社会・時事ネタ」カテゴリーアーカイブ

近くの本屋に行ってみた。

緊急事態宣言が出てから、近くのショッピングモールも一部の店舗(スーパーやドラッグストア)を除いて全部休業していた。その間、スーパーに買い物に行くと二階から上が全てシャッターで閉まっており、いかにも感染症が蔓延していますと言うような雰囲気が漂っており、その風景を見るだけでも気分が滅入りそうになっていた。もちろん、人通りもポチポチと言うくらいで閑散としていた。

21日、ついに僕の住んでいる兵庫県も緊急事態宣言の解除が決定した。それに合わせて今日から近くのショッピングモールも全店再開することとなった。そこでさっそく三階にある本屋さんに足を延ばしてみることにした。

人通りは以前の三倍から四倍くらいあり、本屋さんもなかなかにぎわっているような気がした。もちろん現在も三密には気を付けなければいけないので、人でにぎわっていることには不安はあったが、それ以上に明るい雰囲気に心が安らぐように感じた。雑誌を手に取って眺める喜びが何よりも格別だ。やはりAmazonだけに頼っていると、必要最小限のものしか手に取れないので、いわゆる無駄(良い意味で)である一般雑誌を気楽に読めるのはありがたいものだ。

ただ緊急事態宣言が解除されたからと言って油断してはならない。ほぼ確実に第二波はやってくる。なのでマスクは手放せないし、人との距離も取らなければならない。非常に憂鬱な状況ではあるが、そのような気持ちがちょっと緩和する本屋のひと時であった。

コロナとの共生。

現在、新型コロナによるパンデミックの出口は見えてこない。それもそのはずである。まだ人類と新型コロナとの歴史はたった半年。まだワクチンの開発も始まったばかりだし、少しずつコロナ治療に効果的な既存薬もポチポチと見つかってきつつあるところだ。しかしこのような状況が永遠に続くわけではないし、どこかで出口が見つかることはほぼ確実(97%くらい)だ。

しかしその出口がいつになるかはまだ確実に見通せてない。ワクチン開発は一年程で完成するはずだと言われているので、一年半後くらいには解決している可能性は高い。しかしそれも希望的観測である。もしかしたら数年数十年コロナとの戦いが続くかもしれない。どちらにしても、パンデミックが解決するまではコロナといかにうまく付き合うかと言うこと、つまり共生を考えなければならない。もちろん、気分の良い共生では全くないが。

では共生とは具体的にはどのような事であるか?それは一番には、感染者の数を常に医療のキャパシティ内で収めると言うことだ。最近「ハンマー&ダンス」と言う言葉が生まれている。つまりハンマー(都市封鎖によって抑え込む)とダンス(都市封鎖の解除による自由によって感染者が増加する)を繰り返すことによって、感染者の数を医療のキャパシティ内で収めるモデルだ。感染の数理モデル的に、民衆の大部分が抗体を持つまでは流行が収まらないことがわかっている。そして抗体を持つには二つの方法しかない。一つは感染すること、そしてもう一つはワクチンによって人工的に抗体を作ることだ。そしてこのように多くの市民が抗体を持つまで、ハンマー&ダンスを繰り返すことが必要になる。その間は、いかにうまくコロナと付き合うかと言うことが一番重要な課題である。

ただ、ワクチンができないと何も解決しないかと言えばそうではない。有効な治療薬が現れるという可能性も十分にあるからだ。つまり治療薬によってコロナは恐ろしい病気ではなくなり、もし感染してもほとんど死ぬことはなくなると言うことだ。しかしこれもあくまで治療のための手段であって、予防するワクチンとは役割が質的に違う。しかし近い将来、新型コロナが季節型インフルエンザ的な認識になる可能性は十分にあるし、もしかしたら天然痘のように絶滅させることもできるかもしれない。しかし楽観論だけではいけない。ウイルスには突然変異がつきものである。いつコロナが強毒化するかもわからない。未来のことは確実に見通せないが、パンデミックが終息するまでは可能な限り良質(つまり被害の少ない)共生をすることが求められる。

