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本質的には、一人の力だ!

日本では何かと「みんなで力を合わせて」と言う言葉をよく使われる。確かにたくさんの人間の力が必要な事は多いが、そのような場合でも実質的には一人の力が大きくものを言っていることが多い。例えば二人で共同作業を行う時、貢献度が50対50なんてことはありえない。ほとんどの場合90対10、あるいは99対1という割合だ。大体、50体50で行うことは一見公平に見えても、実際は非常に効率が悪い。それぞれの力を最大限に発揮するためには、どうしても90対10にならざるを得ないのだ。

90対10なら、もちろん報酬も90対10にすべきだ。しかし、このような貢献度を正確に測るのは難しい。正確に分かるのは、二人、あるいは何人でやったという人数である。そうなると、この正確に分かる人数という数字で報酬や評価を等分割することになる。この様に、「見かけ平等」という不平等な状況があらゆるところで作られることになる。

それが嫌なら一人でやるしかない。しかし一人で全部やると言うのは、体力的負担以上に精神的負担が大きくのしかかる。しかしそれに耐えられるのならば、一人でやると言うのはなかなか良い選択だ。自分の目指す所へ、自分のやりたいように進めることが出来る。もちろん金銭的制約、そして社会的制約から完全に自由である訳ではない。取り組む対象を乗り越えると同時に、制約を乗り越えるという二つの壁を乗り越えなければならない。

多人数でやる場合、貢献度は決して等分割ではない。自分の力を合わせたからできたのだと言う人もいるが、ほとんどの場合一人の力に乗っているだけだ。そろそろ何でもかんでも「みんなで力を合わせて」という発想を止めたほうが良いかもしれない。社会とは多くの人間の営みの集まりであるが、そこを重視しすぎるあまり、一人で成し遂げるという発想が希薄になりすぎている。人間、「自分一人の力で、出来うる限り成し遂げる」ということも非常に重要である。そのような行為を繰り返すことによって、独力を身に付けなければならない。

人の言う事は真に受け取らない方が良い。

落合博満氏が中日のルーキーの根尾選手に対して、「人の教えを真に受け取らない方が良い」と言ったという。僕はこの意見に対しては非常に同感であり、僕自身もこれまで人の意見にできるだけ頼らずに生きてきた人間だ。野球界ではこれまでコーチの教えを真剣に受け入れ、そして潰れて行った人が山ほどいると言う。これは何を意味しているのか?それは「自分の事は自分が一番良く知っている」ということだ。そして無批判に人の意見を受け入れるのではなく、自分の頭で徹底的に考えて試行錯誤することが重要だと言う事である。

それは学問に対しても同じである。小学生や中学生ならともかく、大学で学問を学び研究するのなら、人の教えなど基本的に聞かない方が良い。そもそも学問と言うものは、自分の頭で思考して身に付けられるものだ。だから人から教えてもらうと言う行為は最終手段にした方が良い。一般的には、「人の意見をよく聞け!」とよく言われるが、それは平均的レベルの人間の話であって、もし頂点を目指すのならばむしろ「人の意見を聞くな!」あるいは「人の意見に左右されるな!」と言う事である。ただしこれはあくまでも、トップを目指す人間に対してのことである。多くの人間にとっては、人の意見を聞く方がはるかにメリットが大きく効率的である。

当たり前の事だが、プロ野球選手というものは野球界の頂点に君臨する者である。さらに根尾選手はドラフト一位という、ルーキー選手の中ではトップレベルの選手である。そのような選手に対しては落合氏が言うように、人の意見は真に受けない方が良いという意見は最もである。しかしそのような意見は、「自分の頭で考えろ!」と言う事でもある。

