社会・時事ネタ」カテゴリーアーカイブ

緊急事態宣言。こんな時こそ!

4月7日、安倍首相が緊急事態宣言を発令した。宣言が発令されるか否かに関わらず国難であることに変わらず、日々の活動、及び様々な自粛、そしてマスクの着用などの自己努力が強く求められる。コロナ鬱と言う言葉も言われるように、全ての国民が精神的にも行動的にもかなりまいっているように思う。確かに自粛自粛と自粛の嵐だが、かといって全ての事に対して自粛しなければならないかと言えば決してそうではない。コロナの感染防止、そして周りの人への感染防止、そして社会全体への感染防止のために必要な自粛は絶対的に必要だが、それとは関係のないことはむしろ積極的に発奮した方が良いと僕は考えている。

そう、こんな時だからこそ、ただ単に控える一辺倒ではなく思いっきり攻めて行かなければならない。そのように攻めることが、コロナで傷ついている日本の回復を早めることにもなる。確かに今は経済も半崩壊している。そしてそれぞれの個人も金銭的に窮地に陥っている人は多いと思う。そういう状況では、確かに出費を抑えるなどしてやりたいことを我慢する必要にも迫られる。しかし全ての行動に対してお金がかかるわけではない。例えば、本を読んだり勉強したりすることには基本的にはお金はかからない。本を買うお金を節約したければ本を借りたり、あるいは家にある本を引っ張り出して読むことができる。勉強するためには必ずしも教室に通う必要はない。独学で勉強することもできるし、今ではネットを利用して格安レッスンを受けることもできる。例えば、英会話をしたければスマホアプリでAI英会話と言う面白いものがある。もちろん無料ではなく月1980円かかるが、英会話教室に比べると圧倒的に格安だと言える。英会話に自信がない僕も、今そのAI英会話を始めようと思っている。

緊急事態だから出来ないのではなく、今だからできることもあるのである。確かにここ一年程は厳しい状況になることは予想されるが、そこから社会が立ち直ろうと始めた時に自分も攻める体制を整える準備をするべきだ。そのためには視野を広く持つ事が圧倒的に重要である。視野が狭ければ、窮地に陥ったから何もできなくてダメになると思ってしまう。しかし視野を広く持てば、意外とできることはあるはずだ。別に給料が下がっても良いではないか。少なくとも今は最低限の生活ができるだけのお金があればよい。もちろん今、その最低限の生活もできないくらいの窮地に立たされている人も非常に多い。幸い政府はそのような人のための支援策を打ち出している。今は一時的にそのような支援に頼って何とか乗り切ろう。

今はこういう時だが、だからこそこういう時しかできないことに発奮して打ち込むべきだ。それがコロナから社会が回復したときに攻めるきっかけになるはずだ。そして国もおそらくそのような事を期待しているはずだ。もちろん、国が期待しているからそういうことをするわけでは決してない。自分自身のためにも今この時に大きく発奮する時であると僕は強く感じている。

追い詰められると、正しい判断が出来なくなる。

日本におけるコロナ禍は、加速度的に悪化してきている。そのような危機的状況に、安倍首相が、そして国民一人一人が厳しい判断を下すことに迫られている。しかし人間と言うものは、追い詰められると正しい判断が出来なることがある。そのような事を、今の政府、そして多くの国民を見ていると強く感じる。

今なぜ、安倍首相が緊急事態宣言を出せないでいるのか?そして国民はなぜ、危険と分かりながら外出して様々な活動を続けるのか?それはただ経済的な問題との兼ね合いと言う一言に尽きる。多くの人は、「仕事をしないと収入が全く入らないし、お金が無くなれば生活もできない」と叫ぶであろう。それは最もである。しかし、お金と命のどちらが大切か?もちろん命であろう。しかし追い詰められてお金だと判断する人が少なくない。もちろん、お金に困って自殺する人も出て来ることは容易に推測される。なので、お金と命を簡単に切り離すことはできない。

しかし誤解を恐れずに僕は主張する。「今は命が大切だ。」外に出て活動する人に告ぐ。今むやみに外出することは、自分の感染以上に周りの人の感染を大きく誘発する。自分の生活が大事だからと言って、自己責任だからと言って、むやみに外出してはいけない。活動する本人は良くても、それによって周りの人々を殺してしまうことになるのである。それでも外出活動を続けるのか?

