思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

手段と目的を混同してはいけない。

政治の世界を見ていると、いつの時代も賄賂の問題が取り沙汰されている。賄賂とはほぼ全てお金が絡んでいるが、後になって「お金を返したから問題ないだろ」と言う政治家が頻繁に表れる。これこそ手段を目的を完全に混同している典型的な例だ。ここで言うお金のやり取りは手段であって目的ではない。目的は「便宜を図ってもらう事」なのである。便宜を図ってもらう手段としてお金のやり取りが発生するのである。なのでお金を返還したからと言って、便宜を図ったと言う事実は消えない。なので政治家がお金を返還したとしても、何の責任回避にもならないのである。

話は変わるが、新型コロナが流行しだしてから既に一年以上経った。しかしまだ流行が収まる気配はないが、唯一の救いはワクチン接種が開始され、ワクチンによって集団免疫が獲得されれば国内の流行は収まるかもしれないと言う見通しが少しは出て来たことだ。しかし海外ではまだワクチン配布の目途も経たない国は多く、例え日本国内である程度流行を抑えられたとしても、世界的に流行を制圧するためにはまだまだ時間がかかりそうだ。そのようなコロナ流行の時世の中で、人々は極力コロナウイルスとの接触を避けようと試行錯誤している。中にはコロナウイルスに過剰に反応して、過剰な行動とをとってしまう人もいる。そういう僕も色々と過剰な反応をしてしまうことが多い。しかし問題の本質はコロナに感染しないようにすることであって、極度にコロナらしきものに汚れることを防ぐことではない。例えば、コロナウイルスとの接触を避けるのはコロナ感染を防ぐためであって、そのための手段でしかない。しかしこのような手段を暴走させ、過剰に反応する人も少なくない。

よく「目的のためには手段を選ばない」と言われることがある。確かにビジネスでは変なプライドにこだわって手段を選んでいてはお金を儲けることはできないし、手段を選ばないと言う事はあながち間違ってはいないだろう。しかし「人生においてどのように進んで行くか?」と問うた時、手段を選ばずに進んでも良いものなのか?人生と言うものは結果だけを見て評価されるものではない。歩んでいる道そのものも人生の重要な一部分なのである。なので歩んでいる道(つまり手段)と結果を総合してどのような人生にすべきかと言う事を考えなければならない。もちろんこのような僕の意見に反発する人も多いだろう。お金が全てだと言い、お金を得るためには手段を選ばないと言う人もかなりいる。しかしそのような人間ばかりではないことも事実である。命より大切なものはほとんどないが、お金より大切なものは沢山あるし、もしそのようなものはないと言う人がいればおそらく精神が貧弱な人だと僕は思っている。

ただ手段は一つだけではない。いくつかある道のうちからどの道を選ぶかとなった時、熟考を重ねて、しかしながら時には瞬時に判断しなければならない。そのような判断すべき時に、まともな判断ができるかと言う事は、これまで自分が歩んできた道が関係して来るものだ。自分の価値感と言うものは、これまで自分が歩んできた道に大きく左右される。なので手段(道)にこだわると言う事も非常に重要なのではないかと僕は強く感じている。

お金以外の価値を見出せるか?

人間は人それぞれ価値観は大きく違う。それによってある人には大きな価値があると感じられることが、他に人には何の価値も感じられないと言う事も多々ある。しかし一つだけ誰もが大きな価値を感じられるものがある。それは「お金」である。どんなに思考能力がなくても、お金の価値だけは理解できるのである。もちろん非常に立派な人間でもお金の価値を感じるだろう。

お金の価値を感じることは至って普通の事である。しかし非常に危険なのが、「お金の価値しか感じられない」ことである。極論を言えば、人生とはお金以外の価値を感じて行く過程だと言える。お金以外の何かに大きな価値を感じ、それに打ち込んでいく。もちろんそのことにお金が発生すればなおさら良い。いや、もしそれを仕事とするのならば、お金をもうけられないと持続性をもたらすことができない。プロ野球選手のほとんどが野球をプレーすることに大きな価値を感じているだろうが、しかしそれによって得られる大金も大きなモチベーションの向上になるであろう。

