社会・時事ネタ」カテゴリーアーカイブ

トランプ、安倍、習近平。トリプルドミノは起こるのか?

現在、日米中のそれぞれのトップが危機に瀕している。とは言ってもそれぞれこれまでの政策や言動、行動が起こした結果だと言えるが、この三者の誰が失脚してもおかしくない状況だ。トランプは次の大統領選を乗り切れるかどうか、安倍首相は野党の追及、そして国民の追及を乗り切れるかどうか、そして習近平は降ってわいたような新型肺炎ウイルスに対する対応のまずさだ。

それぞれ国のトップに就任してから数年の年月が経つ。そして現在の危機は、その数年における行為に対しての当然の帰結だと言える。トランプの何がまずいのか?改めて言うまでもないだろう。そして安倍氏の最近の答弁はもう理詰めでも何でもなく、小学生レベルの言い訳にしか聞こえない。安倍氏が乗り切れるかどうかでなく、仮に乗り切ったとしたらこれからの日本は非常に危機的である。やはり総理総裁三期制度に対する弊害だと言わざるを得ない。

そして今一番社会問題となっている新型肺炎ウイルス問題である。中国政府の初動は明らかに誤った。しかし問題は、たまたま初動を誤ったと言うことではない。これまで習近平が押し進めて来た情報統制、国民統制、そして徹底的な隠ぺい政策の当然の帰結として、今回のウイルス対策の誤りが生まれたと言える。そしてこれらの問題は現在進行形である。もしこれからウイルス問題が長引き国民の不満が爆発すれば、習近平の立場は危ういと僕は考えている。

確かに日米中のそれぞれのトップが全て失脚する可能性は低いかもしれない。しかしゼロではないと僕は考えている。では、どれが一番可能性が高いかと言えば、安倍首相の失脚だと僕は考えている。今年まだ始まったばかりだが、この一年は激動の一年になるのではないだろうか?

流行の新型肺炎ウイルス。

現在、中国に端を発した新型肺炎ウィルスが世界的に問題になっている。今日現在の感染者数は数千人、死者は現時点で133人となっている。死亡率は単純計算で3%ほどで、普通のインフルエンザなどに比べてもかなり高い数値となっている。とは言え、普通の感覚で言えばそんなに恐れるほどでもないと思っている人も多いのではないだろうか。この新型肺炎ウイルスの何が恐ろしいのか?それを正確に理解するためには生物学、特に分子生物学や分子遺伝学を正確に理解しなければならない。

話は変わるが、季節性のインフルエンザウイルスに対するワクチンはほぼ瞬時に開発されるのに(流行以前からの開発にもよる)、エイズウイルスに対するワクチンは数十年たった今でも一向に完成する気配がない。その理由はなぜなのか?これもやはり分子遺伝学を理解すればその一部が理解できる。遺伝子の活動は基本的にDNA→RNAへと一方通行である。しかしエイズ(HIV)ウイルスはウイルスのRNAからDNAが作られ(つまり逆転写される)そのDNAが宿主(つまり人間)の遺伝子に組み込まれる。そこが決定的な違いである。もちろんこれだけがワクチンの開発を困難にしている原因では決してないが、困難の一つだと言える。

現在、医学・医療は非常に発達してきている。しかしそれらの正確な理解がないと、風評や誤解に振り回されることになる。なので現代に生きる人間にとって生物学、特に分子的レベルによる生物学を理解することは非常に重要である。しかし容易にわかるように、これらの知識を持ち合わせている人は少数派であろう。しかしこれらの知識や学を持ち合わせているかどうかで行動の範囲と質が劇的に変わり、時には自分の命の行方さえも左右するであろう。現在の社会の現状は、表面的な知識に終始しているようである。もちろん、表面的な知識だけでも持ち合わせている方がマシだとも言えるが、それだけだと誤解や間違った行動につながってしまう恐れがある。なので、科学的(分子レベル)から生物学を理解することが重要なのである。

学問は決して一部の人間(学者や専門的学生)のものではない。一般の人たちが学問を理解する意義は非常に大きい。だからこそ国は教育に力を入れ、それが国力に(そして時には国民の命に)直結するのである。くだらない不倫叩きに精を出す暇があるのなら、少しはウイルスの生物学的原理の理解に取り組む方がはるかに意義があるのではないだろうか?

日本は良い国なのか?

僕はこれまで日本と言う国に対して様々なダメ出しをしてきた。ならば日本は本当にダメな悪い国なのか?と言えば、決して良いとは言えないが、世界の様々な国と比べるとかなりマシなのではないかと思っている。ではなぜこれまで様々なダメ出しをしてきたかと言うと、それは非常に単純な話で、僕が日本に住んでいるからだ。日本に住んでいれば、自然、日本のことがよく見える。よく見えるので様々な悪いところ、おかしい所にいろいろと気づくわけである。

日本人は何かと欧米と比べたがる傾向にある。欧米のこういうところが素晴らしいとか、欧米に比べて日本はだめだとか、様々な比較をされてきた。では欧米はそんなに素晴らしい国なのか?僕はそうは思わない。むしろ欧米の方がひどいと思えることもたくさんある。総合的に見れば、日本の方がはるかにマシではないかとも思える。では欧米の何が一番問題なのか?それは「先行逃げ切り体質」である。

例えば、環境問題・経済問題が最たる例である。ではなぜ欧米の主張が正当化されるのか?それは建前と本音の使い分けが非常に上手いからである。日本人は本音と建て前を非常によく使い分けると言われている。しかし国家としての日本の建前と本音の使い分けは非常に下手だと僕は思っている。それは政治を見ていればよくわかる。政府は建前を上手く使えず、また建前を使ったときはその魂胆が見え見えなのである。そいう意味では、日本の政治は三流だと言える。

僕はダメ出しをしながらも、やはり日本の事が大好きだ。だからこそ日本が良い国になって欲しいと思っている。僕自身の生き方が日本のシステムに全く合っていないと感じることも多々ある。しかしそれはできない理由にはならない。僕はそんなことでつぶれる人間ではないからだ。いつか自分がいま取り組んでいることに成功すれば、日本が良い国に向かうための一つの力になりたいと強く思っている。

AI一辺倒で良いのか?

最近、何かとAIが話題になっている。ニュースを見ていても、去年一年間の平均を取ればAIの話題はベスト3に入るのではないだろうか?小学校でも今年からプログラミング教育が始まる。ますます世の中がAI一辺倒になって来ている。学問においても、これからはコンピューターサイエンス、プログラミング技術が大きく発展していくだろう。しかし何事においても多様化が大切である。なので、ITばかり注目していれば何かを見逃してしまう。さらに言えば、理系学問だけでなく文系学問も大事である。僕のように語学を疎かにしては後で苦しんでしまう。数学の論文を読むのも書くのも英語が標準である。できればフランス語やドイツ語もできることが望ましい。僕にはかなりきついことではあるが。

ところで、世の中の多くの人が勘違いしていることが一つある。それは「AIで何でもできる」と思い込んでいることだ。メディアでも、これからAIが発展すると何でもできてしまうみたいな論調で語られることがある。しかし正しいのは「AIで何かができる」と言うことである。それは「AIにもできないことがある」と言うことの裏返しである。しかしコンピューター科学に疎い人ほどAIで何でもできると思い込んでいる。科学を理解すると言うのは、「科学には何ができないか」と言うことを理解することである。そしてそれはコンピューターやAIにも共通して言えることである。もし科学やAIで何でもできると思っているのならば、それは科学やコンピューターを何も理解していないと言うことである。

小学校でのプログラミング教育も始まり、これからは学校教育でのコンピューターの比重はますます大きくなることであろう。しかし、プログラミングと言うものは、ある意味総合分野と言える。プログラミングには数学も使うし、物理も使うし、論理学も英語も使う。もちろん、研究者レベルの数学をする必要はないかもしれないが、しかしプログラミングを極めるためには研究者レベルの数学も必要である。そこは数学の一分野と言う様相を呈している。コンピューター科学が重要だからと言って、数学や物理と言う学問が廃れるわけではない。それどころかある範囲では数学・物理とコンピューター科学は融合するであろうし、またコンピューターには絶対立ち入ることのできない数学・物理もあり、そこは独自の発展を遂げるであろう。だからこそ、古典的な数学や物理と言う学問はますます重要になる。

今の社会のAI一辺倒化の問題がどこにあるのかと言えば、AIにできないことを示せていないことである。しかしAIにできないと思われることは多々ある。それは数学や物理と言う学問をやっていれば誰もが感じることだ。しかし、今の社会の論調は、「AIで何でもできる」という様子である。しかし今、「AIに何ができないか」と言うことを示すことが非常に重要である。そしてそこに次世代へのブレークスルーがあると僕は考えている。AIに関わることはそれはそれで良いとは思うが、それではブレークスルーを起こせない。量子コンピューターも社会的にはブレークスルーのように思われているが、科学にとってのブレークスルーとは僕には思えない。ましてや学問のブレークスルーではない。仮に量子コンピューターや量子情報がブレークスルーだと考えるのならば、それは1980年代頃の研究ではないだろうか?

