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イチロー選手、お疲れ様。イチローが発した気になった言葉。

21日、メジャーリーグ・マリナーズのイチロー選手が引退を発表した。本当にお疲れ様です。イチローのような超有名選手の事をここでいろいろ言ってもあらゆるメディアの繰り返しになるのでいちいち言わないが、イチローが引退会見で発した一つの言葉が非常に気になったので、ここではその言葉について考えようと思う。

僕が気になった言葉、それは「今の野球は頭を使わなくなってきている」というものだ。どういう意味で頭を使わなくなってきていると言ったのかは定かではないが、僕はあらゆる意味でこの言葉が気になっている。野球においてどう頭を使わなくなっているか?あくまで僕の推測だが、それは、ビッグデータを高性能コンピューターで解析することが容易になり、選手はこれまで頭を使って駆け引きをしていたのが、コンピューター解析の結果にそのまま従うだけになってしまったというものではないかと考えている。20年ほど前に、ヤクルトの野村監督、古田敦也捕手に代表されるID野球というものが注目され、それが頭を使う野球の代表のように言われていた。当時のID野球では、データを収取し、それらのデータを分析するということを全て頭を使って行わなければならなかった。しかし現在はそれらは全てコンピューターあるいは球団のデータ解析スタッフがやってくれる。選手自身は頭を使う余地がないのだ。イチローが駆け出しの頃は、まだまだ頭を使う部分が多分にあったと思う。しかしここ数年はそのように頭を使う作業がなくなっていたのかもしれない。

イチローは野球において頭を使わなくなったと言ったのだろうが、僕はこのことが現代社会全般に言えるのではないかと強く感じる。その理由は野球におけるものと大筋一致する。特にここ数年はAIが急激な発達を遂げ、これまで人間が考えていたことがAIに取って代わられることが多くなった。特に日常生活における行動をAIに基づいて行うことは、人間としての存在理由の根本にかかわることではないかと危惧している。コンピューターの発達によって世の中は非常に便利になってきている。しかし「便利」ということは「頭を使わなくても良い」ということに置き換えられるのではないだろうか。現代社会はますます頭を使わなくても良い「無脳社会」になってきているように思える。

人間は頭を使うことによって大きな進化を遂げた。そして現代はコンピューターが大きな進歩を遂げている。しかしそのコンピューターの進化に反比例して人間の頭脳は退化して行くようにも思える。もちろん、頭を使わなくても生きて行ける社会になることに賛同する人も多くいるだろう。しかしそこに人間の存在価値を考えるとそう簡単に喜べないように思える。そこに一つの言葉を投げかけたのが今回のイチローであったのではないだろうか?

グレーに行くリスクが取れない?

多くの人は何かと白黒を付けたがる。しかし実際はグレーな事も多々ある。それがむしろ自然な事だと思うのだが、グレーは悪い事だと捉えられる風潮を強く感じる。しかし僕自身はグレーは決して悪い事ではなく、むしろグレーゾーンに飛び込んで行くことも大事ではないかと強く思っている。

これらのことはビジネスにおいて顕著に見られる。ビジネスにおいてグレーとは良い悪いということではなく、合法か?違法か?ということである。しかし実際は合法か?違法か?ということは簡単に判断できないことも多い。危険性を過度に恐れてグレーゾーンに飛び込めない人や企業を多く見かける。完全な白になることが確定しないと飛び込んでいけないのだ。しかし欧米企業はグレーの使い方が上手い。グレーには確かにリスクがある。しかし大事なのはそれらのリスクを上回るメリットがあるかどうかだ。小さなデメリットを取って大きなメリットを取るということが大事だ。しかし日本では、デメリットを取らずメリットも取れないという身動きが取れない状態でいることが多い。

人間も同じだ。完全に真っ白な人に魅力はあるか?完全に真っ白ということは何もしていないということだ。何かの行動を起こすたびに汚れて行くことはごく自然な事だ。時には人のためにグレーゾーンに飛び込んで行くこともあるだろう。自分の保身の事ばかり考えて常に真っ白な安全地帯にいる人は、はっきり言って心は真っ黒だと言える。社会的に白黒グレーであるということと、心が白いか黒いかということは全く別である。

大事なのは、自分を守り過ぎないということだ。自分を守る事ばかり考えると、クレジットカードでいうところのスーパーホワイトになってしまう。社会というグレーな世界をいかに対処して生きて行くか?もちろん社会的にはグレーでもなんでもいいが、心は出来るだけ白くありたいものである。

