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それは受け取る側が決める事だ!

近年、「何とかハラスメント」と言う言葉が度々取り上げられている。セクハラ、パワハラ、スメハラなどいくつものハラスメントが存在する。しかしそのようなハラスメントを加える人間の多くは、それがハラスメントだとは認識していない。逆に認識していないからこそハラスメントが横行するのだとも思う。

しかし近年の社会風土を見ると、このようなハラスメントが行き過ぎではないかと感じることもたまにある。当たり前の事だが、ハラスメントと言う言葉を逆手にとって、他人を陥れるのは論外だが、一部ではそのような事も存在しているようだ。

ではそもそも、何を持ってハラスメントが存在すると言えるのか?それは受けた側が不快に感じているかどうかだ。決めるのはあくまで受け取る側なのである。例え加えた人間がそのような認識が無くても、受けた側が不快であればハラスメントは成立する。「そのようなつもりはなかった」は基本的には通用しない。もちろん、常識的な範囲であれば考える余地はあるが、大抵は周りから見ればハラスメント的な要素は確認できる。

危害を加えて「そのようなつもりはなかった」と言い訳をするのは、人間としてもかなり卑劣である。しかしそのような弁解は社会でかなり横行している。これは普段の冗談にも当てはまる。冗談を言ったつもりでも、それを受け取る人が冗談だと受け取らなければそれは冗談ではないのだ。さらにたちが悪いのは、言った方が「おまえは冗談も通じないのか?」と開き直ることである。相手に通じない冗談を言い、それが通じない責任を相手のせいにする。これは非常に困った人たちである。冗談かどうかは受け取る側が決める事である。冗談だと言いたいのならば、言葉使いのスキルと常識的な知識、そして言う人の人間性を上げなければならない。

評価とは基本的に周りの人が行うことである。もちろん、自分の信念の正しさを自分で確認する分には、自分で評価すればよい。しかし人間のコミュニケーションというものは、基本受け取る側が評価するものである。自分の起こした行動を自分で評価するのは、多くの場合自分のエゴでしかないのだ。

内容を伴っていない言葉にこだわるから、全く前に進まない。日韓関係。

現在、日韓関係は悪化の一途をたどっている。僕自身もそれについて言いたいことはいろいろあるが、そこはまず置いておこう。ここでは、そもそも何がここまで問題をこじらしているのか?その原因となっている二つの言葉を取り上げようと思う。

一つ目は「謝罪」と言う言葉だ。韓国は日本に対して執拗に謝罪を要求している。しかしこの韓国の言う「謝罪」と言う言葉にはほとんど具体性がない。日本の政治家が言葉で謝っても、韓国は更に批判する。お金を出しても批判する。なぜならこの「謝罪」と言う言葉は何を意味するかと言う事については全く語られず、批判するためのツールに成り下がっているに過ぎないからだ。すなわち、この「謝罪」と言う言葉には中身がない。中身がないものを持ち出しても解決するはずがないのである。

二つ目は「未来志向」と言う言葉だ。もちろん、この「未来志向」と言う言葉の概念についてはおおよそ誰もがイメージしているだろう。しかし、日韓関係においてはこの「未来志向」という言葉が形骸化している。やはり何を持って未来志向的な行動かが明確に示されていないのだ。だから何をしても未来志向にならない。日本政府はかなり未来志向的に問題に取り組んでいる。しかし一つ言うならば、何を持って未来志向的な行動なのかを、行動する前に明示しなければならない。それをしないと、何をしても未来志向だとは認識されない。もちろん、そのようなことをしたからと言って解決する保証はない。韓国と言う国は条約を反故にし、ゴールポストを動かし続けるような国だ。そのような事をし続ければ、日韓関係云々と言う以前に韓国の国際的信用の低下につながると思うのだが。他国の事ながら余計な心配をしてしまう。

現在、日本の政治は安倍一強だ。そのことについて批判もあるが、それは日本国民が選挙によって選択した道でもある。確かに一強であるが故の問題も山積しているが、逆に一強だからこそできる事もあるはずだ。(何も憲法改正だけを念頭に置いて言っている訳ではない。)国際関係、特に日米関係では、今の所安倍一強が力を発揮しているようだ。もちろん、これまで上手く行ったからと言って、これからも上手く行くと言う保証はないが。

とにかく、現在の日韓関係はあまりにも不毛すぎる。そのような状況を解決するためにも、韓国の言う「謝罪」「未来志向」という中身のない言葉にこだわることはそろそろ止めにしなければならない。

共産主義国家?日本。

日本は資本主義国家・民主主義国家である。少なくとも建前上はそうなっている。選挙は公平に行われるし、経済は資本主義の原則に則って行われる。確かに民主主義、資本主義である。

そして何より日本人・日本社会は公平・平等を最重視する。これはこれでいいことかもしれない。しかしそれも度が過ぎれば、共産主義的システムに傾く。最近の日本社会は、いや、昔からかもしれないが、このような共産主義的システム、共産主義的文化に傾いているのではないかと思うことが良くある。

日本の賃金は年功序列で横並びとよく言われる。最近は徐々に変わりつつあるが、これも日本の部分共産主義的側面ではないかと思う。しかしそれはまだいい。日本人全体の思考が過度な横並び思想になり、文化的に共産主義的になって来ているところが気になる。日本に旅行に来る中国人達の中には、「日本に来て本当の共産主義を見た」と言っている人も少なくないと言う。中国では思想の自由が制限され、とてもじゃないが自由主義とは言えないが、経済システム・社会システムはかなり自由主義・資本主義的になって来ている。もちろん、中国では思想の自由が確保されていないので、それに比べると日本はある程度思想の自由があると言え、一応自由主義国家であると言える。(ただし完全か?と言えば断言できない。)

日本は中国とは逆行して、システムがどんどん共産主義的になっているように思える。現政権を支持するかどうかはともかく、自民一強・安倍一強である。富める者は急速に富んで行き、才能や人間性が端に追いやられている。弱者を救うことは非常に良いが、現在のセーフティーネットが本当に弱者を救い切れているかどうかは疑問である。そしてそのようなセーフティーネットを食い物にするどうしようもない人たちがいる。多くの弱者達は、自分が弱者であるが故、声を上げる事さえできない。政府・自治体が能動的に弱者を救おうとしなければ弱者は救えない。しかし、政府・自治体はコストのかかるセーフティーネットの行使を極力避けようとしている。

現在は一部の人たちが大きな富を持ち、弱者とは言えない普通の人が多数おり、ある程度多数の弱者が悲鳴を上げている。しかし日本の共産主義的傾向が進行すると、それらの普通の人たちが“平等”に弱者になってしまう。ほぼ全員が弱者である国が弱者を救う事は出来ない。なので弱者が普通の生活が出来るようになり、普通の人がさらにより良い生活が出来るようにならなければならない。もちろん、現在の弱者と普通の人のレベルが逆転しても良い。現在の弱者が努力して大逆転するのも大いにありだ。むしろそのような事が可能な世の中にならなければならない。

日本と言う国は、どれだけ成果を挙げたかと言う事が評価される国ではなく、どれだけ失敗しないかと言う事によって評価される国だ。そのような国で、国民が積極的に挑戦しようとなるはずがない。しかし、世の中を変えることが出来るのは間違いなく挑戦者だ。そのためには、積極的に挑戦しようとする者の足を引っ張るようなシステムにすべきではないと強く思う。しかし現実は、何も行動しようとしない従順な人たちには都合よく、挑戦者からは挑戦権を剥奪しようとしている。そしてそれは、弱者を救えない社会システムと大きく関わってきている。なぜなら、挑戦権のない社会は、弱者の再チャレンジの権利さえも奪うことを意味しているからだ。

英語力で評価されるのは二流だ!

