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便利なことは、自由なのか?

近年、ますます便利な世の中になりつつある。しかしその一方、便利であるように錯覚しているだけなのではないかとも感じる。

便利の代表格は、スマホであろう。スマホは確かに便利である。そして最近はスマートスピーカーなるものまで出現している。このように大きく便利になりつつある一方、それらの便利さははたして人間に対する束縛を本当に解放しているのかと疑問に思ったりする。

なぜ科学技術を発展させる必要があるのか?その一番の理由は「自由を得る」ためである。20世紀には自動車が発達し、新幹線などの鉄道網が発達した。それらは確かに人々を便利にした。そして20世紀終わり頃に普及した携帯電話、今で言うガラケーも、当時は非常に便利に思えた。

携帯電話が普及する前は、友人と連絡を取るのにも一苦労だった。ましてや気になる女の子と連絡を取ることは一大イベントであった。しかしそのような不便さが逆に大きな達成感と幸福感を生んでいたのではないかと感じる。

今は好きな女の子がいれば、スマホでボタンをポチっと押すだけで簡単に連絡が取れる。昔のような行き違いなどはほとんどないのではないかと思う。待ち合わせでのすれ違いなども、ラインや電話ですぐに連絡が取れる現在では考えられない。

21世紀も18年過ぎ、爆発的に便利さが発達した。しかしこの18年の技術の発展が果たしてそこに住む人を自由にしたかというと、僕は強い疑問を感じる。確かに物理的には大きく自由になった。しかし精神的に自由になったかというと、むしろ束縛するような方向へと向かっているのではないかと思う。しかもこの流れは前には戻せない。科学技術は前には戻せないという特性を持っている。

この精神的な束縛は、年配よりもIT社会をよく熟知している若者の方が強く感じているのではないかと思う。もう少し詳しく言うと、圧倒的な便利さだけしか感じない人と、その便利さの背後にある束縛を強く感じる人の二極化が起きているのではないだろうか?

便利さとは何か?それによってもたらされる自由とは何か?今そのような事を真剣に考える必要があるのではないだろうか?

長生きは、善なのか?20代の希望寿命から見て取れる社会の根深い問題。

20代の若者の希望寿命(何歳まで生きたいか?という問い)が80歳を切り、平均寿命を下回ったというニュースがあった。この結果をどう捉えればいいか?おそらくこれまでの社会の価値観と人生観では理解できないことであろう。

これまで、長生きすることは無条件に善であるという価値観が蔓延していた。もちろん今でも長生きが悪だという人はほとんどいないであろう。しかし誤解を恐れずに言うと、生きる権利があるのなら死ぬ権利もあるはずだ。そもそも人間はいつかは必ず死ぬ。そのような100%正しい事実に対して、それを否定するのは逆に人生を否定するものである。

僕が一番大事だと思っていることは、「自分で自分の寿命を決める」ということである。長生きを望む人に対してそれを全力で肯定するのならば、若者がそこまで長生きしたくないという意志もある意味尊重しなければならない。

しかし、この若者が長生きを望まないというアンケート結果は、現在の社会に原因(責任?)がある。おそらく若者にとって現在の社会はかなり生きづらいものなのであろう。例えば、何でも平等、何でも保証。この様な一見良いことだと思われることでも、それが度を過ぎると非常に生きづらい世の中になってしまう。目に見える快適さだけではなく、目に見えない生きやすさを考えないといけない。

もしかしたら、現在のIT化された社会も原因なのかもしれない。一見非常に便利であるように見えるこれらのシステムも、ここまでくると生きづらささえ感じてしまう。実際、僕らの世代よりも現在の若者の方が過去の社会を懐かしんでいるようにも見える。

この20代の希望寿命のアンケートからは、現在の社会が抱える様々な問題が見て取れる。そしてこれらの問題は決して気軽にスルーできる問題ではない。

社会や思想の民主主義化。そして教育の多様化へ。

9月1日、田原総一郎氏が司会をする「朝まで生テレビ」(テレビ朝日)を見た。この回のテーマはAIと社会に関することであったが、見ながら気になることが一つあった。それはほとんどの話がビジネスベースで考えられていることである。もちろんこの番組の根底にはビジネスを主体にするという暗黙の了解があるからなのかもしれないが、もう少し違う切り口があるのではないかと感じた。

