思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

明日の事を考えずに、今日の事と明後日の事を考える。

僕は物事や人生の事を考える時、短期的展望と長期的展望を重視している。その一方、中期的展望はそんなに重視していない。もちろん、短期的展望、中期的展望、長期的展望の全てを考えることが大事なのかもしれないが、優先順位から言うと、長期的展望を最重視し、中期的展望を後回しにしている。これが本当に正しいかどうかは分からないが、現在の僕の思考はこのようになっている。

なぜ中期的展望を考えないか?それは、初めから中期的展望を考えるのではなく、長期的展望を前倒しにして中期的展望へと持っていくことが理想だと考えているからだ。しかし実際は、短期的展望でさえ時間がかかり、長期的展望になることも多々ある。なかなか計画通りには行かないものである。

しかし、短期とか長期とかの区別はどうでもいい。重要なのは何事も展望、つまりビジョンを持つことが大事なのだ。しかし現実は、目の前の事しか見えず、展望を全く持てない人が多い。iPS細胞の山中伸弥教授は「VW」、つまり「ビジョン&ワークハード」が大事だとよく言われている。どうやら日本人は、ワークハードは得意でもビジョンを持つことが得意でないみたいだ。何事も一方だけから見るのではなく、多角的に物事や人生を考えることが大事なのである。

僕自身、ワークハードが決定的に欠けていると自覚している。ワークハードをしようと思えば、心身のコンディションを高いレベルで維持することが大事である。最近、僕のコンディションも高いレベルで維持できつつあると感じている。そのようなコンディションをフルに生かすべく日々試行錯誤している。それが実行できれば、後は結果を出すのみである。一日でも早く結果を出すべくワークハードをこなしたいと考えている。

人生、楽しんだもん勝ちだ!

同じ生きるなら、苦しむより楽しんだ方がはるかに良い。しかし常に楽しんで暮らせるわけではない。時には死ぬほど苦しい時もあるし、我慢しなければならない時もある。しかしそうでない時は出来るだけ楽しんで暮らした方が良い。

楽しめないのには二つの理由がある。一つは、今取り組まなければならないことが苦である事、もう一つは精神的に楽しめない状況になっていることだ。今取り組んでいることが苦しい場合は、それを乗り越えることが出来れば楽しいことが待っていることが多い。将来の成功のための修行といった場合だ。実はこのような苦しみにはもう一つの気持ちが伴う。それは「やりがい」だ。やりがいがあれば苦しい事も乗り越えられることが多い。従って、何をするかとなった場合、やりがいを感じられることに取り組むことが重要だ。やりがいもなく、ただ単に苦しいだけならストレスがたまり自滅してしまう。やりがいを感じられれば、体力的・精神的に苦しくても、それと同時に楽しむ事も出来る。

精神的に楽しめない状況になっている場合は、自分を変える必要がある。自分が何にストレスを感じ、何をすれば実力を発揮できるか?そのように自分を見極め試行錯誤することが必要だ。とにかく自分を徹底的に調べ尽くさなければならない。しかしこれはすぐに成果が上がるものではない。長ければ数年以上かかることもある。僕も数年、いやそれ以上に徹底的に自分に対して試行錯誤をしてきた。そのようなことが出来たのは、自分に大きく絶対的な目標があったからだ。この目標がなければ大きな壁を乗り越えることが出来なかっただろう。僕自身、ストレス耐性は低いとは言え、精神的にはかなり強くなったと思う。

人生とは楽しんだもん勝ちだ。しかし、「楽しむ」という事と「楽をする」という事は全然違う。楽しむためには大きな苦しみを伴うことが少なくない。しかしそのような楽しむための苦しみは「やりがい」と感じられる。時にはやりたくないことをやらざるを得ないことも多々あるだろう。例えば、何かやりたいことがあるが、それをやるにはお金がいる。そのお金を稼ぐために全くやりがいのない事をやらざるを得ないことがある。しかしそこで稼いだお金は自分のやりたいことにつながるではないか!それならば、やりたくないことでお金を稼ぐことも全く無駄ではない。そしてその先に、やりたいことでお金を稼ぐ道があれば最高ではないか!