Aさんの美容整形。

最近タレントのAさんの美容整形が話題になっている。美容整形に対しては賛否両論分かれるが、日本においてはネガティブな意見が多いように感じる。特に「親からもらった容姿を捨てるなんて」という意見もあるが、勉強を努力して道を開くのと同じで、美容整形をして未来を変えるのもかなりアリだと僕は思う。

僕自身は美容整形に対して特に肯定も否定もしないが、今回のAさんの美容整形に関しては肯定的に捉えている。Aさんの整形は金銭的にも数百万円かかっているとも言われ、施術もかなり大規模なものだ。大規模であるが故に、リスクも高いと言われている。今回の施術をするに当たっては相当な覚悟をしたはずだ。そして色々な意味で自分の未来を変えるという強い思いもあったはずだ。

確かに未来を変えたければ色々な手段がある。勉強を頑張るとか仕事を頑張るとか、できる事は身の回りにいろいろある。しかしそのような選択肢のうちの一つとして美容整形というものもあってもよいのではと思う。今回の美容整形の金額は巨額であり、その資金を稼ぐのも大変だ。その資金を稼ぐためにも努力をしているはずだ。Aさんは色々ある選択肢の中から美容整形という選択をしたというだけの話である。

未来を変えるため、自分を変えるためにはいろいろな手段がある。人間の内面は大切だが、外見も自分という人間の一側面である。そして美容整形して変えた外見も立派な自分自身だと思う。何もしないで現状維持する人より、ある意味行動的で立派だと思う。もし自分の現状を変えたければ、何か行動を起こさなければ始まらない。もちろん美容整形をする必要はなく、勉強でもスポーツでも何でもいい。考えたら即動いて、自分という人間をより高いレベルに上げられるように試行錯誤してみよう。

資本と頭脳。

現代社会では資本と頭脳は蜜月関係にある。資本のあるところに頭脳は集まり、そして頭脳は資本を得る。

現在、自動車業界では自動運転の覇権を巡って熾烈な争いが起きているが、その中でも特徴的なのが自動車メーカーとIT企業との連携だ。これにはもちろん自動運転にはITが欠かせないという側面があるが、それとは別に資本と頭脳を求めあっているとも言える。技術と資本を持っている大手自動車メーカーが、資本と頭脳を持っているIT企業を求めているという形だ。

では、現在どのくらい資本と頭脳が結びついているか?もちろんこのような抽象的な話に正確に答えを出すことはできないが、僕の独断と偏見ではおそらく頭脳の97%は巨大資本と結びついていると思われる。しかしこれは逆に言うと、3%はまだ資本に見出されていない、あるいはこの3%の頭脳は資本を必要としていないと言える。資本から隠れている3%の頭脳は、社会的に影響を与えることは少ないかもしれない。しかし人類文明に与える影響はある意味巨大である。

最高の頭脳に資本は必ずしも必要ではないとは言え、資本がこれらの頭脳を全く無視していることは大きな問題である。実際は無視というより見出す力がないと言えるが、その原因は前例至上主義と偏見であろう。しかし最高の頭脳は、前例にとらわれない大きさがあると言える。前例に収まる頭脳などは巨大な頭脳とは言えない。これらの隠れた3%の頭脳を見出すだけで、世の中の資本は3倍大きくなるし、人類文明のレベルは10倍高まるのではと僕は考えている。

投資は人から言われてやるものではない。

投資に対しては色々な解釈があるが、どのような投資においても投資は人から言われてやるものではなく、自分が能動的に動いてやるものである。そしてどのような投資でも、リスクは必ず存在する。リスクがない投資などあり得ない。しかしリスクは他人が背負ってくれるものではなく、自分が全て背負うものである。だから責任は全て自分にある。自分が背負うリスクに対して、人の言うことに従って行うことは明らかにおかしい。

例えばお金を持っていれば銀行などから投資の話が来るかもしれない。老後のために投資をすべきだという話が舞い込んでくることはよくある話だ。しかし「老後のため」という言葉の裏には「必ず儲かる」というニュアンスで話していると思われる。少なくともそのような話に乗る人はそう思って投資をするのであろう。しかしそこでリスクの事は考えているか?おそらくほとんど考えてはいない。しかしもし投資して損をしても、銀行は「リスクがないとは一言も言っていない」と言うはずだ。リスクの話はしていないから、リスクがないとも言っていない。これは確かに間違ってはいない。全ては自己責任である。自己責任において投資するからこそ、リスクの話もしないような銀行員の話に乗るのではなく、自分で徹底的に調べて、リスクを承知の上で自ら証券会社に赴かなければならない。

