思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

人間にとって教養とは

学生にとってそろそろ期末テストが始まるころだ。好きな教科、得意な教科には力が入るが、苦手な教科はどうしても後回しになってしまう。少なくとも学生時代の僕はそうだった。大学1年生の頃は大嫌いなフランス語の授業を出席だけとって後ろの扉から逃げ出していたのが思い出される。逃げ出した足で大学図書館に向かい、数学や物理の勉強に励んでいた。

ところでなぜ僕はフランス語をやらなければいけなかったのだろうか。フランス圏の国など一度も行ったこともないし、大学のフランス語の授業以外でフランス語に触れたことも皆無だ。今覚えている言葉と言えば「ソレイユ(太陽)」という言葉くらいだろうか。

大学の1、2年生の時期を教養課程と言う。もちろんフランス語の授業も教養課程の一環だ。専門を極めようと大学に入っても、初めの二年間は教養をしっかり叩き込まれる。なぜそこまで教養にこだわるのか。それはひとえに大学を出た者は専門知識と同時に大卒生にふさわしい人間の格としての教養を身に付けてほしいからだ。

教養はその人の人間の格・人間性をもっともよく表す。見る人が見れば30秒も話すとその人の教養のレベルはわかるものである。いくら専門知識があっても、いくら仕事ができても、教養のない者は最終的には軽んじられる。教養を身に付けることは大事だが、それ以前に教養の重要性を理解することはもっと大事だ。教養の重要性を理解していない人間は総じて薄っぺらい。

教養と言っても嫌なことを嫌々することは苦しい。まずは興味の幅を広げてあらゆる分野に挑戦する、それが教養の幅を広げる一歩ではないかと思う。

インプットとアウトプット

インプットとアウトプット、自分はどちらに重きを置いているだろうか。

インプットとは具体的には何か。例えば読書、勉強などは代表的なインプット作業だ。しかしインプットだけで終わってしまえば非常にもったいない。なぜなら本当に重要なのはインプットではなくアウトプットだからである。インプットをいくらしてもお金はもらえない。東大生がどれだけ高度な勉強をしてもそれにお金を払う人は一人もいない。なぜなら仕事とはアウトプットだからである。

何もインプットを否定するつもりは全然ない。しかしインプットをアウトプットの布石にしなければそれは単なる自己満足で終わってしまう。

本を読むのもいいが、本当に重要なのは本を書くこと、あるいはそこまでいかなくても文章を書くことではないかと思う。研究者ならば理論を勉強することではなく、新しい発見を論文に書くことである。

今まで自分がインプットで満足していたならば、そろそろアウトプットに軸足を移すのもいいのではないかと思う。

尊厳死問題について

欧州人権裁判所が、7年間植物状態で意識が戻らない男性の生命維持装置を外すことを認めた。本題に入る前に、欧州人権裁判所なるものが存在することに少し驚いた。さすが人権問題で世界をリードする欧州ならではである。

尊厳死を認めるかどうかの判断にはあらゆるファクターが入り込んでくる。医学的判断、科学的判断、人権判断、宗教的判断から親族の感情まであらゆる要素が入り込んできて、すべてを納得させることができる結論は皆無に等しい。しかしどこかで結論を出さなければいけない。

稀少な例であるが、数年後に意識が戻ったという例も聞いたことがある。さらに意思表示はできなくても本人には意識がある可能性もある。しかし医学的・科学的に言えば脳死状態の場合は意識が戻る可能性はゼロであって、生命的死亡と判断せざる負えない。

尊厳死に関する問題は負の側面だけではなく正の側面も多々ある。脳死移植に関する問題がそれだ。脳死によって一人の死が確定するわけだが、脳死者からの移植によって助かるいくつかの命がある。親族にはもちろんつらいが、その一方生を手に入れられる喜びをかみしめることができる人がいるのである。このように植物状態の本人とその親族だけではなく、社会全体に与える影響も複眼的に考えなければいけない。

死の定義は時代により、また地域により変わり続けている。今の時代に合った「死」の定義は何か。常に最新の医学と知見、世論を考慮しながら判断しなければいけない問題である。

SE(システムエンジニア)たちの仕事について

今日の主題はSE(システムエンジニア)。なぜいきなりこんなお題を立てたかというと、ここ数日僕はパソコンと格闘している。TeX(テフ)で数式文章を書いたり、ホームページビルダーで仕事のホームページを立ち上げたり。SEてこんなことをしているのかとちょっと思ったりしたが、実はSEの仕事は一言では表されないくらい多彩だ。SE一人ひとり仕事内容は全く違う。

営業寄りのSEから、プログラミング言語開発などの研究者ともいえるSEまで様々である。僕がパソコンでやってることなどはプログラミング研究からはほど遠い内容で、はっきり言って独創性のかけらもないような作業だ。人が作ったフォーマットを使って作るという感じだが、あまりにも頭を使わない作業の割には、息詰まるとウンウンうなりながら一向に進む気配がない。数理物理の勉強・研究が非常に恋しくなる。それどころか普段仕事で扱っている大学入試問題でさえ独創的に思えてきてしまう。

