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英語信奉にとりつかれる前に。

現在、世界の言語のグローバルスタンダードは言うまでもなく英語である。科学の論文でも、英語で書かなければ実績とはみなされない。企業でも社内公用語を英語に定めるところもある。

しかし英語とは多くの場合、本質ではなく手段である。もちろん手段は大事であるが、手段である英語に固執しすぎて本質を見失っては元も子もない。

英語を習得して世界に出ることを否定するつもりは全くないが、日本人としてこれから重要になるのは日本語で勝負することではないだろうか。英語を重視するあまり母国語である日本語を軽視するのは少し違うように思う。

例えば僕の名前“木原康明”を外国で名乗るとき、多くの場合“Yasuaki Kihara”と苗字と名前を逆転させるであろう。しかし日本語、そして日本の文化を主張するならば“Kihara,Yasuaki”と「苗字,名前」とすべきである。アメリカ人が日本に来て、日本方式に「苗字,名前」とはだれも名乗らない。なぜ日本人は外国に行くと「名前,苗字」と逆転させるのだろうか?しかも日本国内でも英語表記にするときには「名前,苗字」と逆転させる。日本人はどこまでお人よしなのだろうか。

多くの日本人は英語神話にとりつかれている。英語ができるだけで仕事ができるように錯覚してしまう。英語信奉にとりつかれる前に、日本語、そして日本の文化に対して理解を深めることが非常に大切である。

物事の相互作用。

物事が上手くいかない時、取り組むことを絞ろうと考えることはよくある。絞ることによって、一つの事に割く時間と気力を増やすのだ。

しかし、全く逆の事も時には効果がある。一つの事に上手くいかない時、あえて複数の事に取り組む。このことは一見逆効果にも思えるが、物事というものは意外と互いが絡み合って相互作用しており、他の事に対するアイデアが元の事に生きることがよくある。複数の事に取り組むことが突破口になるのだ。

もちろん、他の事に取り組むことによって頭がリセットでき、固定観念にとらわれない発想が生まれるという効果もある。

「選択と集中」とは何かにつけてキーワードとされることがあるが、「複数を選択する」という判断をするのも、物事を解決する一つの手段として有用ではないかと僕は考えている。

大人になるほど嘘をつく。

多くの人は、大人になるほど嘘をつき、大人になるほど目が曇る。妙に周りの空気を読み、都合の良い解釈をし始める。

最近の大手企業の不正とその後の釈明会見を見ると、つくづくそう感じる。しかしもちろんそのようなことは、不正企業の経営陣だけでなく、多くの大人に言えることだ。

なぜ急にこのようなことを書こうと思ったかというと、テレビで、ある二十歳前後の少女の、あまりにも率直で世論を気にしない意見を聞いたからだ。この少女の意見は世論の風潮とは逆を行くものであったが、僕には少女の意見の方が正論に思えた。この少女は以前、不条理な世論の逆風を浴びていた人物でもある。この少女にはこれからも、透き通った眼で物事を見続け、率直な意見を述べ続けてほしいと思っている。

大人というものは、良くも悪くも大人だ。子供の嘘は可愛いが、大人の嘘は時には卑劣である。透き通った眼をいかにして持ち続けることができるか。それには自分の信念をどこまで維持できるかにかかっている。

単独でするのが良いか?共同で行うのが良いか?

「一人でできる」と言えば格好いいが、実は「一人でしかできない」というのが正しいこともある。僕自身、人と協調することが苦手で、一人で物事に取り組むことが多い。一人でしかできないということは、利点でも欠点でもありうる。

勉強というものは、人に教えてもらうものという意見も多いだろうが、僕自身は過去に、授業で習うよりも独学でやる方が圧倒的に吸収できて効率的であると感じてきた。そういうこともあって、高校を中退して一人で大学を目指して取り組んだ過去は自分に合っていたのかもしれない。ただ、教えてもらうことと自分で独学ですることは、どちらが良いということではなく、自分のスタイルに合った方を選べばいい。

研究の世界では、多くの研究者が共同研究という形を取っている。新たに出る最新の論文を見渡すと、単著(一人で書く)論文よりも、共著論文の方が圧倒的に多いように感じる。

単著でも共著でも内容が良ければそれでいいのだが、ある研究者は、「共著論文の実質的な成果の九割は一人の研究者が負っていることが多い」と言っていた。実際、僕が周りで観察していた例では、一人の研究者が成果を出して、他の研究者が執筆を担当しているように感じたものもあった。

単独研究と共同研究のどちらが優れているかということは、研究分野・テーマにもよるであろうが、数学・基礎物理などのような基礎的分野では単独研究の影響力の方が大きく、応用・実用分野では共同研究が幅を利かせているように感じる。

日本では協力することの美徳が称賛されるが、単独で物事を進める醍醐味も非常に大きな魅力である。

選んでばかりはいられない!