この様に、人生における全てのものは時系列的につながっている。無駄だと思ったことが後になって無駄ではなかったことに気付く。苦しんで壁を乗り越えたことは必ず財産になる。人生を究極的に楽しむためにも、無駄なように見えて決して無駄ではないことをこなし、本当成し遂げたいことを成し遂げようではないか!

一つの失敗で、その人を全否定する日本。

「日本」と書いたが、多かれ少なかれどこの国でもそのようなところあると思う。しかし日本ではそのような傾向が強いように感じる。アメリカでは四度の破産を繰り返した者が大統領にまで上り詰めている。日本ではとても考えられない事だ。何度失敗しても立ち上がり上を目指す。そのような者に非常に寛容なのがアメリカという国なのかもしれない。それに対して日本は、可もなく不可もなく、失敗はしていないが特に大きな結果も残していない、そのような者が生き残る社会になっている。その結果、誰もが挑戦を避けるように生きている。挑戦するというリスクを避け、何もしないという無リスクを選ぶ。そして権利だけを主張する。何ともおかしな話である。

そのような日本社会の中で、逆境に立ち向かっている者の象徴がホリエモンだと思う。ホリエモンは失敗を恐れずに、考えたらすぐに行動を起こす人だ。確かに失敗も犯すかもしれない。過去には逮捕までされ刑務所にも入れられていた。しかし出獄して再出発したホリエモンは、再び成功を掴んでいる。そのようなホリエモンに対し、僻みの眼で見る人は少なくない。しかし、挑戦もせず、リスクも取らず、可もなく不可もなくという人間がホリエモンの成功に対してとやかく言う権利はない。ホリエモンこそ自らの力で成功を手にした人物なのである。それに対して、可もなく不可もなくという人ほど組織や肩書だけで物事を通そうとする。すなわち自力というものが全くないと言える。まさしく他力本願である。

成功を成し遂げるためには、幾たびの失敗を繰り返すことは必須である。しかし日本の社会はその失敗というものを容認しようとしない。そのような国に大きな成功が成し遂げられるはずはない。それでも日本の世の中には成功はいくつかある。しかしそれは、ホリエモンのように、強い向かい風を正面から受け止め、逆境から立ち上がった少数の人間によるものである。

集団の力や組織の力は確かに無視できない。日本では「力を合わせて」という言葉がよく使われる。しかし実際は、挑戦する個人の力が圧倒的なのである。失敗すれば個人のせい、成功すれば皆の力によるもの。そのように解釈される日本社会は挑戦者には全く割に合わないものであるし、生きにくくもある。しかしそのような事を、出来ない理由にしてもしょうがない。日本であってもアメリカであっても、後退するという選択肢はなく、前に進むしかないのだから。

この後十年に懸けている。

現在の日本の平均寿命は約80年。人生100年時代とも言われている。人間の平均寿命が伸びる事は良いことかもしれない。しかし人生が長くなるにつれて、1年1年の濃さが薄くなっているのならそれはそれで考え物だ。濃い人生を持続することは簡単な事ではない。それを1年10年と続けることは、半端な気持ちでは成し遂げる事は出来ない。80年の人生は非常に長いが、油断をすれば数年数十年などあっという間に過ぎ去ってしまう。

近年、若者の間でキャリア形成という考えが流行っている。人生80年の中でどうキャリアを築いて行くか?そのような事は悪い事ではないと思う。しかし人間である以上、自分がいつ死ぬかもわからない。それは50年後かもしれないし、明日かもしれない。そう考えると、数十年単位で人生を考えると同時に、今日全力で生きることも忘れてはいけない。

