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キューバ危機において、深く思考する人間がいたからこそ人類は全面核戦争を免れた。

NHKスペシャル・映像の世紀プレミアム 第17集「人類の危機」の動画を観た。この映像の世紀シリーズのテーマ曲「パリは燃えているか」は非常に荘厳な曲であり、僕はこの曲が大好きだ。そして何よりこのシリーズのテーマ曲として非常にマッチしている。

今回観た動画は100年前のスペイン風邪のパンデミックからチェルノブイリ原発事故による危機まで扱っていたが、中盤ではキューバ危機を扱っていた。我々日本人は歴史の授業で「キューバ危機によって全面核戦争直前の状態にまで追い込まれた」と習うが、しかしそれがどれほどの危機だったかについてはいまいち実感がない。僕自身も知識としては知っていても、実感はそれほど感じていなかった。しかし今回観た映像の世紀によって、このキューバ危機による13日間がいかに極限まで追い詰められていたかが分かり、それと同時に愕然とした。結果的には全面核戦争は回避されることになったのだが、現実は核戦争を回避できたことがある意味奇跡であったと言えるくらいの危機であったようだ。

ここでキューバ危機において発生した二つの危機的状況を取り上げる。一つ目はアメリカ統治下の沖縄で起きた危機だ。当時沖縄には核兵器発射基地があった。キューバ危機時、沖縄の核兵器発射基地に4発のミサイル発射命令が下った。しかしそれはおかしなものであった。一発はソ連を狙ったものであったが、その他の3発はソ連以外の国を狙ったものであったと言う。もし基地の司令官が命令に忠実なイエスマンであったのならば、躊躇なく核ミサイルを発射し全面核戦争に突入していたであろう。しかし基地の司令官は、3発が他国へ向けられていることに対して明らかにおかしいと考え、真偽を見極めようとしたと言う。そしてその命令は誤報だと言う事が明らかになった。

もう一つはソ連の潜水艦における出来事だ。ソ連軍の潜水艦がキューバ周辺で活動していたのだが、アメリカ軍はそれを察知し潜水艦周辺に爆雷を落としたと言う。これは潜水艦に対して浮上せよと言う合図であり、アメリカは事前にソ連に対してこの爆雷の意味するところを伝えていたと言う。しかしこの潜水艦の艦長にはその意味が伝わっていなかったのだ。そこで艦長は戦争が始まったと思い、自分たちが自滅することを覚悟で核魚雷を発射しようとした。しかし核魚雷を発射するためには、もう一人、副艦長の許可も必要であった。そこで副艦長は、もし自分たちを攻撃しようとしているのならば簡単に攻撃できるはずで、それをあえてしないのは何かの合図かもしれないと考え潜水艦を浮上させたと言う。

この二つの出来事は、いかに自分の頭で考え判断することが重要であるかと言う事を示唆している。沖縄のアメリカ軍司令官が、あるいはソ連軍の潜水艦の副艦長が何も考えずに核発射命令を出していれば、今頃人類は存在していなかったかもしれない。一人の人間の思考が、人類の存在さえも左右するのである。

日本では特に、学校では教師の言う事を、そして会社では上司の言う事を忠実に聞いて従うことが重要だと教えられ、それに従わないと反抗的だと非難される。しかしそれでは自分の頭で考えられる人間が育たない。日本でも自分の頭で思考し判断する事の重要性をもっと伝えなければならないのではないだろうか?今の菅総理は自分の頭で考えられる人間ではない。なので周りの人間がそれをサポートしていかなければならないが、現状を見るとおそらく側近は全てイエスマンであろうことが想像される。もし今の日本政府がキューバ危機と同じような状況に遭遇すれば、確実に人類は滅亡するであろう。キューバ危機はいろいろな事を教示してくれているが、そのうちの一つとして自分の頭で考え判断することがいかに重要であるかと言う事も示していると考えられる。