何もわがままで人の意見を聞かない訳ではない。自分の頭で考えることを重視しているからこそ、あえて人の意見を受け付けないようにしているのである。もちろんそのような姿勢で極めることは、かなり非効率である。しかしトップを目指したり大事業を成し遂げるためには、そのように非効率的ながらも徹底的に自分の頭で考えることが必要になる。現在の世の中は「効率!効率!」と効率性重視一辺倒である。そのような社会では小者しか生まれない。ただ生きて行くだけなら、そのような生き方の方がはるかにメリットが大きいだろう。しかしそのような生き方とは全く違った価値観を持った人間も世の中にはいる。圧倒的な少数派であるが、人の意見を受け付けず徹底的に自分の頭で考える。そのような非効率の極みの先に、自分の目指す世界が存在するのである。

自分を守らない。

生きて行くにあたって、自分を守ることは非常に大事かもしれない。ただ自分を守ることに専念しすぎると自由な身動きが取れなくなってしまう。さらに思考パターンが固まってしまい、頭脳からも自由さを失ってしまうことになる。

そこで僕がたどり着いた結論は「自分を守らない」と言う事だ。何かに取り組もうかどうかと考えた時、まずは自分を自由にする。もしそれをすることによって自分が犠牲になったとしても、それで良いのだ。実際はほとんどの場合自分が犠牲になることはない。大体97%は上手く行くのだ。犠牲になる3%の確率に恐れて動かないのはおかしい。だって97%は成功するのだから。もし残りの3%になれば諦めれば良い。そのような割り切りが重要である。

そもそも3%の失敗を過度に恐れることは、多くの場合ほとんどメリットはない。それどころか97%の成功の確率を信じて動き続ける方が、トータルで見るとはるかに得るのもが大きい。さらに3%の失敗が起こったとしても、大抵の場合人生が終わる訳ではない。まあ、終わったら終わった時の事である。それくらいの楽観性を持って進みたいものである。

もちろん、3%の失敗を恐れて動かないのならば、それはその人の自由である。しかしそれらの人は、97%の成功を目指して行動をする人が得るものを得る権利はない。ただそれだけである。もしかしたら、成功は50%かもしれない。いや、時には成功が3%の時だってある。しかしその可能性に懸けるのも悪くないと思う。とにかく自分を守ることを優先することだけはしたくない。そのためには自分をさらけ出すことが必要だ。

どこまで自分を守らないで進むことが出来るか?そのような挑戦的な人生があってもいいと僕は強く思っている。

初めの一撃だけは、データでは語れない。

世界で初めて物事を成し遂げようとするとき、もちろんデータなどは全く存在しない。しかしそのような中でも強引に他のデータを持ち込み、何が何でもデータから判断しようとする人たちも多い。そのような人たちはもちろん、世界で初めての事に成功するどころか、取り組む事さえできない。もし世界で初めて成功を成し遂げたいと思うのならば、データ以外からの判断を下さなければならない。

世界で初めて本格的スマホを世に出したアップルだって、それが世に受け入れられるかどうかの判断を過去のデータからは下せなかったはずだ。とは言え、ジョブズは成功するはずだという確信は持っていたはずだ。過去のジョブズの仕事を見ると、常識を覆すような仕事がいくつかある。そのような常識破りの成果を挙げるためには、データではなく論理的な判断、そしてこれまでの経験から来る直感を信じなければならない。

しかし、この直感というものが曲者である。どうすれば直感を磨けるのか?そのようなマニュアルは世界のどこにも存在しない。なので直感を身に付けようとしても、多くの人はどのようにすれば直感を身に付けられるか全くわからない。しかし直感を持っている人は、どのようにすれば直感を身に付けられるかが意外とわかっている。直観がある事が生まれつきの才能である訳ではなく、どのようにすれば直感を身に付けられるかと言う事が理解できることが才能なのである。

初めの一撃をどのように食らわすか?それを判断するためにはかなり先までのビジョンを保持しなければならない。そしてもちろん大きなリスクも取らざるを得ない。そのようなリスクを取るためには、それを上回る確信を持たなければならない。確信もなく大きなリスクを取りに行くのは単なる暴挙であり、パチンコなどのお金のギャンブルと何ら変わりはない。人生のギャンブルを行っている人は、意外と確信を持っているものだ。ただ周りから見るとギャンブルに見えるのかもしれない。リスクを取ることが大事なのではなく、リスクを取りに行くための確信を持つことが非常に重要なのである。そのためには、経験に基づく鋭い直感力を養わなければならない。

