思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

どれくらいの教養を目指すか?

専門を究めないといけないのは当然のことだが、教養も非常に重要である。しかし目指す教養のレベルは人それぞれ違う。お話を聞くようなレベルなのか?解説書を読むくらいのレベルなのか?それとも論文を読むくらいのレベルなのか?僕は専門外の教養であっても、代表的な論文くらいは読むレベルでありたいと思っている。例えばノーベル賞受賞者の研究を知りたいのならば、その研究者の代表的論文くらいは読みたいと思っている。

ということで、2018年度ノーベル医学・生理学賞受賞者の本庶佑博士の論文を読もうと、本庶博士のホームページを訪ねた。そのホームページには全論文のリストがあったので目を通して見ると、なんと637本の論文リストがあった。とてもじゃないが全部読めないし、どれが一番重要な論文かもわからない。そこで代表論文と書かれたリストを目を通して見たが、これも数十本ある。おそらくどれも重要な論文ではあろうが、さすがに数十本目を通す力はない。本庶さんの論文を読みたいが、どれを読めばよいのかわからない、と迷っていてもしょうがないので、とりあえず重要そうな論文を一本ダウンロードしてみた。専門的な遺伝子名などはよくわからないが、とりあえず目を通して見ようと読んではいるが、さすがに正確には理解できそうにない。でも色々と論文を読んでいくと、少しずつ分かってくるのかもしれない。空いた時間で専門外の生物学・医学関係の論文に当たってみようと思う。

専門家はスペシャリストであり、教養家はある意味ジェネラリストであると言える。しかしジェネラリストであっても軸となる専門は必要だし、スペシャリストであっても幅広い教養は必要である。そしてどれくらいの教養を得るかと言った時、専門研究者のように実験をして新しい見地を得るまでは行かないが、論文を読んで専門的知識を得るくらいのことはした方が良いと考えている。

最近、何だか知識欲がかなり湧いて、専門外の分野に関しても色々な文献を当たっている。もちろん専門外の事は専門的知識がないことも多々あるので基礎的文献を読むことは必要だが、いきなり最先端の論文に当たるのもありだと思う。ここで重要なのは最先端に“触れる”ではダメなのだ。最先端を“理解”しなければならない。そしてもちろん、専門分野を追究することも怠ってはいけない。専門分野に関しては新しい知見を生み出すことが要求される。二刀流という言葉は少し違うような気がするが、専門と教養の二刀流になることが、科学に生きる人間には必須であるように強く感じている。

過去との決別。

過去の事はもう関係ないと思っていても、やはりどこかで過去を引きずってしまう。僕自身は過去の自分に対して引きずることはあまりないが、過去の人間関係はかなり引きずってしまう。過去の中にも大事な事はいっぱいあるが、やはり生きるべきものは未来であって、過度に過去を引きずるのは得策ではない。今は過去のほぼすべてを捨て去って未来に目を向けることが非常に重要だろう。

過去は変えられない。だから変えられない過去を気にしても仕方がない。未来は自分の意志でいくらでも変えられる。今している努力も行動も、過去を変えるためにしているのではなくて、未来を変えるためにしているのだ。お金もそうである、今使うお金、今貯めているお金は、未来を変えるための資金だ。だから未来を変えるために、使うところでは徹底的にお金を使う。そして時間を使う。そういう意味で僕は未来に対して太っ腹だ!

過去と決別するうえでやはり一番難しいのは人間関係だ。過去に構築した人間関係を崩す必要は全くない。築き上げた人間関係は財産である。しかし人間関係を引きずってはいけない。切るべきところは切る、守るべきところは守る。そのような思いっきりが大事なのだと思う。

過去の自分には非常に苦しい時期があった。しかし今になってみれば、そのような苦しい時期を乗り越えたことは財産である。しかし過去は過去、これから生きるのは未来である。未来の自分にはあらゆる意味で自信がある。ただ時間がかかりすぎているのが欠点かもしれない。今、僕に目の前に見えている風景は明るい。その風景の中に一刻も早く入り込むために、努力、実行力、自分のマネジメントを行っていかなければならない。そのための一つの行動が、過去との決別であると考えている。

