思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

頭が働かない時は。

体の好不調があるように、頭脳の好不調ももちろんある。頭が働く時は高度な思考を要することに取り組み、頭が働かない時はその分体を動かせばいい。

20世紀のある偉大な哲学者は、「頭が冴えている時は論理学に取り組み、普通の時は哲学に取り組み、働かない時は社会学に取り組む」と言ったという。それぞれの人間に対して適材適所な役割があるように、自分のコンディションにも適材適所がある。

「その時何に取り組むべきか?」という問いに対して適切な判断を下せるかどうかということも、人間としての実力の一部である。そのような適切な判断を下し、その時出しうる最高のパフォーマンスを発揮することが求められる。

型を知り、型を破る。

「型破り」とは、物事の究極である。型を破るためには、型を知り抜き、型を空気のように実行できるレベルにならなければいけない。型を知らなければ、単なる「型知らず」にしか過ぎない。

昔、僕の大学時代の知り合いがよく言っていた、「指揮法を知らない指揮者と、指揮法を無視する指揮者は違う」とは、はまさしくツボを言い当てている。

もちろん、型破りなレベルには並大抵の事では達することはできない。型破りの境地を目指すためにも、自分の専門を極め、かつ専門外の分野に対しても幅広い視野を持ち知り抜くことが要求される。

打ち込むべきことに没頭して、苦しい時を乗り越える。

苦しい時、ストレスを感じている時、気分発散して乗り越えるということが多いであろう。確かに気分発散して乗り越えるというのも一つの手だ。しかし、気分発散だけが乗り越える手段であると、常に気分発散をせざる負えない状況に陥る。

しかし苦しい時を乗り越える手段は気分発散だけではない。打ち込むべきことに没頭して乗り越えるというのも手だ。頭を使って没頭していると、余計なことに頭を使わずに済むので、意外と精神的にも落ち着いてくる。ストレスも劇的に軽減されることもある。

しかも、打ち込むべきことに没頭するので、物事が、あるいは人生がより良い方向へと前に進みだす。ある意味、打ち込むべきことに打ち込むというのも気分発散であると言えるのかもしれない。

もちろん、適度にお酒を飲んだりして気分発散するのも悪くはないが、精神的に苦しい時を乗り越えるのには、何かに没頭するのが効果的で前向きな解決の手段だ。

努力を押し付けるのは時代に合わないけれど。

努力が手放しで称賛される時代は終わり、現代はある程度ゆとりを持った多様な生き方が求められている。努力を押し付けるということもほとんどなくなり、皆リラックスして生きているようにも思える。

確かに努力を押し付けるのは時代に合わず、努力のごり押しは間違った考えかも知れないが、自分で努力することに関してはまた話は別だ。努力は苦しいもので、できる事なら努力なんてしたくないと思う人も多いのかもしれないが、自ら努力に突っ込んでいく人も少なからずいる。

自分には目指すところがあり、それを成し遂げるためには努力することは必須だ。他人に努力を押し付けようとは全く思わないが、自分は限りなく努力をもって追求していきたいと思う。

情報過多の時代、いかに必要な情報だけを抜き取るか。

情報過多な現代では、必要な情報だけではなく、無駄な情報、または悪意のある情報が氾濫している。ネットを使えばほとんどの情報はいくらでも入手できるが、問題なのは見ないほうが良い情報までごり押しのように飛び込んでくることだ。

ところが、必要な情報だけを手に入れ、不必要な情報を全てシャットアウトするのは不可能だ。必要な情報と不必要な情報はセットでやってくる。いかにして情報に対するフィルターを作るか、なかなか難しいところである。

そして現在のビックデータを駆使したネットシステムでは、自分に都合の良い情報しか流れてこないという欠点もある。無駄な情報は必要ないが、広い視点から見つめた多角的な情報は必要である。

それらの解決方法の一つとして、ネット中心の生活ではなく、活字中心の生活に重点を置くということが有効かもしれない。活字を中心とした紙媒体では、幅広く質の高い情報を手に入れつつ、かなり取捨選択もできる。

ネット社会と言えども、紙媒体の存在は無視できない。ネットに重心が移りつつある現在でも、紙媒体からの入手源を常に確保することは重要である。

今日を生きる。

人間誰しも、必ず明日を生きれるという保証はない。もちろん、ほとんどの人は99.9%明日を無事過ごすことができるであろう。しかし100%ではない。明日の事は明日にならなければわからない。だから、今日を真剣に思いっきり生きなければならない。

そう考えると、悩みの先取りなんかしている場合ではない。十年後・二十年後、どのように生きるかということを考えることも、もちろん重要だ。しかし今日・明日を生きなければ十年後はない。

未来を自分らしく生きるためにも、まずは今日を真剣に生きることに全力を出そう。

最新か?古典か?

