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感情論に傾きすぎてはいけない。

最近、大きな交通事故が立て続けに起きている。別に交通事故だけに限ったことではないが、事故や不祥事が起こった時に世の中全体が感情論に傾きすぎているのではないかと強く感じる。もちろん人間であるからには感情論が出て来るのは自然の成り行きだ。しかし多くの物事では感情論だけでは解決も改善もなされない。そこに論理や倫理が持ち込まれてこそ、社会は前進するのである。

僕自身だって感情論で動くことは多々ある。特に個人的な事では別に感情論が入り込んでもある程度は容認されるものである。しかし社会の事となると話は別だ。社会が法で成り立っているからには、法の論理というものは非常に重要であり、それが無ければまさしく無法地帯になってしまう。さらに不確定の事を確定した事と思い込むのも非常に危険だ。そのような事が極限に達すると、冤罪が起こる。学校内でそのような事になると、教師や生徒によるいじめになったりする。何が確実で何が不確実なのか?そこをしっかりと見極めなければならない。

近年は国家関係においても感情論が問題になっている。特に日韓関係では政府トップまでもが感情論で物事を判断するという非常事態になっている。感情論で動く国家関係は疑心暗鬼しかもたらさない。もしかしたら多くの国民はそのような事を考えていないのかもしれないが、疑心暗鬼になれば身動きが取れず、国家的損害は絶大だ。

自分自身をコントロールするに当たっては、感情のコントロールが一番の課題になるであろう。「感情を制する者は自己を制す」とでも言えば良いだろうか。しかしまた、感情のコントロールほど難しいものはない。なぜなら、感情をコントロールするのはこれまた感情であるからである。そこをいかに論理でコントロールするか?それが実行できれば物事を的確に判断し対処することが出来るであろう。

無理をすること。

最近は無理をしすぎないことが何に対しても大事だとよく言われる。確かに無理をして心身の調子を崩してしまえば元も子もないし、無理をせずにコンスタントに継続することが何より大事である。しかし、ここぞという時には無理をして力を最大限に発揮することも大事である。コンスタントに継続する中でも波がある。無理をしなければならない時と、力を抜いて休止すべき時、それらの緩急を上手くつけてこそ物事というものは前に進むものである。

とは言え、無理をし続けることは避けなければならない。無理をし続けることはパフォーマンスの効率を落とし、結果的にはマイナスになる。もちろん休んでばかりでもいけない。力の緩急を上手く付けるためにはそれなりのスキルが必要であるが、生きていく上では絶対に必要なスキルである。そのようなスキルは経験と思考によって獲得するしかない。思考無き努力は何の前進ももたらさない。

僕自身も試行錯誤によって考察する毎日である。無理をし続けることは良くないが、一時的にでも無理が出来るというのはある意味健康な証拠である。無理をしなければならない時に無理が出来ないのは非常に苦しいものである。少しずつコンディションを高めて行って、少しでも無理を継続できる頑丈な身体と精神を構築することが、今の僕の大きな目標である。

好不調の波をどう抑えるか。

僕はかなり好不調の波が激しい。しかし事を成し遂げようと思うと、ただ単に努力するだけではなく自分の調子も高いレベルで維持しなければならない。そのためには、自分の体と心を十分に知り尽くしていなければならない。

調子を整える努力はいろいろとしている。その中でも、お酒とコーヒーを出来るだけ控えることには細心の注意を払っている。お酒が調子を左右することは分かりやすいが、僕の場合コーヒーもかなり調子を左右することに最近気づいた。しかし僕は大のコーヒー党なのでそう簡単にはやめられない。なので、一日一杯だけと決めて何とか抑えている。

やはり歳を重ねると、自分の心身をコントロールすることが難しくなってくる。なので、どれだけ自分をコントロールできるかがこれからの人生の鍵となる。もし自分をコントロールできないのならば、それには三つの理由が考えられる。一つ目はそもそも自分の心身が故障がちであるということ、二つ目は力が溢れすぎて暴れ馬のようにコントロールが難しいということ、三つ目は操縦者つまり自分の意志に問題があるということ。僕の場合は全部当てはまるような気がする。何とも難しい人間である。しかし現在は自分をコントロールしきれる自信はある。何とかコントロールして現在の難しい局面を乗り切って行こう。

小さな損を取って、大きな益を取る。

目の前の事しか見ていないと、物事の大局観が付かない。では大局観を付けるにはどうすればいいか?それは回り道をすることである。そして多くの失敗を繰り返すこと。どうしても失敗をしないで最短距離を取りたくなるものかもしれないが、失敗をしない最短距離というものは多くの場合既定路線であると言える。一度既定路線から脱線して冒険や挑戦を繰り返すことによって広い視野、すなわち大局観が身に付く。

