思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

模様替え。

今日新しい本棚を買ったので、本棚を設置して本を収納すると同時に部屋の模様替えをした。やはり綺麗になった部屋は気持ちがいいものだ。少し前に「整理整頓はしなくていい」と言うブログ記事を書いたばかりだが、そうは言っても僕も整理する時は整理する。ただ無理に強制的に整理整頓をさせるべきではないと言うことである。

本が仕事道具の僕にとって、本棚は必須アイテムだ。イメージ的には書斎で暮らしていると言う感じだろうか。今回楽天で本棚を買ったのだが、結構リーズナブルな値段でしっかりとしたお洒落で良い本棚を買うことができた。机のすぐ右手に本棚を設置したのだが、重要な本は手を伸ばせばすぐに取り出せる位置に、そして少し離れるにしたがって重要度が下がっていくように配置している。本の配置一つで結構効率が変わって来るものだ。

ただ地震が起きた時、本棚が倒れるのが心配だ。そのために本棚が倒れないように壁に固定しなければならない。地震国に住む我々には必ず考えなければならないことだ。僕自身も阪神大震災を経験しているので、大地震の怖さは少しは分かっているつもりだ。しかしもう二十五年経っているので地震の記憶もかなり薄れている。しかし日本に住んでいる以上、いつ大地震に遭うかはわからない。明日地震が来るかもしれないと言う覚悟を持ち、備えなければならない。

部屋を模様替えして気分一新となり、これが研究にも良い影響をあたえることを願っている。もう時間がない。明日結果を出さなければ明後日の命がないと言う境地だ。明後日以降も生きれるように、少し気分を変えて本や論文と格闘しよう。

トップを目指す者に、学歴の衣は似合わない。

40代になれば、人生も後半に入りかけたと言えるだろう。その後半の人生をどう生きるか?多くの人は若さに価値を見出し、若い頃に戻りたいと言う人も少なくない。しかし僕は、人生後半こそ本当の勝負だと思い、これからの人生に全力をささげようと思っている。

日本は学歴社会だと言われている。もちろん日本よりも極度の学歴社会に陥っている国も存在するし、学歴に物を言わせたい人は勝手にやればよいと思っている。しかし確実に言えることは、学歴が物を言う世界は低レベルな世界であり、学歴に物を言わす人間は低レベルな人間であると言うことだ。学歴に物を言わすのは就職活動くらいで終わらせなければならない。40歳も過ぎて学歴にこだわる奴は最高にカッコ悪い。

日本、いや、世界トップの医学者は誰か?間違いなく山中伸弥教授だ。その山中教授が学歴にこだわっていれば、確実に医学研究の世界に残れなかったどころか、医学研究の世界に足を踏み入れることもできなかったであろう。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は大学院さえ行っていない。もちろん、高学歴のノーベル賞受賞者は沢山いる。しかし学歴にこだわるノーベル賞科学者を僕は見たことがない。僕はトップを目指す者に学歴の衣は最高に似合わないと思っている。100%、いや200%実力勝負なのである。

学歴にこだわると言うことは、その人が既にトップからずれ落ちているか、あるいはその社会が低レベルであると言える。もしトップを目指そうと思えば、まずは学歴の衣を捨て去ることから始めなければならない。学歴と言うものは、ある意味結果論であって、手段ではないと僕は肝に銘じている。

専門外の事に走るのは、逃げなのか?教養なのか?

最近何かと専門外の分野に走ることが多い。生物学(特に理論進化遺伝学)、化学、コンピューター科学、経済学、日本史・世界史など、興味の向く分野はかなり広い。もちろん僕の専門は数理物理(数学と物理)なのだが、中途半端に調子がいい時とかは何かと専門外の事に目が向いてしまう。学生なら専門外の勉強をすることは教養だと言い訳できるが、僕の場合どうも逃げに思えてしまう。専門外の分野に取り組むことは、世間一般で言うと「趣味」に当たるかもしれないが、もし僕の行っていることが趣味ならば、それは99%逃げである。

では、趣味(逃げ)で終わらせないためにはどうすればいいか?それはその分野も研究レベルまで究めて一本の論文でも書くことだろう。なので理論進化遺伝学も経済学も、少なくとも一本は論文を書くことを目標にしている。もしそれができれば僕のやっていることが正当化できるだろう。

