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執筆に再度トライ

去年、原稿を執筆したのだが、なかなか出版までこぎつけられない。商業出版までこぎつけられるのは、1パーセントとどこからか聞いたことがある。自費出版ならだれでもできるが、商業出版となると至難の業なのだ。

去年はうまくいかなかったが、今年また再度トライしてみようと思う。去年書いた分野は考え方・思想系だが、今回はサイエンス関係の原稿を執筆してみようと思う。去年は思いついたことを書いて編集したので、全体の構成がもう一つだった。そこで今回はまず構成から始め、しっかりと骨格から作り上げていこうと思う。

数式を入れた文章を書くのにはTeX(テフ)というソフトが便利だ。数学の論文は今では全てTeXで書かれている。パワーポイントで作った図を張り付けるのだが、パワーポイントにTeXpointというソフトを取り込んで数式を組み込めるようにする。

執筆を始めるまでのパソコンの設定が結構大変で、それだけで滅入りそうになることもある。しかしそんなことは一度すれば同じ手法で繰り返しできるので、一度できてしまえば肩の荷がホッと下りる。

パソコンをいじくっていて思ったのだが、数学や物理でなかなかうまくいかない時、頭の中でいろいろと試行錯誤しているので、理解が深まったり別の考えが思いついたりして、表面上は進んでいなくてもいろいろと得られるものがある。しかしパソコン設定などで悩んでいるときは、いろいろ試行錯誤するのだが、自分の中で何も得るような感覚がない。うまくいかなければ理解もゼロという感覚なのである。

もちろんプログラミングの研究者など高度なパソコン技術に取り組んでいる人は、試行錯誤していろいろと得るものはあるのだとは思うのだが、所詮僕らは大衆ユーザーに毛が生えたくらいのものだ。使えたらそれでいい。もちろん理解が深まればそれに越したことはないが。

今年も2か月過ぎたが、これからも挑戦することがいろいろある。もうとにかく動きまくります。

考えたら、即行動

僕の現在の基本方針の一つに「とにかく行動に起こす」というものがある。本を読んで理解するだけなら簡単だ。まず自分の頭で考える。そして動く。動いて初めて意味を持つ。

またまたNKH大河ドラマの「花燃ゆ」の話だが、吉田松陰も「考えるだけでは意味がない。行動に移して初めて意味を持つ」みたいなことを言っていた。黒船に乗り込むようなとんでもない行動も、その精神が原動力になっているのかもしれない。吉田松陰みたいな大先生には及ばないが、私も今年はいろいろ行動を起こし、またいろいろ起こしつつある。

本当は一番やりたいこと一つに没頭したいのだが、今の自身の立場から言ってそれは無理だ。もちろん数理物理の研究は譲れないが、今年はやろうと思ったことはすぐにやってみることにしている。

考えたら、即断し、即行動。

最近も仕事関係で一つプロジェクトを進めることを決めた。昨年末から数えて、四つ目の行動になる。

「面倒くさいな」などと思っていたら、いつまでたっても行動に移せない。「とにかくやってみるか」とまず少し前進することが大事である。

西川きよしが言うように、何事も「小さなことからコツコツと」。その精神を肝に銘じて一歩一歩進もうと思う。時には大きな飛躍もしたいが。

G型大学と、L型大学に分離する議論について

最近、大学をG(グローバル)型大学とL(ローカル)型大学に分離しようという議論が起こっている。現在の大学ではアカデミックな教育が主流となっており、平均的な大学でも経済の授業ではマクロミクロ経済学のようなアカデミック学問を教えるというような教養主義教育を行っている。

しかし大学分離の議論では、G型大学(旧帝国大学及び早慶のようなトップレベルの大学)とL型大学(その他の大学)に完全に分離して、G型大学では従来のようなアカデミックな教育を進めるものの、L型大学では実業教育に特化した教育を行うというものである。先ほど出した経済の授業で言うと、L型大学では会計ソフトの使い方など、仕事で実際に必要なスキル(手に職とでも言うべきか)を叩き込むのである。

こうなってしまえば名称は「大学」であるものの、実際は職業訓練学校である。はたして大学をこのような職業訓練の場で終わらしてしまっていいのか。

職業訓練の場のような学校を作ることは結構なことである。問題はそれを大学が担うということである。もし職業訓練に特化するならば、大学という看板を下ろしてもらいたい。大学は最高学府である。だからこそ、レベルが少し低いと言えども大学にはアカデミックな教育、高度な教養を身に付ける場であってほしい。教養に興味のない者は、大学ではなくて職業訓練学校に行けばいいのである。

アカデミックな教育、教養が役に立たないとは、実に早計である。もちろん教養は実用を目的にしたものではないかもしれない。しかし高度な教養は社会全体のレベルを底上げし、産業の高度化をもたらす力になるであろう。また教養は人生の基盤でもあり、より質の高い人生を送るためには不可欠である。

ここまで言って納得できない人は、大学などに行かずに職業訓練学校に行って手に職をつければいいのである。職業訓練学校を低く見るつもりはない。高度な技術を身に付けるには職業訓練学校に行くべきだとも思う。

そもそも問題は大学を作りすぎたことにあるのかもしれない。今の大学の乱立状態は異常である。なぜ最高学府が一国に数百も必要なのか。

アカデミックな大学はレベルにかかわらず絶対に必要だが、アカデミックな教育、教養教育を学校側も学生側も望んでいない大学はすぐにでも「大学」の看板を下ろして職業訓練学校に衣替えしてほしいものである。