では、大局観を身に付ける一番の目的は何か?それは「小さな損を取って、大きな益を取る」ことである。小さな益というものは、近視眼的に見えるものである。すなわち、大局観がなければ大きな益が見えない。そしてしばしば、大きな益を取るためにはそれまでに小さな損を取り続けることが要求される。小さな損を取るとは、ある意味投資であるとも言える。もちろん時には大きな投資をしなければならない時もあるが、自分の人間としての発展を目指すのならば自己投資は避けて通れない。

僕が一番重要視している自己投資は、書物に対するものである。はっきり言って現在余裕がある訳ではないが、書物や論文に対しては湯水のように投資している。そしてそれらの書物を効果的に使っているかと言えばそうではない。しかし書物がマイナスになることはない。小さくてもプラスか、最悪でもゼロである。もちろん、その前提には日々の書物との格闘がある。結果を出すべく、日々数式との格闘である。

最近、努力がネガティブに捉えられているように思えてならない。努力をしても成功する保証はないのに、なぜするんだ!というものから、努力というものをブラックに捉えられることさえある。確かに現在の社会においては、努力を無理に強要すべきではないかもしれない。努力をするもしないも個々の自由である。しかし大きな成功者の99%は努力している。学問に関しては100%だ。自発的な努力と強要を混同してはいけない。強要されてするのは努力とは言えない。僕自身も努力を他人に強要しようとは全く思わないが、自分が努力する自由は確保しなければならい。

記憶ではなく、思考を!

学問と言っても記憶力がものを言う学問から思考力がものを言う学問までいろいろあるが、数学や物理は、記憶力の学問ではなく完全に思考の学問である。とは言え、もちろん記憶力があるに越したことはない。しかし記憶力がなくても最高の結果を残すことは可能だ。記憶力が重要になる学問もある事はあるが、それでも思考力がいらない学問はおそらくない。学問とは思考してナンボの世界である。

日常生活においては、あるいは仕事の世界においても、記憶力だけで乗り切れる分野はあると思う。確かに記憶力が日本の誰よりも優れているというレベルであったら、それだけで飯が食って行けるし、ある分野ではトップに行けるかもしれない。しかしそのような日本トップレベルの記憶力の持ち主でない限り、必ず思考力は求められる。しかし、記憶力というものはすぐに分かるような明確な指標があるが、思考力というものは非常に多様なものであるので一目でその能力を感じ取ることは難しいかもしれない。もちろん見る人が見れば、思考力があるかどうかは一発でわかる。しかしそれでも見落とされている思考力がある可能性は否定できない。例えば文章力がなくても数理的思考力は優れているかもしれない。そしてそのような多様性がまた面白い所である。

世の中では、賢い生き方をすることが良いという風潮がある。しかし僕はこのような風潮は非常に危険だと思っている。なぜなら、思考して生きる事と、賢い生き方をするという事は全く別問題だからである。賢い生き方とは、型にはまった生き方である可能性がある。あるいは皆と同じことをしてはみ出したりしないか、ということである。そしてそこには思考が存在しない可能性がある。もちろん、思考して賢い生き方をすれば良いのかもしれないが、僕は思考するバカになりたいと思っている。思考するバカは面白いと信じているからだ。

とは言え、現在、そして死ぬまで数学や物理の研究に取り組むことはやめないだろう。なぜなら、そこには思考する面白さが凝縮されているからだ。数学や物理の研究は究極的な思考である。物事に取り組むならば、究極を目指すべきだと思う。しかし現実は、多くの人が普通の中の普通、つまり現状維持に苦心している。それらの違いは価値観の違いによるものなのかもしれないが、どうせ生きるのなら最高の結果を残したいと思うのは僕だけだろうか?

強い!