僕の名古屋の大学院時代の友人に、プログラミングを研究している人がいた。関数型プログラミング言語という、僕にはよくわからないことをやっていたが、彼などはSEというよりほとんど研究者だ。そのような彼を僕は尊敬している。

一方、ほとんどのSEの作業はかなりの単純作業ではないかと思う。最近はSEの人が足りていないので、文系の学部からSEになる人も多いみたいだ。プログラミングとは何かを知らずSEをやっている人たちもいる。

僕がパソコンを使っていて個人的に思うことだが、パソコンで作業をするのは頭に、具体的には知的に良くないように感じる。もちろん前出の彼のようにプログラミングを研究しているような高度に知的なSEはまた全然別なのだが。コンピューターが賢くなっていくのに反比例して、それを使う人間はバカになっていくように思う。もちろんスマホも然りだ。やはりパソコンやスマホから離れる時間は絶対に必要だと思う。コンピューターから離れて自然と戯れる。あるいは僕だったらウィンドウショッピングがひと時の楽しみだ。

コンピューター全盛期の今、コンピューターに依存しない生活というものがより価値があり、重要になってきているのではないかと思う。

二足のわらじ

4月19日、とある記事を見た。二足のわらじを履く女性に関する記事だ。その女性の名前は小川理子さん(52歳)。一つの顔はパナソニック役員だ。パナソニック社員20万人以上いる中、役員は48人、全体の0.02%だ。パナソニック史上二人目の役員だそうだ。

もう一つの顔はジャズピアニストだ。そちらの方でもプロ級で、今までにCDを14枚も出しているそうだ。二足のわらじを履こうとすると、それらに優先順位をつけ、どれに重点を置くか迷うところだ。しかし彼女は仕事とピアノの両方を全力で取り組むことを決めたそうだ。

そこで一番悩むのが「時間のとり方」だ。二つのことを同時にするのだから、単純に考えると一つに使える時間は半分になる。その分それらを取り組んでいるときは集中力を倍にして取り組まないと成り立たない。

僕は今、五つのことに取り組んでいる。その五つのことに明確に順位をつけている。一番重要なことには命をかけてでも。そして順位に低いことは余った時間で。というふうに考えているが、この時間の使い方がとてつもなく難しい。そうでなくてもロングスリーパーなので使える時間が少なく、常に睡眠と時間の使い方で悩んでいる状態だ。

もちろん五つのこと全部で成功するつもりで取り組んでいる。とはいうものの、一番重要なことで成功すればいいと思うこともある。むしろそう考えているからこそ、それ以外のこともできるのかもしれない。

小川さんの二足は二つともとてつもなくレベルが高く、二つのプロの顔を持つ女性とでも言うべきかもしてないが、僕は一番重要なことは何が何でもプロに(本当は世界一を目指している)と思っている。いろいろな顔を持っている人は、人間としても非常に面白味のある人だと思うので、そのような面白味のある人間になることも目指していきたいと思う。

命の選別

新型出生前診断で胎児に異常の見つかった妊婦のうち、83%の妊婦が中絶を選んだらしい。この出生前診断はいろいろな問題・課題を抱えている。一言でそれがいいとか悪いとか言えない。

出生前に診断で産むか中絶するかを決めるのは、いわゆる「命の選別」にあたる。遺伝子に異常のある胎児は生まれる資格がないのか?現在、社会で障がい者を健常者と同じように接しようという流れの中で、この命の選別はそれに逆らうものではないのか?しかし育てる自信のない親に対して強制的に産めとは言えない。

ではそもそも異常のある新生児を育てるのは不可能なのか?まずこの問題に取り組むには社会がこの問題に対して積極的関心を持たなければならない。ダウン症の人たちには症状の重い人から健常者に近い人まで様々いる。しかしそれは健常者でも同じで健常者でも育てるのは難しい人はいるし、健常者もいつ重病にかかるかわからない。

ダウン症の人たちに一つの光を当てる人がいる。金澤翔子さんだ。今では有名なので知っている人も多いとは思うが、彼女はダウン症でありながら書道家として書道の道を極め、2年前のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書かれた人だ。確かに見かけや話し方などの外見はダウン症を感じさせるが、書道に対しては日本を代表する書家になるなど輝くものもあるし、話す内容も非常にしっかりした信念を持って話されている。

確かにすべての障がい者がこのように輝けるとは思わない。健常者でも輝いている人は少ないのだから。

しかしきついことを言うようだが、中絶は殺人行為である。生まれる前だから殺人ではないなどとは決して言えない。ただ法的に殺人ではないだけであって、倫理的には殺人だ。しかしだからといって中絶者を一方的を責めることはできない。おそらく中絶する妊婦さんも非常につらく苦しいのだと思う。

これは答えのない問題と思う。したがってどれだけ時間がたっても結論は出せない。しかし命の選別行為は決してよくないことは確かだ。

「聖戦」という名の虐殺

戦争を起こすにあたって「聖戦」という言葉を掲げる国、および過激派組織がある。この聖戦という名の下の虐殺は今に始まったものではない。宗教が存在する時代のどこかに聖戦が勃発する。