もちろん、責任は外出活動をする人々だけにあるのではない。緊急事態宣言を出さない安倍首相に最も大きな責任がある。政府が緊急事態宣言を出せば、外出しようとする人々に大きく制限を課すことになる。そのことによって、死者を半減することができる可能性がある。しかし、もちろんこれは可能性である。そこの可能性をはっきりさせようと政府は判断をこまねいているのだと思う。経済的損失はどれくらいになるのか?そのような算出をしているのだと思うが、それは緊急事態宣言を出した後でも良いのではないだろうか。議論をしている間に危険が広まるリスクの方が圧倒的に大きい。宣言を出して感染が収まると言う保証はないが、少なくとも広まることを押さえることができることは確実だ。

初めに述べたように、経済的損失によって自殺する人も出て来るに違いない。平時であれば、全ての危険性を排除することが求められる。しかし今は非常時である。例えば、99人の死亡と100人の死亡のどちらを選択するのか?と言う究極の選択であるが、他に全く情報がなければ、即座に99人を選択し一人でも多く救うことが求められる。これはあくまで非常時の選択であり、ある意味救急におけるトリアージの判断にも通じる。

今政府に求められているのは、慎重な議論ではなく国民に対するトリアージである。即座に的確な判断をすることが、一人でも多くの命を救うことになる。そこを安倍首相にも即座に理解してもらいたい。

非力な野党を作った日本国民。

現在の自民党・安倍政権は(最近は)かなり問題のある政権だと多くの人が思っていると思う。もちろん、安倍首相に関してはこれまで非常に大きな功績があるのは事実だし、現在も外交を中心に非常に効果を発揮していると僕は思っている。しかし何度もこのブロブで言及しているように、総理総裁三期九年と言うのが致命的な問題である。三期九年もすれば、誰もが半独裁的になる可能性があるし、またそれ以上に問題なのは、周りの人間が全てイエスマンになることだ。だから安倍首相がどれだけ良い政治家であるかに関わらず、総理総裁任期は二期六年にすべきだと僕は強く感じている。

とは言え、最近の安倍首相がどれだけ問題であっても、「代わりに野党が政権に」と言う声はほとんど聞こえてこない。それはもちろん、野党が安倍自民以上に問題があり、非力であるからである。本来はアメリカのような民主党・共和党二大政党体制が理想的なのかもしれないし、10年ほど前は日本でもそのような二大政党体制を目指して民主党が政権を取ったのだが、残念ながら当時の民主党の政策はあまりにも稚拙すぎ、また東日本大震災に対する失政などもあり、信頼をつなぎとめることはできなかった。

では、日本の政治の問題は、安倍自民が問題であり、さらに非力な野党が問題なのか?僕はそれだけではないと考えている。結論から言うと、日本国民自身も問題なのである。当たり前の事だが、政治家は国民の投票によって選出されている。なので政治家の資質は日本国民自身の資質でもあるのである。もちろん、選挙時だけの情報や候補者の目に見える活動だけでは判断しきれない所もある。しかし明らかに国民自身が問題であると言えることもいろいろある。

