思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

知の爆発。

芸術家の岡本太郎が「芸術は爆発だ!」と言ったことは有名だ。僕には芸術がどう爆発するのか理解できないが、一流芸術家の岡本太郎がそう叫んだのなら、そういうこともあるのだろう。

芸術とは違うが、知も爆発する。それは個人レベルでもそうだし、社会レベルでもそうだ。しかし何もないところに知が爆発することはない。爆発するまでに知の蓄積が脈々と受け継がれて積み重なった所にしか知の爆発は起きない。だから何か爆発的な結果を出すためには地道に努力するしかないし、社会においても知を寛容に受け入れないと知の爆発は起きない。

物理学における知の爆発と言えば、誰もが20世紀初めの量子論・相対論革命を思い出すだろう。しかし量子論も相対論も、何もない所に降って湧いた訳ではない。それらが誕生するための基盤が着々と固められていたのである。そこにハイゼンベルグだとかシュレーディンガー、そしてアインシュタインがとどめを刺したということだ。

知の爆発はそんなに頻繁に起こる訳ではない。しかし常に知の爆発を起こすための努力はし続けるべきである。そしてそのためには、山中伸弥教授の言うVW(ビジョン&ハードワーク)が必要なのは言うまでもない、努力は必要だが、それだけでは生まれない。ビジョンが必要不可欠なのだ。日本人はハードワークは得意だがビジョンがないと言われ続けてきた。そして今ではそのハードワークまでもが失われつつある。そのような時代なのだと言われればそれまでであるが、個人が自分の立てた目標を成し遂げようとするときにはハードワークは必要だ。もちろんハードワークをしない自由もある。それはすべて自己責任と言える。

知の爆発を起こすべく、個人も社会もVWを掲げたいところだが、片一方が出来る人はそれなりにいても両方が出来る人はそうはいないのかもしれない。山中教授はiPS細胞という知の爆発を起こすことに成功した。そして生命科学の分野ではゲノム編集などの知の爆発が立て続けに起きている。他分野の人間はそれらを指をくわえて見るのではなく、周りの人に指をくわえさせるような知の爆発を起こさなければならない。

なぜバカな生き方を求めるのか?

僕は賢い生き方はしないと心がけている?バカな生き方をしようと思っている。ただ間違ってはならないのは、何も考えないでバカな生き方をするのと、考え抜いてバカな生き方をするのとは、意味が180度違うということである。バカな生き方をするのなら、賢い生き方をするのより何倍も考え抜いて生きなければならない。

では、なぜバカな生き方をしようとするのか?それは「生きるために生きる」ということをしないためだ。生きる事には意味がある。その意味を常に考え抜かなければならない。自分の生きる意味は何か?何のために生きるのか?そのことを考えて実行することによって、生きることに哲学が生まれる。

確かにお金は大事だ。しかし最近社会で話題になるのは、老後資金を蓄えるとか、“賢い”貯蓄の仕方、そしていかに効率良く“賢く”お金を儲けるかだ。そのような“賢い”生き方は何をもたらすのか?もちろんそれによって人生が有意義に意味のあるものになるのであれば言うことはない。しかしそれらの“賢い”生き方が「生命の浪費」というだけになってはないだろうか?

人間が生きるとは多様性の追求だと言える。そうならば多様な意味、多様な可能性も求めるべきではないだろうか?そのためにたどり着いた一つの結果が「バカな生き方をする」ということである。

一般的に言われる“賢い”とは、決して“知的”という意味ではない。本当の知性とは、生きる意味を明確に認識して、その人生の意味を最大限に発揮するために生きるということである。そのような事を考えると、今の社会はあらゆる意味で迷走しているのではないだろうか?

装飾とは?

「インスタ映え」という言葉が流行って久しい。インスタ映えを求めるということは一種の装飾と言えるが、人間の装飾は何かと言えば、その代表例はもちろん服装である。また、持ち物で装飾したり、人間関係で装飾したりといろいろあるが、何で装飾するかはその人の人間性が最も表れるところである。

目に見えるもので装飾することは全然悪い事ではないが、それ以上に大切なのは目に見えない装飾である。例えば人間そのものが醸し出す装飾や生き方から感じられる装飾、そして主義主張から感じられる装飾などである。それらの装飾は人間そのものであると言え、これらの人間性による装飾がないと、服装などの外見装飾は張りぼてになる。逆に言うと、魅力的な人間装飾が存分にあれば、外見装飾はそれをより一層輝かせることが出来る。

