思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

物事を総合的に見る。

物事を大局的に捉え、総合的に見ることが大事である。ある一つの事だけを見てそれが良いことだと思ってもそれが他の事に良くない影響を与えることもあるし、その逆もある。物事を近視眼的に捉えてしまうことは非常に危険である。

ビジネスマンや経営者でも同じだ。目先の事だけしか見えずそれだけの損得しか考えなければ成功してもその幅は小さく、小さな成功者にしかなれない。物事を大局的に捉え総合的に見ることができれば、今目の前にある事に対して損になる選択をしてでもその先にある大きな利益を取ることができる。

これらの事は研究者でも同じだ。目先の成果にこだわり過ぎれば、絶対に成功することにしか手を出せない。しかしそのような必ず成果が出るということは大概大した成果ではない。研究においてもリスクを取ることが大事である。もちろんそのような大きなリスクを取るためには、それまで小さな成果をいくつか挙げていなければならないのかもしれない。

しかし間違ってはならないのは、負けるとわかっている戦は絶対にしてはならないということだ。負け戦は「暴挙」である。ビジョンを持ち、勝つまでの道筋を立てておく。その上で「挑戦」をしなければならない。

自分には展望があっても、他人からは暴挙だと見られることもあるだろう。しかし自分に勝算があればそのような目はどうでもいい。挑戦に打って出ればよいのである。それで負ければ暴挙だったと言われればいい。勝てば自分の挑戦は正しかったと胸を張れば良いのである。

大局的に物事を捉え、自分の目で判断する。それができれば大きな挑戦に打って出る準備の第一段階は整っている。あとは自分がそれをどこまで実行し成し遂げられるかだ。

大人になるとは、自分を汚していく作業だ!

以前の僕は、人間としていかに潔癖であるかということを考えていた。しかし今は違う。大人として、そして人間として成長するとは、自分を汚していく作業で、いかに汚れた状況の中でたくましく生きるかということが大事だと考えている。そして潔癖とは弱さであると気付いた。

人間が前に進む時に必ず必要になるのが「挑戦」だ。そして挑戦をし続ければ、成功することもあるし失敗もある。しかし汚れるということは挑戦者の証なのである。

日本の社会では、多くの場合減点主義を取ることが多い。しかし減点主義を取った結果、多くの人は挑戦をしないで減点を免れるという手法をとる。この場合確かに減点はされないが、加点もされない。すなわち永遠のゼロなのである。

しかし僕は、挑戦をし続け減点を繰り返しながらも、ここぞという時に大きな加点を狙うということが大事なのではないかと考えている。永遠のゼロではその人は存在しないのと同じだ。人間の手腕の見せ所は、減点をいかに加点に変えるかということである。

これまでの横並び主義の日本社会の中であれば、減点主義で調整型の社会でも良かったかもしれない。しかし今の世の中はボーダーレスである。日本の田舎に居ても、さらにはインフラも整っていない発展途上国に居ても、スマホとパソコン一つで世界のどこの人とも繋がり、最先端の仕事ができる世の中である。そのような世界で減点主義で調整型の組織が生き残れるはずがない。事実、これまで一流企業と呼ばれたシャープが買収され、世界的なトップ企業と言われたソニーも現在では見る影もない。

今必要なのは、リスクを取りとことん前に進むことだ。そして汚れることを恐れてはならない。社会からの評価を気にしてしまうかもしれないが、自分が評価をする側にならなければならない。人生が幕を閉じる時にボロボロで見る影もない、そのような人生を送れたら本望である。

充電をしすぎるな!

自分に対する自戒を込めて書きたいと思う。

十分に休養して「充電する」という言葉をよく聞く。確かに猛烈に走り続けていればどこかで倒れてしまう。そのためにも途中で休養して充電することは大事なのかもしれない。しかし過度な充電は逆に危険でもある。

普段あまり活動もしなくて何も取り組んでいる訳でもないのに、何かにつけて休養や充電を頻繁に取る人がいるが、そのような充電は、一歩進んで三歩後退するということでしかない。この様な場合、トータルで見ると後退している。しかし一歩進んでいる事しか眼中にないので進んでいるという錯覚に陥る。

普通に生きていれば、意識しなくてもたいていの場合ある程度の充電はできている。すなわち充電に気が行っている場合は過度な充電に陥っている危険性が高い。もちろん、十分な睡眠が取れていないとか明らかに過労である場合は、意識して休養・充電する必要はある。しかし、睡眠を普通に取れていれば、それだけで65%くらいの充電はできていると言える。

人によっては、むしろより活動するためにはどうすればよいかということを考えた方が良い。休養して疲れが取れる場合もあるが、時には達成することによる爽快感も必要である。もちろん、休養と爽快感は同一ではないが、人間は適度に活動していないと逆に不調に陥ることもある。

今僕に必要なのは、取り組んでいることに没頭し、出来うる限り前進することである。意識を活動的に生きる事へと向け、一歩でも前進する。今の僕にははっきり言って休養はいらないと感じている。意識しなくても適度に休養は取れているからだ。

成し遂げる前の適度な休養も良いが、達成した後の爽快感に浸りながらのバカンスを実行するために猪突猛進したいものである。

自分の可能性を狭めてはいないか?

