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転んでもただでは起きぬ、鋼のメンタル。

転んだり失敗した時にどう思うだろうか?もちろん、転んだらそこから起き上がろうとする。その時どこを目指して起き上がろうとするのか?多くの人は転ぶ前の状態を目指して起き上がろうとするのではないだろうか?もちろん、それでも大きな復活と言えるのかもしれない。しかしそのもう一段上を目指すのも大きな手ではないだろうか?

そのもう一段上とは、転んで復活する時に、転ぶ前よりさらに上を目指すという事である。転ぶ前と同じなら、転ばなかったのとそう大差はない。しかし転ぶことによって学ぶこと、気づくことはいくつかあるはずだ。それらの事を生かすと転ぶ前よりステップアップすることは不可能ではないはずだ。

ただ、そのためには鋼のメンタルが必要だ。僕自身、特に鋼のメンタルを持っている訳ではないが、今鋼のメンタルを持っていないからと言って、そのような事が不可能だとは思っていない。今持っていないのならばこれから身に付ければ良い。もちろそれは簡単な事ではない。しかし不可能ではないはずだ。

転ばないでそのまま行けば、鋼のメンタルを身に付けるきっかけは訪れない。すなわち転んだことは、鋼のメンタルを身に付けるチャンスなのである。もちろん、一回の失敗だけで大きくメンタルを強化することは難しいかもしれない。それなら失敗を繰り返せばいい。失敗を繰り返すことによって、その度メンタルを強化すればよいのである。

失敗は大きなチャンスである。しかし失敗をネガティブな事と捉えている人があまりにも多い。失敗をどう捉えるかによって、その後の人生は大きく変わる。いくつもの失敗を一つの大きな成功へ結びつけるために、失敗を飛躍のきっかけにしたいところである。

失敗ドンと来い!

最初なのに、最後の力を振り絞っているような・・・。

力を振り絞ると言っても、毎日全力で力を出し切れている訳ではない。調子が良い時は大きく前に進むが、調子が良くない時はどうしても停滞してしまう。人生なんて山あり谷ありなので、常に絶好調という訳には行かない。

人間というものは二つに分けられる。これからの人か、これまでの人か。この事に年齢は関係ない。歳を取っていてもこれからの人は少なからずいる。その一方、年齢は若くてもこれまでの人はかなりいるように思える。では、これからの人とこれまでの人は何が違うのか?それは挑戦をしているかどうかという事だと思う。あるいは向上するために努力をしているかどうかだと思う。もちろん、これからの人の未来は明るい。そしてこれまでの人のこれからは余生あるいは惰性なのかもしれない。

人間には寿命があるので、年齢が全く関係ないとは言えない。歳を取っていると、死ぬまでの年月は確実に少なくなっている。しかし死ぬまでの時間が少ないからと言って、未来がないという訳ではない。目標を持ち、それに突き進んでいれば、未来は自ずと明るくなる。もちろん、体力的にも精神的にも苦しいかもしれない。しかし自分の選んだ道を進んでいるのなら、明るい未来が一層明るく見えてくる。

結果を出せれば、そのことについては初めての結果になる。そしてその先もあるのでそれだけでは終われない。しかし何だか最後の力を振り絞っているように思える。ここで力を振り絞って結果を出さなければ、その先には何もない。なので力を振り絞るということ以外の選択肢はない。僕の精神は最近ますます若くなってきているようだ。

自分のプラットフォームを持つことが大事!

現在、世界のシステムを支配していると言われるGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)に共通するのは、この全てがインフラのプラットフォームを握っているという事だ。プラットフォームを握るとは言い換えると、物事の根幹を握るという事だ。根幹とはある意味本質であり、すなわち現代社会の本質を知ろうと思えば、GAFAが何を支配しているかを知らなければならない。GAFAの力が圧倒的に大きくなりすぎた現在の社会システムには大きな批判があるが、このような状況を変えるためにもGAFAの支配するシステムを知り尽くさなければならない。

現代社会のプラットフォームはGAFAであると言えるが、自分という人間に対しても明確なプラットフォームを持つことは重要だ。これはすなわち、自分という人間の根本的枠組みであり、そのような枠組みをはっきりと形成しないと人間性という中身を埋めて行くことはできない。