女子ゴルフの渋野日向子選手がゴルフ・全英女子オープンで優勝した。渋野選手のいつでもスマイルが話題になったが、優勝スピーチも見る者を惹きつけた。渋野選手の優勝スピーチの英語はお世辞にも上手いとは言えないし、はっきり言って中学レベルである。しかしそのような中学レベルの英語スピーチを、「英語力が低レベルだからダメだ」と言う人はおそらくいない。なぜなら、本業であるゴルフのプレーでしっかりと世界一と言う結果を残しているからだ。彼女の上手くない英語力がゴルフの評価を下げることは全くないのだ。それどころか、最後に笑顔で放った「サンキュー」と言う一言が彼女の魅力をより一層強いものにした。

しかし世の中では、何かと「英語力が重要だ。英語力を身に付けないといけない。」と言われている。極端な場合では、「英語が出来ないと全てがダメだ」と英語力だけで人間を判断されることもある。しかし英語力は何のために付けるのか?それは、自分が取り組んでいる事をよりスムーズに進めるためだ。言い方を変えると、英語力は補助でしかないと言える。だから本業で圧倒的な力を見せることが出来れば、英語力などはどうでもよいのである。もし英語力で自分の力を評価されているのならば、それは本業で力を出せていない、自分が二流であると言うことである。

以前、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、英語が大の苦手であったと言う。確かノーベル賞授賞式でのスピーチでも、博士は日本語でスピーチしたはずだ。しかし博士が英語が話せないと言う事によって評価が下がったなどと言う事は聞いたことがない。それは彼の研究力が一流だからである。

渋野選手はこれから世界を転戦すると思われるので、英語力もこれからメキメキと付けて行くであろう。そして彼女の英語力はこれから彼女のプレーを大きく助けて行くと思われる。しかし彼女の評価は英語力でされるのではなく、ゴルフのプレーによってされる。なぜなら彼女は一流のゴルフプレーヤーであり、英語力ではなく、プレーと彼女自身の人間性に魅力があるからである。

必要なのは技術か?アイデアか?

日本では技術力が過度に高く評価される傾向がある。もちろん高い技術力がある事は素晴らしいが、ただ技術力があるだけでは何も成し遂げられない。技術というものは何かに応用して初めて威力を発揮するのであって、その「どのように応用するか?」というアイデアなしでは何も成し遂げられない。

逆にアイデアだけでも何も成し遂げられないし、学問で言うと、アイデアだけでは単なる素人の妄想でしかない。アイデアは具体的に構成して初めて意味を持つ。その具体化は技術によって成し遂げられる。

すなわち必要なのは、技術とアイデアの双方なのである。この二つは車の両輪である。片方が欠けても前に進まない。ただ、役割分担と言う事は出来る。アイデアを出す人と技術を持っている人が融合すればいい。もちろん、一人でアイデアと技術の両方を持っていれば理想的であるが、なかなかそのような人はいない。企業も同じで、良いアイデアと高い技術力の双方を持ち合わせている企業は少ない。

今日本で問題になっているのは、高い技術力を持ちながらも良いアイデアを出せない事である。日本の技術力は誰が見ても世界トップレベルである。しかし、現在非常に威力のある分野であるスマホ製品を見ても鳴かず飛ばずである。僕自身も日本企業は高い技術力を持っていると思いながらも日本製品に魅力を感じず、アップルのiPhoneを愛用している。日本企業がiPhoneのような素晴らしい製品を作ってくれればどれだけ良いかと思うが、現状を見るとそれは期待できない。日本企業は高い技術力を持ちながらも、アイデアは他国企業の後追いばかりである。

数学においても、計算力が抜群にあろうが豊富な理論的知識があろうが、それをどのように発展させるかと言うビジョンがなければ新しい理論を構成することはできない。もちろん、数学以外の学問においても同様であろう。学生のうちは、熱心に勉強してたくさんの知識を身に付ければ良い。本もたくさん読めば良い。しかし、学生を卒業した後はそれらの知識を基にアウトプットをしていかなければならない。そのためには、読書をして技術を付けるだけでは何の進展も望めない。アウトプットするためには、はっきり言ってビジョンなき読書は無力なのである。アイデアを基に実行しなければ何も生み出せない。今、日本が陥っている「技術バカ」ではなく、また「アイデアのみのド素人」でもなく、「技術とアイデアの双方を兼ね備えた実行家」として遂行することが必要なのである。

高橋政代博士、民間企業に移籍。

理化学研究所の高橋政代博士が、理研から民間企業へ移籍したと言うニュースが報じられた。高橋政代博士はiPS細胞を用いた眼科再生治療研究の第一人者で、iPS細胞治療の臨床応用に関しても世界で初めて成功している。高橋博士の民間企業への移籍は何を意味しているのか?そしてこれから基礎研究はどのように進むのか?少し考えてみたいと思う。

もっとも、僕は医療に関して全くの部外者であり、医療の専門家でも何でもないので、再生医療の未来なんて言う大それた事は何も言えない。ただ研究者としての立場からは何等か言えることがあると思い、少し自分の意見を書こうと思う。

日本の研究者は大きく二つに分けられる。公的機関の研究者と民間企業の研究者だ。数学や理論物理ならフリーの研究者というのも可能である。高橋博士は公的機関から民間企業へと渡ることになった。公的機関から民間企業へと移籍すると言う事は、公的機関にいては何か不都合があったのだろう。それは何か?それは大きく二つにに分けられる。一つは研究遂行に関する事。医学研究ならばしっかりとした施設が必要だし、それらを含めて多額の研究費も必要になる。理研がそれらを満たしていないとは考えにくいが、高橋博士の構想に照らし合わせるとそれらを満たしていなかったのではと考えられる。あるいは例え理研がそれらを満たしていても、オファーのあった民間企業がそれ以上の研究費と優れた施設を保持していたのかもしれない。それならばほとんどの研究者はその民間企業へと移籍するはずだ。高橋博士がこれからその優れた企業で、これまで以上の優れた研究成果を挙げることを強く祈るばかりである。なぜなら、高橋博士の研究成果は、医療と言う形で社会利益へと直で結び付くからである。

もう一つは、個人的な利益である。個人的利益とは、一言で言うと報酬、そして地位や名誉だ。日本では特にこのような面を軽視しがちだ。ひどい場合には、「研究者は好きな事をしているから、お金はいらないだろ」と言われることもある。バカヤロー!研究者だって人間だ。だから人権もあるし、成果に対して対価を得る権利もある。日本では、いや、世界でもそうだが、研究結果がたどり着く最終工程、つまり製品化や医療行為に対してお金が集まる仕組みになっている。だから企業のトップが儲かる訳であり、医者が儲かる訳である。同じ医者でも、基礎医学研究者は基本的には儲からない。だからお金が欲しい医学部生は、医学研究者ではなく医者になり、最終的には開業医になろうとする。では、多くの開業医と、山中伸弥教授や高橋政代博士などの基礎医学研究者ではどちらが偉大か?百人いれば99人は同じ答えを出すだろう。(もちろん、優秀で偉大な開業医もたくさんいる。)高橋博士が個人的にどうであったかは僕には知る由はないが、研究者にとっても報酬や地位名誉は非常に重要である。

多くの研究は一見金銭的利益には結びつかない。もしかしたら社会的貢献からも非常に遠い位置に見えるかもしれない。しかしそれは多くの本質を見逃している。まず研究結果というものは人類すべての知の財産であり、人間社会に多大な貢献をしている。そして金銭的利益に関しては、それが一年後に金銭的利益に結び付くかと言えば絶望的であるが、10年後に結び付く可能性はそれなりにあり、50年後、100年後にはほぼ確実に結びついている。しかしその時にはほとんどの研究者は息絶えているだろう。だから、研究者がまだ息をしている間にそれなりの対価を与えることが必要だ。高橋博士の移籍はその実現例であったのかもしれない。いや、そう思いたい。今回の高橋博士の例のように、基礎研究者が民間で活躍し報酬を得られる仕組みを積極的に作って行きたいものである。高橋博士の場合は医学と言う医療に直結する分野だから実現したが、数学者がその基礎研究を民間企業で行い、報酬を得、地位と名誉を得られる日は来るのだろうか?少しだけ期待してみよう。

炎天下で何も考えずに死に物狂いで倒れる高校球児の姿は、もうダサい。

先日、大船渡高校の佐々木朗希投手についての話題を書いたが、数日経っても佐々木投手の決勝での登板回避に関しては賛否が分かれているようだ。僕はこの佐々木投手の登板回避とそれを決断した監督に対して称賛を送ると言ったが、現代的な野球システムを考えると称賛ではなく、常識的な判断でさえあると思える。

投手の肩は消耗品だ。それは野球に対する現代的知識としては常識である。佐々木投手の登板を抑えたことは、日本の宝を守ったとさえ言える。もちろん、今回の登板回避によって佐々木投手の未来が100%明るいものになったという保証はない。登板を抑えても故障する時はするし、投げ続けても耐えられる人は耐えられる。ただ確率的な問題だと言える。今回の佐々木投手の登板回避は、将来の成功の確率を高めたものだと言える。

高校野球と言えば、炎天下で無我夢中でプレーし、倒れることが美しいとこれまで言われてきた。現在でもそのようなステレオタイプのイメージを高校球児に押し付ける人は少なくない。しかし、もうそのような野球イメージはダサい。“何も考えず”に死に物狂いでプレーし倒れるような選手に、今は美しさなど感じない。むしろ今回の佐々木投手のように将来のプロでの活躍のために肩を守り、将来に備える方がはるかにクールである。甲子園に出ることが絶頂であるような選手は(もちろん高校野球としてはレベルが高いのだろうが)、結局そのレベルの選手でしかないと言う事だ。佐々木投手擁する大船渡高校に勝利し、マウンドではしゃぐ花巻東の選手に器の小ささを感じたのはそういうことだ。(一言付け加えると、花巻東は菊池投手や大谷選手を大切に育てた非常に素晴らしいチームである。)