僕は何が何でも教養で終わらしたくないのである。教養で終わらすのは甘いと思えて仕方がないのだ。ただ現時点の状況で言うと、まだまだその域には達していない。しかしそこまで達する自信はかなりある。根拠のない自信か?それとも本当にそれだけの力があるのか?それは結果を出せるかどうかにかかっている。もちろん、数理物理で自分が納得できる結果を出すことが大前提であるが。

その到達点は、僕が以前から言っている「ジェネラルサイエンティスト」である。すなわち、全ての科学的分野でプロレベルに到達すること。野球で言うと、大谷翔平の二刀流か?そんなことを言う僕に対して、バカにしたい者はバカにすればよい。自分はその道を突き進むだけである。

お金の使い方考察。

皆様はお金をどのようにお使いでしょうか?もちろん、お金をたくさん持っている人と持っていない人ではお金の使い方は全然違うだろうし、またお金を持っている者同士、あるいはお金がないもの同士でも使い方は人それぞれ変わってくる。しかしお金の使い方には、その人の思想や価値感が非常に表れると僕は考えている。そこで僕自身の事を含め、お金の使い方について少し考えようと思う。

お金を使う時、その目的は短期的目的、そして中長期的目的に分かれる。短期的目的の代表例は食事代や遊行費である。とは言え、食事に関しては健康や体造りなども考慮すると中長期的目的だと考えられ、遊行費も人脈作りなどまで視野を入れると立派な中長期的目的だと言える。しかしコンビニで買うメロンパンは明らかに短期的目的である。

中長期的目的も様々あるのでいちいち述べないが、その中で僕が一番大切にしているのが文献費(書籍代や論文入手代)である。書籍代は自分の人間の基盤を作るうえで一番基礎となるものであると考えており、僕にとっては水を飲み空気を吸うのと同じようなものだと捉えている。書籍にどれだけの価値を見出すかは人それぞれであろうが、僕はそれに最大限の価値を見出している。僕のホンゲル係数(収入のうち、書籍代の攻める割合)は超トップレベルであろう。また服飾費なども結構重要視している。とは言っても無駄に服にお金を次ぎこむわけではないが、服や靴は対面する人に対して与える印象は絶大であり(もちろんそれだけではなく、人間性はさらに大事である)、それによって人間関係が変わっていくと言えるだろう。

服の話で言うと。僕は普段着は結構ユニクロを愛用している。ユニクロは値段はそれなりに安く、質はそれなりに良く、コストパフォーマンスは絶大だ。しかし普段着だけが服ではない。男ならスーツも重要である。ここぞという時にはスーツで決めることも重要である。ただ、意外とスーツをしっかりと着こなせている男は少ない。それは電車に乗っていれば分かるであろう。オーバーサイズのだらしない着こなししかできていない男がなんと多い事か!スーツはジャストサイズが肝であり、高い金額を次ぎ込まなくてもジャストサイズでしっかりと着こなせば印象はかなり上がるものだと思っている。

お金を使わない人の事をケチだと言う人がいる。ケチと言えば聞こえが悪いが、お金を使わないこと自体は悪いことではないどころか、節約家であり良い事でもある。しかしそこでも思想や価値観が重要になってくる。しっかりとした目的があり、目標に向かって節約しているのならそれは非常に素晴らしいものだ。そのために普段着がボロボロでもそんなに悪い事ではないかもしれない。しかしただ単に自分の懐だけを考えて、自己中心的にお金に汚い人は非常に問題だ。そのような人はお金があるかないかと言う以前に心が貧乏だと言える。

結局何が重要か?それは今日お金を使うことによって、明日それが倍の効果になって帰ってくることがある。そのようなお金の使い方が重要だと思う。逆に今日ケチったがために、明日にその倍のダメージを食らうことがある。日本人はお金のことを話すことを汚いと思っている人が多いが、お金の使い方を通じてどのような思想、どのような価値観を形成するかと言うことは非常に大切な事である。

整理整頓はしなくていい。

子供のころから「整理整頓をしなさい」とはよく言われたものだ。時には親から、時には学校の教師から。整理整頓はどこの国、いつの時代でも美徳だとされている。しかし僕には、そこまでして整理整頓を美徳にする必要はあるのかと常に疑問に思っている。ではなぜ整理整頓は美徳だとされているのか?いくつか理由はあるだろうが、一つは整理することによってどこに何があるのかすぐにわかる事(このことは後に触れる)。そして最大の理由は、見た目がきれいでスマートに見えることだと思う。しかし僕には所詮その程度の利点しかないと思っている。それどころか人によっては、整理整頓にこだわることは欠点にもなると思っている。