5Gで完結する可能性と、5Gの危険性。

今、ネットの世界(移動通信システム)が4Gから5Gへ変わる過渡期にある。5Gに対しては非常に大きな期待が寄せられ、実際に具体的な応用に対するビジョンはかなり明確であり、それらのどれを見てもかなり大きな革新が成し遂げられるように思える。具体的には自動運転、遠隔操作による医療(手術)、さらにエンターテイメントの世界において内容が具体的に詰められている。それらのビジョンがいつどのくらい現実化されるかはまだ未定ではあるが、色々な話を聞いてみるとどれも近い将来(2、3年後?)にはそれなりの形になっているのではとも感じられる。

このような5Gに対するビジョンから感じられる威力を見て、一部の世界では早くも6Gに取り組もうと言う話が出てきている。しかし僕は今から6Gに取り組むことにほとんど意味はないのではと考えている。その理由は、6Gに取り組む事に対する動機である。5Gに関しては、自動運転を始め具体的な動機が数多くある。しかし6Gを考える動機に具体性がほとんどなく、ただ現在の5Gのインパクトに刺激されて、6Gを先取りすれば巨大な利益を得られるのではと言うそれのみのように感じられてならない。それは自己啓発本を読んで大きなビジネスに取り組もうと考えることと大して変わらないように思える。

そして僕が現在思うのは、5Gでほとんどの事が完結するのではと言うことである。少なくとも現在、5Gに対する欠点は聞こえてこない。例えば4G以前の時代では、通信量の制限に関してはずっと不満の声があった。それが5Gではリミットレスになる。ただ5Gに何も問題がないのかと言えば、一つだけあると僕は考えている。それはセキュリティ問題である。24時間ネットにつながっていることから、個人の行動などがダダ漏れする危険性がある。つまり事実上、24時間監視される危険性をはらんでいるのである。ただ現在、このようなセキュリティに関する危険性の声はあまり大きくは聞こえてこない。しかし5Gが普及すれば、いずれはこのような事は問題になると僕は考えている。

なので、もし6Gを本格的に考えるときが来れば、その中心はセキュリティ問題になると僕は考えている。それはプライバシーの問題、そして自動運転などの際一番の危険性になるハッキングなどの問題である。なので6Gではビジネス的な視点だけでは全く進められないのではと僕は思っている。しかし現在一部で進められている6G構想は、ほぼ全てビジネス的観点、そして支配的観点からの視点からである。しかしもし5Gの問題を克服しようと思えば、国と言う国境は無意味になるし、階級と言う視点も無意味になるかもしれない。このように考えるとますます現在の6G構想が無意味に思えてならない。

「迷惑をかけてはいけない」の裏返し。

多くの日本人は、子供の事から「人様に迷惑をかけてはいけない」と強く言われて育ってきたのではないだろうか?日本人にとって人に迷惑をかけないと言うことは大きな美徳であり、それが立派な大人かどうかの大きな判断基準にもなっている。確かに「人に迷惑をかけない」と言う部分だけを切り取って見れば非常に良いことのように感じるかもしれないが、実はこのような考えが社会として大きな危険性をはらんでいると僕は感じている。

人に迷惑をかけないと言うことを裏返せば、それは人から迷惑をかけられることに対しては許さないと言うことでもある。実際、日本人は人からの迷惑に対して非常に厳しい。電車で子供が泣いているとあからさまに迷惑な態度を取る人が多いし、電車が数分でも遅れようなものなら駅員に対して罵倒する人も見かける。人に迷惑をかけてはいけないと言う考えは、人からの迷惑を許さないと言うことを経て、非寛容な社会を生み出している。

以前ドイツに住んでいる日本人が書いた記事を読んだが、ドイツでは人に迷惑をかけることは当たり前の事であり、日常茶飯事であるらしい。これは裏返せば、周りから迷惑をかけられても大丈夫だよと言う考えにつながる。つまり迷惑をかけたりかけられたりすることはお互い様だと言うことであり、これが寛容な社会、寛容な心を生み出しているようだ。

ヨーロッパでは電車が数分数十分遅れることはよくあると聞くが、それに対して怒る人がいるとは聞いたことがない。日本の新幹線は秒単位で制御されており、一分でも遅れると一大事のように扱われる。そのような日本の感覚でヨーロッパの電車事情を見るとびっくりするかもしれないが、その根底には寛容な思想・社会があると考えればむしろそっちの方が健全なように思える。

