思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

たった一回の人生に何を懸けるか?

当たり前の話だが、人生はたった一回しかない。そのたった一回の人生に何を懸けるか?

もちろん何かを懸けるとかそんな覚悟なしに、流れに身を任すという人生もあるだろう。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。それはそれぞれの人生のスタイルと言えるのかもしれない。

ただ、人生は一回しかないのだから、複数の事を掛け持ちするのにも限度がある。そして人生の軸というものははっきりとしておいた方が良い。その「人生の軸」が懸けるものであろう。

人生の軸などというものは、時にはぶれる時もあるだろう。しかしそのような時にどう立て直すか?その時、何かに懸ける強い思いが方向性を明確にしてくれるに違いない。

実感はないが、自信はある。

何かを成し遂げようと取り組んでいる時、自信があるかないかによって結果も大きく変わる。自信はないよりかはある方が絶体によい。根拠に基づかない自身もある程度あってもよいが、根拠のある自信は非常に大切である。

根拠のある自信を持つためには、大局的な展望が必要だ。目の前にある課題をクリアしていくことももちろん大事だが、それと同時に長期的な展望に基づく計算とアイデアが必須である。

自信はあっても、まだ成し遂げていないからには、実感がないのは当たり前である。実感がないので本当にできるのかどうか不安だが、それは全く問題ない。実感などは達成した後に感じればいい。

実感はないが、自信はある。そんな気持ちで前に進もうとする毎日である。

考える行為、悩む行為を飛ばしていいのか?

現代はネットの発達によって“即答”社会になっているのではないだろうか?疑問や問題があればネットで検索し、すぐに答えが出てくる。答えを出すこと自体が目的ならば問題ないが、そこには考える行為、悩む行為が飛んでしまっている。それが一回や二回ならいいが、人生の中で何年もそのようなことを繰り返していれば、かなり大きな弊害が出てくるような気がしてならない。

確かにネット検索は便利だが、答えを即答しても大概の場合は何も生まれない。多くの場合、考える行為、悩む行為から新しいことが生まれてくる。考える行為、悩む行為は創造の源なのである。

世の中のブラックボックス化によって、益々考える行為の省略化が進んできている。もちろん些細な調べものをネットで検索して調べるのは非常に便利で時間の短縮化にもつながるが、じっくりと時間をかけて思考する行為も、物事、そして人生を創造していくうえでは絶対に欠かせない。

周りをブラックボックス化していけば、いずれは自分の人生そのものをブラックボックス化してしまうことになりかねない。そうなれば、自分の人生を制御しているようで、自分の人生を制御しきれない状況になってくる。

ネット検索は使いようによっては非常に便利で、それを使いこなすことは有益ではあるが、自分の人生を実り豊かに創造していくためにも、考える行為、悩む行為を大切にし、そのような行為を通じて人生を創造していかなければならない。

なぜ数学を勉強するのか?

「なぜ数学を勉強するのか?」これは多くの人、特に数学が嫌いな人にとって何度も考えたことのある疑問であろう。この問いに対して多くの人が答えているが、この問いの答えを明確に答えた人を僕は聞いたことがない。何とか苦し紛れに答えたり、一側面だけを答えたり、万人が納得する答えをほとんどの人は持ち合わせていない。僕自身はこれまで数学に関わってきた人間として明確な答えを持っているので、万人が納得する答えではないかもしれないが、そのことについて述べようと思う。

数学とはその名の通り「数の学問」である。なので、数の計算、数の扱いを考える学問だと思っている人は多いが、実際はもっと深い考察のいる学問である。その深い考察とは、「数の世界の奥に潜む構造・体系」である。まずその一例を取り上げよう。

小学校で掛け算を学んだ人は、2×3と3×2は同じ答えになることはすぐに分かるであろう。すなわち2と3を入れ替えても答えは変わらない。小学校で習う掛け算のこのような性質を、専門用語で「可換」という。可換とはその名の通り「交換可能」という意味である。すなわち掛ける順序を変えてもよいというわけである。

そして小学校で習う掛け算が「可換」であるように、進んだ数学では「非可換」、つまり順序を変えてはいけない掛け算がある。すなわち、小学校で習う掛け算の奥には、可換という非常に重要な構造が潜んでいるのである。

ここで「なぜ数学を勉強するのか?」という問いに戻るが、その一番の理由は「本質を見抜く力をつける」ということである。数学の法則、規則の裏側にある本質を見抜くことによって、本質を見抜く目を養うのである。