今、学問的にブレークスルーを起こせている人はほぼ皆無である。AIも量子コンピューターも大きな流れではあるが、僕にはそれがブレークスルーだとは思えない。しかし今、たった一人でもブレークスルーを起こせる人を生み出すことが必要なのではないだろうか?

Windows7、サポート終了。なぜサポートが切れると危険なのか?

2020年1月14日、Windows7のサポートが終了した。サポートが終了するとセキュリティ面で危険になると言われているが、それでもまだまだ大丈夫と考えて使い続ける人も少なくないと思う。果たしてそれは正しいのだろうか?

ここからはあくまで僕の推測であるが、僕はこの14日を境目に一気に危険が増すのではと考えている。それは、それ以前ならば例えウィルスが発見されてもマイクロソフト社がすぐに対応してパッチを出してくる。なので、ウイルスを撒き散らす人達(ハッカーなど)にとって、ウィルスを撒き散らすメリットが少ない。しかしサポートが切れた後にウィルスを撒くと、マイクロソフトからパッチが出ることはないのでハッカーたちは延々とウィルスの恩恵にあずかり続ける。従って、1月3日にウィルスを撒くのと1月15日に撒くのとでは、ハッカーにとっては15日の方が圧倒的にメリットが大きい。従って、例えば2019年6月にWindows7の脆弱性を発見したハッカーが半年間待って、2020年1月14日を過ぎた時点で一気にウィルスを撒きだす(脆弱性を突く)という行為に出るのではないだろうか?僕はこのように推測しているので、1月14日を一日でも過ぎた時点で一気に危険が増すのだと考えている。

では、それを解決するためにはどうすればよいか?一番単純な方法は、Windows10を搭載しているパソコンに買い替えるか、あるいはOSをWindows10に入れ替えるかであろう。しかしこの場合、少なくとも数万円の出費になる。Windows10のソフトを買うだけで1万5千円以上の出費になるし、新しくパソコンを買えばそれ以上の出費になることは必須だ。では、それを避けるためにはどうすれば良いか?その解決方法は、Windows7のパソコンの中身をLinux(リナックス)に入れ替えるのである。LinuxはWindowsとは全く別のフリーOSである。フリーなので無料で手に入れられる。しかし、Linuxをインストールするためには多少の知識が必要だ。なので初心者には少しきついだろう。とは言え、自分で少し調べればそんなに難しいわけではない。デメリットを言えば、Windowsのソフトが使えないと言うことであろう。なのでWindowsでしかできないことをやっている人にはお勧めできないが、6割くらいの人には支障をきたさないと思う。さらに、(プログラミングなど)コンピューターをいじくったりしてコンピューターを極めたい人にとってはLinuxは最適だ。そしてそれとは対照に、単にYouTubeなどでネットを見たりするのが主なライトユーザーにとってもLinuxで十分事足りるはずである。なので、Linuxは意外と多くの人にメリットがあると思われる。

1月14日までにWindows7マシンをLinuxに入れ替えなければならないと思いつつ、結局14日まで入れ替えるのをさぼっていた。なので14日に一気に全てのWindows7マシンをLinuxに入れ替えることになった。母のパソコンにはUbuntu(Linuxの一種)をインストールし、僕のマシンにはCentOS(これもLinuxの一種である)をインストールした。すこし時間はかかったが、無事全てのWindows7マシンをLinuxに入れ替えることができた。僕のマシンに一般的なUbuntuではなくCentOSを入れたのは、こちらの方がより本格的なLinuxだと思ったからである。母はYouTube視聴専門なので使いやすいUbuntuを入れることにした。Linuxで浮いたお金でいろいろと本を買うことにしよう!

アイドルの「恋愛禁止」、何かおかしくないか?

現在、乃木坂46からの卒業を発表した白石麻衣さんが、アイドル時代の8年間ノースキャンダルだったことが話題になっている。白石さんのような美人さんが身の回りにいれば、男だったら誰だって声をかけたくなるだろうし、おそらく毎日のように男から誘われたであろうアイドルが8年間ノースキャンダル?だったことは、さぞかし苦労の連続であったであろう。しかし、ここで「ノースキャンダル」と言う言葉の後に“?”を付けたことには訳がある。そもそも年頃の女の子が普通に恋愛することがなぜスキャンダルなのか?おそらく多くの人は、「アイドルは恋愛禁止がルールなので、それを破ったらスキャンダルであることは当たり前だ」と言うかもしれない。しかしそのような事は、考えれば考えるほどおかしなことに思えてならない。

そもそも、アイドルと言ったって年頃の女の子である。年頃の女の子が恋愛をすることは至って自然な事である。むしろ恋愛を避けようと努力することの方がはるかにおかしな行為である。そして恋愛禁止のルールだって、アイドルを運営する人たちがアイドルを商品と見立て、その商品価値を落とさないように取り決めているルールに過ぎない。法律を違反しているわけでも何でもない。さらに言えば、そのような恋愛禁止ルールを押し付けることの方が人権上はるかに問題があるはずだ。

もちろん、お気に入りのアイドルの恋愛が発覚すれば、誰もがショックを受けるだろう。しかしそれはアイドルでなくても同じだ。好きだった女の子が他の男と付き合っていれば誰だってショックを受ける。それは僕だって同じだ。だからと言って恋愛を禁止にするのは明らかにおかしい。もちろん、それを承知の上でアイドル業を全うしている人もそれなりにいるだろう。しかし恋愛をしたいアイドルに恋愛をするなと言うことの方がはるかにおかしいし、いったい何の権限があってそんなことを言っているのだと言う話である。

十年後、おそらくアイドルの恋愛禁止ルールはなくなっているはずだ。なぜならそれはあらゆる面(人権や、そもそも人間の自然な行為・認識として)に関して明らかにおかしな強制であるからだ。もちろん、好きなアイドルが恋愛をしていれば誰だってショックを受けるはずだが、ファンはそれを渋々ながらも受け入れるべきなのではないだろうか?

僕が司法・検察に対して厳しい意見を言う理由。

僕はこれまで幾度か、司法・検察に対して厳しい意見を言ってきた。昨日のブログでも、検察、そして元東京地検特捜部副部長の若狭勝氏に対して、これでもかと言うくらいにこき下ろした。僕がこのように検察に対して厳しい意見を言うのには理由がある。ゴーン氏が言っていたような検察批判に同調するわけではないが、現在の検察の在り方・体質に対して疑問に感じるところが少なくないからだ。

まず初めに述べたいことは、冤罪事件と言うのは司法・検察、そして国家による犯罪だと言うことである。不当に逮捕・拘留すればそれは国家による逮捕・監禁罪であるし、もし冤罪人を死刑に処すればそれは国家による殺人罪である。しかし、このような非常に単純な論理を、検察は全く認識していないように感じられてならないからだ。そんな事件追及は、正義でも何でもなく単なるエゴでしかない。

このような事を象徴するのが、冤罪に巻き込まれた袴田巌さんである。確かに、検察とは言え何かの間違いを起こすことはあるとも言える。しかし、実際に殺人を犯した殺人犯は裁判所でどう発言するだろうか?ほとんどの殺人犯は反省の弁を述べるだろう。しかし、袴田さんの冤罪に関して、検察は一向に謝罪の弁を述べないばかりか、自分たちを正当化して保身に走るばかりである。これはどう考えても、反省の弁を述べる殺人犯よりも悪質だ。袴田さんは年老いて何とか自由の身にはなったが、冤罪を証明されずに死んでいった囚人もいることは想像に難くない。

僕は検察を否定したいわけでは全くない。検察組織は社会にとって必要不可欠だ。しかしその在り方が問題なのである。体質とでも言うのだろうか?現在の強権的な(検察が強権的であるのは当たり前だと言えるが)検察が、その強権の使い方が明らかにおかしい事案が散見されることを僕は問題視しているのだ。検察側にとっては単なる間違いと言う一言で済ませることでも、冤罪犯にとっては命がかかっているのである。そのような認識を検察側が持つまでは、僕の厳しい意見は終わらないだろう。

ゴーン氏の会見に関して。

久しぶりにニュースを見てブチ切れた!何に対してか?news zero(日本テレビ)に出ていた若狭勝・元東京地検特捜部副部長(前衆議院議員)に対してだ。番組では、ゴーン氏の会見について報道され、それに対してアナウンサーらが意見を言っていた。そしてそれに対する若狭氏の見解があまりにも低レベルで幼稚すぎるのだ。

まずは、ゴーン氏が指摘していた、日本の裁判での有罪率99.9%問題(これについては1月2日の僕のブログでも触れた)についてだが、若狭氏は日本は外国とは違って確実に有罪を取れる場合しか起訴しないからこの数字になるのだと言っていた。小学生レベルの弁解である。そして検察側のこのような認識は、非常に恐ろしいものであるとも思った。それは、検察側は取り調べを行う際、99.9%(すなわちほぼ確実に)有罪であるという思い込みのもとに取り調べを行っているとも受け取れる。このような認識こそ、まさしく冤罪の温床である。有罪となった99.9%の中には、相当数の冤罪事件があると言うことも想像に難くない。

そして、ゴーン氏の会見に対する若狭氏が言った総括が「逃げ得」である。これもまた小学生レベルの意見である。このような若狭氏の幼稚な意見から感じられるのは、このような低能低レベルな人間が率いる検察と言うものは、相当低レベルな組織なのではないかと言うことである。そして検察は権威をバックにして強権的な取り調べをしていると疑われても仕方がない。

今回のゴーン氏の会見は、皆が言うように確かに内容が薄かったことは明白である。しかしそこから日本の司法が反省すべき点もいくつかあったように思える。しかし当の日本の司法側が保身に走っているようでは、反省によって改善されると言う期待は持てない。若狭氏のような存在は、そのような検察の問題の氷山の一角を表しているのではないだろうか?

