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合理的判断は、本当に合理的なのだろうか?

世の中の人は、合理的判断を求めている。しかしそのような合理的判断は、本当に合理的結果をもたらしているのだろうか?

人物を合理的に判断する基準として、IQや学歴が用いられることが多い。しかしそのような判断は本当に合理的なのであろうか?確かに学歴は90%の人を合理的に判断できるであろう。しかし問題は残りの10%の人達である。学歴で評価した90%の人達の中には、秀才が多く含まれているかもしれない。しかし異才や奇才は残りの10%の中にいる可能性が高い。通常の物差しで測れない才能だからこそ、異才や奇才だと言われるのである。

アインシュタインが秀才だと言う人はいない。ほとんどの人は天才だと言うが、アインシュタインはある意味奇才である。よく世間では、アインシュタインのIQがいくら(かなり高い)だとか言って天才だと言うが、そのような話(数値)は後の人が勝手に決めたことである。もしアインシュタインがIQ的天才ならば、アインシュタインは普通の人でしかなかったということになる。IQ的天才とは所詮、IQで測れる程度の才能でしかないということである。

合理的判断には、そこから外れる10%(いや、1%か?)の人が必ず存在する。もしかしたら、90%の人を正しく評価できているのだから合理的ではないかと思うかもしれないが、実はそこから10%の人を除外していることが社会的にも大きな損失であり、究極的に非効率なのである。判断に必要な事は「多様的評価」なのである。一つの判断基準に固執すると才能が偏ってしまうし、本当に威力を発揮する人を見逃してしまう。もちろん、学歴などは一つの物差しとして使うのは悪くないかもしれない。しかし物差しは何種類も使うべきである。僕はこれまで‘‘通常’’の物差しから外れてきた才能ある人を何人か見てきた。おそらく皆の周りにもそのような人はいるはずだ。もしいないと言うのならば、通常の物差しに固執するあまり気づいていないだけである可能性が高い。昨今の「多様性」と言う潮流は物事の本質を突いており、本質的合理性を高めるのもだと僕は考えている。

白黒付けるだけが能ではない!

13日、フジテレビ・Mr.サンデーを楽しく視聴していた。その番組の中で、橋下徹氏ら4人が中心となって、日韓関係について討論を行うという企画が行われていた。その討論について、僕なりの意見・感想を述べたいと思う。

日韓関係の具体的な内容はここでは割愛するが、一つ気になったのは、パネリストたちが「韓国が悪い」「いや、日本が悪い」と必死で白黒を付けようとしていたことだ。僕は常々、白黒をはっきりさせることばかりが良いことだとは思っていない。時にはグレーゾーンをキープし、グレー状態を上手く運用することも必要だと思っている。特に政治家にはこのようなグレーゾーン運用能力が要求されるのではないか。玉虫色と言う言葉が政治ではよく使われる。どのようにも解釈できるという意味だ。このような玉虫の色のように解釈を上手く行うことは、時には非常に効果を発揮する。あるいは騒乱を避けるのにも必要であろう。そのような事は、今の日韓関係でも必要なのではないか。

現在の日韓関係は、白黒の押し付け合いだ。しかし白黒を付けることが最終目標ではないはずだ。お互いの国にとって最も利益になる落としどころを付けなければならない。そういう意味では、安倍首相が行った韓国に対するホワイト国除外の決定も、僕は一つの落としどころを作るための措置ではないかと見ている。この安倍首相の決定がなければ、永遠に白黒の付けあいになってしまう。韓国に対するホワイト国除外によって、事態は動き出したと僕は見ている。

Mr.サンデーの討論の中で、面白い発言があった。それは「隣国が仲良くする必要は必ずしもない」という意見だ。それは最もである。隣国だからこそ仲が悪い例も世界にはいくつもある。重要なのは、仲が悪くてもお互いの利益を最大化することではないだろうか。だから仲が悪いなら悪いで良い。要は大人の付き合いをすれば良いだけである。

白黒を断定せずに、グレーゾーンの中でお互いの利益を探っていく。今の日韓関係に最も必要な事ではないだろうか。そのためには、韓国にとって反日に固執することは賢い選択ではないし、日本政府と日本国民にとっても状況を冷静に判断することが必用だ。ただ、首相、大統領の影響力は非常に強い。そういう意味では、お互いの国のトップが賢明な政策を打ち出していくことは必要不可欠である。ぜひともグレーゾーンを上手く運用して落としどころを作って行って欲しいものである。

不謹慎か?

12日、大型台風が関東を直撃した。大都市東京を中心に広い範囲で被害が出ているようだ。昨今は防災意識が高まり、早い段階での避難もかなり徹底されるようになったが、それでも人的・物的被害は出てしまう。被害は防ぐことも大事だが、最小限に抑えるというのが近年の防災指針だ。

僕自身、災害時に何かをすることが不謹慎だとかいう発想は全くないし、逆に何かにつけて不謹慎だという風潮を作り上げることに対しては怒りさえも感じる。地震被害の被災者がバーベキューをして楽しむことはむしろ気分転換には必要であるし、被災地域に行き楽しんでお金を使うことは、被災地域への金銭的支援にもつながる。気分を暗くして謹慎することなど何のメリットもないばかりか、むしろ状況を悪くするだけだ。

しかし、現在のラグビー・スコットランド代表だけはいただけない。日本が台風被害に見舞われている最中に、試合が中止になることを非難し、法的に訴えるとまで言っている。スコットランド代表にとっては、日本人の被害などどうでもよいのかもしれない。とにかく自分たちの利益だけを確保したいようだ。繰り返すが、僕は謹慎しろとは全く言わない。スコットランド代表も謹慎する必要は全くない。しかし情況が情況である。少しは日本人の心境も考えてほしいものである。主催者側も試合が開催できるように全力を尽くしていると言っているのである。自然災害だけは人の力だけではどうにもならない。そこを少しは理解してほしいものである。

スコットランドは英国と言う由緒ある国家の一地域であるが、今回の騒動を見ていると何とも民度の低い人たちかと思ってしまう。僕自身、英国に対してはかなり良いイメージを持っている。しかし今回のスコットランド代表の対応を見ていると、それらの感情も崩れ落ちそうで何とも残念である。

ノーベル平和賞、アビー・アハメド氏とはどのような人物か?

2019年のノーベル平和賞に、エチオピアのアビー首相が受賞された。僕は恥ずかしながら、アビー氏の事は全く知らなかった。しかし僕自身、報道やニュースに関しては日々かなりチェックしているが、アビー氏の記事はこれまで見かけたことがない。もしかしたら僕が見落としていただけなのかもしれないが、日本の報道機関もこれまでアビー氏のような平和貢献者のことをほとんど取り上げなかったことに対しては責任があるのではないかと思う。

アビー氏は、約20年間続き沢山の犠牲者を出したエチオピアと隣国エリトリアとの国境紛争を、首相就任たった3か月で解決したという。このことは単に平和主義者という一言で片づけられることではなく、政治家としての手腕も限りなく高いことを示している。平和の遂行は、単なる平和主義だけでは実行できず、そこに実行力、政治力、そして人となりなどの総合力がなければ遂行できない。おそらくアビー氏はそれらの全てを備えていたのだろう。

平和主義者と平和貢献者は似て非なるものである。そしてアビー氏は平和貢献者なのである。

アビー首相は筋トレをこよなく愛する人らしい。そこでこのようなエピソードがあるらしい。

「去年10月、待遇に不満を募らせた兵士数百人が首相の執務室に押し寄せた際、アビー氏は兵士に腕立て伏せを命じて、みずからも一緒に取り組んだことで緊迫した空気を和らげたというエピソードもあります。」(NHK NEWS WEBから引用)

なんとも人間らしく、ユーモアと覚悟のある人物である。もちろん、単に筋トレをこよなく愛する人は沢山いる。しかしこのように、趣味をとっさに和平へと結び付けられる人はおそらく他にはいない。人間として非常に学ぶところの多い人物である。僕もこのようなアビー氏に一人の人間として学びたいが、そこまで実行できる自信は正直ない。

受賞前、おそらくアビー氏のことを知っていた人は少なかったと思うが、そのような人物が、しかも人間として尊敬に値する人物が、そして政治的手腕も絶大な人物が、このように人間としても首相としても多才な人物がノーベル平和賞を受賞することは、必ず世界の大きな財産になると思う。今年のノーベル賞は、確かに化学賞の吉野彰博士も偉大ではあるとは思うが、アビー氏はもしかしたらこれからの世界の平和を象徴する人物になるのではないかと思う。これからは、エチオピアの和平だけでなく、世界の和平にも大きく貢献して行って欲しいと強く願う。今回のノーベル賞はそれを後押しするものではないかと思い、今年のノーベル平和賞を選考した人たちに対しても喝采を送りたいと思う。