金融の投資の話は非常に分かりやすいが(簡単に儲かるという話ではない)、人生における投資はさらに重要である。もちろん金銭的な面ではお金の投資より少額かもしれないが、人生の投資はお金と時間、そして自分の頭脳を著しく消費する。もちろん人生における投資も全て自己責任である。上手く行かなくて他人のせいにするなどということはあってはならない。金銭的にもお金の投資より少額ではあるかもしれないが、人生における投資はお金の投資以上にセンスが問われる。良質な知識を入手するためには新聞や書籍などに投資することは必要であるし、人間関係を築くのにも交際費が必要である。実はこれらの投資は本気で取り組むとかなりの金額になる。専門書は一冊一万円以上するものも少なくないので、百冊買えばそれで百万円である。しかしお金は富豪でない限り有限であると考えなければならない。この限られた金銭的資源をどのように分配するかということは吟味して考えなければならない。さらに時間に関してはどんな大富豪であっても平等に有限であるので、その分配はさらに熟考することが求められる。

近年はネットの発達などにより簡単に情報が手に入るようになったせいか、全てを外部に頼ろうとする風潮が強くなってきているように感じる。しかし本当に重要なのは、外部の情報ではなく「内部の思考」である。そしてその内部の思考によって行動を決断して行かなければならない。投資という行動決定においても、やはり能動的に自己決定し自己責任を負うということが一番重要になる。

どこまで「資本の論理」を受け入れるべきなのか?

現代社会のスタンダードシステムは間違いなく「資本主義」である。あるいは「民主主義」だと言える。20世紀には中国・ロシアを中心とする「共産主義」や「社会主義」といったシステムがあったが(もちろん現在もある)、誰が見ても成功したとは言えない。現在では中国までもが積極的に資本の論理を取り入れている。資本主義というものは一見成功したように見えるが、はたしてそれは本当に正しいのであろうか?

資本主義や民主主義は「正しい」とか「正義だ」とよく言われるが、資本主義であっても問題は山積している。貧富の格差の拡大や環境汚染、未来の事を考えない「現在至上主義」などが挙げられるが、これらの問題を解決するためには資本主義や民主主義というものを見返すことが必要だ。自由市場主義によって利益は最大化されると言われるが、総数が増えてもそれが一部に偏っていれば理想から離れている。民主主義は全ての民衆の意見を反映できると言われているが、結局多数意見だけがまかり通ってしまう。もちろん、社会主義、共産主義と比べればはるかにマシなシステムである。しかしだからと言ってこれからも従来のシステムのままで良いかと言われれば決してそうではないはずだ。

拝金主義でなくても、「お金はいくらあっても困ることはない」という考えを持つ人は多い。だから際限なくお金を求めてしまう。儲かる所に資本を集中させ、利益を上げる事を第一目標に掲げて行動を起こす。このような資本の論理に問題はないのか?と言われれば、現在あらゆるところで問題が露呈していると言える。まずは環境問題。経済最優先の行動や政策を実行するが故に、そこから発生する環境汚染には無頓着になってしまう。環境問題が重要な問題だと思いながらも、自分たちの利益を優先するが故に行動を起こせない。原発問題はその最たるものであろう。事故が起きてもまだ経済効率化の夢を見ている。資本主義と民主主義の行きついたところがそれである。

民主主義の理想は確かに悪くない。そして資本主義に関しても良いところはたくさんある。しかし今はそれを大幅に補正すべきではないだろうか?確かに民主主義、資本主義に代わる理念は簡単には出てこないかもしれない。だが今はそれらをバージョンアップすべきだ。現在のシステムのままだと、明らかに地球が持たない。自然が持たない。そして人間が持たない。ではどうすれば補正の指針を見つけられるのか?それは、人間が便利さばかりを追求することを自制することだ。いったん便利さを味わった人間は後には戻れない。そして人間はエンドレスに便利さを求めている。例えそれが破滅へと向かう道であっても。

今人間が見ている未来予想図は、どれを見ても限りなく便利な社会である。それに理想を持っている人も多いかもしれない。しかしそれが虹色の社会だと言えるのか?そのような社会で人間が人間らしく生きることが出来るのか?僕はどうしてもそうは思えない。そして現在に生きる人間が未来に生きる人間に対して負債を重ね続けるようなことはあってはならないことだ。現在至上主義から未来志向主義へと変革する必要があるのではないだろうか?

完全バランスな社会などあり得ないのか?