ゴーン氏国外脱出。僕はゴーン氏の主張にかなり賛同している。

年末になり、元日産自動車社長のカルロス・ゴーン氏が国外脱出したと言うニュースが飛び込んできた。ゴーン氏がどのように脱出したかはまだはっきりとはしていないようだが、日本の検察側、裁判所側にとってはとてつもなく大きな失態だ。日本のメディアはゴーン氏の国外脱出を“逃亡”と表現し非難をする論調が強いようだが、僕はゴーン氏側の声明に対してかなり大きな共感を持っている。

では、ゴーン氏側の主張の何に共感しているか?それは、検察側の「有罪ありき」の取り調べ、そしてそれに呼応する裁判所側の姿勢だ。日本では起訴されると、有罪決定率が99.9%(この数字は比喩的に表現されたものと思われるが)にもなると言う。確かに起訴された人間が罪を犯している確率は高いであろうが、しかしその確率が99.9%と言うのは、明らかに常軌を逸している。その数字が主張しているのは、警察・検察は99.9%ミスをしないと言うことである。しかしこれまでいくつもの冤罪事件が明るみになってきた。その代表は殺人罪に問われて冤罪だとほぼ確定している袴田巌さんの件であろう。しかしこの袴田巌さんの件においても、検察側は自らのミスを認めていない。

では捜査・取り調べ・裁判とはどうあるべきか?それは有罪か無罪かを精査することである。すなわち、明らかに疑惑性が低い件はしっかりと無罪を導き出すべきである。しかし一度起訴されてしまうと、日本においては99.9%有罪になってしまう。どんなに疑惑性が低くても有罪の判決が出るのである。これは、一度起訴された件に関しては、検察側が何があっても自らのミスを認めないと言うことに原因がある。これは非常に恐ろしいことである。事件の被害にあうことは恐ろしいことであるが、何も犯罪をしていない人が拘束され犯罪者に仕立て上げられることはさらに恐ろし事である。しかし日本の現状はそのような事が横行しているとまでは言わないまでも、度々発生しているのである。

今後、ゴーン氏は日本の司法制度に挑戦してくると言われている。僕はこのことに対しては大いにゴーン氏に賛同する。この際、徹底的に日本の司法制度のおかしい部分を掘り下げ、改革の火を付けてもらいたいものである。そういう意味で、長い目で見ればゴーン氏の国外脱出、日本の司法への挑戦は必ず日本及び日本国民の安全と自由にとってプラスになるはずである。今回の件に関して、単に感情的に「逃亡はけしからん、ゴーン氏は悪だ」と捉えるのではなく、ゴーン氏の主張を吟味し、日本国の司法の在り方を見直すべきである。

では、これからゴーン氏の事件に対して日本はどのような姿勢を取るべきか?僕はゴーン氏の身の安全と自由を保障し、ゴーン氏の主張と日本の司法側の主張を真っ向対決させるべきだと思う。もうゴーン氏が有罪か無罪かと言う問題では全くない。世界の司法の常識と日本の司法の常識との対立である。僕はゴーン氏の今後の動きに大いに期待をしている。これは必ず日本のおかしな現状を変えるきっかけになるはずだ。

新庄剛志の挑戦。

“元”プロ野球選手の新庄剛志さんが、最近再びプロ野球に挑戦すると宣言して話題になっている。それに対する反応はまちまちであり、バカにする人も多いが、僕はこの究極に新庄らしい宣言に対して非常に好感を持っている。元監督の野村克也氏は、「究極のアホ」と言い放っているが、これも元教え子の新庄さんに対する一つの愛着の表れではないかと僕は思っている。もっとも、本気で新庄さんがプロに戻って来ると思っている人はほとんどいないようだが。(僕を除いて。)

そもそも、歳を取ると衰えるから無理だと考えることには何の根拠があるのか?いや、はっきりと根拠がある。科学的医学的に考えれば、歳を取ってプロ野球選手になることは不可能だ。しかし、新庄さんは“まだ”47歳である。まだまだ十分行ける!新庄なら!歳のせいにして不可能だと言うのは、ある意味単なる言い逃れでしかない。スポーツも学問も、生涯プロを目指すべきだ!

新庄剛志の歴史は、不可能を可能にしてきた歴史だ。阪神タイガース時代、スター選手として活躍したが、突出していたと言う訳ではない。なので、大リーグ挑戦を宣言したとき、誰もが失敗すると言い放っていた。しかしいざアメリカに行くと、数字的にも日本と変わらない成績を残すことに成功している。そして何よりも、日本人初の大リーグでの4番打者になっている。松井秀喜よりも前に4番打者になっているのである。まさしく「奇跡を呼ぶ選手、クレヨンしんちゃん」なのである。

僕だって、他の選手がそんなことを言うのなら、絶対に無理だと思ってしまうだろう。(イチローは別格であるが。)しかし、新庄なら本当にやってしまうのではないかと心のどこかで思ってしまう。普通なら0%だ。しかし新庄なら3%くらいあるのではないか。僕はその3%に期待しているし、ワクワクしている。新庄はおバカキャラだけど、バカではない。新庄こそ究極の挑戦者であり、究極のエンターテイナーではないだろうか?

魔教育。

魔教育とは、特に小学校で行われている子供の将来をぶち壊しにする教育だ。そしてその原因は、小学校教師の極度なレベルの低さにある。

魔教育は、特に小学校の算数の授業で実行される。例えば
・例1、掛け算の交換法則を理解していない。
・例2、イコールの付け方に意味のない規則を教える。
・例3、筆算の棒を定規で書かせる。
・例4、「3=3.0」を理解していない。
などである。

例1については、面積の公式を「縦×横」は正解だが、「横×縦」は間違いだと言う嘘を教えることだ。
例2については、イコールを横に次々と並べてはいけないと嘘を教えることだ。
例3については、そのままである。
例4については、そもそも数字(算数以前の問題として)を理解していない。
もう、これらがなぜダメなのかという低レベルな事はここでは述べない。しかし、実際の小学校ではこのような魔教育が行われているようである。

僕は大学時代、教育学部の友達が多かったので、このような話をよく聞く。そしてそれらを指摘された教師は恐るべきことに、ネットで検索して調べるようである。しかもWikipediaで。そしてそのような小学教師であるほど、小学校の授業で算数が一番簡単だと言っているようなのである。

このような魔教育の根源は、「生徒のための教育」と言う意識が軽薄で、「教師(自分)のための作業」をこなしていると言う意識があることによるものではないかと思われる。魔教育は間違いなく子供の将来をつぶす。教師が人間として低レベルなのはどうでもよいが、子供にそのような低レベルな人間の作業に引きずり込むことは害悪でしかない。しかしこれらのことがあまり世の中の問題にならないのは、まさかそこまで低レベルな教師がいるとはだれもが想像していないからである。しかし実際は相当数の超低レベルな教師がいるようなのである。

未来的イメージと個性。

最近、車の雑誌を読んでいると、近未来の車として電気自動車や自動運転車のコンセプトモデルが出されているのを見ることが多い。ガソリンの自動車が廃れるのか残るのかは世界の環境政策にかかっていると思うが、ただ電動化、自動化の路線を突き進むことは疑いようのない事実のようだ。

そこで近未来のコンセプトモデルを見ると、もちろんそれぞれデザインは違うものの、何だか方向性が全て同じように感じてならないのだ。時代を先取りした前衛的モデルと言うコンセプトは同じでも仕方がないが、個性を出そうとしているのがそれらの全ての個性が同じように見えるのだ。これは実は個性を出しているようであって個性ではないと言える。それらの個性の源泉が全て画一的なのである。このような事は、あらゆる分野に対して言えるのではないだろうか?

