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ちょっとのミスも許されない?

ミスはあるよりか無い方が良いのかもしれない。この事は100人いれば99人は同意するであろう。確かに積極的に前に出て行き、その結果ミスがなければ完璧である。その一方、「ミスがない=何もしていない」と言えることも多々ある。それよりかは多少ミスをしながらでも積極的に行動して行く方が良い。行動しない事には何も生まれない。

とは言え、現代社会、特に日本ではますますミスを許さない風潮が強くなって来ているように感じる。そしてミスを予防するためにどんどん無難志向になって来ている。無難な選択ばかりすればもちろん大きな成功はありえない。それどころかミスを恐れるあまり選んだ方法が、さらにミスを呼ぶこともある。まさしく負の連鎖だ。今の日本はまさしくこの負の連鎖に陥っている。社会も、人間も。

少しのミスは大目に見るくらいの寛容さが必要であると強く感じる。特に日本は寛容さが低いと他の国からも見られているようである。日本に居ればそれが当たり前に感じ、あまり実感しないのかもしれない。僕自身も他国の事ははっきりとわからないが、海外から見てそう見えるのならば多分にそういう傾向があるのだろう。

人生というものは切り開いて行くものだと僕は思っている。もちろん人生に対する認識は人それぞれ違うであろうが、自分の人生を他人がひいたレールに乗って自動的に進むのはどうであろうかと思う。もしかしたら、いったんレールに乗ればミスは極力避けられるのかもしれない。しかしミスは恥ずべきものではない。時にはミスは行動した証であり、誇るべきものでもある。ミスをしない人間に発展はない。(もちろんミスをしないで何でも成し遂げる人がいれば別だが。)

一の成功の裏には百の失敗がある。失敗をしないで成功をしようと考える人は多いが、そのような事は99%不可能である。失敗を買ってでも前に出るくらいの心構えがなければ、目指すべき大きな成功はありえない。

令和に向けて、頑張る!

最近、頑張りたいけど頑張れない。そんな悶々とした日々を過ごしている。しかし一か月後には令和という新しい時代が来る。この令和という時代を自分のものにするためにも、今はなんとか頑張らなければいけない。令和になってから頑張るのもいいが、令和までの約一か月、それに向けて助走をつけたいものである。平成という時代は明らかに僕のものではなかった。だからこそ令和をものにしないと自分の人生が成り立たない。僕は令和に生きる人間なのである。

頑張るためにいろいろと努力はしている(つもりである)。お酒を飲むのも極力控えているし、筋トレやジョギングをして体調も整えている。しかしどうも万全だという状態ではない。何をするにも努力は必要である。「努力」と「意志」、この二つが成功への原動力だと思っている。それが出来るように試行錯誤してみよう。そうすれば何とかできるはずだ。

元号を定める会議に、僕の尊敬する山中伸弥教授が参加されていた。令和という元号の決定にそのような尊敬する人物が関わっていたことは、これも何かの縁だと思って令和を思いっきり生きてみたい。何だか非常に都合の良い解釈だが、このように都合良く解釈して自分を高めることも必要だと思う。山中教授、ありがとう!

まずは今できる努力を!何もしないよりか少しでも努力する方が良い。そして少し努力するよりたくさん努力する方が良い。いきなり0から100にはできない。しかし行動することは今すぐできるはずだ。まずは机の前に座ってペンを持ち、本を片手に思考する。別に僕はジャーナリストではないが、ペンは僕の武器だ!手元にはもう15年程使い続けている万年筆がある。この万年筆こそ僕の人生を変えてくれると思っている。しかし令和に向けてペンを新調するのも良いかもしれない。しかし大事なのは、ペンがどうこうではなくて、自分の頭脳である。自分がどこまで進めるか?そのような挑戦は常に続けようと心に決めている。

妥協。

妥協は出来るだけしたくはないが、時には妥協すべき時もある。ある事について妥協せずに自分を貫こうと思っていたが、それを貫くためには体力も気力もお金もいる。巨大なストレスも襲ってくる。そのような状況の中でここ最近いたが、いろいろと打開策を考えたところ、ここは少し妥協すべきだという結論に至った。妥協せざる負えない事は非常に悔しいが、しかし妥協することが最善の策であることもある。妥協うんぬんということより、今自分にとっては最善の策を取るべきだということだ。

