思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

いつまでも笑っていこうと!

悩んでも腹を立てても、ほとんどいいことはない。それならいつでも笑って生きていく方が良い。

僕自身は、かなり喜怒哀楽は激しい方なので、笑う時は思いっきり笑うし、腹を立てるときは腹を立てる。

悩むことが必要な時ももちろんあるが、悩む暇があれば、その分前に進むことを考えたほうが良い。それもびくびくしながら進むのではなく、笑って天真爛漫に進めばいい。

周りの目など、あまり気にする必要はない。僕は全然出来た人ではないので、これからも周りからは非難ゴーゴーかもしれない。しかし、批難されることに対してのネガティブな考えよりも、これから成功した時に対してのポジティブな考えを常に持ち続けて行こうと思う。

僕はいつまでも笑って生きていくぞ!ワッハッハ!

「人生」という彫刻作品。

自分の人生をどんなものにするか?もちろん人それぞれであろう。人とは違う自分独自の人生を創るという人もいれば、みんなと同じ人生がよいという人もいるだろう。その違いはそれぞれの人生観の違いであって、どちらが良いとか悪いとかいう話ではない。

とは言え、僕自身はやはり、自分独自の人生を創りたいと思っている。

人生とは丸太を彫刻で削っていくようなものだと思っている。生まれたばかりの時は皆同じような丸太である。しかしその丸太に「人生」という彫刻を施していく。そして人生を終えるとき、その彫刻は完成する。

そのような彫刻作品に同じものは二つとない。他人と同じような人生だと思っていても、必ずどこか違いが生まれる。それなら思いっきり人とは違う、思いっきり個性のある彫刻作品に仕上げたい。その細部には、他人にはまねのできない技術も施したい。

これから先、どんな彫刻技術が施されるか、本当にわくわくする。

抽出した理想論ではなく、荒削りの現場の経験が重要だ!

自己啓発本の類の本を読む人は多いが、自己啓発本が役に立ったという話をほんとんど聞いたことがない。それはなぜか?

自己啓発本とか、最近流行の「~の言葉」という本には、非常にきれいにまとまった理想論が載っている。きれいにまとまっているので、非常にわかりやすい。

しかし、そこに載っている言葉は、著者が試行錯誤して考え出された言葉だ。その言葉だけを読んでわかったような気になるかもしれないが、本当に必要なのは抽出された言葉ではなく「抽出する作業」である。

そのためには、きれいにまとまった言葉ではなく、現場の荒削りな生の言葉に触れなければいけない。すなわち、たくさんの”事例”に触れながら、自分独自の理想論を作り上げることが重要なのである。

昔のテレビドラマで、映画にもなった”踊る大捜査線”(フジテレビ)の中で、「事件は会議室で起きているのではない。現場で起きているんだ」と言う言葉があった。まさしくそのとおりであり、名言である。

前線で数多くの事例を扱い、そこから試行錯誤して自分自身の考え・理想を構築していく。それの繰り返しによって、あらゆることのスキルが身に付いていくものだ。

目標設定は適切か?

人間が生きるためには、何らかの目標が必要だ。短期目標・中期目標・長期目標、それぞれをリンクしながら人生を切り開いていく。そして目標は高すぎると全く近づくことができないし、低すぎても達成感が得られない。

僕の現在の目標は、他人から見るととんでもなく高い目標に見えるかもしれない。それは自分でも認識している。しかし、とてつもなく高い目標でも、それが崖の上にあるのか、それともそこへ続く階段が見えているのかで、全く事情は異なってくる。

垂直にそびえる崖の上にあっては、例え高さが5メートルでもたどり着くことはできない。しかし階段があれば、着実に進めば100メートルの高さでもたどり着くことができる。

僕には目標への階段は見えている。その階段は現実か、妄想か、それは実現できたときに証明される。それを証明するために、一歩ずつ着実に階段を上っていこうと思う。

実用と教養を使い分ける。

日々物事に取り組んでいると、どうしても役に立つこと、つまり”実用”に偏りがちになる。役に立つとは、非常に分かりやすい。役に立つと言えば、何でもうなずいてくれそうに思う。もちろん役に立つことは素晴らしいことだ。しかし何だか技術的な事に偏りがちのような気がする。

その対極にあるのが”教養”だ。しかし、教養はすぐに役に立つとは限らない。もちろん教養が役に立つことは多々あるのだが、大概の教養は、徐々に熟成されるのもだ。とは言え、教養だけで納得してしまうのは、半分は自己満足であるような気もする。

結局、実用も教養も両方大切なのだと気付かされる。すなわち、これらは車の両輪なのだ。

実用も教養も、現場での実戦があってのものである。実践無き教養など、何の意味もない。ここで実践とは、「人間としていかにして生きるか」という意味もあるし、「社会でどう行動を起こすか」という意味もある。

実用と教養の相互作用によって、新たなる広がりが生まれる。人生を、そして社会をどう切り開いていくか、そのための武器として、実用と教養を使い分けながら進んでいかなければならない。