それでも、がむしゃらに投げ続けることが本来の野球の姿で、現在の野球選手は甘やかされていると言う人がいるだろう。ならば、そのような昔の日本の野球レベルと現在の野球レベルはどちらが高いか?火を見るより明らかである。30年ほど前までメジャーで通用した選手はいたであろうか?野茂英雄氏がアメリカに渡るまで、本格的にメジャーでプレーできた選手はいない。しかし現在ではほぼ毎日のようにメジャーで活躍する日本人選手の姿を見るようになった。明らかに圧倒的に現在の方が日本の野球レベルは高いのである。システムは日々科学的に洗練されたものになって行く。科学嫌いの人にとっては不本意であるかもしれないが、そのようにしてあらゆる分野のレベルは向上して行く。野球だって例外ではない。

炎天下で何も考えずにプレーする高校球児はもうダサい。そしてそのような姿をダサいと思われるような野球知識を、多くの人が付けなければならない。これからは頭を使い、考えながらクレバーにプレーして行く時代なのである。そのようなスマートな野球こそが、これからのカッコいい野球選手の姿である。

学問とビジネス。

学問とビジネスとの関係は微妙だ。工学関係の研究だと製品に直結することも多いのでビジネスに直に結びつくが、数学や理論物理に関してはビジネスに直に結びつくことはほとんどない。しかしそれは現時点だけの関係であって、工学ならば数年後に大きなビジネスに結びつくところが、数学や理論物理の研究に関しては50年後100年後になることが多いと言う事だ。実際に20世紀前半に打ち立てられた量子力学のシュレーディンガー方程式が数年後に実用化されたという話はあまり聞かないが、現代社会においてはシュレーディンガー方程式を用いていない電子製品などというものは存在しない。青色発光ダイオードの中村修二の発明対価が200億円であるという判決が以前出たが、シュレーディンガーの功績を現在のビジネスにおいて発明対価を計算すれば、おそらく数百兆円は下らない。おそらく現在世に存在する電子製品の全てがシュレーディンガーの発明対価の対象になるはずだ。

しかし、数学や理論物理の研究者がビジネスに熱を上げているという話はほとんど聞かない。数学者がビジネスに無関心であると言う話も良く聞くが、そもそも数学がビジネスに結びつくとは誰も思っていおらず、初めからそれをビジネスに結びつけると言う発想自体がないものだと思われる。しかし数学者であっても生活しなければならないことは変わらず、大学や研究所に所属する数学者は所属機関から給料をもらっている。

別にビジネスに無関心であることが美徳でも何でもなく。むしろ数学者であっても積極的にビジネス的視点で物事を考えることは必要なのではないかと僕は思う。しかし別に営業や商売などを考える必要はない。数学者には数学者しかできないビジネスがあるはずだ。そこを考えないと、数学者である意味が薄れてしまう。しかし、ビジネスに無関心で研究に没頭するのもそれはそれで良いと思う。物事には役割分担がある。学問の根幹となる部分を数学者が行い、ビジネスの末端になる部分はビジネスマンがやればいい。もちろん、そのように上手く行けばの話だが。

もちろん、数学の真価がビジネスにあるとは思えない。しかし数学者であっても、お金を稼がなければ生きて行くことはできない。そういう意味では、バリバリのビジネスマンでなくとも数学者も広義のビジネスというものは考えなければならない。とは言え、数学者や理論物理学者は、ビジネス的観点からはかなり不遇な立場に立たされているように思える。中には数学者にはお金儲けは必要ないと言う人さえいる。何を根拠にそんなことを言うのだろうか?

とは言え、数学は面白い。物理学も面白い。その純粋に面白いと言う事に没頭しているだけだ。そのように純粋に学問に没頭している数学者・物理学者に対して、ビジネス的に冒涜することはいい加減にやめてもらたいものだ。

大船渡・佐々木朗希投手の器。

高校野球地区予選決勝で、佐々木朗希投手擁する大船渡高校が花巻東高校に敗れ甲子園出場を逃した。大船渡の監督は決勝で佐々木投手の出場を回避すると言う決断を下したが、この決断に関しては賛否両論あるようだ。僕の個人的意見としては、今回の大船渡の監督の決断には称賛を送りたいと思う。

多くの人が言うように、佐々木投手は高校野球の世界で満足するような器ではない。彼には甲子園よりメジャーのマウンドの方が似合うはずだ。高校野球で頂点に立つのではなく、メジャーで世界一の投手になってほしいと願っている。

過去を振り返れば、イチローさんは甲子園で注目を浴びるなどと言う事は眼中にもなかったように思う。少なくとも甲子園で負けて泣くような男ではない。今回大船渡と対戦した花巻東高校時代の大谷翔平選手も、甲子園では目立った活躍はしていなかったように思える。(もちろん、高校で160キロを出したという記録はとてつもないが。)佐々木投手には、イチローさんや大谷翔平選手が見ている世界を見てほしいと多くの人は願っているはずだ。

今回の決勝で出場回避して負けたことは、佐々木投手の器をさらに大きく見せられたように感じる。大船渡に快勝した花巻東の選手たちはマウンドではしゃいでいたが、佐々木投手との対比によって逆に器の小ささを感じさせられもした。もちろん、花巻東と言うチームのレベルが非常に高いのは百も承知である。佐々木投手の器がデカすぎるのだ。

今回の敗退によって、佐々木投手の本領を垣間見ることは持ち越しになった。しかしそれは楽しみが先延ばしになったに過ぎない。数年後、メジャーのマウンドで雄たけびを上げる佐々木朗希投手の快投を楽しみにしよう。

選挙権。

7月21日、参議院議員選挙が行われた。今回の選挙の投票率は50%を割り、すなわち二人に一人は投票所に足を運ばなかったことになる。その理由は人それぞれであるとは思うが、「自分が投票しても何も変わらない」と言う意見も良く聞く。果たしてそのように考えるのは正しいのであろうか?

一人の票は数千万分の一である。問題はこれをどう捉えるかである。数千万分の一とはかなり小さい数字のように思える。これだけを見ると、自分の一票だけでは何も変わらないようにも思える。しかし、一票を投じた人たちの票の積み重ねによって政治は動いている。この数千万分の一が世の中を動かしているのである。こう考えると、投票している人としていない人では、イチとゼロなのである。政治家は国民がコントロールしなければならない。そして政治家をコントロールしているのは、一票を投じた国民なのである。

日本国民であるならば、中学高校で日本史を習ったはずだ。そこでいかに国民が選挙権を獲得して行くかと言う歴史を習ったはずだ。昔は一定金額以上の税金を払った男子だけが選挙権を保持していた。ある意味、選挙権を保持していると言う事は特権階級の証であった。そして徐々に一般国民にも選挙権が与えられるようになった。そのような歴史を習ったのならば、選挙権がいかに貴重なものかは理解できるはずだ。なので、自分が一票入れても何も変わらないと言って投票所に足を運ばない人は、自分の無知をひけらかしているのに等しい。

トップホストのローランド流に言うのならば、「日本人には二種類いる。政治を動かす人か、政治を動かせない人か」と言う事だろう。もちろん、政治を動かす人と言うのは投票する人であり、動かせない人と言うのは投票しない人である。もちろん、投票をしない人に対して投票を強要するのは間違っている。ただ投票をしない人は、自分の保持する権利をみすみす放棄している、ただそれだけである。

選挙に対するメディアの役割。

テレビニュースなどのメディアでは、度々政治家の不祥事が取り上げられている。そのような度重なる不祥事に対して国民の怒りも相当あるだろうし、そのような不祥事が政治家不信を招き、政治家に対する期待は無くなって行く。その結果、投票率は低下し、特に若者の投票離れが顕著になって行くのだと思う。

この様な選挙離れに対して政治家の責任は非常に大きいが、その一方、メディアの側にも大きな責任があるのではないかと僕は考えている。その理由は二つある。まずは政治家が自分に利の大きい高齢者向けの政策の発信がメインになる中、メディアもそれに対応して高齢者向けの政治ニュースをメインに扱っていることだ。それによって若者は疎外感を感じるのではないだろうか。自分には政治は関係ないし、政治家の側も若者の方を向いていない。そう感じられれば若者の足が投票所から遠のくのも無理はない。