外見装飾とは副次的なものと捉える人もいるが、時には外見装飾が主役になることもある。世の中には装飾がないと成り立たないことも多い。多くの人間は外見装飾に行動を左右されるのはその表れである。しかしそれらの外見装飾に気を取られて人間装飾を磨くことを怠っては本末転倒だ。

結局は人間性から醸し出される装飾と外見装飾をバランスよく保つことが、人間をより魅力的に魅せるには重要であろう。もちろん外見装飾などに見向きもせずに人間装飾を圧倒的に輝かせるのは圧倒的に魅力的である。そのような人物には尊敬もするし、憧れもする。その一方、外見装飾も豊かにし、わかりやすい魅力も発揮したいという欲望にもかられる。しかし人間としての本質をしっかりと心得ていれば、そのように外見装飾にそれなりに力を入れるのも悪くない。

コーヒーとの付き合い方。

飲食との付き合い方は体や頭のコンディションを左右し、極論を言えば人生を左右する。飲食との付き合いのうちで一番重要なのは、アルコールとの付き合い方だろう。以前は適量のお酒は薬になるとよく言われていたが、最近の研究結果によるとお酒は微量でも悪くなることはあれ、良いことはないということがわかったらしい。確かに依存レベルになると誰が見ても問題があるとは思うが、たまに適量を飲むことによりストレスが解消されるのならそれも良いとは思うのだが、実際はかなり意識していないとアルコールの量が増えて行ってしまう。

プロスポーツ選手は食べ物の栄養にこだわっているという話はよく聞く。僕はアスリートではないので、食事がどれくらいアスリートのコンディションを左右するのかはよくわからないが、そのような食事に対する意識はある意味プロ意識の表れだと言えるだろう。

飲食の体に対する影響は分かりやすい話だが、体だけではなく頭脳への影響も非常に重要な話である。頭脳へのアルコールの影響は言うまでもないが、僕は最近コーヒーの影響に敏感になっている。コーヒーにはカフェインが入っており、適量のカフェインなら頭脳を覚醒させると言われるが、やはり度が過ぎると良くないようだ。もちろん人によって適量は変わってくるであろうが、何事も適量に抑えることが重要になる。

頭脳を最高のコンディションに保つためにはどうすれば良いか?適量のコーヒーと、適量のチョコレート(糖分)、そして適切な睡眠であろう。そうは頭では認識していても、これら三つを上手くまとめるのは意外に難しい。過度に気を使って疲れてはどうしようもないが、ある程度の健康マニアになることはメリットが多いのではないだろうか?

自己マインドコントロール。

マインドコントロールと言えば、日本では某大事件により非常にネガティブなイメージで捉えられているが、自分をマインドコントロールすることは非常に大切な事である。自分をマインドコントロールする、すなわち自分で自分を操れないと、目標へ近づくことはできない。

逆に自己をマインドコントロールできない状態は非常に危険である。自己マインドコントロールできないと、周りからマインドコントロールされる危険性が増える。他者からのマインドコントロールが危険な事は、過去の某大事件からも明らかだ。他者からマインドコントロールされないためにも、自己マインドコントロールをしっかりとすることが必要だ。

各分野でプロと言われるくらいのトップアスリートは、おそらく自己マインドコントロールが高度なレベルで取れている。そしてスポーツ選手だけでなく、あらゆる職業でも同じことが言えるだろう。欲望は時には必要だが、打ち込むべき事に打ち込む時は、欲望に流れるのではなく自己マインドコントロールによって統制されていなければならない。もちろん時には爆発することも必要かもしれない。しかし自己マインドコントロールされているかいないかで、爆発する質も方向も180度変わってしまう。

自分の掲げる高い目標に到達するためには、まずは自己マインドコントロールによって自己を統制することが必要であることに気付く。自己マインドコントロールができる状態は、人間性を高度に保った状態だと言える。自分が人間らしく、そして自分らしく個性を出すためにも、自己マインドコントロールは非常に重要である。

主義・主張を掲げる。

主義とは何か?それは信念の主張である。日本人は主張が下手だとよく言われる。日本ではなあなあの雰囲気で物事が決まる中、自分の意見を主張するとわがままだとか協調性がないと言われる。野茂英雄氏がメジャーリーグに挑戦した時、日本では野茂氏をわがままだとけなし酷評する人が圧倒的多数だった。無言の野茂氏がそれを跳ね飛ばすことが出来たのは、実力を発揮し結果を残したことによるのは言うまでもない。自分の主張に対する批判を跳ね飛ばすのは、結果を出すしかないのだ。