テレビ番組と言うものは、(少なくとも民放は)民衆の趣味嗜好を汲んで方向性が決められる。そのようなテレビ番組を見ると、最近は不倫などのスキャンダルを取り上げることが半ばブームのようになっている。すなわち、他人の上げ足を取ることばかりにメディアが、そして民衆が夢中になっているのである。これはどこかと似通っていないか?そう、国会である。野党は与党政治家の上げ足を取ることばかりに夢中になっている。僕自身、森友・加計問題を追及すること自体は無意味ではないと思うし、少し前の桜を見る会問題なども重要な問題である。しかしそれだけではいけない。それ以上に現実的・具体的政策を提言し詰めて行かなければならない。もちろん野党もそのような事は分かっていると思う。しかしそれが国民には伝わってこないのである。その原因は僕はむしろ国民側にあると考えている。

今の安倍自民一強体制は明らかに変えなければならない。しかしそれに代わる野党があまりにも非力すぎる。そしてその原因は日本国民にある。メディアは人の上げ足を取ることばかりに夢中になり、国民はそれを楽しく笑っている。今年のお笑い大会・M1グランプリでは、人を傷つけない優しさのある笑いがブームになった。優勝したミルクボーイ、そして準優勝したぺこぱがまさしくそうであった。このような流れは、日本と言う国を必ず良い方向へと導くと僕は思っている。しかし国会などの政治の世界では、まだそのような流れは入り込んでいない。なぜなら、国民が選挙で政治家を選び、そしてその政治家が政策を掲げ実行するまではかなりのタイムラグがあるからである。なので、今の政治の世界がそのように変わるまでにはまだ5年以上かかるのではと僕は考えている。

今、新型コロナによって日本が、そして世界が危機的状況に陥っている。なので人の上げ足を取っている場合ではない。一刻も早く対策を実行して人々を救わなければならない。もしそのような事が今十分にできれば、コロナ禍が去った後には政治の世界も大きく変わると僕は考えている。そしてそのように政治の世界を変えるためには、まずは国民の意識を変えなければならない。急速に変えられることではないが、このように変革することは僕は可能であると思っている。

今重要なのは、感染の可能性を下げることだ!

新型コロナの流行が急速に広がっている。おそらく、まだ自分は関係ないと思っている人はいないはずだ。衛生的にも経済的にも、打撃は非常に大きいものになっている。普通に暮らしている限り、誰もが感染する可能性がある。なので、自分は感染するはずはないと言う根拠のない自信はやめにして、もしかしたら自分はすでに感染しているかもしれないと言う意識をもって行動することが大切だ。自分がかかっても、人にかけてもダメなのだ。

今、マスクやアルコールなどでの手洗いを含め、様々な感染予防が実行されている。そこで、それで100%防止できるのか?と問われ、完全には防止できないと答えられた時、「完全に防止できないから、しても無駄だ」と言って何も対策を取らない人が多い。しかし僕はそれは違うと思っている。重要なのは、完全に防止できなくても、可能性を下げることなのである。

例えば、マスクは完全にウイルスの侵入を防ぐことはできないと言われているが、少なくとも侵入の可能性を低減することはできる。そしてもし自分が感染していた場合、飛沫感染を圧倒的に低減することができる。だから完全に防止できなくても、しないよりかは圧倒的にマシなのだ。完全ではなくても、可能性を低減すると言う思考と行為が大事なのだ。感染の可能性を低減する行為を取り続けることが、自分と周りの人を守ることになるのである。

街中でマスクをしない人をよく見かけるが、それは自殺行為ではなく殺人行為である。マスクをしないことが、他人を殺すことにつながるかもしれない。そう考えて、自分を、さらに周りの人を守らなければならない。

二週間後が危ない!