日本では最近、自分たちを自画自賛する風潮が強くなってきている。しかしそれは非常に危険な状況になっているサインであるように思える。新幹線の運行が正確だと自画自賛し、絆の心が美しいと自画自賛している。別に新幹線の正確さや絆の心が良くないとは全く思わないし、むしろそれは良いことであるかもしれないが、それらの心の裏を考えてみると非常に恐ろしいように思える。自分たちに同調する人たちには絆の心を持ち助け合うが、少しでも考えの違う人や違う行動をする人に対しては村八分状態である。現在のコロナ禍においてもそのような行為はニュースなどで頻繁に見かける。思いやりや絆、そのような言葉だけを切り取ると一見美しいように感じるが、実はその裏に非常に非寛容な心がべったりと張り付いていることを強く感じる。今日本人に欠けているのはまさしくこのような寛容さであると言えるのではないだろうか?

命を守る経済。

人々にとって経済とは単純に言えば金儲けの事であり、いかにして利益を出すかと言うことが一番の関心ごとではないだろうか?平時であればいかにして多く儲けるか?そして政府にとってもいかにして黒字を増やすか?と言うことが最重要課題であろう。しかし現在のような緊急時においては、かなり様相が変わって来る。

今一番大事なのは、いかにして国民をコロナから守るか?一人でも多くの人間の命を守ることだ。そして人々を感染から守ると同時に、人々を経済的死から守ることも重要である。コロナにかからず生き延びても、経済的死によって自殺する人が出て来ることは容易に想定できる。先日もとんかつ屋の店主が火を付けて自殺したと言うニュースがあった。このような緊急時において大切なのは、命を守る経済だと言える。

現時点に限れば、裕福になる経済を目指すことは無力であるし、そのような事はコロナが終息してから考えればよい。むしろ今はセーフティネット経済が必用である。今生き延びるための資金をどう獲得するか?そして今の仕事・事業をどう維持していくか?現在の状況を考えると、やはり国の支援なしでは切り抜けられない。コロナ禍は努力だとかそういうこととは関係なくやってきて、また今ある経済的苦しさは事業内容に大きく左右されると言える。そして今切り抜けた後にどう回復するかと言うことも重要である。経済的命と生命的命、両方を守る政策が必要になってくる。

しかしこれが一か月二か月で終息するのなら我慢して持つかもしれないが、先が全く見通せない。医学的一般論で言えば、ワクチンができるまでは完全に終息させることは難しい。そのワクチンも早くて一年かかると言われている。例え最短で一年で回復するとしても、そのような確信がなければ続けるのは難しいし、そもそも一年持たすには相当の余裕がなければ難しい。

今、命を守る経済を立ち上げなければならない政府。しかし安倍首相の現在の実行力は何とも心もとない。正直安倍政権のままで現在のコロナ禍を乗り越えられるとは思えない。しかし現在の野党は最弱である。現在は経済だけでなく、政治的にも戦後最大の危機だと言えるのではないだろうか。

ITにできないことは何か?

ここ数年、ITによって何でもできると言う風潮が強くなっていた。ITによって飛躍的に便利になり、極端な話ではAIが全ての仕事を請け負って人間は何もしなくていいと言う話までされることもあった。しかし今回のコロナ禍によって、ITの限界が露呈したように僕は感じる。

ITが発達しようとしまいと、人と人が対面すると言う行為の重要性は全く変わらないし、確かにITによって人と人が連絡する手段は飛躍的に向上したが、人と人の触れ合いそのものはほとんどITとは別の話である。今あらゆる物事をITによって解決しようと言う動きがあるが、それと同時にITではできない事、つまり人間の営みの本質的なところの重要性が認識されつつあるのではないかと僕は強く感じている。

例えば、好きな女の子と会いたいと思ってLINEで連絡を取ることはできるが、ITが男女の深い付き合いを結び付けてくれるわけではない。やはり最終的には人間の、男と女の感情と古典的行動によるものである。そしてビジネスにおいても業種にもよるが、全てがITで完結するわけではない。

現在ITと言うものが非常に重要視され、ビジネスにおいてもその中心に置かれることも多いが、これから数十年スパンで見るとITの価値と言うものは下がっていくのではないかと僕は思っている。それに対して、人と人が直接会うと言う古典的な行為の持つ価値が非常に高くなると僕は考えている。確かに人と人が会う前段階、つまり連絡を取り合うとか大まかな相性を占うと言うことはITでいくらでもできる。しかし最終的な決断は人間の古典的な判断にかかっている。