孤独には自分が試されている。

僕はこれまで何度か述べたように、孤独を愛する男だ。もちろん何人かでワイワイするのも良いが、基本的には一人でいないとストレスも溜まっていく。大人数での協調と束縛が非常に苦手である。

一人でいるのは非常に自由であるが、その一方責任も全て自分が負うことになる。そして当たり前の事だが、することは全て自分で考えなければならない。普段から頭をフル回転させることが必須だ。もちろん、僕はそれは嫌いではない。死ぬまで頭を使い続けることが自分の使命であり、生きがいであると思っている。

自分で考えると言う事は、そこは自分の頭の見せ所である。そして自分で行動することは、自分の意志の見せ所である。つまり全て自分が試されている。他に人がいれば自分の苦手な事はその人に頼れば良いが、自分一人しかいなければ全て自分でしなければならない。もちろん自分一人で何でもできると言う訳にはいかないので人に頼ることもあるし、どうしてもできないことは放棄することもある。しかし放棄した後どうなるかは、全て自分の責任である。

しかし孤独と言うものは、非常にやりがいのある生き方だ。自分一人でしたことに結果が出れば、それは全て自分一人の成果になる。all or nothing と言う事である。それは究極的には、生か死か?と言う事でもある。もちろん何かに失敗したからと言ってすぐに死ぬわけではないが、それくらいの覚悟を持たないと孤独を突き通すことはできない。

日本では協調性を要求されることが多々あり、人と違うことをすればすぐに自己責任だと突き放す。つまり日本社会では孤独の入り込む余地が非常に少ないのだ。しかしそれでも孤独を突き通すことができるか?そこに自分が試されている。

法治国家であっても、法を破らなければならない時がある。

法治国家においては、法は絶対的であると言われる。果たしてそうであろうか?もし自分の信条・信念に反する法であれば、それに逆らうのも十分にありだと僕は考えている。だからこそ杉原千畝は自分の良心を貫き、香港では周庭さんたちが立ち上がっているのである。さらに言えば、この国のトップである首相は本当に法を厳密に守っているのであろうか?甚だ疑問である。

とは言え、僕はやみくもに法を破れと言っているわけではない。法は国家の存続において非常に重要である。さらに日本の最高法規である日本国憲法は非常に素晴らしく立派なものであると感じている。しかし社会の主役は誰か?決して法が主役であってはならない。人間が主役なのである。だからこそ、人間をないがしろにするような法に対しては徹底的に立ち向かわなければならないのである。僕は決して改憲派ではないが、もし憲法が時代に合わなくなり人間を無視するようになれば、憲法を改正することも十分に視野に入れなければならないと考えている。

法が絶対的ではないことを例示することは簡単だ。もし法が絶対的なものだと考えれば、ナチスドイツにおいては悪いのは法を破った市民、そしてユダヤ人の方だとなってしまう。しかし誰が考えても悪いのはナチスの方だ。そして杉原千畝は法を破ることによって何千人もの人間の命を救うことになった。もちろんこんな大々的なものでなくても、身近な法であっても、人々の自由に反する法は色々とある。もちろん何でもかんでも自由にすれば良いと言う訳ではなく、当たり前の事であるが人を傷つける自由など誰にもない。

なぜ僕は今回の記事でこんなことを書いたのか?それは僕にとって信念に反する法が存在するからだ。その法は人々の思考の自由を奪い、さらには日本国の発展をも妨げるものである。さらに言えば、その法は憲法にさえ反していると僕は考えている。一部の全くおかしい利権を認めるがために、国民の思考の自由を束縛している。日本はいつからこのように知を放棄する国になったのだろうか?僕は決して法治国家を否定しようとは思わないが、このことにおいては徹底的に立ち向かって行こうと思っている。

人の一言一句に左右されない精神力。

これは僕に対する言い聞かせと言うか、僕自身最近は結構人の一言一句に心が左右されることがある。もちろん僕はかなり偏屈なので結果的には自分の信じる道は譲らないのだが、それでも人の言葉に気分などが左右されるのは良いことではない。以前のブログでも「心臓に毛を生やす」とは何度も言ってきたが、やはり今でも僕の重要なミッションはこれに尽きると言える。