ノーベル賞を知ることは良い指針になる。

今年もノーベル賞の季節がやってきた。7日の生理学・医学賞では日本人の受賞はならなかったが、毎年どのような研究がノーベル賞に輝くのか、興味が注がれる。一般市民の興味としては、どうしても日本人が受賞するのかということばかりに注目が集まるが、「誰が?」と言うこと以上に、「何が?」と言うことに注目することが非常に重要だと思っている。

科学の分野は非常に広大なので、一般市民が科学の全貌を知ることは非常に難しいが(科学者だって全貌を知ることは難しい)、現在注目されている分野、そして重要な分野を知るのに、ノーベル賞の対象になった研究内容を知ることは非常に良い指針になる。ノーベル賞の受賞対象になった研究はどれも重要なものばかりだ。だからノーベル賞の受賞対象になった研究の概要を知れば、一応一つのポイントを押さえることになるだろう。毎年のノーベル賞の対象になった研究を知れば、その時の研究のトレンドを押さえることができるかもしれない。しかしノーベル賞の対象となるのは二昔くらい前の研究内容であることが多く、現在進行形の研究内容を知るにはどうしても無理がある。しかし二昔前の研究であっても、知らないより知る方がはるかにましだ。

2016年に生理学・医学賞を受賞した大隅良典博士の研究内容であるオートファジーという現象は当時僕は全く知らなかったが、最近生物学の教科書を読んでみるとオートファジーが基礎的現象として書かれている。大隅博士のノーベル賞受賞がなければ、そのような事も見逃していたかもしれない。

ノーベル賞受賞研究に対して「専門外だから」とか「自分には関係ない」とか言って興味を示さない人もいるかもしれない。しかし専門外だからこそ知る価値があるのである。専門の事なら、わざわざノーベル賞を待つまでもないわけであって、例えば僕ならば専門の物理学よりも、専門外の生理学・医学賞の方が興味を惹かれる。科学の事がよくわからないのならば、まずはノーベル賞の研究について調べてみて、そこから興味の範囲を広げていくのも非常に良いアプローチだと僕は考えている。

金と暴力。

現在、関西電力幹部と高浜市元助役との間での賄賂が問題になっている。そこには、権力を利用した金と暴力の構造が強く見られる。高浜市元助役がその地位を利用して、権力と私腹を肥やしていた構造、そして関電幹部がそれに応じて多額の金品を受け取っていた現実。それはまさしく金と暴力に汚染された社会そのものではないだろうか。

報道によると、関電幹部が高浜市元助役(故人)から多額の金銭、多量の貴金属(約三億二千万円相当)を受け取っていたという。これ自体も非常に大きな問題であることは間違いないが、さらに問題なのは元助役が金品を受け取った関電幹部に、このことを弱みとし恫喝していたということだ。そしてこのような恫喝は地元においても行われていたという。まさしく、金と暴力にまみれていたとしか言えない。

このような元助役の行為は、明らかに反社会的行為である。地元社会・地元市民に対する反社行為、そしてそれらに対する暴力である。そしてこれらの賄賂に関係する金品は一般市民の税金から充てられたと思われ、社会の経済的損失でもある。従ってあらゆる意味で悪質であり、悪質をさらに悪質で重ねていると言える。

この事件の主人公である元助役はすでに死んでいる。従ってもう本人に対して罪を償わすことはできないが、これは死に得と言えるのか?元助役本人は死に得かもしれないが、その付けは全て残された人が払うことになる。そういう意味ではこの元助役の行為は、さらに三重以上に悪質だと言える。日頃、金銭に関する犯罪はニュースで頻繁に見かけるものであるが、この事件に関しては金銭的にも、さらにはそれらに関する恫喝・暴力も重なり、悪質さのレベルはその比ではない。これらの類の逃げ得、死に得は決して許されるのもではなく、厳正に対処されることを強く望む。

独創とは、先端よりも意外と根っこにあるものだ。

どの分野でも独創性は大事であるし、大きな変革は独創から生まれる。では、独創はどこから生まれるのか?もちろん、最先端の物事から生まれることもあるだろうが、僕はむしろ根っこから生まれると感じている。最先端の物事においては、どうしても継ぎ足しを繰り返すということが多くなる。もちろん継ぎ足しにより発展はしていくが、大きな変革は見込めないのではと思う。それに対して、根っこと言うものはある意味基盤であり核心である。そのような核心を極めながら、ある時核心を覆す。それでもさらに核心的な事は維持されるかもしれないが、そのような変えるべき核心を変革し、維持すべき核心を守り抜く。そのような事によって独創的な革命は起こるのだと感じている。

日本は独創性に欠けると言われることが多い。いや、日本でも世界に誇る独創は存在する。近年はノーベル賞受賞者も多数出てきているし、文化的な事柄に対しても独創は多く存在する。しかし、近年のノーベル賞の対象となった研究内容の多くは二昔前の結果であるし、今世界で注目を浴びている日本文化も古くからあるものだ。では、現在進行形の独創は存在するのか?と考えた時、僕はアニメを思い出した。現代日本アニメは世界に誇る大きな独創である。アニメの映像を見ると、日本のアニメはアメリカなどの海外のアニメとは何段もレベルが違う。それは素人目にも明らかである。しかし、日本のアニメの世界において独創を求めようとはあまり聞かない。もし手軽い独創を求めていたら、確実に現代の日本のアニメは存在していないだろう。

では、他分野ではどうだろうか?例えばビジネスにおいて、さらにはITにおいて、日本の状況を見ていると、至る所で独創性が重要だと言われている。しかしアニメとは反して、ビジネス・ITで独創はあまり存在しないように思える。その原因は、手軽い独創を求めようとしているからではないだろうか。具体的には先端を継ぎ足していくこと。それを独創と勘違いしている。さらに言えば、そのような事が最先端であるかどうかも怪しい。最先端を求める方向性で行くならば、徹底的に最先端を極めなければならない。しかし今の日本の状況を見ると、それができているとは言えない。

なぜ、現在の日本は独創も出せずに、さらに最先端も出せないのか?(もちろん、全てがそうであるわけではないが。)それはあまりにも周りを見過ぎているからではないだろうか。何をするにも周りの状況を見て判断する、そのような姿勢が染みついている。他の人が最先端の結果を出してからそれを追おうとする。それは明らかに二番煎じでしかない。しかしそれが今の日本の現状である。

しかし、日本の中にも大きな独創性を持った人は確実にいる。心配なのは、そのような大きな独創性を持った人が、日本で潰されないかどうかだ。そう考えると、潰されないうちに日本を出た方が良い。そうなればやはり日本から一つの独創が消えることになる。しかし大きな独創人は、まずは大きな結果を一つ出して世界に打って出るのが賢明かもしれない。

これからの自動車。

現在、自動車は大きな変革を遂げている。電動自動車から燃料電池車、そしてその名の通り“自動”車、つまり自動運転車まで、話題は尽きない。自動車を評価するとき、評価基準は様々なので一概にどの車が良いとは言えない。昔なら最高時速や馬力などの評価が中心だったが、現在ではどれだけエコかという基準が大きなウェイトを占めている。

そのように変わりゆく判断基準の中で普遍的な基準と言えば、どれだけカッコいいか?ということだろう。特に男性ならカッコ良さにこだわる人は少なくない。女性においても、お洒落かどうかは気になるところだろう。カッコ良さと言えば外見を想像するかもしれないが、一部の高級車においては排気音などにこだわる人も少なくない。特に街中で大きな音を出して排気音をふかしている車もよく見かける。

しかし僕は思うのだが、十年後に大きな排気音をふかして目立とうとする人などいるのだろうか?いや、おそらく十年後もいるだろう。しかし問題は、それがカッコいいかどうかだ。今は大きな排気音をふかしているフェラーリがカッコいいと思われている。しかし十年後にはとてつもなくダサい行為だと思われているに違いない。何しろ電動自動車の時代である。もしかしたら、水素などの燃料電池車も普及しているかもしれない。どう考えても、静かな車であることがステータスだ。フェラーリからも静かな電動車が発売されているかもしれない。(今でもハイブリッド車のフェラーリが存在する。)

個人的には燃料電池車が普及してほしいと強く願っている。現在では燃料電池車はトヨタの独壇場だ。しかし少し前、トヨタが燃料電池車の技術を他社に向けて公開した。それがきっかけかどうかは分からないが、先日BMWが燃料電池車の試作車を公開したというニュースがあった。電動電池車の元となる電気のほとんどは、元をたどれば発電所で使用される化石燃料であり、原子力だ。どう考えても水素を燃料とする燃料電池車の方がエコである。しかし、その水素を製造するのにも電気が必用である。そうなれば、どちらがエコ的に効率的かということである。

