思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

批判されてナンボ。

自分の意見や行動に対して、100%の人から賛成されるということはほとんどない。もし誰からも批判や反対がなければ、それは何もしていないか当たり障りのない事しかしていないかのどちらかだ。そういう意味でも批判を受けるということは肯定的な意味合いもある。

人が歩んだことのない道を開拓する時には、反対意見は必ず生じる。100%賛成されることはなくても、100%反対されることはあり得る。もちろんそれが無謀な暴挙ならば言語道断だが、明確なビジョンを持って自分に勝算があると判断したのならば反対を押し切って踏み出るのも手だ。

物事を判断する時に、好き嫌いでは判断してはいけないとよく言われる。確かに論理的な判断を下すに当たっては好き嫌いは持ち込むべきではない。ただ好き嫌いという判断にも一理はある。それが自分の進むべき道に対しての判断ならば、好き嫌いという要素は非常に重要である。それによって自分自身のパフォーマンスが大きく変わるからだ。

最近の世の中は、批判に対して過敏になりすぎているように思える。もし自分が正しいと思って取った道ならば、少々の批判などに左右されてはいけない。また、それだけ批判を浴びているということは、それだけ注目を浴びているということである。逆にその注目を逆手にとって利用してやろうというくらいの手段を取った方が良い。

「批判どんと来い!」くらいの心構えを持って、周りからの批判の圧を逆に利用するくらいの重みを自分の中に作るために、どんどんと心臓に毛を生やしていきたいものである。

職人であること。

人間としてどうあるべきか?その答えはいくつかあると思うが、その中でも「職人であること」は非常に重要だ。職人と言えばマニアックな手仕事を思い浮かべるかもしれないが、プロスポーツ選手も職人であるし、学者も職人と言える。またこのようなプロ職以外にも、自分の仕事や打ち込んでいることにプロ意識を持って取り組んでいる人も職人と言えるかもしれない。

では、なぜ職人であることが重要なのか?それは職人であることから来る知恵や見識を持つことがあらゆるところで不可欠であるからである。さらにその人独自の技術も持ち合わせていることだろう。テレビなどを見ていると、畑違いの人が他の事に対して意見を言っていることがある。それは例え畑違いであっても、その人が持っているプロ職人としての知見を軸にして、あらゆることにその知見が対応できるからだ。職人としての知見は、専門分野以外でも大きく発揮できる。

逆に、職人でなく幅広い“知識”(知恵ではない)を持っている人の意見や考えは総じて陳腐だ。そのような人の多くの知識は、職人の一つの知恵にもかなわない。

高校までの授業とは違って、大学では学部学科が専門的に分かれている。その中で専門外の事も学びながら専門の知識や技術を身に付けていく。これらの事は専門職人としての知見を身に付ける上では大きな力になる。そして大学を卒業した後は多くの人が大学の専門とはほとんど関係のない職に就くとは思うが、大学で学んだ専門知識と教養を軸としてあらゆることに対応することができるだろう。しかし大学を就職するための肩書としてしか考えてないのならば、大学などには行かずに就職予備校に行ったほうが良い。

プロ職人になるためには、何より実践が大事である。理論や技術を学びそれを適用して実践してみる。職人として極めるためにはそれしかない。しかしそれ以外の教養的知識があれば、それも大きな助けになるであろう。

火の鳥。

僕が昔読んだ漫画の中で非常に好きだったのは、ドラゴンボール、のだめカンタービレ、そして手塚治虫の火の鳥だ。火の鳥は生命の象徴であり、死んでも再びよみがえる。そして火の鳥の生血を飲んだ者は永遠の命を手に入れられるというものだ。

人間には寿命というものがある。それは絶対に逆らえない自然の原理だ。しかし生物学的な命と共に、精神的な生命というものがあると僕は考えている。人間は生物学的に生きている間は、その精神は絶対に死んではならないと僕は思っている。

僕自身、精神が死にかけたことは何度かある。しかしその度に僕の精神はよみがえってきた。僕の精神は火の鳥だと思っている。ではなぜ死にかけた精神をよみがえらせることができたのか?それは人生の明確な意味と目標を常に持っているからだ。そういう意味で僕にとって数学と物理は命を与えてくれるものだ。

人間はよく二元論で語られる。物理的な身体と精神的な思想だ。このどちらがなくなっても人間は生きることができない。身体が生きていても精神が死んでいる状態は、僕は人間としては死んでいると考えている。体の健康は多くの人が気に留めているが、精神的な生命の健康をどれだけの人が気に留めているだろうか?それは精神が死にかけてよみがえってきた人にしかわからない。

火の鳥の生命、そして永遠の命とは、多くの人は生物学的な命だと捉えているかもしれない。しかし僕は火の鳥の生命とは精神の生命だと考えている。そういう意味で、人間は寿命をまっとうするまで火の鳥でいなければならないと僕は強く思っている。

好きな事の中にも苦行はある。

何に人生を懸けるか?多くの人は好きな事に人生を懸けるであろう。好きな事をやるのは楽しいが、人生を懸けるとなると必ずしも楽しいことばかりではない。趣味であれば楽しいことだけをして苦しいことは避けるということもできるが、人生を懸けていることに打ち込み目標を達成するためには、避けては通れない苦行も多く存在する。

