思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

論。

論が立つのと、論の根っこを押さえるのは違う。論が立つ優秀な人は多い。論を立てるためにはかなりの知識を要するが、多くの知識を網羅し物事を解析できるからと言って、論の根っこを押さえられるものではない。論の根っこを押さえるとは、物事の要所を押さえることだ。つまり論を押さえるためには、知識を身に付けるだけではなく本質を掴まなければならない。

テレビ番組「朝まで生テレビ(テレビ朝日)」を見ていると、そのことがよくわかる。出演しているパネリストを見ていると、皆非常に論が立つ。多くの事を様々な方向から解析して見せる事には皆非常に長けている。しかし田原総一郎氏はそれだけではない。彼は論の根っこを常に押さえている。逆に言うと、非常に優秀な多くのパネリストたちは、論が立っても論の根っこを押さえていない人が多い。この番組は論の根っこを押さえている司会者・田原総一郎氏がいなければ成り立たないのだ。

ビジネスでもプレイヤーとしては優秀でも、管理職に昇格した途端平凡なマネージャーになってしまう人が多いとよく聞く。それは先ほどの論の話と同じで、マネージャーは物事の根っこを押さえる事が重要だが、それができていないからだと思われる。プレイヤーとマネージャーには異なった資質が要求される。

論を立てるためには勉強すればいい。しかし論の根っこを掴むためには単に勉強すればよいというものではない。勉強する論の奥にある本質を見抜かなければならない。では物事の本質を見抜くためにはどうすればいいか?そのための明確な訓練があるかどうかはわからないが、とにかくただ単に知識を吸収するだけではなく、とことん考え抜くことが必要だということは明らかだ。

内面は外見を上回っていなければならない。

たまに「外見は関係ない」という人がいる。しかし僕はそれは違うと思っている。正確には「内面は外見を上回っていなければならない」ということだと僕は考えている。

僕自身、身なりなどの外見には気を使う方だと思う。外見にも結構高いハードルを掲げるように心がけている。(それがどれだけ実行できているかはともかく。)ではなぜ外見に高いハードルを掲げようとするのか?それは内面がその外見を上回るくらいに持っていくことを目指しているからだ。つまり外見に対する高いハードルは同時に、内面に対するそれ以上高いハードルでもあるのだ。

もし内面が外見を下回っていれば、それは単なる見かけ倒しであり、張りぼてである。それを防ぐためには二通りの方法しかない。一つは内面の低さを隠すために外見をそれ以上低くすること。もう一つは外見のハードルを上げ内面をそれ以上に高めることだ。

もちろん、外見が質素であっても素晴らし内面を持つ人はたくさんいる。しかし僕がこれまでに出会った「人間は内面だ」と口に出す人は、内面もほぼ例外なくみすぼらしかった。立派な内面を持つ人は「人間は内面で勝負だ」とは絶対に言わない。

外見が質素であることは全く悪いことではなく、むしろ素晴らしいことである。そのように質素な外見を貫くことは一つの強い信念であり、外見に向ける気力を内面に向け内面を磨くことは非常に素晴らしいことである。しかし人間が実世界で生きている以上、まず人間の目に飛び込んでくるのは外見であることは紛れもない事実である。なので外見を高めイメージ戦略を行うのは非常に意味のあることだ。まずは外見によって自分のイメージを相手に伝え、その上で内面をアピールすることができれば自分の魅了は二倍にも三倍にもなるのだと思う。

不完全な知識で物事を判断することの危険性。

物事を判断するに当たっては、過大評価することなく、かつ過小評価することもなく、正確に判断することが重要である。そのように正確に判断するためには、それに対する知識を正確かつ完全に認識することが必要である。さらにそれに基づく思考を正確に行うことが重要であることは言うまでもない。

不完全な知識に基づいて判断するとどうなるか?自然、そこには想像的な要素が大きく入り込むことになる。想像することは重要かもしれないが、可能な限り現実に基づいて判断を下さなければならない。もちろん、どのような判断に対しても知識が100%完全であることはありえないので、どうしてもある程度の想像が必要にはなるが、危険なのは想像が妄想に変わることである。妄想に基づく判断は99%間違っていると考えなければならない。想像と妄想は全くの別物である。

物事を判断する時、最悪のケースを想定することが重要だとよく言われる。確かにケースによっては最悪のケースを想定することは必要だろう。例えば地震・津波の被害想定、鳥インフルエンザなどの感染症被害における対策などは最悪のケースを想定することが絶対である。しかし個人が取るべき道を選択するに当たっては、最悪のケースを想定することは圧倒的にデメリットが大きい。特に悪いケースを想定することによって身動きが取れなくなってしまう危険性が大である。