とは言え、電動自動車よりも効率的かつエコ的なガソリン車という選択肢も残されている。今、マツダがそのような道を突き進んでいるようだ。これは従来の延長線上にあるように思えるが、現在のトレンドから言えばむしろ独創的である。こうなれば、後は市民がどれを選ぶかということにかかっている。そこで的確な判断をするために、我々市民も様々な技術的知識を習得することが求められる。とは言え、時代に逆行するようなバカな判断も僕は個人的には嫌いではない。

「権力」対「知識」。

世の中には、自分の意見を通そうとするために権力を手に入れようとする人が多い。確かに権力を手に入れれば、自分の思うようになるように思える。しかし、自分の意見を通そうとするためには、もう一つの方法がある。それは「知識」による攻勢だ。これは簡単に言えば、銃で攻撃するか?ペンで攻撃するか?ということである。そして僕は迷わず、ペンを武器にすることを選ぶ。

僕には愛用している一本の万年筆がある。そのペンは僕が大学院に進むときに友人が贈ってくれたペンだ。だからかなりの年月になる。その一本のペンで数学や物理の研究を行い、インクのカートリッジはもう百本以上交換したのではないだろうか。その万年筆はもう僕の手足である。

ペンで理論を重ねれば、その力は国家権力よりも大きなものになると僕は考えている。とは言え、僕は権力を手に入れるために理論を重ねているのではない。ただ真理を見極めたいがためにペンで理論を重ねているのだ。しかしこの先、何らかの権力と対峙することもあるかもしれない。そのような時は迷わずペンを武器にしたい。

銃の威力は誰でも分かる。しかしペンの威力は、ペンを使い倒した人にしかわからない。だからこそ、ペンの威力を認識した人が一人でも必要なのである。この前の内閣改造で、河野太郎氏が外務大臣から防衛大臣へと横滑りした。今、日韓関係は、どうやら銃の威力の方へ傾いているように感じて仕方がない。しかしペンの威力、すなわち正常な外交の力を最大限に利用しなければならない。もちろんこのためには、日本だけでなく相手側にも良識が求められる。これから河野太郎氏が相手側の良識を引き出せるか?河野氏の手腕にかかっている。

東電を廃炉に特化した企業にすればどうか?

電力会社とは、一言で言えば電気を売って儲ける会社だ。しかし現在の東京電力の置かれた立場は複雑だ。今東電が抱えている最も大きな課題は、誰が見ても福島第一原発問題であろう。もちろん福島第一原発は廃炉にするしかないが、この原子炉の廃炉は非常に困難な作業だ。原発を作ることは今ではそんなに難しい作業ではないかもしれないが、原発を廃炉にする作業は技術的にもまだ確立されているとは言えない。さらに、震災で被害を被った福島第一原発の廃炉作業は、その何十倍もの困難が伴う。そもそも廃炉が上手くいくかどうかもわからない状況だ。

そこでだ。この東電が抱えている一番の問題である廃炉作業を、東電のメイン事業にするのはどうかと僕は思っている。東電が置かれている立場の一番の困難は、福島問題を解決しながら発電事業を行わなければならないということではないだろうか。そのような事に対して、「発電事業=ビジネス(利益)」、「廃炉作業=負債(損失)」と捉えられているかもしれないが、その廃炉作業をビジネスにしてしまうのはどうかと僕は考えている。廃炉には非常に高度な技術が必用であり、世界的にもこのような廃炉をビジネスとして行っている企業は僕は知らない。もしかしたら僕が知らないだけで、廃炉をビジネスにしている企業は海外にあるのかもしれないが、今廃炉を待っている原発は世界にたくさんあるはずだ。

今東電は、否が応でも廃炉を実行しなければならない。もし東電が廃炉技術を確立させビジネスにできると、この先数十年は非常に大きな利益を得られるのではないだろうか。そしてそこで得た利益を、福島の被災者の賠償にも回すことができる。それは東電に対しても、福島市民に対しても、そして原発のある世界各国に対しても、全ての利益になるのではないだろうか。廃炉というものをネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉えていくという思考的変換が必要である。

現在、小泉進次郎氏が環境大臣になり、原発問題に大きく取り組もうとしている。父の小泉純一郎元首相は、原発ゼロを声高に発信している。進次郎氏が父の意志を継ぎ、原発ゼロを遂行するためにも、東電の廃炉ビジネス化は大きな力になるのではないだろうか。そして廃炉を負債と捉えるのではなくビジネスと捉えることは、東電社員の意欲を大きく向上させるのではないだろうか。これからは原発建設の時代ではなく、廃炉の時代だ。東電が廃炉のビジネス化に成功すれば、巨大なビジネスになるはずだ。そしてそれは回り巡って、福島の被災者のためにも大きな力になるはずだ。

「資本主義」の次。

現在様々なところで、資本主義の次、つまり「ポスト資本主義」が模索され提言されている。資本主義の次が模索される理由は、多くの人が現在の資本主義体制に対して限界を感じているからだ。では現在の資本主義のどこが限界なのか?一つは格差の拡大である。これについては現在様々なところで取り上げられているが、いまいち決定打となる解決策は見出されていない。もう一つはITの急激な発達、ネット社会の急激な拡大であろう。ITの発達はボーダーレス化を促進させ、つまり国境という概念が希薄になって来ている。日本にいながら世界のどこにいる人とも瞬時にやり取りができ、ネットで世界の様々なコンテンツにアクセスできる。

このような事から、これまでの資本主義体制が限界を表し、否応にもポスト資本主義を考えざるを得ない状況を生んでいる。しかしこれは、中国のような共産主義が正しいと言っているわけでは全くない。確かに中国は急速な発展を遂げている。しかし中国の状況は資本主義国家よりもひどいと言える。その最たる例は、国家による国民の監視である。皮肉なことに、ITの発達は国家による監視を極度に容易にすることとなった。一見、ITの発達は大きな自由度をもたらしたように思える。しかしこれは「檻の中の自由」だと言える。しかし檻の中にいる自由人は、自分が檻の中にいることに気づいていない。

これまで我々は、資本主義こそが正義だと教えられてきた。確かに資本主義はこれまで様々な富を多くの人にもたらしてきたのかもしれない。これは逆に言うと、現在の資本主義の限界は富の力の限界だと言える。極論を言うと、昔は金さえあれば何でもできるという面があった。しかし現在はお金の価値の限界が露呈している。例えば、AIが発達するにつれ、人間性というものが重要視されてきているのではないかと思う。明らかに人間性はお金で手に入れられるものではない。コンピューターが発達するにつれ、自分の人間性というものを強く自覚する必要が出てきた。これまでは自分が人間であることなど、あえて考えなくても無意識に自覚する事が出来た。しかし効率性重視の現代社会では、それさえも難しくなってきている。

僕は幸運なことに、数理物理という人生を懸けるものに出会うことができた。それによって自分の意思が簡単に揺らぐことはほとんどない。自分の人間性を確立するためには、人生を懸けて取り組むものを見つけることが重要ではないだろうか?すなわち、人生の軸を作るのである。もし軸がぶれてしまえば、自分のやっていることなど瞬時にコンピューターに取られてしまう。そして怖いことは、それに自分が気づかないことである。もちろん、人間というものは千差万別である。だから個人的なアプローチの仕方は様々ある。しかしどの人間も、国という土地とシステムの中に生きている。だからどのような国であるかが非常に重要であり、それが個人の生き方にも大きな影響を与えることになる。なので資本主義が限界を表している現在、その次を真剣に考えることが非常に重要になって来ている。

石破茂氏が言うのなら。

現在、日韓関係は最悪の状態である。責任はどちらにあるのか?という押し問答が繰り返されているが、やはりどう考えても発端は韓国側にあるように思えてならない。僕が日本人だからなのかとも思うが、冷静に分析しても原因は韓国側にある。

しかし、やはりどこかで落としどころを見出せなければ一向に解決しない。だからと言って日本側から譲歩すれば、韓国側はそれに乗じて高圧的に出てくるのは目に見えている。これまでの過去はその繰り返しである。

しかし、自民党・石破茂氏は日本側の責任を述べている。他の政治家がそのような事を言ったのならば僕も反発してしまうが、他ならぬ石破氏の言うことである。石破氏は出まかせで物事を言う人ではない。いろいろと分析し考え抜いて出た言葉だと思う。このような意見を石破氏が言うのならば、僕も一度その言葉に耳を傾けようと思う。僕は特に自民党の支持者と言う訳ではないが、石破氏には絶大の信頼を置いている。

今、自民党内で安倍首相に異論を唱えられるのは石破氏しかいない。首相に異論を唱えることによって党内での立場は微妙な状態ではあるが、このような石破氏の存在は貴重である。もちろん、このように持論を周りの顔を窺わずに主張できる人がもっと出てこなければならないが、現状では石破氏しかいないように思える。もしかしたら、これから小泉進次郎氏がこのような立場になり得るかもしれないが、どちらにしても圧倒的な少数派だ。しかしそのようなポジションを取り得るかどうかは、総理の器かどうかにかかっている。そういう意味で、現在次期総理の有力候補だと言われている政治家は何人かいるが、僕はそれらの政治家が総理の器かと言われればそのようには感じない。