科学の研究でもそうだが、どうしても最新の結果が気になってしまう。最新の結果を知ることによって、その先端に新たなる結果を継ぎ足していく。それを繰り返すことにより実績が積み重ねられる。

しかし、革新的な結果というものは、最新の結果の継ぎ足しというよりも、過去の重要な古典的結果を利用する、あるいはそれを基に覆すことによってもたらされることが少なくない。古典的結果を熟読し、深く理解することは、最先端の研究を進める上でも非常に重要である。

ファッションでもそうである。雑誌に書かれた最先端のファッションばかりを取り入れた着こなしは、どことなく奇抜であまりお洒落に見えない。ファッションの基本を押さえたうえで、長期的スパンの流行と、短期的スパンの流行を適度に取り入れるのが、適度にお洒落でしっくり落ち着いて見える。

話しは初めに戻るが、古典を軽く見るのは明らかに間違っている。古典を知らないで、最新の結果を深く見渡すことはできない。どの分野に関しても、まずは古典を熟知することから先への進歩が始まることになる。

規則を破ることの大切さ。

規則を破ると言っても、やみくもに何でも破れと言っているのではない。「破るべき規則を破ることが大事だ」ということを言っている。

規則というものは全知全能の神が作ったわけではない。規則を守る者が人間ならば、規則を作るのも人間だ。従って、規則の中には明らかにおかしい、理にかなっていない規則というものが多く存在する。そこでやみくもに「規則は絶対的に守らなければいけない」と思考停止するのではなく、「その規則は本当に必要なのか?理にかなっているのか?」ということを、しっかりと自分の頭で考えることが重要だということを言いたいのである。そのうえで、その規則が明らかにおかしい、全く理にかなっていないと判断したのならば、それを主張の上、破ることが重要である。

この、規則を破るという行為は、できれば小中学生のうちから身に付けておきたいスキルである。子供の頃に、一方的に「規則は何でも守らなければいけない」という考えが染み込んでしまえば、大人になると、「支配者の言うことは何でも盲目的に従順する一方、立場の弱い人、あるいは子供に対しては一方的に規則で縛り付ける」という大人になってしまう。

規則を破るという行為は、「自分の頭でしっかりと思考する」という、人間が自立して生きていくうえで非常に重要な行為に直結する非常に重要なことである。

悩む暇があったら実行しよう。

僕はかなりくだらないことで悩むことが多い。特に悩みの先取りは、何のメリットもなく、くだらない。まだ起きてもないことで悩む暇があったら、とにかく実行することが先決だ。

そして悩むには、意味のある悩みと無駄な悩みがある。悩むことから文学や音楽を生み出すクリエイティブな人間は非常に素晴らしい。作曲家のチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」はまさに、悩んだ末に生まれた名曲だ。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」という名著もある。

しかし、普段我々が遭遇する悩みのほとんどは、くだらない悩みだ。少なくとも僕の場合はそうだ。チャイコフスキーやゲーテのような価値のある悩みというものを体験してみたいものである。そんな貴重な悩みができないのならば、せめて有意義なことに行動を移して、無駄な悩みを頭の片隅に追いやろう。

科学の皮をかぶった嘘に惑わされるな!

非科学的なものは見破るのも簡単だが、科学の皮をかぶった嘘(疑似科学)というものは幾分厄介だ。疑似科学は一見論理的に見える。なので、論理的=科学的、と間違った判断を下す人も多い。しかし多くの疑似科学は、根っこ、すなわち出発点である前提条件が間違っていることが多い。間違った条件から出発した論理は、もちろん間違っている。

そしてよくあるのが「論理の飛躍」。部分部分は論理的でも、あるところで論理の断層が生じている。もちろん論理の断層(飛躍)は単なる思い付きに過ぎない。

そして「嘘の統計」に基づくものもある。初めから嘘をつくつもりで嘘の統計を持ち出すのはもちろん悪質だが、統計サンプル、あるいは統計手法に偏りがあり正確ではないものが多く存在する。これについてたちが悪いのは、話を持ち出す本人もこの問題点に気づいていないことだ。話す本人も統計に基づいた話だから科学的だと思っているのである。

論理的であるか、嘘であるかは、話を聞かないとわからないことだが、中には話のテーマを聞いただけで非科学的であると即断できることもある。このような即断できるようなセンスと論理力を、日頃から養っておかなければならない。