AIが社会に広く浸透すると、もちろん教育の在り方も変えていかなければならない。もちろんどのように稼ぐか?ということも重要であるが、人間が人間らしく生きるためにはどうすればいいか?ということを真剣に議論しなければならない。そのためには全てがビジネスベースという前提を外さなければならない。

教育とは何か?この問いの答えは様々である。もちろん将来お金を稼ぐための力を付けるというものもあるだろうし、学問に打ち込み研究力を付けるというものもある。しかし現在の一般市民の教育に対する期待は、「いかに安定した職に就いて、いかに安定的に収入を得るか?」というところに偏っている。「たくさん稼いで金持ちになる」ということですらないのだ。多くの人が現状維持を望み、社会や企業もいかにして現状を維持するかというところに注力している。

過去の歴史を見ても、現状維持を望んで現状維持を保ったケースはほとんどない。現状維持は没落への始まりである。ではなぜ日本という国が曲がりなりにも現状維持をできているように見えるのか?それは国全体が現状維持を目指しているからである。全体が現状維持のため、現状維持をしていると錯覚しているのである。しかし世界的に見ると、現在の日本は全ての面で明らかに低下している。

思考がそのような方向に行くのは「国民性だ」と言われるかもしれないが、国民性を形成するのは教育であり、国家体制である。日本は政治システム上は紛れもなく民主主義であるが、日本社会はとてもじゃないが民主主義と言えるものではない。横並び思想で、みんな仲良しで、皆と違うことをすれば仲間外れにする。それは個人レベルでも企業などの社会レベルでも同じだ。社会主義国家である中国でさえ、日本は中国以上に社会主義であると言っている。

今日本に強く求められているのは、民主主義という看板を掲げた社会主義ではなく、思想や社会、そして教育の民主主義化を進める事ではないだろうか?

真剣に生きようとする人をバカにしてはいけない。

理解できないことだが、世の中には真剣に生きようとする人をバカにする人がいる。あるいはそのような風潮がある。誰だって順風満帆な訳ではなく、様々な困難を抱えながら生きている。もちろん何の困難もなく順調に生きている人もいるが、順調に生きている人も困難に立ち向かいながら生きている人も、それぞれ真剣に生きているのである。

日本に限ったことか、それとも世界的にそうなのかわからないが、普通と違う感じの人をバカにする風潮がある。逆に言えば多くの人は普通に生きようと思っているのかもしれないが、世の中の多様性を考えれば皆普通とは違うという状況の方が普通なのかもしれない。

日本の科学の世界では「異能流出」という言葉があり、以前から問題になっている。僕はこの言葉を、ノーベル賞科学者の中村修二教授に関してのことで聞いたのだが、中村教授は明らかに普通ではない。しかしもし中村教授が普通だったのならば確実にノーベル賞は取れなかったであろう。もちろん中村教授が最高の才能を持ち合わせた人であることは言うまでもないが。

異能を持ち合わせた人は、なぜ異能と言われるのか?それは最高に真剣に生きているからだと思う。真剣に生き、異能になり得るような人をバカにする風潮がある日本の行く先は、はっきり言って暗いとしか言いようがない。世の中を変えるのは、普通の人ではなくて異能なのだから。

孤独を愛する。

多くの人と群れてわいわいするのは楽しい。僕も人と話などをして楽しくするのは大好きだ。しかし基本は独りでいたいと思っている。多くの人と楽しむこともできるが、一人で楽しむことにも長けているというのが理想かもしれない。

どうやら世界的に、孤独というものに対してあまり良くないイメージが広がっているみたいだ。日本でも孤独死が問題になるなど、何かと孤独というものに対してネガティブなイメージが付きまとう。しかし僕は、問題は孤独にあるのではなく、孤独を楽しみ満喫できないことにあるのではないかと考えている。実際に、孤独を満喫することができれば、一人でいることに非常に落ち着きが持てるし、自分の時間というものを大切にすることができる。

僕自身は数理物理の研究に打ち込んでいるが、理論系の研究というものは基本一人で構築していくものであり、一人でいることを満喫できないようだと理論系の研究などはできない。

「孤独を愛する」と言うと、バーで独りでお酒を飲むという風景をイメージする。実際僕も、バーでゴッドファーザーというカクテルを飲みながら満喫する時間が好きだ。孤独を愛するための入り口として、バーを満喫するのは非常に良い手かもしれない。