物事を判断する時の有用な手段として、リスクとリターンを天秤にかけるという手段がある。ほとんどの場合、リスクというものはどうしても避けられない。大事なのはリスクを上回るリターンが得られるかということだ。99のリスクを取って100のリターンを得る判断ができるか?しかし残念なことに、そのような判断を下せる人は多くない。

時には100のリスクを取って1を得るという手段に出ざるを得ないことがある。通常ならこれはほとんど暴挙と言わざるを得ない。しかし人生の中にはこのような勝負に出るべき時が必ず存在する。しかしその1は単なる1ではない。限りなく輝くダイヤモンドのような1なのである。このような勝負に出ることができるかどうか?それは人間の器というものに大きく関係してくることだろう。

とは言え、通常においてはできるだけ的確に判断を下し、メリットを最大限にすることが重要であることは言うまでもない。そのために不確定要素をできるだけ排除し、完全な知識に基づく考察により判断することが求められる。

社会的思想の観点から見た自由。

シリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平氏が解放されて、しばらく経った。安田純平氏の拘束・解放に当たって日本国民として考える事、思うことはいろいろある。

まず重要な事は、安田氏は大手メディアの所属ではなくフリーのジャーナリストだということだ。紛争地で犠牲になるジャーナリストのほとんどはフリージャーナリストだ。これは何も大手メディアの危機管理がしっかりとしているという訳ではなく、むしろ大手ジャーナリストは危険地には入らず、身の危険がある取材はフリージャーナリストが一手に引き受けているという現実からだ。言い方を変えると、大手メディアは自分の手を汚さず、安全地帯でぬくぬくとしていると言える。

そして最も重要な事は、今回のような事案が発生すると日本国内で必ず発生する「自己責任論」だ。自己責任論を叫ぶ国民の言いようは一見理があるように思えるが、その根底には非常に危険な思想が横たわっている。はっきり言ってこのような事は思想と呼ぶに値しないものであるが。

日本では皆がしないことをする人に対しては非常に風当たりが強い。このことは何もジャーナリストに対してだけではない。科学研究でも同じだ。ある程度確立された分野内で、ある程度他人が行った研究を追従する。そして人がしないことをする人に対して「意味がない」「絶対にうまくいかない」と盲目的に批判する。そしてノーベル賞を取った途端に手のひら返しだ。

もし皆がしないことを誰もしなくなったらどうなるのか?そのような世界に持続的な発展はない。このことが最も顕著に表れているのが、FAGA(Facebook、Apple、Google、Amazon)が支配する現在の社会構造だろう。このような社会構造に日本が乗り遅れたのは、何もITの重要性に気付かなかったからではない。皆のしないことをせずに他人の事を追従することしか考えない日本人的思考であると僕は考えている。これではもしITの次に来るパラダイムが訪れても日本はその主役にはなれないだろう。

少し話はずれたが、安田氏への自己責任論的批判には、誰もしないことへの批判に対する構造的問題が存在する。そして言うまでもなく、自由への放棄でもある。ある記事でこのようなことが書かれていた。「この国にはハロウィーンでバカ騒ぎする自由はあるが、真の言論の自由度はすこぶる低い。」(プレジデントオンライン・元木昌彦氏の記事)

一体この国にある自由とは何なのだろうか?確かに日本という国は世界的に見れば自由な国である。国家システム的な視点から見れば自由かもしれない。しかし問題は社会的思想から見た自由である。今回の安田氏の解放に対して政府が自己責任論を言っている訳ではない。国に自己責任論などという法律はどこにもないのに、多くの国民が自ら自己責任論を主張している。僕はそのような社会的思想は国民が自らの首を絞めつける行為だと考えている。自己責任論を叫んでいる人たちは、「自分はそんなことをしない。だから自分には関係ない」とでも思っているのかもしれない。しかし社会的思想はあらゆるところで繋がっている。今回の安田氏の行動は、我々市民の生活に密接に関係していることだと気付かなければならない。

多くの日本人が自ら自由を放棄し、自らの首を絞めつけようとしている。そのような国の50年後、100年後にどのような自由が確保できているか?はっきり言って見通しは暗いものだと言わざるを得ない。