主義主張の背後には覚悟があり、それをわがままだと一蹴するのは早計だ。その一方、主義主張を勘違いする人も出て来ている。単に楽をしたいからとか自分の都合の良い解釈を言い放つのは主義主張とは言えない。野茂氏のメジャー挑戦は明らかに厳しい道への挑戦であり、自分の都合だけを通した訳でも何でもない。まさしく野茂氏の強い覚悟を感じる。

近年は日本でも個性が重要だという雰囲気も出来つつあり、昔に比べれば主義主張がしやすい環境になってきた。そのような中でも、主義主張を貫くにはエネルギーもいるし、人生に対するリスクや金銭的リスクも伴う。時には命に係わることもあるであろう。しかし自分の信念に嘘は付けない。とは言え、信念だけで物事が成功する訳ではない。そこには成功への明確なビジョンがなければならない。そして実力もなければならない。それらが一つにつながった時、主義主張に基づく挑戦は達成されるのである。

野茂氏のようなパイオニアがポンポン出てくる訳では決してない。しかしパイオニアとして挑戦しようとする若者、あるいは中年かもしれないが、それらの人が厳しい挑戦に立ち向かい、リスクを取りながら成し遂げようとする意志には、大きな敬意を払いたいと思う。

アナログ回帰。

近年押し寄せている社会のデジタル化の波は非常に大きい。スマホを始め、身の回りの物のほとんどがデジタル化され、最近はIoT(Internet of Things)という言葉も流行している。その一方、一部ではデジタル回帰とも言われる動きが見られる。例えばiPadなどを始めとする電子機器などでの書類管理が進んでいるが、個人レベルでは紙(ペーパー)の魅力を再発見することもある。紙の書籍は今でも電子機器などでは得られない魅力と効果がある。またアップルウォッチなどのスマートウォッチが普及する一方、機械式時計がブームを起こしている。

僕自身も今、一部アナログ回帰しようと取り組んでいる。しかし一度デジタルの世界に慣れてしまえばアナログ回帰をすることは容易ではない。かなり意識しないとついついデジタルの世界にどっぷりとはまってしまう。無意識の内にどこかでネットとつながっている。確かにネットは非常に便利だが、依存症になるほど浸かるのは問題だ。現実世界を強く意識し、リアルで周りの人とつながることが大事である。

そんな僕も、現在使っている旧型のiPhoneを新型に買い換えたいという衝動は凄くある。スマホを買い換えるのも良いし、ネットを駆使するのも良いと思う。ただ現実世界に生きていることを忘れてはいけない。あるいはもしデジタルやネットの世界に浸かるのなら、徹底してそれらを駆使するという手もあるのかもしれない。例えばゲームにはまるのなら、ゲームをするのではなくゲームを作るというようにだ。またデジタルを駆使することによって無駄な時間を大幅削減するというのも手だ。間違ってもネットがネットを呼ぶように雪だるま式に時間やお金を浪費してはいけない。

アナログに生きながらも、デジタルを上手く駆使すれば時間もお金も有用に使えることが出来るだろうし、自分の打ち込むことにも効率的に取り組むことが出来るであろう。そして人との連絡や出会いも大きく増やせるかもしれない。しかしその塩梅が難しい。現代社会に生きている限り、デジタルな世界を無視することはできない。だからと言ってアナログ世界は必要ないかと言えば、それはそれで今でも魅力的な所はいくつもある。デジタル世界である現代社会の中で生きながら、いかにアナログの魅力と利点を取り入れられるか?これは簡単そうで非常に難しいスキルが必要である。デジタル回帰は一筋縄では行かなさそうだ。

孤独死の何が悪い!

近年問題になっていることの一つに、孤独死がある。孤独死が起こるたびにニュースが流れ、孤独死が問題であるような論調で語られる。しかし僕には孤独死の何が問題なのか理解できない。僕自身も死ぬ時は人に見取られたいと思ったことは全くなく、むしろひっそりと孤独死をしたいと思っている。

孤独死の問題は、孤独に死ぬこと自体が問題ではなく、生きがいが持てないことにあるのではないだろうか?大きな生きがいを持って生きていれば、今いかにして全力で生きるかということに力を尽くすことが大事であって、どのような形で死ぬかなどということは些細な事であることが分かる。さらに言えば、孤独死を問題にしてしまうような意識の方がはるかに問題ではないのかと感じる。