人間の精神力と言うものはそんなに簡単に変えられるものではない。しかし自分が強く思い実行すれば、変えられないものではないと思っている。だから現在数本の毛しか生えていない僕の心臓も、剛毛になるほど生やすことができると思い試行錯誤している。人間の外見と言うものはそう簡単に変えられない。もちろん現在は美容整形なるものがあり、お金を出せば美容医師の手で思うように変えられる世の中だ。これをどう捉えるか?自分の手で顔を変えることはできないが、汗を流して稼いだお金で顔を変えられると思えば自分の努力で顔を変えられるとも言えないこともない。しかしそれは外見の話で、自分の内面、あるいは精神力までお金を出せば変えられるわけではない。

しかし十分なお金があれば心に余裕ができ、精神的にも余裕が出て来ることは間違いない。そう考えれば、お金によって精神力さえ変えられるとも言えないこともない。しかし精神力は外見と違って、お金がなくても変えられる部分は沢山ある。僕は自分の意志次第で精神力は思うように変えられると思っている。では外見は変えられないのか?いや、顔つきのような外見には自分の生き方や意志が顕著に表れる。だからこそ、あらゆる面で自分に変革を起こして行こうと思い、日々挑戦している。

来年の今頃、心臓に大分毛を生やすことが出来たと言いたいところだ。いや、そう言えなくてはならない。ぼくはそれが本気で可能だと思っている。何事も挑戦だ!挑戦なき人間に未来はない。そう思い日々挑戦している。そして死の直前まで僕は挑戦し続けているだろう。

努力しない自由?

僕は努力することは非常に重要だと思っている。なので僕自身はできる限り、目標に向かって努力しようと日々思いながら生きている。しかし、自分が努力することが大事だと思っていても、それを他人に押し付けるのは少し違うのではとも思う。学校などでは努力を押し付けられることも多々あるが、そもそも学校の教師自身、どれだけ努力しているのか?と言う話だ。努力する自由はもちろんなければならないが、努力しない自由と言うのもあって良いのではないかと思う。

一年を通じて、毎日努力をし続けている人はほとんどいないだろう。僕自身も努力しようとは思っているが、時には遊ぶこともあるし、努力できない時も多々ある。また、努力しないと言うより、努力できない人もいるだろう。

自分が努力することは非常に重要だが、あくまでも「自分が」であって、他人に努力を強制する権利はない。努力はしたものの、成功できずに苦しみだけが残る人もいるだろう。そのような結果になっても誰も責任を取ってはくれない。人によっては、努力しないことが幸せにつながることもあるのだ。ならば努力をしない自由も認めた方が良い。

しかし最近は、努力しても必ず報われる保証はないからと、努力を否定する人もかなりいるように思える。これに対しては、僕は真っ向から否定したい。確かに努力をしたからと言って100%報われるわけではないが、50%を60%、70%と確率を上げることができることは間違いない。なので、「努力は必ず報われる」と言うのは間違いであって、「努力は成功する可能性を上げてくれる」と言うべきである。そう言えば、「いや、それでも30%失敗するかもしれないではないか」と言う人もいるだろう。そのような人は、努力をしない権利を行使すればいいのである。

もう一つ僕がはっきりと言いたいのは、「失敗=無駄」では決してないと言うことだ。正しいのは、「失敗=経験」なのである。失敗なき成功などほとんど存在しないし、仮に全て最短距離で成功したとしても、そこには深さは生まれない。アインシュタインは数々の大きな成功を残した。そして彼が大きな失敗をしたとはほとんど聞かない。しかし人間と言うものは、自分の成功は口にするが、失敗は口にしないものだ。おそらくアインシュタインも数々の試行錯誤を行い、数々の失敗を経験したはずだ。

努力とは挑戦であり、挑戦の大部分は失敗である。つまり失敗は努力して挑戦した証である。なので僕は自分に対しては努力する意志は持ち続けようと思うが、努力したくない人まで努力する必要はないと思っている。努力をするかしないかはその人の自由なのである。果たしてあなたはそのどちらの人間になりたいであろうか?

