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日本にとって忘れられない、71年前の8月。いかに核兵器廃絶の道を作っていくか。

今年もいよいよ夏本番、8月に入った。8月と言えば、日本では終戦関連の行事がたて続く。6日の広島原爆投下、9日の長崎原爆投下、15日の終戦だ。唯一の被爆国としての世界平和に対する日本の役割は重要だ。

今年の5月には、オバマ氏が現職の大統領として初めて広島を訪問した。その心には何としても核兵器を廃絶したいという思いがあったに違いない。しかし、核兵器廃絶はアメリカだけが行えばいいというものではない。アメリカ単独の核兵器廃絶は世界のパワーバランスを大きく乱し、さらに危険な状況に陥ると考えることは容易だ。和平を保ちながら廃絶するには、世界同時に徐々に廃絶に向かっていくしか方法はない。一昔ならその主な対象はアメリカ・ソ連(ロシア)であったが、いま一番問題なのは中国であることは間違いない。中国の覇権主義をどう牽制し、どのように世界の和平を保ちながら軍縮に進むか、世界が抱えるこれからの課題だ。

一部の近隣諸国を省いて、日本が放つ反核兵器メッセージはインパクトのあるものである。日本には委縮せずに核兵器廃絶を訴えることが求められている。そしてこの役割をリードするのは、世界でも日本にしかできない。

とは言え、先ほど書いたように、単に何も考えずに核兵器廃絶・軍縮を行えばいいというものではない。これらの作業は非常に慎重・繊細かつ計算が必要な困難な作業である。

自国から軍(日本なら自衛隊)を無くせば平和になるという、単純平和主義者がいる。先日の都知事選の主要候補者にもそのような人がいた。それらの人は、自衛隊機がどれくらいスクランブル発進(緊急発進)をしているか把握しているのだろうか?平成26年の自衛隊機のスクランブル発進の回数は、943回である(統合幕僚監部・報道発表資料による)。その内訳は、中国とロシアに対するものが半々、すなわちこの二国は毎日隙あらば日本を狙おうとしているのである。自衛隊は他国が攻撃してきたときに守るためだけにあるのではない。その存在だけでも大きな抑止力になっているのである。さらにこれらのスクランブル発進などによる抜け目ない警戒活動によって日本は守られている。しかし残念ながら、このような実態を認識していない日本人も多いらしく、自衛隊の存在意義が正確に認識されていない。

改めて日本の8月の話に戻るが、8月は日本人にとって戦争というものに対して再考する時期である。将来は核兵器は世界から廃絶しなければならない。少なくとも理想論としてはそうあるべきである。原爆投下から71年経ち、広島・長崎での惨劇の記憶が遠くなる中で、オバマ氏が広島を訪問してくれたことは、非常に感謝しなければいけない。これをきっかけに、日本一国だけの核廃絶論ではなく、日米二国を起点として、世界全体に核兵器廃絶の風を巻き起こさなければいけない。

魂が宿る本を読め

普段、地下鉄に乗ることが多く、だいたい地下鉄の中で約30分間、本を読んでいる。今日は、マルクス・アウレーリウスの「自省録」を読んでいた。神谷美恵子さんが訳した岩波文庫版である。

マルクス・アウレーリウスはローマ帝国時代の皇帝であり、哲学者でもある。もちろん遠い過去に亡くなっている。しかし、自省録を読んでいると、マルクス・アウレーリウスが目の前に生きているような錯覚に陥る。なぜそのように感じるのかというと、この自省録という300ページばかりの紙の本の中に、マルクス・アウレーリウスという人物の魂が所狭しと宿っているからだと思う。僕はマルクス・アウレーリウスの肉体ではなく、魂を感じて、その人物となりを感じていたのである。

概して名著と言われる書物には、著者の魂が宿っている。魂が宿っている本を見つけるのは簡単ではないかもしれないが、もしわからなければ岩波文庫を選べばいい。岩波文庫には、過去の名著と言われた古典本がずらりとそろっている。岩波文庫であれば、まずはずれはない。

