思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

本音を言うとたたかれる社会。

社会に建前はつきものだが、本音と建前の使い分けは簡単ではないようだ。現在のネット社会では、本音を言うと炎上するといった事態が起こることは日常茶飯事である。もちろん、政治家に限って言えば、その一言が国の行方を左右されるため慎重に発言してもらいたいが、普通の人が本音を喋れない社会はストレスがたまるものだ。

テレビを観ていても、当たり障りのない建前ばかりで、いつからこのような仮面をかぶった社会になったのやらと、観ている方もストレスがたまる。本音でしゃべっているのはビートたけしくらいではないかと思う。ビートたけしは本音でしゃべっても皆が納得してしまうので、本音を喋るビートたけしはますます貴重な存在になっているのではないか。

社会も家の中もストレスの塊である。ストレスから逃れるためにはどうすればいいのか?精神のコントロールに苦労する次第である。

精神的に得をするには。

「得をする」と言えば、お金や物に関しての事だと考えてしまう。それはそれでいいが、「”精神的”に得をする」事を考えるのは非常に大切だ。精神的な得が、あらゆることのパフォーマンスを上げる。

では、精神的に得をするとはどういうことか?単純な考えではあるが、「いかに精神的負担を少なくして行動できるか」ということだ。ストレス・プレッシャーなど、現代社会ではあらゆる精神的負担を受けながら生きていかなければいけない。大なり小なり、精神的負担は避けられないものだ。しかしそれをゼロにすることはできなくても、小さくすることはできるはずだ。

精神的負担を少なくするため、僕はいろいろなことを考え、行動して、模索している。もちろん簡単なことではないが、普段の思考パターンを工夫すれば、少しずつではあるが良くなってきているのを実感している。

最近は悩み症の僕であり、”すーだら節の無責任男”というほど陽気になるにはまだまだではあるが、度量のでかい人間を目指したい!

根性精神主義は、全肯定でも全否定でもいけない。

最近の科学的分析主義によって、昔の根性精神主義が否定されることが多くなった。スポーツでは、肉体の科学的(医学的)な観点から過去のトレーニング方法が否定され、最新の科学的方法が提唱されている。否定されていることの代表例としては、うさぎ跳びや野球の先発投手100球制限であろう。

科学的見地から、より負担が少ない効果的なトレーニングが考案されることは非常に歓迎されることだ。しかし、それと同時にそれまでの精神論を”全”否定されることには少し疑問に思える。

最近はあらゆることにおいて、スマートに事を成そうという考えが強いように思う。特にIT社会による便利な社会化がそれに拍車をかけている。

しかし、努力することは絶対的に必要だし、泥臭く物事を遂行することは非常に重要である。いくら科学的に考えようとも、最後の最後に根性で乗り切らざる負えないこともあるだろう。

根性論は時代遅れかも知れない。しかし、根性論・精神論なき人生は無機質にも思える。最新の見地を上手く利用しながら精神をコントロールすることが、非常に求められる。

妄想力100%!

妄想は活力の源である。

僕はかなりの妄想家(そんな言葉があるのか知らないが)である。特に研究に関しては妄想力全開!ああだこうだと妄想して、構想を練る。ただ、妄想を妄想で終わらせないことが大事だ。そして周りからはいつまで妄想してるんだと言われるかもしれないが、そんなことお構いなし。妄想するのは自由である。

妄想が夢へと広がっていく。そしてその夢を実現するためにさらに妄想を続ける。

人生のギャンブラー。

ギャンブルと言えばお金の賭け事を連想する人が多いと思うが、賭けるのはお金だけではない。人生を賭けるのも一種のギャンブルだ。僕はというと、お金は賭けないが、人生は常に賭けている。いや、自分の信念を貫くためには賭けざる負えないのだ。

平穏より、エキサイティングを求めてしまう。非常に危険なことはわかっているのだが、生きるか死ぬかの瀬戸際で攻防するのはやりがいも非常に大きい。成功しているかと言えば全くそうではないが、自信はある(根拠のない自信?)。根拠があろうとなかろうと、自信は必要だ。自信がないと、人生のギャンブルはできない。

1%の可能性があるとき、1%可能性があるじゃないかと考えるのと、99%失敗してしまうと考えてしまうのでは、結果が全く変わってしまう。さらにその思考が様々な事にも波及する。

可能性がある限り、常にあらゆることに取り組んでみようと思う。間違ってはならないのは、暴挙には出てはいけないということだ。暴挙とは不可能(0%)なことに打って出る事。1%でも可能性があれば、ギャンブルに出るのも悪くない。

IQで才能を測る風潮に、少しあきれる。

IQに関する話題は、定期的に出てくる定番の話題だ。頻繁に耳にするのは「どこどこに、IQ200を超える天才少年が現れた」というものであろう。IQというのは偏差値と同じで、明確に数値で表されるので、非常に分かりやすく、皆がすぐに飛びつきやすいトッピックなのであろう。

別に、IQで人の能力を測ることに対して全否定するつもりはないが、人の能力というものはそんなに単純ではない。数学が得意でも英語が苦手な人もいるだろうし、さらに才能は学問に対するものだけではない。絵画の才能もあれば、音楽の才能もあるだろう。