社会はますます不自然になって来ている。

「改善」という言葉がある。文字通り、物事を善くするために改めることだ。しかし改善したからと言って、必ずしも良くなるとは限らない。改善したつもりが、時には悪くなっていることもある。すなわち「改悪」だ。いま社会全体を見渡してみると、このような改悪に進んでいる事が多いように思える。そしてこのような「改悪問題」の解決を難しくしている理由は、当時者たちはそれを良かれと思ってしていることだ。

なぜ、改善が改悪になってしまうのか?それは、物事を画一的にしか捉えていないことが大きな理由だ。物事を局所的に画一的に捉えてしまうと、大域的にはどうしても不自然なところが出てきてしまう。すなわち、一部の人にとっては良くはなっているけど、その他の大勢の人にとってはかえって悪くなっているということだ。

数学で言うと、細かい厳密な計算にとらわれ、理論全体の姿を見失っている状態だと言える。逆に全体像が見えていると、部分の計算を見るまでもなく調和のとれた理論を構成することができる。意外と大風呂敷を広げられる人の方が、自然な理論を構成することができるものだ。

とは言え、数学なら計算をすれば間違っているかどうか厳密に確認できる。しかし社会問題となると、そうは簡単に検証できない。何年、何十年と実行して、それで不自然なところが大きく露呈して、初めて問題になる。しかし物事の本質的な問題点を捉えられる人にとっては、大概初めから問題点が見えているものだ。しかし日本は民主主義国家である。一言で言えば、多数決の社会だと言える。だから一部の人の意見が正しくても、多くの人がそれらの問題点が見えていなければ間違った方向へと突進してしまう。しかし、民主主義に変わる理想の社会像があるかと言われれば、まだ答えを出し切れていない。もちろん、様々な理想像が提出されている。しかしどれも決定的だとは言えない。

世の中を良くしようと思って変えていることが社会を不自然にし、そこで暮らす人々を息苦しくしている。現代社会は「檻の中の自由」だとも言えないこともない。そしてそのような傾向はますます拍車がかかっている。もちろん、その根底にあるのは、高度な情報社会である。この社会の情報化は進むことがあっても退化することはない。なので、国をリードすべき政治家が強い基本的指針を持っていないと誤った方向へ進んでしまう。だからと言って、政治家だけが正しければいいかと言えばそうではない。我々一般市民にも正しい判断力を保持することが求められる。そのためにも、確固たる教養を持つことが必要なのではないだろうか。教養と実行力を持つことによって自分の道を切り開くことができるし、一億分の一の力によって国を動かせることができるのだ。

コード決済で楽しむ。

最近、コード決済が何かと話題だ。7payの不正アクセスが社会問題になったが、PayPayやLINEPayなどが着実に勢力を伸ばしているみたいだ。僕は現在、PayPay、ファミペイ、d払い、の三種のコード決済を利用している。しかし実際は、利用していると言うより楽しんでいるという感じだ。

コード決済で何を楽しむのか?と言われそうだが、コード決済を駆使して還元ポイントを貯めるのが結構楽しい。いかにして多くのポイントを貯めるか?という遊びをしているのだ。

確かに貯まるポイントはそんなに巨額ではない。しかし色々とやっていると決して小さくはないのだ。還元ポイントが20%ならば、コンビニで買い物をしても数百円単位で貯まる。もちろん、還元ポイントで稼ぐと言う事は出来ないが、ちょっとした遊びにはなる。スマホゲームで課金して遊ぶとかなりのお金が飛ぶらしい(僕は全くやっていないのでわからないが)。しかしコード決済遊びは小さいながらもお金が戻ってくるのだ。なのでちょっとしたお得感もある。

とは言え、現在はキャッシュレス決済戦国時代である。ここ一年で次々と新しいキャッシュレス決済が誕生している。これから、勢力を伸ばす決済、廃れて行く決済が現れるだろう。おそらく三つくらいの決済に収束するのではないだろうか。開発側からすれば、7Payのようなミスをすれば命取りである。何しろ利用者のお金を扱っているのだから。

10月から消費税が増税される。それに伴ってキャッシュレス決済争いは更に激化すると言われている。それは消費者としてはもちろん歓迎であるが、これからも便利さとお得さ、そして高度のセキュリティーを保ったサービスが持続してくれることを強く願っている。

それは受け取る側が決める事だ!

近年、「何とかハラスメント」と言う言葉が度々取り上げられている。セクハラ、パワハラ、スメハラなどいくつものハラスメントが存在する。しかしそのようなハラスメントを加える人間の多くは、それがハラスメントだとは認識していない。逆に認識していないからこそハラスメントが横行するのだとも思う。

しかし近年の社会風土を見ると、このようなハラスメントが行き過ぎではないかと感じることもたまにある。当たり前の事だが、ハラスメントと言う言葉を逆手にとって、他人を陥れるのは論外だが、一部ではそのような事も存在しているようだ。

ではそもそも、何を持ってハラスメントが存在すると言えるのか?それは受けた側が不快に感じているかどうかだ。決めるのはあくまで受け取る側なのである。例え加えた人間がそのような認識が無くても、受けた側が不快であればハラスメントは成立する。「そのようなつもりはなかった」は基本的には通用しない。もちろん、常識的な範囲であれば考える余地はあるが、大抵は周りから見ればハラスメント的な要素は確認できる。

危害を加えて「そのようなつもりはなかった」と言い訳をするのは、人間としてもかなり卑劣である。しかしそのような弁解は社会でかなり横行している。これは普段の冗談にも当てはまる。冗談を言ったつもりでも、それを受け取る人が冗談だと受け取らなければそれは冗談ではないのだ。さらにたちが悪いのは、言った方が「おまえは冗談も通じないのか?」と開き直ることである。相手に通じない冗談を言い、それが通じない責任を相手のせいにする。これは非常に困った人たちである。冗談かどうかは受け取る側が決める事である。冗談だと言いたいのならば、言葉使いのスキルと常識的な知識、そして言う人の人間性を上げなければならない。

評価とは基本的に周りの人が行うことである。もちろん、自分の信念の正しさを自分で確認する分には、自分で評価すればよい。しかし人間のコミュニケーションというものは、基本受け取る側が評価するものである。自分の起こした行動を自分で評価するのは、多くの場合自分のエゴでしかないのだ。

内容を伴っていない言葉にこだわるから、全く前に進まない。日韓関係。

現在、日韓関係は悪化の一途をたどっている。僕自身もそれについて言いたいことはいろいろあるが、そこはまず置いておこう。ここでは、そもそも何がここまで問題をこじらしているのか?その原因となっている二つの言葉を取り上げようと思う。

一つ目は「謝罪」と言う言葉だ。韓国は日本に対して執拗に謝罪を要求している。しかしこの韓国の言う「謝罪」と言う言葉にはほとんど具体性がない。日本の政治家が言葉で謝っても、韓国は更に批判する。お金を出しても批判する。なぜならこの「謝罪」と言う言葉は何を意味するかと言う事については全く語られず、批判するためのツールに成り下がっているに過ぎないからだ。すなわち、この「謝罪」と言う言葉には中身がない。中身がないものを持ち出しても解決するはずがないのである。

二つ目は「未来志向」と言う言葉だ。もちろん、この「未来志向」と言う言葉の概念についてはおおよそ誰もがイメージしているだろう。しかし、日韓関係においてはこの「未来志向」という言葉が形骸化している。やはり何を持って未来志向的な行動かが明確に示されていないのだ。だから何をしても未来志向にならない。日本政府はかなり未来志向的に問題に取り組んでいる。しかし一つ言うならば、何を持って未来志向的な行動なのかを、行動する前に明示しなければならない。それをしないと、何をしても未来志向だとは認識されない。もちろん、そのようなことをしたからと言って解決する保証はない。韓国と言う国は条約を反故にし、ゴールポストを動かし続けるような国だ。そのような事をし続ければ、日韓関係云々と言う以前に韓国の国際的信用の低下につながると思うのだが。他国の事ながら余計な心配をしてしまう。

現在、日本の政治は安倍一強だ。そのことについて批判もあるが、それは日本国民が選挙によって選択した道でもある。確かに一強であるが故の問題も山積しているが、逆に一強だからこそできる事もあるはずだ。(何も憲法改正だけを念頭に置いて言っている訳ではない。)国際関係、特に日米関係では、今の所安倍一強が力を発揮しているようだ。もちろん、これまで上手く行ったからと言って、これからも上手く行くと言う保証はないが。

