思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

心を鍛える事、体を鍛える事。

心と体は一体。どちらも同一人物に宿るものである。心(精神)を鍛えなければならないとか、体を鍛えなければいけないとかいろいろ考えるけど、やはり心と体の両方をバランスよく鍛えることが大事だ。

数学を研究している人に対して、どのようなイメージを持っているだろうか?数学は頭を使う作業なので、体はあまり重要ではない、と考える人が多いと思う。しかし数学の人間同士では「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とよく言ったものである。数学を研究するのにも体あってのもの。数学にも体力は重要なのである。僕の大学時代の恩師(数学者)は、毎日バーベルを持ち上げて、その時に歯に力を入れ過ぎ歯がボロボロになったと言っておられた。

僕も体力の重要性に気づいてから、ここ五年くらいはほぼ毎日筋トレを続けている。心を鍛えることの重要性は言うまでもないが、頭を使う知的労働者こそ、体の重要性を認識しなければいけないのではと思う。もちろん、健康を維持することは言うまでもない。

取るべきリスクと、避けるべきリスク。

人間生きていると、様々なリスクに対して、取るか取らないか決断をしなければならない。リスクは少ない方がいいが、前に進むときにはリスクを必要とするときもある。

しかし、不必要なリスクまで負う必要はない。特に金銭的リスクだが、何かを始める時にそれだけのお金が必要か?よく考えなければいけない。特に起業するには資金は必須だ。しかし初めから完璧にしようとすると、無駄にお金をつぎ込んでしまうことがある。成功する確率は、つぎ込んだお金に比例しない。

リスクは金銭的リスクだけではない。時間的なリスク、立場上のリスクなど様々なリスクがある。人間として上を目指すためには、金銭的リスクは不要でもその他の様々なリスクを抱えざる負えない。そのような時のリスクは”覚悟”であると言えるだろう。

人間としてのリスクを取らずに無難に生きていくことも十分可能であろう。しかし、人間的リスクを取らずに生きていく人生は、表面をなぞるような人生でしかない。深みが生まれない。人間的リスクを取り、それを克服した時に、人間的な深さが生まれる。

深みのある魅力的な人間になるために、どうリスクと向き合うか。試行錯誤の毎日である。

僕は高校中退したことを、誇りに思っている。

今日、このブログサイトのプロフィールに書いてあった僕の学歴を大幅に簡潔にした。大学名・大学院名は削除することにした。しかし、高校中退したことについては、そのまま残してある。

僕にとって、高校を中退したことは汚点ではない。むしろ誇れることだと思っている。中退した理由はいくつかあるが、僕が自分で決断し、実行した。

高校一年の一学期で中退してから大学へ入るまでの二年半は、とてつもなく有意義で充実した時間であった。友人付き合いは、数学少年仲間から悪友まで様々であった。この二年半がなければ、今の自分はなかったであろう。

もちろん物理学者になるという夢は非常に強く持っていたので、数学と物理の勉強は人一倍やっていた。毎日図書館に通って勉強するのも心地よかった。仲間の吸うタバコの煙は非常に嫌ではあったが。

尾崎豊みたいに派手で発散していたわけではなかったけど、自分なりに信念を持って生きていた。その信念は、20年以上たった今でも変わらないが。

レールの上を走るだけが人生じゃない。荒れた荒野を開拓していくことは、非常に困難だけど、そうして切り開いた道は自分だけの道だ。自分の人生に対して他人からレッテルを張られる筋合いはない。しかしすでにある道の名前は他人の名前だ。自分の進む道くらいは自分の名前を付けたいものである。

 

合理主義・論理主義の時代でも、精神論は必要だ。

物事を合理的に考える、論理的に遂行するということは、現代社会において避けて通れない道だ。昔あった、精神論・根性論一本やりでは、この現代社会は乗り切れない。

では、精神論は無用の長物になったのか?僕はそうは思わない。物事を合理的・論理的に遂行するのは、最終的には人間だ。人間の中枢は精神(頭脳)であり、それが故、精神論抜きでは何も進められない。

よく「努力をせよ」と言われるが、努力などはまさに精神論そのものである。精神論は人間が人間らしく生きると言う意味でも重要である。また、そこに人間のドラマが生まれる。