僕自身、長生きしようとは考えていない。もちろん長生きできればそれはそれでいいのだが、まずは今生きることに全精力をつぎ込もうと思っている。特にこの後十年に僕の全てを懸けようと思っている。現在僕が取り組んでいる問題は、一日二日で成し遂げられるものではない。しかし十年あればその根幹となる部分は達成できると思っている。まずは確実に十年生きて、確実にその根幹部分を構築して行こうと思っている。もちろん、それは簡単な事ではない。なのでその他の事を我慢しなければならないこともあろうし、時間の使い方も考えなければならない。もし我慢できないことがあれば、今取り組んでいる問題の解決に成功してからで良いと思っている。成功すれば色々な意味ではじけることが出来るであろう。

十年というスパンはちょうどいい。長すぎず、短すぎず。一つの問題に取り組むには良い時間的指標になる。この十年に懸けているという事は、この十年で成し遂げられなければ自分の人生はないという事だ。人間、一つぐらいそれくらいの覚悟を持って取り組むことがあってもよい。そのような覚悟が自分の人生の密度を濃くしてくれる。これからの人生は非常に面白くなりそうだ!

自分改革。

人間というものは、その気になれば変われるものなのかもしれない。ただし、周りが変えようとしても自分が変わろうと思わなければ何も変わらない。もちろん、長年続けてきた自分というものは簡単に変えられないが、強い信念に基づいて実行すれば何とか変われるものである。

僕は今、自分改革をしようとしている。なぜそのような事をしようと思ったかというと、今までの自分のままでは限界があると感じたからだ。もちろん、簡単に変えられるとは思っていない。まずは自分で自分を変えようという強い意志が必要だし、そしてただ単に思うだけではなく行動しなければならない。しかしこの行動というものが非常に難しい。これまで意識的にも無意識的にも避けていたことに取り組まないと前には進まない。しかし最近、ようやくこのような事を実行できるようになった。実行するまでは非常に大きな障壁があるように感じていたが、その壁を乗り越えると後は何とか進めそうだ。

しかし油断すると、すぐに元に戻ってしまう。意識的に取り組み続けることが重要だ。そもそも「改革」というものは非常に大きなものである。「変更」は出来ても「改革」まではなかなか成し遂げられない。自分を変えるだけなのに、それが非常に難しい。しかしこれからの事を考えると、改革する価値は非常に大きい。自分が何を成し遂げようとしているのか?そしてそれを成し遂げるためにはどうすれば良いのか?そう考えた時、自分を改革することは必要不可欠だと考えるようになった。

改革とは非常に大きなものに思えるが、胆は根幹となる一つの事を変えることだ。その根幹部分を変えることが出来れば、後は芋づる式に解決して行く。そして全てが良い方向へと進む。今、僕が取り組んでいる問題を解決するために、まずは自分を変えて効果的に取り組んで行く必要があると強く思っている。それが今の僕の自分改革の原動力だ。

人に迷惑をかけていいという発想。

日本人は、いや、日本人だけではないかもしれないが、人に迷惑をかけてはいけないという意識が強いように感じる。もちろん、迷惑をかけないに越したことはない。そして出来るだけ人に迷惑をかけないで生きるぞと思うことは非常にいいことだ。しかし、そのような「人に迷惑をかけてはいけない」という意識を他人に過度に押し付けるのは問題であるように思う。迷惑をかけてはいけないという意識の押し付けが、その人を追い詰めることがあるからだ。結論から言うと、ある程度の迷惑はかけても良いと思う。それぐらいの社会的ゆとりは許さなければならない。

なぜある程度の迷惑はかけてもよいのか?それは多少迷惑をかけても良いという意識が、それ以上のメリットをもたらすからだ。特に創造的な活動を行っている人は、どうしてもある程度の迷惑をかけることは避けられない。そこで絶対に迷惑をかけてはならないと制約を付けてしまうと、何の結果も出せなくなってしまう。小さな正義にこだわる人は、大きな正義が見えないのだ。結局、人に迷惑をかけてはならないと押し付けることが、周り巡って自分にダメージとして帰ってくる。物事とは大局的に捉えることが重要なのである。

