思想、生き方、考え方」カテゴリーアーカイブ

ユーモアは生き様で見せよ!

ユーモアはないよりある方が圧倒的に良い。どのようにユーモアを出すか?多くの人は色々と考えるところであろう。単純にギャグなどを言ってユーモアを出す人もいれば、あるいは服装でユーモア感を出そうとする人もいるかもしれない。もちろん、それはそれでいい。ユーモアを言える人は非常に素晴らしいと思う。

僕はユーモアをどのように出すか?と言った時、言葉や外見だけでなく生き様で表現すべきだと思っている。生き様とは、すなわち人間性である。どのようなリスクを取り、どのような事に挑戦しているか?そのような事は全てユーモアにつながると考えている。逆に、無難な生き方をしている人からは、ユーモアは感じられない。やはり傍から見ても面白い生き方をしていると感じられることが大事である。

ユーモアには軽快感が感じられる。すなわち重い生き方をしていればユーモアは感じられない。しかし、重厚に生きることが悪いわけではなくて、重厚感や悲壮感を周りに感じさせないことが大事なのである。苦しい時は本当に苦しい。時には周りに助けを求めざるを得ない時もあるであろう。そのような時は思い切って周りに助けを求めれば良いが、普段は苦しさなどどこ吹く風と軽快に生きて行きたいものである。

人間にとって中身と外見は両方とも大事である。中身が良ければ外見は関係ないと言う人も多いが、僕はそうは思わない。外見も自分という人間の一側面であるし、意外と内面は外見に表れてくる。外見だけで判断してはいけないが、外見で判断できることも少なくない。ユーモアにおいても、言葉や行動と言った外見的ユーモアと、生き様に見られる内面的ユーモアの両方を発揮できれば最強である。

では、どのような生き様がユーモアのある生き様と言えるのか?簡単に表現できることではないが、まずは自分が自分の生き様を面白いと感じることが大事である。そして挑戦に続く挑戦を繰り返すエキサイティングな生き方を続けていれば、結果的に極めてユーモアな生き様を見せることが出来るはずだと僕は考えている。

学問は自由だ!

これまで、そしてこれからも数学や物理の研究は続けるのだが、数学や物理の研究に取り組んでいて常に感じることは、数学や物理は自由だと言う事だ。突き詰めて行けば行くほど、それらの世界が自由であることを感じ取ることができる。自由であるからこそ面白くもあり、興味が広がるのである。

それに対して英語はどうだろうか?僕は中学生の時に学校で英語を習い始めてから、ずっと英語に対して苦手意識を持ち続けてきた。今でも英語は苦手だし、嫌いでもある。そして英語に対してずっと凝り固まったイメージを持ち続けてきた。英語はこうであるべきという一方的な考えがあり、決まったルールに従って、それから外れては絶対にいけないと考えていた。そのように考えてしまっては身動きが取れなくなる。そして英語を話すのが怖くなり、ますます英語が出来なくなる。そのような悪循環の中に僕はいた。

しかし、最近非常に分かりやすい英語の解説書(以前にブログでも紹介した)に出会い、英語に対するイメージが180度変わった。英語というものも非常に自由な学問だと気付いたのだ。しかしそのような事は少し考えれば当たり前の事である。日本語でも標準語以外の言葉はいくらでもあり。例え標準語を話すにしてもバリエーションは無数にある。そしてルールから多少外れても意味は十分通じる。日本語がそうなら、英語もそのはずである。イメージさえしっかりとつかめれば、意味は十分に通じるのである。

やはり、学問は自由であるべきである。こうでなければならないという凝り固まった考えでは学問は進まない。自由な逸脱が学問の深化をもたらすのである。そして理解すればするほど、どんどん自由になって来る。学問の一つの到達点は、自由を得ることである。もちろん英語などでは、実用性も非常に重要である。しかし学問的価値は自由性にある。数学が一番自由な学問であることは疑いないが、その他の学問においても非常に自由な世界が広がっている。最近の英語の勉強において遅まきながらそう気づくことが出来たのである。

科学技術の発展は、完全なる善なのか?

