思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

構造が見えてくると面白い!

「神は細部に宿る」とはよく言うが、物事の本質というものは全体の構造を理解して初めて見えてくることが多い。そして本当の面白さは、そのような構造にこそあると僕は感じている。

とは言え、初見で全体の構造が理解できるほど簡単ではない。初めは細部の計算を行い少しずつその範囲を広めて行く。そしてそこに宿る様々な神を理解して行くうちに徐々に本質が見えてくる。これらの事は数学でも同じだ。代数構造、幾何構造、解析構造が見えてくると飛躍的に面白くなる。

世の中にも社会構造というものが存在する。そしてそのような社会構造の中に経済構造、集団構造、文化構造など様々な構造が混在している。この様に複雑に入り組んでいるからこそ社会構造は瞬時には理解できない。経済構造だけをとってもいまだに理解されていない機構は存在しており、だからこそ経済学は常に進化し続け新しい機構の発見が日々行われている。

「細部に宿る神」と「構造に宿る本質」を行き来しながら奥へと進んで行く。人間の思考の「深化」というものはそのようにして掘り下げられるものである。そして人間の思考の深さには限度がない。常に進み続ければ無限に深化して行くことが出来る。人間は深化によって進化して行くのである。深くて広いフィールドの一点からどのように全体を覆うか?そのための手法は一つではなく、それぞれの人間の思考と個性によって編み出された様々な手法によって無限の広がりを見せてくれる。人間の大きさは小さくとも、脳の中で繰り広げられる思考の広さと深さは無限大だ!

思考のベースを上げる。

自分の思考のベースをどこに置くかによって、その後の自分の人間としてのレベルが変わる。もし目標を低い所に置くのならばベース自体が低くても問題はないが、もし高い所に目標を置くのならばベースを高く設定しなければならない。しかしもちろんベースを高く設定するのならばそのレベルを維持するために多大な努力をしなければならないし、徹底的に思考し抜かなければならない。もし楽をしたいのならば、思考のベースも低く設定するしかない。

思考のベースをどこに置くかということは、最も人間性が現れるところである。自分の生き方、意識、行動の全てがベースの設定に反映される。どこにベースを置いているかということは見る人が見れば瞬時にわかるし、そのためその人に対する評価へと直結する。

ベースをどこに置くかということは、「下の上」を目指すか、「上の下」からスタートするかということでもある。「下の上」を目指せばその上はもうない。しかし「上の下」に居れば、上はさらに広がっている。「上の下」に居れば「上の上」つまり頂点も狙える。「下の上」に居れば、そのクラスの人からは羨望の眼差しで見られるかもしれないが、はっきり言ってそんな羨望の眼差しなどはどうでもいい。周りの眼ではなく、自分のレベルを上げることに注力すべきである。

上には上があるし、下には下がある。はっきり言って下はエンドレスであるが、上には世界一という上限がある。従って究極的にはそこを目指すべきであり、そこにいない限り常に上を目指して前に進むべきである。その地位に満足してよいのは、大坂なおみや紀平梨花といった世界一の人のみである。しかしこのような人も、油断をすればすぐに落ちて行く。しかし大坂なおみや紀平梨花はおそらく素晴らしい人間だと思うので、世界一になればその「世界一」というところにベースを置いて前に進んで行くであろう。そうなれば彼女らの世界一という地位はより盤石になる。

世界一でない限り、上には上がいる。そのような状況においては決して現在の自分の地位に満足すべきではない。自分のレベルが上がればベースをさらに高い所に設定し直して登らなければならない。楽をしてベースを下に設定してしまえば、後は没落するのみである。思考のベースの位置は、自分の人間性そのものである。

努力と心身のケア。

プロスポーツ選手はただ努力するだけではなく、心身のケアにも最大限の注意を払っている。心身は全ての行動の基礎になるものなので、心身に注意を払うことはスポーツ選手だけではなく皆が行うべきことである。

