思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

努力は嘘をつく。

努力は嘘をつく。それでも努力を続けるか?それとも嘘をつくから努力をしないか?そこが分かれ目である。

要は、挑戦し続けるか?それとも現状維持するか?ということである。しかし、現状維持で満足すれば、その後現状維持を続けることは困難であろう。

挑戦と努力は一体である。最近は何かとゆとりが大事だとか、汗を流すことを格好悪いだとか、精神論を否定する人もいるが、しかし努力なしの進歩などはありえない。

しかし悩ましいのが、努力は成功を保証するものでないということである。とは言え、常に保証を背にしないと進めない保身的な人に、成功はない。失敗するリスクを抱えているからこそ、成功のチャンスが訪れるのである。

挑戦する前に、結果がすでに分かっていることなんてない。結果が分かっていることなど、挑戦とは言わない。事前に結果がわからないから、結果を過度に気にしすぎるのは良くない。少し遠い未来の展望と、目の前の課題をクリアすることに全力を注いで、挑戦し続けよう。

高須院長の生きている姿を見ると、歳をとっても捨てたもんじゃないと明るい希望を抱ける。

高須クリニックの高須克弥院長が元気すぎる!高須院長の現在の年齢(2017年7月時点)は72歳だ!元気すぎる!

最近も、テレビ番組で中傷を受けたとして、謝罪を求めていた。その翌日には問題は解決したのだが、そのやり取りが爽快すぎる。少しもネチネチしていないのだ。謝罪を受けた高須院長は、「全部許すぜ!」と全面的に許す姿勢を見せ、度量の大きさを見せた。

歳を取ると、頑固になったり、もちろん体も弱くなったりするものだが、高須院長にはそんな兆候は微塵も見られない。高須院長の活発さや明るさは、現在の中年、そしておそらく若者も、「歳を取っても明るい生き方ができるんだ」と希望を抱かされる。

高須院長は、私生活でも快調だ。漫画家の西原理恵子さんと一緒に楽しんでおられる。西原さんとは結婚はしていないが、二人は私生活を謳歌されている。

ああ、お年を召しても高須院長のような明るい生活を続けたい!以前の高須クリニックのCMで、ヘリコプターに乗って快調に飛んでいるカッコいい高須院長を思い出す。

あっ、僕は基本は独りでいようとは思っているのだけど・・・

趣味ってなんだ?

趣味は本当に必要なのか?

最近の日本では、良くも悪くも趣味が美徳とされ、趣味は持つべきだという強迫観念があるように思える。しかし趣味は本当に必要なのか?と問われると、僕はどっちでもいいと答える。

趣味が生きる原動力になるのなら、その人にとって趣味は素晴らしいものであるし、暇つぶしに趣味をやっているのなら、はっきり言ってどうでもいい。

ただ一番問題なのが、世間が、社会が、趣味を強要している場合だ。世間が強要しているとは、人と会うと「趣味は何?」とお決まりのように質問することだ。もちろん話のネタ、話の入り口として軽い気持ちで聞いているのだとは思うが、特に趣味を持っていない人には迷惑であり、ストレスにもなる。

しかしもっと深刻なのは、社会が強要していることだ。例えば、入社面接で「趣味は何ですか?」と聞かれることが多いようだ。しかし、仕事をすることと趣味とは何も関係ないし、何の相関関係もない。こう言うと、面接官は「趣味が豊かな人の方が社交的で、円滑に仕事を進めることができる」などという後付としか思えない理由を付けるかもしれないが、僕には全くそうは思えない。少なくとも仕事内容・スキルが重視されるアメリカ・ヨーロッパにおいて、そんなことを入社面接で聞くバカはいないだろう。

それにそんなことを面接で聞く面接官は、本当は「一応定番の質問で、どこの会社でも聞いているだろうから」程度の横並び意識で質問しているのであろう。そんな質問をする面接官・企業は、自らの無能をさらけ出しているだけだ。

面白い人間か?豊かな人間か?という問いに、趣味は関係ない。もちろん趣味を持つこと自体は何も悪くない。しかし趣味がなくてもそれでいい。

ところで、十数年くらい前に田原総一郎氏の書かれた本のタイトルが、僕は大好きだ。そのタイトルは、

「面白い奴ほど仕事人間」

最後に僕自身の事を言うと、釣りが好きなので(最近は休止しているが、ゆとりができれば毎週末にでも行きたいと思っている)釣りが趣味とも言えるし、筋トレも趣味とも言える。音楽を聴くのも大好きだ。こう書くと、なんか趣味が多いような気がする。しかし、そんなことは僕自身の評価には何も関係ないと思っている。

ストレスフルな時代をどう乗り越えるか。

現代社会は、何かとストレスがかかる。もちろん同じ状況でも、ストレスの度合いはかなり違ってくるとは思うが。ストレス耐性の強い人間になることは、多くの人が望んでいることではないかと思う。

ところで、ストレスは記憶力に大きな影響を与えると言われている。記憶力をつかさどる、脳の「海馬」というところが、ストレスに非常に弱いらしい。悪くなった記憶力を回復させるためには、ストレス脳を何とかしなければいけない。

ストレス脳の回復には、運動がいいようだ。僕の場合、起きてから毎日筋トレをしているが、腹筋を何十回としている間ストレスは忘れ、腹筋をしながら前向きな考え事をしている。やはり体を動かして中にたまったものを吐き出すというのは、すごくいいと思うし、絶対に必要だと思う。

極端に言えば、現代社会を乗り越えられるかどうかは、いかにストレスに打ち勝って、ストレスの攻撃をかわすか、と言えるのかもしれない。自分も今は非常にストレス脳になっているが、前に進むためには何とかストレス脳を解消しなければいけない。