それから、たくさんの本を速読するより、魂の宿る良本をじっくりと繰り返し読む方がいいと僕は思っている。僕が最近繰り返し読んだ本と言えば、これも岩波文庫であるが、新渡戸稲造の「武士道」である。この本は薄い本であるが、非常に深くて濃い本である。新渡戸稲造と言えば、前の五千円札に描かれた人物として有名だが、非常に志高き思想家・教育家である。

ちなみに、武士道の原著は「BUSHIDO  THE SOUL OF JAPAN」という英文で書かれた本である。新渡戸はアメリカで日本の精神を伝えるためにこの本を書かれた。つまり、日本語版「武士道」は英文からの翻訳本である。

岩波書店は非常に保守的な出版社で、最新の革命的な本が出ることはほぼないが、古典的名著に関しては右に出るものはいない。今一度「魂の宿る本」を繰り返し読むことの重要性を主張したい。

普通の人の生活向上も大切だが、はたして創造的異端者が暴れまわれる環境は日本にあるのだろうか

最近、政治家たちがこぞって「普通の人がより良い生活をできるような社会にする」ということを叫んでいる。もちろんそれはもっともな話であり、国民の大部分が普通の人である限り、それを政策の目玉にするのはもっともなことである。

しかし、日本では昔から「出る杭は打たれる」という格言があるように、異端者に対する風当たりが厳しい。もちろんそれで結果が出た後はまだ良いが、結果が出るまでの過程上は非常に厳しいものがある。

日本は異端者、特に「創造的異端者」をあまりにも冷遇しすぎているのではないか。創造的異端者には限りない可能性が秘められている。しかし判断が難しいのは、異端者が本当に結果を出せるところまでいけるのかということ。普通でない限り、普通の人と同じようにコンスタントに結果が出せるとは限らない。

アメリカでは、多くの人が「いかに出る杭になるか」ということを考えているらしい。しかし日本では「いかに目立たずに無難に過ごすか」ということが美化されている節がある。この様な風潮の中で、異端者が暴れまくるのは物理的にも精神的にも苦しいものがある。

しかしそれでも多くの異端者は暴れることをあきらめようとしないだろう。なぜならそれが異端者であるが所以だからである。

現在の発展した社会は、多くの普通の人の地道な努力と、「異端者の爆発的飛躍」によって築き上げられてきた。そして現在、中国・インドなど新興国が猛烈な勢いで発展してきている。その一方、超大国アメリカはなんだかんだと言われながらもあらゆる分野で世界ナンバー1を維持している。

では日本はどうだろうか。最近はどうも芳しい話はあまり聞かない。いかに発展するかということより、いかに後退を防ぐかということに力がそそがれているように感じる。この様なときにこそ、創造的異端者の爆発力が求められているのではないだろうか。

異端者が異端であり続けられる国にすることこそ、これからの日本の飛躍の原動力になるのではないだろうか。

最高の技術と、最高の人格

つい先日、イチロー選手が日米通算4257安打を記録し、ピート・ローズのもつ世界記録を超えたことは記憶に新しい。イチローは言わずと知れた「世界最高の技術を持ったヒットメーカー」だ。それと同時にイチローは人格者としても知れ渡っている。

今回、イチローが世界記録を樹立した際、元記録保持者のピート・ローズ氏が全く認めなかったことを、大人げないという人は多い。とは言え、別にピート・ローズ氏の人格が低いわけではない。ピート・ローズ氏の反応の方が普通なのだと言える。

しかし、ピート・ローズ氏とは比べ物にならない「最低の人格」と言われた偉大な大リーガーが20世紀初頭に存在した。野球好きなら一度は聞いたことのある名前かもしれない。「球聖」タイ・カッブだ。彼の通算安打数は現在ではイチロー、ピートに次ぐ三位だ。彼は間違いなく最高の野球選手であった。しかし彼の悪行は有名で、野手の顔に目がけてスライディングしていたことは有名だ。まさしく「最高の技術と、最低の人格」を持った人物だ。

イチローが、最高の技術と同時に、「最高の人格」を持っていることは、同じ日本人として誇らしい。まさしく、日本を象徴する人物だと言ってもいいだろう。それから野球に対するストイックな姿勢もイチローの大きな魅力だ。