これから先、ITにできることはどんどんITに任されていくとは思うが、それと同時にITにできない事の価値はどんどん高まっていくはずだ。そしてその結果残ったものが真に価値あるものであると僕は考えている。

蓮舫氏「学校を辞めたら高卒」発言。

コロナ禍と言うものは、人間の本性をむき出させるものなのだろうか?今回の蓮舫氏の「学校を辞めたら高卒」発言は、蓮舫氏の、あるいは人間の奥底に潜む本性を現したものだと言える。しかしこの発言に関する問題は、蓮舫氏だけではなく、日本の社会に潜む問題だと僕は考えている。

今、学生が非常に苦しい立場に立たされている。学校には行けない上に、学費だけがかさんでいく。親も苦しいうえに、学生自身もバイトによる収入を絶たされている。学問を学びたい学生がその道を断たされるのは、学生本人にとっても国家にとっても大問題である。そいう意味では、蓮舫氏の発言も分からないこともない。

しかし蓮舫氏の発言は、社会に潜む問題意識を投射したものでもある。それは「学歴至上主義」と言う社会問題である。僕はこれまで、高卒であってもビジネスの世界で活躍する人物を見て来た。そして大リーガー・ダルビッシュ選手は自ら、「自分は実質中卒である」と語っている。しかしダルビッシュ選手は世界トップレベルの世界で大活躍している。このような人物たちを見ていると、決して人間は学歴ではないと強く感じる。逆に学歴だけあっても何の才能も見いだせない人も多い。

しかし現実問題として、学歴がある人が優遇される現実もある。もちろん、大学に行って知識や技術を学び、それを評価されているのならばまだわかる。しかし学歴だけを見て才能を見なければ本末転倒である。

僕自身は人間性に学歴は関係ないと思っている。僕は人から聞かれれば学歴を答えることもあるが、自らは自分の学歴を言うことはほとんどない。大学時代には、学歴にこだわる無能な人間も何人か見て来た。人間性や才能に学歴は関係ない。しかし才能や意欲がある人間が大学で学び才能を高めることを阻んではいけない。今回の蓮舫氏の発言をきっかけに、今の表面だけを見る学歴至上主義が少しでも変わればと強く思っている。

大事なものを、一つ決める。

今コロナ禍によって、あらゆるものが壊滅的な被害を被っている。このような中、明らかに自分に関わる全てのものを守ることは不可能だ。平時なら大切な全てのものを手に入れて守ろうと言うことが可能かもしれないが、今はその中から大事なものは何かと優先順位を付けて、本当に大事なものを守ることに全力を挙げなければならない。

自分にとって大事なものは何か?それはお金か?家族か?仕事か?それとも健康か?それは人それぞれであろう。もちろんどれも本当に大事なものばかりである。しかし今は緊急時である。どれかを完全に捨てると言うことはできないが、大切なものから順に守って行かなければならない。そのような時に、自分にとって絶対的に大事なものを一つ決めておくことは非常に重要である。一つに決めたからと言って他のものを捨てると言う訳ではなく、一つを徹底的に守ることによって他のものを守ることにつながるのである。

例えばお金が一番重要だと考えるのならば、お金を死守することによって家族を養うことができるし、そしてそのお金で病気を治療することができる。お金のことを話すことを毛嫌いする人が多いが、お金は大切なもの、大切な人を守る重要なツールなのである。

とは言え、政府の政策において一つだけを特別扱いするわけにはいかない。しかし繰り返すが今は緊急時である。政府の政策にとって最も大事な事は何なのか?それは言うまでもなく国民の命である。しかし国民の命を守るためにも経済は重要である。他国では経済が成り立っていないが故に国民の命を守れていない国がある。日本の治安が世界トップレベルであるのも、高度な経済レベルであるが故ともいえる。しかし現在のアベノミクスにこだわる経済対策には賛同できない。今は国民の命を守るための経済が必用である。アベノミクスから命を守る経済へ転換できるか?今、安倍首相はその手腕を試されている。