現代社会ではコミュニケーション能力ばかりがクローズアップされ、独りを満喫する能力が完全に無視されている。理想は人とのコミュニケーションを取りながら、独りの時間もしっかりと満喫するということだと思う。しかしこれを実行できる人は多くはないようだ。

社会があらゆるところで繋がっている現代だからこそ、孤独というものについて振り返ってみることが必要だと強く感じる。

世界標準にする必要はない。

現在は、ビジネスにおいても技術においても、世界標準へという覇権争いが熾烈になっている。もしかしたら文化もそうかもしれない。とにかくスケールがものを言う世界になっている。

しかし、日本という国は決して大きくない。もちろんネットで全世界がつながっている現在、日本に居ながら世界スケールで物事を進めることも可能になっている。しかしそのような現代だからこそ、スケール以外の価値観を見つけることが重要になってきているのではないかと感じる。

現在、資本主義的価値観は行き詰っているように思える。一昔前までなら、経済的裕福が人生の裕福に直接つながっていた。もちろん現在でも金銭的に不自由なく暮らすことは、幸福を実感するためには重要だ。しかし、金銭イコール裕福とは言えなくなってきていることを多くの人が感じている。

例えば人間関係というものは、金銭だけでは作れない側面がある。もちろん金銭で作れる人間関係も根強く存在するが、金銭的側面からの関係と人間性からの関係をバランスよく保つことが重要である。

そのような事と同じことは、ビジネス、技術、科学、文化にも言えるのではないだろうか?もちろん金銭的な重要性はいつの時代でも消えないだろう。しかし金銭的価値観がせめる割合は時代によって変わるものだ。今、過去の経済万能主義の社会からITの覇権を経て、その割合は揺れ戻している。そのことを一部の人は感じている。

「もの」から「こと」へ価値観が変化している現在、世界標準という一つの究極的な目標から、多様性を広げるというもう一つの究極的な目標へと世の中が変化していることを感じ取ることが求められているのではないだろうか?

意志・見解をはっきりさせる。

最近、情報や報道について考えることが多くなった。報道とは新聞、テレビなどをはじめ、最近ではネットメディアなども報道の一翼を担っていると考えられる。

報道をするに当たって、情報をどのように発信すべきか?情報を公式発表だけに頼って垂れ流しするだけなら、メディアなどはいらないはずだ。情報は受け取るだけではなく、探して入手することが重要である。そして入手した情報を基に、どのような意思・見解を表明するか?そこにメディアの本質があるのだと思う。

意志・見解は、人によってそれぞれ異なる。しかしそのような多様性が非常に重要なのである。賛成の意見があれば、反対の意見がある。政府寄りの意見があれば、反政府寄りの意見がある。最も怖いのは、意志・見解の内容ではなく、一方の意見を抹殺してしまうことだ。

意志・見解を示すことは、メディアだけではなく、個人にとっても非常に重要である。意志・見解を示すことによって、自分が何者かということが示される。それを保証するために言論の自由があるのである。

ただし、ネットなどで誹謗・中傷する自由があると言っているわけではない。反対することは自由であるが、誹謗・中傷は小学生レベルのいじめと変わらない低レベルの行為である。

世の中の荒波の中で「個」を示すためには、ある程度の大きな声を発することが必要だ。しかしそのような意思・見解という声を発することによって「個」が確立され、社会の中での自分のポジションが明確になるのである。

八百万の神。

欧米と日本の宗教観の決定的な違いは、一神教か八百万(やおろず)の神かということだろう。欧米ではキリスト教ならキリストが唯一の神であり、その他の神が存在することを許さない。イスラム教もアラーが唯一の神である。しかし日本にはあらゆる神があらゆるところに存在する。例えば山に神が存在したり、木に神が宿っていたりする。あるいは今僕が使っている椅子や机にも神が宿っているのかもしれない。

これらの宗教観はあらゆるところに反映されている。それはサイエンスだって例外ではない。

ガリレオ・ガリレイは地動説を唱えて宗教裁判にかけられたという話は有名だ。そのような宗教観の下、それを覆すような斬新な科学理論を唱えるのには知能だけではなく強い覚悟もいる。そのような覚悟を持ちサイエンスを進化させたガリレイやニュートンには敬服の念を抱く。しかしそのような抑制下において強い信念の下に研究を進めたからこそ、革命的な科学理論を唱えることができたのかもしれない。