「最先端=個性」では決してない。むしろ最先端は流行であると言うことが非常に多い。そして最先端にこだわるあまり、ただ単に流行に乗っているだけと言うことが少なくないのだ。このような事は学問にも言えることである。学問においても流行があり、一部の(多くの?)研究者たちはいかにして流行に乗り遅れないかと言うことばかり考えているようである。最先端は乗るものでなく作るものなのである。最先端に乗っかっている人に個性が出るはずがない。

車の話に戻るが、僕は最近のマツダのデザインが大好きだ。現在マツダの車に乗っているわけではないが、次車を買うときはマツダの車を買いたいと思っている。現在のマツダの車はデザインが秀逸であり個性的である。しかし前衛的な印象は受けない。車の質的にも非常に良いらしいが、僕は乗っていないので何とも言えない。しかし現在のマツダのスタイルは、あらゆる分野の人間に対して個性の一つの在り方を示しているのかもしれない。前衛性にこだわるあまり全ての人が同じ方向へ進み、結果的に個性を殺している。人々はもう少し、いや深く個性の在り方出し方を考えるべきではないだろうか?

もう安倍政権を支持することはできない。

僕はこれまで何度も述べてきたように、自民党・石破茂氏を一貫して支持してきた。そして現政権は自民党安倍政権であるが、これまでいろいろと不満を抱えつつも安倍政権を支持してきた。しかし今、もう安倍政権を支持することに限界を感じ、安倍政権を支持することはできないと判断した。

ではなぜ安倍政権を支持することができなくなったのか?それは今までの様々な問題の蓄積からであるが、最後のとどめとなったのが現在問題になっている「桜を見る会」問題だ。しかし桜を見る会自体は僕はそんなに深刻には考えてはいなかった。地元の有権者を招くようなことは当たり前の話としてあると想像できるし、参加者の会費に関しても確かに白ではない。しかし僕はそんなことだけで安倍政権を不支持にしたりはしない。問題はその後である。安倍首相、そして安倍政権に関わる周辺の政治家と官僚たちの事後対応が圧倒的に問題だ。完全なる隠蔽主義と都合の良いいい加減な解釈。そして周りの政治家や官僚は安倍首相に対してノーと言えず、完全なるイエスマンになっている。はっきり言って、このような状況は国民にとって害悪でしかない。国民の自由と安全までが危機にさらされていると言ってよい。

これまで安倍首相は様々な成果を挙げてきた。特に外交に関しては圧倒的な力を発揮し、それに長期政権のメリットも加わり、日本の外交・防衛に大きな貢献をしてきたと言える。現在日韓関係がもつれ、韓国にとって安倍首相は大きな脅威であろう。しかし今の状況は日本国民にとっても安倍首相は脅威であるように思えてならない。日本国民の様々な自由が奪われようとしている。中国ほどではないが、国のためとなれば国民の自由も束縛されるのが当たり前と言う風潮になりつつある。数理物理研究者としては、学問の自由が大きく侵されようとしていることが許せない。もうあらゆることが、首相多選の害悪にさらされている。やはり首相任期2期6年と言う制限は大きな役割を果たしていたと言える。3期9年は独裁の域に入りつつある。

僕個人の希望としては、次の政権に石破氏が就いてほしいと強く願っている。しかしそうなったとしても、3期9年は良いとは思えない。やはり首相任期は2期6年に戻すべきである。現安倍政権があまりに強くなりすぎて、その強さだけが目立ってしまっている。そしてデメリットがその大きな強さによってもみ消されている。今自民党内で安倍首相にノーを言えるのは石破氏しかいない。現在、石破氏の立場は非常に微妙なものになっているが、石破氏が最後の砦になってせめてもの政権チェック機能をはたしてほしいと強く願う。

悪い人間が犯罪を犯すのか?

京アニの放火犯罪の容疑者が、容態の改善によって医療施設を転院した。その際、容疑者はこれまでお世話になった医療関係者に対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と感謝の意を示したと言う。僕はこの容疑者のこの言葉に関していろいろと考えるところがあった。

容疑者の放火に関してはれっきとした殺人であり許されることはないが、今回の事件はただ単に「極悪な人間が殺人を犯した」と単純に割り切れるものでもないように思えてならない。そのように考えるきっかけとなったのが、前記の容疑者の言葉である。

生まれながらに悪い人間、そして良い人間と言うものがあるのか?もちろん人間にはそれぞれ個性があり、性格や考え方などが生まれながらによってある程度もたらされるところはあると思う。しかしそれと同時に、育ってきた環境によって方向づけられるところもかなりある。もしかしたら、今回の容疑者も“普通に人並みに”悪い人間だったのかもしれない。なので育ってきた環境によっては、普通に何も犯罪を犯さずに暮らしていた可能性も高い。しかし彼の言葉から、これまで人から優しくされることがなかったのではないかと想像することができる。もしかしたら、これまで彼に優しく寄り添う人間がいたら、彼は感情をポジティブな方向へ向け、人に優しい人間になっていたのかもしれない。そう考えると、彼に対して一方的に極悪な人間だと決めつけることに少しの抵抗を感じないわけではない。

環境と言うものは、自分ではどうしようもないと言う側面がある。今回の事件に対する責任は彼だけではなく、これまで彼の環境を作ってきた親、そして学校の教師、そして彼に関わってきた全ての人々、そして日本の社会全体にあるのかもしれない。だから今回の事件に対して、自分は関係ないと他人ごとにはできない。おそらく彼に対しては、今後極刑が課せられることは免れないと考えられるが、その極刑は同時にこれまで彼の環境を作ってきた日本社会が課せられた刑だとも捉えられる。彼の起こした犯罪を教訓として、社会と人間の在り方を再考する必要があるのではないだろうか。

文化勲章。

先日、文化勲章の授章式(親授式と言うようだ)が行われた。今年の受章者は6人であり、最も注目されたのは、今年ノーベル化学賞を受賞された吉野彰博士ではないだろうか。しかしそれ以外の受賞者の中に、僕が尊敬する人が一人いる。数理工学者の甘利俊一博士だ。甘利博士は建前上「数理工学者」となっているが、その実績は非常に幅広く、数理脳科学から最近のAI技術にもつながるニューラルネットワークまで様々な研究貢献をされている。僕が一時期取り組んでいた、甘利博士の創始された情報幾何は、最も大きな貢献ではないだろうか。

もう数年前(10年前くらい?)だろうか、研究会で甘利博士と少しお話しする機会があった。当時から科学界では有名な方だったので、僕が持っていた甘利博士の著書にサインをお願いした。非常に温和で気さくな方だったように記憶している。もちろん、普段はどんな方か僕には分からないが、もしかしたら研究には厳しい方なのかもしれない。

甘利博士は非常に不思議な人である。何が不思議かと言うと、何が専門なのかわからないのである。あらゆることにおいて大きな結果を出されているので、どれを専門だと言っていいのかわからない。出発点は数理工学のようである。東大の計数工学科の教授もされている。その過程で、情報幾何学を打ち立てられた。情報幾何学は数学と言ってよい。そしてその後、理研の脳科学総合研究センターのセンター長をされ、数理脳科学の分野で大きな結果を出している。そしてその数理脳科学の知見に基づいて、AIのニューラルネットワークの理論にも貢献されているようである。

どう考えても、僕にはノーベル賞を受賞された吉野彰博士よりも甘利博士の方が偉大に思えてならない。現在83歳ではあるが、偉大な研究者は歳を取っても大きな研究を成し遂げる人も少なくない。現在現役かどうかは分からないが、残りの人生においての活躍を強く願うばかりである。

フィギュアスケートの華。

僕はスポーツ観戦が大好きだが、特に冬になるとフィギュアスケートの大会が待ち遠しくなる。近年、日本のフィギュアスケートは非常に高いレベルにある。男子で言えば羽生結弦、宇野昌磨のツートップがダントツだが、僕は特に女子選手のスケーティングが非常に好きだ。

女子フィギュアスケート選手にはそれぞれいくつかのタイプに分かれると僕は考えている。フィギュアスケートの王道は紀平梨花、ジャンプ大会の王道はロシア勢というように。そして僕が特に思っているのが‘‘女子’’フィギュアスケートの王道である本田真凛だ。僕は紀平梨花選手のスケーティングが大好きだ。特に先シーズンのフリースケーティングのプログラムであるBeautiful Stormは超名作である。紀平梨花選手に比べ、最近は本田真凛選手の低迷ぶりが話題になっているが、僕は本田真凛選手も紀平梨花選手に負けず劣らずの名選手だと思っている。

本田真凛選手がどう名選手なのか?それは彼女が女性でしか出せない魅力的なスケーティングを最高に表現しているところだ。よく言われているように、本田真凛選手のスケーティングには華がある。これは誰もが認めるところで、おそらく女性の華という点では本田真凛選手に匹敵する選手はいない。彼女の柔らかい滑り、美しい表現は見る者を魅了する。彼女はフィギュアスケートの王道ではないかもしれないが、まぎれもなく‘‘女子’’フィギュアスケートの華だと僕は思っている。