僕は幸いなことにお金以外の事に大きな価値感を感じることができた。それは数理物理の研究、すなわち数学と物理だ。この二つを僕に与えていれば、おもちゃを与えられた赤ちゃんのように機嫌よく楽しんでいられるだろう。しかし何かに価値を見出しそれに打ち込むことは、もちろん楽な事ばかりではない。それに打ち込んでいるからこそ死ぬほどきついことも多々ある。しかしそのような苦しみさえやりがいに感じられる何かがあるのだ。そしてそのように感じられるのも、それが自分で選んだ道だからである。

もし目の前の人間を評価したいとき、「あなたにとって価値あるものは何か?」と尋ねればよい。そうすれば誰もが「お金だ」と言うだろう。重要なのはその次だ。もしお金以外に何も価値を感じられなければ、その人は取るに足りない人間である。もしお金以外の事に大きな価値を感じることができるのならば、それは車で言えば大排気量エンジンを持ち合わせているのと同じである。電気自動車が普及し始めた現代風に言えば、大容量バッテリーと強力モーターを持ち合わせていると言える。お金は物質的に豊かな生活をもたらしてくれる。しかし精神的に豊かな生活を求めるのならば、お金以外の価値を感じることが必須である。そしてそれは人生を通じて大きな財産になるであろう。

科学と言うものは、心の眼で見るものだ。

最近非常に痛感している。科学と言うものを(顔についている)目で見たものにこだわっていると、逆に大きなものを見落としてしまうことがある。生物学などでは顕微鏡などで見ることが非常に重要になるが、数学や物理などの特に理論系の学問では、顔の目でなく心の眼で見ることが非常に重要になる。心の眼と言うものは、もちろん論理の眼と言うものも含まれている。意外と人間の(顔の)目で見たものは当てにならないものだ。

数学などの感覚を掴めない人は、おそらく顔の目で見ることにこだわっているように思える。しかし当たり前の事だが、数学において空気のような存在である無限大や無限小、さらには高次元空間と言うものは、心の眼で捉えないと見えない。心の眼が曇るほど、顔の目で捉えようとしてしまう。論理の目が重要なのは多くの人に理解されるであろうが、意外と論理と言うものはそのような心の眼と言う観点から構成されるものだ。なので心の眼で捉えられない論理と言うものは、何の発展ももたらさないことが多い。

世間では数学と言うものは論理が絶対だと言われることが多い。なので数学と言うものは究極的に無機的なものであり、無味乾燥なものだと映るのかもしれない。しかし心の眼で捉えた論理と言うものは究極的に有機的なものであり、最も自由なものでもある。それが数学が最も自由な学問であると言われるゆえんである。

顕微鏡で捉える生物学においても、心の眼と言うものは非常に重要であると僕は考えている。例えばワトソン・クリックの発見したDNAの二重らせん構造にしても、その発見のもととなったX線写真からはとてもじゃないが二重らせんは想像できない。しかし彼らの心の眼にある程度の姿が映っていたからこそ、そこから二重らせん構造が結論付けられたのだと思う。一流科学者と三流科学者の決定的な違いはそのようなところにある。

心の眼と言う言葉は、文学などの文系学問の専売特許だと思われるかもしれない。しかし文系や理系と言う区別をすること自体が既に本質を見誤っているのである。もちろん科学と文学では異なるところもたくさんあるが、根をたどれば共通するところもある。その一つが心の眼で見ると言うところであると僕は考えている。

統計としてIQを調べるのはいいが、個人をIQで評価するのは間違っている!