人間の寿命は有限である。その短い人生の中でどのように自分を表現するか、すなわち「いかにして生きるべきか」という問いを全ての人は持つべきだと思う。おそらくイチローもそのような問いに常に向き合っているのだと思う。

イチローは記録を樹立した時、「ジーターのような人格者に記録を抜いてもらえればうれしい」と語った。このことからも、人間としてどのようにふるまうかということを重要視していることがわかる。

「最高の技術と、最高の人格」を持つためにどうすればいいのか。今の僕には遠い言葉かもしれないが、一歩でもその言葉に近づくために、常に人生に対して問い続けなければならない。

自分が追い込まれたとき、それを劇薬として現状突破するためには

人間生きていれば、楽しい時ばかりではなく、苦しい時、精神的に追い込まれる時が多々ある。マスコミなどでは絶対に死んではいけないとよく流されるが、実際に死ぬかどうかは別として、ほとんどの人は何度も死にたいと思ったことがあるだろう。しかしそこで死んだらゼロである。死ぬなら人生で成すべきことを成し遂げてから死ななければならない。

もし自分が追い込まれたとき、自分はどう解釈するであろうか。確かに精神的に追い込まれずに快適に過ごせることができれば、それは非常に素晴らしいかもしれない。しかし僕はそれが理想的だとは思わない。人それぞれ考えは違うだろうが、僕は自分が追い込まれたとき、背水の陣の状態になった時、その状況・精神的状態が飛躍的進歩の原動力になると考える。もちろん追い込まれて折れる人も多々いるかもしれない。そこは人それぞれの物事のとらえ方次第である。そして本当にどうにもならない状況になる人も現実にいるだろうし、僕の考えが全てに当てはまるとは思わない。

それから、自分を意図的に追い込んでコントロールするという手法もある。苦境は必ずしも悪ではない。もちろん悪であることもあるであろう。しかし苦境を逆に自分のコントロールに利用する、ある意味、苦境や精神的窮地は劇薬かもしれない。この劇薬を自分の飛躍に利用できるか、劇薬で倒れてしまうか、それは自分次第である。

自分を快適な環境において快適に物事に取り組むことを求めている人が多いが、もし自分が苦境に追い込まれたときそれを毒とせずに薬にしてしまう、そのような思考が劇的な現状突破の原動力になるのではないかと僕は考える。

本音が言えない、建前社会

某歌手の歌詞が女性蔑視であると批判されているという。そこで実際にその歌詞を見てみた。確かに女性蔑視かという観点から見れば、女性蔑視であることは否定できない。

しかしそこで、この歌詞について二つのことを感じた。

一つは、女性を貶めるような悪意を持った歌詞ではないように感じる。

もう一つは、この歌詞は社会一般思想に対する表現というより、一人の男性の想い、タイプの女性について描いているに過ぎないのではないか?

ということである。

一つ目については保留することにして、二つ目について少し考える。もしこのような観点で書かれた歌詞が女性蔑視と批判されるのなら、好みの女性のタイプを持つ全ての男性が女性蔑視ととらえられかねない。

政治家の発言は慎重に慎重を期すべきで、軽い発言を公の前ですべきでないと思う。なぜなら政治家は巨大権力を持ち、政治家の個の力をもっても社会に対する影響力は絶大であるからだ。

しかし個人か個人的にどう思おうが、民主主義自由主義社会では自由なはずだ。思想の自由は保障されている。かといって、女性蔑視が許されるものではないが。

とはいえ、今回の事例にしても、女性蔑視の観点から悪質であるというより、女性蔑視を足掛かりにして批判してやろうという意図が大きく感じられる。今回の問題は女性蔑視であったが、このような思想規律を厳密に運用しようとするとどうなるか?すぐに分かるように本音が言えない社会になってしまう。ささいなことで言えば、好きな女性のタイプを言うだけで差別だと批判されれてしまうであろう。まさしく心の多様性が抹殺されてしまうのである。

この様な本音が言えない建前社会の度が過ぎるとどうなるか、おそらく社会は均一的・共産主義的になり、国家の衰退も免れることはできないであろう。

欧米人はグレーゾーンを上手く利用するという。しかし日本人はグレーゾーンの利用が下手だ。今回の事例がまさしくそうであろう。今回の事例は女性蔑視かと言えば完全に否定できない。まさにグレーゾーンと言える。このグレーゾーンを日本的な画一的運用にこだわれば、先に述べたように共産主義的廃退が待っているであろう。

一億総評論家時代。もっと行動を!