心身の「身」とは「身体」だけを思い浮かべるかもしれないが、「心」をつかさどる「脳」も身体の一部であるので、心と身は別物ではなく一体のものだと考えるべきである。心と身は常に連動しているのである。

学問は頭で考えるものだから身体のケアは必要ないとは決して考えてはならず、体を動かす仕事をしているから心のケアは必要ないとは決して考えてはならない。心と身の両方を高いコンディションで保ってこそ、取り組んでいる事柄で最高のパフォーマンスを発揮することができるのである。

大きな成果を出すためには、努力は必須である。しかしそれと同時に心身のコンディションにも注意を払うと、相乗効果で三倍にも四倍にも大きな成果を挙げることが出来る。もちろん心身の調子には好不調の波がある。好調な時には物事にも前向きに向き合えどんどん前に進めることが出来る。しかし不調な時にはどうしても後ろ向きになりがちであり、調子が良くないから今日はやめとこうとなってしまう。確かに不調な時には物事が全く進められないこともある。しかし例え物事が進まなくても、前向きに取り組み、悪いながらも少しでも前に進めるべきである。そのような時に大事なのは「どれだけ進んだか?」ではなく「どれだけ取り組んだか?」ということである。このような姿勢を持続すればこそ、好調な時に一気に前へと進めることが出来るのである。

四大陸選手権優勝!紀平梨花選手の体力と精神力に学ぶ。

2月8日(日本時間9日)に行われたフィギュアスケート・四大陸選手権で、紀平梨花選手が優勝した。ショートでは5位と出遅れたが、フリーで圧倒的な差をつけての勝利だ。僕は紀平選手のフリースケーティングのプログラム「Beautiful Storm」が大好きだ。曲も衣装も、もちろん紀平選手の演技も全てが美しく哲学的だ。なぜこのような素晴らしい演技が出来るのか?本人に聞くまでもなく、体力と精神力の全てが極められているからだろう。僕は全てのプロスポーツ選手をリスペクトしている。プロスポーツとは「極限への挑戦」だ。極限を極められない選手はプロの世界から去らねばならない。体力と精神力を極限状態に保ち続けられる者のみがプロの世界で生き延びられる。このようなプロスポーツ選手から我々が学び取ることが出来ることはたくさんある。

紀平選手から学び取れることの一つ目は、挽回力だ。今シーズンのほとんどの試合で、紀平選手はショートプログラムでミスをし出遅れている。しかしほぼすべての試合でそれを圧倒的なフリースケーティングで逆転している。ショートでミスをして出遅れればそれを引きずりそうな気もするが、紀平選手はショートのミスを逆に修正のチャンスと捉え、それを基にフリーでは最高以上の演技をしている。紀平選手にとってミスはネガティブな事ではなく、次へのステップの足場としてポジティブに捉えている。これは全ての人が学ぶべきことだ。失敗は決してネガティブな事ではない。むしろチャンスなのである。

二つ目は、安定力とトータルでの力だ。これまでショートでミスをしがちだとは言え、ショート、フリーでの合計ではほぼすべて勝利している。この安定感は圧倒的である。人間は誰しも調子の良い時と悪い時がある。しかしその好不調の波をいかに高いレベルで安定させるかということが非常に重要である。高いレベルでの安定感こそが紀平選手の実力だと言える。

三つ目は、圧倒的に高い精神力だ。今回、紀平選手は試合前に怪我をした。指の脱臼だそうだ。そのようなアクシデントの中でも紀平選手は圧倒的な力を発揮することが出来た。もちろん直接的な影響が少ない指のけがとは言え、精神的な影響は非常に大きいと思われる。普通ならけがをきっかけに負のスパイラルに陥るところだろうが、紀平選手からはそのような事は微塵も感じられなかった。おそらく精神面を完全にコントロールすることが出来ているのだろう。この様に、自分の精神を完全に自分の支配下に置けるかということは、最高のパフォーマンスを発揮するうえで非常に重要である。

紀平選手からは学び取れることが山ほどある。スポーツは科学技術などのように直接的に人間の生活に影響を与えるという訳ではないが、人間の心には多大な影響を与えることが出来る。それらの影響から人間の生き方が変わることもある。プロスポーツ選手の演技・プレーから何かを感じ取って、それを自分の生き方の向上につなげることが出来れば、自分を人間的に高い所へと持ち上げることが出来るであろう。

他人を信じるか?自分を信じ抜くか?