あと、余談:ストレスの解消にブラックチョコレートも良いらしい。僕もチョコレートを食べると、少し楽になる(ような気がする)。

自分を信じ抜くこと。

目標に向かって挑戦している者にとって、自分を信じ抜くことは大事だ。挑戦し続ける原動力になる自信と希望を持ち続けるには、自分を信じる心が必要不可欠だ。

極端な話、根拠のない自信でもいい。根拠のない自信でも、自信がないよりかはるかにましだ。根拠なんてものは、後からできてくる。

自分のことは、自分が一番よくわかっている。もちろん周りの人の方が見えていることもあるが、自分の頭の中、自分の心の中は、自分にしか見えないものであり、その自分にしか見えないものを基にして、意志というものが形成される。

周りの人の目を気にしすぎては、自分を縛り付けるばかりだ。もちろん社会で生きていくには、周りの目、周りの評価は気になるところだろう。しかし、自分の進むべき道は他でもない、自分自身が決めることだ。

自分の進むべき道を決めたら、後は自分を信じ抜いて進むだけだ。

生活はルーティーン化したほうが良い。

日々の生活において、常に考えながら物事に取り組むことは非常に重要だ。しかし、何に対して思考すべきか?その優先順位はしっかりと持っていなければいけない。

普段の行動について考えるのもいいが、重要なのは「何をするか」(これももちろん大事だが)ではなくて、「取組む行為において考える」ことだ。そのためには、普段の生活行動に関してはその都度考えるより、ルーティーン化したほうが良い。そして、取り組む対象に対して思いっきり考える。考える資源を集中するのだ。

とは言っても、もちろん「何をするか」についても、ほったらかしではいけない。定期的に、「より良くするためには何をすべきか」と見直すことも必要だ。

ルーティーン化できるところはルーティーン化して、試行錯誤するところは徹底的に試行錯誤する。そのような頭のメリハリをつけることが、物事を進める上でも大いに力になる。

僕には夢がある。そしてその夢は目標である。

夢を持っている人は多いのではないか。しかし、夢を夢で終わらせている人がほとんどのように思える。

僕にとって夢とは目標であり、夢は成し遂げてこそ意味があるのだと思っている。だから、「夢を見る」という言葉は嫌いだ。夢とは現実であり、現実であるからこそ生きる原動力にもなる。

大人が夢を見ることを否定する人は多い。いい歳して、と冷めた目で見る。もちろん、非現実的で、実現のための努力を実行しないような夢見る人は、論外である。しかし、夢を実現させるためにコツコツと努力する人を否定する権利は、誰にもない。

しかし、夢に向かって走ることは、非常に苦しい。人にもよるが、夢を取ることによって色々なものを犠牲にしなければいけない。しかし、夢を成し遂げた時の達成感と、それによって得られるのものの大きさが、そんな犠牲による苦しさを吹っ飛ばしてくれる。

明日があるさ!

「明日があるさ」と気軽に思いたいが、今結果を出さないと明日がないことも。ダメだった時のために保険をかけるのは重要なのかもしれないが、あえて保険をかけずに自分を追い込むことも。

しかし、過度に自分を追い込むのは良くないと、最近感じている。過度に自分を追い込んで、精神的に追い詰められると、身体的にも良くない。

自分に自信はあるのだけれども、それ以上に追い詰めすぎて生きた心地がしない。

しかし、結果というものは、追い詰めて限界に達する寸前に出るものかもしれない。そう思おう。

自分の精神と肉体をコントロールする。

「何をするにも体が資本」と言われるように、健全なる肉体を維持することは非常に大切だ。それと同時に、健全なる精神を維持することも非常に大事だ。精神と肉体は人間の両輪である。

とは言っても、この両輪を常に良好に保つことは易しいことではない。

僕自身、調子を崩すことはよくあるが、そういう時は試行錯誤の連続である。そうして試行錯誤していくうちに、自分にはどういう処方が合うかということが薄々感じられてくる。それが明確になると、自分のコントロールの範疇に入ってくる。

精神と肉体は常に意識しないと落ち込んでしまう。精神を常に研ぎ澄ますには、常に高い意識を保たなければいけない。肉体を高いレベルで保つためには、トレーニングを怠ってはいけない。

と、何か大げさなことを書いたが、日常を怠慢なく過ごせば、精神も肉体も大きく落ちぶれることはあまりない。しかし高い目標を持って何かに挑戦している人間には、精神と肉体を高いレベルで維持すべく、自己をコントロールしなければいけない。

昔は学問は”人の生き方”そのものであった。

2015年のNHK大河ドラマであった「花燃ゆ」。大河ドラマでは珍しく、”学問”がテーマであった、幕末の物語である。

ところで、江戸時代以前の学問と、現在の学問は、かなり性格が違う。昔の学問は”人間の生き方”を追求しようという意気込みが感じられる。そして学問は実践を伴って初めて意味をなし、当時の学問に命をかける若者の姿は非常に美しい。

吉田松陰はペリーの船に乗り込み、投獄され、伊藤博文・高杉晋作など時代を動かす中心人物を育て、最後には打ち首になって死んだ。彼らの行動は、”学問の究極”と言えるだろう。

現在の学問はどうだろうか?学校では指導要領で定められたマニュアルによって教えられることが決まっており、受験のために必死になって勉強する。それはそれでいいのだが、受験のためと言えども、何か目的意識が軽いように思える。そして、学問を学べる”ありがたさ”も希薄である。

現代でも、吉田松陰のような”生きるための、そして時代を変えるための塾・学校”を現代でも、と思うのだが、このような考えは時代錯誤であろうか?