とにかく、現在の日韓関係はあまりにも不毛すぎる。そのような状況を解決するためにも、韓国の言う「謝罪」「未来志向」という中身のない言葉にこだわることはそろそろ止めにしなければならない。

共産主義国家?日本。

日本は資本主義国家・民主主義国家である。少なくとも建前上はそうなっている。選挙は公平に行われるし、経済は資本主義の原則に則って行われる。確かに民主主義、資本主義である。

そして何より日本人・日本社会は公平・平等を最重視する。これはこれでいいことかもしれない。しかしそれも度が過ぎれば、共産主義的システムに傾く。最近の日本社会は、いや、昔からかもしれないが、このような共産主義的システム、共産主義的文化に傾いているのではないかと思うことが良くある。

日本の賃金は年功序列で横並びとよく言われる。最近は徐々に変わりつつあるが、これも日本の部分共産主義的側面ではないかと思う。しかしそれはまだいい。日本人全体の思考が過度な横並び思想になり、文化的に共産主義的になって来ているところが気になる。日本に旅行に来る中国人達の中には、「日本に来て本当の共産主義を見た」と言っている人も少なくないと言う。中国では思想の自由が制限され、とてもじゃないが自由主義とは言えないが、経済システム・社会システムはかなり自由主義・資本主義的になって来ている。もちろん、中国では思想の自由が確保されていないので、それに比べると日本はある程度思想の自由があると言え、一応自由主義国家であると言える。(ただし完全か?と言えば断言できない。)

日本は中国とは逆行して、システムがどんどん共産主義的になっているように思える。現政権を支持するかどうかはともかく、自民一強・安倍一強である。富める者は急速に富んで行き、才能や人間性が端に追いやられている。弱者を救うことは非常に良いが、現在のセーフティーネットが本当に弱者を救い切れているかどうかは疑問である。そしてそのようなセーフティーネットを食い物にするどうしようもない人たちがいる。多くの弱者達は、自分が弱者であるが故、声を上げる事さえできない。政府・自治体が能動的に弱者を救おうとしなければ弱者は救えない。しかし、政府・自治体はコストのかかるセーフティーネットの行使を極力避けようとしている。

現在は一部の人たちが大きな富を持ち、弱者とは言えない普通の人が多数おり、ある程度多数の弱者が悲鳴を上げている。しかし日本の共産主義的傾向が進行すると、それらの普通の人たちが“平等”に弱者になってしまう。ほぼ全員が弱者である国が弱者を救う事は出来ない。なので弱者が普通の生活が出来るようになり、普通の人がさらにより良い生活が出来るようにならなければならない。もちろん、現在の弱者と普通の人のレベルが逆転しても良い。現在の弱者が努力して大逆転するのも大いにありだ。むしろそのような事が可能な世の中にならなければならない。

日本と言う国は、どれだけ成果を挙げたかと言う事が評価される国ではなく、どれだけ失敗しないかと言う事によって評価される国だ。そのような国で、国民が積極的に挑戦しようとなるはずがない。しかし、世の中を変えることが出来るのは間違いなく挑戦者だ。そのためには、積極的に挑戦しようとする者の足を引っ張るようなシステムにすべきではないと強く思う。しかし現実は、何も行動しようとしない従順な人たちには都合よく、挑戦者からは挑戦権を剥奪しようとしている。そしてそれは、弱者を救えない社会システムと大きく関わってきている。なぜなら、挑戦権のない社会は、弱者の再チャレンジの権利さえも奪うことを意味しているからだ。

英語力で評価されるのは二流だ!

女子ゴルフの渋野日向子選手がゴルフ・全英女子オープンで優勝した。渋野選手のいつでもスマイルが話題になったが、優勝スピーチも見る者を惹きつけた。渋野選手の優勝スピーチの英語はお世辞にも上手いとは言えないし、はっきり言って中学レベルである。しかしそのような中学レベルの英語スピーチを、「英語力が低レベルだからダメだ」と言う人はおそらくいない。なぜなら、本業であるゴルフのプレーでしっかりと世界一と言う結果を残しているからだ。彼女の上手くない英語力がゴルフの評価を下げることは全くないのだ。それどころか、最後に笑顔で放った「サンキュー」と言う一言が彼女の魅力をより一層強いものにした。

しかし世の中では、何かと「英語力が重要だ。英語力を身に付けないといけない。」と言われている。極端な場合では、「英語が出来ないと全てがダメだ」と英語力だけで人間を判断されることもある。しかし英語力は何のために付けるのか?それは、自分が取り組んでいる事をよりスムーズに進めるためだ。言い方を変えると、英語力は補助でしかないと言える。だから本業で圧倒的な力を見せることが出来れば、英語力などはどうでもよいのである。もし英語力で自分の力を評価されているのならば、それは本業で力を出せていない、自分が二流であると言うことである。

以前、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、英語が大の苦手であったと言う。確かノーベル賞授賞式でのスピーチでも、博士は日本語でスピーチしたはずだ。しかし博士が英語が話せないと言う事によって評価が下がったなどと言う事は聞いたことがない。それは彼の研究力が一流だからである。

渋野選手はこれから世界を転戦すると思われるので、英語力もこれからメキメキと付けて行くであろう。そして彼女の英語力はこれから彼女のプレーを大きく助けて行くと思われる。しかし彼女の評価は英語力でされるのではなく、ゴルフのプレーによってされる。なぜなら彼女は一流のゴルフプレーヤーであり、英語力ではなく、プレーと彼女自身の人間性に魅力があるからである。

必要なのは技術か?アイデアか?

日本では技術力が過度に高く評価される傾向がある。もちろん高い技術力がある事は素晴らしいが、ただ技術力があるだけでは何も成し遂げられない。技術というものは何かに応用して初めて威力を発揮するのであって、その「どのように応用するか?」というアイデアなしでは何も成し遂げられない。

逆にアイデアだけでも何も成し遂げられないし、学問で言うと、アイデアだけでは単なる素人の妄想でしかない。アイデアは具体的に構成して初めて意味を持つ。その具体化は技術によって成し遂げられる。

すなわち必要なのは、技術とアイデアの双方なのである。この二つは車の両輪である。片方が欠けても前に進まない。ただ、役割分担と言う事は出来る。アイデアを出す人と技術を持っている人が融合すればいい。もちろん、一人でアイデアと技術の両方を持っていれば理想的であるが、なかなかそのような人はいない。企業も同じで、良いアイデアと高い技術力の双方を持ち合わせている企業は少ない。

今日本で問題になっているのは、高い技術力を持ちながらも良いアイデアを出せない事である。日本の技術力は誰が見ても世界トップレベルである。しかし、現在非常に威力のある分野であるスマホ製品を見ても鳴かず飛ばずである。僕自身も日本企業は高い技術力を持っていると思いながらも日本製品に魅力を感じず、アップルのiPhoneを愛用している。日本企業がiPhoneのような素晴らしい製品を作ってくれればどれだけ良いかと思うが、現状を見るとそれは期待できない。日本企業は高い技術力を持ちながらも、アイデアは他国企業の後追いばかりである。

数学においても、計算力が抜群にあろうが豊富な理論的知識があろうが、それをどのように発展させるかと言うビジョンがなければ新しい理論を構成することはできない。もちろん、数学以外の学問においても同様であろう。学生のうちは、熱心に勉強してたくさんの知識を身に付ければ良い。本もたくさん読めば良い。しかし、学生を卒業した後はそれらの知識を基にアウトプットをしていかなければならない。そのためには、読書をして技術を付けるだけでは何の進展も望めない。アウトプットするためには、はっきり言ってビジョンなき読書は無力なのである。アイデアを基に実行しなければ何も生み出せない。今、日本が陥っている「技術バカ」ではなく、また「アイデアのみのド素人」でもなく、「技術とアイデアの双方を兼ね備えた実行家」として遂行することが必要なのである。

高橋政代博士、民間企業に移籍。

理化学研究所の高橋政代博士が、理研から民間企業へ移籍したと言うニュースが報じられた。高橋政代博士はiPS細胞を用いた眼科再生治療研究の第一人者で、iPS細胞治療の臨床応用に関しても世界で初めて成功している。高橋博士の民間企業への移籍は何を意味しているのか?そしてこれから基礎研究はどのように進むのか?少し考えてみたいと思う。

もっとも、僕は医療に関して全くの部外者であり、医療の専門家でも何でもないので、再生医療の未来なんて言う大それた事は何も言えない。ただ研究者としての立場からは何等か言えることがあると思い、少し自分の意見を書こうと思う。