着々と進んでいる。

着々と進んでいる。そう言いたいところだが、少し停滞気味である。一つ目の到達地点は明確に見えているのだが、進んだり進めなかったりして、なかなかスムーズには行かないものだ。

そこでこの夏、少し気分転換に旅行に行くことにした。僕は旅行が好きなわけではないが、少し信州まで足を延ばそうと思う。この旅行はただ遊びたいという訳ではなく、少しでも研究の打開点を見つけたいという思いからである。もちろん、旅行に行ったからと言って研究が進むわけではないとは思うが、停滞気味なら何らかの違ったアクションを取ることが必要だ。何かが変わる30%くらいの可能性に懸け、三日くらい思いっきり羽を伸ばし、それなりにワインを飲んだりしようと思う。

過去の栄光ではなく・・・。

人間とは未来に向けて生きて行くものだ。もちろん過去が全く関係ないわけではないが、やはり過去がどうあったかと言う事よりも未来をどうするかの方が圧倒的に大事だ。僕自身、過去がどうあったかはともかく、過去の栄光などには全く興味がないし(栄光などなかったかもしれないが)、過去の栄光ほどくだらないものはないと思っている。それよりも未来に栄光を作らなければならない。そしてそれを一つ成し遂げれば、また次に成し遂げるべきことを成し遂げるために前を向いて進まなければならない。

過去は変えられないが、未来は変えられる。変えられない事にこだわっても仕方がない。過去の栄光にこだわると言う事は、ある意味未来に栄光はないと言う事だ。なので、過去の栄光にこだわる人間ほどくだらないものはない。特に一番くだらないのは、過去の受験生時代の事にこだわる人だ。もちろん、受験に合格することは良い事であるが、それは過去の一瞬の出来事であり、大事なのはそこでの勉強を生かし、合格して入った学校でいかに頑張るかと言う事である。そしてそこでの努力を基に、未来を良い方向へと進めることである。

スポーツ選手でない限り、年齢はほとんど関係ない。いや、50歳を過ぎてもプロの第一線で活躍するキングカズのような選手もいる。キングカズを見ていると、年齢を言い訳にすることがいかにくだらない事かがわかる。確かに、スポーツでも学問でも若手の方が成果を出しているような統計はあるだろう。しかし統計がどうと言う事と、一人の人間がどうだと言う事は全くの別問題だ。なので統計にむやみに振り回されないことが大事だ。

未来の自分は今の自分にかかっているのであって、過去の自分は関係ない。いや、確かに過去の自分が未来に影響を与えることもあるだろう。それは事実だ。しかしそのような事にこだわっていれば、未来の自分を固定化してしまうことになる。ニュートン力学的には、今の状態によって未来はすべて決まってしまう。しかし、量子力学とは確率的であるし、不確定的な揺らぎもある。従って未来は固定化されていない。人間の人生というものは量子力学的だ。そのような量子力学的な人生の未来をどうするかは、今の状態ではなく、今の意志や思考にかかっている。

お金の価値。

お金の価値とは何か?と言う問いに答えることは意外に難しい。1000円は誰が見ても1000円だろ!と言いたくなるが、そもそもその1000円のお金とはどれだけの価値を持ち、何を意味するのか?と言う事は、現在の経済学をもってしても意見が分かれるところだ。昔は金本位制という制度によって、お金の価値が(貴金属の)金によって定義されていた。では金本位制が廃止された現在にとって、1000円という紙幣は何を意味するのか?明確な答えは確立していないように思える。