自分を信じ抜くということが出来ていない人が意外と多い。日本では他人の意見を尊重することが大事だと教えられ、それが人徳だとも言われている。そのこと自体は決して間違ってはいない。物事は多様であり、それらの多様性を大事にするためにも人の考えは尊重しなければならない。しかし尊重すべきは他人の「思考」の結果出てきた意見であって、既定路線をダダ流しするだけの言葉や固定観念から出てくる意見、そして自己保身のための言葉を認める事ではない。特にどこからか仕入れてきた情報を口からスピーカーのように流すだけの言葉なんてどうでもいい。

しかし、他人を信じることは大事だ。なぜなら人間にはどうしても自分だけでは出来ないことがあるからだ。自分が出来ないことは他人を信じるしかない。それに他人を疑ってばかりでは人間の器が小さくなるばかりだ。時には他人に行方を丸投げするくらいの心構えも必要だ。それは部下を信じ自分は責任だけを負う将校にも似ている。

しかし、自分で考えられることは出来る限り自分の思考で導き出すことが筋だ。特に自分の進むべき道は、自分で考え抜いて導き出さなければならない。他人の意見に従い、それで失敗して他人に責任を押し付けるなどということは論外である。自分で結論を出し、全ての責任は自分で負う。そのような行動の繰り返しによって人間は成長するのだと思う。逆に言えば、それが出来ない人は退化して行くということだ。

「自分を信じ抜く」ということは、「自分で全ての責任を負う」ということだ。つまり、自分で思考できない人間は、自分で責任を負うという決断さえもできないのである。安易に他人を信じるということは、自分の自我の放棄である。そして自分の人間性さえも無にしてしまう。自分が人間である限り、自分で思考し、自分で決断し、自分を信じ抜くべきである。極論を言えば、それが出来なければ人間でないということだ。そういう意味で人間である人がどれだけいるか?もしかしたら意外に少ないのかもしれない。

面白い事、発見!

最近、面白い理論を知った。数学の代数的な理論であるが、知ったというより「気付いた」と言った方が正確かもしれない。昔からその理論の存在は知っていたが、最近必要に迫られてその理論の専門書を読むと、びっくりするくらい面白い理論であることに気が付いた。以前の僕は代数学は専門外であると全く手を付けることはなかったが、いざ手を付けてみるとこれが非常に面白い!物事というものは、必要に迫られて取り組む方がより面白く感じられ、意外な発見をするものかもしれない。

僕は計算よりも構造に興味がある。その理論も計算理論というよりも構造理論だ。しかもその構造の理解の仕方が面白い。計算半分、図を半分という具合に、視覚的に構造を訴えてくる。そして理論の適用範囲が非常に広い。代数学の理論ではあるが、解析学、幾何学、そして数理物理学にも縦横無尽に利用されている。良い理論というものは、無限の適用範囲があるのかもしれない。

物事に取り組む時、壁を作るのは好ましくない。専門ではないからと言って初めから手を付けないのは、あらゆる意味で不生産的だ。必要なものは何でも取り組んで行く、そのような姿勢で取り組むことが大きな成果へとつながるのだと思う。専門にこだわり続けば永遠に蛸壺の中で過ごすことになってしまう。