一昨日、昨日と、用事があって神戸三宮の街を歩くことになった。このような時世だから衛生面には万全の注意を払い、当然マスクを着用していたが、街や仕事現場の人々を観察していると驚くべき状況であった。何が驚くべきことなのか?それはコロナウイルスに対する危機意識の薄さだ。新型コロナウイルスに関する危険性については昨日の僕のブログで述べた。なのでそのことについては割愛するが、街の人々を観察していると、2割~3割くらいの人がマスクを着用していないのだ。東京ならばもっと着用率が高いのか、それは分からないが、神戸の人々のマスクの着用率は僕にはかなり低いように思えてならない。

そして驚くべきことに、マスクを着用していない人ほどべちゃくちゃと話をしているのである。おそらくマスクをしている人は、自分が感染するかもしれない、さらには自分はすでに感染しているかもしれないと意識しており、マスクをしていない人は、自分が感染するはずがない、なので人に伝染させることもないと思っているのかもしれない。これは明らかに危機的状況である。

周知のように、フランスでは外出するのに許可書が必用であり、それに違反した者は数万円単位の反則金を取られる。日本に比べれば非常にきつい制限である。そのような状況でもかなり危機的な状況に即している。日本はマスク非着用での外出の自由を認め、それでいてフランスよりも現時点では軽い状況である。それは日本が成功しているからなのか?僕は断じて違うと考えている。現在のフランスは二週間後の日本の姿、あるいはフランス以上にひどい状況になるかもしれない。はっきり言って、このような観測など大きく外れてほしい。そして木原の言っていることなど全く当てにならないと言ってほしい。そうなって欲しいと強く願うが、確実に言えることは、日本人のコロナに対する危機意識は薄すぎると言うことだ。

一刻も早く緊急事態宣言を出すべきだ。いや、今出しても遅すぎるくらいだ。現在の対処は二週間後に現れる。その時になって慌てても圧倒的に遅い。僕のこの観測は外れるべきだ。いや、外れないと国が持たない。二週間後、このブログを読んだ人が木原はバカだったと笑ってくれることを願うばかりである。

志村けんさん逝去。新型コロナウイルスの毒性。

3月29日、コメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスで亡くなった。僕自身、一番身近に感じていたお笑い芸人だっただけに、これにはさすがにショックを受けた。志村けんさんの冥福を祈りたい。

志村さんの新型コロナウイルスによる死去は、我々が新型コロナによる死と言うものを身近に感じるきっかけになったと思う。誰もが新型コロナによって死ぬかもしれない。そう感じさせるものである。とは言っても、コロナに感染した全員が死亡するわけではなく、また年齢によっても致死率は大きく変わる。

ウイルスの毒性を測る一つの基準として、致死率がある。現在の致死率はイタリアでは10%に迫ろうとしておりかなり高い数値だが、世界的に見れば2~3%と言われている。この数値が高いのか低いのか?なかなか判断しづらいが、一つの比較として1918年~1919年に流行したスペイン風邪と比較することは有効であろう。

スペイン風邪は第一次世界大戦を終了させた大きな要因とも言われ、死者数は世界で数千万人(正確な数字は確定していないらしい)と言われている。そのスペイン風邪の致死率は2.5%以上(国立感染症研究所・感染症情報センターホームページによる)と言われている。この情報から読み取ると、現在の新型コロナウイルスの致死率はスペイン風邪と同等、あるいはそれ以上だと推測することができる。そしてこのスペイン風邪の死者数を見ると、現在の新型コロナウイルスがいかに深刻であるかがわかる。

そして一つ見逃してはならないのは、現在の医療水準がスペイン風邪が流行したころよりもはるかに高度になっていることである。そのような状況でスペイン風邪と同じレベルの致死率だと考えれば、現在の新型コロナウイルスの毒性がスペイン風邪よりはるかに高いと考えられる。

スペイン風邪による数千万人と言う死者数を聞いて、皆恐ろしく感じるだろう。しかし現在の新型コロナはそれに匹敵するくらいの毒性を持っていると考えられる。僕はここまで数値と言うデータから論を述べてきた。それはそれが最も客観的で公平な議論であると考えられるからだ。少なくとも、新型コロナを軽く見てはいけないことは間違いない。志村けんさんと言う国民に最も身近なコメディアンの逝去を機に、新型コロナの脅威をこれまで以上に真剣に、そして正確に考えるべきではないだろうか。

勝てば官軍?