経済的なお金の価値とは別に、自分が考える自分にとってのお金の価値というものも人それぞれだろう。しかし次のように大きく分けられると僕は考えている。一つは千円はどのように手に入れたお金でも同じ千円だという考え。そしてもう一つは、同じ千円でもどのように手に入れたかによって大きく価値が異なるという考え。このどちらであるかと言う事によって、生き方も人生観も大きく変わると僕は思っている。僕は明確に後者の方である。

人生に基礎理念を打ち出し、そしてそれに基づいて何に取り組むべきか?と考えた時、お金に対する考えは重要になる。基本的には大きな金額のお金の方が価値があるが、ある時にはそれが必ずしも正しいとは言えないことがある。それは億万長者が(幸せな確率は高いかもしれないが)必ずしも幸せではないと言う事からもわかる。そして物事に対する感じ方も大きく変わるだろう。それが良いか悪いかは人それぞれの判断によるので、結論を断定することはできないが。

沢山のお金があればそれはそれで良い。ただ、そのお金の価値を満喫することが重要である。一億円あったとしても、それが百万円くらいの価値しか感じられず、百万円分の幸せしか感じられないのなら、それは百万円でしかない。逆に、百万円のお金で一億円に匹敵する価値を感じることが出来れば、それはお金を精神的にコントロールする最高の技術である。

お金の価値は、一つは社会経済に中にあり、一つは自分の思想の中にある。この二つにまたがるお金の価値を自分の中で上手くコントロールすることは、お金の価値を最大限に発揮するためにも非常に重要な事であろう。

「お金は未来のビジョンのためにある。」本田圭佑氏の言葉。

雑誌「GOETHE」2019年8月号(幻冬舎)に書かれていたサッカー選手・本田圭佑氏の言葉である。

人はなぜお金を稼ごうとするのか?この答えはいろいろとあるだろう。普通に生活するのにもある程度のお金は必要だし、物欲があればそれを買うためにもお金が必要だ。人と交際するのにもお金は必要である。本田氏が冒頭の雑誌で述べているように、資本主義国家で生きているからには何かしようと思えばお金が必要になる。本田氏は本気で世界平和を成し遂げようと行動しているようだが、それを成し遂げるためには膨大な資金が必要だ。

そのような中で一番重要なお金の使い道は、未来のビジョンのための投資だ。しかしこの事の重要さに比して、これを最も重要視している人は多くはないように思える。世の中では、特に日本では、子供の頃から貯金することが重要だと刷り込まれている。だから大人になっても、老人になっても、いざと言う時のためにとことん貯金しようとする。もちろん、無駄遣いするよりかは貯金する方が少しは有意義であろう。しかしそもそもお金は何のためにあるか?と考えた時、お金は貯めるためにあるのではなく、使うためにあると言えるのではないだろうか?しかし貯蓄のスキルは高いかもしれないが、お金の使い方のスキルを考えた時、どう使って良いかわからない人が少なくないのではないだろうか?

特に未来のビジョンのための投資と考えた時、いったいどれだけの人がこれを実行できているだろうか?自己投資と言った場合、ただ単にやみくもにセミナー参加への投資や資格取得のための投資しか出来ないようであれば、それは半分は違うと僕は思う。もちろん、そのような投資でも理に適ったものもたくさんあるので否定はしない。問題はそこにビジョンがあるかどうかだ。ビジョンなき自己投資はほとんど意味を持たない。

僕が今現在、お金をとことん自己投資しているのは、ビジョンを実行し成し遂げるためである。高価な専門洋書なども爆買いである。なぜそこまでできるかと言うと、明確なビジョンが描けているからだ。今はそのビジョンの中身を一つずつ埋めて行くことが重要である。そしてさらにその先のビジョンを描いて行く。本代圭佑氏が言うように、お金は未来のビジョンのためにあるのである。しかしたまには無駄遣いするのも悪くないと思う。下手な自己投資や意味のない貯蓄をするくらいなら、気分発散のためにお金を使うのも悪くない。しかし「未来のビジョンのための投資」と言う軸はぶれてはならない。そこをしっかりと死守すれば、一時的には苦しくなっても、人生を通じて見た時に非常に意義のあるお金の使い方が出来るのではないだろうか?