しかし、このような人間的枠組みというものは、はっきりと認識することが難しい。少なくとも簡単に目で見えるものではない。目で見えないものをどう捉えるか?という事が非常に重要になる。人間的プラットフォームを認識できなければ、どうしても表面的な事に終始してしまうことになる。すなわち根幹ではなく枝葉末節的なことにとらわれてしまうのである。枝葉は根幹から伸ばさなければならない。根幹のない枝葉などはすぐに枯れ落ちてしまう。

根幹をしっかりと形作るか?枝葉などの表面的な事を繕うか?そのどちらを選ぶかは自分自身にかかっている。自分という人間のプラットフォームを構築することが出来ると、中身は自然と埋まって行くはずだ。自分という人間を豊かなものにしたければ、まずは明確な枠組みを構築することから始めなければならない。

強度を上げる。

先ほど、全仏テニス・錦織圭対ナダルの試合を少しだけ観た。そこで解説者が、「ナダルは非常に強度の高い練習をしており、本番より練習の方が入らないくらいだ」と言っていた。これはおそらく、練習で120%の力を出して、本番で100%の力を発揮するためではないかと思う。やはり練習をまともにできない者が、本番で100%の力を発揮することはありえないのだと思う。

調子の良い時は物事がはかどるが、調子の乗らない時はどうしてもはかどらない。はかどる時は徹底的に推し進めて120%の力を出せばいい。しかし調子の乗らない時にどのように取り組むかが問題である。調子の乗らない時でも100%の力を発揮したい。いや、80%でもいい。何もしないよりはましだ。とにかく少しでも前に進めたい。しかしどうしても、調子の悪い時は一度休んで、調子が良くなった時に全力を出せばいいと思ってしまう。しかしそのような考えだと、調子が戻った時も100%の力を出すのは不可能だ。いつも全力で最善を尽くしたい。

その一方、野球の先発投手では常に100%の力を出すことは不可能だ。むしろ平均で70%くらいの力をコンスタントに出すことが求められる。とは言え、ここぞという時は120%の力を出すことが求められる。それが実行できるのが、ヤンキースの田中将大投手であり、巨人の菅野智之投手である。先発投手のように長期戦になるとそのようなペース配分が重要であるが、それはもちろんいつでも120%の力を出せる事が前提だ。

プロスポーツ選手から学び取れることは沢山ある。純粋にスポーツ観戦を楽しむのもよいが、自分の専門をプロとして極めようと思うのならば、同じプロとしてプロスポーツ選手から取り組み方や戦略の立て方を学び取るのも一つの手である。そして何事もそのような視点で物事を見ることが大切であると思う。

氷山の一角から、その下を暴き出す。

社会においても学問においても、目に見えている部分は氷山の一角だ。研究者はその氷山の一角を見て、その下はどうなっているかという事を追究するのが仕事だ。もちろん氷山と同じで、その下の見えない部分の方が圧倒的に大きい。しかし水面に出ている1割から水面下の9割をどう暴き出すか?そこが研究者の腕の見せ所である。

高校までの数学は、水面に出ている1割に過ぎない。なので本格的に数学を追究しようと思えば、大学レベルの数学を勉強することは必須だ。その中でも、大学一年で学ぶ線形代数と微積分はそれらの全ての土台となる。そしてそれらを縦横無尽に使いこなして水面下へと迫ることになる。

水面下の氷山はどのようになっているか?多くの場合、それは驚くべき形態を取っている。水面上とはまるで違う表情をしているのだ。ただはっきりと言えることは、違う形態を取っているとは言え、水面上の見える部分とは連続的に繋がっている。これは数学に限らず、全ての学問に言える。もしそこが繋がっていなければ、水面下を追究すべき手が無くなってしまう。しかし必ず何らかの形で繋がっているのだ。

現在、人間が認識している数学は果たして全数学のうち何割か?1割なのか?1%なのか?もし数学に無限の広がりがあるのならば0%という事になる。これらの事は答えようのない問いである。何に取り組んでいても、水面に見えるところだけを見ていては本質は掴めない。本質を掴むためにどこまで水面下に迫れるか?学問とはそういうものであると僕は考えている。

微妙に現実的なラインを突いてくるほど、くだらないものはない!