忘れることを、武器とする。

僕ははっきり言って記憶力は良くない。さっきブログで何を書いたっけ?とついさっき書いた記事の内容を忘れることもよくある。確かに記憶力が良ければそれはそれで良いが、だからと言って、記憶力が悪いことは必ずしも良くない事かと言えば、そうでもないと僕は考えている。それどころか、忘れるからこその良いこともいろいろあると思っている。

では忘れる事の何が良いか?一つ目は、忘れるべき事を忘れることが出来るということである。人間は全ての出来事を記憶すれば良いかと言えばそうではない。むしろ忘れたほうが良い情報も世の中には多々ある。嫌な事は忘れたいと思うのは自然であるし、自分に対してネガティブな影響を与える事は忘れた方が良い。もちろん覚えなければいけないことを忘れることは確かに良いとは言えないが、忘れたいことを忘れられないことは苦痛であろう。

二つ目は、過去の情報を忘れることによって、先入観が消える事だ。過去の事を全て覚えていれば、それらの情報にとらわれる発想しかできない危険性がある。もちろん過去の事を覚えていても、新しい発想が出来る人はそれなりにいるが、過去の出来事、過去の情報などから来る常識にとらわれて前に進めない人をよく見かける。過去の情報を忘れていれば、未来は全て白紙である。その白い紙にどのような絵を書き込むかということは、自分の意志によって自由に決めることが出来る。過去の情報により既に色が付いた紙を自分のものにするのは難しい。

もし記憶力が良くなくてすぐ忘れるというのならば、そのことについてネガティブに考え悩むより、逆に忘れることをポジティブに捉えて生きて行くほうが良い。記憶力と創造力は全く別物だと僕は考えている。記憶にこだわるより、いかに創造的に物事を構築して行くかということに目線を向けて、前に進んで行くことを心がけて行こう!

投資は人から言われてやるものではない。

投資に対しては色々な解釈があるが、どのような投資においても投資は人から言われてやるものではなく、自分が能動的に動いてやるものである。そしてどのような投資でも、リスクは必ず存在する。リスクがない投資などあり得ない。しかしリスクは他人が背負ってくれるものではなく、自分が全て背負うものである。だから責任は全て自分にある。自分が背負うリスクに対して、人の言うことに従って行うことは明らかにおかしい。

例えばお金を持っていれば銀行などから投資の話が来るかもしれない。老後のために投資をすべきだという話が舞い込んでくることはよくある話だ。しかし「老後のため」という言葉の裏には「必ず儲かる」というニュアンスで話していると思われる。少なくともそのような話に乗る人はそう思って投資をするのであろう。しかしそこでリスクの事は考えているか?おそらくほとんど考えてはいない。しかしもし投資して損をしても、銀行は「リスクがないとは一言も言っていない」と言うはずだ。リスクの話はしていないから、リスクがないとも言っていない。これは確かに間違ってはいない。全ては自己責任である。自己責任において投資するからこそ、リスクの話もしないような銀行員の話に乗るのではなく、自分で徹底的に調べて、リスクを承知の上で自ら証券会社に赴かなければならない。

金融の投資の話は非常に分かりやすいが(簡単に儲かるという話ではない)、人生における投資はさらに重要である。もちろん金銭的な面ではお金の投資より少額かもしれないが、人生の投資はお金と時間、そして自分の頭脳を著しく消費する。もちろん人生における投資も全て自己責任である。上手く行かなくて他人のせいにするなどということはあってはならない。金銭的にもお金の投資より少額ではあるかもしれないが、人生における投資はお金の投資以上にセンスが問われる。良質な知識を入手するためには新聞や書籍などに投資することは必要であるし、人間関係を築くのにも交際費が必要である。実はこれらの投資は本気で取り組むとかなりの金額になる。専門書は一冊一万円以上するものも少なくないので、百冊買えばそれで百万円である。しかしお金は富豪でない限り有限であると考えなければならない。この限られた金銭的資源をどのように分配するかということは吟味して考えなければならない。さらに時間に関してはどんな大富豪であっても平等に有限であるので、その分配はさらに熟考することが求められる。

近年はネットの発達などにより簡単に情報が手に入るようになったせいか、全てを外部に頼ろうとする風潮が強くなってきているように感じる。しかし本当に重要なのは、外部の情報ではなく「内部の思考」である。そしてその内部の思考によって行動を決断して行かなければならない。投資という行動決定においても、やはり能動的に自己決定し自己責任を負うということが一番重要になる。

どこでリミッターをかけ、どこでリミッターを外すか?