現代の人々は科学技術が右肩上がりで発展して行くことを当たり前に思い、それに伴って世の中が便利になって行くと信じている。もちろん、科学の発展によって飛躍的に便利になっているのは事実である。そして多くの人は、科学の発展を善だと思っている。しかしそのように善だと言い切ってよいものだろうか?さらに言えば、便利になることがそんなにも良い事だろうか?

科学技術の軍事技術への応用は、科学技術の負の側面だ。そのような事は誰でも分かるので、あえてここでは述べない。では、科学技術によって便利になることが一般的に思われているほど善なのかと言う事を問うてみたい。

例えば、自動車があることによって人々は楽に長距離を移動することが出来る。こらは非常に便利な事である。しかし、「便利」と言う事が必ずしも「善」だとは僕は思わない。さらに、役に立つことが大きな善であることは多いが、完全なる善だとは言い切れないと思っている。逆に、表面的には役には立たないと思われていることが、非常に意義のある事である事も存在する。そのような意義や善を判断するためには、本質を見抜く目が必要だ。それがないと、即物的に「役に立つ=意義がある」、「便利=善」と考えてしまう。しかし、何もそのような判断が間違っている訳ではない。問題はそのような判断過程において、思考のプロセスが入っていないことだ。だから「便利=善」とは判断できても、「役に立たないが意義がある」とは判断できなくなる。判断のレベルを上げるためには、即物的な判断ではなく、思考による判断が必要なのである。

便利な事、役に立つ事でも、深く考えると意義のない事もたくさんあることに気付く。しかし、科学技術は後には戻れない。それは核兵器が存在する世界から核兵器を消滅させることが出来ない現在の世界が証明している。もちろん未来はどうなるかわからない。人類の努力によって100年後の世界から核兵器が消滅している可能性もゼロではないと僕は考えている。しかし、それを実行することは極めて難しい作業である。現在の努力によって未来は変えられる。それは個人の人生においてもそうだし、世界平和においてもそうである。だからこそ、努力することはいつ何時も重要な意義を持つのである。今少し努力すれば未来は少し変わるであろうし、上手く行けば大きく変えられるかもしれない。

Macが良いか?Windowsが良いか?

これまでパソコンはWindowsを使ってきた。正確に言うと、パナソニックのレッツノートだ。これまで圧倒的に壊れにくいと言われているレッツノートにこだわって二台使い続けてきたが、バッテリーのリコールだとか色々と問題が表れて来て、次はアップルのMacにしようかと思い始めていた。そんな時、今日(昨日?)アップルのMacBook Airがマイナーチェンジして価格も下がったこともあって、俄然とMacに心が傾いてきた。

昔はMacとWindowsとのソフト互換性の問題などでWindowsを選ぶ人も多かったようだが、最近はWindowsにできる事はほとんどMacでもできる。なので、Macを選んでもほとんど支障はなさそうだ。MacでOfficeもできる。TeX(数学的文章を書くのに必要なソフト)もできる。心は決まった。次はMacにしよう!

二年ほど前からiPhoneを使い続けて、いつの間にかアップル党になってしまった。アップルはもちろん機能性も良いが、何と言ってもデザインが良い。そして忘れてはならないのが、セキュリティレベルが高い事だ。アップル党の人でもセキュリティにこだわっている人は多くはないかもしれないが、セキュリティは非常に重要である。セキュリティが担保されて初めて安心して使うことが出来る。普段は気にすることはないが、気にしないで良いと言うことはセキュリティが保たれている証拠である。

これまでWindowsを使い続けてWindowsには親しみはあるが、そろそろ決別の時かもしれない。これからのアップルライフ?は楽しいものになるのか?いや、そうなることを期待してアップルライフに突入しよう!

物事を極めるとは?