何かを求める時に、そのラインは現実的かどうか?そのような事を考えることは重要である。現実的ではない、絶対に無理な所にラインを設定しても、目標にも何にもならない。しかし世の中を見ていると、そのような事があまりにも多い。そして高い所にラインを設定するのにも、“他人”から見て現実的な所に落とすのも非常にくだらないと思っている。とは言っても、やみくもに非現実的な所を目指せと言っているのではない。重要なのは“他人”から見て非現実的な事が、“自分”にとって必ずしも非現実とは限らないという事だ。

僕は何を言いたいのか?それは「他人が非現実的だと思うような事でも、本気で成し遂げようと思い、そして実際に成し遂げる事が重要だ」ということだ。例えば自分の年収や結婚相手に対する希望年収を「微妙に現実的なライン」に置いてはないだろうか?例えば、「500万は少し少ない。しかし1億は絶対に無理だ。非現実的だ。だから1000万を求めよう」と。僕自身、収入に特にこだわりがある訳ではない。しかしそのような中途半端なこだわりや希望は非常にくだらないと思っているのである。

なぜこのようなことを書いたのか?別にお金の事を言いたいのではない。自分が人生を懸けている目標について言いたいのだ。中途半端な目標を持つのは非常にくだらない。他人が非現実的だと言うくらいのレベルの事を成し遂げる事に価値があるのだ。他人が非現実的だと言うのならば、それは非常に価値がある事に取り組んでいるのだろう。もちろん、それが自分にとっては現実的であることが重要だ。

今僕は面白い問題に取り組んでいる。数理物理の大きな問題だ。他人は非現実的だと思うかもしれない。しかし僕には解決への道のりが見えている(と自分では確信している)。苦しいが楽しい道のりである。日々ペンと紙で格闘し続け、非現実を現実に仕上げなければならないと思っている。

結果を出すまでは飲まなくてもいい!

僕はお酒は結構好きな方だ。しかもかなり強い。なので飲もうと思えばかなり飲める。しかしお酒などは飲まないに越したことはないと考えている。なので、最近はたまに飲むくらいに留めている。しかし、このたまに飲むのが厄介者だ。最近は体質的に依存傾向が強く、二日連続で飲んだだけで苦しくなる。量的にはそんなに飲んでいない。缶ビール一本とかそのくらいだ。

体質的にこのようになったからには、お酒との付き合い方も考えなければならない。一週間に一回だけでも、数日間は苦しい。なので、思い切って断酒することにした。幸い、現在は依存症でも体の病気でも何でもない。はっきり言って最近はかなり健康だ。そのような健康なうちに、断酒を決行すべきだと考えた。

もちろん、体への影響だけを考えてのものではない。今やるべきことは、数理物理の研究で結果を出すことだ。そのためにまず改善すべきことは何か?と考えると、今はお酒は飲むべきでないという結論にたどり着く。少なくとも、結果を出すまでは一滴も飲まないと決めた。もしお酒を飲みたいのならば、結果を出してから飲めばよい。極めて簡単な論理である。

お酒を飲んでいる時間は楽しい。しかしお酒を飲むことによって犠牲にしていることがあるのならば、そこは考え直した方が良い。お酒を飲むことによるメリットとデメリットを秤にかけ、メリットが大きい方を取るべきだ。そしてメリットが大きい方は、お酒を飲まない方だと僕は結論を出した。

とにかく少しでも早く今取り組んでいることで結果を出して、その時、高級ワインの一本でも開けよう!

スポーツと学問。

現在、テニスの全仏オープンが行われている。僕はスポーツを見るのが大好きなのでスポーツのテレビ観戦をよくするが、先ほども錦織圭選手の試合をテレビで観戦していた。

スポーツと学問は全く違うものと捉えている人も多いかもしれないが。僕は学問とスポーツは非常に近親的なものだと感じている。学問の研究をスポーツ的な感覚で打ち込んでいる人も多いし、もしかしたらスポーツを学問的な追究だと捉えている選手もいるのかもしれない。学問とは一種のゲームと捉えることが出来るので、そういう意味ではスポーツと学問は類似する部分は多いのかもしれない。

僕はこのように、学問をスポーツやゲームのように捉える事は非常に大事な事だと考えている。学問とは山に籠って仙人のように打ち込むだけのものではない。学問と言えども社会的に交流された中に存在するのである。昔、「超対称性はスポーツである」と誰かが言ったと聞いたことがある。超対称性とは、素粒子論などに関係する物理学である。確かに超対称性はまだ実験的にははっきりと確証が得られていないところがあり、ある意味スポーツやゲームと捉えないと進めない部分がある。そう考えれば、数学なども将棋と同じように、ルールに則ったゲームと捉えないと進めない部分がある。