僕は強い人間になることの重要性を非常に感じている。では、強いとはどういう事か?もちろん、腕の力が強いとかいう問題ではない。人間的、精神的な強さだ。もちろん、体力的に強ければそれはそれでいい。体力的に弱いよりも強い方が良いに決まっている。体力的な強さはトレーニング機器でも使って厳密に測定できるが、精神的強さはそんなに簡単に測定できるものではない。さらに精神的強さは、非常に多様的な側面がある。ある一つの事に強さを発揮しても、他の事に関しては弱いかもしれない。しかしそのような精神的多様性にこそ、人間の面白さが詰まっていると言える。

僕自身はお世辞にも強い人間だとは言えない。しかしある特定のことに関しては、誰よりも強いという自負はある。自分が成し遂げようとすることに対しての信念や意志の強さ、そのような事に関しては誰にも負けない。しかしこの世の中、結果を出してナンボの世界である。思うだけなら誰にでもできる。重要なのは、決心して、そしてそれを行動に移して、そして結果を出すことである。口で説明するより、結果を出して示した方が明らかだ。結果を出せば説得力も違う。ある意味、結果を出す人間が強いと言えるのかもしれない。

現在の僕の強さは、まだ主観的なものだ。それを客観的強さに変えなければならない。今、非常に面白い問題に取り組んでいる。そしてその問題を解決する糸口は自分なりには見えている。しかし、そこまでたどり着く環境は決してやさしいものではない。色々な所に抵抗勢力がある。抵抗勢力がなければとも思うが、何に取り組むに当たっても抵抗勢力というものはあるのかもしれない。皆、抵抗勢力にぶつかって戦っている。しかし、このような無駄な抵抗勢力はどうかならないものかとも思う。しかし、それを含めて社会というものかもしれない。

物事を成し遂げるためには、頭脳、体力、そして精神力が必要だ。そのどれが欠けても最高地点には到達できない。それは学問に対しても同じだ。ただ単に考えているだけでは思うような結果は出せない。なぜなら、研究者自身も人間の一人であり、社会に生きている人間の一人であるからである。しかし、世の中というものは非常に疲れるものである。精神的にもかなりきつい。しかし、そのような事を嘆いてばかりでは何も進まない。今、自分が置かれている現状の中でいかに乗り切るか。乗り切った先にあるのは何かまだわからないけど、すごく面白い世界、そして人生が待ち受けているように思えてならない。

人間を見たい!

近年、AIが発達しており、人間に変わってAIが活動することも一部の分野で見られている。特に将棋AIが話題になっているが、AIが強いかどうかということと、それに魅力を感じるかということは全く別問題である。今若くしてトップ棋士にまで上り詰めた藤井聡太七段は確かに強いが、将棋AIと藤井七段のどちらが強いかと言えば、どうやら将棋AIの方が強いみたいだ。しかし魅力という点では、おそらくほとんどの人が藤井七段の方に感じるだろう。将棋に関しても、「人間」がプレーするということに魅力を感じるのである。

しかし逆に言えば、人間がすることに魅力を感じない分野においては、おそらく全てコンピューターや機械に取って代われると言うことが出来る。すなわち、これからの時代を生き抜くには二つの方法がある。一つはコンピューターよりも高いパフォーマンスを発揮すること。もう一つはコンピューターにない人間的魅力を発揮することだ。この二つのどちらかを実行することが出来れば、これからの時代を生き抜けることが出来るだろう。

今、コンピューター全盛期の時代にあって、人間の価値というものが再認識されているのではないだろうか。AIなどのコンピューターの性能が飛躍的に上がった現在にあって、人間はどうあるべきか?何をすべきか?さらにはどう生きるべきか?と言う事を深く考えることが求められている。逆に言えば、何も考えずにその場しのぎの軽い生き方をしていれば、次世代を乗り切れないと言える。

これらのことから、AIが発達して便利になると言われている次代は、人間にとって普通に生きる事さえ厳しい時代になると言える。しかし深く考えて生きれば、必ず乗り越えられる。これからの時代、それぞれの人間がどう生きているかという事が深く問われることになるだろう。

区切りを上手く利用する。

平成大晦日から令和初日にかけて、風邪を引いて少し寝込んでしまった。この平成と令和の区切りを利用して気持ちを整理しようと思っていたが、不発に終わることになった。

一年の中には区切りとなる日が何日かある。とは言っても、区切りの日だからと言って特別何か大きな変化がある訳ではない。しかしそのような区切りの日を逆手にとって、自分の気持ちを入れ替えるのは大きな手だ。そのような日を利用して気分転換が出来るのなら、それは非常に大きなスキルになる。この平成と令和の区切りの日をただ単に騒ぐだけではなく、令和において何を成し遂げるかという事を心に決めることが出来れば非常に前向きに生きて行くことが出来る。

僕自身も、この令和元年の間に成し遂げようと思っていることがある。非常に大きなことなので決して簡単ではないが、自分の努力次第で何とか成し遂げられると手ごたえをつかんでいるのでコツコツと積み上げて行こうと思う。