自分本位の考えではなく、もっと幅広く思考してみることが大事だ。そうしてみると、ある程度の迷惑はかけてもよいのではと思えてくる。自分も少しくらい迷惑をかけられてもよい。人に絶対に迷惑をかけてはならないという思考は、自分には絶対に迷惑をかけるなという思考の裏返しなのである。従って、絶対に迷惑をかけてはならないという思考は、非常に自分本位な思考なのである。この様な考えをしていると、何でも自分のためと思考が進み、他人を助けることが出来なくなる。

最近、人が困っていても助けないという人が多くなったとよく聞く。そこで助けないとは、そのことに関わらないということである。関わらなければ、そこで責任は生じない。従って、自分がその人に迷惑をかけていないという事になる。果たしてそれで良いのか?このように考えると、多少の迷惑をかけても良いという意識が社会の中にある方が、世の中ははるかに良くなるのではないかと思えてくるのだが・・・。

スランプから脱出か?

僕はここ半年ほど、スランプに陥っていた。原因はストレスだ。苦しい事はそんなに気にはしないが、ストレスによってパフォーマンスが低下するのなら、それは絶対に避けたい。この半年ほど、スランプからどう脱出するか試行錯誤しもがき苦しんだが、今になってやっと脱出する見通しが立ってきた。

ストレスは百害あって一利なしだ。なのでストレスは何が何でも絶対に避けなければならない。僕自身、ストレス耐性は非常に弱い方だ。それはどうやら意志の強さとは関係ないようだ。自分がどのような場面でストレスを受けやすいか?そのような事を考えながら未来の行動を予測して実行することが重要かもしれない。

しかし、現代社会ではストレスを100%避けることは不可能だ。なので最低限のストレスで抑えることが重要だ。それと同時にストレス耐性を上げる事も重要かもしれないが、僕はどうすればストレス耐性を上げられるか、全くわからない。

とは言え、現在スランプから脱出できそう(できた?)なので、この調子を持続しつつ今取り組んでいることをしっかりと仕上げたい。僕が今取り組んでいることは非常に大きく難しい事ではあるが、スランプを脱出したことによって成功確率が60%から90%に上がったと思っている。後は細部を埋めるべく努力するだけだ!

倫理に敏感になりすぎた社会。

倫理というものは社会の規範に依存する。従って、絶対的な倫理観というものがあらかじめある訳ではなく、社会、すなわち人々の意識の持ちようによって倫理は変化して行く。もちろん、誰が考えても絶対的に正しい倫理、間違っている倫理というものはあるのかもしれない。しかし多くの倫理は大衆迎合的であり、多くの人の意見、多くの人の意識に迎合する方向へ変化して行く。

倫理は非常に大事だが、日々の生活の中であまりにも倫理に過敏になりすぎるのは非常に問題である。そのような過敏な倫理観そのものが、人々を社会で生きにくくするためだ。倫理にはある程度の曖昧さ、ゆとりを持たせなければならない。そのようなあいまいさを持たせられなければ、人々に対してどのように行動すべきだと絶対化し、皆無難で画一的な行動を即すことになる。

人間の生き方、そして人間性は非常に多様性のあるものだ。しかしそれを否定し画一化すると、それはもう人間と呼べない。行動の自由が限定化され、思想の自由が全くなくなってしまう。思想は人間の人間であるが故の源泉であり、思想が無くなれば人間的活動をすることが厳しくなる。この事はこれからのAI社会においては真剣に議論すべきことである。人間は決してAIではない。だからこそ、人間が人間であるためにはどうすれば良いかということをそれぞれが深く考えることが必要である。