最近何かと問題が起きると、著名人から一般市民まであらゆる人間が評論家と化す。数か月前からの芸能人スキャンダルから、現在進行中の東京都・舛添知事の問題まで、あらゆることが評論、あるいは批評の対象になる。もちろん舛添知事の問題などは深刻な問題であり、批評されるのもやむ負えないと思われるが、それはさておき、批評されている中にはメディアや一般市民がそこまで躍起になって批評することもないだろうと思われることが多い。

この様にいたるところで些細なことが批評の対象になっている原因は、もちろんネットの普及によるものであろう。一市民でも家に居ながらキーボードをたたけば不特定多数の人に批評を公開することができる。

しかし僕が気になっているのは、行動を起こす人間に対して、何も行動を起こさない人間が批評だけを行っている構図だ。もちろん行動を起こしつつ、それをもとに批評を行っている人も少なくないであろう。しかし口だけの人があまりにも多い。挙句の果てには、批評することがメインの仕事になっている有名人もいる。

別に僕は批評すること自体が悪いとは思っていない。しかし思ったり口を動かす前に、まず行動を起こすことが必要なのではないだろうか。しかし皮肉なことに、行動を起こす人間が、行動を起こさない人間に批判されている。もっとも、行動を起こす人間は、ネットで批判する暇などないであろう。

この様にくだらない論評を書いている僕も、くだらない素人評論家になっているかもしれないが。とにかくまず行動を起こすことを考えよう。

他人のアドバイスを聞くだけではなく、自分の頭で考えて生きることが重要だ!

とにかく日本では、他人の意見を聞くこと、アドバイスを聞くことが非常に重要視される。自分で考える前に、いきなり他人に意見を求める人も多いのではないだろうか。もちろん他人の意見がもっともなことも多いが、他人の意見を聞くばかりに、自分で考えることを放棄してしまう。本末転倒だ。

自分の考えに基づいて行動を起こし失敗したら、どう思うだろうか。周りの人は、やはり人の意見を聞くべきだったというかもしれない。しかし失敗してもそれでいいのである。失敗することは悪いことではない。失敗は次への糧である。例え他人の意見を聞いたとしても、それで成功する保証は全くない。他人の意見に従って失敗したら、果たして納得できるであろうか。

成功することは非常に重要である。もちろん失敗はしない方がいい。しかし失敗は悪ではない。成功や失敗ということ以上に、自分の頭で考えて導き出し行動したかということの方がはるかに重要である。失敗も自分で考えて行動した結果であるからこそ、糧となるのである。

自分で考えたことに対しては、自分で責任を負わなければいけない。それくらいの覚悟は必要である。しかし自分の頭で考えない、そして覚悟もない、そんな人間が非常に多い。もちろんそんな考えや覚悟はなくても普通に生きていけるかもしれない。しかしそんな人生にいったいどれだけの価値があるだろうか?

人生は有限である。有限であるから人生は価値があるのだ。永遠の命などには価値はない。この有限の人生をどれだけ価値あるものにできるか、その一つに、自分で主体的に考え生きていくということが必要だと言えるのではないだろうか。

「やらぬ善より、やる偽善」、熊本地震で行動を起こし、寄付するタレント紗栄子さん

初めに断わっておくが、僕は紗栄子さんの行動を偽善とは思わない。本当の「善」からの行動だと思っている。

タレント紗栄子さんが、熊本地震被災者の支援として、500万円の寄付をしたという。貢献のかけらもしていない僕にとっては尊敬の念しか出てこない。

よく「やらぬ善より、やる偽善」という。この言葉は、あれこれ考えるより、とにかく行動を起こすことが大事なんだと言っているものだと僕は思っている。とにかく行動を起こせば、あるいはわずかでも寄付をすれば、間違いなく被災者の助けになるだろう。しかし一人であれこれ考えているだけでは、何の役にも立たない。今回の紗栄子さんの行動は百人力である。