もう一つは、メディアが政治家の不祥事は大きく取り上げるが、政治家の成果や取り組んでいる事を軽視していることだ。不祥事などは市民の目耳を集めやすい。以前話題になった号泣議員などはその最たる例だ。しかし政治家が今何に取り組んでいるのか?そのような事をいったいどれだけの人が理解しているだろうか?これは単に市民が不勉強だからと言うだけではない。メディアがこう言った話題をなかなか取り上げない事も原因である。号泣議員のニュースには膨大な時間が割かれてきた。しかし普段の政治家の取り組みに関するニュースはほとんど目にすることはない。相当能動的に知ろうと思わなければこのような情報を仕入れることはできない。

メディアと言えども商売なので、市民が興味ある情報をメインに垂れ流すことはもちろん理解できる。しかし政治家が現在何に取り組んでいるかと言う情報は非常に重要である。そのような情報を日常的に発信すれば、もう少し政治が身近なものになるのではないだろうか?若者の足を投票所に向かわせるためには、まずは日常的に政治ニュースに触れられる環境を作ることが大事である。

悪しき平等主義。

近年は平等と言う事に対して社会が敏感になっている。もちろん、平等な社会にすることは重要なことであるし、多くの事に対しては平等は良い影響を与える。しかし、思考停止的に平等にこだわってしまえば、それが悪しき平等主義に繋がってしまうこともある。

例えば企業でも給与に関しては、皆同じように昇給して同じ金額の給与をもらうことが平等と考えられて来た。最近は、同一労働同一賃金と言う事が広く問題に上がることが多くなったが、このような同一労働同一賃金には僕自身も大きく賛成である。同じ成果を挙げたのならば同一賃金を支払うのは理に適っている。問題なのは、ある意味同一労働同一賃金の対極にある事と言えるが、能力も成果も異なるのに“平等に”同一賃金を要求することだ。しかし日本では、このような悪しき同一賃金主義がはびこっており、それが日本の将来を暗いものにするのではないかと僕は、そして一部の人は危惧している。

そのような悪しき同一賃金主義の下では、能力のある者は正当に能力を評価してくれる海外に流れ、結局能力のない者だけが残ると言う事になってしまう。能力のない者にとっては居心地の良い日本社会である。よく言われているように、平等にすべきなのは、機会の平等であって結果の平等ではない。しかし、日本では結果の平等に極度にこだわっており、その結果、共産主義的な低いレベルでの平等が行われ、そのレベルは年々低くなってきているように思われる。

今日本で必要なのは、人物に対する正当な評価である。結果に対する平等ではなく、正当な評価が真の平等に繋がると僕は考えている。悪しき平等とは、見える所だけを平均で均した見かけ倒しの平等である。見かけではなく、その中身まで掘り下げて評価をしなければならない。そうしないと、世の中にはびこっている悪しき平等主義は無くならないであろう。

自由だとか、人権だとか。

現在、香港のデモが注目を浴びている。香港のデモは条例の制定に関するものだが、簡単に言うと、自由だとか人権に関するせめぎ合いだ。日本では近年、このようなデモは全くと言っていいほど見かけない。それはある意味、日本が平和であることを象徴していると言えるが、果たしてこのような平和に見える日本で自由や人権が守られているかと言うと疑問に感じることが多い。

日本と言う国は資本主義であり、自由主義の国である。そして多くの日本人は日本が自由な国だと信じている。もちろん、中国などに比べると自由な国である。しかしそのような自由度が年々落ち続けているように思えてならない。

自由度が落ち続けている理由はいくつか考えられる。その代表は、テロ対策を強化した結果だと言える。テロを防ぐためには規制を強化しなければならないこともあり、ある程度はやむを得ない所はある。しかし、深刻なのはもう一つの理由だ。それはITの飛躍的な発展である。ITが発達するにつれ監視が容易になり、それに乗じてあらゆる組織が自己を守るために監視を強化している。確かにスマホは非常に便利なツールである。しかしスマホを持つことによって、人々は常に行動を記録されることになる。しかし多くの人はそのような実感はない。この様な状況は、檻の中の自由だと言える。

現在の状況は非常に危うい基盤の下に自由が成り立っていると言える。しかし一歩踏み外せば、それは全てもろく崩れ落ちる事になるのではないか。そして科学技術の発展が逆行することは99%無いので、このような自由の崩壊を防ぐことは非常に難しい。しかし不可能ではないと僕は考えている。まず人々が、ネット社会では容易に監視が可能であることを認識することである。そして自由が失われつつあると感じた時には声を上げることが必要である。社会というものは、法一つで劇的に変えられる。もちろんそれが100%である訳ではないが、市民が選挙で投じる一票によって社会は大きく変わる。今月、参議院議員選挙が行われる。自分の意志を示し政治を動かすために、まずは一票を投じることが非常に重要である。

日本には日本の仕方がある。

戦後の日本は極めて平和だ。戦争には直接的には一度も関わっていないし、治安は他国に比べて極めて良いし、特に貧しいわけでもない。しかし、そのような事を完全に良い事だと考えて良いものだろうか?

戦争には直接的に関わっていないけど、世界では様々な戦争・紛争が起きている。もちろん、僕自身も戦争をしないのは良い事だとは思うが、それは言い方を変えると自分の手を汚さないと言う事も出来る。日本の平和を守るために、他国が様々な代理戦争を引き受けている。もちろん、代理戦争と言うとかなり大げさかもしれないが、世界の平和を守るために日本は一切手を汚さない。そしてそのような綺麗な手を誇っている。何度も言うが、戦争などしないに越したことはない。しかし日本が一切犠牲を出さない分、他国がその分の犠牲を引き受けているという側面はないだろうか?

しかし、そのような手を汚さない平和主義で行くなら、徹底的にその路線で行くのも意義があると僕は考えている。アメリカなどはイラク戦争やイスラム国との戦いに積極的にかかわろうとしてきた。そのような中、徹底的に平和主義を貫く日本には、平和主義であるからこその国際的信用も生まれている。日本は絶対に戦争を起こさない。だから戦争当事国からもそれなりの信用が生まれ、日本に対する役割が生まれる。なので、それはそれで日本の世界に対する一つの国際貢献だと思う。

現在、憲法第九条を始めとする憲法改正が議論されている。しかし僕は九条の改正には反対だ。なぜなら、天皇が日本国の象徴であるように、九条は日本の平和主義の象徴である。そのような象徴があるからこそ、世界からの信用を得ることが出来る。もちろん、出る時は出なければならない。そして紛争や国際問題に対しても、日本流のアプローチの仕方があるはずだ。しかし九条を改正してしまうと、それが根底から覆ってしまう。日本は九条を盾に、世界の問題に積極的にアプローチすべきである。

何事にも言えることだが、他人と同じように振る舞う必要はない。主義・主張をはっきりとさせ、自分なりのアプローチや態度を取るべきである。これまで日本が国際紛争に対する姿勢で批判を浴びてきたのは、自衛隊を派遣しなかったことではなく、自分の態度をはっきりと主張しなかったからである。特にお金だけ払って適当にごまかそうという姿勢は一番良くない。日本には日本のやり方がある。それをある程度愚直にやり通すことが重要なのである。

メディアの報道について考える事。

メディアは何をどう報道すべきか?これは問い詰めて考えると実に難しい問題であることが分かる。もちろん、何も考えなくても報道は出来る。しかし社会に利益があるように、かつ市民の役に立ち、市民が知りたいことを報道する。そして取り上げられる側も、見る側も、全てにおいて適切である事。このようにどうすべきかと考え出したらきりがない。そして簡単に分かるように、これらの事を全て満たすことは現実的に不可能である。誰かが利益を受ければ誰かが不利益を被る。そのような中、どこに妥協線を見出すか?これは考える人によっても、時代によっても、大きく変わるところだと思う。

しかし中には、見る側取り上げられる側双方に何のメリットもないくだらない記事も多く存在する。しかし実際は、そのようなくだらない記事を見て喜ぶ人が多くいるからそのようなくだらないメディアが存続できるのであるが、需要があるからと言ってそれが本当に必要かと言えばそう思えないこともたくさんある。そしてそのようなくだらないメディアは、世の中に低俗さと害しかもたらさない。

主要メディアにおいても、深く考えるべきことは沢山ある。例えば、事件事故が起きた時に被害者の実名をどう扱うか?事実をありのままに伝えるのならば実名を流すべきであろう。しかし被害者の実名を流すことによって、被害者が二次被害を受けるのではないか?あるいは尊厳を傷つけられるのではないか?そのようなことを考えると、実名を流すかどうかという一つの問題を取っても深く考えるべきことである。

