思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

良い論文は、噛めば噛むほど味が出る。

論文に限らず、一般の本にも言えることだが、良い論文、良い本というのは、噛めば噛むほど味が出る。すごく短い論文や短編書籍などでも、良いものは何度も何度も繰り返し読み、さらにその度に新しい発見がある。同じところを繰り返し読んでいるだけなのに不思議だ。

最近、とある数学の論文(非常に偉大な論文である)を熟読している。この論文は数年前にプリントアウトしていたのだが、最近(と言ってもかなり前だが)になって深く読み始め、同じところを何度も何度も繰り返し読むのだが、その度に新しい発見があり、新しいアイデアが出てくる。まさしく噛めば噛むほど味が出る論文だ。

最新の論文をやみくもに読むのも悪くないが、良い論文を繰り返し読むことは、多くの論文を手当たり次第に読むより得るものは大きい。

論文のことについて書いたが、これらのことは普通の本・小説にも当てはまる。多くの本より、一つの良書を繰り返し読むことでしか得られないものがある。座右の書というものを一冊作るのも悪くない。

基礎科学者はアスリートか?

以前、「超対称性はスポーツだ!」(超対称性とは素粒子論に出てくる理論の一つである)という声を聞いたことがある。これはどういうことか?

基礎科学もスポーツも、直接何かの役に立てるためにやっているわけではない。基礎科学者は純粋に、「自然の仕組みを解明したい」という思いから自然を追及している。これはアスリートの「速く走りたい」という気持ちと似ている。

科学と言うと、役に立てるために研究していると思っている人は多いが、基礎科学に関しては役に立てるという目的意識は希薄だ。特に素粒子物理に関しては役に立てるという意識は皆無と言っていいだろう。とは言え、現段階で全く役に立たなくても、何十年後かに大きく役に立つということは歴史が示している。

基礎科学をスポーツだと認識できる人がどれだけいるかわからないが、僕は、「基礎科学者とは頭を使うアスリート」だと思っている。

自分の調子を制御する。

自分の体調、自分の思考の調子、自分では知っているようで意外と把握していないことも多い。

毎日最高の調子で過ごしたいが、調子の波はどうしても避けられない。ならば、波の低い部分をできるだけ抑えて、高い部分はできるだけ高くもっていかなければならない。すなわち、自分の調子を制御するということだ。そのためには、毎日毎日試行錯誤。わかったと思っても、次にはそれが通用しないことも。

調子を制御するためには我慢も必要だ。例えば断酒したり、精神的健康を得るために筋トレなど体から整えることも有用だ。

明日調子よく過ごすために、前日から自分を制御して頭と体を整えておかなければならない。

孤独がいい。

僕は集団行動が苦手だ。もしかしたら嫌いなのかもしれない。基本は独りで行動するのがいい。だから普段は自分一人で考えて行動している。とは言え、もちろん常に一人でいるわけではないが、集団の中にいると、息苦しい。

「みんな仲良く」とか、「力を合わせて」とかよく言われるが、そういうのも大嫌いだ。

日本人は協調性が高いと言われる。しかしその反面、日本人は独りで行動するのが苦手のように感じる。日本人は孤独をネガティブにとらえる人が多いが、僕は「孤独ってものは、なかなかいい」と感じている。

集団の中で協調性をとり、それでいて個人でも上手く行動できる、というのが理想なのかもしれない。しかしその両者を上手く使い分けられる人は多くない。ならば、片方だけでも最高に上手く持っていきたいものである。

それは、僕の場合は、最高の「孤独力」を身に付ける、ということかもしれない。

「昔」と「今」の境目。

昔、神戸市内を走っていた神戸市電に関する記事を見た(神戸新聞NEXT)。1971年に廃止されるまで、神戸市内を神戸市電が縦横無尽に走っていた。そして廃止から6年後、神戸市営地下鉄が開通した。その間たった6年だが、僕にはこの間に断層が走っている。断層とは、僕が生まれた1976年のことだ。

僕にとって、神戸市営地下鉄が走っているのは明らかに「今」であり、神戸市電が走っていたのははるかかなたの「昔」である。その差たった6年なのに。

やはり誰でも、生まれる前というのは”昔”であり、生まれた時から”今”が始まるのではないか。

僕が生まれたのは1976年。そこから数えると、第二次大戦終戦は31年前である。僕が生きてきた年月よりも短い!第二次大戦とは、そんな近い過去に起きていたのかと驚いてしまう。

生まれる前の第二次大戦は昔だが、実際神戸で体験した阪神大震災は、大学受験真っ最中の時期であり、今も今である。しかしその後に生まれた人にとっては、阪神大震災もはるかかなたの昔なのであろう。まさしくジェネレーションギャップである。