日本の研究者は大きく二つに分けられる。公的機関の研究者と民間企業の研究者だ。数学や理論物理ならフリーの研究者というのも可能である。高橋博士は公的機関から民間企業へと渡ることになった。公的機関から民間企業へと移籍すると言う事は、公的機関にいては何か不都合があったのだろう。それは何か?それは大きく二つにに分けられる。一つは研究遂行に関する事。医学研究ならばしっかりとした施設が必要だし、それらを含めて多額の研究費も必要になる。理研がそれらを満たしていないとは考えにくいが、高橋博士の構想に照らし合わせるとそれらを満たしていなかったのではと考えられる。あるいは例え理研がそれらを満たしていても、オファーのあった民間企業がそれ以上の研究費と優れた施設を保持していたのかもしれない。それならばほとんどの研究者はその民間企業へと移籍するはずだ。高橋博士がこれからその優れた企業で、これまで以上の優れた研究成果を挙げることを強く祈るばかりである。なぜなら、高橋博士の研究成果は、医療と言う形で社会利益へと直で結び付くからである。

もう一つは、個人的な利益である。個人的利益とは、一言で言うと報酬、そして地位や名誉だ。日本では特にこのような面を軽視しがちだ。ひどい場合には、「研究者は好きな事をしているから、お金はいらないだろ」と言われることもある。バカヤロー!研究者だって人間だ。だから人権もあるし、成果に対して対価を得る権利もある。日本では、いや、世界でもそうだが、研究結果がたどり着く最終工程、つまり製品化や医療行為に対してお金が集まる仕組みになっている。だから企業のトップが儲かる訳であり、医者が儲かる訳である。同じ医者でも、基礎医学研究者は基本的には儲からない。だからお金が欲しい医学部生は、医学研究者ではなく医者になり、最終的には開業医になろうとする。では、多くの開業医と、山中伸弥教授や高橋政代博士などの基礎医学研究者ではどちらが偉大か?百人いれば99人は同じ答えを出すだろう。(もちろん、優秀で偉大な開業医もたくさんいる。)高橋博士が個人的にどうであったかは僕には知る由はないが、研究者にとっても報酬や地位名誉は非常に重要である。

多くの研究は一見金銭的利益には結びつかない。もしかしたら社会的貢献からも非常に遠い位置に見えるかもしれない。しかしそれは多くの本質を見逃している。まず研究結果というものは人類すべての知の財産であり、人間社会に多大な貢献をしている。そして金銭的利益に関しては、それが一年後に金銭的利益に結び付くかと言えば絶望的であるが、10年後に結び付く可能性はそれなりにあり、50年後、100年後にはほぼ確実に結びついている。しかしその時にはほとんどの研究者は息絶えているだろう。だから、研究者がまだ息をしている間にそれなりの対価を与えることが必要だ。高橋博士の移籍はその実現例であったのかもしれない。いや、そう思いたい。今回の高橋博士の例のように、基礎研究者が民間で活躍し報酬を得られる仕組みを積極的に作って行きたいものである。高橋博士の場合は医学と言う医療に直結する分野だから実現したが、数学者がその基礎研究を民間企業で行い、報酬を得、地位と名誉を得られる日は来るのだろうか?少しだけ期待してみよう。

炎天下で何も考えずに死に物狂いで倒れる高校球児の姿は、もうダサい。

先日、大船渡高校の佐々木朗希投手についての話題を書いたが、数日経っても佐々木投手の決勝での登板回避に関しては賛否が分かれているようだ。僕はこの佐々木投手の登板回避とそれを決断した監督に対して称賛を送ると言ったが、現代的な野球システムを考えると称賛ではなく、常識的な判断でさえあると思える。

投手の肩は消耗品だ。それは野球に対する現代的知識としては常識である。佐々木投手の登板を抑えたことは、日本の宝を守ったとさえ言える。もちろん、今回の登板回避によって佐々木投手の未来が100%明るいものになったという保証はない。登板を抑えても故障する時はするし、投げ続けても耐えられる人は耐えられる。ただ確率的な問題だと言える。今回の佐々木投手の登板回避は、将来の成功の確率を高めたものだと言える。

高校野球と言えば、炎天下で無我夢中でプレーし、倒れることが美しいとこれまで言われてきた。現在でもそのようなステレオタイプのイメージを高校球児に押し付ける人は少なくない。しかし、もうそのような野球イメージはダサい。“何も考えず”に死に物狂いでプレーし倒れるような選手に、今は美しさなど感じない。むしろ今回の佐々木投手のように将来のプロでの活躍のために肩を守り、将来に備える方がはるかにクールである。甲子園に出ることが絶頂であるような選手は(もちろん高校野球としてはレベルが高いのだろうが)、結局そのレベルの選手でしかないと言う事だ。佐々木投手擁する大船渡高校に勝利し、マウンドではしゃぐ花巻東の選手に器の小ささを感じたのはそういうことだ。(一言付け加えると、花巻東は菊池投手や大谷選手を大切に育てた非常に素晴らしいチームである。)

それでも、がむしゃらに投げ続けることが本来の野球の姿で、現在の野球選手は甘やかされていると言う人がいるだろう。ならば、そのような昔の日本の野球レベルと現在の野球レベルはどちらが高いか?火を見るより明らかである。30年ほど前までメジャーで通用した選手はいたであろうか?野茂英雄氏がアメリカに渡るまで、本格的にメジャーでプレーできた選手はいない。しかし現在ではほぼ毎日のようにメジャーで活躍する日本人選手の姿を見るようになった。明らかに圧倒的に現在の方が日本の野球レベルは高いのである。システムは日々科学的に洗練されたものになって行く。科学嫌いの人にとっては不本意であるかもしれないが、そのようにしてあらゆる分野のレベルは向上して行く。野球だって例外ではない。

炎天下で何も考えずにプレーする高校球児はもうダサい。そしてそのような姿をダサいと思われるような野球知識を、多くの人が付けなければならない。これからは頭を使い、考えながらクレバーにプレーして行く時代なのである。そのようなスマートな野球こそが、これからのカッコいい野球選手の姿である。

学問とビジネス。

学問とビジネスとの関係は微妙だ。工学関係の研究だと製品に直結することも多いのでビジネスに直に結びつくが、数学や理論物理に関してはビジネスに直に結びつくことはほとんどない。しかしそれは現時点だけの関係であって、工学ならば数年後に大きなビジネスに結びつくところが、数学や理論物理の研究に関しては50年後100年後になることが多いと言う事だ。実際に20世紀前半に打ち立てられた量子力学のシュレーディンガー方程式が数年後に実用化されたという話はあまり聞かないが、現代社会においてはシュレーディンガー方程式を用いていない電子製品などというものは存在しない。青色発光ダイオードの中村修二の発明対価が200億円であるという判決が以前出たが、シュレーディンガーの功績を現在のビジネスにおいて発明対価を計算すれば、おそらく数百兆円は下らない。おそらく現在世に存在する電子製品の全てがシュレーディンガーの発明対価の対象になるはずだ。

しかし、数学や理論物理の研究者がビジネスに熱を上げているという話はほとんど聞かない。数学者がビジネスに無関心であると言う話も良く聞くが、そもそも数学がビジネスに結びつくとは誰も思っていおらず、初めからそれをビジネスに結びつけると言う発想自体がないものだと思われる。しかし数学者であっても生活しなければならないことは変わらず、大学や研究所に所属する数学者は所属機関から給料をもらっている。

別にビジネスに無関心であることが美徳でも何でもなく。むしろ数学者であっても積極的にビジネス的視点で物事を考えることは必要なのではないかと僕は思う。しかし別に営業や商売などを考える必要はない。数学者には数学者しかできないビジネスがあるはずだ。そこを考えないと、数学者である意味が薄れてしまう。しかし、ビジネスに無関心で研究に没頭するのもそれはそれで良いと思う。物事には役割分担がある。学問の根幹となる部分を数学者が行い、ビジネスの末端になる部分はビジネスマンがやればいい。もちろん、そのように上手く行けばの話だが。

もちろん、数学の真価がビジネスにあるとは思えない。しかし数学者であっても、お金を稼がなければ生きて行くことはできない。そういう意味では、バリバリのビジネスマンでなくとも数学者も広義のビジネスというものは考えなければならない。とは言え、数学者や理論物理学者は、ビジネス的観点からはかなり不遇な立場に立たされているように思える。中には数学者にはお金儲けは必要ないと言う人さえいる。何を根拠にそんなことを言うのだろうか?