今に始まったことではないが、人々は偏差値とかIQで人を評価することが好きだ。もちろん、偏差値とかIQを一つの評価基準として取り入れるのは悪い事ではないが、あくまで‘‘一つの’’評価基準であってそれが全てになってはだめだと強く感じている。その一方、統計としてIQを取り入れるのは悪いとは思わないが、その場合にもそれが全てとなると重要な事を見逃してしまうことになる。

そもそもIQとか偏差値で評価すると言うのは、思想的に非常に低レベルな事である。アインシュタインのIQがいくつだとかよく言われるが、そもそも一流の物理学者がIQと言う低レベルな試験を受けると言う事自体おかしな話であるし、アインシュタインを数値で評価すること自体アインシュタインに対して非常に失礼な話だ。そもそもIQがいくらだとか言われて評価されている人は、所詮IQで評価される程度の人間でしかないと言う事だ。

物理学者や数学者の才能をIQで評価できるなどと言う事は絶対にない。学者は研究内容の結果で評価されるのである。英語を日常的に使っている人なら、英検やTOEICの点数で評価することが非常にバカバカしいことがわかるであろう。英語のテストが出来る事と実際に英語が使えるかと言う事は基本的に別の話である。もちろん全く関係ないとは言わない。統計を取れば英語のテストの点数が高い人と英語が使える人には相関関係があるだろう。だからと言って、英語のテストの点数だけで英語力を評価するのは間違っている。

日本はテスト大国である。もちろん海外にも大なり小なりそのような傾向はあるだろう。しかしテストだけを見て、何か大切な事を見逃しているように思えてならない。例えば情熱だとか独創性だとか。そのような事は数字には表れにくいが、それがある人とない人ではその後の伸びしろが全く違う。偏差値天才やIQ天才と真の天才は全く違う。もちろん真の天才がIQや偏差値も高いと言う事は十分にあり得ることだ。しかし数字と言うお手軽で無思考的なもので評価するのではなく、アインシュタインであれば彼の研究内容である相対性理論などの理論を理解して評価することが非常に重要なのである。もちろんそれができないから数値でお手軽に判断しているのであろうが、それは将棋の形成判断を内容を見ずにAI評価の数値だけ見て判断しているようなものである。しかし人間はAIではなく、生身の総合的存在なのである。

知を高めたい!ただそれだけ。

「知を高めたい」それだけだ、と言えば嘘になる。生きて行くためにはお金も必要だし、地位や名誉にも興味がない訳ではない。しかし僕の生きる一番の原動力になっているのは、知への欲求であることには間違いない。小学生の頃から数学や物理(理科)に興味があり、素粒子の世界に夢を見ていた。もちろんこれまでに興味の微修正はあったものの、大筋ではその頃と変わりはないと思う。

今、コロナ禍で様々な欲求が抑圧され、これまでの生き方が通用しなくなっている。それはもちろん僕にとっても同じであり、なので新しいことに挑戦して切り抜けようと考えている。そして学問においても、これまで数学・物理一辺倒だったものから、興味の幅を圧倒的に広げようとしている。特に現在はコロナ禍と言う事もあって、コロナに関する科学的情報を身に付けることに力を入れている。

コロナに対する対処として、「正しく恐れることが大事だ」とよく言われる。では正しく恐れるためにはどうすれば良いのか?そのためには敵の情報を正しく掴むことが最も重要だと僕は考えている。なのでコロナを正しく恐れるためには、コロナによる社会的状況だけでなく、コロナに対する科学的知識を身に付けることが非常に重要である。しかし現実を見ていると、感染者数などの社会的情報は頻繁に伝えられるものの、科学的情報が見過ごされているのではないかと強く感じる。人によっては科学的な情報など一般人には無意味だと言うかもしれない。しかし正しい科学的情報が正しい行動へと導くと僕は考えている。

これからはワクチン接種を行っていくと言う段階に入った。そこでワクチンの科学的情報を正しく認識することが重要になってくる。ワクチンの仕組みも知らずに、ただ報道情報に煽られて恐れるのは究極の無知でしかない。とは言っても、ワクチンを接種するかどうかは個人の判断に任される。なのでもしワクチン接種を拒否するにしても、科学的知識に基づいた判断であって欲しいと強く願っている。