人間はコンピューターでも機械でもない。合理的・論理的考えを上手く取り入れながら人間らしく活動する、それが現代社会で生きていくうえで最も理想的な生き方と言えるのではないか。

出口だけでなく、ブラックボックスを理解することも重要だ。

最近、何もかもがブラックボックス化されて、ボックスの中では何がなされているかには興味がなく、出口から出てきた結果だけを見て判断される風潮がある。これにはボックスがあまりにも高度複雑化されてきたこともあるが、複雑になったボックスとは言え、ある程度の概要を知ることは可能だ。

そのようなブラックボックスのうちの一つが、最近話題のAI(人工知能)であろう。AIのできる事を見ていると、本当に”知能”であるような錯覚を覚える。極端に言えば”AIは何でもできる”という錯覚に陥りがちだ。しかしAIの中身・仕組みをある程度知ると、AIは知能ではなく”知能もどき”であることに気付くであろう。

最近ではAIによる医療判断までできるようになってきた。しかしAIの仕組みを知ると、AIが得意な事、不得意なことの傾向が見えてくる。不得意なことに関しては、人間の足元にも及ばない。

得意とされる学問でさえも、東ロボ君(AIによる東大合格を目指すロボットのプロジェクト)と言うものがあり、それでも東大に合格できるかどうかである。”所詮”東大入試である。研究者レベルから比べると、お遊び程度の問題と言う意味で”所詮”と書いた。

AI評論を見ると、大きく二つに分かれる。システムを知っている人の評論と、出口しか見ない人の評論だ。僕は絶対に”システムを理解している人”の評論を聞くべきだと思う。出口しか見ない人の評論は、単なる想像でしかない。

ブラックボックスと言うものは非常に便利だ。仕組みを知らなくても望みのものを出すことができる。しかしそれは危険と隣り合わせである。自分が何を利用しているかも理解していないのである。そして何でもできる気になる。しかし本当は何もできていないのである。

しかし多くの人はそんなことはどうでもいいのかもしれない。便利でさえあればいいのかもしれない。しかし人類が知的活動を何も知らずに生活するのは、知的生物である人間の生活行動として何かが欠けているように思えてならない。

体のコントロール、頭のコントロール。

自分の調子を把握するのは、意外と難しい。いや、それが簡単にできる人も多いのかもしれないが、僕にとってはかなり難しい。そしてさらに、自分の調子を把握して、それをもとにコントロールしなければならない。これも簡単にできる人は多いのかもしれないが、僕にとっては至難の業だ。

自分の調子と言っても、大きく二つに分かれる。体の調子と頭の調子。体のコントロールは筋トレでもしていくらでも強固にできるが、僕にとって手ごわいのは頭(脳)の調子だ。

頭の調子を整える上で一番重要になってくるのは”睡眠”であろう。僕にとって、この睡眠のコントロールが難しいのだ。コントロール不能と言ってもいいだろう。

上手く睡眠をコントロールできたときは、一日の質と量が違う。睡眠に一日がかかっている。

一日は寝る前に始まっている。睡眠は僕にとって一番の勝負時だ。適切な睡眠が取れるかどうか。本当に普通の人にとってはなんてことのないことかもしれない。しかし僕にとっては一大事なのである。

ちなみに体のコントロールはバッチリである。

体と頭は車の両輪である。双方上手くいってこそ、飛躍的なパフォーマンスを発揮できると考えている。

アマチュアのトップか、プロの端くれか。

アマチュアとプロの違いは何か?という問題は単純ではない。その境目が曖昧なものから、将棋や野球のように明確に規定されているものもある。

とは言え広く一般に、”お金をもらっているのがプロ”という定義もあるが、それならば、給料をもらっているアルバイトもプロになってしまい、明らかに違和感を感じる。

プロとは何か?という定義はさておいて、プロとアマチュアの間には大きな断層が存在する。多くの分野で、アマチュアのトップでもプロの端くれには太刀打ちできないことが多い。その最たるものは、今話題の将棋であろう。

将棋は4段からがプロである。3段まではプロの前段階の奨励会員と言う身分である。言わばセミプロと言う感じかと思うが、完全なアマチュアとは違う感じがする。アマチュアの”4段”が、奨励会の”5級”と同じくらいだと言う話を聞いたことがある。即ちトップアマチュアでも奨励会の一番下にほぼ太刀打ちできないと言うことであろう。

