思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

前に進むなら、100%の安全はありえない。

現代社会は、安全社会・保障社会であると言える。何事に対しても100%の安全を求め、もし上手くいかない場合は保障を強く求められる。確かに交通安全だとか治安に関しては限りない安全を求めるのは当然であろう。

現在、自動車の世界では自動運転の開発が活発に進められている。そこで一番問題になるのは、自動運転の試験運転時の安全だ。まだ開発段階であるので、試験運転時に事故が起こることは容易に想定される。もし事故が全く起きなければ、すでに実用化されているはずだ。試験運転時の事故は想定内であると言える。

そして自動運転の実用化に成功した後でも、もちろん事故は起こりえるだろう。問題はどの程度の事故率を容認するかだ。簡単な目安として、現在の(自動運転ではない)交通事故の事故率よりも自動運転の事故率が下回れば大成功であろう。しかしそんなに簡単にいかないことは容易に想像できる。

いずれは自動運転の事故率はかなり低下するであろう。しかしそれまでの過程を耐えられるかどうかだ。試験運転での一回の事故によって開発が停滞するようでは、長期的に見れば安全面においても市民の損失になる。しかし日本の社会的国民性を考えれば、そのようなことが起こりえるような気がするところが恐ろしい。

自動運転に限らず、何かに挑戦して前に進もうとするときには、100%の安全などありえない。挑戦者がどこまでの危険性に耐えられるか。そして周りの社会がそれをどこまで容認できるか。それには日本社会が特に欠けている大雑把さと寛容さが求められるところである。

しかし社会的風土というものはそんなに簡単に変えられない。やはり挑戦者は忍耐強く我慢するしかないというところであろうか。とにかく前を見て突き進んで行くしかない。

数字だけを見て判断するのは危険だ!

IT社会になりビッグデータが幅を利かす時代になったこともあり、数字だけで判断をする傾向は顕著になっている。ITを駆使すると、ビッグデータをもとに統計を取ることは非常に容易になり、また世界のどこにいても簡単にデータを取得・管理することが可能になった。

しかしそんな時代だからこそ、実物・現実を自分の目で見て判断することは重要であるのではないかと感じる。

数字・データだけで判断するのは容易であり、ある意味正確と言えるのかもしれない。数値で量的判断をするのは、今の時代コンピューターが自動的にしてくれる。そこで生身の人間に求められているのは質的判断だ。

数字はあくまでも統計などの結果であって、実態は現実社会で起きている。そしてそれを見て、感じて、人間は生きている。数字だけで動くのなら、現実社会はいらない。

数字だけですべてを判断することは非常に危険だ。数字によってむしろ実態が覆い隠されることもある。データ社会である今だからこそ、生身の現実に目を向けるべきではないかと感じる。

人間の命が有限であることに救われる。

北朝鮮の金王朝(金日成・金正日・金正恩)は、不老不死を望み、北朝鮮では不老不死の研究がされていると聞いたことがある。しかし不老不死とはいかず、金日成・金正日はこの世を去り、金正恩は暴君として振る舞っている。

ところで、不老不死は本当に理想なのだろうか?希望なのだろうか?僕はそうは全く思わない。人間は命が有限であることに救われていると感じている。

手塚治虫の著書に「火の鳥」という漫画がある。火の鳥の血を飲めば永遠の命が得られるとされ、人々は火の鳥を求め続ける。その中で永遠の命を得た人間が出てくる。そこで描かれているのは、永遠の命を得た人間の気の遠くなるような地獄である。正確に言うと「永遠に生きられる」ではなく「死ぬことができない」と言った方が正しい。死ぬことができないとははっきり言って地獄である。

人間は死ぬことによってリセットできる。もちろんリセットと言っても、死んだ後はもう何もないのだが。良かったこと、うれしかったこと、苦しかったことも死ぬことによって全てが無になるのである。このことを悔しがる人も多いとは思うが、僕はこれは人間の救いだと思っている。

こんなことを言っても、宗教とかそんなことに関連付けようとは毛頭思っていない。ただ、死ぬことをネガティブなことではなくてポジティブにとらえることも大事ではないかと思っているのである。

もちろん、不幸な死を遂げる人もいることは事実だ。そのような死まで救いだとは言うつもりはない。ただ、永遠の命などというものは追求すべきことではない、命は有限であるからこそ価値があるのだと言いたいのである。

有限の命だからこそ、命を大切にしたい。

根拠になっていない根拠。

何かを、あるいは誰かを否定するときに用いられる根拠の中には、根拠になっていないものが意外と多い。例えば「前例がない」とか「年齢的に無理」というものだ。確かに場合によってはこれらはしっかりとした根拠になっている。スポーツならば医学的・生物学的に考えて年齢は大きな要素になりえるし、前例が大きな根拠になることもある。

「根拠にならない根拠」を覆すことは、非常にエキサイティングである。スポーツならば、イチローがそれを覆そうとしている。科学・学問の分野でもそのような根拠を根底から覆そうと日々励んでいる研究者がいる。

根拠にならない根拠が根拠になっていないことは、見る人が見ればすぐに見抜くことができるが、意外と世間や社会ではそのような根拠にならない根拠が幅を利かしていることに、落胆してしまうものである。

覚悟を決めて、迷いなし。

悩んでいる時というのは、大概覚悟が決められていない時である。そのような時、強い覚悟を決めるとつまらない悩みなどは吹っ飛んでしまう。そして人間関係で悩んでいる時は「来るものを拒まず、去る者を追わず」という気持ちを固めれば、これまた悩みが消える。こう言うと非常に簡単なことだが、これがなかなか決められないものである。

未練があったり、欲が出たり。中途半端が一番ダメである。「百かゼロか。」そのような強い決断力が何事にも必要である。

命に関する覚悟、人間に対する覚悟、あるいは今取り組んでいることに対する覚悟。何事にも強い覚悟を持って生きていきたい。人付き合いに対しても、相手が男であろうが女であろうが全力投球!