重箱の隅から本質が見えることがある。

傍から他人のしていることを見ると、どう見ても重箱の隅を突いているようにしか見えないことが多々ある。しかし自分が実際にその問題に取り組んでみると、それまで重箱の隅のように思えていた事が、実は本質的な事であったことに気づくことがある。特に数学においてはそのような事が顕著に表れる。単なる重箱の隅ではなく、いかにして本質的な重箱の隅に取り組むかが大事なのである。

数学においては、99%出来上がっているのに残りの1%がどうしても解決しないと言うことがよくある。多くの数学の大問題も、現在そのような状況である。残りの1%に労力の99%を注ぎ込まざるを得ないことはよくあることだ。特に数学理論においては、論理的に100%完璧であることが求められる。1%でも隙があれば、それは定理としては認められず「予想」として取り扱われる。実はこの1%と言うものが曲者である。「99%上手くいっているのだから、それは正しいに間違いない」と言いたいところだが、しかしその残りの1%に大どんでん返しが潜んでいるのである。なので1%と言えども、それが全てと言っても過言ではないくらいだ。

しかしこれは数学に特有のことかもしれない。他の学問においては、1%不都合な事があっても99%上手くいっていればそれは正しいものだと見なされることが少なくない。いやほとんどにおいてそうである。それどころか、49%不都合であっても51%上手くいっていればその理論は認められるかもしれない。しかし数学においては100%が求められるのである。「あと1%」ではない。「残りの1%が全て」なのである。

最近あらゆる学問が面白い。僕は数理物理が専門であるが、そのような科学研究者にとって社会学や歴史学、あるいは文学は不必要なのか?いや、僕は全く違うと考えている。自分の専門分野と言うタコつぼに閉じこもるのではなく、あらゆる分野の知見を身に付けることは非常に重要である。なぜなら科学者である前に人間であるからだ。なので人間活動に付随する出来事には常に感覚を研ぎ澄ませていなければならない。確かに理論研究者が実験をすることはほぼ不可能であろう。ならば理論で出来る事だけでもやればよい。それだけでも手に余るくらいの多くの分野があるだろう。もし自分が理論研究者と名乗るのならば、理論分野のあらゆることに対して深い知見を持っていなければならない。

コロナが収まったら暴れまくる!

緊急事態宣言が発令して感染者の数は少しは少なくなったが、しかし感染が収まる気配はあまりしない。おそらく緊急事態宣言が解除されればまた増加傾向をたどるだろう。しかし唯一の救いは、ワクチンが急速に実用化され、今年の中頃までには何とか広く行き渡る気配であることだ。ワクチンに関しては否定的な意見があるものの、僕はワクチンの効果は絶大であると考えている。

今、コロナ禍にあって思うように活動ができず鬱々している人は多いだろう。だからと言って今暴れまくってしまえば感染のリスクを増加させることに他ならない。今は我慢の時だ。僕自身も様々な活動を我慢している。しかしだからと言って、何もできない訳ではない。家に引きこもっていてもできることはいろいろある。理論的な研究などは外出しなくてもいくらでもできるし、このコロナ禍を機に新しい活動を始めることもできるだろう。僕自身も今新しいことを始めようと準備している。

ワクチンは多くの人が接種してこそ意味がある。もちろん個人が接種することにもメリットは大きいが、個人が免疫を付けると同時に、国全体が集団免疫を付けることも非常に重要だからである。そしてワクチンが広く行き渡りコロナの危険性が格段に少なくなれば、その時に暴れまくればいいと思っている。その時には僕自身も、研究に、そしてあらゆることに対して暴れまくろうと思っている。

晴耕雨読ならぬ、晴耕コロナ読。今は室内で出来ることをすればよい。もちろん外出せざるを得ない時もあるのでその時は僕も地下鉄に乗って出歩くこともあるが、幸い数理物理の研究は室内で出来る。そしてコロナから解放されたときに暴れまくる準備も徐々に出来つつある。今はその時のために粛々と出来ることをすべき時である。

意味のない努力なら、しない方がマシだ!