数学において、ある定理に他の定理を継ぎだして新しい定理を導き出すことがよくある。それぞれの定理についてはよく分かっているんだけど、それらを組み合わせると想像もできないような定理が導き出されるのである。その定理の継ぎ目はある意味ブラックボックスだと言える。少なくとも初めはそう思えてしまう。しかしそのような定理を駆使するにつれて、そのブラックボックスにイメージを見出せるようになる。そしてそれが明確にイメージ出来るようになると、そこからさらに次の定理を導き出せることになる。数学においては、対象に自分なりのイメージを描くことが非常に重要である。

数式は単なる計算過程ではない。数式そのものが持つ役割や、ある種の構造があり、そこを理解しないと次へは進めない。僕は音楽の訓練はほとんどやったことがないので、音符がほとんど読めない。しかしピアニストなどの音楽家は音符の羅列を読み取り、そこからある種のイメージを形作っているのではと思っている。きっと僕らには理解できない世界が広がっているのだろう。数学においては、専門外の人が見ればそれは数式の羅列にしか見えないのかもしれない。しかし数学者は、その数式の羅列からある種の構造やイメージを読み取り、自分の世界を形作って行く。そのような数学の中に広がる世界は、しばしば現実世界よりも豊かな景色を見せてくれる。そのような世界を見た後では、目で見える世界が些細な事に思えてくる。

数学や音楽に限らず、一つの世界を極めた人にはその人にしか見えない世界が広がるのではと僕は思っている。その世界を極め、そのような世界を見た後では、世界観も大きく変わるだろうし、すなわち生き方も変わる。ある意味、そのような世界を捉える事は、物事を極める大きな理由となる。しかし簡単にはそのような世界を捉えられない。時間と労力が必要なのだ。もちろん、そこまで打ち込むためには、面白くないと出来ない。しかしただ楽しむだけでは一線を超えることはできない。そのラインを超えるためには生みの苦しみがある。そしてそのラインを超えた時、新たな世界が見えてくるのである。

「なぜ自分は生きるのか?そしていかにして生きるべきか?」そのような捉えどころのない問いに対しても、一つの事を極めた人は明確に答えることが出来るであろう。とは言え、そのような問いに対する答えは一つではない。だから一つ答えが出た後になっても、「いかにして生きるべきか?」という問いかけを続ける。そのような事を続け、問題を明確化して行く。僕らが生きる表面世界のさらに奥の世界が見えた時、人間は次のステージに進めるのだと僕は考えている。

自信に満ち溢れ、人生が最も充実している時。

今の僕である。少なくとも僕自身はこう感じている。しかし、現在は人生で3番目に苦しい時でもある、いろいろな面で非常に苦しい。しかし、今僕は自信に満ち溢れ、最も充実している。なぜまだ結果を出していないのにそのように感じられるのか?

理由は二つある。一つは明確なビジョンが描けているから。まだ結果は出していないけど、結果までの道のりが明確に見えている。何をすればどうなるか?それがはっきりと答えられるならば未来は明るいと思う。逆にどんなに豊かな生活を送っていても、「これからどう生き、今何をすべきか?」と言う事が認識できていないと、これからの人生に希望を持てない。しかし、そのようなビジョンを明確に描けていれば、例え現在が苦しい状況でも未来は明るい。もちろん、失敗すれば明日の命もあるかどうかもわからない。そのような綱渡り的状況ではあるが、今が面白くて仕方がない。では僕のビジョンとは何に関する事か?もちろん数理物理の研究に関する事である。

もう一つの理由は、心身の状態が極めて良いことである。人間にとって最も重要な事の一つは心身の健康だ。それは過去に調子を崩した経験から身に染みて感じる事である。しかし現時点だけで見れば、最高潮という訳ではない。しかし上り坂である。木原坂46はこれからどんどんと発展していくと感じている。同じ状態でも、下り坂ならばこれからに自信が持てない。そして僕と同じくらいの年齢の人なら、人生の絶頂を過ぎたという人も少なくないかもしれない。これまでの僕が幾分低調だったからか、これからは上がって行く気しかしない。自然、自信も満ち溢れ、人生も充実したものに感じる。

とは言え、初めに書いたように現時点はあらゆる意味で苦しい。しかしそれはあくまで現時点での話である。事を成し遂げるのが先か?精神が尽き果てるのが先か?今は自分という人間との勝負である。そして絶対忘れてはならないことは、挑戦し続ける事である。挑戦を止めた時、僕の人生は終わると思っている。僕の人生の原動力は挑戦心である。今日も、一年後も三十年後も、常に挑戦し続け、いつも今が一番充実して自信に満ち溢れているという状態でないといけないと強く思っている。そして常にそれを実行して行くはずだ!