もちろん、妥協せずに自分を貫くことによって少し社会を変えられる可能性もあった。しかしそれを貫くとその前に自分が自滅する可能性も大いにあった。自滅しては元も子もない。従ってここは妥協一択である。このように妥協してみると、時には妥協するのも悪くないと感じる。僕自身はこれまで妥協しないのがトレードマークであったが、そこは仕方がない。今回妥協することによって精神的な衛生面でも非常に良くなり、物事が大きく進みそうである。

自分にとって何が一番必要か?そこを強く自覚しておかなければならない。自分にとって一番大事な事は妥協すべきではない。しかし一番大事な事を守るために、二番目三番目の事を妥協するという選択肢はありだ。いつも精神を張りつめて少し神経質になっていたところがあったが、ここは妥協して少し心にゆとりを持たせ、一番大事な事に力を集中させようと思う。

キーワード。

キーワードを提示されていると何かと便利だ。数学の論文にも最初にキーワードが提示されているものがあり、そのキーワードを見ると本文に何が書かれているか大まかな内容が想像できる。それだけに、キーワードを提示する人は慎重に吟味しなければならない。

そして大事なのは、キーワードは本質を突いていなければならないということだ。逆に言うと、本質でないものはキーワードではない。これは当たり前の話で、キーワードの「キー」という言葉は言うまでもなく「鍵」ということなので、鍵になっていないキーワードなどありえない。そしてキーワードは複数個あっても良いが、少数でそれらを連立すると全体像が見えるものでなければならない。

なぜここでキーワードのことを書いたのか?それは数学に関して思い描くことがあって、そこでキーワードになるのが三つの言葉である事を痛感したからである。どのような分野にも構造が存在する(と思われる)。その構造とはどのような構造なのか?それを一言で表したのがキーワードだ。それらの事は、数学に限らず、哲学、文学、歴史など、あらゆる分野に対して言えることだろう。そしてそれらに対して提示されているキーワードの本質を理解した時、その分野の70%を理解できたと言える。残りの30%はそれらの組み合わせである。

キーワードがあると便利でわかりやすい。しかしだからと言って、キーワードを簡単に理解できる訳ではない。キーワードは本質であるからこそ、本質を理解しないとキーワードを理解できない。キーワードを見て中身の概観を知って、そして中身を見てキーワードの本質を知る。すなわち入口はキーワードであって、出口もキーワードであるということなのである。

本質的な変化と、本質的な不変性。

変化する事と変わらない事、どちらが重要かと言えばどちらとも重要だ。しかしこれでは答えになっていない。どのような変化が必要でどのような事を変えないでいるべきか?一言で言えば“本質的”な変化が必要であり、“本質的”な事を不変にすべきだということだ。

しかしこの「本質的」という言葉は簡単に理解できる人が少ないようだ。本質的な事を理解するためには本質を見抜く目が必要であり、この目を持っている人にとっては容易に見抜けることでも、この目を持っていない人には表面的な事しか見えない。「本質的」とは大雑把に言うと「重要である」とも言えるが、本質を見抜くことが出来なければ重要な問題に取り組むことが出来ず、いくらやっても大きな成果にはつながらない。

自分が人間として成長するためには本質的な変化をし続けることが必要であり、そのためには挑戦し続けることが必要だ。ここでも間違ってはならないことは、表面的な変化を追い求めない事だ。本質的な変化は自分の個性を際立たせるが、表面的な変化は人間性を消し去ってしまう。この事はファッションを例にとってみればわかりやすい。よく個性を出すために奇抜なファッションをしたりする人がいる。しかしこのような安易な変化は全く個性的ではあらず、むしろ没個性的だと言える。奇抜な事が個性だと考えるステレオタイプな思考こそ没個性的なのである。むしろベーシックなスーツをビシッと着こなす方が、よほど内部の人間性を際立たせ個性的である。