近年、特に女子選手において、フィギュアスケートがジャンプ大会化していると言われている。もちろん高度なジャンプをするためには高い技術が必用であるし、それは認められるべきであろう。しかし最近はジャンプばかりが注目を浴びており、本来のスケーティングの魅力が過小評価されているように感じる。そういう意味で、本田真凛選手はもっと高い評価を受けるべきである。彼女はロシア選手のような4回転ジャンプはできないかもしれないが、ロシア選手は本田選手のような華は出せない。

フィギュアスケートはあらゆる要素があり、それらの総合力で争われる。しかし最近は、過度にジャンプが評価されているし、見ている人もジャンプに注目しすぎているように感じる。僕はこのようなジャンプ大会に対して、非常に退屈を覚える。そのような状況だからこそ、本田真凛選手が新鮮に魅力を感じるのだ。紀平梨花選手も大好きであるが、本田真凛選手にはそのような華を極めるスケーティングで勝負して上位に食い込んでほしいと強く願っている。

契約書の形骸化。

スマホやパソコンで様々なサービスを受けるとき、初めにサービスの契約内容が示され同意を求められる。しかしそのような契約内容を一度でも読んだことがあるだろうか?僕自身もほとんど読んだことはないし、多くの人は初めの一文字さえも目を通さないのではないだろうか?もちろん契約書に目を通さないのには理由がある。その一番大きな理由は、契約書の文字が非常に小さく、しかも非常に長いからではないだろうか。実際、ほとんどの契約書は見るに堪えないような文章になっている。そのように、契約書と言うものが現実的には形骸化している状態だ。僕はこのことは非常に大きな問題であると考えている。

ほとんどの契約書は、サービスを利用する人のことを考えていない。ではなぜそのような読む人のことを全く考えていない契約書が氾濫しているのか?それはサービスを提供する側の一種の防御、悪く言えば保身のためである。しかし責任はサービスの提供側だけにあるわけではない。サービスを受ける側も、何の疑問もなくスルーして同意ボタンをポチる。そこで多くの人が、契約書のありように疑問を持てば、もう少しマシな契約書、マシな制度ができるはずだ。

国と国との条約であれば、政府や外交官は契約書の一言一句を漏らさずチェックするであろう。しかし普段サービスを受けるのは、法の知識のほとんどない一般市民だ。そのような市民相手に、条約レベルの細かく長い契約書を提示するのはあまりにも不親切すぎる。そして実際は、99%の人がその契約書の内容を全く理解してない。これは契約書のあり方として明らかに問題である。しかしこのような状況を変えるためには、国の政策レベルで変える必要がある。法が国会で成立されるからには、政府が動かなければ変えることができない。

それらの解決策として、このようなことはどうだろうか?例えば従来の契約書の形式は維持しつつも、利用者にはそれに基づいた簡約的な契約書を示す。このような二段階的な契約書は完全ではないにしろ、現状よりはるかに意味があり効果的だと思う。とにかく、現状の契約形式は分かりやすく効果的なものに変えるべきだと僕は思っている。もちろん、すぐに解決できる問題ではないが、政府や官僚が時間をかけてでも検討すべき課題であると僕は考えている。

どういう原理なんだろう?

今の時代、ほぼ全ての人がスマホを持っていると言っても過言ではない。スマホでなくてもガラケーを持っている。新しいスマホを手に入れた時、どのように思うだろうか?おそらくほとんどの人は、「どのように使うか?」と言うことに全力を尽くすだろう。そして世間では、スマホやパソコンを使いこなせる人が、「最先端機器に強い」と言われることが多い。しかしスマホを使いこなせることとスマホの原理を知ることとは全く別次元の問題だ。

現代社会は便利さを極限まで追求している。「どれだけ便利か?」と言うことが、ビジネスの命だと言える。そのような便利さを享受するためには、原理を知ることは必要ない。しかし物事の本質を知るためには、原理を知ることは不可欠だ。

来年から小学校でもプログラミング教育が始まる。プログラミング教育とは、スマホ・コンピューターがどのように動いているかを理解するための教育だ。もちろん、プログラミングがコンピューターの全てではない。しかしソフトウェアの多くの部分は理解できるだろう。スマホを使いこなすだけならプログラミングなど知る必要はない。しかし原理を知ることによって、単なるユーザーからコンピューターのプロデューサーになれる。つまり与えられる側か、与える側か、と言うことである。

プログラミングだけでなく、数学や物理だってその根本は自然の原理を知ることである。原理を知ることは、物事の本質を掴むことになる。つまり数学や物理を学ぶことは、本質を見抜く目を養うことになる。だから数学者や物理学者は、その他の関係ないように見えるほとんどの事に対して本質を見抜くことができる。もし本質を見抜けない数学者・物理学者がいれば、それらの人は似非である。原理を知るということは、本質を掴むための道のりの原点なのである。

自由がなぜ大事なのか?

日本を含む西側民主主義国家を「自由主義陣営」と呼ぶことがある。そして西側陣営に住む民衆は、自由と言うことを最も大事な事と捉えている。しかし残念なことに全員ではない。西側陣営に住んでいても、自由の重要性を認識していない人もいる。便利になれば、お金があれば、自由はそんなに大した問題ではない。そう考えている人も少なくないように思える。

自由には二つあると僕は考えている。一つは行動の自由。もう一つは精神の自由だ。行動の自由は分かりやすい。どこにでも自由に行けて、好きな事ができる。もちろん“何でも”と言う訳ではなく、人に危害を加えることは絶対にやってはいけないし、その辺は我々の一般常識に照らし合わせれば分かる。一般常識に照らし合わせた上でやってもいい事、と言う意味である。

しかし問題は、精神の自由である。これがなかなか理解されない。しかし僕からすると、これは行動の自由以上に重要な事である。精神の自由がなければ、独創的・創造的な営みはできない。しかし厄介なのは、精神の自由がなくても、何不自由なく生活ができることだ。少なくとも精神の自由の重要性を理解していない人たちはそう思っている。しかし人生を極め何かを生み出そうとしている人にとっては、精神の自由は死活問題である。そして西側陣営の言う自由とは、半分以上は精神の自由である。

今、香港の人達が立ち上がっている。彼ら彼女らは自由を死守しようとしているのだ。中国は皆が知るように一国二制度を取り入れている。そして香港はイギリス時代からの流れで民主的制度を取り入れている。しかし今それが壊れようとしている。この問題を考えるとき、中国本土の状態も同時に考えなければならない。本土側は共産主義国家体制である。そして高度な監視社会である。従って、市民の行動はほぼ全て監視されている。しかし中国市民からはあまり不満の声は聞かれない。それは彼ら彼女らが、自由よりも便利さ、そしてお金を受け入れているからだ。現在の中国はかなり便利だ。スマホ一台あれば何でもできる。高度なキャッシュレス社会なので、スマホがあれば何でも買える。自由よりも便利さやお金が勝ってしまうのか?このことを我々は笑ってはいけない。我々も便利さとお金を目の前にすれば、自由を放棄してしまうかもしれないからだ。特に精神の自由の重要性を理解していない人たちは、その可能性が高い。しかし一回自由を放棄してしまうと、それを取り戻すのは至難の業だ。それを知っているからこそ、香港市民は立ち上がっているのだ。

お金によって手に入れられる自由がある。確かにお金がなければそれらの自由は手に入れられない。しかし頑張ってお金を手に入れることができれば、そのような自由を手に入れることができる。このようなお金で手に入れられる自由が現在ないことはかなりつらいことであるが、それは同時に現在取り組んでいることで成功して手に入れるぞと言う原動力になる。しかし一回失くした精神の自由を取り返すことはそう簡単ではない。現在は高度な精神の自由を維持しつつ、頑張ってお金で手に入れられる自由も手に入れようと常に前向きに進んで行こうと強く思う。

旧民主党の「八ッ場ダム」に対する対応。

先日の台風被害に対して、群馬県の八ッ場ダムがかなりの防災効果を発揮したことが現在問題になっている。報道によると、八ッ場ダムは台風による豪雨で一日に50メートル以上もかさを上げ、下流域を水害の危機から守ったと言う。八ッ場ダムと言えば、旧民主党政権時代の事業仕分けで八ッ場ダム建設中止が目玉政策として取り上げられたことが記憶に残っている人も多いだろう。僕自身も八ッ場ダムと言えば、どうしてもこの民主党政権の事業仕分けを思い出してしまう。

今回の台風被害に対して八ッ場ダムがどれだけ防災効果を発揮したのかを推測することは非常に難しい。しかしかなりの防災効果を発揮したことは想像に難くない。しかしその一つのことを持って八ッ場ダム建設が100%正しかったのかと言えば、それは早計である。第一に、「もし八ッ場ダムがなかったら」と言うことは、現実にないことなので正確に測ることはできない。そして何しろ八ッ場ダムの建設費はかなりの巨額である。確かに人の命はお金に代えられないものであり、八ッ場ダムの建設費というお金によって多数の住民の命が救えたのならば、それは安いものであるという考えも自然と出てくる。