現在で言えばイスラム国(ISIL)がそうであろうか。

聖戦という言葉を掲げることによって、殺りくを美化するということはあってはならない。美化されるような殺りくなんて存在しない。

聖戦の一番怖いところは、殺りくを美化することによって精神的な歯止めが利かなくなることである。聖戦は無制限な殺りくを助長する。人を殺すことに達成感さえ与えてしまうのである。

聖戦といえば最近はイスラム過激派組織の専売特許みたいになっているが、歴史を紐解くと決してイスラムだけでなく、キリストも、あるいは他の宗教もやっていたことである。

そういえば、3月20日はオウム真理教の地下鉄サリン20年目であった。このオウムのテロも聖戦的な要素を帯びている。人を殺すことによって救済されるという、一般市民には理解しがたい教義がまかり通り、オウム周辺では日常的に殺人行為が行われていたのである。

宗教組織は社会の中で独立した色彩を帯びており、公権力の介入は極力控えられている。しかしその独立された影の中で危険な色彩を帯びていく宗教団体はいつの時代にも存在する。

聖戦、それは人類平和の完全なる敵である。聖戦で救われるものは何一つない。非人道的な集団がある限り、必要最低限の戦争は必要悪かもしれない。しかし聖戦だけは決して許してはいけない。

 

日本人らしくない日本人

僕のことだ。日本人なんだけど、日本にいると何か息苦しい気がする。とは言っても海外にいたことはないので、海外にいても息苦しく感じるのかもしれないが。

でも日本という国は大好きだ。日本は綺麗だし、誠実さでも一番かもしれない。海も山もあり、街も田舎もある。ではどこが息苦しいのか。

大学に入学して、混声合唱団に入団した。歌が大好きで、音楽が大好きだったからだ。しかし合唱というものが僕の性に合わなかった。当たり前のことだが、合唱は集団で歌う。基本集団行動だし、周りに合わせなければいけない。僕にはその集団に合わせるということが苦痛なのだ。自然、合唱団の内部では僕は不良団員の烙印を押される。

練習が始まっても図書館で物理や数学の勉強を続け、わざと遅れて練習に参加する。始まりからきちっと練習に出るのが悔しかったのだ。歌うのは好きだ。しかし僕にとって合唱より物理・数学の方が何百倍も大切だったから、物理・数学の方が大事だということを合唱に遅れるという行為をもって表現したかったのかもしれない。

物理や数学、特に理論系は自分一人でもできるので、自分でペースが作れる。個人プレーというスタイルが僕にすごく合っていたのかもしれない。もちろん物理・数学そのものが大好きということが一番であるが。死ぬまで物理・数学にかかわっていたいと思っている。物理の研究でお金を稼ぐということはできてないので、そういう意味ではアマチュアかもしれないが、プロ意識を持って取り組んでいる。そしてのちには研究で稼いで正真正銘のプロになってやろうと思っている。

全体の空気を読んで集団に合わせるというのは日本の美徳だが、空気を読んでもそれに反抗してしまう僕は日本的ではないと思う。でも日本という国は大好きなのだ。

学問に対する意欲

150年前の江戸時代まで、学問を志す者は藩校、あるいは私塾に志願し学問に打ち込んでいた。しかし家の事情、または身分の問題で学問に打ち込みたくても打ち込めない人がたくさんいた。学問は贅沢な取り組みであったのかもしれない。

今はどうか。勉強が嫌いだからと言って学問を避けている人はかなり多い。そのような人にとって学問は苦痛なのであろう。今は学問に打ち込みたい青年がいれば、打ち込める環境はかなり整っている。しかしこのように学問を自ら避けている人が多い。

なぜ学問を苦痛に思う人が多いのか。理由の一つは義務教育にあるのではないかと思う。本来は学問は自らが志し、自ら志願して取り組むべきものだ。しかし現在は義務教育のもと、6歳になれば嫌でも学校に入れられ、学問を受けることが「義務」になっている。はたしてそれでいいのか。学問が義務になっていることが学問嫌いの大量生産のもとになってはいないだろうか。学問に取り組む「自由」は必要だ。しかしそれを義務にするのは違うように思う。

もちろん義務教育を行うことによって、国民の教育レベルは非常に高いものになっている。読み書き計算など、日常生活において必要なものはやはり義務教育で身に付けるべきであろう。大学全入時代というのも、考えようによっては学問を志す者は誰でも学問に取り組めるということでいいことかもしれない。しかしその全入の実態と言えば、学問嫌いが大卒という肩書をつけるためだけに入学し、4年間遊んで卒業するというものである。もちろん皆が皆そうではない。真剣に学問に取り組んでいる学生の方が多いかもしれない。大学は最高学府に見合うような存在であらなければならない。

意欲あふれる若者が一人でも多く学問を志し、自ら動いて学問に取り組んでくれることを望むばかりである。

逆境でも負けない

失敗しても、挫折は絶対にしない。

逆境にも耐え、最後には成功に導く、そんな覚悟と粘り強さが大切です。

できます。あきらめません。