しかし、ゲームというものは100%ルールに従わなければならないが、学問は往々にしてルールから外れることがある。そしてそのようなルールから外れたところに学問の面白さや大きな飛躍が存在する。数学をルールと論理に則ったゲームだと思っている人も多いかもしれないが、数学的定義などは非常に自由なものであり、定義をどう定めるかというところに数学的センスが大きく表れる。

学問もスポーツも、一種の自己表現であると僕は考えている。おそらく錦織圭選手もテニスを通じてどこまで自己を表現できるかという事に挑戦しているのだと思う。僕も数理物理を通じてどこまで自己を極めることが出来るかということに挑戦し続け、自己を表現して行きたいと思っている。

自分の限界の少し超えたところ。

人間である以上、何事も限界というものがある。限界を超えた状態を続けると過労死などの問題が起こるが、自分をどれくらいの状態で維持しどこを目指すかといった時、僕は自分の限界の少し超えたところを目安に持って行きたいと思っている。とは言え、そのような高レベルな所で維持することは難しい。なのでそれくらいの所に目標を置くと、ちょうどいい所に落ち着く。

自分の限界を上げることは永遠の命題である。油断をすればすぐに限界が下がってしまう。下がるのはすぐだが、上げるのは難しい。そこを根気良く挑戦し続けて、少しずつ上げて行かなければならない。

自分の限界を上げることが出来ると、より高い所から物事を俯瞰することが出来る。そして自分に何が足りないかという事がはっきりする。そのような事がどんどんわかって来るので、やるべきこともどんどん増えてくる。物事というものは、進めば進むほどやるべきことが増えるものだ。ある意味エンドレスである。そこをどのようにエンドへ持ってくるか?これは非常に重要な問題である。中間地点で一時的なエンドを作るか?全てをやり切って真のエンドを作るか?あるいは諦めてエンドにするか?この様に選択肢はいろいろあるが、果たしてどのエンドを選ぶのであろうか?

僕は今、一時的なエンドの置きどころを探っている。とは言え、妥協はしたくない。なので高い所でエンドを置こうと思っているので、そこへ行く準備だけでも膨大な量になる。しかしビジョンがはっきりとしているのでモチベーションを維持することが出来ている。現在かなりきつい状況に置かれているが、成し遂げる自信は大いにある。なので今は一歩一歩、いや、三歩三歩くらいで少し急ぎながら前進しようと思う。

受験勉強は役に立つ?立たない?

受験勉強は本当に役に立つのか?多くの人が考える問題であろう。この問いに対して僕は「役に立つ」とも「役に立たない」とも断言できない。その理由を書こうと思う。

「役に立つものもあれば、役に立たないものもある」と言えば当たり前の事になる。では「役に立つ」とはどういう事か?それを考えなければならない。高校以下の学校での勉強は、実用から要請されたものというより、人間観を養成して基礎的思考力を身に付けることが目的だと言ったほうが良いであろう。すなわち、勉強によって視野が広がったならば、勉強が役に立ったと言える。では具体的に勉強の何が、どの教科が役に立つのか?と考えた時に、それは教科の内容よりも、学ぶ者の意識に関わることであることが分かる。同じことを学んでも、それが役に立つ人と役に立たない人がいる。すなわち、どのような意識を持って学ぶか?という事が重要なのである。

受験勉強も同じである。全く役に立たないことをわざわざ勉強させることなどあり得ない。何らかの役に立つから勉強をさせるのである。しかし実際は、勉強が全く役に立っていない人もいる。これはやはり意識の問題である。受験勉強に関しても、ただ単に学校に合格するためだけにやっているのでは、学校に入った後は全く役に立たないことになる。「受験勉強」をするのではなく「学問を修める」ことが重要なのである。学生にこのような意識を持たせることは非常に重要である。しかし一部の学校では相変わらず「受験に合格させる」ためだけに勉強をさせている。そのような教育こそ不毛以外の何物でもない。それは「学生のため」の勉強ではなく「学校のため」の勉強と言える。

受験勉強を、「受験が終わったからもう関係ない」と捨て去るのは、人生を捨て去るも同然だ。勉強は、受験が終わってから、あるいは社会に出てからが勝負なのである。受験勉強を有益にするのも無駄にするのも自分次第、自分の意識の持ちようにかかっている。そして学校の教師は、勉強を教える前にこのような事を教えなければならない。しかしこのような視点で受験勉強を捉える事は、まだまだ社会的には欠けているように思える。