もし数学以外の学問、いや学問以外でもよいが、それによって本質を見抜く目を付けることができるのならば、別に数学でなくてもよいのである。国語や社会、ビジネスなどで本質を見抜く目を付けることができれば、それは非常に価値のあることである。

しかしなぜ数学なのか?それは数学が本質を見抜く力を付けるのに一番適した題材であるからである。数学は本質の塊であると言える。数学の構造は本質を見抜くのに一番適している。数学で身に付けた本質を見抜く目は、他のあらゆる分野に適用できる。数学はある意味万能なのである。

これらの事は、小学校・中学校の教師でさえもなかなか認識していない。いや、高校の教師でも認識していない人は多いであろう。

結論を言うと、数学にはあらゆる本質が詰まっていて非常に実り豊かな学問である。そういう意味では数学は勉強をするに値する学問だ。しかし他の学問で本質を見抜く力を付けることができるのならばそれはそれでよい。自分が価値を見出した学問に打ち込むことが一番大事なのである。

学校は何のためにあるのか?

学校の一番の役割は、勉強を教えることだと言う人は多いかもしれない。ではなぜ勉強を教えるのだろうか?それは自分で人生を切り開いていける力を身に付け、より豊かで実りある人生にするためである。だから、人生を切り開くきっかけになるのならば、べつに勉強でなくてもよい。

しかし、受験を一番の目的とした学校も少なくない。受験に受かって希望の学校に入ることはもちろん人生を切り開く重要な一手段であるが、青春時代を謳歌することも実りある人生を創るには非常に重要である。

受験などの目の前にある目的を達成することは非常に重要だが、そのような近視眼的な見方と同時に、人生数十年を見通した大局的な目を持つことも必要である。

現在、人生の目的は多様化しつつある。偏差値の高い学校、大会社に入ることだけが良い生き方だという前時代的な価値観は薄れつつある。人間はそれぞれ個性があるのだから、それは当たり前の事である。

「勉強を教える学校」から「人生を創る学校」へと、大きくシフトすべき時ではないだろうか?

睡眠を制するためには?

睡眠というものは制するためにあるのか?受け入れるものなのか?僕自身もよくわからないけど、おそらく両方とも間違っていないような気がする。人間は絶対に寝なければ生きていけないので睡眠は受け入れなければいけないものであるが、その一方、自分で制御できないと上手く日常生活を送ることはできない。

「寝ている時間は死んでいるのと同じだ」と言う人は非常に多いが、睡眠は起きている時間の準備時間であり、活動的な生活を送るためにも睡眠は欠かせない。

僕自身、睡眠がなかなかコントロールできなくて常に悩んでおり、「睡眠の制御」は僕の人生の一大テーマと言っても過言ではない。「睡眠を制する者は、人生を制す」と言ってもよいのではないかとも思っている。

ナポレオンは3時間しか睡眠を取らなかったと聞くし、フランスの現在の若きリーダー・マクロン大統領も3時間睡眠であるとこの前テレビで耳にした。一方、相対性理論を生み出した物理学者・アインシュタインは10時間寝ていたという。つまり、睡眠時間は何時間が良いということは決まっておらず、人それぞれに適切な時間があるのだろう。

僕には今、大きな目標がある。それも複数ある。人生のマルチタスクとも言うべきかもしれないが、適切な優先順位を付けて柔軟にこなしていくべきだと思っている。しかしそれを達成するためには、睡眠を制することは大前提になると考えている。本当に悩ましい問題であるが、目標を達成するためにも睡眠の問題を何とか解決しようと日々試行錯誤している。

外見は内面を映す鏡である。

「内面が良ければ外見はどうでもよい」という意見をよく聞く。確かにそうである。外見だけを張りぼてのように飾って内面が全然出来ていない人より、外見が疎かでも内面が素晴らしい人の方が圧倒的に良い。とは言え、内面は意外と外見にも表れてくるものだ。

外見と言っても、服装がお洒落だとかそういう話ではない。もちろんお洒落ならばそれはそれで良いことだが。服装の着方から、はたまた顔の表情、姿勢、振る舞い方など、外面のあらゆるところに内面が表れるものである。内面が変われば外見も変わる。あるいは人間としての地位なども外見に大きく関わってくる。

内面を変えることによって外見を変えるのは素晴らしいことだが、外見から入るというのも一つの手である。着ている服装、持ち物、あるいは姿勢、顔の表情を変えることを意識することによって、内面を変えるというものである。