なぜルーティン化することが必要か。

決まりきった手続きや順序の事を「ルーティン」と言う。最近よく使われる言葉だ。以前僕は「ルーティーン」と伸ばして言っていたが、英語で書くと「routine」と書き、どうやら「ルーティン」や「ルーチン」の方が近いらしい。とは言え、こんなことはどうでもいい。

ルーティンと言えば、メジャーリーグのイチロー選手や、前田健太投手のマエケン体操が有名だ。僕自身のルーティンは、朝起きるとすぐに食パンを焼きホットミルクを入れて飲むというところだろうか。それから毎日の筋トレもルーティンかもしれない。

日常にルーティンを作ることは大きなメリットがあると僕は考えている。ルーティンを作ることによって日常のリズムを作ることができる。そして毎日同じルーティンを行うことによって、自分自身の些細な変化、好不調、違和感などを捉えることができ、それに合った対応を取ることができる。好調だと感じた時は、エンジンの出力を上げて最大のパフォーマンスを出すことができる。

ルーティンには前向きなルーティンと堕落につながるルーティンがあると僕は考えている。僕自身も前向きなルーティンをどんどん作ろうと思っているが、堕落的なルーティンを作ってしまうこともある。例えばYouTube動画をつい見てしまうとかお酒を飲むとかというものだが、この様な堕落的ルーティンは自分でコントロールできるうちに抜け出さなければならない。

大きな目標があるのなら、そのために何をしなければならないかということをしっかりと認識しなければならない。そしてそのことをより効率的に実行するために、ルーティンを構築することは非常に有用な手段である。

ミクロの世界とマクロの世界。

最近、少しだけ経済学をかじっている。(勉強したというほどでもない。)よく知られているように、経済学にはミクロ経済とマクロ経済がある。ミクロ経済は個人や個々の企業の動きを基に解析する学問で、マクロ経済は国家間などの大きなレベルでの経済を解析する学問である。

経済学にミクロとマクロがあるように、あらゆる学問でもミクロ的分野とマクロ的分野がある。その最たる例が物理学であろう。物理学ではミクロの世界を扱う量子論から、宇宙的スケールを扱う一般相対性理論まである。もちろんほとんどの物理学者は専門を定めて研究を行っているが、量子論と一般相対性理論の両方の素養があることは必要不可欠である。

物事を追究するにはミクロかマクロのどちらかに特化して細分化していけばいいが、本質を掴むためにはミクロとマクロの双方から物事を俯瞰することが重要になる。これは学問だけに限らず、あらゆることに言えることだ。

しかし近年は物事を扱うスケールが巨大化し、全てを俯瞰することは現実として不可能になってきている。しかし物事を広く見渡す視点は今でも重要である。しかも、「広く浅く」ではダメだ。重要なのは「広く、そしてある程度深く」である。さらにもちろんそれだけではダメで、「かつ専門は徹底的に深く」ということを付け加えなければならない。

専門を深く追究することを軸とし、世界のことを幅広くある程度深く理解する。そのような素養を身に付けると、ミクロの世界を覗く顕微鏡とマクロの世界を見渡す望遠鏡を上手く使い分けることにより、物事の本質がより鮮明に見ることができるであろう。

勝負をかける時はとことん前に出る!

物事には「ここぞ!」という瞬間が必ず存在する。その瞬間を逃すとしばらくは勝機は訪れない。そのような瞬間を感じた時は、とことん前に出ることが大事だ。間違っても中途半端な姿勢を取り、勝機を逃してはならない。

勝機だと感じた瞬間には、時間とお金もとことんつぎ込むべきだ。確かに時間とお金を全てつぎ込むのはリスクであり賭けである。しかしとことんリスクを取ることでしかそれ以上の成果を得ることはできない。

理論の研究にかかるお金などはたかが知れている。専門書も高額だといっても、せいぜい一冊一万円前後だ。実験系の研究だと数千万円かかる研究も世の中には多く存在する。

僕は最近、連日高額な専門書を購入している。和書はジュンク堂で、洋書はアマゾンで購入しているが、たかがとは言え、やはり一冊一万円前後する専門書を購入するのには少々迷う。しかし結局は毎回購入するというパターンになる。やはり勝負の時にたかが本などの購入に迷ってはいられない。今、勝機を見出している。

専門書は平均して300ページ程あるものが多い。しかし間違っても300ページ全てをガッツリ身に付けようと思ってはいけない。必要なのはどの部分かということを見抜いて、ポイントを押さえることが必要である。最初から最後まで理解しようというのは勉強である。研究は300ページの中の1ページでも役に立てば御の字なのである。