「今を生きる」とよく言うが、正確には「生きているのが今」というのが正しいのかもしれない。

「何をすればいいか?」を自分の頭で考えることが大切だ。

ここ近年、ハウツー本や自己啓発本がブームだ。しかし、それらの本を読んで実行した人はどれだけいるだろうか?ゼロとは言わないが、ほとんどいないだろう。なぜそれらの本を読んでも実行できないのか?それは自分の頭で考えた結論ではないからだ。

どうすれば上手くいくか?どうすれば向上するか?それらの手法ばかり目が行く人が多いが、本当に重要なのは、「どうすべきか?」を自分の頭で考えて導き出すことだ。

自己啓発本には威勢のいいことばかり並べられているが、それらをどう考えて導き出すか、ということはほとんど書かれていない。結論ばかり並べられて、道筋が書かれていないのだ。

そのような結論が書かれた本ではなく、思考を深めるための中身の濃い書物を手に取ってみよう。そして、自分の頭で考えることを心がけることが大切だ。

社会的に汚い存在ということと、人間的に汚いということは、全く違う。

社会的評価というものは、自分の意図しないところで作られることが多い。いくら品行良く生きていても、周りの評価はそれに比例しない。最近、投資家の村上世彰氏を見ていてそう思った。

社会的評価と人間性は別物だ。村上世彰氏や、あるいはホリエモンもそうかもしれない。社会的立場にある人間は、表舞台にさらされている分、一挙手一投足によって社会的評価が左右される。時には前衛的でありすぎるが故に、刑務所に入れられてしまうことがある。本人は潔白であっても、社会的には汚い存在とされてしまう。

社会的評価というものは、社会の気まぐれであるので、社会的評価を気にしすぎる必要はない。別に社会的に汚い人間でもいいではないかと思う。自分が一人の人間として信じる道を歩けばいい。周りは周り、自分は自分と思えばいい。社会的評価を気にしすぎると、自分を縛り付けてしまうだけだ。

周りから汚いと思われようがどうでもいい。むしろある程度汚い方が生きやすいし、潔癖な人間よりもむしろ健全かもしれない。周りに合わせるのではなく、前衛的に道を切り開くことが大事だ。自分に自信を持って、信じる道を貫くことが大事だ。

選択と集中。

物事には優先順位を付けることが大事だ。そして、優先順位を付けるには、物事の本質を見抜き、どれが重要かを判断しなければいけない。

「選択と集中」が大事だとよく言われるが、選択して集中するためには、まずは広く物事を見通さなければならない。そのためには、幅広い知識が必要だ。大学で言うと、3年次・4年次での専門課程に入る前に、1年次・2年次で一般教養の訓練を受けることにあたる。

社会では、スペシャリストか、ジェネラリストか、という選択を迫られる。しかし重要なのは、スペシャリストでありながら一般的な見識を持つこと、またはジェネラリストでありながら専門的知識を持つことである。

自分を解き放つ!

自分に対して何か制限を課していないだろうか?例えば僕だったら、「一日一つのブログ記事を書く」ということも、一つの制限だった。元はと言えば、毎日ブログを更新しようということだったが、最近では「一つ”しか”更新しない」という制限になっていた。そういう制限を取っ払って、「書ける時はいくつでも書こう」というスタンスに変えることにした。

そこで今日も、この記事で4つ目のブログ記事だ。思ったら、考えたら、どんどんブログ記事を書いていこうと思う。書けるときは、一日に複数の記事をどんどん書いていく。

自分に対する制限は、何もブログ記事だけではない。筋トレの腹筋の回数、数理物理の研究に打ち込む時間帯、など様々ある。

しかし、怠慢している時間はどんどん制限して抑えなければいけない。本屋での立ち読みも制限しないといけないかもしれない。

とは言え、自分に対する積極的前進と向上のためには、制限を課すことは無意味だ。思いっきり暴れまくって、自分を解き放たなければならない!

闇に包まれても。

闇に包まれている時は、いつ闇から抜け出せるか不安だ。闇からの出口はまだまだ遠いのか、それともすぐそばなのか。闇からの出口というものは出てみるまで分からない。

しかし闇に包まれていても、出た時の準備を怠ってはならない。闇から出た時、最大限に羽ばたけるように、抜かりない準備をしておかなければならない。

ただ、その場に留まっていれば、出口は永久に現れない。だから最低限の前進はしなければならない。なんなら、もがき苦しむのも悪くない。何もしないよりましだ。ただ前を見てもがき苦しまなければならない。

出口から出た時、どんな輝く光を浴びられるか。それを考えるとわくわくする。そんな気持ちを「希望」というのかもしれない。