しかし、八ッ場ダムの数千億円という建設費を他に回せば(例えば医療費や、他の防災設備に)、さらに多くの人を助けることができた可能性もある。もちろん、人の命を人数によって比較することは適切ではないが、ただ防災効果を考える時、被害人数を比較することは一つの判断材料として重要である。物事は総合的に考えなければならない。今回の八ッ場ダムの防災効果を考えるとき、ただ単に今回の台風被害についてばかり考えるのではなく、建設費からその他の国家事業まで、様々な要素を総合的に比較しなければならない。

今回の台風で八ッ場ダムが防災効果を発揮したことによって、旧民主党議員たちは苦し紛れの弁解に終始している。“防災効果は総合的に考えるべきだ”と一言言えばいいものを、何だか責任を逃れるための弁解に終始している。このような事では、旧民主党系に対する信用はさらに低くなるばかりなのに、自分たちで自分たちの首を絞めてばかりいる。今回の八ッ場ダムについての評価を正確に行うためには、かなりの頭脳を集結しなければできないと僕は考えている。そのような頭脳とは、防災の専門家からダムの建設に携わる建設家、そしてそれらを実行する政治家たちだ。しかしどうやら、旧民主党の政治家の中には、そのような有能な政治家はほとんどいないみたいだ。

僕は今の自民一強体制に非常に危機感を感じている。そのような現状の中で、野党の存在意義は非常に強いはずだ。しかし肝心の野党の当事者たちが、次から次へと自分の首を絞めようとしている。特に旧民主党勢力に対しては、失望と言うより「大丈夫か?」と心配の念を持ってしまう。今回の台風災害に関して、そのような事を強く感じてしまう。

生きるために精一杯のことをしている人を、僕は尊敬する。

一昨日、深夜の大阪・天王寺で数人のホームレスを見た。天王寺はあべのハルカスなどができたりして最近はかなりにぎわっているが、西成と近いことあってかこのような人をよく見かける。先日の台風でホームレスの人たちが避難所で立ち入り拒否されたというニュースがあったが、このような出来事は一部の人間(あるいはお役所の人達)が、人助けをある意味流れ作業業務としてしか見なしていないことの表れだとも捉えられ、果たして近年日本人がよく言う「絆」という言葉が本物か?と疑問に感じる。

天王寺で見たホームレスの人たちは、僕には非常にたくましく見えた。ホームレスと言っても決して何もしていないわけではなく、空き缶を集めて回り、お金を稼ごうとしている。確かに恵まれた環境ではないが、何とか生きようとして自分のできる限りのことを精一杯しているのである。麻生財閥の御曹司、麻生太郎副総理に一目でも見てもらいたいものである。

自分は精一杯生きているか?と問われれば、正直そうとは言い切れない自分がいる。もちろん、精一杯生きたいとは強く思っているが、なかなかそれを実行できるところまでは行っていない。確かに現在は人生の中でもかなり厳しい時期だとは思っている。しかしその苦しい時期を本気で切り抜けようとしているか?なかなか体がついていかないのである。

天王寺のホームレスの人は、僕には本気で生きているように見えた。確かにお金は十分に持っていないのかもしれない。世の中では、お金を稼ぐ才能だけが重視される傾向がある。ホリエモンは常々、お金のない人を「終わっている」と馬鹿にしている。確かにお金は非常に重要である。しかし、お金は人間の唯一の判断基準ではない。様々な物差しで人間を評価すべきである。天王寺のホームレスも、精一杯生きている。どれだけ本気で生きているかという物差しで測れば、決して低く評価されるべきではないはずだ。

確かに、社会に溶け込むのが苦手な人は一定数いる。しかしそのような一つの理由だけで、社会から除外され、厳しい環境に放り込むのは正しいのか?僕はホームレスも社会を構成する一員だと思っている。関東の避難所のように、ホームレスを除外し、一定の人だけを守ろうとする、そのような社会では自分さえも守れなくなるのではないかと思う。なぜなら、自分もいつ危機的状況に立たされるかわからないのだから。現在の状況と言うのは、100%保証されたものではない。逆に言うと、現在不遇の立場に立たされた人も、再挑戦可能でなければならない。「人」か?「人間」か?生物学的には同じ存在であっても、どのように捉えるかによって社会の在り方、そして自分の存在理由は大きく変わるものである。

合理的判断は、本当に合理的なのだろうか?

世の中の人は、合理的判断を求めている。しかしそのような合理的判断は、本当に合理的結果をもたらしているのだろうか?

人物を合理的に判断する基準として、IQや学歴が用いられることが多い。しかしそのような判断は本当に合理的なのであろうか?確かに学歴は90%の人を合理的に判断できるであろう。しかし問題は残りの10%の人達である。学歴で評価した90%の人達の中には、秀才が多く含まれているかもしれない。しかし異才や奇才は残りの10%の中にいる可能性が高い。通常の物差しで測れない才能だからこそ、異才や奇才だと言われるのである。

アインシュタインが秀才だと言う人はいない。ほとんどの人は天才だと言うが、アインシュタインはある意味奇才である。よく世間では、アインシュタインのIQがいくら(かなり高い)だとか言って天才だと言うが、そのような話(数値)は後の人が勝手に決めたことである。もしアインシュタインがIQ的天才ならば、アインシュタインは普通の人でしかなかったということになる。IQ的天才とは所詮、IQで測れる程度の才能でしかないということである。

合理的判断には、そこから外れる10%(いや、1%か?)の人が必ず存在する。もしかしたら、90%の人を正しく評価できているのだから合理的ではないかと思うかもしれないが、実はそこから10%の人を除外していることが社会的にも大きな損失であり、究極的に非効率なのである。判断に必要な事は「多様的評価」なのである。一つの判断基準に固執すると才能が偏ってしまうし、本当に威力を発揮する人を見逃してしまう。もちろん、学歴などは一つの物差しとして使うのは悪くないかもしれない。しかし物差しは何種類も使うべきである。僕はこれまで‘‘通常’’の物差しから外れてきた才能ある人を何人か見てきた。おそらく皆の周りにもそのような人はいるはずだ。もしいないと言うのならば、通常の物差しに固執するあまり気づいていないだけである可能性が高い。昨今の「多様性」と言う潮流は物事の本質を突いており、本質的合理性を高めるのもだと僕は考えている。

白黒付けるだけが能ではない!

13日、フジテレビ・Mr.サンデーを楽しく視聴していた。その番組の中で、橋下徹氏ら4人が中心となって、日韓関係について討論を行うという企画が行われていた。その討論について、僕なりの意見・感想を述べたいと思う。

日韓関係の具体的な内容はここでは割愛するが、一つ気になったのは、パネリストたちが「韓国が悪い」「いや、日本が悪い」と必死で白黒を付けようとしていたことだ。僕は常々、白黒をはっきりさせることばかりが良いことだとは思っていない。時にはグレーゾーンをキープし、グレー状態を上手く運用することも必要だと思っている。特に政治家にはこのようなグレーゾーン運用能力が要求されるのではないか。玉虫色と言う言葉が政治ではよく使われる。どのようにも解釈できるという意味だ。このような玉虫の色のように解釈を上手く行うことは、時には非常に効果を発揮する。あるいは騒乱を避けるのにも必要であろう。そのような事は、今の日韓関係でも必要なのではないか。

現在の日韓関係は、白黒の押し付け合いだ。しかし白黒を付けることが最終目標ではないはずだ。お互いの国にとって最も利益になる落としどころを付けなければならない。そういう意味では、安倍首相が行った韓国に対するホワイト国除外の決定も、僕は一つの落としどころを作るための措置ではないかと見ている。この安倍首相の決定がなければ、永遠に白黒の付けあいになってしまう。韓国に対するホワイト国除外によって、事態は動き出したと僕は見ている。

Mr.サンデーの討論の中で、面白い発言があった。それは「隣国が仲良くする必要は必ずしもない」という意見だ。それは最もである。隣国だからこそ仲が悪い例も世界にはいくつもある。重要なのは、仲が悪くてもお互いの利益を最大化することではないだろうか。だから仲が悪いなら悪いで良い。要は大人の付き合いをすれば良いだけである。

白黒を断定せずに、グレーゾーンの中でお互いの利益を探っていく。今の日韓関係に最も必要な事ではないだろうか。そのためには、韓国にとって反日に固執することは賢い選択ではないし、日本政府と日本国民にとっても状況を冷静に判断することが必用だ。ただ、首相、大統領の影響力は非常に強い。そういう意味では、お互いの国のトップが賢明な政策を打ち出していくことは必要不可欠である。ぜひともグレーゾーンを上手く運用して落としどころを作って行って欲しいものである。

不謹慎か?