しかし、そのような苦行が嫌なわけではない。苦しい事ではあるが大きなやりがいを感じ、快感でもあるのである。そして何よりもその原動力となるのは、目標を成し遂げた後の自分を想像することである。それを成し遂げた後に自分はどう変わるか?実際は自分の身の周りの事は特に変わることもないのかもしれないが、自分の中の世界観は大きく変わる可能性はある。

好きな事に打ち込むに当たって苦しいことに突き当たるのは、それは大きく深い目標を持っているからである。もし陳腐な目標であれば、苦しい事にも遭うことなくすぐにやり切ってしまうであろう。とは言え、もちろん大きな目標に向かい、楽しみながら達成してしまう人は素晴らしい。世界でトップレベルのスポーツ選手は総じて「プレーを楽しむことができた」と発言している。しかしその言葉は苦しいことはなかったということとは全く違う。苦しさもやりがいに感じる力が必要だということだ。ただこのような事は自分を高めるために必要なステップであって、他人に強要することではないことに注意しなければならない。

楽しんでプレーしているはずの錦織圭選手も、時にはイライラしてラケットを投げつけるのを見ると、最高のスポーツ選手も人間なのだと安心してしまう。人間というものは、100%よりも90%くらいがちょうど良い。

しばらくは苦行を楽しみつつ、それ以上の喜びを味わうために精進していこうと思う。

量的な判断と、質的な考察。

物事は量的な判断と質的な考察の両方から行うことが重要だ。量的な判断は、数値で厳密に表現され、視覚的にもわかりやすい。しかし量的な判断ばかりにこだわり質的な側面を見落とすと、物事の本質を見誤ってしまう。

もし量的な側面だけで判断するのならば、何も人間がしなくてもコンピューターに任せておけばいい。量的な判断はコンピューターの最も得意とする分野で、瞬時に膨大な量の事に対して正確な判断ができる。

「質」はある程度数値化できるが、個々の感覚によるところが大きい。そしてそれは数学や物理という一見数値的に見えるような事柄においても非常に重要な役割をする。そして質的な判断は、目に見えないものを見る技術とも言える。先を見通すためにはこのような技術が必要不可欠である。

「量的判断にこだわる人は、数値に溺れる」と僕は思っている。量的判断に基づくことでも、最終的な決定は質的判断に委ねられる。質的考察なしには本質に迫ることはできない。

構造論と反応論。

物事を考察する時には、構造的側面と反応的側面の両方を考えることが重要である。これは多くの学問にも言える。原子核物理は大きく構造論と反応論に分類することができ、経済学においても世の中の構造とその間で行われる動的な仕組みを知ることが必要である。構造論と反応論は、空間的軸で考えるか、時間軸で考えるかということだと言える。

構造論と反応論は多くの場合補完的である。もちろん最近は多くの事に関して細分化されており、巨大な対象の隅を突くような視野の狭い研究が多くの事に対して見られることに危惧を感じているが、ミクロの目とマクロの目の両方を上手く利用しながら本質を明らかにしていくことが必要である。

あらゆる研究において、多くの場合構造論が先行し、その後に反応論が続くという形態を取ることが多い。構造論は静的であり単純化しやすい。しかし反応論は動的であるがゆえにその反応をモデル化することは困難を極める。もちろんこの逆もあり、反応を解析することによって新たな構造が見えてくることもある。しかし繰り返すように、この二つは単純に分離できるものではなく、それぞれ補完的に、あるいは融合的に行うことによって物事の真の姿が見えてくる。

構造の解析からは物事の外見の本質を知ることができ、視覚的に非常に面白いものである。そして反応の解析からは物事の変化の様子を知ることができ、始点から始まる変化のすそ野がどのように広がっていくかという壮大な物語を知ることができる。そしてこの二つを融合することによって、初めて物事の全体像が見えてくるのである。

本は持てば持つほど身軽になる。

物は持つほど重くなり、身動きが取り辛くなる。近年は断捨離とかで出来るだけ身の回りの物を減らし、シンプルに身軽になろうとする思想が流行っている。

しかし書物は違う。本は持てば持つほど身軽になるのである。本を持つことによって進むべき道が増え、視界が広くなる。本は自分の判断力をサポートしてくれる。本を読むことによって世界を駆け巡ることができる。そういう意味で本に対する投資は積極的に行い、身の回りを本で囲むことは大事だと考えている。

しかし、本なら何でも買えばよいというものではない。学問に関する書物、例えば数学や物理の専門書、歴史書、哲学書などを厳選し集めることが大切なのである。これらの本は、自分が取り組んでいる学問、研究、思想構築に当たってあらゆる示唆を与えてくれる。そしてそれらの助けが必要な時にすぐに手にとって確認できる状況を作ることが大事なのである。

逆に買う必要のない本も色々とある。例えばファッション雑誌であったり、小説などである。僕はファッション雑誌は非常に好きで毎月何冊も読むが、ほとんど立ち読みで済ませている。ファッション雑誌を購入するお金があれば、それを専門書に回した方が圧倒的に有意義だ。

小説は多くの場合一度読んだら終わりだ。そして何かを構築しようとするときに参照することもほとんどない。しかし小説を立ち読みするということは現実的には不可能だ。ならば図書館で借りればいい。もしどうしても最新の小説が読みたい時は購入するしかないが、読み終われば古本屋に売れば良い。そうして失うことはほとんどない。

本は第二の頭脳である。つまり本を身近に置くことによって二人力、三人力の働きをすることができる。買う価値のある本を買いそれらを利用することによって身軽になれば、自分の行動範囲は圧倒的に広がるであろう。

あえて1%の危険性を残すことが重要だ!