とは言え、数学は面白い。物理学も面白い。その純粋に面白いと言う事に没頭しているだけだ。そのように純粋に学問に没頭している数学者・物理学者に対して、ビジネス的に冒涜することはいい加減にやめてもらたいものだ。

大船渡・佐々木朗希投手の器。

高校野球地区予選決勝で、佐々木朗希投手擁する大船渡高校が花巻東高校に敗れ甲子園出場を逃した。大船渡の監督は決勝で佐々木投手の出場を回避すると言う決断を下したが、この決断に関しては賛否両論あるようだ。僕の個人的意見としては、今回の大船渡の監督の決断には称賛を送りたいと思う。

多くの人が言うように、佐々木投手は高校野球の世界で満足するような器ではない。彼には甲子園よりメジャーのマウンドの方が似合うはずだ。高校野球で頂点に立つのではなく、メジャーで世界一の投手になってほしいと願っている。

過去を振り返れば、イチローさんは甲子園で注目を浴びるなどと言う事は眼中にもなかったように思う。少なくとも甲子園で負けて泣くような男ではない。今回大船渡と対戦した花巻東高校時代の大谷翔平選手も、甲子園では目立った活躍はしていなかったように思える。(もちろん、高校で160キロを出したという記録はとてつもないが。)佐々木投手には、イチローさんや大谷翔平選手が見ている世界を見てほしいと多くの人は願っているはずだ。

今回の決勝で出場回避して負けたことは、佐々木投手の器をさらに大きく見せられたように感じる。大船渡に快勝した花巻東の選手たちはマウンドではしゃいでいたが、佐々木投手との対比によって逆に器の小ささを感じさせられもした。もちろん、花巻東と言うチームのレベルが非常に高いのは百も承知である。佐々木投手の器がデカすぎるのだ。

今回の敗退によって、佐々木投手の本領を垣間見ることは持ち越しになった。しかしそれは楽しみが先延ばしになったに過ぎない。数年後、メジャーのマウンドで雄たけびを上げる佐々木朗希投手の快投を楽しみにしよう。

選挙権。

7月21日、参議院議員選挙が行われた。今回の選挙の投票率は50%を割り、すなわち二人に一人は投票所に足を運ばなかったことになる。その理由は人それぞれであるとは思うが、「自分が投票しても何も変わらない」と言う意見も良く聞く。果たしてそのように考えるのは正しいのであろうか?

一人の票は数千万分の一である。問題はこれをどう捉えるかである。数千万分の一とはかなり小さい数字のように思える。これだけを見ると、自分の一票だけでは何も変わらないようにも思える。しかし、一票を投じた人たちの票の積み重ねによって政治は動いている。この数千万分の一が世の中を動かしているのである。こう考えると、投票している人としていない人では、イチとゼロなのである。政治家は国民がコントロールしなければならない。そして政治家をコントロールしているのは、一票を投じた国民なのである。

日本国民であるならば、中学高校で日本史を習ったはずだ。そこでいかに国民が選挙権を獲得して行くかと言う歴史を習ったはずだ。昔は一定金額以上の税金を払った男子だけが選挙権を保持していた。ある意味、選挙権を保持していると言う事は特権階級の証であった。そして徐々に一般国民にも選挙権が与えられるようになった。そのような歴史を習ったのならば、選挙権がいかに貴重なものかは理解できるはずだ。なので、自分が一票入れても何も変わらないと言って投票所に足を運ばない人は、自分の無知をひけらかしているのに等しい。

トップホストのローランド流に言うのならば、「日本人には二種類いる。政治を動かす人か、政治を動かせない人か」と言う事だろう。もちろん、政治を動かす人と言うのは投票する人であり、動かせない人と言うのは投票しない人である。もちろん、投票をしない人に対して投票を強要するのは間違っている。ただ投票をしない人は、自分の保持する権利をみすみす放棄している、ただそれだけである。

選挙に対するメディアの役割。

テレビニュースなどのメディアでは、度々政治家の不祥事が取り上げられている。そのような度重なる不祥事に対して国民の怒りも相当あるだろうし、そのような不祥事が政治家不信を招き、政治家に対する期待は無くなって行く。その結果、投票率は低下し、特に若者の投票離れが顕著になって行くのだと思う。

この様な選挙離れに対して政治家の責任は非常に大きいが、その一方、メディアの側にも大きな責任があるのではないかと僕は考えている。その理由は二つある。まずは政治家が自分に利の大きい高齢者向けの政策の発信がメインになる中、メディアもそれに対応して高齢者向けの政治ニュースをメインに扱っていることだ。それによって若者は疎外感を感じるのではないだろうか。自分には政治は関係ないし、政治家の側も若者の方を向いていない。そう感じられれば若者の足が投票所から遠のくのも無理はない。

もう一つは、メディアが政治家の不祥事は大きく取り上げるが、政治家の成果や取り組んでいる事を軽視していることだ。不祥事などは市民の目耳を集めやすい。以前話題になった号泣議員などはその最たる例だ。しかし政治家が今何に取り組んでいるのか?そのような事をいったいどれだけの人が理解しているだろうか?これは単に市民が不勉強だからと言うだけではない。メディアがこう言った話題をなかなか取り上げない事も原因である。号泣議員のニュースには膨大な時間が割かれてきた。しかし普段の政治家の取り組みに関するニュースはほとんど目にすることはない。相当能動的に知ろうと思わなければこのような情報を仕入れることはできない。

メディアと言えども商売なので、市民が興味ある情報をメインに垂れ流すことはもちろん理解できる。しかし政治家が現在何に取り組んでいるかと言う情報は非常に重要である。そのような情報を日常的に発信すれば、もう少し政治が身近なものになるのではないだろうか?若者の足を投票所に向かわせるためには、まずは日常的に政治ニュースに触れられる環境を作ることが大事である。

悪しき平等主義。

近年は平等と言う事に対して社会が敏感になっている。もちろん、平等な社会にすることは重要なことであるし、多くの事に対しては平等は良い影響を与える。しかし、思考停止的に平等にこだわってしまえば、それが悪しき平等主義に繋がってしまうこともある。

例えば企業でも給与に関しては、皆同じように昇給して同じ金額の給与をもらうことが平等と考えられて来た。最近は、同一労働同一賃金と言う事が広く問題に上がることが多くなったが、このような同一労働同一賃金には僕自身も大きく賛成である。同じ成果を挙げたのならば同一賃金を支払うのは理に適っている。問題なのは、ある意味同一労働同一賃金の対極にある事と言えるが、能力も成果も異なるのに“平等に”同一賃金を要求することだ。しかし日本では、このような悪しき同一賃金主義がはびこっており、それが日本の将来を暗いものにするのではないかと僕は、そして一部の人は危惧している。

そのような悪しき同一賃金主義の下では、能力のある者は正当に能力を評価してくれる海外に流れ、結局能力のない者だけが残ると言う事になってしまう。能力のない者にとっては居心地の良い日本社会である。よく言われているように、平等にすべきなのは、機会の平等であって結果の平等ではない。しかし、日本では結果の平等に極度にこだわっており、その結果、共産主義的な低いレベルでの平等が行われ、そのレベルは年々低くなってきているように思われる。

今日本で必要なのは、人物に対する正当な評価である。結果に対する平等ではなく、正当な評価が真の平等に繋がると僕は考えている。悪しき平等とは、見える所だけを平均で均した見かけ倒しの平等である。見かけではなく、その中身まで掘り下げて評価をしなければならない。そうしないと、世の中にはびこっている悪しき平等主義は無くならないであろう。

自由だとか、人権だとか。

現在、香港のデモが注目を浴びている。香港のデモは条例の制定に関するものだが、簡単に言うと、自由だとか人権に関するせめぎ合いだ。日本では近年、このようなデモは全くと言っていいほど見かけない。それはある意味、日本が平和であることを象徴していると言えるが、果たしてこのような平和に見える日本で自由や人権が守られているかと言うと疑問に感じることが多い。

日本と言う国は資本主義であり、自由主義の国である。そして多くの日本人は日本が自由な国だと信じている。もちろん、中国などに比べると自由な国である。しかしそのような自由度が年々落ち続けているように思えてならない。

自由度が落ち続けている理由はいくつか考えられる。その代表は、テロ対策を強化した結果だと言える。テロを防ぐためには規制を強化しなければならないこともあり、ある程度はやむを得ない所はある。しかし、深刻なのはもう一つの理由だ。それはITの飛躍的な発展である。ITが発達するにつれ監視が容易になり、それに乗じてあらゆる組織が自己を守るために監視を強化している。確かにスマホは非常に便利なツールである。しかしスマホを持つことによって、人々は常に行動を記録されることになる。しかし多くの人はそのような実感はない。この様な状況は、檻の中の自由だと言える。

現在の状況は非常に危うい基盤の下に自由が成り立っていると言える。しかし一歩踏み外せば、それは全てもろく崩れ落ちる事になるのではないか。そして科学技術の発展が逆行することは99%無いので、このような自由の崩壊を防ぐことは非常に難しい。しかし不可能ではないと僕は考えている。まず人々が、ネット社会では容易に監視が可能であることを認識することである。そして自由が失われつつあると感じた時には声を上げることが必要である。社会というものは、法一つで劇的に変えられる。もちろんそれが100%である訳ではないが、市民が選挙で投じる一票によって社会は大きく変わる。今月、参議院議員選挙が行われる。自分の意志を示し政治を動かすために、まずは一票を投じることが非常に重要である。

日本には日本の仕方がある。

戦後の日本は極めて平和だ。戦争には直接的には一度も関わっていないし、治安は他国に比べて極めて良いし、特に貧しいわけでもない。しかし、そのような事を完全に良い事だと考えて良いものだろうか?