特に最近危険だと思うのが、社会の風潮に安易に乗ることだ。変な言い方だが、報道にも流行がある。敏感に取り上げられる事から、重要なのに無視されがちな事。そのようにその時々に流行が目まぐるしく変わる。もちろん、そのような流行に乗ることは、市民の知りたいことに敏感に答えると言う事で一理あると思う。しかしそれとは別に、伝える意義が大きくあることは流行や風潮に関係なく大きく伝えなければならない。

メディアは何をどう伝えるべきか?これは伝える側だけでなく、受け取る我々も考えなければならない事である。そしてそのような事を考えるためには、伝える側、受け取る側双方に明確な知識を持つことが要求される。もちろん、そんな堅い事ばかり考えずに、娯楽的な報道もあってよい。将棋の藤井聡太七段の話題やメジャーリーグの大谷翔平選手の話題などは実に愉快なものである。もちろん、対戦相手にとっては残酷な物語であるが。そのような多様性をもたらすことも報道の重要な使命である。

受け取る側が「報道はどうあるべきか?」と本気で考えた時、報道自体も大きく変わるものだと僕は考えている。

お金というものは、信用の塊だから。セブンペイ問題について。

現在、セブンペイの不正利用が問題になっている。セブンペイ社長が基本的セキュリティシステムである2段階認証を認識していなかったことが話題になっているが、問題の根源は「利便性優先でセキュリティを重要視していなかったこと」であることは明らかだ。利便性を高めることは確かに大事だが、それはセキュリティが確保されているという前提があってのものだ。金融システムにおいて、セキュリティ無き利便性など存在しない。

セブンペイの会見でも、利便性を高めるためにセキュリティを後回しにしたと言っているが、そもそもその順序がおかしい。小学生でも分かる論理だ。すなわち、セブンペイ社長の思考は小学生レベル以下だと言える。もちろん、セブンペイはすぐに2段階認証を取り入れるなどの処置を行うだろう。しかしその背後にある希薄なセキュリティ意識がそのままでは、時間が経てばまた違う問題が噴出する可能性が高い。

そもそも、ITツールにはバグは付きものだ。バグが見つかりそれにパッチを貼って行く。そのような事は、マイクロソフトのウインドウズのような高度なセキュリティシステムを持つものでも日々行われている。もちろん、ウィンドウズとセブンペイでは、規模もレベルも全く違う。しかし、金融システムにおいては高高度のセキュリティシステムが求められる。セブンペイが信用を取り戻すには、これから迅速なアップデートによりパッチを貼り続け、高高度なセキュリティシステムを保っていくことでしか成しえない。

日本におけるコード決済の先駆けのうちの一つであるペイペイは、ソフトバンクとヤフーというITスペシャリスト的な企業が開発したものだ。それでも初めは不正利用が発生した。もちろんそれも、セキュリティコード入力システムの不備という初歩的なミスでお粗末であったと言えるが、後発のセブンペイが類似とも言える初歩的ミスを犯すことは問題が大きい。そしてITスキルと知識が全くない者が社長を務めるという初歩的人選ミスを犯すセブンペイにおいては、問題はより深刻だと言える。

世の中が無難になりつつある。

「無難」と漢字で書けば、「難が無い」という意味で良い事のように聞こえるが、それ以上に「当たり障りのない」という意味を感じるのではないだろうか?近年ますます世の中は無難になりつつある。それは「難が無い」という意味でも、「当たり障りがない」という意味でも。

なぜ世の中はこんなに当たり障りのない世の中になってしまったのか?おそらく多くの人は当たり障りのない無難な世の中を望んでいるのだろう。しかしその一方、少なくない人たちが当たり障りのない世の中に息苦しさを感じているのだと思う。僕もそのうちの一人であるが、結局無難社会の原点を探って行くと、「失敗を許さない世の中」というものにたどり着くのだと思う。一つの失敗を過度に叩きつける。その結果、失敗しないようにと可もなく不可もなくという生き方を取るようになる。もちろん、そのような生き方の人に挑戦を取りに行くようなことを望むのには無理がある。そして世の中から挑戦者が消えて行く。果たしてそれでいいのだろうか?

実は多くの人が無難な生き方を出来るのも、一部の挑戦者が行動しているからだと言える。世の中を変えて行くのは間違いなく挑戦者である。しかし挑戦者がいなかったら現状維持が出来るかと言えば、それは大きく異なる。良く変えようという力を働かせていても負の力というものは非常に強く、後退して行くことになる。それはなぜかと説明するまでもなく、現実社会を見ていれば明白である。

現実が「総無難化社会」になりつつある現代において、やはり希望は一部に挑戦者が存在することだと思う。挑戦者がいればいる程、無難な社会が成り立つのである。しかし、社会の全てが無難になった時、社会は崩壊すると僕は思っている。皆が皆、挑戦者になれるわけではないと思うが、皆が安心して暮らせる社会になることを望むばかりである。

記録なんて、ちっぽけなもの。

大谷翔平選手を見ていてそう思う。大谷選手は、打者に専念すればホームラン王を取れる可能性を秘めているし、投手に専念すればサイヤング賞を取れる可能性を秘めている。野球評論家の中にも、打者に専念した方が良いとか投手に専念した方が良いとかいろいろと声が上がっている。もちろん、どちらかに専念すれば様々な記録を残すことが出来るだろう。しかし僕を含め、多くの人はそのような記録ではなく、二刀流という前人未到の挑戦を目撃したいのではないだろうか?

そのような事を考えると、打者としての記録や投手としての記録なんてちっぽけなものに思えてくる。大谷選手は、記録を作るのではなく、新しい記録部門を創出することこそふさわしいのではないだろうか?大谷選手の出現により、二刀流に関する新記録部門が出来ればそれほど面白い事はない。なぜなら、ホームラン王と言えども10年あれば10人出て来ることになる。最多勝投手だって同じである。しかし大谷選手が記録部門を作れば、それは大谷選手によって創られたと永遠に語り継がれることになる。

賞を取ることは非常に意義がある。しかし毎年与えられる賞なら10年で10人出て来る訳であって、新しい受賞者によって次々と上塗りされる訳である。もちろん、イチロー選手の最多安打記録のように、唯一の記録も存在する。そのような事を考えると、イチロー選手の成した仕事の大きさに改めて驚がくする。

イチロー選手がメジャーで次々と記録を打ち立てていた頃、少なくとも日本人でこれに匹敵する記録を残せる選手は出ないのではと誰もが思った。しかしイチロー選手が引退したと時を同じくして、大谷選手がそれに匹敵するような活躍をしようとしている。大谷選手は誰もが憧れるスターだ。しかし憧れることは簡単でも、それを目指すことは簡単にできない。さらにそれを成し遂げる事はほとんどの人は出来ない。しかし今日本に必要なのは、あらゆる分野で大谷級のホームランを飛ばす人材ではないだろうか?なぜか日本人は初めからそんなことは不可能だと決めつけてしまう。他人に対しても、自分に対しても。しかし、大谷級を目指す人が一人でも多く出て来るような土壌を作ることが必要である。そのような人の中から、一人か、あるいは二人か、大谷級のホームランを飛ばせる人が出て来るのではないだろうか。

「無思想」の怖さ。

思想を持つことに対して、どう思っているだろうか?思想は人々を自由にする可能性を秘めており、人間が自律的に活動するためには思想を持つことが不可欠だ。その一方、世界のある地域では過激思想派と言われる人たちが紛争やテロを起こしている。すなわちそれらのいわゆる過激思想と言われているものが、人々を不幸に陥れている。人によっては思想と言えば過激思想を連想する人もいるかもしれないが、僕に言わせれば、そのような過激思想は非常に陳腐なものであり、思想とは言えないものである。なので過激派を思想と結び付ける事には僕は大きく違和感を覚える。そもそも、過激思想をたどって行けば、それは一部の人の単なるエゴに過ぎないことが分かる。

では、無思想についてはどうであろうか?実は無思想というものは非常に大きな危険性を秘めている。その典型的な実例が第二次大戦中のナチスである。ナチスの幹部であり、数百万人のユダヤ人をアウシュビッツへと送り込んだアイヒマンは、その行為から考えるととてつもない極悪人に思える。しかし戦後、イスラエル当局が捕まえてみると、アイヒマンは極悪人という印象とは程遠い「無思想」な人間だったという。無思想であるが故に、事務的にユダヤ人を拘束し、機械的にユダヤ人を収容所へと送っていたという。すなわち、アイヒマンは何も考えない無思想な人間であったからこそ、あれほどまで残虐な行為を行えたのだろうと考えられている。

アイヒマンの実例から見えてくるものは、無思想、そして思考停止することの怖さである。ある意味、自分なりの思想を持つという事が人間らしさであると言える。無思想とは極論を言うと、非人間的人間であると言える。無思想は何も生み出さない。そしてそれは時にはナチスのような残虐な側面を見せる。しかし多くの人は、自分は特に思想は持っていないが、そんな残虐な事はしないと思っているだろう。では、自分は選挙の時にはしっかりと投票に行っているだろうか?思想とはそのような日常から生まれるものである。選挙で投票するとは、自分の意思表示であり、思想の表現である。その反面、選挙に対する無関心は無思想の表現だと言える。だからどの党のどの候補にでもいいから、自分でしっかりと思考して投票することが重要なのである。投票は国民に与えられた国政、地方政治に対する最大の思想表現なのである。そしてそのような「投票」という思想表現が政治を動かし、世の中を良い方向へと変えて行ける可能性を作るのである。

しかし現実を見ると、世の中には無思想な人があまりにも多い。さらに日本では、思想表現をする人を毛嫌いして排除しようという風潮さえある。しかし本当に危険なのは、思想を表現することではなく、むしろ無思想な方なのである。例え日常の小さなことに対してでもいいから、自分でしっかりと思考して自己表現することが非常に重要なのである。

なぜ笑う?