何に対しても100%の安全を求める人は多い。しかし、あえて1%の危険性を残すことが重要である。

この1%(実際は0.01%かもしれないが)の危険性をどう捉えるか?この1%の危険性を克服すると全てが幸せになるように思えるが、実際はそうはならない。この1%を解消することにおける代償は大きい。その代償とは何か?それは金銭的な事であったり、人間に対する自由であったりする。特に近年はこの自由に対する代償は深刻な問題であると僕は考えている。

100%の安全を達成するためには、徹底的な管理が必要である。その管理は元はと言えば物事に対する管理であったかもしれないが、それが巡り巡って人間への徹底的な管理になる。そのような管理をあらゆるところに求めてしまえば、その先にあるのは監視社会である。

もちろん一定の管理は必要かもしれない。経済でも自由貿易だと言っても一定のルールは必要だ。最低限のルールがない社会は無法地帯でしかない。しかし重要なのは“最低限”のルールであって、“過度”なルールは自由の束縛でしかない。

話しは初めに戻るが、最終的な1%の安全を保障するためには、多くの場合90%の自由が失われる。さらに金銭的な負担も莫大になるが、これらの事は物事を大局的に捉える事の重要性を示している。1%の安全性にこだわりそれだけしか見えなければ、それに関して相互作用的に動く物事が捉えられないのである。

僕は物事を行う時には、あえて1%の危険性を残すことを肝に銘じている。言い方を変えると、100%ではなく99%を目指すということである。もし1%の危険が起これば、そこは潔く諦めることにしている。しかしこの1%を諦めることによって手に入れるものの大きさは絶大であることを認識することが重要である。

本丸を守り、本丸を攻める。

自分にとって一番重要なことは何か?その一番重要な事である本丸をいかに守るかは、人間にとって生命線となる。

本丸を守るために、時にはその周囲を犠牲にしなければならないこともあるだろう。すなわちそれは「肉を切らせて、骨を断つ」ということかもしれない。肉は切られても復元能力がある。骨ではないが、芯となる神経を切られては元には戻らない。

本丸を守るためには、まず本丸が何なのか?そしてそれはどのくら重要なのかを理解しなければならない。逆に、何かに挑戦するときは、対象の本丸を攻めなければならない。本丸を落とすためにまず何が必要かを考え用意周到に準備し、対象の本質を見抜かなければならない。対象の本質を見抜くとは、どこを攻めれば芯を突いたことになるかを見極めることだ。

これらのことは、学問についても言えるだろう。細かい計算を続ければ何かは出るかもしれない。しかし本質を突かないことには、それは枝葉末節的な事に終始してしまう。学問の本丸を攻めなければならないのである。

本丸を守り、本丸を攻める。このことを実行できている人は非常に少ない。しかし本丸を見極めることができれば、本丸を攻める準備の65%はできていると言える。

物事を総合的に見る。

物事を大局的に捉え、総合的に見ることが大事である。ある一つの事だけを見てそれが良いことだと思ってもそれが他の事に良くない影響を与えることもあるし、その逆もある。物事を近視眼的に捉えてしまうことは非常に危険である。

ビジネスマンや経営者でも同じだ。目先の事だけしか見えずそれだけの損得しか考えなければ成功してもその幅は小さく、小さな成功者にしかなれない。物事を大局的に捉え総合的に見ることができれば、今目の前にある事に対して損になる選択をしてでもその先にある大きな利益を取ることができる。

これらの事は研究者でも同じだ。目先の成果にこだわり過ぎれば、絶対に成功することにしか手を出せない。しかしそのような必ず成果が出るということは大概大した成果ではない。研究においてもリスクを取ることが大事である。もちろんそのような大きなリスクを取るためには、それまで小さな成果をいくつか挙げていなければならないのかもしれない。

しかし間違ってはならないのは、負けるとわかっている戦は絶対にしてはならないということだ。負け戦は「暴挙」である。ビジョンを持ち、勝つまでの道筋を立てておく。その上で「挑戦」をしなければならない。

自分には展望があっても、他人からは暴挙だと見られることもあるだろう。しかし自分に勝算があればそのような目はどうでもいい。挑戦に打って出ればよいのである。それで負ければ暴挙だったと言われればいい。勝てば自分の挑戦は正しかったと胸を張れば良いのである。

大局的に物事を捉え、自分の目で判断する。それができれば大きな挑戦に打って出る準備の第一段階は整っている。あとは自分がそれをどこまで実行し成し遂げられるかだ。