信念を持つということは非常に大事だ。しかし信念とこだわりは紙一重、生産性のないこだわりを持ちすぎると自分の可能性を狭めてしまう。逆に、自分の芯となる信念を確立していると、逆境においても乗り越える力になりえるし、取り組んでいることに集中して飛躍的に進歩させることもできる。

信念とこだわりの違いは何か?これはある意味結果論だと言える。成功すれば信念だと言われるし、進歩がないとこだわりだと言われる。そういう意味ではこだわりをいかに信念へと昇華するか?ここが才能と努力の見せ所である。

僕自身もいろいろとこだわっているようなところがあり、それが自分の可能性を狭めているのではないかと感じるところがある。いかに不毛なこだわりを捨て去るか。それはこれからの大きな課題である。それと同時に芯となる信念を推し進め、いかに大きな結果を出すか。これに人生を懸けている。

他人が判断する可能性はあくまで結果論であって、自分の将来の可能性を一番見通せているのは自分である。もしかしたら自分の将来を見通せていない人もたくさんいるかもしれないが、自分の将来の可能性を判断できる判断力を身に付けることが非常に重要である。

では、将来の可能性を見通すためにはどうすればいいか?そのような特効薬はない。ただ何をすればよいかははっきりしている。まずは大局観を身に付ける事。そのためには目先の事ばかりを考えてはいけない。二歩先、三歩先に焦点を合さなければならない。金銭的にもそうだ。目先の小銭ではなく、将来の余裕を手に入れることを考えなければならない。ただそのためには、現在の状況を乗り越えることが必要だ。

今を乗り越え、将来の大きな目標を手に入れることにどれだけのめり込めるか?そこに人間としての度量が試されている。

コーヒー一杯に懸る、自分の人生。

生きる上で一番大事なのは、自分の身体である。「体が資本」と言うように、健康でないことには物事を前に進めるのは難しい。それと同時に大切なのが「頭脳」である。身体と頭脳は人生の両輪と言える。そのため、いかに健康な体を維持し鍛えるか、そしていかに頭脳と精神のコンディションを高いレベルで維持するか。この二つは僕にとっての日常における最も大きな課題である。

この事とコーヒーが何の関係があるのか?僕にとっては非常に大きな関係があるのである。以前の僕はコーヒー中毒と自称していたように、毎日7杯くらいのコーヒーを飲んでいた。最近は、コーヒーは万能であって体に良い効果ばかりだというニュースをよく聞く。そのような事を聞いて、調子に乗ってコーヒーを大量に摂取し続けた。

しかし何でも適量という言葉があるように、取り過ぎれば良いというものではない。それはコーヒーも同じだ。最近、睡眠などの日常生活における不調を感じて、コーヒーの摂取の量を大幅に減らした。そこで自分の体を使ったちょっとした実験を始める。果たしてどれくらいの量が僕の体にとって適量で、もっとも良いコンディションをもたらすか?

最近は、コンディションを保つことに関してはかなり力を入れている。そのことが僕の取り組んでいることの成果へ直結すると認識しているからだ。コーヒー一杯が自分のコンディションに影響を与えるのならば、言い換えるとコーヒー一杯が自分の人生を決定すると言える。ならば人生を上向きにするためにもコーヒーに対して真剣に向き合い考え抜こうという姿勢を取り始めた。

たかがコーヒー、されどコーヒー。自分の人生の行方は何気ない自分の身の周りの事によって左右されるのかもしれない。ならば今一度自分の身の周りを見返して、何か改善できることはないかと見直してみよう。

知への挑戦。

僕は、人生とは次への挑戦だと思っている。何に対して挑戦するかは人それぞれ違うが、荒野を開拓し、多くの失敗を重ね、その中で大きな成功を成し遂げる。人生が終焉する間際までこのような挑戦をし続けることができれば本望である。

僕の人生の中で一番大きな挑戦は「知への挑戦」だ。数学や物理などの学問は僕の人生の中で最も大きな挑戦であるが、哲学や思想構成、そして生物学や歴史などの専門外の学問に対しても、自分の出来うる範囲で挑戦し続けたいと思っている。