プロとアマチュアのもう一つの大きな違いは”プロ意識”であろう。このプロ意識のあるなしは、その分野で戦っていくうえで大きな違いを生む。取り組む姿勢・時間・こだわりなどによって、プロとアマチュアの間にあった差はますます大きくなっていく。

趣味でやればいいという人はともかく、その分野で戦っていき、トップを目指す者としては、分野を問わず”プロ意識”を持つことは非常に重要だ。そういう意味で僕は、アマチュアのトップを目指すことより、まずはプロの端くれを目指すことの方が計り知れないくらい大きな意義があると感じている。

今までやってこなかった新鮮さに取りつかれる。

最近、コンピューター関連の事が面白い。今まではずっと数理物理(数学と物理)しか眼中になくて、その他のことは余力でという感じだったが、今、コンピューターにはまっている。Python(パイソン)などのプログラミング言語、ディープランニング、LinuxなどのOS、面白いものは手当たり次第に当たっているが、その先のプランも考えている。

とは言え、やはり数理物理はゆずれない。物事に優先順位を付けることは非常に大事だが、最近は面白いことには全て全力で取り組んでみようと思っている。

とは言っても一日は24時間、睡眠を省くとさらに短くなる。全てを全力で取り組むためには一日の計画をしっかりと考えなければならない。睡眠のコントロールが苦手な僕にとっては至難の業だ。

とは言え、この歳になって新鮮さを感じることは幸せだ。今は遊びの範疇を出ないかもしれないが、それを超えようとも思っている。

人生、修行とエンジョイのバランスが大事だ。修行もエンジョイするくらいになれば一人前かもしれない。

昔、阪神タイガースにいた新庄剛志選手は、常にプレーを楽しみ、ファンにも楽しませてくれた。シンジョイ(新庄がエンジョイする)と言う言葉があるくらいだ。いつかはその境地にたどり着きたいものである。

本は財産。本にかけるお金は人生への投資。

世の中を見ていると、本を読む人と読まない人が極端に分かれるような気がする。もちろん本にお金をかけて読まない”積読”は少し良くないかもしれないが、全く本に接しないよりかはかなりましである。特に専門書は、読むのにかなりの時間と労力がいるので、必然的にある程度”積読”になってしまう。しかし、積読状態である専門書は、研究への自由度の広がりになる。

本の価値は読んだ人にしかわからない。価値がわからないから読まないのか、読まないから価値がわからないのか、鶏が先か卵が先かという問題かもしれないが、人生を価値あるものにするためにもある程度の読書は必要だ。

そして読む本の”質”も重要だ。基本的基礎的文献を読まないで、自己啓発本などの表面的な手っ取り早い本ばかり読んでいては薄っぺらい人間になってしまう。何をするのにも、苦しんでこそ得られるものがある。

ただ、苦痛を感じながら読むのもあまり意味がないのかもしれない。やはり読書も楽しんだ方が圧倒的に良い。そのためには「自分の興味は何か?」ということを自分で認識しなければならない。

本への投資は自分への投資。本は財産。

質の良い価値ある人生にするためにも、人生のお供に質の良い価値ある本を。

結果ありきか?過程ありきか?

物事に取り組むときに、まず目標を掲げることが多いだろう。もちろん目標を掲げることは、非常に意義のあることである。

しかしその目標が、中身のあるものか、外見だけのものか、それらによって大きく意味合いは変わる。

外見により目標、例えば起業であれば「何億円稼ぐ」とか「3年で株式上場する」とかであるが、それだけでは物事は全く進まない。まず「何(なに)で」ということを明確にしないとスタートは切れない。

よくビジネスで成功するためには「”何で”にこだわらないことが大切だ」と言われるが、それは「何で」と言う手段(過程)をいくつも思い描いていて、どれで進めるかこだわらないという意味だ。しかしこの「何で」という手段を定めることが一番難しい。

とは言え、手段を一つに絞る必要は何もない。いくつかあれば、それを全て進めるというのも一つのやり方であろう。全てに全力をつぎ込めるのなら、二兎・三兎の獲物を追えばいい。そうすれば中には大谷翔平のごとく、二刀流・三刀流で活躍する者が現れるかもしれない。