社会は刻々と変化している。しかしその変化が進化か?と問われれば必ずしもそうとは思わない。確かに科学技術は確実に進化している。しかし人間自体は数年数十年で進化するわけではなく、モラルが良くなっている訳でもない。もちろん、より良い社会を目指して変化して行くことは必要だ。しかしそれが進化ではなく単なる変化、あるいは時には改悪だと思えることは非常に多い。

ではなぜ進化させようと思っていることが結果的に改悪になっているのか?それは視野の狭さに原因がある。ある事を改良しようとすると、そのことしか見えていないのだ。本来は物事というものはあらゆることが有機的につながって相互作用を起こしている。なので一点だけを見て変えようと思えば他の所で改悪的な影響が出るのは避けられない。生きやすい社会にしようと思って変えたことが、結果的に息苦しい社会を作ることになる。

現在、社会は非常にストレスを抱えていると僕は強く感じる。ネットやスマホにより生活は便利になり、交通は発達し、バリアフリーはいたるところで実践されている。しかし社会のあらゆるところで聞こえるのは、ストレスフルな現状に対する不満だ。ネットやスマホにより確かに便利になっている。しかしその一方、ネットやスマホに対してストレスを感じてはいないだろうか?もちろんそのような事は人それぞれ様々だが、便利さが新たなストレスの種になることはよくある。社会システムや法律を変えたことによって息苦しくなることがよくある。そのようなストレスを感じないためにもある程度の鈍感力は必要だとは思うが、何に関しても鈍感になり切ることなど簡単にできない。

生きやすい社会に変えようと思えば、広い視野であらゆるつながりを考慮しなければならない。一点だけを見て変えることほど危険な事はない。社会はバランスが重要なのである。しかし人間自体完璧でも何でもないので、完全バランスな社会などあり得ない。なのでどうしても生きづらい所やストレスを感じるところは随所に出て来る。そのような社会に中でいかに自分の人間性を発揮するか?そしていかにして広域的に良い社会を作っていくか?簡単な事ではないが、そのような事を思考しながら時代を前に進めて行かなければならない。

四大陸選手権優勝!紀平梨花選手の体力と精神力に学ぶ。

2月8日(日本時間9日)に行われたフィギュアスケート・四大陸選手権で、紀平梨花選手が優勝した。ショートでは5位と出遅れたが、フリーで圧倒的な差をつけての勝利だ。僕は紀平選手のフリースケーティングのプログラム「Beautiful Storm」が大好きだ。曲も衣装も、もちろん紀平選手の演技も全てが美しく哲学的だ。なぜこのような素晴らしい演技が出来るのか?本人に聞くまでもなく、体力と精神力の全てが極められているからだろう。僕は全てのプロスポーツ選手をリスペクトしている。プロスポーツとは「極限への挑戦」だ。極限を極められない選手はプロの世界から去らねばならない。体力と精神力を極限状態に保ち続けられる者のみがプロの世界で生き延びられる。このようなプロスポーツ選手から我々が学び取ることが出来ることはたくさんある。

紀平選手から学び取れることの一つ目は、挽回力だ。今シーズンのほとんどの試合で、紀平選手はショートプログラムでミスをし出遅れている。しかしほぼすべての試合でそれを圧倒的なフリースケーティングで逆転している。ショートでミスをして出遅れればそれを引きずりそうな気もするが、紀平選手はショートのミスを逆に修正のチャンスと捉え、それを基にフリーでは最高以上の演技をしている。紀平選手にとってミスはネガティブな事ではなく、次へのステップの足場としてポジティブに捉えている。これは全ての人が学ぶべきことだ。失敗は決してネガティブな事ではない。むしろチャンスなのである。

二つ目は、安定力とトータルでの力だ。これまでショートでミスをしがちだとは言え、ショート、フリーでの合計ではほぼすべて勝利している。この安定感は圧倒的である。人間は誰しも調子の良い時と悪い時がある。しかしその好不調の波をいかに高いレベルで安定させるかということが非常に重要である。高いレベルでの安定感こそが紀平選手の実力だと言える。

三つ目は、圧倒的に高い精神力だ。今回、紀平選手は試合前に怪我をした。指の脱臼だそうだ。そのようなアクシデントの中でも紀平選手は圧倒的な力を発揮することが出来た。もちろん直接的な影響が少ない指のけがとは言え、精神的な影響は非常に大きいと思われる。普通ならけがをきっかけに負のスパイラルに陥るところだろうが、紀平選手からはそのような事は微塵も感じられなかった。おそらく精神面を完全にコントロールすることが出来ているのだろう。この様に、自分の精神を完全に自分の支配下に置けるかということは、最高のパフォーマンスを発揮するうえで非常に重要である。

紀平選手からは学び取れることが山ほどある。スポーツは科学技術などのように直接的に人間の生活に影響を与えるという訳ではないが、人間の心には多大な影響を与えることが出来る。それらの影響から人間の生き方が変わることもある。プロスポーツ選手の演技・プレーから何かを感じ取って、それを自分の生き方の向上につなげることが出来れば、自分を人間的に高い所へと持ち上げることが出来るであろう。

大本営(公式)情報と非公式情報とをどう解釈するか?