今すべきことは何か

志は高きものを持っていると自負している。

でもそれに似合わず、だらけである。

そんなだらけな自分に鞭を打ちたい。

早寝早起きして、思いっきり動きたい。

毎日そう思っているが、なかなか体がついてこない。

いきなり頂点には立てない。

初めから立つ必要もないかもしれない。

まずすべきことは、身の回りのこと、身近なこと、手元にあることから。

動乱の時代には、ぶつける対象はいくらでもある。

しかし平穏な時代の方が、その対象を見つけるのは意外と難しい。

ぶつける対象を見つける必要もないかもしれない。

だからと言って、何もしないのは間違っている。

人間としての軸を、太く、堅くしなければならない。

とにかく、今できることから取り組む。

動く。

だから数理物理の勉強、研究は続けていく。

数理物理は私の軸だが、それをもとに思想も高めなければならない。

数理物理と思想、哲学、

周りから見れば双方関係ないように思えるかもしれない。

でも私にとって数理物理も思想の一部。

思想は人間そのもの。

だから常に追い求める。

I am Kenji(人質事件をめぐって)

イスラム国人質事件で、現段階で湯川さんは殺害されたといわれているが、後藤健二さんはまだ生存しているようだ。

この事件に対する対応は世界が見ている。日本国政府の対応、そして日本国民の対応。

人質事件が起こると毎度出てくるのが「自己責任論」。しかし同じ日本人をそんなに簡単に見捨てていいのか。そのような日本人の声は、全世界が聞いているぞ。日本という国、日本国民はそんな自分勝手な低レベル国家なのかと。

今すべきは後藤さん助けるために少しでも状況を好転させること。これは日本政府だけの役割と思うかもしれないが、日本国民一人一人の声も集まれば日本国の世論となり、イスラム国側に圧力をかけられるかもしれない。そのためにも自己責任論などという、自ら同胞を見捨てるようなバカな声を発信してはいけない。

しかし、いま嬉しい運動が起こっている。

「I am Kenji」運動。

もちろんこれは、パリのテロ事件での、「I am  シャルリー」運動をもじったものと思われるが、このような運動を起こし、日本国民が一致団結していることを示すことが、今われわれ一国民がイスラム国に圧力をかけられる一番の手段ではないか。

「I am Kenji」

そして後藤健二さんが無事戻ってきたら、こう声をかけてあげよう。

「また紛争地に行って、良質なレポートを届けてくれ」と。

日本の研究風土について

1月7日の読売新聞のコラムに、昔ノーベル医学・生理学賞を受賞された利根川進博士の書かれた記事が書かれていた。利根川博士は京大を出た後、アメリカに渡られて研究されているので、日本とアメリカの研究風土の違いに詳しい。

利根川博士が言われるには、日本は枠組みを決められた中での研究(あるいは科学技術全般)には非常に優れた成果を出すが、枠組みを壊すような研究が出てこない、というようなことを言われていた。

それから日本では研究(特に税金が投入されている研究)に対して、すぐに結果を出すことを求められ、地道に進めていくような基礎研究がなかなかされないと言われていた。

ここからは私事にもなるが、私は海外に出たことがないので海外の研究風土については見聞きしたことでしか知らないが、日本の大学では型にはめられた、あるいはレールを敷かれた研究にしか取り組まないようなことを感じてきた。

今は大学院重点化などで院生に対する教育は至れり尽くせりになっているが、放置して好き勝手なことを自分の責任でやらせるということも必要ではないかと思う。もちろん後者の方はなかなか結果が出ないこともあろうが、ブレークスルーになるような枠組みを壊す研究結果はレールを敷かれた上を走っているだけでは決して出てこないと思う。

私はいま大学や研究機関には所属してないので、他の研究者から見るとアマチュアだと言われるかもしれないが、三つほどの研究テーマに取り組んでいる。どれも人から与えられたものではなくて、自分で考え出したテーマだ。その点は、超弦理論などの流行のテーマにしか飛びつかない研究者とは違うことを誇りに思う。研究内容も重要なものであると自分では認識している。

いま誇りであると書いたが、本当に皆に誇るのは、しっかりと結果を出してからにしよう。いま自分の置かれた研究環境ははっきり言って全然よくない。ただ好き勝手な研究テーマについてやっていることに救いを見いだせる。

兎にも角にも、結果を出さないことには実績にならないし、発言しても誰も聞いてはくれない。焦ることはないとはいってもそううかうかしてはいられない。

R-1ぐらんぷり(予選)に出場して

先日、R-1グランプリ2015の予選に出場してきました。

結果は、一回戦敗退。

ですが、冷やかしで出たのではなく、本気でやろうと出てきました。

本番までの2か月間、ネタ作り、構成、リハーサルなど、かなり真剣に取り組んできました。少なくとも私はかなり真剣でした。

しかし、本番当日、舞台裏で見たのは、かなり凄まじいものでした。

皆、最後のチェックに余念がなく、殺気立ったものを感じるくらい、この一日にかけているのが伝わってきました。

本当に、切るか切られるか、みたいな。

舞台で見せる、軽くチャラけているように見える雰囲気からは、想像できないようなものです。

僕が2か月真剣に取り組んだといっても、しょせんアマチュアでしかありませんでした。

プロの芸人さんは、おそらく一年前から取り組んでいて、これにかける意気込みも、半端ないものではなかったのでしょうか。

すべてが自分にかかっている。自分次第で人生大成功するか、大失敗するか、どちらにも転びうる。

やはりどんな世界でも、自分で決めた道を進もうとしている者は、裏では普段他人には見せない努力をしているのだと、改めて確認しました。

僕自身は一回戦で落ちましたけど、数理物理の勉強・研究以外でこれだけ真剣になれたのも初めてだし、芸人の厳しい世界も実感でき、すごく得るものが大きかった経験になり、僕の一つの財産になりました。