今、スマホ一台で何でもできる世の中になって来ている。だからこそ、何も考えないで軽く生きていると、スマホに人生を操られることになる。スマホはあくまで自分の人生における便利ツールであり、人生そのものではない。しかし現実は人間がスマホに合わせて生きていると言う事が起きている。何もスマホの存在を否定するつもりはない。僕だってスマホをかなり活用している。しかし以前のブログで書いたように、YouTubeアプリをあえて削除するなどして自分の生活を自分でコントロールすることが必要だ。これからの社会は、自分をコントロールできる人間と自分をコントロールできない人間の二分にされるのではないだろうか?それによって社会の構造も恐らく大きく二分化されるであろう。どちらの世界に入るかは、それぞれの人間の意志にかかっている。

回復したようだ。

ここ三日ほどの不調から回復したようだ。なのでまた明日からは良い記事を書ければと強く思っている。(本当は「今日から」と言わなければならないところだが・・・。)

ところで話は変わるが、どこにお金をかけるかということは、その人の人間性やセンスが非常に表れる。そしてもちろん、どれだけお金を持っているかということによっても大きく変わる。近年は失われた二十年の影響か、いかに節約するか?いかにお金を貯めるか?ということに世間の話題の中心が行っているように感じる。もちろん、無駄な出費を控えてお金を貯めることは重要だ。しかしそれ以上に大事なのは、お金を出すべきところで思い切って出すという事だ。そもそも、お金を貯める目的も、出すべきところで出せるようにするという事である。なので、お金を貯めるスキルを身に付けると同時に、お金を出すセンスというものを身に付けなければならない。

僕自身も無駄な出費は極力控えようと思っているが、出すべきところでは惜しまず出すということを心がけている。その中でも、書籍にかけるお金は極力惜しみなく使っている。贅沢などはお金に余裕が出来てからでいい。その時を楽しみにしている。今は自分の未来に対する投資に集中している。

しかし、ただ単にお金を出して自分に投資すればいいという訳ではない。その投資を最大限活用しなければならない。例えば、書籍に投資をするのならば、投資をした後にその書籍を縦横無尽に生かさなければならない。「お金+努力」が最大の成果を発揮する肝である。

同じ条件でも、どう考え、どう捉えるかによって、その後の進路は大きく変わる。お金も同じで、どこに自己投資すべきか?という判断次第でその後の自分の未来が大きく変わる。お金をただ単に貯めるだけでは非常にもったいない。今使うべきところで使い、それで成果を挙げ未来に回収すればよいだけの話である。お金に対する考えは、本当に人間性が表れるものだ。

スマホから距離を置こう!

最近、スマホを最新型のiPhoneに変えた。最新型に変えたならそれを思う存分に使いこなしたいと思うところだが、僕はこれを機にスマホから距離を置こうと思っている。そのために毎月のギガ数を少なく抑えることにした。

ところで、最近のスマホは年々性能が飛躍してきている。そのような性能をフルに使おうと思うと、一日中スマホ漬けになってしまう。そのようなスマホ愛用者の言い分は次のようなものであろう。

・最新の動画を観ないともったいない。
→しかし動画を観る事に費やしている時間の方がもったいない。

・最新の機能を使わないともったいない。
→しかし機能を使わなくても何も減らない。

そのような事を思いながら、最近スマホ上からYouTubeアプリを削除した。やはり僕も軽いスマホ中毒にかかっていたようで、YouTubeアプリを削除してから動画視聴時間を削減することに成功した。本当に動画視聴時間は無駄である。特にロングスリーパーである僕にとっては、時間を有効に活用しなければ人以上の事をするのは難しい。

新しいスマホに変えるのをきっかけに、スマホの利用の仕方、そして時間の使い方を一度見直すのも大きな手である。普通の人とは逆行する考えかも知れないが、そのような所から差を付けないと上は目指せないと非常に痛感している。