先ほど、羽生結弦選手のスケートをテレビで観た。今季世界最高得点で優勝を果たしたが、やはり羽生選手の勝負強さは半端ではない。研究者とスポーツ選手の勝負は見かけは全く違うのかもしれないが、共通するところも多くあるのではないかと思っている。

勝機を見出した時に勝負をかけてとことん前に出る。その先の世界がどう広がるのか?非常に楽しみである。

解釈の自由度。

良い思想、良い哲学というものには解釈の自由度がある。そのような思想哲学は書いた人の意志だけではなく、受け取る人間の意志によっても意味は大きく変わってくる。すなわち受け取る人は、その意志によってさらに新たな思想や哲学を構築して行くことができる。

一見画一的に見える数学や物理の理論にも、解釈の自由度は大きく存在する。同じ理論を見ても、考える人によって見える世界が大きく違う。数学や物理理論というものは思っている以上に自由な世界なのである。

解釈の自由度があるということは、受け取る人の力量が大きく問われるということである。受け取る人の思考力がなければ、解釈の自由度は逆に焦点が全く定まらないぼやけた世界にしか映らない。逆に受け取る人の哲学的基盤がしっかりとしていれば、そこから自分的な明確な解釈が可能になる。

解釈の自由度がない世界というものは、ある意味レベルの低い世界と言える。そしてそのような世界は総じて硬直的である。解釈の自由度は思考や人間性に豊かさをもたらす。優れた数学理論や物理理論に魅了されるのは、その世界の景色が美しく豊かであるが故である。

今自分が何かに打ち込んでいるのならば、そこに潜むより深い解釈を追求することが自分に人間性の高さと豊かさをもたらすことになるだろう。

自由人とは?

自由人とは好きな事を好き勝手にやっているだけの人ではない。だから好き勝手に遊んでいる人などはとても自由人とは呼べない。では自由人の“自由”とは何に対しての自由なのか?それは思考や発想、そして行動の自由である。自由に行動するためにはその根底に自由な発想がなければならない。だからこれらの自由はセットであると考えた方が良い。

自分がその道で自由人であるためには、行動の自由と精神の自由を確保しなければならない。このことは一見簡単なように思えるが、実はこれが簡単にできない。何らかの束縛を受け、自分で自分を束縛してしまうのである。もちろん中には簡単に自由人であることを成し遂げてしまう人もいる。そのような人は自由人としての才能がある人なのかもしれない。しかし我々のような人は、常に「自由であるとはどういうことか?自由であるためにはどうすればいいか?」ということを自問自答しなければならない。

自由人とは、「リスクを取り、それ以上のメリットを得る生き方」だと僕は思っている。人生は一度しかないのだから、常に瞬間を悔いなく生きなければならない。しかし“悔いのない選択”を行うということは、多くの場合リスクを取ることである。そしてそのリスクがメリットに変わった時、人間は自由になれるのである。

このような行動的及び精神的自由人になるためには、生きる意味を常に意識して目標に向かわなければならない。簡単な生き方ではないが、それでも考え抜いてそのような自由を手に入れる価値はある。

批判されてナンボ。

自分の意見や行動に対して、100%の人から賛成されるということはほとんどない。もし誰からも批判や反対がなければ、それは何もしていないか当たり障りのない事しかしていないかのどちらかだ。そういう意味でも批判を受けるということは肯定的な意味合いもある。

人が歩んだことのない道を開拓する時には、反対意見は必ず生じる。100%賛成されることはなくても、100%反対されることはあり得る。もちろんそれが無謀な暴挙ならば言語道断だが、明確なビジョンを持って自分に勝算があると判断したのならば反対を押し切って踏み出るのも手だ。

物事を判断する時に、好き嫌いでは判断してはいけないとよく言われる。確かに論理的な判断を下すに当たっては好き嫌いは持ち込むべきではない。ただ好き嫌いという判断にも一理はある。それが自分の進むべき道に対しての判断ならば、好き嫌いという要素は非常に重要である。それによって自分自身のパフォーマンスが大きく変わるからだ。

最近の世の中は、批判に対して過敏になりすぎているように思える。もし自分が正しいと思って取った道ならば、少々の批判などに左右されてはいけない。また、それだけ批判を浴びているということは、それだけ注目を浴びているということである。逆にその注目を逆手にとって利用してやろうというくらいの手段を取った方が良い。

「批判どんと来い!」くらいの心構えを持って、周りからの批判の圧を逆に利用するくらいの重みを自分の中に作るために、どんどんと心臓に毛を生やしていきたいものである。