学問とスポーツは全く違うものだと考えている人は多いかもしれない。確かに学問は頭脳を使い、スポーツは体力を使う。しかしそれらを極めようとする人にとっては、その根幹にある思想は共通するところが多いと感じる。どちらも究極への挑戦である。学問であれば過去の究極はアインシュタインと言えるかもしれないし、スポーツで言えば現在の究極は大谷翔平だと言える。

知の魅力に取りつかれた人は、知の魔力からは抜けられない。知への挑戦に終わりはないのである。全ての学問、そして全てのスポーツに言えることだが、知れば知るほど、極めれば極めるほど、それらの世界の奥深さを感じ、やるべき事がどんどん増えていく。すぐにやりつくしてしまうのではないかと感じている間は全く理解していないのだと言える。

将棋に関して僕は超初心者である。僕のような初心者には将棋の世界の片隅さえも見ることはできない。しかしおそらくプロ棋士には将棋盤の上の数十センチ四方のマス目の中に限りなく大きくて深い世界が見えているのだと思う。そのようなことは学問も同じだ。数学者や物理学者は、数式を機械的に計算しているのではない。数式の中に繰り広げられる深くで豊かな世界を視覚的に見て、それらの世界を構築し色を塗り続けているのである。

知への挑戦とは、新たな世界を構築していくことである。そして人間の深さとは、現実世界とは別に、第二の世界、第三の世界を持つことなのかもしれない。そのような世界が僕にとっては数学の世界、物理の世界なのである。

究極の技術。

今日、録画しておいたドラマ「下町ロケット」の新シリーズを観た。前回のシリーズも非常に面白かったが、今回も何やら面白くなる予感がする。少なくとも僕は、究極の技術に立ち向かう人間と組織のストーリーは大好きだ。

ところで、究極の技術を開発するとはどういうことか?一言で言えば世界一の技術を身に付けるということだ。しかし企業が技術を開発するに当たっては、単に技術を向上すれば良いというものではない。まずはコストというものを考えなければならない。資金は有限である。もちろんお金をかければ基本的には良い物ができる。しかしビジネスにおいては費用対効果も非常に重要な要素になる。

今回の下町ロケットでは、スペックの問題が取り上げられていた。スペックは数字で厳密に表現できる。しかしスペック以外の所にも重要な要素はいくつかある。これは人間についても言える。近年、人間のスペックという言葉をたまに耳にする。収入や学歴などの数字やランクで表現できることである。しかし人間の本質はスペックではない。人間性やフットワークの軽さなど、スペックでないところに人間の本質がある。とは言ってもスペックが無関係なわけではない。スペックが全てではないが、スペックは判断要素の一つであり得るということだ。

究極の技術は同時に、究極の人間性を身に付けるということだ。学問やスポーツにおいて究極の技術を身に付けるためには、まずは人間性を高める必要がある。生きる上での哲学、そして取り組んでいる事に対して本質を見抜くための力、そして絶対的に折れないための体力も必要だ。

一つを極めるためには全てを高めなければならない。専門バカになるためには、人間としてオールラウンダーになることが必要不可欠である。

期限を設けて成し遂げる大切さと、長い目で見て取り組む大切さ。

物事に取り組むに当たって、多くの場合は期限が設定されている。ではなぜ期限が設けられているのか?その究極的な答えは「人間の命は有限」だからである。単純に人生80年だと計算しても、その中でできる事はたかが知れている。確かに多くの事が出来るかもしれないが、地球上全体から考えればその量は塵ほどでしかない。

物事を期限までに成し遂げるということは非常に重要だが、その一方で期限を設けずに長い目で見て取り組むということも大事である。もし人生で一番大切なことがあるのならば、それは数か月や数年でできる事ではないだろう。時には人生すべてをつぎ込んで成し遂げられることかもしれない。そう意味で「人生」という期限はあるのかもしれないが、半永久的だとも言える。

近年では、ほとんどの事に対して短期間で目に見える形で結果を出すことが求められることが多くなっている。時代の流れは速く、一年もたてば古くなってしまうことも多い。新型iPhoneも長く見て寿命は5年というところだ。

しかし本当に重要な事は、年月が経っても古びない。それが真の価値というものだ。科学研究においても本当に重要な基礎研究は何十年、何百年と受け継がれている。しかし99%以上の研究は数年で消える運命にある。

自分自身の人生のミッションにおいて、時には追い込んで短期間で仕上げなければならない時がある。それができなければ二度目はない。そのような時にそれを成し遂げられるかどうか?自分自身の才能と努力と人間としての総合力が問われ、自分という人間が試されている時かもしれない。

賢く、時にはバカであれ!