しかし残念なことに、今回の紗栄子さんの行動を批判する人が多いらしい。紗栄子さんは今回の寄付をブログで公表したという。そのことに対して偽善だと批判されているという。僕からすれば、ブログに載せることは偽善でもなんでもない。紗栄子さんは正真正銘、多額の寄付を行い多くの被災者を助けた。それだけが事実なのである。もちろん1億円を寄付した人物が、500万円は少ないというのなら、少しは分からなくもない。もちろんそれだけの寄付をする人物は、そんなことを言うような心の狭い人間であるはずはないが。

実際は、やる偽善でさえもない「やらぬ偽善」という人間が多いのかもしれない。僕自身はどうなのかと言われると、僕自身弁解できない。僕はやる偽善さえできないダメな人間かもしれないが、せめて「やらぬ善」レベルは保ちたい。紗栄子さんを応援するのもそういう気持ちからだ。今回の紗栄子さんの行動を批判する人は、間違いなく「やらぬ偽善」だ。やらぬ善であれば、被災者の役には立てないが、人間失格の烙印だけは免れるかもしれない。

とは言え、いつかは「やる偽善」レベルの人間に昇格したいものである。たとえ少額でも、する機会と場所があれば、僕も微力ながら何かの力になろう。僕もまだまだダメな人間であることを思い知らされた。

 

巨大な組織力は、飛び抜けた個の力から生まれる

今日本で巨大な組織、あるいは巨大な産業と言えば、車産業・電気電子産業など様々あるが、その中の一つにロケット産業がある。ロケット産業は言うまでもなく巨大であり、非常にすそ野の広いプロジェクトである。そこに関わる組織はJAXA・三菱重工などをはじめ、重厚広大な企業から中小の町工場まで、すべてを把握するのは不可能であるとも言える。

しかしこの重厚広大な日本のロケットプロジェクトも、その原点をたどると糸川英夫博士のペンシルロケットにたどり着く。「ペンシル」と言う言葉通り、シャーペンほどの大きさの非常に小さいロケットだ。当時、この糸川博士のペンシルロケットを子供のおもちゃ同然とバカにする者も多かったという。しかしこのペンシルロケットの系譜上にあるのが、今日本の技術の最先端かつ巨大なH2Aロケットなのである。

この様に現在の日本の巨大ロケットプロジェクトは、糸川博士という一人の飛び抜けた個の力から生まれたのである。

どのような分野でも同じことが言えるのかもしれないが、科学技術の分野ではこのような歴史がいくつも生まれている。

20世紀の二大物理理論である、「量子力学」と「相対性理論」はその最たる例であろう。

量子力学は完全な個とは言えないかもしれないが、ボーア、ハイゼンベルク、シュレーディンガーといった個人の才能が大きな力になったことは言うまでもない。そして現在、科学技術と言われるほぼすべての技術に、この量子力学理論が応用されていると言っても過言ではない。

そして相対性理論に至っては、アインシュタインという大天才一人の力によって創造された。ここで相対性理論といった場合、一つ注意しなければいけない。相対性理論と呼ばれる理論は二つ存在する。1905年の「特殊相対性理論」と、1916年の「一般相対性理論」である。もちろん両方ともアインシュタインの個の力によって生まれた。特殊相対論の方は早くから応用され、特殊相対論なしでは科学理論は語れない。

しかし一般相対論は、あまりにも重厚広大すぎて、技術への応用はかなり遅れた。しかし現在ではGPSなどに使われるなど、しっかりと現在の科学技術に根付いている。

個の力は時には組織の力を大きく超えることがある。しかもブレークスルーは個の力から生まれることが多い。このブレークスルーを生み出すような個の力が生きていける社会を作り、維持することも、国家の役割ではないかと思う。