ラグビーW杯100日前イベントで、前回のW杯で活躍した五郎丸歩氏が「日本が優勝します」と言ったところ、会場から笑いが起こったという。僕はこのような嘲笑に対して怒りさえ覚える。そもそも当事者たちが努力して汗を流しながら上を目指しているところに、傍観者たちが「そんな事出来るはずはない」と言える資格はあるのだろうか?当事者たちは本気で優勝を目指していると思う。もしかしたら当事者の中にも、ベスト4に残れば良いと思っている人もいるかもしれないが、プロの現役プレーヤーとして優勝を目指すことは自然な事だし、当然の事でもある。

今回の出来事を見て、サッカーの本田圭佑選手の事を思い出した。本田圭佑選手も、W杯の度に「優勝を目指す」と言っていた。そしてその時にも周りの傍観者たちは、本田選手の発言に対して嘲笑していた。努力をしているのは傍観者ではなくプレーヤーである。そしてそれらのプレーヤーが優勝を目指していることを、傍観者が否定するような社会に対して、果たして未来を期待できるだろうか?

僕が目指しているところは、周りから見てとてつもなく高い所にあるように見えるのだろうと思う。そしてそのような目標を持つことに対して、否定されたりバカにされたりすることは多い。しかし自分の将来を一番見通せるのは自分自身である。もちろん、何の努力もせずに、何の根拠もなしに、とてつもなく高い目標を掲げるのは明らかにおかしい。しかし自分は努力を行い、そして具体的なビジョンをもち、それらを基に達成できるという勝算を持っているのである。同じように、あるいはそれ以上に努力して実績を挙げている人から「まだまだ足りない」と言われるのならまだわかるが、平々凡々に当たり障りなく生きている人から嘲笑される筋合いはない。

僕は五郎丸氏や本田圭佑氏の発言を本気で信じている。もしかしたらそれが達成できる確率は1%かもしれない。しかし可能性は確実にあるのだ。それを当事者たちが本気で言うのなら、それを信じる価値はある。彼らに言わせれば、人間は二通りに分けられると言うのかもしれない。頂点を目指す人と、そうでない人。そして頂点を目指している人が頂点を目指せる環境を作ることが大事なのではないだろうか?僕は彼らを、そして自分を本気で信じている。

山里亮太さん、結婚おめでとう!

お笑い芸人の山里亮太さんと、女優の蒼井優さんが結婚をされた。僕は以前から山里亮太さんが大好きで、テレビで見せる山里亮太さんの多彩な顔にはいつも引き込まれる。山里亮太さんの結婚には、一ファンの僕としても非常に嬉しく、祝福を送りたい。

山里亮太さんは非常に多彩な人だ。お笑い芸人でありながら、硬派な話題にも鋭く対応する。軟派な話題から硬派な話題まで幅広くこなす山里さんの対応力には舌を巻いてしまう。

山里さんは様々なテレビ番組に出演されているが、僕が一番好きな番組は、金曜日の夜中(関西地方)に流されている番組だ。その番組では、山里さんと池上彰さんが生徒と先生のような形で議論するという形式で進められてるが、山里さんが質問する際にも視聴者がその話題の問題点が分かるように話される。山里さんの話は非常に分かりやすいのだ。ただお笑いの話を延々とするのではなく、問題点が非常に整理されている。この様に整理して話せる人はなかなかおらず、山里さんは非常に聡明な方だという印象を強く受ける。

今回の結婚によって山里さんの話術と話の中身のレベルが一層高くなることを楽しみにして、これからの活躍を強く願うばかりである。

川崎の無差別殺傷事件について。

現在、川崎での無差別殺傷事件について広く議論されている。なぜ容疑者はこのような事件を起こしたのか?事件を防ぐ手立てはなかったのか?この事件について考えるべきことは尽きない。

今一番問題になっている意見は「自殺するのなら一人で死ねばいい」というものだ。この意見がどのように問題なのか?これに対する僕の意見を書いてみる。

この事件の容疑者は、事件後自殺をした。従って初めから自分は死ぬつもりで事件を起こしたと思われる。ではそれなら、この容疑者は一人で死ねば問題はなかったのか?それは全く違うし、問題の争点が完全にずれている。なぜならこの事件が起きたのは、この容疑者を自殺にまで追い込んだことにあり、「容疑者の自殺=無差別殺傷事件」という構図が成り立つからである。すなわち事件を防ぐためには、そもそも容疑者の自殺を防ぐことが必要であったのだと考えられる。

ならば、容疑者を自殺へと追い込んだものは何だったのか?家庭の事情、社会的事情、それとも容疑者の人間性なのか?それは今となっては分からない。しかし一つの事情だけでなく、これらの複数の要因が重なって起きたのではないかと考えられる。この中で最も考えなければならないことは、社会的事情であろう。社会の在り方次第では、家庭の事情や人間性の問題も乗り越えられた可能性がある。特に日本は再チャレンジが非常に難しいという固有の事情がある。このことは、多くの人間を追い詰める原因として十分だ。これは言い換えると、たまたま上手く行けば全てが上手く行くが、たまたま上手く行かないことがあると全てが上手く行かない可能性があるという事だ。もちろん人によっては、何度上手く行かなくてもめげずに何度も立ち上がれる人がいる。逆に、些細な失敗が原因で立ち上がれない人もいる。どちらの人間が素晴らしという事ではなくて、これは人間の多様性の問題であり、多様性が存在することは非常に重要な事である。現在は少子化が問題になっており、至る所で子供を産むことが重要だと言われているが、そのような社会の中でも子供を産まずに色々と貢献できる人も社会にとって大事である。さらには社会貢献だけでなく、学問、芸術などで独自の存在感を発揮する人もいる。このような全ての人が大事なのである。

川崎の事件はただ単に容疑者だけの問題でなく、社会の問題だと考えなければならない。「一人で死ねばいい」という世論は、巡り巡って自分の首を絞めることになるのではないかと僕は考えている。容疑者を追い詰めている要因は、社会に生きる全ての人を追い詰める要因である可能性が高い。このような世論は、度々取り上げられる「自己責任」という世論にも通じるものがある。これらの事は自分には関係ないと思うかもしれないが、社会全体を支配する圧力を通じて自分にも影響を与える問題であると認識することが重要ではないだろうか?