僕はこれまで努力の重要性を度々強調してきた。そして今でも努力は最も重要なものだと考えている。しかしそれには前提がある。それは、その努力が意味のあるものだと言うことだ。なのでもし自分のしている努力が無意味なものならば、そのような努力はしない方が圧倒的にマシだ。

例えばイチロー選手は誰よりも努力をしていたことは誰もが知るところであろう。しかし練習の時間数だけを比べれば、おそらくイチロー選手よりも練習をしている選手はいるはずだ。ではそのような選手とイチロー選手は何が違うのか?これまた良く知られていることだが、イチロー選手は練習の前に丹念にストレッチをしている。おそらくストレッチだけで一時間以上しているのではないかと僕は思っているのだが、ではなぜイチロー選手はそこまでストレッチにこだわるのか?それはそうすることが一番効果的であり、その後の練習に大きな意味を持たせることができるからだと僕は考えている。練習だけを6時間がむしゃらにするよりも、1時間のストレッチの後、3時間の練習をこなす方が圧倒的に効果が出ると思われる。さらにストレッチをしなければ長時間練習をすればするほど怪我をする危険性も高くなる。このように努力に意味を持たせることを考えるのがプロがプロである所以であると僕は考えている。

iPS細胞の山中伸弥教授は研究だけをやっているのか?いや、山中教授は毎日ランニングをやっている事でも有名である。山中教授が何を考えてランニングをやっているかはわからないが、ランニングをやることによって体を鍛えることは研究やビジネスにおいて大きなアドバンテージになるし、さらにランニングをすることによって頭脳も快適に働くことになる。やはり山中教授も仕事や研究に意味を持たせるためにランニングをやっているのだと僕は考えている。

ただがむしゃらに努力にもならない努力をして時間を稼ぐのは、二流三流のアマチュアがすることである。一流のプロは「意味のある」努力をする。なので今やっても効果的ではないと感じたら、思い切って関係のないことをやって気分転換をすることも重要である。そして何をするにも体が資本、頭脳を使うにしてもその頭脳があるのは体である。なので体を鍛えることは非常に重要である。そのような事を山中教授は教えてくれているのだと思う。そう言えば、僕の学生時代の恩師の教授(数学者)も筋トレをして体を鍛えていた。やはり一流のプレイヤーは、どうすれば一番意味があるかと言う事を常に考え行動しているのである。

紙の本と電子書籍のハイブリッド。

最近、書籍の電子化が急速に進んでいる。小学生の教科書までも電子書籍にすると言う話もされているようだ。このように紙の本を電子書籍に置き換えることによるメリットは大きい。まず一番に、重い教科書をカバンに詰め込んで通学しなくて良いと言う体への負担の軽減がある。これに関しては僕も大賛成だ。僕が小学生・中学生時代は、学校に教科書を置いて帰っただけで怒る教師も少なくなかった。そのような事を考えると、iPad一枚だけ持ち運べればよいと言う事は非常に大きなメリットである。そして学校だけでなく、休日に出かける時にiPadを持ち運び、車や電車の中で勉強できると言うメリットもある。

しかし電子書籍にすることによるデメリットも大きいと僕は考えている。実は紙の本で勉強や研究をしていると、紙の本を使うことによるメリットが巨大であることに気が付く。僕自身もiPadに電子書籍を詰め込んで研究を行おうと思ったことがあるが、結局紙の良さに気づいて、電子書籍と紙の本の両方があるときは間違いなく紙の本を選ぶことになった。紙の本の良さは実際に紙と電子書籍の両方を使い比べなければ実感できないかもしれない。なので非常に分かりにくい部分ではあるが、紙の本を本棚に並べているだけでも効果は絶大である。本棚に並べてある本を眺めるだけで様々なアイデアや構想が思い浮かぶ。本のタイトル、そして時には本の質感から感じ取って発想が生まれることも少なくないのである。そして本棚にある何十冊の本を視界に入れることによって、それらが有機的に繋がることも少なくないのである。もちろん、紙の本をペラペラとめくって見れることによる視認性の大きさも絶大だ。さらに紙の本だと、目的外の知識も視野に入り取り入れることができると言う事も絶大なメリットだ。

