原理が違い、高性能というより全く質的に違うといってよい。従って計算速度も桁違いに速い。

量子コンピューターはまだ研究段階で、実用化はまだ先だと言われている。とは言え、少し特殊な「量子アニーリング」という原理を使った量子コンピューターはすでにカナダの企業により実用化されている。(この量子アニーリングの原理は、日本人が発明した。)しかし、”王道”の量子コンピューターはまだ素子を開発している段階だ。

量子コンピューターの理論研究の現状は、一昔前までは”ニールセン・チャン”と言われる量子コンピューターの教科書が唯一の文献であったが、最近では日本語の教科書も結構出てきている。

技術的な現状は、正直、僕には詳しいことはわからない。しかし、NECなどの日本企業が地道に開発を続けているという話は聞くが、あまりメジャーな研究ではないような気がする。

量子コンピューター・量子情報関係では、「量子暗号」の研究がそこそこ実用化に近づいているようだ。量子暗号は、”絶対に破られない暗号”だと言われている。

この、国による大規模投資がどれだけの成果を挙げられるか?科学的にも経済的にも注目を浴びるだろう。

トランプ大統領の暴言。

先日起きた、白人至上主義を掲げる差別主義者たちと、それを批判する反差別主義者たちが対立していたデモで、差別主義者の車が突っ込み死者が出た事件。この件に対してトランプ大統領の発言は次のような趣旨だ。

”ビジネスが上手く行き、雇用を創出できれば、差別主義などあまり重要ではない”(これは発言そのものではなく、発言の趣旨である)

これはもう、自由主義ではなく、暴言である。

アメリカは自由の国だと昔から言われている。しかしその一方、奴隷解放・黒人差別などに対しては毅然とした態度を取り、撤廃することに成功した。そして黒人大統領誕生(オバマ氏)にまで至った。そのオバマ氏に対する評価は厳しかったが、オバマ氏を大統領に選んだ国民は良識がある人たちだと思っていた。

しかしその同じアメリカ国民は、トランプ氏を選んだ。そしてそのトランプ氏は差別主義を助長している。もちろん、全国民がトランプ氏を支持しているわけではないので、「アメリカ国民は」と一括りにはできないが、トランプ氏に対する失望は日に日に増してくる。

トランプ氏には、「本当に大切なものは何か」ということに気付いてほしい。

終戦記念日で想う、戦争放棄と防衛。

今年の8月15日、終戦72年を迎えた。全国戦没者追悼式での天皇陛下お言葉、及び安倍首相の言葉は、改めて戦禍を再び繰り返さないとの意思表示を述べるもので、日本の戦争放棄の基礎方針を確認された。

ところで現在の防衛政策での主眼の一つは、明らかに北朝鮮問題であろう。もちろん長い目で見れば、中国の脅威も見逃せない。しかし現時点だけを考えると、北朝鮮のミサイル問題は切羽詰った緊急問題である。

戦争放棄と防衛、この二つは決して分離して考えられるものではなく、密接につながっている。防衛には大きく積極的防衛と消極的防衛がある。積極的防衛は敵の攻撃に対して先手を打って、敵の攻撃拠点を狙うということだろう。消極的防衛はあくまで敵が直接攻撃したものに対してだけ防衛するというものだ。

積極的防衛はもちろん戦争放棄に反する可能性が高い。しかし自国防衛のためには積極的防衛という選択肢も念頭に入れなければならない。これらのことを否定して被害が大きくなれば、元も子もない。

しかし、積極的防衛を盾に戦争を開始してしまうということも否定できない。この様なことは断じて許されない。過去の戦争のほとんどは、防衛を名目に戦火の口火が切られている。

戦争放棄と防衛の定義をしっかりと定め、戦争を起こさないで解決するにはどのようにするのが最善策か?という最善手を常に模索していくことが要求される。このことは、政治家だけの仕事ではない。国民の意識にも大きく影響されるため、国民一人一人が常に関心を向けることが必要になる。決して無関心になってはいけない。

差別と区別を混同するな!