僕は基本的には分野の区別というものをしない。数学と物理学という区別も意識しないし、最近は全く専門外と言えるかもしれない生物学の論文も読んだりしている。分野の壁とは人間が便利上の理由で人工的に作ったに過ぎない。そもそも自然に物理学と化学の境目なんて存在しない。化学と生物学も同じだ。分野の壁にこだわるのは非常にバカバカしいことである。

数理的自然と自然科学は全てが一体化して構成されている。数学の理解なしに物理学の理解はありえないし、物理学の理解なしに化学や生物学の理解はありえない。数理と自然科学を一体として理解する姿勢がなければ、科学の本質は永遠に理解できないだろう。

どのように稼ぐか?お金の価値に対する考察。

お金の価値とは何だろう?その一番単純な答えは、お金の額面である。一万円なら一万円の価値があるし、一億円なら一億円だ。しかし多くの人が気付いているように、人それぞれお金に対する感覚は違う。百万円を持っていても、それをすごく価値があると捉える人もいれば、はした金だと見下す人もいる。そもそもお金の価値というものは、誰が持つかによっても変わるし、どのように稼いだかによっても変わる。ここでは少しお金の価値というものについて考えよう。

「悪銭身に付かず」とは昔からある言葉だが、この言葉ほどお金の価値に対する本質を突いたものはない。悪銭、つまりどのような手段でお金を手に入れたかということによってお金の価値は大きく変わる。そもそも悪銭というものは額面に比べて全く価値がないということを言っているのである。価値がないからすぐになくなってしまう。悪銭の百万円は実はたった百円だったということなのである。

逆に自分の思想を人生において実行し、才能と努力によって手に入れたお金は莫大な価値がある。こちらの百万円は実は百億円なのである。だから簡単にはなくならない。そしてこのようなお金には、お金以外の価値も多くもたらしてくれる。例えば良質な人間関係とか、あるいは自信などの精神的な余裕とか。もしかしたらお金以外の価値の方が大きいかもしれない。

このような事から、僕はどのようにお金を稼ぐかという「手段」に徹底的にこだわる。実際に百億円のお金を稼ぐことは非常に難しいかもしれないが、百億円の「価値」を手に入れることは不可能ではない。重要なのはお金の額面ではなく価値なのである。世の中には「手段を選ばず」という考えが蔓延しているが、「お金をどのように稼ぐか?」という手段を選ぶことによって稼ぐことが出来る「価値」は大きく飛躍できると僕は考えている。

未来は今の自分の中にある。

自分は未来に希望を持っているだろうか?未来に希望があるかないかは、今の自分の意識によって決まる。未来に希望を見出せる人は、今の自分の中に熱烈な希望がある人だ。今の自分の中に希望がない人は、未来に希望が持てない。それは例え莫大なお金があろうが、今の生活に不自由をしていなかろうが、皆同じである。

希望は持とうと思って簡単に持てるものではない。希望を持つためにはまずは自分が能動的にならなければならない。そして挑戦をすることが必要だ。常に現状維持をすることばかり考えていては、いくらお金があっても未来に希望は持てない。そして現状維持を目指す先には、ほぼ必ず衰退が待っている。

人生は楽しむ事が大切だ。それと同時に苦しむことも非常に重要である。悲しみがあるから喜びをかみしめることが出来るのであって、悲しみがなければ喜びのありがたみがわからない。それと同様に、苦しみがあるから楽しさをかみしめることが出来るのである。すなわち、様々な事を体験しなければならないということである。そのように山あり谷ありの人生を歩んでいると様々な刺激を受け、そのような刺激の中に未来へのヒントが隠されているのである。そして刺激の多くは挑戦から生まれる。やはりいつになっても挑戦は重要である。

今は本当に苦しくても、未来を描ける人間は常に希望でいっぱいである。そしてそれは何も若者だけの特権ではない。いくつになっても希望は抱ける。もう若くはないからとか言っているのは単なる言い訳でしかない。若くないから希望を抱けないのではなく、挑戦しないから希望がないのである。希望に満ちた未来を創れるかどうかは今の自分にかかっている。未来に希望を抱くためには、今挑戦し続けるしかないのだ。

より深いレベルで!