先ほど述べた「どこに何があるのかすぐわかる」と言うことに関しては、一見整理していないように見える人でも実は物の在りかはすべて把握している(人にもよるであろうが)。それどころか、散らかっている中にも自分なりの秩序があり、意外と効率的に散らかっていると言うことも大いにあり得るものだ。それは僕自身の経験でもそうである。しかし社会では、整理整頓ができないと仕事ができない人だと判断されることが多い。なので一つ実例を出そう。

僕が大学院時代、一人の付き合いのある研究者(I教授)がいた。そのI教授の部屋は結構散らかっており、机の上は書類(論文)の山でいったいどこで研究をしているのかと思うほどであった。しかしそのI教授は当時フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われ、40歳以下と言う年齢制限がある)の有力候補と言われ、世界的な数学者なのである。もしI教授に整理整頓を強制するのならば、それはI教授を否定するに等しいと僕は考えている。

僕が整理整頓にこだわる人を見ていると、もちろん人それぞれだが、整理整頓をすることによって自分の才能のなさを覆い隠そうとしているようにしか思えない人もかなりいるように思える。そして自分のスタイルで取り組んでいる人に整理整頓を強制することは、その人の足を引っ張ることにもなり得ると僕は強く感じている。

要は整理整頓自体が重要なのではなく、整理整頓ができる余裕がありその方が仕事がはかどるのならばどんどん整理整頓をすればよい。しかし人にはそれぞれ自分のスタイルというものがあり、人によっては散らかっている方が仕事がはかどる人も少なくない。さらに言えば、整理整頓に過度に神経と時間をつぎ込むことは無駄である。世の中にはI教授のような人もいることを多くの人に知ってもらいたいものである。I教授の事例は決して例外ではないはずだ。

90%の失敗。

9月20日の半沢直樹も非常に熱かった。次回が最終回のようだが、今から心がワクワクして止まらない。

ところで半沢はする事する事が全て(最終的には)成功している。もちろん途中経過として失敗することはあるが、最終的には全ての物事が成功しているのである。半沢の成功率は100%?もちろんこれはドラマだから出来ることなのではあるが、しかし多くの人はできるだけ成功率を上げたいのではと思っているのではないだろうか?

しかし僕は自分の成功率にはあまりこだわっていない。だからなのか、僕の物事の成功率は非常に低い。もちろん、僕だって成功しようと努力はしている。しかし数字は結果論であるので、あまりこだわらないようにしているのである。そして成功を糧にする人がいれば、失敗を糧にする人もいる。僕はもちろん後者。ただ僕は成功の数にこだわるのではなく、成功に質に非常にこだわっている。では成功の「質」とはいったい何なのだろうか?それは根幹的な部分に位置することである。枝葉は数多く散っても、幹は確実に守り成長させる。また幹を成長させて守るためには、多くの枝葉を切り落とさなけらばならないこともある。すなわち僕の数多くの失敗は、将来の幹の構成の布石だと考えている。失敗しないやつに幹を為すような成功は為せない。失敗しないでそれができるのは半沢直樹くらいである。

そして失敗を恐れない意志と言うものが非常に重要になる。そのような意思を持って行った失敗は前向きな失敗となるが、恐れて失敗してしてしまえばそれは後ろ向きの失敗にしかならない。僕の90%、いやそれ以上の失敗のほとんどは意志を持った前向きな失敗だ。だからこそ何も卑屈にならず、それどころか確信を持つ事ができるのである。後はそれらの失敗のなす根幹的な成功まで生きること、それが重要になってくる。そのためにもこれからも頑張って生きよう!