本質的な変化を追究し、本質的不変なものを守り続ける。そのような生き方を継続することこそが人間としての個性を作っていくのだと思う。本質を見抜くことは簡単ではないかもしれないが、自分の人間性を豊かにするためには、まずは本質を見抜く目を鍛えなければならない。

人生の研究者。

イチローの引退から数日経ったが、今でもイチローの引退会見を思い出す。世界一の選手が日本人、そんな稀にも見ないような十数年のベースボール界だった。今、世界一になろうというスポーツ選手が何人かいる。フィギュアスケートの紀平梨花、卓球の張本智和と伊藤美誠、ジャンプの小林陵侑、そしてテニスの世界ランキング一位の大坂なおみ。一昔前までなら考えられなかったようなラッシュだ。

イチローは引退会見で、「野球の研究者」と言う言葉を使っていた。ここで言う研究者とは、おそらく哲学的な意味を追究すると言う意味であろう。イチローは野球に対して徹底的な研究者であった。そしてこのような哲学的追究の姿勢は、どの分野でも世界一を究めようとすると不可欠な要素だと思う。もちろん数学や科学を研究するに当たっても哲学的追求は必要だ。しかしスポーツ選手にしても学問研究者にしても、そこに気付いていない人は多い。しかし哲学から見えてくる科学とういうものもある。そこが見えないと各分野でのトップは狙えないと思う。

哲学と精神は密接な関係にある。健全な精神にしか哲学は宿らない。だからまずは健全な精神環境を作ることが大事だ。しかし現在は非常にストレスフルな時代だ。この様にストレスフルな環境だと健全な精神を構築するのは難しい。しかしそんなに簡単に環境を変えられるものではない。もちろん自分で変えられるところは変えて行かなければならないが、どうしようもない所は上手くそこを切り抜けて行かなければならない。非常に悩ましい問題である。

数学を研究すると言ったって、全ての人が数学を追究できる訳ではない。僕だって語学が非常に苦手なのでフランス文学を研究するなんてことはできない。しかし全ての人は人生の研究者になるべきだ。人生の意味、生き方、そして死に方など人間であるからには逃れられない全ての意味を追究し、人生を豊かにしていく。それができないと薄っぺらい人生になってしまう。決して良い生き方をすべきだという訳ではなくて、意味ある生き方をすべきなのである。僕は全ての人がこのような事を考えるべきだと思っているが、それは無理な願望なのだろうか。

日本的学問の自由。

数学も科学も普遍的なものなので「日本的」と言うのはおかしいかもしれないが、あえて言うと日本的数学、日本的科学というものがあるような気がする。数学の発祥は二千年程前のギリシャに行きつくし、科学というものが厳密に成り立ったのは17世紀のニュートンに行きつくと言える。従って、数学や科学はヨーロッパ的と言え、質的にも量的にも圧倒的にヨーロッパの功績が大きい。もちろん20世紀以降で言えばアメリカの功績が大きいのは言うまでもないが。

では日本的な数学・科学とは、どういう所が日本的なのか?それは理論内容と言うより理論が内包する哲学にあると言える。特にその中でも京都学派と言われるものの個性は際立っている。京都学派と言えば、哲学の西田幾多郎、和辻哲郎から、物理学の湯川秀樹、朝永振一郎を思い浮かべるが、忘れてはならないのが数学の佐藤幹夫だ。それらの哲学は京都と言う土地が醸し出すものなのか、それとも研究者の個性の醸し出すものなのか、と悩んでしまうが、おそらくその両方ともであろう。最近、佐藤幹夫の理論に触れることが多いが、その一番特徴的な所は圧倒的な個性であろう。佐藤幹夫の理論には佐藤幹夫という人間の個性が凝縮されている。

京都は非常に自由だと言われる。そのような京都に憧れる研究者も多いが、最近僕が危惧しているのは日本全体に覆う制約だ。少し前のブログでも少し触れたが、法的にも日本の学問研究を規制する方向に向かっている。この流れは世界の学問の潮流とは真逆を行くものだ。こんな事では日本の科学や広く学問が衰退するのも無理はない。この様に学問に理解のない日本においては科学技術をリードして行けるはずもなく、それに伴って経済も衰退していくのが目に見えている。学問と経済は関係ないと考える人も少なくないが、現代社会では全てが科学などの学問によって支えられていると言っても過言ではなく、目の前の金銭的な事ばかり見て行う施策政策のもとでは、経済や金融などの金銭的豊かさまでも奪ってしまうことになるだろう。