自動車にはリミッターというものがかけられていることが多い。リミッターとはある速度以上出ないように制限を付ける事だ。もちろんリミッターをカットすれば限りなく速く(車の性能的な範囲内で)走ることが出来る。しかしリミッターをカットすれば危険性も増すし、レッドゾーンまで回し続ければ故障する危険性も圧倒的に高くなる。人間もあらゆるところで自分にリミッターをかけてセーブしている。しかし時にはリミッターを外し、自分の持てる才能を最大限に引き出すことが必要になる時がある。どこでリミッターをかけ、どこでリミッターを外すかという判断は、人生の成否や人間性に非常に大きく関わってくる。

いつでもリミッターをかけていれば、従来の常識の範囲を超えることはできない。しかしリミッターを外せば危険性が増す。すなわち、リミッターの操作は人間としての生き方のセンスが最も問われるところである。リミッターを外し、壊れることを恐れる人も多いが、僕は度々壊れるのも良いのではと思っている。壊れたら修理をしてまた仕切り直しをすればよいのである。もちろん修理不可能なくらい壊れるのは良くないが、基本壊れること前提でリミッターを外し生きるという選択肢も大いにありである。

日本では常にリミッターをかけていることが良しという風潮がある。「失敗は悪」という考えが根強く残っている。それでもある程度の所まで行ける可能性は十分にあるが、壁にぶつかってどうしても越えられそうにない時は、リミッターを外す必要がある。そしてリミッターを外した時、車と同じく、その人の人間としての力が最も顕著に表れる。だから自分の力に自信がある人は積極的にリミッターを外すべきである。そうでないと宝の持ち腐れになってしまう。そもそも力のない人は、リミッターを外すかという状況に直面することはないのかもしれない。

リミッターを外すことは諸刃の剣である。しかし良い剣を持っているのならば、積極的に外して行くべきである。そうすれば失敗して傷を負うことも多々あるかもしれないが、それ以上の成果を得られる可能性が高い。リミッターを外すかどうか迷った時には、自分がそのレベルまで達したと自信を持ってよい。そして一度リミッターを外し勝負に出てみることによって、新たな境地に達することが出来るであろう。

データを活用するか?データに依存するか?

近年、ますますデータの重要性が高まっている。特にビッグデータと言われる種類のものが様々な分野で活用され、またそのようなデータが高額で取引されているようである。これらのデータは全体の傾向を把握するのには向いているが、個人にとってこれらのデータとどう向き合うべきなのか?と考えさせられる。

僕自身はデータ万能主義には異を唱えている。とは言え、データの有用性を否定する訳ではない。データは確かに強力な武器である。ビジネスからスポーツまで、近年はデータが強力に威力を発揮している。だからデータが威力を発揮するところでは積極的にデータを活用すべきだと思う。

しかし個人が生きる上で、データをどれくらい活用すべきなのか?非常に考えさせられる。結論から言うと、「データを活用するのは良いが、データに依存すべきでない」ということだ。そして、データは必ずしも万能ではないということだ。もしデータが示唆することが100%正しければ、人間は何もしなくて良い。データに盲目的に従っていけばよいだけの話である。しかしこうは問屋が卸さない。データが完璧でも、データを解釈するのは人間である。もちろん最近は、AIによる医療画像診断などコンピューターが解釈しだしている。そういうことならデータを集めそれをコンピューターに診断してもらえば、それに盲目的に従えばよいのか?いや、必ずしもそうではない。そこに人間が生きるということの深さがある。