12日、大型台風が関東を直撃した。大都市東京を中心に広い範囲で被害が出ているようだ。昨今は防災意識が高まり、早い段階での避難もかなり徹底されるようになったが、それでも人的・物的被害は出てしまう。被害は防ぐことも大事だが、最小限に抑えるというのが近年の防災指針だ。

僕自身、災害時に何かをすることが不謹慎だとかいう発想は全くないし、逆に何かにつけて不謹慎だという風潮を作り上げることに対しては怒りさえも感じる。地震被害の被災者がバーベキューをして楽しむことはむしろ気分転換には必要であるし、被災地域に行き楽しんでお金を使うことは、被災地域への金銭的支援にもつながる。気分を暗くして謹慎することなど何のメリットもないばかりか、むしろ状況を悪くするだけだ。

しかし、現在のラグビー・スコットランド代表だけはいただけない。日本が台風被害に見舞われている最中に、試合が中止になることを非難し、法的に訴えるとまで言っている。スコットランド代表にとっては、日本人の被害などどうでもよいのかもしれない。とにかく自分たちの利益だけを確保したいようだ。繰り返すが、僕は謹慎しろとは全く言わない。スコットランド代表も謹慎する必要は全くない。しかし情況が情況である。少しは日本人の心境も考えてほしいものである。主催者側も試合が開催できるように全力を尽くしていると言っているのである。自然災害だけは人の力だけではどうにもならない。そこを少しは理解してほしいものである。

スコットランドは英国と言う由緒ある国家の一地域であるが、今回の騒動を見ていると何とも民度の低い人たちかと思ってしまう。僕自身、英国に対してはかなり良いイメージを持っている。しかし今回のスコットランド代表の対応を見ていると、それらの感情も崩れ落ちそうで何とも残念である。

ノーベル平和賞、アビー・アハメド氏とはどのような人物か?

2019年のノーベル平和賞に、エチオピアのアビー首相が受賞された。僕は恥ずかしながら、アビー氏の事は全く知らなかった。しかし僕自身、報道やニュースに関しては日々かなりチェックしているが、アビー氏の記事はこれまで見かけたことがない。もしかしたら僕が見落としていただけなのかもしれないが、日本の報道機関もこれまでアビー氏のような平和貢献者のことをほとんど取り上げなかったことに対しては責任があるのではないかと思う。

アビー氏は、約20年間続き沢山の犠牲者を出したエチオピアと隣国エリトリアとの国境紛争を、首相就任たった3か月で解決したという。このことは単に平和主義者という一言で片づけられることではなく、政治家としての手腕も限りなく高いことを示している。平和の遂行は、単なる平和主義だけでは実行できず、そこに実行力、政治力、そして人となりなどの総合力がなければ遂行できない。おそらくアビー氏はそれらの全てを備えていたのだろう。

平和主義者と平和貢献者は似て非なるものである。そしてアビー氏は平和貢献者なのである。

アビー首相は筋トレをこよなく愛する人らしい。そこでこのようなエピソードがあるらしい。

「去年10月、待遇に不満を募らせた兵士数百人が首相の執務室に押し寄せた際、アビー氏は兵士に腕立て伏せを命じて、みずからも一緒に取り組んだことで緊迫した空気を和らげたというエピソードもあります。」(NHK NEWS WEBから引用)

なんとも人間らしく、ユーモアと覚悟のある人物である。もちろん、単に筋トレをこよなく愛する人は沢山いる。しかしこのように、趣味をとっさに和平へと結び付けられる人はおそらく他にはいない。人間として非常に学ぶところの多い人物である。僕もこのようなアビー氏に一人の人間として学びたいが、そこまで実行できる自信は正直ない。

受賞前、おそらくアビー氏のことを知っていた人は少なかったと思うが、そのような人物が、しかも人間として尊敬に値する人物が、そして政治的手腕も絶大な人物が、このように人間としても首相としても多才な人物がノーベル平和賞を受賞することは、必ず世界の大きな財産になると思う。今年のノーベル賞は、確かに化学賞の吉野彰博士も偉大ではあるとは思うが、アビー氏はもしかしたらこれからの世界の平和を象徴する人物になるのではないかと思う。これからは、エチオピアの和平だけでなく、世界の和平にも大きく貢献して行って欲しいと強く願う。今回のノーベル賞はそれを後押しするものではないかと思い、今年のノーベル平和賞を選考した人たちに対しても喝采を送りたいと思う。

ノーベル賞を知ることは良い指針になる。

今年もノーベル賞の季節がやってきた。7日の生理学・医学賞では日本人の受賞はならなかったが、毎年どのような研究がノーベル賞に輝くのか、興味が注がれる。一般市民の興味としては、どうしても日本人が受賞するのかということばかりに注目が集まるが、「誰が?」と言うこと以上に、「何が?」と言うことに注目することが非常に重要だと思っている。

科学の分野は非常に広大なので、一般市民が科学の全貌を知ることは非常に難しいが(科学者だって全貌を知ることは難しい)、現在注目されている分野、そして重要な分野を知るのに、ノーベル賞の対象になった研究内容を知ることは非常に良い指針になる。ノーベル賞の受賞対象になった研究はどれも重要なものばかりだ。だからノーベル賞の受賞対象になった研究の概要を知れば、一応一つのポイントを押さえることになるだろう。毎年のノーベル賞の対象になった研究を知れば、その時の研究のトレンドを押さえることができるかもしれない。しかしノーベル賞の対象となるのは二昔くらい前の研究内容であることが多く、現在進行形の研究内容を知るにはどうしても無理がある。しかし二昔前の研究であっても、知らないより知る方がはるかにましだ。

2016年に生理学・医学賞を受賞した大隅良典博士の研究内容であるオートファジーという現象は当時僕は全く知らなかったが、最近生物学の教科書を読んでみるとオートファジーが基礎的現象として書かれている。大隅博士のノーベル賞受賞がなければ、そのような事も見逃していたかもしれない。

ノーベル賞受賞研究に対して「専門外だから」とか「自分には関係ない」とか言って興味を示さない人もいるかもしれない。しかし専門外だからこそ知る価値があるのである。専門の事なら、わざわざノーベル賞を待つまでもないわけであって、例えば僕ならば専門の物理学よりも、専門外の生理学・医学賞の方が興味を惹かれる。科学の事がよくわからないのならば、まずはノーベル賞の研究について調べてみて、そこから興味の範囲を広げていくのも非常に良いアプローチだと僕は考えている。

金と暴力。

現在、関西電力幹部と高浜市元助役との間での賄賂が問題になっている。そこには、権力を利用した金と暴力の構造が強く見られる。高浜市元助役がその地位を利用して、権力と私腹を肥やしていた構造、そして関電幹部がそれに応じて多額の金品を受け取っていた現実。それはまさしく金と暴力に汚染された社会そのものではないだろうか。

報道によると、関電幹部が高浜市元助役(故人)から多額の金銭、多量の貴金属(約三億二千万円相当)を受け取っていたという。これ自体も非常に大きな問題であることは間違いないが、さらに問題なのは元助役が金品を受け取った関電幹部に、このことを弱みとし恫喝していたということだ。そしてこのような恫喝は地元においても行われていたという。まさしく、金と暴力にまみれていたとしか言えない。

このような元助役の行為は、明らかに反社会的行為である。地元社会・地元市民に対する反社行為、そしてそれらに対する暴力である。そしてこれらの賄賂に関係する金品は一般市民の税金から充てられたと思われ、社会の経済的損失でもある。従ってあらゆる意味で悪質であり、悪質をさらに悪質で重ねていると言える。

この事件の主人公である元助役はすでに死んでいる。従ってもう本人に対して罪を償わすことはできないが、これは死に得と言えるのか?元助役本人は死に得かもしれないが、その付けは全て残された人が払うことになる。そういう意味ではこの元助役の行為は、さらに三重以上に悪質だと言える。日頃、金銭に関する犯罪はニュースで頻繁に見かけるものであるが、この事件に関しては金銭的にも、さらにはそれらに関する恫喝・暴力も重なり、悪質さのレベルはその比ではない。これらの類の逃げ得、死に得は決して許されるのもではなく、厳正に対処されることを強く望む。

独創とは、先端よりも意外と根っこにあるものだ。

どの分野でも独創性は大事であるし、大きな変革は独創から生まれる。では、独創はどこから生まれるのか?もちろん、最先端の物事から生まれることもあるだろうが、僕はむしろ根っこから生まれると感じている。最先端の物事においては、どうしても継ぎ足しを繰り返すということが多くなる。もちろん継ぎ足しにより発展はしていくが、大きな変革は見込めないのではと思う。それに対して、根っこと言うものはある意味基盤であり核心である。そのような核心を極めながら、ある時核心を覆す。それでもさらに核心的な事は維持されるかもしれないが、そのような変えるべき核心を変革し、維持すべき核心を守り抜く。そのような事によって独創的な革命は起こるのだと感じている。