好きな事を貫くのは、こんなに苦しいのか!

生き方には大きく二種類ある。流れに身を任せる人、そして流れに逆らって生きる人だ。僕は完全に流れに逆らう方だ。おそらく流れに身を任せて生きれば、今よりもはるかに楽な生き方ができたと思う。しかしだからと言って、流れに身を任せて生きようとは思わない。流れに逆らいながらも道を切り開いて行きたいのだ。そんな生き方をしているものだから、当然いろいろな意味で苦しい生き方になってしまう。

ではなぜそこまで流れに逆らいつつ苦しい道を選ぶのか?それは好きな事を貫くためだ。僕は好きな事しかできない。いや、実際は周りに合わせて仕方なくやっていることも多々ある。しかし自分と言う人間の根幹となる部分だけは譲れないのである。数学と物理は絶対に捨てることはできない。しかし成功する見込みもなく続けるのは暴挙でしかない。なのでほとんどの人はできないと感じた時点でやり続けることをあきらめるのである。ではなぜ僕はやり続けるのか?それは絶対的な自信があるからだ。そう言えば、「それならばなぜ今までできなかったのか?」と言われるかもしれない。しかし人間にはいろいろな事情がある。予想できない事態に見舞われることもある。まさしく僕の学生時代がそうであった。そのため、僕は学生時代には何もできないでいた。しかし今は違う。時間はかかり過ぎたが、今はできると言う絶対的な展望が確実に見えているのである。

物事と言うのは、成し遂げる直前が一番苦しいのかもしれない。なぜなら自分に投資し続け、成功する直前がいろんな意味で貯金がないからである。もちろん精神的にも非常に苦しい。絶対に出来ると言う自信と展望があっても、苦しいものは苦しいのだ。「あと少し、あと少し」と思いつつも、時間は過ぎて行く。こうなれば周りの眼など気になってはいられない。最後まで押し続けるしかないのだ。

しかし事を成し遂げた後には色々と良いこともあるだろう。そう思えるから今の苦しみも乗り越えられるのだ。確かに成功した後でも、苦しいのは変わらないと思う。その苦しみに良いことが付け加わるのだと思っている。例えば金銭的な事であったり、人間付き合いであったり、いろいろ面白いことがあるかもしれない。しかし一番の喜びは、好きな事を成し遂げる事だと思う。これからも流れに逆らいつつ、好きな事を貫いていこうと思う。

人間として、どこまで面白い人間になれるか!

面白い人間と言っても色々ある。単純にギャグなどを言って面白いとか、さらに深く、生き方がユニークで面白いとか、目指す面白さは多種多様だ。もちろんギャグが面白い人間もすごく良いが、僕はもちろん生き方や人間性が飛び抜けて面白い人間になりたいと思っている。そのための条件として、保身は絶対にしてはならないと思っている。そして人のまねは極力しない。面白い人間であるが、徹底的に真面目な側面もある。それでいてふざけた面もあるのは玉にキズか?

もちろん、今の僕は完成形でも何でもない。しかし完成形でないと言うことは逆に言うとこれからどんどん発展させる余地があると言うことだと思っている。ただあるのはあくまでも「余地」であって、実際に発展させることができるかどうかは自分の意志や努力にかかっている。

僕の場合、面白い人間になるための必須条件は、研究者として飛び抜けた存在になれるかだと思っている。今は研究者としては何者でもない。研究者としては社会的には無の存在かもしれないが、今の僕には徹底的な自信がある。僕の人生は後半に入ってからの方が圧倒的に面白い。年齢的にはもう決して若くはないが、精神的にはどんどん若くなってきている。これからの人生が楽しみで仕方がないのだ。過去に戻ろうとは決して思わない。面白い未来をいかにして作って行くかと言うことだけを考えている。