アメリカで、差別主義者と反差別主義者の対立デモ集会の人ごみに車が突っ込み、一人の女性が亡くなったというニュースがあった。差別主義者の独善的行動は許されるべきものではないし、特に出時の違いによる差別は決して許されるものではない。

ところで話は変わるが、世の中には差別と区別の違いを認識していない人が多いように思う。簡潔に言うと、差別とは上下に分ける事、区別は横に分けることである。

例えば、学校の名簿で男子が先に並んでおり、女子の名前がその後に並ぶ。これは区別か差別か?一見上下に分けているように思えるが、これは区別である。この並びは何ら優劣を指定すべきものではないからだ。もしこれが差別だというのならば、男子の列の中でも順番によって差別されていることになる。このような事例のように、見かけに騙されてはならない。

区別を差別だと批判されることが多くなり、何かとやりにくい世の中になってしまっている。区別と差別の違いくらいはしっかりと認識できる思考を持ってもらいたいものだ。

とは言え、差別主義は時代と逆行するものであり、また時代云々ということを別にしても決して許されない。

蓮舫氏の一番の業績。

僕はこれまで蓮舫氏にはかなり批判的なスタンスをとってきたが、蓮舫氏の業績について一つだけ大きく評価していることがある。

それは、民主党政権下で行われた「事業仕分け」での、スーパーコンピューター開発費を巡っての発言、「2位じゃダメなんでしょうか?」だ。

なぜこの発言を評価しているかというと、この発言により「科学というものは1位でないと意味がない」ということを、広く国民に認識させたからだ。

科学というものは、1位だけが100%の実績を得る世界だ。科学(サイエンス)では、二番煎じ、三番煎じには全く価値はない。

もちろん、ビジネスに関わる科学技術(テクノロジー)では少し事情は変わる。三番煎じでも、量産化技術に成功するなどして利益を上げれば、ビジネス的には大きく評価されるだろう。だから技術開発で二番煎じ・三番煎じで突破口を開くことはよくあることだ。

しかし、科学(サイエンス)では、皆、一番乗りを目指して切磋琢磨している。例え小さくても1番煎じが評価されるのだ。

狙いはどうだったか知らないが、蓮舫氏のこの発言はそういう意味では評価されるべき発言だ。

核兵器弾道ミサイル迎撃に対する懸念について。

北朝鮮が、弾道ミサイル発射を宣告した。弾道ミサイルは、島根・広島・高知の上空を通過し、グアム周辺に落下するとの詳細な計画まで予告している。これから発射までの約一か月間、日本とアメリカは、防衛計画を煮詰めることになりそうだ。

そこで問題になるのが、北朝鮮の弾道ミサイルに核弾頭が搭載されるのかどうかということであろう。もし核弾頭が搭載されているミサイルを迎撃した場合、どうなるのか?防衛省局長は「迎撃により起爆装置などの機能は喪失する。核爆発による被害は発生しない」(時事通信)との認識を示している。

確かに迎撃により、起爆装置は作動しないかもしれない。起爆するには、核分裂連鎖反応を起こさないといけないが、核分裂連鎖反応は簡単には起きない。だから、防衛省局長の言っていることは全うなことだ。

しかし核爆発と核物質汚染は話が違う。核爆発しなくても、日本上空で迎撃すれば核物質の飛散は免れない。

確かに、核爆発に比べると核物質飛散の被害は小さいかもしれない。ただし、長期的な影響が残る核汚染に対する懸念は大きい。

もちろん、そのような被害がないことを祈るばかりであるが、ただ迎撃すれば完全に安全だという簡単な話でもないように思える。

核廃絶は100%正しい。

今年も広島・長崎での原爆被災日が過ぎた。原爆投下からもう72年を過ぎようとしているが、核兵器廃絶に向ける議論は一向に決着しない。

原爆の原理(あくまで”原理”である)は、アインシュタインによる特殊相対性理論にたどり着く。しかし、特殊相対論は原爆を作るために考え出されたものでは全くない。あくまで自然の真の姿を解明するために”自然科学の理論”として作られたものである。原爆の原理はあくまでも副産物、しかし最悪の副産物であった。

核兵器の責任を科学者にきせるのなら、誰の責任であろうか?間違ってもアインシュタインでは断じてない。原爆開発に向けた核分裂連鎖の技術的課題に取り組んだ科学者に責任の一部がある。しかし最も大きな責任は、科学者ではなく、科学者を利用して原爆を作成させた政治家にある。

そして現在、核兵器廃絶を進める人、あるいはそれを拒む人も政治家である。すなわち、未来への平和の扉の鍵は、政治家が握っている。

そして核兵器廃絶へ向けて科学者ができる事は、兵器への軍事技術の提供を拒むことだ。

しかし悩ましいのは、自国が核兵器を拒んでも、北朝鮮のように暴走して手を付けられない輩がいることだ。本当にやつらはどうしようもない。しかしそれらの源流をたどっていくと、欧米そして中国・ソ連(ロシア)の核開発競争にたどり着く。すなわち、現在の北朝鮮の核問題の責任の多くは、欧米中ソにあると言える。

この世の中に核兵器が存在する限り、人類の安泰はありえない。

核兵器「削減」を目標にして、核兵器の削減を実行するのはほぼ不可能だ。核兵器「廃絶」を目標にしない限り、削減は進まないであろう。

国連の会議(核兵器禁止条約の決議)で、日本は核兵器廃絶に賛成しなかった(正確には出席を拒み議論もしなかった)というニュースが流れている。被爆国日本が核兵器廃絶を拒否するとは、何とも情けない話である。

電気自動車(EV)は、本当に環境に優しいのか?