この様な自分の節目の年になりそうなときに、ちょうど令和に変わったのも何かの縁だ。僕のために令和に変わった訳では全くないが、そこは自分の都合良くとらえて、令和に変わったのは僕自身に変化をもたらすためだと勝手に思いたい。

自分の気持ちや思考をコントロールすることは非常に大事である。しかし人間の思考というものは大概世間の常識にとらわれている。もちろん世間の常識というものは無意味なものではないが、そこに自分の自由な思考を取り入れないと自分の人間性を反映したオリジナルなものは出来ない。そのようなオリジナルな表現を目指して、時代の区切りを上手く利用したいものである。

令和の始まりへ。

2019年5月1日、令和が幕を開けた。新たな象徴天皇のもとでのスタートだが、自分自身、そして国も社会も、さらには世界が良くなっていくことを願ってやまない。

僕の生き方は、令和になっても大きく変わらないだろう。しかし社会は確実に変わる。そこで、自分が時代に合わせて変えるべき事と変えるべきでないことをはっきりとさせなければならない。

人間というものは、一番大切なものを持ち続けていれば何とか生きることが出来る。もちろん現実はそれ一つだけで生きることはできないが、逆にたくさんのものを持っていても、一番大事なものが何かという事を認識できなければ苦しくなる。

では、令和の日本にとって一番大切なものは何か?もちろんそのような質問に対して簡単に答えが出るものではない。そのような答えが分かっていれば何も苦労しないだろう。さらに、政治的な事か?経済的な事か?あるいはエンターテイメント的な事か?ということによって答えは変わってくる。

近年は何かとITに関することが注目を浴びている。それは科学技術的にも、経済的にも、さらにはエンターテイメント的にも。しかしそのような視点はあくまで現時点での視点だ。三十年後はどうなっているのかわからないので、現時点だけでの視点で物事を考えるのは長期的視点で見れば危険だ。短期的視点、中期的視点、長期的視点での三本立てで考えなければならない

人間個人にとってもそれは同じだ。三本立てで考えないと人生を通じて最高のパフォーマンスは発揮できない。しかし一発屋になるのも、それはそれで一つの手であり一つの生き方だ。いや、むしろ一発でも大きいものを当てればそれは人生において大きな成果だと言える。

ただ、平成が終わって令和の時代になったからには令和の人間にならなければならない。平成の人間のまま過去の自分にとらわれてはならない。しかしいわゆる昭和の古い人間にとって、令和の人間になることはそう簡単ではない。特に過去の栄光がある人間にとってはなおさらだ。しかし過去の栄光にとらわれない人間にとっては大きなチャンスである。栄光は過去に見るのではなく、未来に見なければならない。

令和の人間として生きるために。

2019年4月30日、平成最後の日だ。明日から始まる令和という時代にどう生きるか?そのような事を考える一つの区切りになる。もちろん、令和になったからと言って自分自身や世の中が突然変わるわけではない。しかし、平成という時代に思うように生きることが出来なかった自分にとっては、明日から始まる令和という時代の中に自分の存在する場所見つけ、しっかりとした足取りで一歩一歩進んで行かなければならないと思っている。

平成と令和という時代の変わり目は、ちょうど僕の人生の変わり目に一致していると思っている。偶然か?と言えば完全に偶然である。しかし偶然と言えども、ちょうどその変わり目が一致したことは事実だ。いや、そのような事実にしなければならない。時代が変わるのと同じように、僕の人生も変えなければならない。そしてそのように変える自信がある。

平成から令和に変わるというこの区切りを、全ての日本人は前向きに捉えるべきだと思う。平成を思うように生きれなかった人は、令和こそは自分のものにするぞ!そして平成が自分にとって輝かしい時代であった人は、令和にはもっと輝くぞ!と。幸運な事に、今回の改元は祝福ムードの中で行われる。皆明るい気持ちで新しい時代を迎えることが出来るのだ。令和の時代は、平成の時代より明るい時代にならなければならない。世の中も、自分自身も。

僕は心に決めていることがある。それは、僕は昭和に生きる人でも平成に生きる人でもなく、令和に生きる人になるという事だ。自分の生命が終わる時、胸を張って令和を全力で生きたと言いたい。令和は絶対に良い時代になる。僕はそう信じている。そしてそのような令和という良い時代の人間になるためには、まずは積極的に人生を前に進める必要がある。時間は自動的に勝手に進む。しかし自分の人生というものは、自分で能動的に進めないと全く進まない。まずは平成から令和へと人生を前に進めなければならない。