世の中は強い者の味方である。そして自分の身の安全を守るためにも、人々は勝った側に回ろうとする。それが一番顕著に表れるのが政治家の選挙時であろう。例えこれまで現役の政治家、つまり「先生」であっても、一度選挙に負ければ「無職」でしかない。そこまで露骨な世界はどうかとも思うが、このような事は別に政治の世界だけに限ったものではない。多くの世界では、「勝てば官軍、負ければ賊軍」である。

とは言え、物事において勝つことは非常に重要である。勝つために努力し、頑張ろうと言う気になる。はっきり言って、負けた者より勝った者の方が平均的にはるかに努力している。だから勝った者が評価されるのは当然のことだと言える。だから僕は、競馬で負け続けたハルウララを称えるような世界は大嫌いだ。

しかし、必ずしも勝った者が正しいとは言えない。勝った負けたと正しいか間違っているかと言うのは別問題だ。しかし政治の世界では、野党議員が言ったことより首相が言ったことの方が正しいとされる。確かに現在の野党は情けない。与党議員の上げ足を取ろうと言うことばかりに力を入れている。その一方、現在の安倍首相と言えば、言っていることがどんどん低レベルになって来ている。やはり総理総裁任期三期九年と言うのは明らかに無理がある。やはり以前のように二期六年と言うのが最も適切であったように思える。安倍首相は三期目の任期を全うできるのであろうか?

自分の考えを実現しようと思えば、官軍側に付くことが必用であろう。それは野党議員である限り何もできない政治の世界を見れば明らかだ。しかし学問の世界は違う。特に数学や理論物理などの理論系は、例え単独でもいくらでも理論を示すことができる。勝った者と言うより、正しいことを示したものが官軍なのである。そういう意味では政治家の世界とは全く違う。年齢も立場も関係ない。そのような事を示すために、日々努力していこうと思うのである。

日本は自由が曖昧だ!

日本は果たして自由な国なのか?世界的に見ればどちらかと言うと自由な国であろう。ではなぜ日本は自由な方なのか?それは戦後、日本がアメリカ陣営に組み込まれたからに他ならない。なのでどちらかと言うと、受動的に自由主義国家になったと言える。そのような受動的自由化を進んできたせいか、日本は自由の扱い方が非常に下手であると僕は常々感じている。

他国が、はたまたアメリカがどれだけ自由か?と言う問いに関してはいろいろと議論があるだろう。アメリカだっておかしな自由がある。その代表が銃所持の自由であろう。そんな自由ははっきり言って百害あって一利なしと言えるし、銃所持の自由は実質犯罪者の暴力の自由となっている。その点、日本においては一般人の銃所持など考えられず、それが高度な治安の良さにつながっている。そのような点だけ見ても、日本はアメリカよりも優れていると言える。

しかし思想的に見た時に、日本の自由と言うものはやはり受動的であり、一応自由ですよと言う感がプンプンする。自由が大事だから自由を守ると言うよりかは、世界的に見て、あるいは西側諸国の制度から見て自由は必要だから、仕方なく自由にしていると言う感がする。だから自由と規制に関する施策がちんぷんかんぷんな事もしばしば出て来る。そして学校においても、自由について考えると言う教育はほとんどなく、規則は守りましょう的な、半ば共産主義的な教育を押し進めると言うことになっている。何も規則、規制が悪いのではない。なぜそのような規則、規制が必用なのか?と言うことを全く考えないことが悪いのである。そのような土壌に自由を根付かせようとしても無理な話である。

ではそのような現状を変えるためにはどうすれば良いか?それはもう教育しかない。学校とは学問を教えるところだと思っている人が多いが、それは全く的外れだ。学校とは「考える」ことを実践する所なのである。すなわち教育の全ての根っこは考えることにある。学問の授業などはその手段であり本質ではない。自由な社会には必然的に、全ての人がそれぞれ自分の頭で考えると言うことが必要になる。すなわち、何も考えずに受動的にしか動かない人間しかいない社会に自由などありえない。自由と能動的思考は両輪であり、自由を社会に根付かせるためにもそれぞれの人間があらゆることに思考を巡らせる必要がある。