僕がこのブログで本名を明らかにしていることについて。

僕の名前(本名)は木原康明。このブログのタイトルの通りだ。なぜ有名人でもない僕がブログのタイトルで本名を明らかにしているのか?理由はいくつかあるが、一つは名前(僕の姿かたち)を隠して発言したくはなかったからだ。世の中の事についてニックネーム(偽名・匿名)で物事を発言している人は多い。しかし僕にはそれは卑怯なのではないかと思うのである。もし正論を言うのならば、自分の姿かたちを堂々と明かして声高に叫べばよい。しかし実際は自分の姿かたちを隠してこそこそとネガティブキャンペーンをしている人も少なくはない。

最近世の中では、ネット上での誹謗中傷が問題になっている。そしてそれらの誹謗中傷をやっている人のほぼ全てが偽名・匿名で攻撃を行っている。もし誹謗中傷をしたければ、首相や大統領に対して本名で行ってみればよい。しかしそれらの人はそんな勇気は全くないであろう。弱者には強く、強者には弱いのである。今、菅義偉氏が日本国の総理大臣に就任した。まだ就任したばかりなので良いとも悪いとも言えないが、官房長官時代の菅氏を見て(安定感は圧倒的だが)、僕の心証はあまり良くはない。これから良い政策をボンボン打ち出して行って欲しいものだが、もし道理にそぐわないような政治をしようものなら僕は容赦しない。総理であろうと強く非難していくつもりである。

話は元に戻るが、僕が本名を出していることによるメリットはあるのか?今現在だけで見ると全くない。しかし何も考えないで名前を出しているわけでもない。ブログで本名を出しているのは将来への一つの布石でもある。もちろん本名を出したことに対して後悔などは全くない。そいう言えば、一つ良いことがあった。それは海外に住んでいる中学時代の同級生が、僕のブログを見つけてくれて連絡を寄こしてくれた。それ以来、彼が毎年日本に帰国したときは一緒に飲む仲となった。

僕は立派な人間でも何でもないが、ただいくつか心に決めていることがある。弱いものに優しく、権力者に対して厳しい態度を取る。長いものに決して巻かれない。それが木原康明と言う人間だ。それができなくなれば、もう木原康明ではない。と言いたいところだが、やはりどうしても妥協してしまうこともある。優しくしたくても少し強く当たってしまうこともある。そこは僕の人間的な弱さなのかもしれない。しかし匿名・偽名で人を攻撃(誹謗中傷)するようなことは決してしない。今の僕には何の力もないかもしれないが、菅義偉総理は心して身構えた方が良いだろう。

取り組むテーマ二つ。

課題(問題)を設定する時、どのようなテーマを設定すればよいだろうか?多くの人は中心になるテーマを一つ決めて、それに集中することだろう。そしてそれは多くの場合正解である。いくつものテーマを掛け持ちしてしまえば力が分散化され、結局二兎追うものは一兎も得ずとなってしまう。しかし自分の実力に自信があれば、二兎追うのも一つの手である。さらに二兎追うことによって、双方が相互作用を起こして二つともに関して良い結果が出ることもあろう。現在二刀流に挑戦し続けている大谷翔平選手は現在苦しい立場に立たされているが、僕は大谷選手の二刀流を熱烈に応援している。そして成功することを祈っている。

学問の研究を行う時、ほとんどの人は専門を一つ定める。そしてその一つの専門に対して深く追究することだと思う。しかし一言で専門と言っても、細部を深く掘り下げるものから物事を大局的に捉えるものまで様々ある。しかし研究に関しても、必ずしもテーマを一つに絞る必要はない。そこで僕は、細部を掘り下げるテーマと大局的に構成するテーマを二つ定めることにした。と言いたいところだが、実際はもっとたくさんのテーマを定めている。現在ではそのようなテーマは十個に近づこうとしている。そしてそれらのテーマの範囲は、専門の数学と物理だけにとどまらない。理論生物学関係からコンピューター関係まで膨れ上がろうとしている。もちろん全て、理論系と言う縛りからは逃れられないのだが。

近年に始まったことではないが、科学はますます細分化してきている。実際、物理の研究者同士でも、隣接する分野の事さえ理解できないことは多いのではないだろうか。しかしそんな時代だからこそ、広く他分野に精通する研究者が必用になって来るのではないだろうか?少なくとも二つの分野、二つの視点を持つ事は非常に重要である。

20世紀前半までは、非常に理想的な時代であった。二度の大戦があったことは不幸な出来事ではあったが、学問の世界では数学においては、ガウス、リーマン、ヒルベルト、ポアンカレなど、あらゆる分野において大きな結果を出す研究者が少なからずいた。しかし現在では、そのような万能型研究者は皆無である。皆自分の専門の事だけでアップアップなのである。もちろん、研究者の質が落ちたわけでは決してない。おそらく学問の大きさと深さが膨大になりすぎたからであろう。しかしそんな時代だからこそ、あらゆる分野に広く深く挑戦する研究者が必用なのではないだろうか?それに挑戦することは非常にエキサイティングな冒険である。しかし非常に大きな危険性も伴っている。自分の命を懸けてでもそのような挑戦に取り組む研究者が一人いてもよいのではないだろうか?