現在、自動車を取り巻く環境が劇的に変わっている。ガソリン車から電気自動車(EV)へと急激に移行しているのだ。

そもそもの発端は、フォルックスワーゲン(VW)による、ディーゼル排ガス不正問題。もちろん理由はこれだけではなく複合的要因があるが、排ガス不正問題はEVへの口火を切ることになった。

排ガスを出すガソリン車に比べて、EVは排ガスゼロで環境に優しいと言われている。しかしちょっと待て。EVに使用される電気は、もともとは発電所で作られたものではないか。ということは、発電所で排出される排ガスを考慮して比較しなければいけないのではないか?EVを排ガスゼロというのはフェアではない。

最近はガソリン車でも、ハイブリッド(HV)など劇的に燃費の良い車も出てきている。これらの排ガスと、EVで使われる電気の(火力発電所などによる)発電排ガスと比較するとどうなのだろうか?

もちろん、エネルギーは分散して作るより大規模に集中して作る方がエネルギー効率が良いと言われている。なので、EVの方が圧倒的に環境に優しく効率的である可能性は高い。

しかしEVは、

燃料→電気→動力、

と二回変換しているのに対し、ガソリン車は、

燃料→動力、

と一回の変換で済む。変換が少ない方が効率が良いのは明らかだ。

本当にEVは環境に優しいのか?一度数値的な検証をすることが必要ではないか。

民進党・代表選に注目だ!

ブログでは、どちらかと言うと民進党に批判的な記事を書くことが多かったが、次回の民進党・代表選に関しては、非常に期待を抱いている。今のところ、前原誠司・元外相と枝野幸男・元官房長官が立候補を表明しているが(8月3日現在)、この二人に対しては非常に頼もしい気持ちを抱いている。

枝野氏は東日本大震災時の官房長官で、原発事故で総理が混迷する中、的確に働きハードワークする姿に、「エダる」という言葉も生まれた。

前原氏は外相としての特筆すべき実績は特に言及されないが(とは言え、もちろん大臣としての実績は多々ある)、人間性と政治手腕は非常に期待が大きい人物でもある。

官房長官と外相という要職をこなした二人だが、代表になれば党のトップとしてリーダーシップを発揮しなければならない。そこで大きく求められるのが「大局観」だ。前代表の蓮舫氏にはこれが決定的に欠けており、場当たり的なスキャンダル追及に明け暮れていた。

枝野氏・前原氏の二人に関しては、どちらが代表になってもしっかり勤め上げると思うが(もちろん実際になってみないとわからないが)、今の民進党に必要なのは「ウルトラC」ではなく、「小さなことからコツコツと実績を積んで国民の信頼を得ていくこと」だ。この二人なら、それが可能だと僕は思っている。

知る権利?

1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者による手記「絶歌」(2015年出版)について、購入を控えた神戸市立中央図書館に関する記事(神戸新聞NEXT)を見た。

この加害者による手記に関しては、様々な問題があると思うが、「プライバシーと知る権利のバランスをどう図るか」というのが一番の争点だと思う。

最近は「知る権利」という言葉がよく出されるが、この加害者の手記に関しておかしいのは、被害者のプライバシーに関しては公にされて、加害者に関しては名前が明らかにされていない(当時は加害者は少年だったため名前が公開されず、この手記の著者名も”元少年A”となっている)ことだ。事件当時、少年だった加害者の名前が伏せられるのは法に則ったものだが、手記を出版するにあたって知る権利が叫ばれる中、著者名だけが伏せられているのは明らかに矛盾している。

この著書に限らず、最近世の中のあらゆるところで知る権利が無差別に主張されていることには、疑問を感じてしまう。そもそも知る権利とは、「公的情報に関して市民が知る権利がある」という趣旨がメインだったはずだが、今では個人のプライバシーまで知る権利を押し付けられようとしている。

知る権利があるなら、「知られない権利」もあるはずだ。知る権利が法で定められていると主張するなら、そもそも法をしっかりと勉強しなければいけない(僕自身も法に詳しいわけではないので、あまり強く言えないが)。中身を吟味せずに”知る権利”という法のタイトルだけを用いて主張を押し付けるのは、明らかに間違っている。