基礎と先端の両方攻め。

物事に取り組むには、基礎を身に付けることが大事だ。基礎なしには応用はできない。とは言え、いつまでも基礎ばかりに気を取られていれば、いつになっても最前線に到達しない。

そこで、基礎を習得しつつも、同時に最先端の事柄にも取り組むことが有効になる。基礎を100%習得する前に最先端を知ることによって、逆にどういう基礎が必要なのかということが見えてくる。それによって、本当に習得すべき基礎だけに集中できるので、時間の短縮にもなる。

このように、基礎の習得に励みつつ、最先端の事柄も視野に入れることによって、効果的な成果を挙げることができる。

今日決められないことは、1年経っても決められない。

僕が最近心がけていることは、「今日、絶対に決めるぞ!」と物事に取り組むことだ。「明日決めるぞ」と思っていれば一か月経っても決められないし、一か月経っても決められないことは一年経っても決められない。そして一生経っても決められないとずるずる引きずってしまう。

とは言っても、「今日決めるぞ!」と取り組んでも、大概今日決めることはできない。それならば、次の日も「今日決めるぞ!」と心がけて取り組む。毎日「今日決めるぞ!」と取り組むことによって、上手くいけば一か月後に成果を出すことができるかもしれない。間違っても、初めから「一か月後に決めるぞ」とは思わないほうが良い。

人生、毎日が真剣勝負。笑ったり、悩んだり、いろいろあるが、真剣に笑い、真剣に悩むことが大切だと思う。そのようにして、一日一日を刻んでいきたい。

「一発逆転」とは、才能と努力で成し遂げるものだ!

「一発逆転」と言うと、棚からぼた餅のように、運(ハプニング?)だけによってもたらされるものと思っている人が多い。お金のギャンブルがまさしくそうであろう。しかしそんなギャンブルでの当たりなど、はっきり言って”事故”でしかない。

一発逆転は、才能を駆使して、かつ、努力を重ねることによって成し遂げるものだ。

失敗に理由があるように、成功にも必ず理由がある。もちろん、運が全く関係ないと言えば嘘になる。運だって絶対に必要である。しかしそのような運は、才能と努力という前提があってのものだ。そして運をつかむのも実力とも言える。

「なんかいいことないかな~」と妄想する暇があれば、これからどのように実行しようかと思考し、行動すればよい。才能・努力・行動は、成功するための三点セットである。

物事を「理想化」して考えることの大切さ。

考える対象が複雑であるとき、対象をそのまま受け入れるとどうにもならないことがよくある。その時に大切になるのが「理想化」という操作だ。

物理学は理想化の代表例とも言える。物体の運動・現象は非常に複雑であることが多い。そのような時に、運動・現象の本質的な側面だけを抽出して、不要な要素を捨て去るのである。そうすると、非常に見通しが良くなる。この様な操作を「理想化」と言う。

理想化は、何も物理学だけのものではない。多くの学問でも行われているし、身の回りの出来事を考えるときでも理想化は無意識に行われている。

物事の本質を見抜けるかどうかは、理想化できるかどうかにかかっているとも言える。常に理想化的な思考ができるようになると、見える世界も大きく変わるであろう。

100m・9秒台、桐生祥秀に見る勝負の世界。

9日、陸上の桐生祥秀選手が、100mで日本人初の9秒台となる9.98を記録した。9秒台というとアフリカ系の選手の独壇場というイメージがあったが、ついに日本人が、という思いである。

陸上の世界は正真正銘の弱肉強食の世界。勝負に命をかける人間の世界である。だからこそ、強弱が非常に分かりやすい。0.01秒でも速い人間が偉いのである。

桐生祥秀選手は大学4年生、来年は実業団に入るのか、それともプロになるのか、わからないが、日本人初の9秒台を出した男として永遠に名前を刻む桐生祥秀は、これからもさらに上を目指していくだろう。

われわれ外部から見て、非常に華やかな話題だが、100mの世界は想像を絶するくらいに厳しい勝負の世界だと思われる。最近、桐生祥秀のほかに山県亮太、サニブラウン・ハキーム、多田修平、ケンブリッジ飛鳥と数多くの日本人選手が活躍しているように思えるが、逆に言うと世界で渡り合える日本人はこの5人だけとも言える。1億2千万人の日本人のうち、この5人しか100mでは飯を食っていけないのである。

100m走は小学1年生でもできる。世界で最も競技人口が多いスポーツとも言える。走るだけなら僕でもできる。しかしそれで飯を食えるのは日本で5人だけである。この究極の勝負の世界だからこそ、大きな魅力を感じる。もちろん走っている彼らは0.01秒に生死がかかっている。

100mの彼らほどではないが、勝負の世界で生きている人間は多い。さらに言えば、人生そのものを勝負だととらえている人もいるだろう。一度きりの人生、勝負だと思って桐生祥秀のように走り抜けたいものである。