しかし、数学などに関しては、IQが非常に有効だと考える人は多いかもしれない。確かにある程度の相関関係はあるかもしれないが、既存の問題を解く能力と、新しい理論を創造する能力は必ずしも一致しない。数学業界では”数オリ崩れ”(高校時に数学オリンピックに出るくらいの秀才だったが、研究では結果を出せない)という言葉もあるくらいだ。

最もあきれるのは「誰々はIQでアインシュタインを超える数値であり、アインシュタインを超える天才だ」というものだ。そもそもアインシュタインがIQを測ったことがあるとは考えられないし、実際アインシュタインの方がIQが低いとしても、はっきり言ってそんなことはどうでもいい。一つ言えることは、その高IQ者は所詮IQで測りえる程度の人間だということであり、アインシュタインの創造的才能はIQとは全く別次元のものだということである。

理想論は実行が伴ってこそ価値あるものになる。

理想論は非常に重要である。将来の展望、あるいは希望をより良いものにするためには、常に理想はどうあるべきかというビジョンを持たなければならない。

しかし、実行が伴わない理想論は空論である。理想はそこへ向かおうという実行が前提となって価値あるものになる。

また、理想論をバカにする人もあるが、理想をバカにする人に残されたものは、良くて現状維持、ほとんどは衰退である。

理想をもってそこへ向かって実行する、理想と実行は希望への原動力の両輪である。

物事を立体的に俯瞰する。

最近、雑誌でいけばな(生け花)に関する記事を読んだ。僕はいけばななんて全くやったことないし、何の知識もなかったので、いけばなの世界観を少しだけ垣間見ることができて面白く感じた。

そこで、いけばなの師範が「対象を立体的にとらえることが大事だ」ということを言っておられた。もちろん花(植物)は立体的に成長するものなので、いけばなに奥行き感を出すためには立体感覚は大事だが、あらゆるものに対して立体的にとらえるのは簡単ではないのかもしれない。

数学でも平面図形は図を見てすぐに理解できるが、立体図形を理解するには持前の立体感覚が物を言う。さらに言うと、数学者は4次元以上の図形をも扱う。5次元・6次元、さらに一般のn次元という世界と格闘している。

もちろん、4次元以上の図形を書いてみるわけにはいかない。しかし数学者は高次元を縦横無尽に駆使できなければ使い物にならない。

物事を平面的にしかとらえられないと、どうしても画一的な考えしか出てこない。柔軟に奥行きのある考えを出すには、どうしても物事を立体的に俯瞰することが必要になる。しかし、物事を立体的にとらえる事とはどういうことか、ということを定義するのは非常に難しい。なので、平面的にしかとらえれらない人に、立体的にとらえるとはどういうことかということを教えるのは至難の業だ。

立体的にとらえる技術は、生まれつきの天性がかなり物を言うのかもしれないが、多くの事象をとらえて経験を積み重ねることなしにはこの天性も生かし切れない。才能は努力があって初めて開花するものである。

読書について。

「なぜ読書をするべきなのか?」と言う問いは、いつの時代も答えを模索されているみたいだ。先日もネット上に、一つの答えが書かれていた。

「そんなバカな質問をしないためよ」

何とも的を得た答えのようだが、よくよく考えてみると、はたして答えになっているのかどうかわからない。

なぜ読書をするべきなのか?という問いは、百数十年前、哲学者ショーペンハウアーによってもなされていた。ショーペンハウアーはこの問いに対しての見解を、短編書「読書について」という書物に書いている。

読書とは”インプット”である。しかし生きるとは”アウトプット”することである。従って、読書についても、それをアウトプットに生かすことが求められる。

もちろん、読書によるインプット自体にも意味はあるが、インプットするだけで自己満足しているようでは成長しない。成長とはアウトプットすることによってもたらせられると僕は思う。

考えることも非常に大事だが、考えたら即行動、即アウトプットするために動かなければならない。

全く意味のない、悩みの生産工場。

誰でも悩みを抱えることはしばしばあるとは思うが、まだ起こっていないことで悩むことほど無駄なことはない。悩むのは、事が起こってからでいい。まだ起こっていない悩みの元は、ほとんどの場合起こらない。そんなことで悩んでも、良いことは全然ない。

しかし、悩みだしたらそれが無限ループになって、悩みの生産工場と化してしまうことがある。もちろん、そんなことにならない人も多いとは思うが、僕はしばしばそうなってしまうことがある。僕の非常に悪い癖である。

物事を始める時、最初から完璧を求めてしまうと最初の一歩が踏み出せない。始める時は多少いい加減なくらいがよい。完璧を求めだすと、またそれで悩み出してしまう。

この様に、いい加減な人間というのもしばしば良いことがある。いい加減と言うと何かだらしなくてネガティブなイメージがあるが、言葉を変えると「楽天的」と言うことになるのかもしれない。とは言え、楽天的な人間になろうと思って、楽天的になれるものではない。しかし楽天的になれなくても、起こっていないことで悩むことはやめにしよう。