外見を侮るなかれ。外見は意外と内面をさらけ出している。「内面は超一流、外見は1.5流」というのが理想かもしれないが、内面を磨き、外面を整えるという意識を持つことが非常に重要である。

前に進むなら、100%の安全はありえない。

現代社会は、安全社会・保障社会であると言える。何事に対しても100%の安全を求め、もし上手くいかない場合は保障を強く求められる。確かに交通安全だとか治安に関しては限りない安全を求めるのは当然であろう。

現在、自動車の世界では自動運転の開発が活発に進められている。そこで一番問題になるのは、自動運転の試験運転時の安全だ。まだ開発段階であるので、試験運転時に事故が起こることは容易に想定される。もし事故が全く起きなければ、すでに実用化されているはずだ。試験運転時の事故は想定内であると言える。

そして自動運転の実用化に成功した後でも、もちろん事故は起こりえるだろう。問題はどの程度の事故率を容認するかだ。簡単な目安として、現在の(自動運転ではない)交通事故の事故率よりも自動運転の事故率が下回れば大成功であろう。しかしそんなに簡単にいかないことは容易に想像できる。

いずれは自動運転の事故率はかなり低下するであろう。しかしそれまでの過程を耐えられるかどうかだ。試験運転での一回の事故によって開発が停滞するようでは、長期的に見れば安全面においても市民の損失になる。しかし日本の社会的国民性を考えれば、そのようなことが起こりえるような気がするところが恐ろしい。

自動運転に限らず、何かに挑戦して前に進もうとするときには、100%の安全などありえない。挑戦者がどこまでの危険性に耐えられるか。そして周りの社会がそれをどこまで容認できるか。それには日本社会が特に欠けている大雑把さと寛容さが求められるところである。

しかし社会的風土というものはそんなに簡単に変えられない。やはり挑戦者は忍耐強く我慢するしかないというところであろうか。とにかく前を見て突き進んで行くしかない。

数字だけを見て判断するのは危険だ!

IT社会になりビッグデータが幅を利かす時代になったこともあり、数字だけで判断をする傾向は顕著になっている。ITを駆使すると、ビッグデータをもとに統計を取ることは非常に容易になり、また世界のどこにいても簡単にデータを取得・管理することが可能になった。

しかしそんな時代だからこそ、実物・現実を自分の目で見て判断することは重要であるのではないかと感じる。

数字・データだけで判断するのは容易であり、ある意味正確と言えるのかもしれない。数値で量的判断をするのは、今の時代コンピューターが自動的にしてくれる。そこで生身の人間に求められているのは質的判断だ。

数字はあくまでも統計などの結果であって、実態は現実社会で起きている。そしてそれを見て、感じて、人間は生きている。数字だけで動くのなら、現実社会はいらない。

数字だけですべてを判断することは非常に危険だ。数字によってむしろ実態が覆い隠されることもある。データ社会である今だからこそ、生身の現実に目を向けるべきではないかと感じる。

人間の命が有限であることに救われる。

北朝鮮の金王朝(金日成・金正日・金正恩)は、不老不死を望み、北朝鮮では不老不死の研究がされていると聞いたことがある。しかし不老不死とはいかず、金日成・金正日はこの世を去り、金正恩は暴君として振る舞っている。

ところで、不老不死は本当に理想なのだろうか?希望なのだろうか?僕はそうは全く思わない。人間は命が有限であることに救われていると感じている。

手塚治虫の著書に「火の鳥」という漫画がある。火の鳥の血を飲めば永遠の命が得られるとされ、人々は火の鳥を求め続ける。その中で永遠の命を得た人間が出てくる。そこで描かれているのは、永遠の命を得た人間の気の遠くなるような地獄である。正確に言うと「永遠に生きられる」ではなく「死ぬことができない」と言った方が正しい。死ぬことができないとははっきり言って地獄である。

人間は死ぬことによってリセットできる。もちろんリセットと言っても、死んだ後はもう何もないのだが。良かったこと、うれしかったこと、苦しかったことも死ぬことによって全てが無になるのである。このことを悔しがる人も多いとは思うが、僕はこれは人間の救いだと思っている。

こんなことを言っても、宗教とかそんなことに関連付けようとは毛頭思っていない。ただ、死ぬことをネガティブなことではなくてポジティブにとらえることも大事ではないかと思っているのである。

もちろん、不幸な死を遂げる人もいることは事実だ。そのような死まで救いだとは言うつもりはない。ただ、永遠の命などというものは追求すべきことではない、命は有限であるからこそ価値があるのだと言いたいのである。

有限の命だからこそ、命を大切にしたい。