政府や官庁から発表される公式発表や企業などが発表する公式情報、つまり大本営情報と非公式情報をどう解釈し向き合うか?これは意外と難しい微妙な問題である。大本営情報だけに言及して行けば、全ての責任から逃れられるだろう。もし大本営情報が間違っていれば責任は発表した組織側にあり、受け取った方は騙された被害者となるからである。しかし大本営情報だけしか見なければ、全ての市民は思うように操られることになる。すなわち非公式の情報を入手することは生きて行く上で必要不可欠である。

しかし非公式情報の中にはどこの骨ともわからないものもたくさんある。信頼できる筋の情報もあれば、全く信用できない筋の情報もある。特にネット社会となった現在では、誰もが情報発信者になることが出来、情報の質というものを考えた時、非常に怪しい情報の方がはるかに多いことになる。そのような現在においては、やはり新聞などのメディアの質は相対的高くなり、信頼できる情報源として必要不可欠である。

もちろんフェイクニュースなどは論外であるが、フェイクニュースが世の中を動かすことがある現実を考えれば、情報の質に対する世の中の意識はかなり低いと言わざるを得ない。多くの情報を入手するという以前に、情報の質というものに目を光らせなければならない。とは言うものの、もちろん100%真偽を見抜くということは当事者でない限り不可能だ。しかし90%見抜くことは意識の持ちようで十分に可能である。

ではそのような意識を持ち真偽を見抜くためにはどうすればいいか?そのためにはやはり一次情報を確認するしかない。事実を確認する、あるいはサイエンスにおいては原論文に当たるということである。そのためには一次情報である大本営発表を確認することは不可欠であるが、時には大本営発表が偽物であることもある。それを見抜くためには社会全体の流れや概観、そして整合性を掴む必要がある。すなわち全体的な骨格と細部の両方を掴まなければならない。そのためにはただ情報をインプットするだけではなく、自分からアウトプットして行くことが必要だ。なぜならアウトプットするためには物事の概観と整合性を掴むことが必要不可欠だからである。

社会や物事の本質を掴むためにも、大本営発表と非公式発表の真偽を大局的な観点から判断し、知識を構成して行くことが必要である。

全豪優勝、大坂なおみに究極の姿を見た!

大坂なおみがテニス・全豪オープンで優勝した。そして何より嬉しいのが世界ランク1位が確定したことだ。これまでは日本人トップ選手がいかにランク1位選手に勝つかということに注目されていたが、今はランク1位になってしまった。本当に空いた口がふさがらない。それと同時に日本人選手が一分野で世界トップに立ったことに同じ日本人として誇りに思う。

大坂なおみ選手は世界1位になったが、それは人間の目指す究極であり、また何かに打ち込んでいる人ならだれもが目指すべきところだと思う。しかし多くの人は「そんなのは絶対に無理に決まっている」と言って挑戦すらしない。もちろんそのような人にとっては、実力云々という以前の問題として可能性はゼロである。しかし頂点を目指している人には、0.1%、あるいは0.01%の可能性を秘めている。そしてその可能性を5%、10%と高めて行くのである。「そんなのは無理に決まっている」と言う人にバカにされる筋合いはない。頂点を目指している人は胸を張って目指せばよいのである。

もちろん、全ての人が頂点に立てるわけではない。頂点に立てるのは70億分の一なのである。しかしそれを目指す価値は大きい。しかしそれには大きなリスクも存在する。挑戦するにはそれだけの覚悟を持たなければならない。リスクを取れない人はまずそのスタートラインに立てない。成功すればその対価は非常に大きいが、失敗した時の代償も非常に大きい。そのような事に耐えられる覚悟が必要なのである。

僕は最近、人間とは若返ることが出来るということを実感している。もちろん肉体的には老化して行くのが自然の摂理であり、それは避けられない。しかし精神の老化は避けられるどころか逆に若返ることもできる。ではどうすれば精神を若返らせることが出来るのか?それは挑戦し続けることである。挑戦を止めた時点から精神は老化して行く。見かけは若くても中身は老人のような人間もいる。逆に肉体は老いても青年のような精神の持ち主もいる。外見のアンチエイジングに力を注ぐこと以上に、挑戦し続け精神の若返りに力を注ぐべきである。世界の頂点に挑戦し、世界の頂点に立った大坂なおみの精神は、究極的に若いに違いない!