美学は必要か?

「引き際の美学」と言う言葉をよく使われる。まだ余力があるうちに引退しようと言う考えだ。もちろん、美学と言う言葉は様々な事柄に使われるが、学問を行う時、そして何かを行う時、果たして美学と言うものは本当に必要なのだろうか?

引き際の美学に関して言うと、僕自身は全く正反対の考えを持っている。やはりボロボロになるまで粘って、死に体になったときに引退すればよいと思っている。野球で言うところの生涯打率とか生涯防御率などの数字には全くこだわらない。もちろん引退を引き延ばせば、生涯打率はどうしても低下してしまう。しかし積み重ねたヒットの数は絶対に減らないし、長くやれば絶対に一本二本と増えいて行く。イチローの打率は凄まじいものであるが、しかしイチロー自身は常に打率よりもヒットの数にこだわっていた。それは上に書いたような理由からであろうと考えられる。

話を学問に戻すと、数学や物理学の理論には美の基準と言うものが存在する。どのようにするか迷ったとき、多くの学者は美しい方に進む。その最たる例が物理学者アインシュタインであって、彼は常に美と言う観点から理論を構築していったと言われている。一般相対性理論などは非常に複雑な計算の基に成っているが、しかしその完成された姿を見ると非常に美しい形をしている。ここで言う美しい理論とは、不自然なところがなくシンプルだと言うことである。このように、理論系の科学の多くには絶対的に美の観点が必要である。ある意味、美的センスが科学者としてのセンスに直結すると言ってよい。

物事を二者択一で考える人は多いが、僕はそれは多くの場合間違っていると考えている。多くの場合、どちらか一方にこだわるのではなく臨機応変に使い分けて行くことが必要なのである。美的観点が重要な事には美的感覚でとらえ、美など必要ないことに関してはなりふり構わずどんどん進んで行けばよい。しかし美を無視するにしても、そのような判断をするためには美的感覚と言うものは必要になってくる。なので美学を自分の中に持つと言うことは、非常に重要な事なのである。

学問の貿易。

経済学の基本原理に、それぞれの人が得意な事に特化し、お互いの資源をやり取りした方が、自給自足するよりも利益(資源)の総量は増大すると言う原理がある。その初等的な証明は簡単な数学(算数?)で証明できる。なので、各国の経済学者は様々な意見で対立しながらも、積極的に自由貿易した方が良いと言う意見では一致している。では学問の場合はどうであろうか?

数学の事は数学者に任せ、経済学の事は経済学者に任せ、それぞれの人は自分の専門の事だけに取り組んで他分野の事には無関心で良いのか?他分野の事はその分野の専門家から無批判に知識を輸入すればよいのか?これは一見、冒頭の経済学の原理に適合するように思える。しかし少し考えると、これは間違っていることに気づく。学問の貿易とは、他分野の専門家から知識を輸入することではない。自分から積極的に他分野の事を学び、知見を広げることこそが学問の貿易と言うものである。なので数理物理学者も科学の他分野(化学や生物学、医学)、そして世界史・日本史や経済学などの知識も積極的に獲得していった方が良い。そうすることによって、専門分野の研究に対しても大局的な視点で取り組むことができるようになり大きな結果が出せるのだと僕は考えている。

数学者なら他の数学者のとの議論を重要視するであろう。しかし真に大切なのは、専門外の他分野の研究者との議論である。しかしそんなに簡単に他分野の研究者を捕まえることはできないであろう。ならば自ら他分野の専門書に取り組めばよい。そうすることによって、全ての分野の知識の総量も専門分野の知識の総量も増大することであろう。

僕は最近、あらゆる分野の学問に取り組んでいる。化学・生物学から日本史・世界史、そして経済学・経営学など多岐にわたる。もちろん苦痛に感じながらやっているのではなく、面白いから取り組んでいるのである。しかしそれには逃げの側面もある。専門の数理物理の研究が上手くいかないなという時に、それらの他分野の勉強に取り掛かることにしている。しかしそれらの事は決して無駄ではない、そう確信している。数理物理と言う軸がぶれなければ何に取り組んでも良いと強く感じている。もちろん、軸がぶれては全てが無駄になってしまうこともあるので、芯は強く持たなければならない。