人間には自由意思がある。この自由意思というものを巡っても最近は議論があるようだが、少なくとも現時点では人間の自由意思を尊重すべきだと考えて良いだろう。自由意思が自由であるためには、データに盲目的にはなるべきではない。もちろんある程度活用するのは良いとは思うが、自分の内部で思考し出した結果が自由意思である。データに依存し自由意思を無くした人間は人間と言えるのか?僕はもうそれは人間ではないと考えている。例え人間だとしても、精神的には奴隷である。もちろん、何も考えないで楽に生きたいと考える人がいれば、奴隷になるのも一つの手かもしれない。しかし自分の意志に従って前に進もうとしている人は奴隷になるべきではない。これから人間はこう二極化してくるのではないだろうか?

データは万能ではない。いや、もしかしたら万能に近いこともあるだろうが、万能だからと言ってそれが即データに従うべきかと言えばそうではない。我々は人間である。自分が人間としてどう生きるべきか?以前ならそんなことを考えなくても人間らしく生きる事は出来たが、コンピューター解析が異常に発達したデータ万能社会においては、そのような事を真剣に考えて生きて行かなければ、人間性を失ってしまうことになる。

時には不調な時もあるさ!

好不調の波は誰にでもある。しかし人によってその波の大きさは違うようだ。波の変化が激しい人もいれば、かなりフラットに近い人もいる。できればフラットな方が良いが、重要な事は“高いレベルで”フラットにいることだ。低いレベルでフラットは誰が見ても良くない。

僕自身も結構波はあるので、できるだけ高いレベルでフラットにいれるように試行錯誤しているが、やはりそんなに簡単にはなれない。高いレベルでいるためには心身のコンディションを整えなければならない。そのためにお酒は出来るだけ飲まないとか、コーヒーも出来るだけ控えるとかの努力をしている。やはり頭脳を最高のコンディションで使って生きるためには、お酒などは飲まないに越したことはない。お酒を飲むことによってリラックス効果があるとか言われるが、お酒を飲まないでリラックスが出来ればそれが一番良い。

好調な時には大体何をやっても上手く行くし物事も進むが、悩みどころは不調な時にどう過ごすかということである。不調な時は何もしないでゆっくりすればいいとは思うが、それに甘んじて何もしないでいるとズルズルと滑り落ちて行くように思う。だから不調な時は不調な時なりにできる事をしようと思っているが、なかなかそう実行できないでいる。何とか良い解決策はないだろうか?

でも不調な時があるのは仕方がない。「時には不調な時もあるさ!」と開き直って羽を伸ばすのも良いかもしれない。今やる事は大事だが、時には「明日やろう」と思うのもいいかもしれない。

異分野との相乗効果。

僕は最近、専門外の事にも積極的に取り組もうとしている。例えば経済学や歴史などの学問から、筋トレやジョギングといったちょっとしたスポーツまで、できることは出来る限り挑戦しようと思っている。もちろん異分野の事に取り組もうと思っても、面白くなければ続かない。しかし経済学も歴史も非常に面白い。筋トレは体を引き締めるために必要だし、ジョギングをすると頭が良く働く。そしてこれらの事を行うことによって、専門の事に対しても相乗効果によって良い影響が表れている。

そして相乗効果を狙うのなら、できるだけ専門から離れていることを狙うほうが良い。学問を専門にしているのならばスポーツをやるとか、あるいは茶道なども良いかもしれない。さらに二刀流ではなく、三刀流、四刀流と手を広げるのも良い。もちろん手を広げ過ぎて専門が疎かになってはいけないが、しかし少し専門に影響が出るくらい手を広げるのが良いと僕は考えている。

iPS細胞の山中伸弥教授は、大学時代ラグビーをやっていたそうだ。ラグビーとはまた激しいスポーツをやっていたものだと思うが、そのように専門とは全くかけ離れたことをすることによって、普段とは違う頭を使うものかもしれない。僕自身は学生時代は全くスポーツをやっていなかったが、今になって学生時代にスポーツに打ち込むべきだったと少し後悔している。とは言え、自分の過去について特にネガティブに思うことはほとんどないので、過去の自分はそれはそれで良いのだ。

スポーツをやって頭を活性化させて数学に打ち込む、というくらいの事をやっても良いのだと僕は最近思っている。学問だけに限っても、学際分野というのはいつの時代でも強い。スポーツでも十種競技というものがある。究極はそれぞれの競技だけを見てもトップである十種競技選手だと思う。実際の十種競技ではそれはかなり難しいが、専門を軸として手を広げて行けば、少なくとも専門に関してはトップである十種競技選手になれる可能性はあるのではないだろうか?