賢いとは、決して勉強ができるとか多くの知識を知っているということではない。賢いとは、生きる姿勢である。また応用や解釈が豊富で、本質を見抜けるかということである。また、本当に賢い人は普段はバカになれる。そして徹底的にバカになり切れる。

賢い人は騙されることができる。逆に愚かな人は人を騙そうとする。もしかしたらこれらのことは一般の認識とは逆だと思うかもしれない。しかし本当に賢い人は「騙されても、人を絶対に騙さない」という生き方を貫くことができる。

賢い人は、自分の信じることに対しては徹底的に貫く。そして徹底的に真理を追求する。しかしこれは宗教を信じるとかそういうことではない。なぜなら宗教には根拠がないからだ。人を信じることは大切な事だが、その前に自分の思考を徹底的に信じなければならない。物事の真理は自分の頭によってもたらされるのである。

愚かな人は、目の前のものしか見えない。現代的に言えば、ネットの情報を鵜呑みにするということかもしれない。目の前の事やネット上の事は“判断材料”でしかない。大事なのはそれらの背景やその奥に潜む本質である。

本質はどうしたら見抜けるか?僕にはそのような特効薬があるとは思えない。ただ一つ言えることは、「徹底的に自分の頭で考える」ということだ。これなしに本質はつかめない。

学問の教科書に載っていることは、過去の常識でしかない。しかし最も大事なことは、「未来を創る」ということである。だから、教科書や書物を読むばかりでは過去の常識を蓄積することしかできず、未来は永久に創れない。やはり本や教科書を基に自分の頭で思考することが重要になる。

僕のブログのタイトルは「考える部屋」である。だから知識を延々と書くなどということは絶対にしない。時には、自分の考えたことや自分の生き方のメモになっているかもしれない。しかし僕の書いた記事が何かを考えるきっかけになればと思っている。

考える事は、生きることの一番の核だと僕は思っている。

永遠の命は違った形で?

昔から(一部の?)人間は、永遠の命を求め続けてきた。僕自身は永遠の命には全く興味がなく、むしろ寿命があるからこそ生きていることに大きな価値があると思っている。しかしそれとは別に、永遠の命というものが実現可能か?という問題に関しては大きな興味がある。

余談だが、昔読んだ手塚治虫の漫画「火の鳥」では、火の鳥の生血を飲むと永遠の命が手に入ると伝えられ、人々が火の鳥を追い求めるというストーリーが展開されている。そこで書かれている永遠の命を手に入れた人間の末路は悲惨で壮絶であった。もし本気で永遠の命を手に入れたいと思っている人がいるのならば、火の鳥を一読してもらいたいと思う。

永遠の命とは程遠いが、寿命を延ばすことに関しては人類は大きな成果を挙げてきた。そして2018年度のノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑博士らが開発したオプジーボは、一部の(全部ではないと強調されている)ガンを征服することに成功し、その延長戦上にガンの征服が見えてくるのかもしれない。しかし例え人間がガンを征服したとしても、それは病気の一つ(しかし最も大きな病気である)を征服したに過ぎず、永遠の命を人類が手に入れたとは全く言うことができない。

これまでは、仮に永遠の命を手に入れることがあるとすれば、それは医学の進歩の延長線上にあると考えられてきた。(もちろん僕はそのようなことは不可能ではないかと考えているが。)しかし近年の(ITを含む)科学技術の発展により、違う形で永遠の命というものが実現されるのではないかと思い始めた。そのきっかけは、一冊の本「脳の意識、機械の意識」(渡辺正峰著、中公新書)を読んだことだ。この本では、人間の意識を機械に移植するということが究極の目標だと書かれている。そして著者の渡辺博士はそのための基礎研究として「意識とは何か?」ということを科学的に研究されている。渡辺博士の研究は単なる思い付きによるものではなく、細胞レベルからマクロの人間レベルに至る地道な実験によるものである。

もし人間の意識を機械に移植できれば、人間は半永久的に生きることができると言えるのではないだろうか。現時点ではこのようなことが実現できるかどうかは不明である。しかし人間の脳は一種の自然コンピューターだと見なせ、人間が現実に存在するという事実からコンピューターを人間化することは原理的に可能であると言える。ただ、意識を科学的に解明するということはとてつもなく手ごわい問題であり、そのような基礎科学的問題の解明にどれだけ時間がかかるかもわからない。しかし科学的興味として、非常にエキサイティングな問題であることには間違いない。

永遠の命は医学ではなく、IT及びコンピューター技術(ともちろん生命科学)によりもたらされる可能性があるということを渡辺博士の著書では示唆されている。そのようなこれまでの常識を180度ひっくり返すような未来が来るのかどうか?興味があるが、それまで現在生きている人間が生きているのかどうかは分からない。