本は二度読む。

小説なら一度読んで満足すればよいが、科学書・専門書は基本的に繰り返し読むことを前提に作られている。もちろん読み方は人それぞれ様々だが、例えば僕ならば、一度目は風を切るように猛スピードで読み、二度目はじっくりと手を動かして計算しながら読むことにしている。一度目に風を切るように猛スピードで読むのには理由がある。まずは細部にこだわらず、全体像を掴むためだ。計算もできるだけ頭の中だけで完結させる。これが意外とじっくり読むよりも理解が深まるものである。

現在のコロナ禍の中で家で過ごす人が多いので、今本が非常に売れていると聞く。何冊も手にして数千円分まとめ買いをする人も多いらしい。本はただではないので買うのにはもちろんお金がいるが、そうは言ってもその他の出費に比べたらそんなに高くはない方だと思う。少なくともほとんどの人は、毎月の本代よりもスマホ通信料の方が高いのではないかと思う。もちろん僕のようなホンゲル係数が異常に高い人間もいるが、普通はそんなに本代に出費する必要はない。さらに図書館を利用すると言う手もある。

今、暇で時間をもてあそび、パチンコに入り浸っている人が問題になっている。パチンコ屋はまさしく三密の代表でもあり、自分からコロナにかかりに行くようなものである。そして得る物はほとんどない。たまに運よくお金が入ることがあるようだが、僕には全く理解のできない世界である。家で本を読んだ方がよっぽど得る物はあるのにと、パチンコに行く人たちが可哀そうに思う。おそらく本と言うものの意義が理解できないのだろう。

今のコロナ禍は、読書をするチャンスだ!確かにコロナ禍によって仕事も減り、収入も激減し、さらにコロナ感染の恐怖から憂鬱になるであろう。このように全てがネガティブな方向へ進んで行くように思えるかもしれないが、だからこそこのような中でポジティブな事を考えることが重要なのではないだろうか。そして本はそのようにポジティブになるための大きな手段になる。災い転じて福と為す、そのように簡単にはいかないかもしれないが、しかし何もしないでパチンコなどに行ってしまえば災いがさらに不幸を呼ぶことになる。今このような時だからこそ本を読んで地力をつけ、コロナ禍が去った後に攻勢をかける準備をすべきではないだろうか。

危機と平時。

現在は明らかに危機、つまり緊急時である。世界がコロナ禍に見舞われ、それぞれの国の首長はその対応に追われ、またその対応によって株を上げる首長も出てきている。危機時に強かった政治家と言えば、僕の印象では真っ先に元ロシア大統領・エリツィン氏が挙げられる。彼は危機によって持ち上げられ、平時になるにつれ見放されていった。逆に平時には堅実な政治を遂行できるが、緊急時には即座に対応できない首長もいる。なかなか平時にも危機時にも強いトップと言うものはいないのかもしれない。

では安倍首相はどうなのか?彼はこれまで平時の政策によって株を上げてきた首相だと言える。リーマンショック(麻生政権)の後のアベノミクス、東日本大震災(民主党政権)後の復興と、危機時にはそれぞれ他政権だ。しかし現在、コロナ禍と言う想定外の危機が日本、そして世界を襲っている。その時に安倍首相は何を為したか?他国の首相・大統領が決定的な決断を下す中、安倍首相はズルズルと流され、仕方なしに苦渋の決断を下したように思える。そこには国民を守ると言う意識は見えてこず、軽症で済めばラッキーと言うような保身に走ったようにしか見えない。すなわち安倍首相は危機に非常に弱い首相だと言わざるを得ない。

今の安倍首相は、首相の在任記録の更新に気が行っているのか?それともこのコロナ危機時においても憲法改正を第一に考えているのか?少なくとも国民の命の事を考えているようには思えない。経済対策を否定するつもりはないが、国民の命よりも経済、つまりアベノミクスの方が大事なようである。

今は政治においてもトリアージが大事だと僕は考えている。全ての事、つまり経済と国民を守ること全てを最高の状態に維持することは不可能だ。だからこそ全ての事柄において優先順位をはっきりと付け、その優先順位に沿って物事を進めるべきである。今の安倍首相はその優先順位が間違っているか?それともそもそも優先順位を付けていないのか?どちらにしても正しい優先順位に沿って決断を下しているようには思えない。今、コロナ危機脱出に向けて明確な指示を出せるトップが必要なのではないだろうか?少なくとも現在の安倍首相にはそれができるとは思えない。