“自分を守らない”自己チュー。

誰かを守るということは非常に重要な事だ。それと同様に自分を守ることも非常に重要かもしれない。「命あっての物種」という言葉があるように、自分が生きていない限り何もできない。「生きるために自分を守る」ということは、人間に限らずどの生物でも言えることだ。

しかし自分を守るということは結果論であって、それ自体が一番の目的になってはいけない。自分を守る事ばかり考えていると、何もかもが死んで見えてしまう。自分以外の事が見えなくなる。他人の事を考えることが出来なくなる。自分の生命感を保つためには「自分を守らない」ということが大事なのである。

「自己チュー」は否定的に捉えられることが多いが、僕は自己チューも悪くないと思う。自分を守らないで殻を飛び出し前に進むためには、自己チューが不可欠だと考えているからである。自己チューはわがままではない。いや、わがままな自己チューな人も世の中にはたくさんいるが、自己チューになって自分の成し遂げる事を達成することが出来れば、それによって周りのたくさんの人を助けることが出来る。口だけやさしい事ばかり言って何もしない人は、はっきり言って害悪でしかない。真の幸せは、“自分を守らない”自己チューから生まれると僕は思っている。

自己チューは初めは必ず嫌われる。はっきり言ってこのバッシングはかなりきつい。状況的にも精神的にもかなり追い込まれる。しかしこの状況を脱するためには結果を出すしかない。自己チューになるなら徹底的に自己チューを貫き通し、それによって成功すればよいのである。しかし“自分を守るため”の自己チューにはなってはならない。そのような自己チューは百害あって一利なしだ。“自分を守らない”自己チューによって、自分の置かれている立場を変え、周りを幸せにして行こう!

世界が広がる?

現実の世界、つまり地球の広さは何千年経っても変わらない。しかし自分の頭の中の世界は思考の深さに応じていくらでも広がるし、また思考を怠ればどんどん狭くなっていく。よく自分の世界を広めるために世界を旅行するという人がいる。確かにそれは間違っていないだろう。しかし旅行で広がる世界なんてたかが知れている。それよりも思考によって広がる世界の方が圧倒的に広いのだ。何なら思考によって宇宙全体を飲み込むこともできる。しかし思考しなければ目の前の事さえ見えない。

世界を広める一番効果的な方法は、数学や物理を極める事だ。何なら生物学でもいい。生物学を究めることによって人体の細部に入り込むこともできる。化学は身の回りの現象を理解し、さらに面白い物を誕生させることが出来るかもしれない。地学を究めることによってこの地球を根本的に理解できるかもしれない。科学を理解するとは、自分の世界を圧倒的に広める事なのである。

科学を理解する時に大事な事は、マクロとミクロの双方から理解することだ。経済学でマクロ経済とミクロ経済があるように、科学の世界にもマクロとミクロがある。数学はそれがさらに顕著で、無限大と無限小までも厳密に扱ってしまう。マクロとミクロの両方から複眼的に世界を見ることによって、世界の広さは何十倍にも何百倍にもなる。単眼的思考は最弱であり、複眼的思考は最強である。

科学に哲学を持ち込めば最高である。世間では科学と哲学は相いれないものだという認識が強い。確かに科学と哲学は違う。科学の理論の中に哲学論理を持ち込むのは間違っている。しかし、科学に対する思考の中に哲学的要素を持ち込むことはいくらでもできる。というより、哲学無き科学は常に貧弱である。もし科学を究めようと思えば、広く学問を究めなければならない。超複眼的思考によって、誰もがまだ到達していない科学の頂に立つことを目指すことは、非常にエキサイティングである。