大事なものを優先的にやる。物事に優先順位をつける。この二つの事は非常に重要なことだ。しかし優先順位にこだわりすぎて前のめりになれないのなら、それは考えなければいけないのかもしれない。

現在の自分は選べる立場ではない。選べる立場になった時に、じっくりと選べばいい。今はやれること、やるべきことに、全力で打ち込むべき時かもしれない。手当たり次第に目の前にある課題を片づけなければいけない。

人生、そんな時は誰でもあるのかもしれない。とにかく全ての事に全力で取り組もう。

“ちょいワルオヤジ”がちょうどいい。

某雑誌のキャッチフレーズにもなっている「ちょいワルオヤジ」。実はこのちょいワルオヤジは、実に理にかなった存在である。

人間、生きていれば何かとグレーな部分が出てくるもので、時には意に反してそれがクロとみなされることもある。しかしそれは悪いことでもなんでもなく、むしろ自然な成り行きだと言える。

グレー、そして‘‘ちょいクロ’’以上に危険なのが「スーパーホワイト」だ。あまりにもホワイトであることにこだわりスーパーホワイトになってしまえば、身動きが取れなくなる。そしてスーパーホワイトは言い換えれば、「何も行動を起こしていない」ということである。何も行動を起こさずに、身動きも取れない状態は、人間の危機であると言える。

極悪になってはいけないが、ちょいワルオヤジはホワイトオヤジよりもはるかに豊かな産物を生み出し、リラックスムードを生み出してくれる。そんな自分の理想とするちょいワルオヤジになりたいと思う今日この頃である。

「体が資本」の意味。

「体が資本である」という言葉をよく聞く。この言葉は何かに打ち込み、その道を極めようとする人にとって、非常に共感する言葉である。そしてたとえ極めようというレベルではなくても、何かに取り組むにあたって、全ての基本はそこにある。

とあるファッション関係の人が、こんなことを言っていた。「お洒落に格好よく見せるのに一番必要なのは、健康的な体だ!」と。イケメン俳優もいいが、どんなイケメン俳優よりも、強靭な肉体を持ったプロ野球・大谷翔平の方がはるかに格好よくスマートに見える。しかもとてつもない結果を出しているのだからなおさらだ。

少し話はそれたが、自分という存在は肉体の存在が前提になっている。精神だけの存在などは現実問題としてあり得ない。

学生時代に数学の研究仲間と、研究をするには必要なものは「一に体力、二に体力、三四がなくて、五に知力」とよく言ったものだ。理論系の学問でもそう感じるのだから、実験系の学問ではなおさらであろう。

勉強や仕事に打ち込むのは非常に良いことだが、その前に少しだけ筋トレをすることを日課にするとか、資本である体に目を向けるのもいい。

健康的な肉体を構築することも必要だと感じ、毎日筋トレに励む今日この頃である。

わかりやすいところ、美味しいところだけ取ればいいのか?先端より根っこが大事である。

勉強と言えば、本を読むことを想像する人が多いかもしれない。もちろん本を読むことは勉強のツールとして非常に重要である。

本を読むためには本を手に入れなければいけない。そして本を手に入れるためには本を買わなければいけない。本を買うためには買うためのお金を稼がなければいけない。もちろん図書館で借りるという手もあるが。

学生なら話は別だが、本を読んで勉強するということ以上に、「本を買うお金をどう捻出するか」ということに社会を知る鍵が隠されている。「本を読む」という先端部分より、「本を買うお金を稼ぐ」という根っこに大きなヒントがある。

学問の研究でもそうだ。学術書を買うお金を捻出するためには、研究結果を出してお金を手に入れなければならない。

「投資する(買う)」→「実行する(読む)」→「結果を出す」という‘‘ループ’’を上手く回すことができれば、物事は上手く進むようになる。

根っこが大事なのはIT社会でも同じだ。いくらITツールを上手く使ってビジネスをしても、ITビジネスの手綱はプラットフォームを創出しているgoogleやアップル、マイクロソフト、facebookなどの‘‘根っこの企業’’が握っている。

末端にいそしむことは非常に分かりやすいが、ある意味それは対処療法だと言える。根本的な所に立ち返り、根っこを握りループを作り上げることが非常に重要である。

限られた条件の中で、どう生きていくべきか。

あらゆる意味で、自分を束縛するものはなく自由に活動することができればいいが、ほとんどの人は何かしら自分を束縛するものがあり、その限られた条件の中で活動し生きているものだと思う。

そのような中、束縛するものを克服して何とか自由になろうと攻略法を見つけるのは大きな解決法で、それができればもちろん一番良いのだが、ある程度の条件を受け入れ、その条件の中で自分を最大限に発揮するためにはどうすればいいかということを考え工夫することも大事だ。

限られた条件とは、社会的制限、金銭的制限、肉体的制限、思考的制限などいろいろ考えられるが、その制限下でどれだけ自分のパフォーマンスを発揮できるかということも、自分の実力につながってくる。

それらの束縛制限を克服し、自分が取り組む対象をコントロールできるようになった時、それが大きな結果を出すべく一歩となるのではないかと思う。

人を信じること。

世の中には人をだます人たちが存在しており、それに対抗してか、まずは人を疑ってかかることが社会で求められようとしている。しかし、誰もかれもが初めから疑ってかかると、世の中は疑心暗鬼に満ち溢れ、社会も人間関係もうまく回らない。もちろん、現在の社会がそこまでひどくなっているわけではないが、果たしてこのような疑心社会を作ることが本当に正しいのであろうか?

怪しいと感じたことは疑うべきなのだろうが、表面的には善良に見えても怪しいことはたくさんある。しかしそんなことばかり考えて疑ってばかりだと、自分の心も荒んでくる。

今の世の中に必要なのは、疑うことではなく「人を信じること」ではないだろうか?疑うことによって自分の安全、自分の金銭を守ることはできるだろうが、自分の心は人を信じることによって守られる。人を信じることは人間の基本であり、人を信じることによって人と人との結びつき、社会との結びつきが生まれる。

人を疑うことは意外と簡単だ。しかし何にでも疑うことを覚えてしまえば、人を信じることができなくなる。一度心が暗くなると、再び人を信じる心を取り戻すのは難しい。

無条件に人を信じろとは言わないが、適度に疑って、信じるべき人に対しては信じるという柔らかい心をを持つことが大事なのではないかと僕は感じている。