理論には深さがある。表面的な所から土台となる部分まで、深度によってそれぞれが階層をなしている。最近の技術で言うと、プログラミング言語が典型的な例かもしれない。表面的なプログラミング言語からアセンブリ言語まで、それぞれがそれぞれの階層で役割を果たし、コンピューターをプログラムしている。

数学にも階層が存在する。どのように階層分けするかはそれぞれの数学者によって違ってくるが、おそらく一番深い所にあるのが数理論理学であろう。しかし数理論理学は数学というよりむしろ論理学の範疇にあると言え、一般の数学者にとっては近寄りがたい存在である。

余談であるが、数理論理学の定理であるゲーデルの不完全性定理は何とも不思議で壮大な定理である。不完全性定理は、今風に言えば「数学にはバグがある」とでも言うべきであろうか。数学は完全無欠な体系であると信じられていたのが、数学は不完全であるというのである。不完全性定理のゲーデルの論文の日本語訳は岩波文庫でも出ているが、通常の数学ではなく論理学的な流儀で書かれており、理解するのは簡単ではない。

ゲーデルの不完全性定理が数学の一番深い階層にある理論だとすると、一番表面的な所にあるのは応用数学ということになるであろうか。とは言え、応用数学という言葉を持ち出すのは適当ではないかもしれない。なぜなら応用数学とは理論名ではなく、さらにあまりにも言葉の適用範囲が広く的確に指定できない。

深い階層であればあるほど抽象的であり奥が深い。深い階層の数学には憧れもあるが、手ごわい相手でもある。20世紀の偉大な数学者であるジョン・フォン・ノイマンは、若い頃は基礎的な分野、つまり深い階層で研究しており、晩年はコンピューターのような表面的な階層に移って行ったようである。逆に表面的な階層から深い階層へと移る人もいる。深い階層と表面的な階層のどちらが偉いかという問題ではないが、どちらのテリトリーで研究するにしろ深い階層の存在を意識することは非常に重要であると思う。

二つの方法。

問題を解決するには二つの方法がある。一つは制限を付けて特殊化する方法。もう一つは制限を外して行き一般化する方法。どちらが良いかは臨機応変に考えなければならないが、僕自身は一般化して行く傾向がある。

制限を付けて特殊化して行くことのメリットは何か?それは問題を視覚化できやすくし、何を計算すればよいか見通しが良くなることである。しかしその一方、細分化されすぎて適用範囲が極度に狭まってしまう可能性が高い。

では、制限を外して一般化するメリットは何か?それは一般化されるが故に抽象的になり、適用範囲が圧倒的に広くなる可能性が高くなることである。しかし一歩間違えると自明な結果しか得られず、何の意味もなさなくなる可能性がある。

確実に結果を出そうと思えば、制限を付け特殊化して行くことが非常に有効である。しかしその結果自体はちっぽけなものになるであろう。一般化して行けば問題が壮大になり、あらゆる知識が必要になる。従って問題を解決するための準備が膨大な量にのぼり、準備だけで息切れしてしまう可能性がある。しかしもし結果が出れば非常に大きな成果になるであろう。

フィールズ賞(数学のノーベル賞と言われている)受賞者の広中平祐が学界で問題提起した時、多くの数学者は制限を付けて特殊化して部分的に解決すべきだと言ったらしい。しかしこれまた偉大な数学者の岡潔は、むしろ制限を外して一般化して問題を解決すべきだと言ったという。その結果、広中平祐は一般化して問題を解決することに成功し、フィールズ賞を受賞したという。

問題を解決するに当たり、特殊化するか?一般化するか?これは取り組む問題にもよるが、それ以上にその人の思想が顕著に表れるところだと思う。しかしもし抽象化することに長けているのならば、一般化して問題を大きく捉えるべきだと僕は強く感じる。