戦争には直接的に関わっていないけど、世界では様々な戦争・紛争が起きている。もちろん、僕自身も戦争をしないのは良い事だとは思うが、それは言い方を変えると自分の手を汚さないと言う事も出来る。日本の平和を守るために、他国が様々な代理戦争を引き受けている。もちろん、代理戦争と言うとかなり大げさかもしれないが、世界の平和を守るために日本は一切手を汚さない。そしてそのような綺麗な手を誇っている。何度も言うが、戦争などしないに越したことはない。しかし日本が一切犠牲を出さない分、他国がその分の犠牲を引き受けているという側面はないだろうか?

しかし、そのような手を汚さない平和主義で行くなら、徹底的にその路線で行くのも意義があると僕は考えている。アメリカなどはイラク戦争やイスラム国との戦いに積極的にかかわろうとしてきた。そのような中、徹底的に平和主義を貫く日本には、平和主義であるからこその国際的信用も生まれている。日本は絶対に戦争を起こさない。だから戦争当事国からもそれなりの信用が生まれ、日本に対する役割が生まれる。なので、それはそれで日本の世界に対する一つの国際貢献だと思う。

現在、憲法第九条を始めとする憲法改正が議論されている。しかし僕は九条の改正には反対だ。なぜなら、天皇が日本国の象徴であるように、九条は日本の平和主義の象徴である。そのような象徴があるからこそ、世界からの信用を得ることが出来る。もちろん、出る時は出なければならない。そして紛争や国際問題に対しても、日本流のアプローチの仕方があるはずだ。しかし九条を改正してしまうと、それが根底から覆ってしまう。日本は九条を盾に、世界の問題に積極的にアプローチすべきである。

何事にも言えることだが、他人と同じように振る舞う必要はない。主義・主張をはっきりとさせ、自分なりのアプローチや態度を取るべきである。これまで日本が国際紛争に対する姿勢で批判を浴びてきたのは、自衛隊を派遣しなかったことではなく、自分の態度をはっきりと主張しなかったからである。特にお金だけ払って適当にごまかそうという姿勢は一番良くない。日本には日本のやり方がある。それをある程度愚直にやり通すことが重要なのである。

メディアの報道について考える事。

メディアは何をどう報道すべきか?これは問い詰めて考えると実に難しい問題であることが分かる。もちろん、何も考えなくても報道は出来る。しかし社会に利益があるように、かつ市民の役に立ち、市民が知りたいことを報道する。そして取り上げられる側も、見る側も、全てにおいて適切である事。このようにどうすべきかと考え出したらきりがない。そして簡単に分かるように、これらの事を全て満たすことは現実的に不可能である。誰かが利益を受ければ誰かが不利益を被る。そのような中、どこに妥協線を見出すか?これは考える人によっても、時代によっても、大きく変わるところだと思う。

しかし中には、見る側取り上げられる側双方に何のメリットもないくだらない記事も多く存在する。しかし実際は、そのようなくだらない記事を見て喜ぶ人が多くいるからそのようなくだらないメディアが存続できるのであるが、需要があるからと言ってそれが本当に必要かと言えばそう思えないこともたくさんある。そしてそのようなくだらないメディアは、世の中に低俗さと害しかもたらさない。

主要メディアにおいても、深く考えるべきことは沢山ある。例えば、事件事故が起きた時に被害者の実名をどう扱うか?事実をありのままに伝えるのならば実名を流すべきであろう。しかし被害者の実名を流すことによって、被害者が二次被害を受けるのではないか?あるいは尊厳を傷つけられるのではないか?そのようなことを考えると、実名を流すかどうかという一つの問題を取っても深く考えるべきことである。

特に最近危険だと思うのが、社会の風潮に安易に乗ることだ。変な言い方だが、報道にも流行がある。敏感に取り上げられる事から、重要なのに無視されがちな事。そのようにその時々に流行が目まぐるしく変わる。もちろん、そのような流行に乗ることは、市民の知りたいことに敏感に答えると言う事で一理あると思う。しかしそれとは別に、伝える意義が大きくあることは流行や風潮に関係なく大きく伝えなければならない。

メディアは何をどう伝えるべきか?これは伝える側だけでなく、受け取る我々も考えなければならない事である。そしてそのような事を考えるためには、伝える側、受け取る側双方に明確な知識を持つことが要求される。もちろん、そんな堅い事ばかり考えずに、娯楽的な報道もあってよい。将棋の藤井聡太七段の話題やメジャーリーグの大谷翔平選手の話題などは実に愉快なものである。もちろん、対戦相手にとっては残酷な物語であるが。そのような多様性をもたらすことも報道の重要な使命である。

受け取る側が「報道はどうあるべきか?」と本気で考えた時、報道自体も大きく変わるものだと僕は考えている。

お金というものは、信用の塊だから。セブンペイ問題について。

現在、セブンペイの不正利用が問題になっている。セブンペイ社長が基本的セキュリティシステムである2段階認証を認識していなかったことが話題になっているが、問題の根源は「利便性優先でセキュリティを重要視していなかったこと」であることは明らかだ。利便性を高めることは確かに大事だが、それはセキュリティが確保されているという前提があってのものだ。金融システムにおいて、セキュリティ無き利便性など存在しない。

セブンペイの会見でも、利便性を高めるためにセキュリティを後回しにしたと言っているが、そもそもその順序がおかしい。小学生でも分かる論理だ。すなわち、セブンペイ社長の思考は小学生レベル以下だと言える。もちろん、セブンペイはすぐに2段階認証を取り入れるなどの処置を行うだろう。しかしその背後にある希薄なセキュリティ意識がそのままでは、時間が経てばまた違う問題が噴出する可能性が高い。

そもそも、ITツールにはバグは付きものだ。バグが見つかりそれにパッチを貼って行く。そのような事は、マイクロソフトのウインドウズのような高度なセキュリティシステムを持つものでも日々行われている。もちろん、ウィンドウズとセブンペイでは、規模もレベルも全く違う。しかし、金融システムにおいては高高度のセキュリティシステムが求められる。セブンペイが信用を取り戻すには、これから迅速なアップデートによりパッチを貼り続け、高高度なセキュリティシステムを保っていくことでしか成しえない。

日本におけるコード決済の先駆けのうちの一つであるペイペイは、ソフトバンクとヤフーというITスペシャリスト的な企業が開発したものだ。それでも初めは不正利用が発生した。もちろんそれも、セキュリティコード入力システムの不備という初歩的なミスでお粗末であったと言えるが、後発のセブンペイが類似とも言える初歩的ミスを犯すことは問題が大きい。そしてITスキルと知識が全くない者が社長を務めるという初歩的人選ミスを犯すセブンペイにおいては、問題はより深刻だと言える。

世の中が無難になりつつある。

「無難」と漢字で書けば、「難が無い」という意味で良い事のように聞こえるが、それ以上に「当たり障りのない」という意味を感じるのではないだろうか?近年ますます世の中は無難になりつつある。それは「難が無い」という意味でも、「当たり障りがない」という意味でも。

なぜ世の中はこんなに当たり障りのない世の中になってしまったのか?おそらく多くの人は当たり障りのない無難な世の中を望んでいるのだろう。しかしその一方、少なくない人たちが当たり障りのない世の中に息苦しさを感じているのだと思う。僕もそのうちの一人であるが、結局無難社会の原点を探って行くと、「失敗を許さない世の中」というものにたどり着くのだと思う。一つの失敗を過度に叩きつける。その結果、失敗しないようにと可もなく不可もなくという生き方を取るようになる。もちろん、そのような生き方の人に挑戦を取りに行くようなことを望むのには無理がある。そして世の中から挑戦者が消えて行く。果たしてそれでいいのだろうか?

実は多くの人が無難な生き方を出来るのも、一部の挑戦者が行動しているからだと言える。世の中を変えて行くのは間違いなく挑戦者である。しかし挑戦者がいなかったら現状維持が出来るかと言えば、それは大きく異なる。良く変えようという力を働かせていても負の力というものは非常に強く、後退して行くことになる。それはなぜかと説明するまでもなく、現実社会を見ていれば明白である。

現実が「総無難化社会」になりつつある現代において、やはり希望は一部に挑戦者が存在することだと思う。挑戦者がいればいる程、無難な社会が成り立つのである。しかし、社会の全てが無難になった時、社会は崩壊すると僕は思っている。皆が皆、挑戦者になれるわけではないと思うが、皆が安心して暮らせる社会になることを望むばかりである。