日本は独創性に欠けると言われることが多い。いや、日本でも世界に誇る独創は存在する。近年はノーベル賞受賞者も多数出てきているし、文化的な事柄に対しても独創は多く存在する。しかし、近年のノーベル賞の対象となった研究内容の多くは二昔前の結果であるし、今世界で注目を浴びている日本文化も古くからあるものだ。では、現在進行形の独創は存在するのか?と考えた時、僕はアニメを思い出した。現代日本アニメは世界に誇る大きな独創である。アニメの映像を見ると、日本のアニメはアメリカなどの海外のアニメとは何段もレベルが違う。それは素人目にも明らかである。しかし、日本のアニメの世界において独創を求めようとはあまり聞かない。もし手軽い独創を求めていたら、確実に現代の日本のアニメは存在していないだろう。

では、他分野ではどうだろうか?例えばビジネスにおいて、さらにはITにおいて、日本の状況を見ていると、至る所で独創性が重要だと言われている。しかしアニメとは反して、ビジネス・ITで独創はあまり存在しないように思える。その原因は、手軽い独創を求めようとしているからではないだろうか。具体的には先端を継ぎ足していくこと。それを独創と勘違いしている。さらに言えば、そのような事が最先端であるかどうかも怪しい。最先端を求める方向性で行くならば、徹底的に最先端を極めなければならない。しかし今の日本の状況を見ると、それができているとは言えない。

なぜ、現在の日本は独創も出せずに、さらに最先端も出せないのか?(もちろん、全てがそうであるわけではないが。)それはあまりにも周りを見過ぎているからではないだろうか。何をするにも周りの状況を見て判断する、そのような姿勢が染みついている。他の人が最先端の結果を出してからそれを追おうとする。それは明らかに二番煎じでしかない。しかしそれが今の日本の現状である。

しかし、日本の中にも大きな独創性を持った人は確実にいる。心配なのは、そのような大きな独創性を持った人が、日本で潰されないかどうかだ。そう考えると、潰されないうちに日本を出た方が良い。そうなればやはり日本から一つの独創が消えることになる。しかし大きな独創人は、まずは大きな結果を一つ出して世界に打って出るのが賢明かもしれない。

これからの自動車。

現在、自動車は大きな変革を遂げている。電動自動車から燃料電池車、そしてその名の通り“自動”車、つまり自動運転車まで、話題は尽きない。自動車を評価するとき、評価基準は様々なので一概にどの車が良いとは言えない。昔なら最高時速や馬力などの評価が中心だったが、現在ではどれだけエコかという基準が大きなウェイトを占めている。

そのように変わりゆく判断基準の中で普遍的な基準と言えば、どれだけカッコいいか?ということだろう。特に男性ならカッコ良さにこだわる人は少なくない。女性においても、お洒落かどうかは気になるところだろう。カッコ良さと言えば外見を想像するかもしれないが、一部の高級車においては排気音などにこだわる人も少なくない。特に街中で大きな音を出して排気音をふかしている車もよく見かける。

しかし僕は思うのだが、十年後に大きな排気音をふかして目立とうとする人などいるのだろうか?いや、おそらく十年後もいるだろう。しかし問題は、それがカッコいいかどうかだ。今は大きな排気音をふかしているフェラーリがカッコいいと思われている。しかし十年後にはとてつもなくダサい行為だと思われているに違いない。何しろ電動自動車の時代である。もしかしたら、水素などの燃料電池車も普及しているかもしれない。どう考えても、静かな車であることがステータスだ。フェラーリからも静かな電動車が発売されているかもしれない。(今でもハイブリッド車のフェラーリが存在する。)

個人的には燃料電池車が普及してほしいと強く願っている。現在では燃料電池車はトヨタの独壇場だ。しかし少し前、トヨタが燃料電池車の技術を他社に向けて公開した。それがきっかけかどうかは分からないが、先日BMWが燃料電池車の試作車を公開したというニュースがあった。電動電池車の元となる電気のほとんどは、元をたどれば発電所で使用される化石燃料であり、原子力だ。どう考えても水素を燃料とする燃料電池車の方がエコである。しかし、その水素を製造するのにも電気が必用である。そうなれば、どちらがエコ的に効率的かということである。

とは言え、電動自動車よりも効率的かつエコ的なガソリン車という選択肢も残されている。今、マツダがそのような道を突き進んでいるようだ。これは従来の延長線上にあるように思えるが、現在のトレンドから言えばむしろ独創的である。こうなれば、後は市民がどれを選ぶかということにかかっている。そこで的確な判断をするために、我々市民も様々な技術的知識を習得することが求められる。とは言え、時代に逆行するようなバカな判断も僕は個人的には嫌いではない。

「権力」対「知識」。

世の中には、自分の意見を通そうとするために権力を手に入れようとする人が多い。確かに権力を手に入れれば、自分の思うようになるように思える。しかし、自分の意見を通そうとするためには、もう一つの方法がある。それは「知識」による攻勢だ。これは簡単に言えば、銃で攻撃するか?ペンで攻撃するか?ということである。そして僕は迷わず、ペンを武器にすることを選ぶ。

僕には愛用している一本の万年筆がある。そのペンは僕が大学院に進むときに友人が贈ってくれたペンだ。だからかなりの年月になる。その一本のペンで数学や物理の研究を行い、インクのカートリッジはもう百本以上交換したのではないだろうか。その万年筆はもう僕の手足である。

ペンで理論を重ねれば、その力は国家権力よりも大きなものになると僕は考えている。とは言え、僕は権力を手に入れるために理論を重ねているのではない。ただ真理を見極めたいがためにペンで理論を重ねているのだ。しかしこの先、何らかの権力と対峙することもあるかもしれない。そのような時は迷わずペンを武器にしたい。

銃の威力は誰でも分かる。しかしペンの威力は、ペンを使い倒した人にしかわからない。だからこそ、ペンの威力を認識した人が一人でも必要なのである。この前の内閣改造で、河野太郎氏が外務大臣から防衛大臣へと横滑りした。今、日韓関係は、どうやら銃の威力の方へ傾いているように感じて仕方がない。しかしペンの威力、すなわち正常な外交の力を最大限に利用しなければならない。もちろんこのためには、日本だけでなく相手側にも良識が求められる。これから河野太郎氏が相手側の良識を引き出せるか?河野氏の手腕にかかっている。

東電を廃炉に特化した企業にすればどうか?

電力会社とは、一言で言えば電気を売って儲ける会社だ。しかし現在の東京電力の置かれた立場は複雑だ。今東電が抱えている最も大きな課題は、誰が見ても福島第一原発問題であろう。もちろん福島第一原発は廃炉にするしかないが、この原子炉の廃炉は非常に困難な作業だ。原発を作ることは今ではそんなに難しい作業ではないかもしれないが、原発を廃炉にする作業は技術的にもまだ確立されているとは言えない。さらに、震災で被害を被った福島第一原発の廃炉作業は、その何十倍もの困難が伴う。そもそも廃炉が上手くいくかどうかもわからない状況だ。

そこでだ。この東電が抱えている一番の問題である廃炉作業を、東電のメイン事業にするのはどうかと僕は思っている。東電が置かれている立場の一番の困難は、福島問題を解決しながら発電事業を行わなければならないということではないだろうか。そのような事に対して、「発電事業=ビジネス(利益)」、「廃炉作業=負債(損失)」と捉えられているかもしれないが、その廃炉作業をビジネスにしてしまうのはどうかと僕は考えている。廃炉には非常に高度な技術が必用であり、世界的にもこのような廃炉をビジネスとして行っている企業は僕は知らない。もしかしたら僕が知らないだけで、廃炉をビジネスにしている企業は海外にあるのかもしれないが、今廃炉を待っている原発は世界にたくさんあるはずだ。

今東電は、否が応でも廃炉を実行しなければならない。もし東電が廃炉技術を確立させビジネスにできると、この先数十年は非常に大きな利益を得られるのではないだろうか。そしてそこで得た利益を、福島の被災者の賠償にも回すことができる。それは東電に対しても、福島市民に対しても、そして原発のある世界各国に対しても、全ての利益になるのではないだろうか。廃炉というものをネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉えていくという思考的変換が必要である。

現在、小泉進次郎氏が環境大臣になり、原発問題に大きく取り組もうとしている。父の小泉純一郎元首相は、原発ゼロを声高に発信している。進次郎氏が父の意志を継ぎ、原発ゼロを遂行するためにも、東電の廃炉ビジネス化は大きな力になるのではないだろうか。そして廃炉を負債と捉えるのではなくビジネスと捉えることは、東電社員の意欲を大きく向上させるのではないだろうか。これからは原発建設の時代ではなく、廃炉の時代だ。東電が廃炉のビジネス化に成功すれば、巨大なビジネスになるはずだ。そしてそれは回り巡って、福島の被災者のためにも大きな力になるはずだ。