それに比べて、八百万の神の国の日本ではサイエンスに対する抑制は軽いように思われる。だからこそ欧米の進歩したサイエンスを何の疑いもなく受け入れ、崇めたのかもしれない。しかし何の批判もなく科学の新論を崇めることは危険に思える。どうやら日本には、欧米のような批判の文化は根付いていないようだ。欧米哲学、特にドイツ哲学を見れば、その基盤は全て批判することにあることがわかる。

近年では日本ではiPS細胞が大きな話題となっている。もちろんそれは悪いことではないし、山中伸弥教授が発見した日本発の技術を盛り上げることは、日本にとって意味のあることである。しかしサイエンスでは流行から流行は生まれないと僕は思っている。流行に乗っている限り、次の世代の流行を生み出せない。すなわち、現在の流行に乗ることではなく、次の世代の流行を作ることが重要である。そのためにはいかにして本質を見抜くかということが重要である。

話しは初めに戻るが、一神教の欧米ではなく、八百万の神の日本だからできるサイエンスがあるはずだ。例えばiPS細胞やES細胞など多能性幹細胞の研究では倫理観が強い影響を与える。そして自然界の最も基礎的な理解を与える素粒子論などの基礎物理学もそうである。これから日本がサイエンスの研究において突き抜けることができる事があるとすれば、そのような思想が強く影響するところではないかと強く感じる。

確率的思考。

例えば、企業が人材を採用する時に行う面接では、優秀と思われる人、あるいは人間関係を円滑に行い企業の利益に寄与できると思われる人を採用する。しかしあくまでも「思われる人」であり、確率的にその人の方が良いだろうと判断して採用することになる。しかし確率はあくまで確率であり、さらに言えば面接官の独断と偏見に基づくものであり、その確率自体も怪しいものである。

面接に限らず、世の中の判断というものは確率で決定されることが多い。それは民主主義とも密接な関係があるのだが、その一方、世の中の確率的判断の間をすり落ち、真の才能が埋もれてしまうことも多々あるだろう。

もちろん、そのような確率的判断が間違っているわけではない。確率とは多くの母数に対してコンスタントに威力を発揮するものなので、全体を見ればそのような確率的判断はかなりの利益を組織にもたらすであろう。

とは言え、現在の日本の気質から言えば、異端者すなわち出る杭は、打たれることが多い。皆と異質な部分があればそれを排除しようとするような気質がある。もちろんそのような気質も昔と比べればマシになったと思うが、それでもそのような気質は強く残っている。

日本での確率的思考とは、平均を算出することに全てを費やしているように思える。しかし本当にすべき確率的思考は、いかに確率良く最高のパフォーマンスを発揮するかということではないだろうか?しかし現在のような異質を排除するような気質の下では、それを実現するようなことはかなり厳しいと思われる。

「小さな正義にこだわる人は、大きな正義が見えない。」

これは、坂本龍馬をテーマとした深夜番組で黒鉄ヒロシが言っていた言葉だ。

今、日本国内だけではなく、世界が小さな正義で溢れ返っている。もちろん市民一人ひとりにとっては身近な出来事、身近な小さな問題に悩みを抱えるのは当然のことだが、一国の長であるような人物が小さな正義にこだわっているようでは話にならない。

学問においては、「小さな問題にこだわる人は、大きな問題が見えない」と言い換えることができるかもしれない。とは言え、学問の場合には、小さな問題の積み重ねの基に大きな問題が成り立っているという側面がある。なので、大きな問題を解くためには、小さな問題が解けることが前提となっている。しかしそれだけでなく、大きな問題を解くためには、物事の本質を捉えることが必須となる。

これらの言葉は広くとらえると、「近視眼的にしか物事を捉えられない人は、大局的に物事を見れない」と言うことができるであろう。坂本龍馬はまさしく大局的に物事を捉える達人であった。それに一つ加えると、龍馬は常にリスクを取り続けていたと言える。「命」というリスクを。

今、社会では様々なことが問題になっているが、そのようなことが大きな社会問題になっているのは、小さな正義にこだわっているということが理由の一つかもしれない。現在の問題も、十年、百年単位のスパンで考え直すことが必要ではないかと強く感じる。