本の相性。

本というものには、意外と相性がある。全く同じ分野の本でも、自分にすんなりと入る本となかなか受け入れられない本がある。もちろん、小説とかに関しては同じ内容の本は存在しないが、専門書に関しては、例えば同じ複素解析の本でも解析的な色が濃いものから幾何学的な側面を重視した本まで様々ある。そのような分野の本であれば、自分に合った本を手に取れば良い。

本に相性があると言う事は、同じテーマに対しても様々なアプローチがあると言う事だ。そのように、同じ対象物を様々な方向から眺めることが大事である。学問においても同じで、例えば整数論一つとっても代数的数論と解析数論がある。最近では数論幾何というものもある。同じものを二つの方向から見れば、三つ目が浮かび上がる。物事というものはしばしば玉虫色を呈する。すなわち、単一色だけにこだわるのではなく、玉虫色を制することが必要なのである。

最近様々な専門書を手にするが、相性の合わない本というものは時々ある。そのような時は、その本にこだわらず、同一テーマの違う本を手っ取り早く手にするのも手である。そしてその分かりやすい本で学んだ後にはじめの本を再び手にすると、意外とすんなりと入ってくるものである。

脳と体を鍛える。

昔、「脳を鍛える」(立花隆著)という本があった。読んだのはずいぶん昔(20年以上前)なので内容をはっきりと覚えていないが、科学や社会の事に言及した面白い本であったことを覚えている。立花隆氏と言えば、「田中角栄の金脈と人脈」と言う報告記事で当時の田中角栄首相を内閣退陣まで追い込んだ凄腕ジャーナリストだが、科学に関しても非専門家としてはかなり博識な人である。「脳を鍛える」では、当時まだ大学に入る前の僕にとってはかなり面白く知的刺激に溢れることが書かれていた。

立花隆氏は、スペシャリストかつジェネラリストという二つの側面を兼ね備えたオールマイティーな人間である。ジャーナリストという圧倒的な専門があるからこそ、そのような足場を基に広がる科学的記事にも圧倒的説得力を持つ。立花氏とは専門は逆だが、科学の専門家に対しても、科学のスペシャリストというだけではなく、ジャーナリスト的な側面を持つことは重要ではないかと強く思う。「政治や社会に対して鋭く切り込む」、そのような科学者がたくさん出て来るべきではないか?政治や社会に対しても、科学者という視点からでないと語れないことがまだまだたくさんあるように思えてならない。

そのように科学者が他分野に切り込むためには、脳だけではなく体も鍛えなければならない。それは何も筋トレをすべきだと言っているのではなく、人間としての基礎体力を高めなければならないと言う事である。もちろん、そのような基礎体力は、脳による知力と連動している。なので、脳と体は同時に鍛えなければならない。そしてそのように多方面に切り込むためにはストレス耐性も高めなければならない。なぜなら、様々な所に切り込む過程では、様々な事に遭遇し、様々なストレスを受けることは避けられないからだ。僕自身、ストレス耐性は強くなく、ちょっとしたことでストレスを受けることが多々ある、ストレス耐性を高める特効薬というものはないと思うが、意識の持ち方、日々の生き方次第で、ストレス耐性も少しぐらいは高めることが出来るのではないかと思う。

人間として、まずは専門を持つことが必要だ。ジェネラリストになるためには、まずはスペシャリストにならなければならない。僕はスペシャリストでないジェネラリストなんて存在しないと思っている。まずは自分の専門を持たない事には説得力がない。「スペシャリスト=脳」と「ジェネラリスト=体」の双方を鍛えるために、日々挑戦を続けながら人生を進めて行く。

既定路線か?想定外か?