本という武器。

人間が生きる上で、何らかの武器は必要だ。それは仕事で使う道具であるかもしれないし、日常生活を送る上で必要不可欠の道具かもしれない。僕にとっては本が生きる上で必要不可欠な武器だ。だから本にかけるお金は惜しまない。少しでも必要になると思う本は手が届く範囲に置くようにしている。そのような環境が人生を次のステージへと進むめるのに大きな力になると思っているからだ。

とは言え、単に読書をするだけの本はそんなに必要ではない。もちろん僕も読書はするが、読書は僕にとって日常からの逃げである。数学や物理が思うようにはかどらない時に、気分発散的に読書をする。だから調子が良い時は読書をしない。読書をするのは、何もしないよりは読書でもする方が良いだろうと思うからだ。もちろん読書も非常に面白い。最近だと中公新書やちくま新書を読むことが多い。中公新書やちくま新書には知的好奇心を刺激するような本が結構出されていて面白い。

その一方、哲学書を読むことはめっきり減った。それは最近、哲学書に幻滅しているからだ。特にドイツ哲学などの、いわゆる本格的学問としての哲学書に失望することが多い。彼らは一体何をしたいのか?どう考えても科学的でなく、自己満足しているだけに思えて仕方がない。もちろん哲学は非常に重要であり、大きな意味を持っている。しかし学問的哲学者の議論には、本来の「生きるための哲学」という観点が大きく欠落しているように思えてならない。

多くの本を読むのも良いが、まずは一冊バイブルとなるような本を手元に置くと良い。もちろん軽い本ではなく、自分が打ち込むべき分野の専門書が良いだろう。そしてそこからさらに必要となる本が出てくれば、そこに加えて行けばよい。そうして行けばいつの間にか数百冊とたまってしまうこともあるが、そこまで行く必要もないとは思う。まずは一冊噛み応えのある本を手元に置き、それを武器として人生を進めて行くのが良いだろう。

数学とは遊び、ただし道楽では決してない!

僕が大学院時代にお世話になった数学者(世界トップクラスの数学者である)が、「だからこの遊び(数学)はやめられない」と言っていた。数学は一つの学問ではあるが、どのような学問にもゲーム的要素はある。だから学問をゲーム感覚で遊ぶことは重要であり、そのような遊びの中から重要な結果が生まれるものである。ただ、遊びとは言っても、決して道楽ではない。時には苦しい時もあるし、精神的に追い詰めないと乗り越えられないことも多々ある。

ビジネスというものも、ゲーム的要素は大きくあるのではないかと思う。だからビジネスをある種のゲームと捉えることが出来る人は強いのではないだろうか?もちろんビジネスにはお金がかかっている訳だから、失敗すれば大きな損失を被ることになる。だから軽い気持ちでは出来ない。ビジネスが道楽とは違うと言われる所以はそのような事だからである。

数学やビジネスと言った遊びの魅力に惹き込まれれば、テレビゲームや趣味などの遊びなど取るに足らないものだと感じてしまうだろう。もちろんそのような遊びをするのもよいが、数学で遊んでいる方が圧倒的に楽しいしやりがいもある。そして数学の中の未開の知に足を踏み入れることは、スリリングでありエキサイティングである。そしてそこで開拓した数学が、100年後の世界を大きく変えることになるかもしれない。ただ3年後という訳には行かないので、そこが少し寂しい所である。

世の中には人生を懸けるべき遊びというものが存在する。そのような遊びに打ち込むことは、自分にあらゆる力と人間性をもたらしてくれる。遊んでばかりと言うとネガティブな意味で捉えられることが多いが、数学などの人生を懸けるべき遊びに打ち込んでいる人は、人間的にも圧倒的に面白い。そのような面白い人間になるべく、数学と言う遊びに没頭したいものである。