組織を眺める。

僕は組織に属しようとは思わないが、組織を眺めるのは大好きだ。巨大組織の代表と言えば、防衛省や警察組織であろう。なぜ防衛省や警察組織を巨大組織の代表と置いたのか?それは単に巨大であるというだけではなく、組織の縦関係が明確にされているからだ。

特に警察組織は面白い。一番下部に当たる巡査から頂点の警察庁長官・警視総監まで、その組織のピラミッド構造は壮大だ。警察組織の最高ポストは言うまでもなく警察庁長官であるが、実は警察庁長官は階級外にあるポストである。従って警察組織の最高階級は警視総監になる。ちなみに、巡査長というものもあるが、これも正式な階級ではなく、巡査部長になっていないベテランの巡査に与えられる称号であるようだ。

防衛や警察の組織にはなぜ厳格な上下関係があるのか?これには明確な理由がある。それは指示系統を明確にするためだ。例えば、軍が戦っている時に、上部から二つの命令が同時に来たとしよう。その時にどちらの命令に従うか?現場でそのような事を迷っていれば、その間に命を落とすことになりかねない。そのような時には、より地位が高い将校の命令に従うと原則決まっている。そのようにある意味命令指示系統をマニュアル化することにより、素早い判断と実行が可能になる。防衛や警察組織の厳格な上下関係は、組織の統率を図るためには必要不可欠なものなのである。

現在、社会的には全ての人がフラットになるように図られる方向に進んでいるように感じる。しかし社会格差は広がる一方である。格差自体は悪いものではないと僕は感じている。しかしその格差のあり様が非常に問題なのである。例えば機会の平等は非常に重要である。しかしそれは結果の平等まで保証するものではない。結果にまで平等を求めてしまえば、それは社会主義や共産主義のようになってしまう。

しかし、多くの組織はある程度、社会主義や共産主義的な所があるように感じている。特に日本社会では、日本という国が資本主義・民主主義であるにもかかわらず、そこにある民間組織、公的組織は非常に共産主義的である。ある中国人はこんなことを言ったという。「日本に来て、初めて真の共産主義を見た」と。

最近、警察の元幹部が「日本の警察組織では、無能な者が出世することはありえない」ということを書いていた。もしかしたら警察組織は本当にそうなのかもしれない。しかし多くの組織は必ずしもそのようにはなっていない。現在、社会全体が資本主義というものに懐疑的になり、資本主義を見直そうという動きがある。しかし問題の本質は、資本主義・民主主義が徹底されていない所にあるのではないだろうか。すなわち、民主主義・資本主義国家の中にある共産主義的な慣習が問題の本質だと僕は考えている。

姓名の順。

河野太郎外相が各国報道機関に対して、日本人の人名を「姓→名」の順番に表記するように要請した。この姓名の順番に対しては賛否両論あると思うが、僕はこの「姓→名」の順番にすることは大賛成だ。僕は元々この順番ですべきだと昔から思っていた。もちろん海外では「名→姓」の順が標準的だが、日本人の名に関しては「姓→名」の順にするのが筋だと思う。

外国人が日本に来て、名前を「姓→名」に変える人など一人もいない。阪神ファンなら誰でも「ランディー・バース」と呼ぶはずだ。誰も「バース・ランディー」とはよばない。(ちなみにバースは正式には「バス」という名前らしいが、いろいろあって球団登録名はバースになったらしい。)それなら日本人も海外では「Kihara Yasuaki」と表記すべきだ。

そしてもう一つの理由は、実はこちらの理由の方が圧倒的に重要だと思うのだが、日本においては「姓→名」だと主張することが、日本の文化を海外に広めるのに大きく影響していると考えるからだ。この「姓→名」の順番が、日本の一つの文化・風習を表している。日本の文化を世界に広めようという機運が高まる中、名前を海外の風習に合わせるのは非常におかしな話である。さらにおかしなことに、メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手のことを、日本のメディアは「ショーヘイ・オータニ」と記述している。何とも自虐的な話である。

僕のブログは「(Kihara,Yasuaki)のブログ」とタイトルを付けている。これには以上書いたような姓名順に対する僕の想いを込めて付けている。確かに世界標準という概念はあるが、何でも海外の風習に合わせれば良いというものではない。主張すべきところは主張しなければならない。今回の新たな、しかし本来の姓名順が海外でも定着することを祈るばかりである。

死刑とは、教育の無力な一側面を表している。

中学生殺害の犯人の控訴取り下げによって、被告の死刑が確定した。死刑の是非に関しては現在世界的に議論の的になっているが、今回の被告の死刑確定に関しても、いろいろと考えることはあるのではないだろうか?

教育とは、人間の育成である。さらに、教育が国を支えていると言っても過言ではない。現在の日本は小学校から中学校までは義務教育となっており、おそらくほぼすべての市民がこれらの教育を受けている。これらの義務教育の年限は9年と非常に長い。9年あれば色々なことが出来る。人によってはとてつもなく大きな飛躍をすることも可能であろう。

しかしその一方、今回の被告のような人間が現れるのも現実である。この被告もおそらく最低でも9年の義務教育を受けたことであろう。もしかしたら高校にも行っていたのかもしれない。それならば合計12年である。そのような9年、もしくは12年の教育を受けた者が、結果として何の落ち度もない将来のある二人の中学生を殺害したことになる。この者が受けた長年の教育とはいったいなんだったのだろうか?

もちろん、ほとんどの者は殺人など犯さない。なのでこの殺人犯の例は非常に特殊だといえる。しかしその殺人犯が9年以上の教育を受けていたことも事実である。もちろん、算数・理科・国語・社会の授業が直接良い影響を与えるとは思わない。しかし間接的には人間形成に非常に大きな影響を与えると思う。なぜなら、算数などの勉強は、ただ単に計算技術を身に付けるだけのものではなく、大きな世界観を形成することに役立つからである。数学に打ち込む者の世界観は非常に豊富だ。これは間違いないであろう。そしておそらく、国語や社会だって世界観の形成に大きく影響を与えるであろう。本当に数学が出来る人間に、数学は出来るけど人間が出来ていないなんてことは基本ありえない。もしそういう人がいたら、その人の数学は単なる張りぼてであると思って良い。学問とはそういうものである。

なぜ、今回の殺人事件の被告には教育が無力だったのか?これは非常に深い問題であり、真剣に深く考えなければならない。そしてこの問いを考えることは、日本で教育を受ける全ての人に大きな影響を与える。ただ単に被告の死刑が確定したという事実を伝えるだけでは駄目だ。この事に対して深く考証して教育現場にフィードバックして行かなければならない。

保険・保証中毒。

世の中には保険・保証が溢れている。保険・保証があるから安心して物事に取り組んだりすることが出来る。社会において、保険や保証は非常に大事なものだ。

しかし、この保険や保証がある事が当たり前になった社会において、世の中の人は保険・保証中毒になってはいないだろうか?保険や保証がないと動かない。保険や保証がないと安心できない。確かに保険や保証は安心をもたらすであろう。しかし時には保険がなくても前に進めなければならない時がある。さらに言えば、人生に対して常に保険を求めていればチャレンジなど全くできない。もちろん、保険がないと動かないというのも一つの手かもしれない。しかしそのような人が、チャレンジする人間に対して言及する権利は全くない。保険を求めている人に、チャレンジする人間の意志など理解できるはずはないのだから。

チャレンジというものは、時には命さえも懸けなければならないことがある。チャレンジとは危険地帯に出向くことであるとも言える。保険を求めることは安全地帯に留まる事である。危険地帯に出向く人と安全地帯に留まる人を同列に扱うことはできない。

もちろん、どうでもいい事に対してまで危険にさらす必要はない。そのような事に対しては保険を掛ければ良い。しかし、何事に対しても保険がないと動けないのは人間の精神的には健全ではないと僕は思っている。しかし近年の世の中には保険を掛けないと動けない人があまりにも多い。あまりにも多いがために社会システムまでもが保険を前提とした仕組みになって来ている。これは社会の在り方として正常なのか?病んでいるのか?どちらにしても、チャレンジする人をもう少しサポートするような仕組みが出来てもよいのではないだろうか。

倫理に敏感になりすぎた社会。

倫理というものは社会の規範に依存する。従って、絶対的な倫理観というものがあらかじめある訳ではなく、社会、すなわち人々の意識の持ちようによって倫理は変化して行く。もちろん、誰が考えても絶対的に正しい倫理、間違っている倫理というものはあるのかもしれない。しかし多くの倫理は大衆迎合的であり、多くの人の意見、多くの人の意識に迎合する方向へ変化して行く。

倫理は非常に大事だが、日々の生活の中であまりにも倫理に過敏になりすぎるのは非常に問題である。そのような過敏な倫理観そのものが、人々を社会で生きにくくするためだ。倫理にはある程度の曖昧さ、ゆとりを持たせなければならない。そのようなあいまいさを持たせられなければ、人々に対してどのように行動すべきだと絶対化し、皆無難で画一的な行動を即すことになる。

人間の生き方、そして人間性は非常に多様性のあるものだ。しかしそれを否定し画一化すると、それはもう人間と呼べない。行動の自由が限定化され、思想の自由が全くなくなってしまう。思想は人間の人間であるが故の源泉であり、思想が無くなれば人間的活動をすることが厳しくなる。この事はこれからのAI社会においては真剣に議論すべきことである。人間は決してAIではない。だからこそ、人間が人間であるためにはどうすれば良いかということをそれぞれが深く考えることが必要である。

今、スマホ一台で何でもできる世の中になって来ている。だからこそ、何も考えないで軽く生きていると、スマホに人生を操られることになる。スマホはあくまで自分の人生における便利ツールであり、人生そのものではない。しかし現実は人間がスマホに合わせて生きていると言う事が起きている。何もスマホの存在を否定するつもりはない。僕だってスマホをかなり活用している。しかし以前のブログで書いたように、YouTubeアプリをあえて削除するなどして自分の生活を自分でコントロールすることが必要だ。これからの社会は、自分をコントロールできる人間と自分をコントロールできない人間の二分にされるのではないだろうか?それによって社会の構造も恐らく大きく二分化されるであろう。どちらの世界に入るかは、それぞれの人間の意志にかかっている。

IT社会の今、日本はどのように舵を取れば良いのだろうか?