現在の僕がどれだけ面白いかはよくわからない。しかしこれからどんどん面白くなれると言う確信だけは持っている。ただ人間は面白いだけでは生きて行けない。しかし突き抜けた面白さを持っていれば、それだけで生きて行くことも可能だと思っている。人間として、そして研究者として突き抜けて面白い存在になってやろうと言う野望は死ぬまで持ち続けようと強く思っている。

専門分野の末端よりも、他分野の根幹を!

学問に取り組んでいると、当たり前の事だがどんどん専門的になってくる。専門を極めることは非常に重要な事だが、しかし細分化されつくした末端にこだわるのはまた違う話だ。専門を究めながらも、その本質を見抜き、根幹に取り組まなければ価値は生まれない。しかし実際は、細分化された末端の計算テクニックに終始している研究者も少なくない。

そして自分の専門分野の根幹に取り組みながらも、時には他分野に視野を広げるのも悪くない。しかしその際重要になってくるのは、他分野であってもその根幹に取り組むことだ。そもそも他分野の末端などに取り組む時間的余裕はないし、他分野であっても、それが本質的に重要な事であれば必ず自分の専門分野にも思考的優位は生まれてくるはずだ。だからこそ僕は専門の数学・物理以外にも、様々な科学、さらには社会的学問などにも取り組むことにしている。

大学で研究をしている学生などの中には、いち早く最先端にたどり着くことにこだわる人が少なくない。確かにそれはそれで重要であるが、それ以上に大事な事は、学びながら本質を掴むことである。なので本質を掴むために一年二年つぎ込むことは全く悪くない。むしろ最速で表面をさらうくらいなら、五年十年かけてじっくりと本質を料理する方が余程価値がある。

そしてもし本質を掴むことができれば、それから先は意外と早く進むものだ。本質を掴めば、あとは技術を身に付けるだけだ。しかしこの順番が大事なのである。「本質を掴む→技術を身に付ける」とすべきところが、この順序が逆になってしまうといつまでも本質を掴めないままになってしまう。本は何のために読むのか?もちろん情報を手に入れると言うことも重要だが、その情報を料理できなければ価値は生まれない。もうそろそろ情報を暗記するだけの読書は止めにしないか!と多くの人に問いかけたい。

進化する人間。

進化には二種類ある。集団の進化、そして個の進化である。人間で言えば、集団の進化と言えば人類の進化の事であり、歴史的にも科学的にも人間が進化していることは間違いない。ただ現代の人類の進化はあまりにも急激すぎるように思える。これは人間と言う生物の進化によるものか?それとも人類が手にした科学技術によるものか?もちろん両方あるとは思うが、しかし割合で言うと圧倒的に科学技術によるものだろう。しかも人間の方が科学技術の進化に追い付いていないように思える。科学技術は人間が生み出したものではあるが、しかし最近は人間がその科学技術をコントロールできていないように思える。近年ITの進化が目覚ましいが、しかしその関係性を見ると、人間が主ではなくITが主になっているように見える。人間の幸福の向上のためにITを発達させるべきだが、ITの進化そのものが目的になり、人間はそのITに合わせているように感じる。では人間が主になるためにはどうすべきか?それは一人ひとりが科学技術に対する知見を少しでも多く習得することに限る。でないと科学技術は永遠にブラックボックスのままになってしまう。