もちろん人によっては、死ぬ時の形にこだわる人もいるだろう。もしかしたらそのような人の方が多いのかもしれない。しかし繰り返すように、死ぬ時の形よりも生きる形の方がはるかに重要であり、死に方を考えるくらいなら「それまでいかにして生きるか」ということを考えた方がはるかに有機的である。

人生とは惰性で生きる事では決してない。もちろん皆真剣に生きているとは思うが、生きる行為が惰性になった途端、生物学的には生きていても精神は既に死んでいる。そして孤独死にこだわることは生物学的な死に焦点を当てたものであり、大事なのは生物学的な死の直前までいかに“精神的”な生命力を発揮するかということである。

死は誰にでも訪れる。そういう意味でどのように死ぬかということは誰もが考えることかもしれない。しかしそれは孤独死を問題視しすぎる事では決してないはずだ。死に方よりも、いかにして死の直前まで自分という人間の精神活動を行うかということに焦点を当てるべきだ。

哲学無き学問は総じて軽い。

あけましておめでとうございます。新年の挨拶は軽くこれくらいにして、2019年一本目のブログ記事に入ろうと思う。

物事に取り組んでいる人は、大きく二つに分けられる。哲学を持って取り組んでいる人と、哲学無き人。哲学を学問として取り組んでいる人以外は哲学などは無用だと思っている人も多いが、哲学を持って取り組むことは非常に意味のある重要な事である。哲学無き学問は総じて軽いし、学問以外でも哲学のない物事は中身が詰まっていない張りぼてである事が多い。哲学を持って取り組んでいるかどうかによって、出来上がるものが天と地ほど違ってくる。

数学や物理の研究においても、哲学を持って取り組むことは重要だ。哲学がなければ数学は単なる計算に過ぎない。単なる計算ならコンピューターにやらせておけばよい。哲学的な部分があるからこそ人間がやる意義があるのである。数学は誰がやっても同じ結果にたどり着くと思っている人がいるが、それは全く違う。哲学の違いによって右にも左にも行き得るのだ。そこが数学研究の本質である。

ではそもそも哲学とは何か?この答えは一つではないし、答えるのは非常に難しい。ただ一つ確実に言えることは、哲学は人間だけが持ち得るものだと言うことだ。そういう意味で、哲学は人間らしさであると言える。「いかにして生きるべきか?」という問いを突き詰めていけば、自然に哲学へとたどり着く。それと同様に、「いかにして数学の本質を追究していくか?」ということを突き詰めれば、数学的な哲学を構築する必要性に迫られるはずだ。真剣に学問を追究すれば、哲学は自然と出来上がってくるものである。

もし今取り組んでいることに対して深く理解したいとか、本質を突きたいと思えば、一度立ち止まってそのことに対する哲学を立てる必要がある。そして哲学を立てることが出来れば、物事と哲学が相互作用を始め、有機的な構築が出来るはずだ。

年末だからって?

2018年もついに終わり、大晦日だ。そして来年は平成が終わる。年末、そして平成末ということで、何か締めくくりをしたり振り返ったりと色々な所でされているが、よくよく考えてみると年末だから一年を振り返るというのもありきたりであり、予定調和のような気がする。なので今年は予定調和に逆らい、一年を振り返ることはしないことにしようと思う。しかし一年は振り返らないけど、来年の抱負なり目標は明確に定めたいと思う。

常に刺激を求め続け、人生において攻撃的姿勢で臨もうと思っているが、そのように心がけていてもつい守りに入ってしまうことがある。保身だけは絶対にしないぞと常に心がけているが、現在そうなり切れているかは少し疑問だ。守りの自分にオサラバして、飛躍を求め続けたいと思っている。本当に守りに入っている時の自分は凄く嫌いだ。

生きるとは人との関係において、あるいは社会においてどう生きるかということかもしれないが、最近僕が感じているのは自分とどう向き合うかだ。自分と向き合い自分を納得させることが出来る生き方をしないと、人との関係も思うように築けない。強いスポーツ選手ほど「自分との戦いだ」と言うが、人生目標を高い所に掲げていればやはり「自分との戦いだ」ということを強く感じる。

一年は振り返らないが、大晦日には来年一年間、そしてこの先十年間を強く見据えようと思う。自分には厳しく向き合おうと思うが、まだまだ甘い所もたくさんある。研究をする時は真剣に思いっきり打ち込み、遊ぶ時も真剣に思いっきり遊びたい。遊びというのは無駄ではなく、ある意味活力源だと思う。真剣に思いっきり遊べない奴は、本業にも真剣に向き合えないと思う。最強の遊び人であり、最強の研究者である、それが僕の目指すところだ。