人生は有限である。そんな有限の人生を悔いのないように生きていくために、強い覚悟を持って生きていきたい。

“人生設計”から外れるほど面白い。

子供の頃、若い頃、あるいは現在も、将来を想像して人生設計を立てる人は多いかもしれない。しかし現実は、一部の人を省いてほとんどの人は人生設計通りにいかないと嘆いている。

しかし、人生設計通りにいかないことを悲観する必要は何もない。人生設計通りにいかない時は、目標を修正あるいは変更すればいい。そして人生設計通りにいかないからこそ、予想外の出会いがあり、予想外の人生展開が繰り広げられる。

もし何もかもが人生設計通りにいく人生があったらどうだろう。そんな人生に魅力を感じるだろうか?設計通りに進む人生などは、機械とまるで変わらない。設計通りに行くのは機械だけでいい。

人生設計から外れて予想外のハプニングが起きることが人生の醍醐味でもあり、エキサイティングさを演出させる。確かに人生設計から外れることは、多くの場合苦境に立たされることになる。しかし、苦境に立たされた人間はかなり強い。苦境に立たされるからこそ打開策を模索し、思い切った行動に出る。それによって大きな飛躍がもたらさられる。

僕自身、人生設計通りにいったことなどほとんどないと言っていい。それが故に非常に苦しい立場に立たされてきたことは事実だ。しかしそのような展開になったことを悔やんだりしたことはほとんどない。むしろそれがきっかけで新しい展望が広げられたことに夢が広がり、刺激を感じる。

複数の目標を持ち、畳み掛ける。

目標は一つではなく、複数持つことが望ましい。目標が一つだけだと、不測の事態が起こり立ち消えになった時に行き場を失うので、そのような時にすぐに次の目標に取り掛かれるように複数の目標を持つことが重要だ。

目標を定める時、どのような基準で目標を見つけるか?その重要な基準として、自分の思考・行動・努力によって、ある程度自分で制御できるものを選ぶことが必要だ。自分で全く制御できないことだと、それは単なる運任せでしかない。もちろん何かに取り組むにあたって運は重要な要素だが、初めから運を当てにするのは愚かな判断である。

何かの目標に向かい、それがだめなら次の目標へ、あるいは今の目標を達成したから次の目標へと畳み掛けていくことを心がけたいものである。

対応原理。

対応原理と言えば、物理では量子論と古典論の対応が思い浮かぶが、この対応原理はビジネスから私生活まであらゆることに言えるのではないかと感じる。なぜあらゆることに対応原理が適応できるのか?それはそれぞれの物事の構造に類似があるからだと思われる。

この構造の類似による対応から、ある一つの分野を極めた人間がその他の多くの分野でも技術を発揮するということが起こる。例えば一つのビジネス分野を極めた人間は、その他の分野でも才覚を表す。

いま取り組んでいることが自分のやりたいことと関係なくても、できるだけ現在取り組んでいることに注意深く取り組むことは重要である。何の関係もないと思っていても、それが本当にやりたいことに応用できることがよくある。他の物事を、本当にやりたいことに結び付けることは、非常に重要である。

物事に取り組むとき、この対応原理を認識することは、あらゆることへの柔軟性と機能性を発揮することにつながる。

三分野の異分野融合。

最近は何かと学際分野が注目を浴びている。一つの分野で突き詰めていくのも手ではあるが、やはり一分野だけで勝負するのは非常に熾烈な争いであり、その他の策として二つの分野の学際分野において分野を融合するのは突破口として非常に有用な手である。

しかし学際分野という言葉が市民権を得た今、二分野融合も一般的になりつつある。そんな時、さらに視点を広げ“三分野融合”という超学際分野で勝負するのは、これからの解決策として大きな力になるのではないだろうか。

三分野まで広げれば、ライバルもかなり少なくなる。そして異分野を融合することによって新たな分野創始に繋がる。数学だと、代数幾何・幾何解析・代数解析など二つの分野を名乗る分野が市民権を得ているが、これからは代数・幾何・解析の三分野にまたがる研究も活発になるかもしれない。数理生物学という分野もあるが、生物学の数理的な考究に物理学的視点を持ち込むという手法もあるのかもしれない。

まだ現在は三分野まで広げてみようという機運ではないが、21世紀後半くらいになれば、三分野融合はあらゆる分野で打開の解決策として大きな市民権を得ているかもしれない。

リスクを取ることが、飛躍への第一歩だ!

ビジネスで大きな成功を収めるためには、リスクを取ることが必要だ。しかしリスクを取る重要性は、ビジネスの世界だけのものではない。学問でも恋愛でもリスクを取ることは非常に重要である。

しかし、何もしないでリスクだけを取るのは無謀である。リスクは努力することによって最小化しなければいけない。例えば、受験ならばレベルの高いところを狙えばリスクは高まるが、努力することによってリスクを最小化できる。恋愛ならば頑張って仕事をすることによってスタイリッシュな洋服を買うことができるし、あるいは努力して内面を魅力的にできるかもしれない。

リスクを取らずに無難に生きるか、リスクを取って飛躍を遂げるのか、それは人間としての思想に大きく関わってくるが、リスクを取らない人間にリスクを取って挑戦する人間を責める資格はない。