では人間の個としての進化はどうか?これに関しては日本だけにおいても一億二千万通りあるので全てを語りつくすことはできない。なので僕が一番よく知っている「自分」と言う人間について語ることにする。僕は一人の人間として、死ぬまで進化すべきだと考えている。身体的にも、そして頭脳においても。もちろん科学的(医学的)には、人間は老化していくことがわかっている。そして老化は常識のように語られる。しかしだからと言って、そのような老化の流れに身を任せようとは僕は思わない。自分自身で進化の流れを作ろうと思っているのである。もちろん何もしなければ人間は進化することはできない。そのために筋トレをしたり、そして頭脳を鍛えるのである。とは言え、一部分だけを見れば老化(退化?)する部分が出て来ることは仕方がない。しかしトータルで見て進化していればいいのである。頭脳であれば記憶力は衰えても、それ以上に思考力を進化させればよいのである。そんなことは本当に可能なのか?自分で可能だと思えることができれば可能であろうし、できないと初めから決めつけてしまえば100%不可能であろう。

今、常識にとらわれずに進化しようとしているスポーツ選手がいる。新庄剛志だ。僕が現在唯一生き方が共感できる人間、それが新庄剛志だ。分野は違うが、死ぬまで進化しようとする姿勢は共通すると感じている。だからこそ新庄選手には何が何でもプロ野球界復帰を成功させてほしい。その一方、僕と新庄選手で決定的に違うところもある。それは新庄選手は既に一度、いや何度も結果を残し成功を果たしている。しかし僕には過去の実績はない。しかし未来の事に過去の事はほぼ関係ない。むしろ過去の実績があればそれが足かせになることもある。だからこそ僕は自由に進化への挑戦に突き進むことができる。ゼロが基準、そこから一でも出来ればそれが進化になる。今はそれ以上落ちることはないのだ。もちろん僕は一や二の進化を望んでいるのではない。百や千の進化を試みている。そして今大きな手ごたえを感じているので、あとはそれを実行するだけだ。

さらにもう一つ付け加えるのならば、精神的な進化も成さねばならないと強く感じている。心臓に毛を生やすのだ。自分の道を突き進むのならば、何事にも動じない精神力が必用だ。現在は僕はまだまだそこまではたどり着けていない。そして心臓に毛を生やすことが可能かどうかも分からない。しかしこのことについても挑戦して行こうと思っている。何をすれば心臓に毛を生やせるか?僕にはまだ明確な答えは見えていない。しかしこれも可能だと信じて一本一本毛を生やしていくしかない。それができた時、肉体と頭脳と精神と言う人間の三本の矢を束にして大きく進化できると強く思っている。

保身は断固拒否!

「保身」、それは僕が一番嫌いな言葉だ。しかし世の中、特に権力者は何かと保身に走りがちだ。政治家、学校教師、そして我々市民まで、自分の立場が追い込まれるとつい保身的な言動、行動をとってしまう。それは僕だって例外ではない。保身が大嫌いだと言いながら、時には保身への誘惑に駆られてしまう。だからこそ保身に対して断固拒否と言う意志を明確に維持しないと、自分の信念を貫くことはできない。

先日も自殺した生徒を学校側が突然死だと隠蔽しようとしていた事案が発覚した。これは学校と県が共謀して隠蔽工作を進めていたと言う。学校では、生徒が不慮の事故や病気、そして学校外の不手際による生徒の死亡に対しては例外なく「命を大切にしよう。事故を風化させてはならない。」と訴えかけるが、学校側の不手際による事故などに関しては徹底的に隠蔽しようとする。その典型が神戸でも20年以上前にあった。教師が校門で生徒を挟んで死亡させると言う「神戸高塚高校校門圧死事件」だが、事故後には学校側が徹底的な隠蔽工作を主導していた。そして徹底的に風化させようと進めていた。今はさすがにそんなことはないだろうと思っていたが、東須磨小学校で教員同士のいじめが発覚した。今でも神戸市の教育組織の体質は昔とそんなに変わっていないようだ。

僕自身そんなに立派な人間ではないと思うし、偉そうなことなど言えない立場かもしれない。しかし保身には絶対に走らないと強く心に決めているし、そういう意味では神戸市の教員のような隠蔽・保身に走るような人間よりかははるかにマシだと思っている。しかしもし僕が保身に走ろうものなら、皆で僕を叱り倒して欲しいと思う。