しかしもちろんiPad一枚で全てを持ち運べることは大きなメリットである。なので出かける時などはiPadで電子書籍を読むことは非常に有効である。このように、紙とiPadを使い分けるハイブリッド形式が良いのではと強く感じている。そしてこれはメリットにもデメリットにもなるのだが、iPadであればすぐにネット検索ができると言う事がある。ネット検索によって知りたいことをすぐに調べられると言う事は大きなメリットであるが、すぐにネットに頼ってしまう癖がつくとデメリットになりかねない。ネットに頼りすぎて、自分の頭で考えると言う習慣がつかなくなる危険性があるからだ。なので小学生などには極力ネットに頼ることを止めさせた方が良い。自分の頭で考える習慣がついた大学生などにネットを積極活用させるのが良いと考えている。

ここからは僕の提案であるが、現在は紙の本と電子書籍の両方を手に入れようと思えば二冊分のお金がいる、しかしこれからは、紙の本を買うと電子書籍を無料ダウンロードできる権利を与えた方が良いと僕は考えている。特に分厚い学術書などはその効果は計り知れない。確かに著作権の問題だとかはあるとは思うが、長期的に考えると社会的メリットは非常に大きい。国の発展にとってもメリットは大きいので、国の政策としてもそのような事を支援していくことは非常に有効だと考えている。しかし現実はこれとは真逆の事が起こっている。結果、意欲的な学生や研究者が危ない橋を渡らざるを得なくなり、国が学問を見捨てることにもつながってくる。このような国家に未来があるか?と問われれば、間違いなく否定的な答えが返って来るであろう。

なぜ面白いのか?

何事も、面白いのには理由がある。と思い、僕がなぜ数学や物理が好きなのか?そして数学と物理はなぜ面白いのか?このようなことを考えてみたが、しかしなぜ面白いのかよくわからない。確かにとてつもなく面白いのだが、その理由を考えてもはっきりと思い浮かばない。もちろん面白い理由をいろいろ並べることは簡単にできる。しかし自分がどう感じ、そしてどのような理由で面白いのか?と言う事をしっかりと考えれば考えるほどわからなくなる。

しかしここ数年で一つの大きな変化があった。僕は小学生のころから理科と数学が大好きだった。しかし数学と物理(理科)のどちらが好きかと言われれば、間違いなく物理の方が好きだった。大学で数学科に進んだのも、物理は独学でやって、数学は大学で学ぼうと言う考えからだった(その計画は大幅に狂ったが)。しかしここ数年、僕の中で物理より数学の割合の方がより大きくなってきた。そして今は物理より数学の方が好きだと言う感情の方が強くなった。その理由はいくつかあるが、その中の一つは数学の全体像がはっきりと見えて来たからである。もちろん、数学と言うものは巨大な学問であり全てを把握できるほどちっぽけではないが、少なくとも代数・幾何・解析の本質はかなりつかめて来たと思う。以前は数学と言うものに対して捉えどころのない複雑さを感じていたが、今は数学が手中にあるような感覚がある。

今、いくつかの問題に取り組んでいる。本当は一つの問題に集中すべきなのかもしれないが、今の僕は複数の問題を同時進行で進めることに面白さを感じている。そしてそれらの中には、数学や物理以外の問題も含まれている。例えば進化生物学や数理脳科学、そしてコンピューター科学に関する問題だ。もしかしたらいくつかの問題が一斉に解決するかもしれないと言う感じもしている。

しかしもちろん核となる問題はある。その問題に取り組むことによって数学の本質を掴むことができたし、そしてそれによって物理とは何者なのかと言う事もはっきりと見えて来た。数理物理とは数学なのか?物理なのか?そんなことはどうでもいい。それらの本質がつかめて面白ければそれでいいのである。しかし面白いと言うのは常に楽しいと言う事ではない。時には非常に苦しい時もある。それも含めての面白さであると感じることができたとき、物事の核心に迫れるのではないかと僕は強く感じている。