今の日本はとてもじゃないが世界をリードしているとは言えない。科学などの学問や経済において日本は後れをとっている。しかし後れをとっているが故に目の前の事しか見えていない。今日本にとって必要なのは長期的展望である。確かに目の前を走るGAFAは気になるし、焦ることもあるだろう。しかしそれを追いかけてばかりいればその結果は二番煎じ三番煎じであろう。いや、二番三番ならまだましだ。それほど現在の日本の置かれた状況は深刻だ。

広い認識では、「教育が国を作る」と言われている。明治維新後の日本の発展、そして戦後の日本の発展は教育が作ったと言っても過言ではない。しかし教育も時代によって変えて行くべきだ。戦後の教育が上手く行ったからと言ってその教育が今の時代にマッチするとは限らない。それどころか今の日本の教育は世界的潮流に逆行している。それは国の政策レベルでも学校の教育レベルでも同じだ。僕が現場の教師から聞く話は非常にひどいものである。学問において自由を伝えるべき教師がそれと真逆な事を教えている。教育というものは一朝一夕で成果の出るものではない。だからこそ長期的展望をもって日本の学問、日本の教育というものを構築して行かなければならない。そこでキーワードになるのはやはり「学問の自由」としか考えられない。

不可能を可能にする。

科学技術の発展とは、不可能を可能にすることかもしれない。そしてその「不可能を可能にする」とはあらゆる意味で非常に挑戦的であり、そのことを人生の目標にすることは人間としての大きな発展をもたらす。僕も今、不可能を可能にする挑戦をしている。何に関してそのような挑戦をしているかというと、それは一つの事ではなく複数の事に対してである。学問における挑戦、日常生活における挑戦、あるいは人付き合いにおける挑戦である。

そのような挑戦を成し遂げるためには、多方面の事に対して感覚を磨かなくてはいけない。頭脳における思考の感覚を研ぎ澄まさなければいけないし、精神的にも強くならなければいけない。そして外見も内面も魅力的にならなければいけない。もちろん人間であるからには歳を取って行く。野球選手なら身体能力の衰えによって引退する時が来る。イチロー選手でさえそれには逆らえず、先日引退を発表した。しかし精神というものは歳とはあまり関係ない。いくつになっても精神を研ぎ澄ましていくことは出来るし、逆にどれだけ若くても衰えて行く人もいる。外見に関してはもちろん若くはならないが、歳なら歳で魅力的な外見があるはずだ。そのような外見は単に見かけだけの装いだけでなく、生き方や振る舞いから醸し出されるものもあるだろう。従って、外見とは人間の中身も大きく表現されるものである。

不可能を可能にする挑戦、それは外見も精神的な内面も光らせる。だから小手先の事で繕うなどとするのではなく、そのように根本的な所から取り組まなければならない。時には失敗することもあろうし、嫌われることもあろう。しかしそれはそれでいいのである。僕はそのような失敗を大切にしている。不可能なことがすぐに全て可能になるはずはない。それを成し遂げるまでには気の遠くなるような失敗を繰り返すことになるであろう。そこを乗り越えていく原動力になるのは、明確なビジョンだ。ビジョンが芯を作る。ビジョンなき野望は張りぼてである。

実は可能であろう事を可能にすることもそんなに簡単な事ではない。当たり前のことを当たり前にすることの難しさは、プロスポーツ選手を見てもよくわかる。それが出来るプロが十人いるとすれば、不可能を可能に出来る人は更に一人二人である。しかしだからと言って初めからあきらめるわけにはいかない。もしビジョンがはっきりとしており出来る可能性があると思うならば、そのような可能性に挑戦するのも人生表現として一つの手段であると思う。