近年、社会におけるプログラミングの重要性がますます高まっている。それに伴って、学校教育においても、小学校からプログラミング教育が導入されることが決定されている。初めは試行錯誤で手探りの教育になることが予想されるが、それらが洗練されるのにはおそらく二十年はかかるものと思われる。

日本でプログラミングの重要性が議論される時、ほとんどの場合GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)の話が持ち出される。もちろん、これらの企業に共通するのはITであり、つまりプログラミングであるので、これらの事例を見てプログラミングの重要性へと話が進むのは分からない事ではないが、ただプログラミングの技術だけを高めればITで覇権が取れると思い込むのは早とちりではないだろうか?なぜなら、AppleにしてもFacebookにしても、そしてMicrosoftにしても、それぞれ世界で一、二を争う企業ではあるが、ジョブズが、ザッカーバーグが、そしてビルゲイツが世界で一、二を争うプログラマーである訳ではない。ジョブズやザッカーバーグ、ビルゲイツはもちろんIT技術は高いものを持っているだろうが、彼らが世界トップの企業を作るのに成功したのは、確実壮大で未来を見据えたビジョンを持っていたからではないだろうか?今、日本に一番欠けているのは、技術そのものではなく、むしろビジョンの方である。技術を高めるのは短期間である程度出来るであろうが、ビジョンを持てる人材を養成するのは一朝一夕では出来ない。日本ではこちらの方の教育が完全に欠けている。

なぜ日本の教育はビジョン構想には向かないのか?それは一番に受験システムに問題があると僕は考えている。そもそも学校は、大学は、何のためにあるのか?それはもちろんそこでの教育を通じて教養や技術、知識を身に付けるためである。しかし現在の教育システムでは、受験そのものが最大の目的になっている。受験技術をどれだけ身に付けるかという教育を推進する限り、ビジョンを持てる人間を養成するのは非常に難しい。学校に入ること自体が目的ではなく、入ってから研鑽することが重要なのである。

今、日本の教育の方向性は本当に正しいのか?この問いに絶対的な答えがないのは明らかだが、ただ正しい方向へ進んでいるとは思えない。もちろん、現場の教育者だけの責任ではなく、国を動かす政治家にも問題がある訳だが、そのような国の舵取りをする人たちの示す方向性が間違えば、数十年単位で致命的な問題になる。しかしだからと言って、政治家だけに問題を押し付けるのも間違っている。我々市民がこれらの問題を自己の問題だと捉え、積極的に発言し行動しなければならない。ではどのように考えれば良いか?それは今現在の問題だけを考えるのではなく、次世代、次々世代の事まで考え、長いスパンで物事を捉えることが必要である。現役世代至上主義で物事を考えることは、次世代の人間だけでなく現役世代に対してもデメリットは大きいのではないだろうか?

感情論に傾きすぎてはいけない。

最近、大きな交通事故が立て続けに起きている。別に交通事故だけに限ったことではないが、事故や不祥事が起こった時に世の中全体が感情論に傾きすぎているのではないかと強く感じる。もちろん人間であるからには感情論が出て来るのは自然の成り行きだ。しかし多くの物事では感情論だけでは解決も改善もなされない。そこに論理や倫理が持ち込まれてこそ、社会は前進するのである。

僕自身だって感情論で動くことは多々ある。特に個人的な事では別に感情論が入り込んでもある程度は容認されるものである。しかし社会の事となると話は別だ。社会が法で成り立っているからには、法の論理というものは非常に重要であり、それが無ければまさしく無法地帯になってしまう。さらに不確定の事を確定した事と思い込むのも非常に危険だ。そのような事が極限に達すると、冤罪が起こる。学校内でそのような事になると、教師や生徒によるいじめになったりする。何が確実で何が不確実なのか?そこをしっかりと見極めなければならない。

近年は国家関係においても感情論が問題になっている。特に日韓関係では政府トップまでもが感情論で物事を判断するという非常事態になっている。感情論で動く国家関係は疑心暗鬼しかもたらさない。もしかしたら多くの国民はそのような事を考えていないのかもしれないが、疑心暗鬼になれば身動きが取れず、国家的損害は絶大だ。

自分自身をコントロールするに当たっては、感情のコントロールが一番の課題になるであろう。「感情を制する者は自己を制す」とでも言えば良いだろうか。しかしまた、感情のコントロールほど難しいものはない。なぜなら、感情をコントロールするのはこれまた感情であるからである。そこをいかに論理でコントロールするか?それが実行できれば物事を的確に判断し対処することが出来るであろう。

数学者・志村五郎の死。

5月3日、数学者の志村五郎プリンストン大学名誉教授が亡くなられたというニュースが流れた。志村五郎と言えば、フェルマーの大定理の証明においてもキーになった「谷山・志村予想」が有名であり、数学を学んだことのある学生ならその名を一度くらいは聞いたことがあるはずだ。

しかし、今回驚かされたことは、志村氏の死去のニュースがヤフーニュースで流れていたことだ。僕もヤフーニュースで志村氏の死を知った。いくら数学関係者の中で有名だったとは言え、ヤフーニュースで流れる程世間の注目を浴びているとは考えもしなかった。ヤフーニュースでこのニュースを見た人のうちどれくらいの人が興味を持ったのかはわからないが、数学研究というものが少しでも市民権を得られればと強く思う。ちなみに、谷山・志村予想のもう一人、谷山豊氏は、若くして自死をされている。

本屋の数学書コーナーに行くと、谷山豊全集というものが並んでいる。数学関係の全集とは一般の人にはなじみがないかもしれないが、全集が出されるほど谷山氏は偉大な数学者であった。そして志村氏も同様に偉大な数学者である。偉大な数学者や物理学者の研究に対しては、コレクテッドペーパーやコレクテッドワークスと言われる論文集が出されることがある。これらの論文集は偉大な学者の研究が一望できる非常に便利なものである。もしかしたら、これから志村氏の論文集も出るのかもしれない。と思ってAmazonで確認してみると、既に志村氏のcollected papersが出版されていた。やはり偉大だ。

日本は自分で自分の足を引っ張っていないか?

最近、日本の社会を見て強く思うことがある。別に海外の事に熟知している訳ではないので日本の事だけとは断言できないが、少なくとも日本の社会については明らかにおかしいと思うことがいくつかある。そしてそれらの事によって、日本は自分で自分の足を引っ張っているのではないかと強く感じる。

一つ目は、日本社会の常識や習わしから来ること。もう一つは法整備から来ることだ。そのどちらにもかかわることだが、日本は先端的、前衛的な取り組みに対しては非常に冷たい。そして時にはそのような前衛的な取り組みをしている人を犯罪者扱いをする。例えば、ファイル共有ソフトWinnyを開発した東大の研究者がその最たる例であろう。Winnyは確かに問題を抱えたソフトであるが、それらの基幹技術は現在、仮想通貨にも共通するところがあると言われている。Winny開発者の逮捕は日本のITの進歩を遅らせた可能性があるし、現在GAFAに大きく遅れている現状はこのような最先端技術者を逮捕してしまうような日本の社会的意識に帰着するのではないかと感じる。

ITで覇権を握りたいという日本の願望は分かるが、社会的意識や行動を見るとこれと逆行するような動きをしていることが分かる。ITで覇権を握りたいと本気で思っているのならば、プログラミング教育などのような小手先の手段だけを変えるのではなく、まずはその背後にある社会的意識を変えることが必要である。(もちろん、プログラミング教育を否定する気は毛頭ない。)

今の日本はぶれ過ぎている。理念がはっきりとしていない。ただ単に「経済を発展させたい」それだけである。そのためにITを高めよう、プログラミングに力を入れよう、ということでは、一時的な表面的変化は起こせるが、根本的発展は望めない。それこそ小手先の手段で、目の前の事しか見ていない。もちろん、政界も財界も長期的視野で物事を考えたいとは思っているのだろう。しかし現実はそれが出来ていない。そのような長期的な発展を考えるのならば、まずは私利私欲、会社利会社欲、更には国益を度外視した視点で物事を考えなければならない。自分の事、自分たちの事だけを考えていては、自分達さえも持続的発展をさせることが出来ないだろう。