社会というものは日々進化している。それは科学技術も同じで、日々新しい科学技術が開発され、世の中に広まっている。科学技術の発展というものは、基本的には既定路線上にある。例えば最近では、自動運転技術、折り畳みスマホなどがそうであろう。それらの技術は今はまだ完成していないが、数年後にはほぼ確実に実用化されていると予想されている。予想されていると言う事は、既定路線上にある技術だと言える。

しかし時には、科学技術というものは想定外的な飛躍を見せる。例えばスマホの先駆けであるiPhoneの誕生や、再生医療にもつながるiPS細胞の発見がそうであろう。iPhoneが発表された時、多くの人はそのようなデバイスが出るとは予想もしていなかった。そもそもその頃にはスマホという概念もなかった。さらにiPhoneが世の中に広まるかどうかも未知数だった。しかし現在は、Androidを含め、スマホは市民の生活に必須のアイテムとなっている。まさしくiPhoneは科学技術のブレークスルーとなったのである。iPS細胞に至っては、天地をひっくり返すくらいの常識破りである。発見された後になってみれば、iPS細胞は非常に単純な理論である。一言で言えば、皮膚の細胞(何の細胞でも良いが)に、山中ファクターと呼ばれる四つの遺伝子を挿入するだけである。しかしそのような事は誰も考えなかったし、誰も挑戦しようと思わなかった。そのような所にブレークスルーを作った山中伸弥教授の目の付け所は驚異的である。

世の中の99%、いや、99.999999%の人は、既定路線上を進もうとしている。しかし、数年に一人くらいだろうか、とんでもない常識破りを成し遂げる人が表れる。スティーブ・ジョブズや山中伸弥教授のように。もちろん、みんながジョブズや山中教授のようになれるわけではないと思う。なのでほぼすべての人は既定路線上で物事を考えようとする。そしてそれはほとんどの場合正しい選択である。しかし、そのような正しい選択さえも超える選択が存在するのである。そして社会の発展は、そのような想定外的な人間なしでは語れない。人数で言うと数人くらいであるかもしれないが、その数人が数十億人に匹敵するくらいの影響を社会に与えるのである。

先ほど述べたように、既定路線で考えることは正しい事だと思う。人生においても、既定路線を作った方がより正確に、さらに省エネルギーかつ低リスクで進めることが出来るであろう。それに対して、想定外な常識破りをするためには莫大なエネルギーもいるだろうし、何より高リスクである。しかし、ほんの一部の人(社会ではバカと呼ばれるかもしれない人)はそのような事に挑戦し、そしてその中のさらに一部の人が事を成すことが出来る。しかしバカとは言っても、そこまで徹底的にバカになり切れる人はほとんどいない。しかしバカに徹することが出来るからこそ、徹底的に挑戦に徹することが出来るのである。そのようなバカになり切って想定外を生み出すことは、非常にチャレンジングであるに違いない!

無駄を最大限に生かす。

社会全体が効率主義的になり、「効率的=正義」のような単純思想が蔓延しているように思えてならない。もちろん、効率を求める事にはメリットも大きい。そして全体を底上げするには、効率性を上げる事が一番効果的である。

しかし、個人の行動や人生、あるいは学問において、効率性だけを求めるのはどうかと強く思う。そして「無駄」というものも意外と無駄ではない。無駄を省くことは重要かもしれないが、「無駄を最大限に生かす」という発想は非常に重要である。無駄を生かして成しうることは、効率主義を追求してできる事とは全く質が違う。科学では、「失敗がきっかけで気付くことが出来た」という話をよく聞くが、これはまさしく無駄を生かすことの代表であろう。

物事において、無駄を許すような余裕を作ることは重要である。旅行においても、スケジュールをぎゅうぎゅうに詰め込んで各地を見て回っても、そこから得られるものは少ない。余裕を持って観光した方が様々なものを感じることが出来る。学問においても同じである。大局的に対象を俯瞰できる余裕を作らないと、新たな発想は浮かんでこない。学問は受験勉強ではないのである。受験勉強的な効率的スタンスで学問に取り組んでも、そこからは想定内の事しか出来上がらないだろう。

ただ無駄とは言っても、怠ける事とは全く違う。無駄や余裕を作ってクールダウンする時間が必要なのである。数学においても、計算に没頭していると、目の前の数式しか見えなくなることがある。そのような時に少し休み、全体を俯瞰する作業が必要なのである。

効率性によって成果を挙げようとするのは二流だと思う。一流は無駄や余裕をあえて作り、それによって限界を超えようとする人たちだと僕は思っている。