流行の問題ではなく、重要な問題に取り組む。

学問においても、流行というものが存在する。流行のテーマ、流行の問題など、その時々のトレンドがあり、そして同時に廃れて行くテーマもある。研究者の中にも、流行に過敏に反応し流行を追いかけ続けている人がいる。しかもこのように流行を追いかけている研究者が少なくないのだ。何も流行を追いかけることが悪い訳ではなく、それらのテーマが流行になるからにはそこには重要な理由があるはずだ。しかし流行の問題と重要な問題は必ずしもイコールではなく、時には本当に重要な問題が時代から無視されていることも多い。

流行の問題と重要な問題をどう捉えるか?流行とは変わりゆくものであり、重要なものは不変なものだと言える。また不変だからこそ重要だとも言えるのかもしれない。流行の問題に関しては何もしなくても取り組む者が続出する。しかし意外にも、重要な問題に取り組む者はいつの時代にも一定数いるが、そんなに爆発することはない。しかし重要なのは、流行の問題とは重要な問題を源流として発生することが多いということだ。

重要な問題なのに、なぜ取り組む人がそんなに多くないのか?それは問題の歴史に関係する。重要な問題はその問題が誕生してから長い年月が経っていることが多い。例えば幾何学のポアンカレ予想は約100年の歴史があった。1900年頃に問題が誕生し、2003年にペレルマン博士によって解決された。100年も解かれなかったということはかなりの難問であるということだ。それだけの難問であるから、その問題に取り組んでも何の結果も出ない危険性が高い。結果を出さなければ研究の世界では生き残れない。従って生き残るために結果が出そうな無難な問題に取り組む人が多くなるのである。

しかし重要な問題に人生を懸ける価値は非常に高い。もちろんなかなか結果が出ない危険性も高いが、結果が出れば非常に大きい。もちろん何の構想も当てもなく取り組むわけにはいかない。取り組むに当たっては解決へのビジョンだけははっきりとさせておかなければならない。しかしビジョンがはっきりとしているからと言って解決できるほど簡単ではないが、その骨格を基に細部を地道に埋めて行けば解決する可能性は十分にあると思う。あとは、「自分がやらなければ誰がやる」という執念を持って乗り切るしかない。

理想論を実現化する力。

世の中では、「理想と現実は違う」とよく言われる。確かに理想と現実は大きく違うことが多いし、世間も「現実とはそんなものだ」と半ば諦めてそれを受け入れている。しかし現実をどれだけ理想に近づけられるかとういう施策は非常に挑戦的なものであり、完全に理想と一致させることは出来なくても、部分的に理想と一致させることは不可能ではない。

近年「人間力」という言葉がよく使われる。この人間力という言葉はあまりにも抽象的であいまいであり、どのようにも捉えることが出来る。つまり誰もが都合よく解釈して使用することが出来る。そういう意味で僕はこの言葉があまり好きではないが、ただそこを我慢して使うとすれば、現実をどれだけ理想に近づけることが出来るかということはそれぞれの人間力によるところではないだろうか。

おそらく多くの人には理想のあるべき姿があるのではないだろうか?しかし同時に多くの人は理想を実現化することを初めからあきらめている。一部の人は理想を実現化しようと努力しているが、そこで足かせになって来るのが「理想なんて無理だ」と初めからあきらめている勢力だ。理想を初めからあきらめている人は理想を実現化することは100%無理であるが、理想を実現化しようと努力している人はそれに30%くらい成功する可能性がある。ここで100%ではないから意味がないと放棄するのではなく、30%をものにするために行動をしたい。そうすればそれが40%、50%と上がってくる。

人間とは完全ではなく、また多種多様であるから、そのような社会を理想に完全に一致させることは不可能であり、また仮に理想と一致させて一様化することができるとすればそれはある意味非常に危険である。しかし自分自身の個人的な事に関してはそうではない。もちろん自分を完全に理想と一致させることはこれまた無理な事である。しかし自分自身に理想を持つことは人生の発展の原動力になり得る。どれだけ自分を理想に近づけられるかわからないが、自分が目標とするレベルに近づき到達するために一歩一歩進める事が出来れば、その一つ一つの一歩がそれ自身大きな意味を持つものだと思う。