有料サービスを駆使する。

無料サービスを駆使すると言う人は多いのではないだろうか?確かに現在では様々な無料サービスが展開され、特にネットを駆使すれば無料サービスだけでも十分事足りる。スマホアプリでも、無料アプリの中にはかなり便利なものも少なくない。しかしそこを一歩踏み出して少しのお金を投資すれば、無料サービスに比べてかなり質の良いものを得られることが多い。何も多額のお金をつぎ込む必要はない。例えばネットサービスで言えば、月に数百円支払うだけで格別なサービスを受けられることも少なくない。

では、無料サービスの欠点は何なのか?はっきり言って量的な部分では無料でも十分なくらいのサービスを受けることができる。問題は質だ。例えばネット情報と新聞情報では信頼性(つまり質)が圧倒的に違う。そのように良質なサービスを受けようと思えば、多少の金額の投資をすることは非常にメリットが大きい。費用対効果の面で言っても、少量の金額を投資することによって圧倒的に効果が上がることが多い。

確かに現在では、無料サービスだけでもかなり事足りるのは事実であろう。しかし無料サービスでは確実に限界がある。その限界内で活動しようと思っている人にとっては無料サービスの範囲内で済ませばよいが、生活や人生においてとことん質の向上を志す人にとってはある程度の金銭投資は必要不可欠である。

現実に0円サービスと500円サービスでは天と地の違いがあることが多い。しかも数百円くらいなら懐もそんなに痛くない。肝は少額サービスを多数受けることだと思う。とは言え、時にはそれなりの投資も必要な事もある。僕であれば毎月一万円ほどの書籍代は投資している。これからは、いかにして有料サービスを駆使するかと言うことが人生の質の分かれ道になるのだと思う。有料サービスを駆使して限界を突破すれば、それは数万倍以上になって帰ってくると僕は強く感じている。

悪法をどう考えるか?

法律は基本的に守るべきだが、中には悪法と言われるものもあって、そのような悪法を愚直に守るべきかどうか頭を抱えてしまう。法律であるからには守らないと罰則を食らってしまうので、特にこだわりがなければ守ろうとは思うのだが、中にはどうしても納得ができず、自分の正論を貫くべきだと思うこともある。

そもそも法律とはどうあるべきか?それは国民の利益を守ったり、人間の安全を守ったりするためにある。なので国民に害を与えたり、むやみに自由を制限したりする法律などと言うものは本来存在すべきでない。しかし悲しいかな、そのような悪法が少なからずあるのが事実である。

海外では悪法に立ち向かうと言う風潮のある国もあるようだが、日本では「悪法も法律である」という風潮が強くしみ込んでいる。なぜそのような考えが行き渡っているかと言えば、その根源をたどれば学校の校則に行きつくのではないかと僕は考えている。小学校から高校まで、「校則でそう決まっているのだから文句を言わずに守れ!」と無条件に押し付けている。それが生み出すのは思考停止でしかない。人々は自分の頭で考えようとしなくなってしまう。なので、悪法も法であると無条件に従おうとするようになる。

本来の法律の趣旨に反する法律などはあってはならないものだ。しかし万人が納得する法律を作ると言うことも非常に難しいものである。時には多くの国民の命を守るために自由を一部制限しなければならないこともあるだろう。現在の新型コロナウイルスに関する制限がそうである。しかし明らかに既得権益者を守るために一部の人々の自由を抑え込むような悪法がある。そのような法を守るかどうかは各自の考えによるが、自分の頭でどうあるべきかとしっかり考え、それに対して社会に主張・提言することも必要なのではないだろうか。